2022-06-10 30:02

【614GMV】ちょっとくらい損をしたっていいじゃないですか?

甘えられないという甘え
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
えーと、今ですね、6月いっぱいまで、私と対話を1時間するっていうサービスを出してるんですが、
これが残り2枠になっています。
1枠6,000円という一応設定なんですけれども、残り2枠になっちゃったので、7月ちょっと考えようと。
で、この考えようって言ってるのは、つまり7月のいろんなことをすでにやらなきゃいけないであろうことがあるわけですね。
これグッドバイブス的じゃないんですけど、先のことはわからないから。
でもまあ7月に予定しているセミナーなり、それこそ書き上げ塾なり、本も書かなきゃだし、いろいろ埋めていくとですね、
実は枠の数というのは限られてはくるんですよ、絶対に。
あのー、真夜中とかでもやるぜっていうのだといいんですけど、私そういうわけにいかないので。
それに真夜中とか、まあでもそれはわかんないか。
とにかく枠の数を数えてみなきゃいけないので、枠の数を数えてから7月またセットします。
まあそんなに物凄い忙しくて首も回らないという状況ではないので、数枠は絶対に用意できるんですけれども、少しは余裕を見ておかないとダメじゃないですか。
だからもう枠パチパチにしましたみたいになってしまって、子供がそれこそ、これはちょっと考えたくないですけど、コロナになりましたみたいになると大変なので、
一応余裕を見て枠をセットしようかなと思っています。
つまり7月はやるよ、やりますよということですね。
で、この対話をして何になるのかみたいに思われるかもしれないので、それについて今日ちょっとお話ししたいんですけど、
ドイ・タケオさんがですね、精神分析の本の中で、ある女性が遠いところをやってきてお金を払う談になると必ず笛を鳴らす人がいて、
一体今日私は何を得たんですかと、お金を払って遠いところから時間もかけてきて何も得られないのではつまらないじゃないですかと言うと、
これはカウンセリングとか特に精神分析なんかだと絶対この種の話って出ると思うんですよ。
名前今パッと出てこなくなったら信じられないんだけど、本当にこういうこと多いな。
ある方が精神分析科の人がですね、やっぱり書いていて、
例えセッションがなくても、キャンセルしたとしてもですね、お金は戻さないと。
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それは、ここでセッションをしたり会話をするということに対する金額ではないからという答えをすることがあるっていう話をされていて、
ここまで行くとですね、何のメリットがあるんだ問題がすこぶるはっきりすると思うんですね。
で、私はその本当はですよ、本当は例えばそれこそベックさんがなさってる、北信也さんがされている東京ライフ研究会とかもこうなんだと思うんですよ。
ドタキャンだから返さないとかそういう話ではないと僕は思うんですね。
もちろん返すような気がします。ライフハックだとね。
それは情報を取りに行くからでしょう。情報の対価としてお金払うんだから、情報をもらいに行ってないんだからお金は払いませんっていう話だと思うんですけど、
このすっきりわかりやすい取引、取引ですよねこれはね、言ってみれば。取引の世界にだけ生きていくことで行き詰まっていく部分ってあるんですよ。
まずあの土居さんの名前をさっき出したからすぐ出てくることに、この世界に生きていると甘えが全くないんですよ。
で、これはですね、僕はその根源的に人は情緒上の甘えを得ずに生きることは不可能だったなっていうのを最近ですね、確信するようになりました。
先日お話しした異人たちとの夏、山田太一さんの小説、あれ読んでそうだ、こういうものだ人はって思ったんですよ。
なんか不思議な現象のように思われるし、あの小説自体がちょっとオカルトっぽく書かれてたんだけど、不思議な現象じゃないんですよね。
今の私たちのある種の価値観もよくと不思議なんですよ。この人は情緒上のやり取りなしにも生きていけるんだと思い込むような流れになっているこの生き方って大変不思議なものです。
考えてみると、昔からほとんどのやり取りって情緒的なものなんですよ。
それこそさっきの土居さんに不平を鳴らした患者さんと同じで、私は何をここに来て得たんですかっていうそれ、何も得られないのではつまりませんっていうそれ、
つまりこの態度をとことん貫くと、例えばただ会話を友達とするとかなくなるわけじゃないですか。
そして、今やそれでいいというか、あの人たちはこれといった理由もなく居酒屋でつるんで何が楽しいんだろう、時間の無駄じゃないかっていう発想っておかしいんですよ、相当。
でも今ではそれはそれほどおかしくない言い回しになってますよね。こういうことを言ってもそんなに変じゃないじゃないですか。
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これが今の世の中の生きにくさなんだろうなって思うんですよね。昔のその甘えというものの充満していた時代もそれはそれなりに生きにくいところはあったと思うんですよ。
甘えってのは結構取り扱いがややこしいものですからね。だけれども、今みたいにすべてが情報とお金のやり取りでスムースに、スマートに行くように思われてるんだけど、
行かないんで、行かないから、あんまり新しい小説じゃないけど、私が読んだ限り、異人たちとの夏みたいな問題があちこちに噴出している感じがするんですね。
で、解決のしようがないんですよ、これは。なぜならば、甘えっていうのは目に見えないし実態もないし、やり取りができないんですね。
それの存在を認めないということになってくると。で、やり取りができないものというものは、それはどっちかというと邪魔なものだぐらいに思われている場合は、事実上封印されてしまうんですよ。
で、問題なのはこの封印されてしまったことにあるんだけれども、これを別のもので手に入れるわけにはいかないんですよね。
これを解放するしかないんだけど、これを解放するのは損だってみんなが思っていて、そして損は悪だってみんなが思っているから、どうにもこうにも発砲ふさわりなわけですね。
で、どいさんはですね、その女性に少しぐらい損をしてもいいじゃないですかって言ったっていうのがあるんですよね。
これでだいぶ打ち解けることができたと。問題というか、一つのポイントですよね。この発言が僕は一つの大事なポイントだと思っているから、どいさんもわざわざ書いてるんだと思うんですけど、
少しぐらい損をしてもいいじゃないですかと言うか言わないかっていう問題が、これはそういうふうには書いてませんでしたけれども、
私はこの種の仕事をしていて、このセリフを出すか出さないかは重大な分岐点だなって思ったんですね。
このセリフをどいさんは言ったわけですよね。言って破綻してしまうことも、もうある程度覚悟の上でというか、その時のその場の状況に合わせて言っちゃったみたいな感じなんだと思うんですけど、
これを果たして言ってよかったのかどうかっていう問題はあると思うんですよ。どいさんもその後、言ってよかったのかどうかについての検討を加えているんで、ということは言ってよかったかどうかについての確信はないってことだと思うんですね。
で、どうしてそうなるのかと。まず世の中の一般常識からすると、やっぱりこう、例えばお医者さんのところに行って時間をかけてお金を払ったなら、
何か良くなる薬かなんかを出してもらって手に入れると。このやり取りが大事だというわけですよね、その女性にしてみれば。
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何にも得られないのでは損だと。で、少しぐらい損をしてもいいじゃないかと、医者が言うというのはどうなのっていう、まず常識的にそういう線があるわけですね。
ところが、女性をそれで打ち解けてしまうということは、少しぐらい損をしてもいいんだなってことになるじゃないですか。
で、そういう認識に切り替わることがここで得ているものなので、実はその女性はこのセリフを受け止めることができた途端に損は一切してないことになるんですよね。
そういうここにはちょっとした逆説があるんですよ。 これが手に入れるべきものなんですよ、女性が。損をしても構わないという応用さみたいなもの。
ところが、じゃあそれを言えば必ず相手がそう思うかというと別にそんなことはないんですよね。そういう保証はない。本当に怒り出してしまう人だっている可能性はありますよね。
それはそれでいいってことなんだと思うんだけど、果たしてそれはそれでいいんだろうかっていうのが検討するポイントなんですね。
もっと違う言い方があったんじゃないだろうかと、どいさんは考えているというか書いているわけです。
何よりも、この話って実はちょっとぐらい損をしてもいいじゃないですかと。
医者が言うってことはですね、医者はあたかも未来を見通しているような立場に立ってしまうんですよ。
という問題がもう一つ別にあるわけですね。これもカウンセリングの多分問題なんだと思うんです。
親子関係で考えるとわかりやすいんですよ。よく言うじゃないですか、親って。
今そういう勉強してるのは大変で面白くないかもしれないけど、将来必ずいいことがあるからと。
最近あんまりそういうこと言わないかもしれないけど、でも言ってる家はいっぱいあると思うんですよね。
つまりこの態度がちょっとぐらい損をしてもいいという表現に含み込まれている感じがあるわけです。
その辺のことはどいさんが検討されています。損して得取れ的な話になるんですよ。
つまりそれ損してないよっていう話をしてるわけですよ。ということが私にはわかってるよって言ってるわけですよ。
ところがどいさんはでも正直に書かれるんだけど、そんなことは医者はわかってないと。
それにそんなことが医者がわかっていちゃダメなんですよね。精神分析ってのはきっと。
甘えというのは損は損じゃないんだけれども、そういうことがわからない人が来てるわけじゃないですか。
だから甘えるためにはちょっとぐらい損をしてもいいというのを飲めというのはまずいわけですよね。
ところが飲めちゃうんだったら飲めっていうのはいいわけですよね。
その点について未来についてはわからないわけだから、つまりこれはニーズなんですよ。
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ニーズっていうのは親子関係で、
時々ここの番組でいやしょっちゅうか言ってる話ですが、つまり赤ちゃんはわけがわかんない。
わけがわかんないんだけど親のもとにやってきました。
そしてニーズは要求できないわけです。なぜならわけがわかってないから。
自分がどういう状態にあるのかもさっぱりわかんないからとりあえず泣く。
とにかく不愉快だから泣く。不愉快になった時に泣くわけです。これがニードですね。ニーズじゃないから。
これに対して親は当てずっぽーするわけですよ。
ミルクが欲しいに違いないと勝手に思ってミルクを出す。これがニーズの提供ですね。
この時、とても大事なのは
同時にですね、この親は情緒を差し出しているというか、
なんて言えばいいのかな、甘えさせてあげているわけです。つまりこっちが大事なんですよ。
いやミルク大事でしょって言われるかもしれないですが、ミルクは大事です。
一番大事なのはそこに常に甘えさせようという意思があることなんですよ。
親の側に。出しているミルクが正解かどうかはこれはわかんないわけですよ。
実は赤ちゃんは涼しくして欲しいのであってお腹が空いてるわけじゃないのかもしれないんですよ。
でも大事なのは甘えさせてあげようというニーズを提供しようというその情緒の方なんですよ。
この情緒を提供することで赤ちゃんのもっと根本的な涼しくして欲しいと言うんじゃないかって
もっと根本的なニードが満たされなきゃいけないわけです。甘えたいというニードが。
だって甘えなければ死んじゃいますから。
根本的に生まれて出てきたということはもうその瞬間に甘えようという
まあそういう意図はないかないんですけれども、そういうニードなんですよ。
これにわけわかってないですからね。
甘えなければ生きていけないのにこの世に出てきちゃいましたと。これが甘えなんですよ。
だから普遍的なんですね。そうじゃない赤ちゃんっていないじゃないですか。ドイツの赤ちゃんだったら生まれながらにして独立どっぽですってことはありえないじゃないですか。
世界中の赤ちゃんがこの態度でこの世に出てくるわけですよ。
だから私たちは生き始めたこの第一歩目から甘えからスタートしてるし、生存の一番根底的なところにこの甘えというのがあるんだというのがドイさんのお話だと思うんですね。
この時に損はしたくありませんとか通らないですよね。
そのような態度でいたら生きていけやしないですよね。できることは何でもしないと。そしてその結果がどうなるかなってわかったもんじゃないわけです。
これは親の側もそうですよね。赤ちゃんに対して私が将来この子が私の面倒を見てくれたり介護してくれるから面倒を見てあげるけど、
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今ここでミルクだ水をあげても将来不良になってしまったら損をするじゃないかって言ってたら子育てなんかできやしないですよね。
と私の経験上できやしないんですよ。そんなことを考えていたのでは。
全部持ち出しになるに決まってるわけです。相手は何もできないんだから。でも自分がそこまでできるようになったってことは親がそこまでやってくれたからじゃないですか。
結局私は第一歩目は甘えからスタートしているから、必要とする相手には甘えさせるしかないじゃないですか。
という含み込みが全部ちょっとぐらい損をしてもいいじゃないですかという言葉にかかっていると思うわけですね。
これはつまり甘えさせてあげるよっていうことだし、あなたは甘えているよっていうメッセージでもあるわけです。
相手が何を欲しているかなんてわかんないんですよ。患者が何を欲しているかなんてわかんないんです。
はい、ミルクを涼しくしてあげる、あったかくしてあげる、抱っこしてあげる、寝かせてあげる、とにかくやってみるわけです。
大事なのは、それが正解だってことじゃなくて、正解だといいんですけど、正解だってことじゃなくて、この意識なんですよね。
甘えさせてあげるよという意識、これを人は持ち寄るという認識なんですよ。
このことを赤ちゃんが受け止められれば、おそらく少々外れていても、つまり親のニーズが的外れであっても、
親のニーズなんてしょっちゅう的外れじゃないですか。英語の勉強しろとか言って、いきなり高い教材買ってきてみたり、うちの親とかしてたんだけど、そういう的外れなことをするんだけど、
大事なのはその気持ちの方だってことなんですよね。これを受け止められれば、子供は健全に成長すると。
これを受け止め損ねると、子供は健全に成長できなくなることがあるので、もしそれがあまりに深刻になったら、
土居さんのところとかに行ってくださいと。そうしたら、この甘えを受け止めるというのをもう一回やり直してみて、
そうすることでどういうことが生きていくためには必要なのかが、だんだんわかってくるでしょうっていう、あれは設定だったと思うんですよね。
そういうセッションであり、そういう営みだったと思うんですよ。
それを、そのやり方の実現というのかな、その営みの一環として、ちょっとぐらい損してもいいじゃないですかって言ってみるわけです。
これも一つのニーズなんですね。そしてすると不思議なことに、患者さんにはそれが当たるわけですよね。
当たって、ちょっとぐらい甘えてもいいんだと思えるし、ちょっとぐらい甘えさせないとダメなんだとも思えるわけですよ。
ちょっとぐらい甘えるっていうのは、つまり人に損させるっていうことでもあるし、ちょっとぐらい甘えさせるっていうのは、自分が損を受け止めるということでもある。
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これを一切認めないという話になってくると、例えばちょっと誤解で怒られたら、相手との縁は切るとか、そういう話になっていくわけじゃないですか。
まず、この姿勢でいること自体がとても厳しい世界に生きることになるわけです。
ちょっとぐらい損をしてもいいと思っている人と、ちょっとの損も絶対ダメだと思っている人の差はデカいということです。
この価値観の違いが、その人の人生の苦しみを大きく増大させていってしまうので、
結局のところ、行き着くところまで行き着かなければ、人は精神分析なんか受けやしないですよね。
このちょっとの損もダメだ路線で行って行って、行き着いて、ちょっとの損もダメだと本当に思うんだったらば、
その精神解明のところに行くなんて、土居さんのところに行くなんて、やめちゃうじゃないですか。
お金を払って遠い時空のところから来て、何にも得られないんじゃつまんないわけじゃないですか。
自由連想で50分使っている場合じゃないわけですよね。
でもそれに来るということは、つまり自分のこの路線には何かおかしなところがあると知っているってことだと思うんですよ。
そして、それはどうにも自分じゃできないから、誰か何とかしてくださいと言ってやってきているわけだから、つまり甘えているわけですよね。
その自分が必要なことってのは結局、医者なり誰かなり極めてその時濃密に時間を過ごしている相手を甘えさせると。
つまりちょっとぐらい損をしてもしょうがないかもしれないと。
先のことは分からないですからね。お互いのことが分かっていないわけだから。
何を提供すれば赤ちゃんにとって今一番ベストなのかは親には分からないですよ。
大事なのはニーズを提供し続けようという姿勢みたいなものですよね。
そういうものがあれば大体うまくいくようにこの世の中はできているわけです。
ってことは私は子育てして理解しました。
こういうふうにやっとけば、その時眠くもないのに出かしつけたりしても、その時欲しいのはお水じゃないのにお水しかあげなかったとしても赤ちゃんは分かってくれるんですよ。
ただこれは同じことをアンドロイドがやっちゃダメだってことなんですよ。
アンドロイドに悪意はないでしょうけど、アンドロイドには甘えさせようという意志が欠けてますから。
そういうことなんだと思うんですよね、これは結局。
ところが私たちの時代はどっちかというと、ここをアンドロイドにした方がベターじゃないですかって言い出してる時代なんですよ。
多分それをやるとうまくいかなくなるんです。
なぜなら第一歩目が甘えから来ているし、人というのは社会に甘えるという情緒を持っているから。
持っているというのは、持っているそういう脳の場所とか、持っている遺伝子の記号とかを示しなさいと言われても無理なんですけど、エビデンスがないんですけど。
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でも、持っていると仮定していろいろカウンセリングなり小説なりを読んでいくと、非常にスッキリするんですよ。
これを持っていて、この甘えというものを乱そう乱そうと四六時中している人間が、つまりデフォルトとしてそういう存在の人間が甘えられない状態がずっと続くとどうなるかというものとして、
小説なりカウンセリングのやりとりなり精神分析を見ていくと、非常に分かりやすいんですよ。
分かりやすく見えるということは、つまりそういう存在なんだと仮定した方がうまくいくってことなんだと思うんです。
あのちょっとぐらい損をしてもいいじゃないですかって何にも言ってないですよね、ある意味。
相手が満足するような、いかなることも言っているようには言ってはいないんですよ、情報としてはね。情報としてはですよ、まさに。
ところがそうすると相手がほころんで緩む、そしてじゃあ次回も来ましょうという、それがベストかどうかは分からないんだけれども、少なくともそういう効果はあったということは、
そこに甘えが成立した瞬間というものがあって、確かにそれが欠けていたから、その女性は別に頭がおかしいわけじゃないのに、
そして知能も十分高いのに、いろんなところでつまずく、うまくいかなくなって行き詰まってしまって、結局最後は自分が困ることになる、そういうふうにひどいさんは書いているんですね。
結局こういうやり取りをして来なくなったとして、困るのは医者じゃなくて自分自身なんだということをこの女性はよく分かっていると、そういうことなんだと思うんですよね。
甘えというものを認めないよって言って生きていって、だいたい困るのは本人だけなんですよ。
そういうふうに人間がデフォルトで、プログラミングされているという言い方をしても今時いいかもしれませんけど、このプログラムが気に食わないというのはあると思うんですよね。
甘えなんかは一切やめて、相手はすべてアンドロイドのようにしてやり取りをしてスムーズにいけばいいのにと。
でもこの気持ちが多分怒りになってしまうということは、やっぱり根本的には甘えたいということだと思うんですよね。
甘えというものに何の興味もないのであれば、この世に甘えが充満しているという事実に怒りはしないと思うんです。
人がデフォルトで甘えようとするということに対して、他人がであれ自分がであれ、そういうデフォルトのプログラムに怒りを思えるということは、
多分それは甘えというものを満たしていない、何らかの形で満たせていないという状況が多くなってきていて、
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そういうことに対するやっぱり意気通りがあるという風に考えた方が分かりやすい気がします。
やっぱり私の中では一番、読んでこういうことってよくあるなと思ったのが、
前に言ったオグデンの本に出てきたエンジニアの人ですよね。
年上の女性と結婚し、これがすでに第一の甘えですよね。
この人は年上の女性にお母さんになってほしいわけです。エンジニアの人ね。
エンジニアというのも分かりやすいですよね。
エンジニアというのは、こうすればこうなる、つまり未来が予測できるという錯覚を抱きやすい職業だと思うし、
こうすればこうなるところに情緒のやり取りはない、つまり甘えが成立しにくい職業でもあると思うんですね。
そういう世界観を抱きやすいということですよ。プログラムと世界は同じじゃないですからね。
そして、自分のガレージかなんかにこもっていると、仕事がとてもはかどる。
これも第二の甘えですよね。環境としての母親に、完全にこう抱き止められていると仕事がはかどる。
情緒が満足しているから仕事がはかどる。
だけどそれは、その年上の奥さんが家にいることが確実であるときなんですよ。
自転車に自分が乗っかっているとき、後ろをお母さんが支えてくれているときは、
いると思っているときは、うまく自転車に乗れるんだけど、
後ろをパッと振り向いたとき、お母さんがいなくなりましたってなると、途端に転ぶこっているんだけど、
あれそっくりですね。そこにあるのは技術じゃないじゃないですか。一見技術のように見えて、実は情緒だけですよね。
いるかいないかの問題なんで、見ててくれるからやれる、見ててくれなきゃやれないっていうのは完全に情緒ですよね。
見ててくれるという世界をイメージできれば、やれるわけですよ、その人は。
でも奥さんが出かけてしまうと、もうガレージにこもってはいられなくなって、キョロキョロしちゃうと。
これが甘えが、自分が甘えたいという気持ちが満足できないときに置かれる、その人の心理状態。
でもこのガレージに奥さんが入ってくると腹を立てる。
つまりこれが、見守ってくれているという、自分のイメージの中の母親と、現実の母親が、現実の母親というか、現実は奥さんですけど、
違う動きをするとダメなんですよ。ガレージ自体がすでに環境としての母親の機能を満たしてしまっているので、
そこに実体としての母親が入ってくることは必要ないんですね。実に手前勝手な言い方なんだけれども、
つまりこれは、何が提供されるかというのが少しも大事じゃない。何も提供されていませんよね。
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ガレージだったら自分で作ることもできるじゃないですか。用意することもできます。買うこともできるし、そういうことではないんですよね、これは。
情緒上の満足を提供してくれる、一定の仕掛けであって、もうすでに情緒上の満足が満たされているときには、特にそれにプラスする何かは必要ないわけです。
実体として奥様が見たりしていると、かえって邪魔だと。監視されているような気分になるとか、失敗を認められるんじゃないかと思ったりするとか、きっとそういうことが起こるんでしょうね。
非常にこの人の情緒は一見したところ安定。本人はエンジニアで仕事をしていて、奥さんがいて、
ガレージにこもっていれば仕事が進んで、大変自分は仕事ができる、情緒が安定した人間だと思っているかもしれませんが、大変不安定ですよね。
多分この奥様がいなくなったり、お亡くなりになったりすると、何が起こっているのかわからないんだけど、仕事は手につかないし、とても寂しいし、
よくわからないところに出かけて、よくわからないところでお酒を飲んだりして、
自分に何が起こっているかがさっぱりわからないってことになるような、そういう印象のお話。
これ結局私たちはデフォルトで甘えようとしているっていうふうに、一言スコンと入れるだけで、この人にとって常に満たされていなければならないものは何なのかすぐわかると思うんですよ。
どうしたら満たされるようになるんでしょうとか、どうしたら他人が甘えさせてくれるんでしょうっていうふうに、この文脈で問われることがあるんですけど、それは奇妙な問いだと僕は思うんです。
どう考えてもこういうことであるならば、人の甘えを満たしてあげることが一番いいですよ。
ドイさんのカウンセリングの本でちょっとぐらい損をしてもいいじゃないですかと言ったというのがまさにそうですよね。
そうすることで患者は落ち着くわけです。そうするとドイさんも落ち着けるじゃないですか。
この甘えの提供と提供されることが、甘えというのは結局同時に成立するんですよね。
親が子供にのせあわせるときのことを考えれば一目瞭然というかすぐわかることで、
とにかくいろいろニーズを提供するけど泣き止まない。
間は親も自分が安心したり満足したりはできないんですよ。
ところがミルクをあげた途端にすやすやと寝始めた。
ホッとする。これがつまり親は子供を甘えさせるんだけど、同時に子供に甘えようとしているわけです。
だから自分が満たされるとホッとして安心してくつろげるわけじゃないですか。
甘えというのはつまり、どっちがどっちをというよりは同時に両者をという形を必ず取るものだろうと思います。
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