1. グッドモーニングボイス
  2. 結果で判断しない【GMV926】
2024-01-29 56:15

結果で判断しない【GMV926】

失敗は偶発ではないかもしれない。
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
1月29日、月曜日、朝の7時25分です。
すらたび氷点下になりました。
この辺りが今年は寒いんですね。
多分今はそこなんじゃないかなという感じが、 僕の勝手な感じですがします。
昨日、28日に何度もこちらで告知した、
グッドバイブス×タスクシュートで負のループから抜け出すというのを、
おかげさまでまずまず成長で、
なかなか良い感じの回にまとまったのではないかと思いました。
主に倉園さんのお力ですけれども、
うまくいった感じがしています。
で、しばらく告知はしないかな、どうなんだろう。
少なくともキンキンですぐすぐで告知しなければならないものは、
あ、そうそう、おかげさまでではないんですが、
構成の2項目が終わりまして、いわゆる最高が終わりまして、
終わったんですよ、これがね、昨日。
だから今これをやってられるんだけど、
いやー追いついたぜって感じがさすがにしますね。
つまり日程的にこれでいけることになったという話です。
当初の予定、すでに超過してるんだけれども、
その超過した後に作った計画にはこれで間に合ったという格好になりました。
これから3項目が出ますが、とりあえずこれから出るわけですからね。
一旦私の義務はなくなったというか、片付いたということになります。
だから気分も結構晴れ晴れしているわけですね。
今日の天気も晴れ晴れしてますが、そんな感じで。
こういうのが一致すると楽になれるという気がしますね。
これは気持ちの問題なんですけどね。
さて、それでなんで今構成の話をしたかというとですね、
まもなく2月の第2週から書き上げ塾の第10期が9期の次なんだよね。
10期が確か開催されることになっていまして。
11日かな。
第10期第1回ですね。
2024年2月の11日開始とこの手元のでなっております。
ちなみに第6回が、全6回あるわけですね。
第6回は6月30日となっていて、もはや真夏。
多分最近の傾向から言うと、この頃は既に相当暑い。
03:01
今とは全く違いますね。
イメージできませんけどね。
そんな頃に本は書き上がるのかという感じですね。
私は今回構成というものを、しかも強調者の構成をですね、
いろんな意味でものすごくのめり込んだ。
のめり込むということがこれまであまりできてなかったということが今回わかったんですけど、
これはもう完全に書き上げ塾のおかげなんで、
僕は大体もうこういうふうに人生生きていく人間なんだろうかと思うぐらいになってきました。
仕事のメインは大橋哲夫さんのタスクシュートに寄っていて、
この話何回もしてますけどね。
仕事をするというのはどういうことかも、
彼が手取り足取りを教えてくれたというよりは、
彼にくっついているとだいたいなんとなくわかるところをつまみ食いし、
その後、倉園さんに生活情緒面でグッドバイブスを取り入れさせてもらって、
本の書き方は書き上げ塾で倉園さんに教わり、
ながらお金の儲け方というか、お金はどうやっているかというと、
ジェームズ・ザキさんに頼ると。
何にも僕の方からは作り出さないで生きていくというね、
こういう生き方の人間なんだろうと。
いつか全部自分でやらなきゃならないことになるかもしれませんが、
その頃にはもう70近いんじゃないかなって気がするんですよね。
だからこういう生き方もありますからね。
フリーランスになるというか、生きていくのは大変みたいな話もあって、
大変なんですよ、これはこれでね。
こういう生き方だとしても。
ただ私はフリーランス論みたいなのは、僕ほとんど今までもそうですけど、
あんまりそういう仕事はしてないじゃないですか。
フリーランス論をみんなに伝えるみたいな。
理由の一つは完全にこれですよね。
伝えるべきものがどこにもないという。
ちなみに僕、野望すらとってませんからね。
全てが流れに任せてやっているという。
だから最近、幸運と流報という本を読んで、
再読の、再再再読ぐらいなんですけれども、
しばりおだろうさんのは2度目ぐらいかなという感じがします。
知ってたわけですけれども、話は面白い。
流報という人はこの僕の拡大バージョンなんだなという感じがしました。
話の中っていうことですけどね。
話の中では、流報というのはもう僕の拡大バージョン。
あの人、すいません。
あの人って幸運より優れてるところって本当に1個もないように書かれてるんですよ。
1個もないんですよ。
あの、もう本当に二ノ美田くんを弱くしたようなキャラで、
それがジャイアンとデキスギくんのタッグに立ち向かっていって勝ったみたいな、
06:01
よくわからない話なわけですね。
だから勝ってないんですよ。
しかもね、彼は途中でしばりおだろうが面白おかしくですね、
100戦100敗って書いてるんですけど、
幸運と戦うと絶対負けるんですよ。
でも、変化は彼のものだったわけじゃないですか。
しかも、官民族の、この話もちょっと前にしましたけど、
官民族の帝国があんなに安定して続いたっていうのは、
彼の作った官帝国だけのような気がする。
まあ、こうもあるかもしれない。
でも、あんまないんですよね。
意外と、モンゴル民族の支配、
我々が知ってる名前の神という、日清戦争の神ですけど、
あれモンゴル民族の王朝ですよね。
王朝でいうと、結構モンゴル民族に侵入されてきているっていう時代に長かったり、
結構圧倒されることもあったりして、
なかなか、官が頑張ってる、官族が頑張ってるっていう、
しかも、官ですからね。
我々は漢字とか使っちゃってますけれども。
つまり、彼が作ったんですよね、あの国ってある意味で。
始皇帝は短かったですもんね。
で、彼が作ったっていう、その彼っていうのが、
のび太君をダメにしたようなキャラクターとして描かれているんですね。
何しろ、四季にそう書いてあったぐらいだから、ある程度までは、
しばせんのね、多分そういうところは多分にあったんじゃないですかね。
だって四季ってあれ、漢帝国の時代の本じゃないですか。
あんな風に始皇帝ですよね。
漢帝国にとっての最初の皇帝をそんな風に書くっていうのって、
大丈夫なのかっていうぐらいの多分書きっぷりなんですよね。
だから、その辺は中国の面白さなんだろうというのを思いますけれども、
あれはいいんですよ。
フリーランスになる人は、なることで悩む人は、
ぜひあれは読んだらいいんじゃないかなって思うような本ですね。
要するに、自分一人では何もできないというのを、
あれほどうまく表現されている。
孔武は言ってみれば自分一人で何でもできちゃうから、
最後結構悲惨なわけですよね。
頭もいいし、頭よりもはるかに力が強いっていうタイプの人間ですけど、
あの時代ですからね。
戦争に勝ちさえすれば、ある意味頭がいいことよりはずっと役に立つわけで、
頭っていうのは周りの人の話してくれる人がいればいいわけで、
しかも孔って別に頭が悪いわけじゃないんでね。
ただ、勝てなかったというだけですね。
あの話は僕はすごく、なんていうんですかね。
組織に頼らずに生きていくには的な内容では、
ここのところを読んだ中では抜群な感じがします。
組織に頼らずにはというか、
09:01
組織がなってない場合にはという、
劉邦の組織って全然なってないんで、
劉邦自身が弱いんで、
そういうすごくいい加減な組織になっていくんですよね。
でも勝っちゃうという。
何にもいいところがないんですけれどもね。
だからといって負けるとは限らないみたいな話ですね。
はい、それで、
そういう話をしたいわけではなくてですね、
書き上げ塾はいいですよというお話です。
だから2月11日スタートの告知に相当しますね、これはね。
2つあります。
僕の中で明快になったこと。
1つは、
構成というのは結局文章を編集し直すことに相当すると思うんですけど、
なぜこれを直さなければいけないのかというのは、
鮮明になりました。
今までは言ってみれば、
分かりにくい文章と誤字と脱字を直す。
誤字と脱字はさすがに見つけさえすれば、
どうして直さなければいけないのか自明ですけど、
それは一番最後の構成である意味やるべき。
極端に言うと構成係というプロのそういう方がいらっしゃるから、
そこでやればよさそうな話ですよね。
文章を読みにくい文章を読みやすくするというのは、
どうしてそれがそういうことが可能なのかという問題が、
どうしても出てきてしまいます。
自分が読んだ時に読みにくいからって、
みんなが読んだ時に読みにくいかどうかわからないわけですから、
自分が読んで読みにくいと思ったのを、
自分が読んで読みやすくするんだけれども、
それだとかえって事態を悪化させるという懸念もありますよね。
それがどういう形をとると、
どちらかというと完全に客観的というのは難しいにしても、
自分が今までおぼつかなく、
とりつく、
とっかかりがないというのかな、
しっかりした手づるがないんですよ。
この手づるを手に入れるのに、
私たちがやっている書き上げ塾というのは役に立ちますね。
明らかに役に立つんだというのがわかる。
だから文章をどういう風に最初から書いていけばいいのかというのが、
ここから明らかになるんですね。
あとでめちゃくちゃ大変な思いをして直すぐらいなら、
最初からちゃんと書けばいいんですよ。
だけどもここもまた簡単じゃなくて、
あまりにそこのことを考えすぎると、
今度多分そっちが気になりすぎて進まなくなるんですね、書くのは。
文章を書くの。
だから本を書こうと、一定期間で書こうと思ったら、
やっぱりまず書いていくっていうのが大事なんですよ。
ここにまず書いていくという、
私がノープランライティングって言っていたやつの意味がはっきりしてくるんですね。
12:01
そこにまた読者を特定してはっきりさせるという意味も出てくるんですよ。
これが一つ目。
このことがわかるという。
わかるように、確かに倉園さんは6回を構成してますからね、
プログラミングしてますからそういう風に。
二つ目が、
もしこれは二つ目はみんなに当てはまらないかもしれませんが、
もし人の文章を直すといったことがあるならば、
これは物書きさんに限りませんでしょ。
自分の文章を直すばかりは限りませんよね。
ましてやこの構成力っているなって思ったんですよ。
これが二つ目。
書き上げ塾の趣旨から少しずれるんだけど、
この力が尽きます。
人の文章をどうやって直せばいいのか。
これは自分の文章と違って、
ここ読みにくいから私が読みやすいように直そうにしてしまうと、
自分の文章になっちゃうじゃないですか、
相手の文章が。
今回そこを非常に気を付けたわけですね。
私にとっては60、50何冊目の本かもしれないけど、
教授者のJマスザキさんにとっては初めての本になるわけで、
どちらかというと圧倒的に彼が書いた文量の方が圧倒しているわけですね。
だからこれはやっぱり彼のテイストとしてはJマスザキの本にしたい、
というのが私の中にあったんです。
そういうふうに僕は本ってあるべきだって、
どこか思っているところがあるんですね。
教授がパチッとカチッとしっくりくるなら、
それはそれでいいことなんだけど、
必ずしもいつもそうなるわけではないので、
私とJさんとではテイストが違う。
例え両方ともが最高級の文章をお互いに作ったとしても、
そのテイストが一致はしないっていうのは明らかなんですよ。
だから僕はテイストを整えて、
どっちかに統一した方が絶対いいと思うんですね。
読者の立場に立ってみれば。
急にテイストが変わる本ってあるんだけど、
やっぱり読みやすいとは言えないんですよ。
両方の書き手が優れていたとしても、
僕の好みには合わないんですね。
だから大橋さんとやってたのは別なんですよ。
スピードハックスとかチームハックスとか、
大橋さんと協調で何冊か出しまう、
2冊か少なくても出してるんだけど、
彼とは黙っててもテイストが相当近いところに行くんで、
私はあんまり気にせずこれができたんですね。
こういう例もありますが、
私とJさんとではテイストが必ず変わるので、
どっちかに相当整える方向に持ってかないとダメだと思うんですね。
だから急に僕が読みやすい文章を絵直しどんどん入れていくと、
多分結構味がなんちゅんだろうな、
塩味と砂糖の味が入り乱れていて、
しかも両方美味しいんだけど混ざると美味しくないみたいな、
そういう料理になりかねないのでそこは気をつけたんですよね。
ここにずいぶん手間取ったなというのがあります。
だからそういうことも含めてできるようになったのはやっぱり大きかったんですよね。
そんなことがありますので、
15:03
いいことづくめと言えばいいことづくめなので、
2月11日からの第6、第10期ですね。
よろしければどうぞご参加ください。
長くなりましたが、
そして昨日ですね、
倉園さんとのセミナーをしたんですけど、
今回も改めて思ったのがですね、
やっぱりまずはタスク、負のループって話しました。
結局負のループが始まってしまう最大の要因は、
タスクがフラットに感じられなくなるせいなんですよ。
今回は私はその構成にかなり手間取ったんで、
そこからどうしてもですね、
構成に対して邪魔が入るって感覚を持ってしまうんですね。
一番やっぱり非常に一瞬イラッとしたのは、
一瞬ではなくイラッとしたのは、
業者からの電話なんですね。
この業者からの電話はあって当然のものであり、
ここまで放置していた自分が良くないんですけれども、
こういう風に考えるのが良くないんですけどね、そもそもね。
業者からの電話。
でもタスクシュートの良いところは、
この業者からの電話は印象としての長さよりは、
はるかに実は短いという、
トータルで見ても30分いってないんですね、実はね。
でも僕の中では、
もう1時間を突破しているぐらいな感触があるんですよ。
こういう感覚の間違いが一つは、
割と機械的に訂正できますね。
でも大事なのは、もっとはるかに大事なのは、
時間ってのは結局タスクシュートでどう表現しようと、
繋がってるわけなので、
1日のある時間に対して悪い印象、
ネガティブな印象を持ってしまうと、
1日全体の印象が悪化するんです、必ず。
これは、例えば車を異常に愛している人がいますよね。
いっぱいいますね、日本には。
日本のおじさんに特に多いですね。
車を異常に愛している人が、
後ろに小さな傷がつくと、
もうなんかすっごい嫌な気持ちになるじゃないですか。
なるんですよ、あれ絶対に。
だって盤金屋さんにきてぇーに直させますもんね。
金かなりかかりますからね、あれね。
そのイタリア人とかすごいんですよ。
僕たまたまそれはね、
アメリカに行った時かな、
メキシコ人もすごいんですよね、結構ね。
なんかもう、昔これは動画で見て、
しかもうちの母も言ってたんですけど、
うちの母、ヨーロッパ旅行したこと、
1回だけあるんですけどね。
秋葉原みたいなところに
10列駐車してる時って、
日本人って絶対お互い擦らないように、
神業じゃないですか。
僕はあれできないんで秋葉原に車で行くの
すごい嫌だったんですよね。
とにかく神業なんですけど、
イタリア人とか、
ああいう風にやったらまずぶつけるんですよ。
今は知りませんけれども、
18:00
でもそれは見たことが本当あるんですよ。
メキシコ人も同じようなことやるんだけど、
前後の車をガンガンってぶつけて、
そこで強引に隙間を大きくして、
そこに入れるんです。
出る時もやるんですよ、これ。
だからもうボコボコなんですよね。
日本人の感覚では絶対理解できない、
物に対する感覚が違うわけですね。
だから本当にイタリア人から見ると、
絶対クレイジーだろうなと思う。
髪の毛でつけたような傷でも発狂しそうな人って
いるわけですよね。
それに20万くらいかけてきれいに直す
みたいな人っているんですけれども、
多分日本人の潔癖症みたいなものと
関係があるんだろうなと思うんですが、
これ、つまり傷がついている場所だけが
価値が下がって、
車全体の価値は変わってないよねって
考えておけばいいわけですよ。
そういうこともできるわけですよ。
イタリア人とかメキシコ人の
あの使い方を見ていると。
でもその日本人のおじさんにはとても無理。
一箇所傷ついたら、
もう全体がダメになるんですよね。
これは車は繋がっているからですよね。
で、我々の時間も繋がっているんですよ。
だから一箇所がダメだと思ったら、
ここが大事なんですよ。
ダメになっているわけじゃないですよね。
ダメだと思ったら、
もう全箇所がダメになるんです。
そしてこの患者を抱くっていうのはですね、
どこかの時間がすごい大事だと思えば
思うほどそうなるんですよ。
だって厚生の時間大事だって
私のようになってしまうとですね、
厚生以外の時間って
基本全部邪魔になってくるわけじゃないですか。
ひどくなってくると
ご飯の時間とかも邪魔になってくるわけですよね。
こういう時に邪魔な時間というものが
すごく入りやすく感じられますよね。
極端な人になってくると
自覚症状が薄くなってくると
私が大事なことをする時に
限って邪魔が入るとか言い出すんですよ。
これは当たり前なんですよ。
大事なことをしなければならないと思えば
思うほど大事なこと以外の時間は
全部邪魔になるんだから
極端な話は
その人がトイレに行きたくなったら
自分で自分の邪魔をしているような
ものになってくるわけですね。
だからタスクシュートで
僕が繰り返し言うように
全時間はフラットで最高だって
思っておく必要があるんですよね。
そんなのは無理だとか
佐々木は千人ぶってるみたいな話になるんだけど
そういうことではないんですよ。
そういうことを言っていると
ものすごく構成が
辛くなってくるはずなんですよ。
間違いなく。
全時間がフラットにいいと思っておかないと
全時間は繋がってるわけですから
1日の中である時間が
すごくダメだということになると
他の時間も全部そうなるんです。
これは必ずそうなるはずなんですよ。
結局のところ
例えば構成に全時間を捧げたいと思っている人が
業者の電話で
1時間使われましたとなると
21:00
この1時間は最悪だったって
思うじゃないですか。
そうするとこの最悪の1時間に
邪魔された構成というものを
必ずやらなければならないんですよ、その後。
こういうふうにして
全ての時間の価値が
頭の中でですよ
全ての時間の価値が一斉に下がるんですよ。
一斉に下がるということは
車の傷みたいなもんですよ。
車に一箇所傷つくと
車全体の価値が下がるんですよ、その人にとってはね。
これは気持ちの問題ですよ。
原理だからこそ
その傷を取れば
車の価値が一斉に上がるわけじゃないですか。
この箇所も含めて、全箇所の。
こういうふうにできてるから
タスクシュートでは
私はね、全時間の価値は
フラットで常に完璧だということに
しておくんです。
で、そういうふうになるんですよ。
別にだってトイレって
絶対行くじゃないですか。
だからトイレに行かない構成だけの日って
作り出せないわけですから
同じなんですよ。
トイレに行こうが、業者からの電話がかかってこようが
全て同じように
必然で、必ずあること
あったことだからすでに
そこの価値だけ
0%とかにしてはいけないんですね。
そうすると構成をやってるときも
必然的に
そのやってるときの価値は下がっていくんです。
1日の価値が下がってる。
その1日の中で
構成をやるわけですからね。
業者に邪魔をされて
台無しになった日に
その構成をしなきゃならないわけですよ。
その構成だけが
その日の中の例外事項として
取り出すことはできないんですね。
タスクというものとして
そこを切り取っているかのように
考えようとするからという
無理が出てくるわけです。
繋がっているからですね。
そういう話を
考えているうちに
やっぱりこれを
情緒から
切り離すわけにはいかないんだよなと思うわけですよ。
今の話で
気持ちの問題って
何回か言いましたけれども
まさに車の傷もそうで
だってイタリア人とかメキシコ人とかの
重列駐車から
入れる時も出す時も
前後の車にぶつけてスペースを作ると
そういうことを平気で
みんながしている国もあるわけですね。
しているような人々もいるわけですよ。
結局これは
その人たちの情緒が
どういう風になっているかで
情緒ですよね。完全に。
傷がついた時に発狂しそうだ
そういう気持ちの問題じゃないですか。
ここをやっぱり
見ていったほうが
いいだろうなと思うんですよ。
多分だから私は
タスクシュート単独でやらないんですね。
セミナーも。
タスクシュート×グッドバイブスにしたくなっている
わけです。
この話をもう少し拡大して言うとですね
私が先日
東京来発研究会でもそうしたように
山崎孝明さんで
精神分析的心理療法課を
発揮するように
この形を今模索しているところなんですよ。
つまり
24:00
手元に
先に結論だけ
言ってしまうと
コーチングとか
タスクシュート認定トレーナーさんでも
もちろん良くて
その他にもいろいろありますよね。
GTDだってアンバサダーって方がいらっしゃるんですよ。
仕事術の
いろいろな
トレーナーみたいな方もいらっしゃる。
つまりこれらの話で
僕は何を言いたいかというと
ここに精神力動学を
投入するべきだって思っているわけです。
投入すると言っても
別に本格的にね
コーチングをやる人はみんな精神分析家でも
ありましょうとか言ってるわけじゃないですよ。
そんなに現実的なことを考えているわけじゃないです。
かじっときましょうって
思うんですね。
つまり
堂畑海斗さんが
彼は臨床心理師ですけれども
僕らはやるんですよ。
全然やりませんよって
いう人も中にはいるかもしれないけど
僕は一生やりませんよって
人はいないんじゃないかって思うんですよ。
人は相談に乗るよねってことですよ。
ましてコーチングのコーチは
相談に乗るんですよ。
コーチというのはどういうことをやるにせよ
私自身はアドバイスしませんとか
いろいろあるかもしれないけれども
そうは言っても相談に乗っているはずなんですよ。
GTDのアンバサダーも
認定トレーナーさんも
もっと簡単に言うと
ちょっとライフハックに詳しい人は
人の相談に乗るわけです。
必ず
ここの線の繋ぎ方が分かりませんみたいな
相談だとしても必ず乗るんですよ。
ここの線の繋ぎ方が分かりません
っていう話であれば
気持ちの問題はいらないでしょうっていう風に
我々の世の中は
進んでいる
ように見えるんですね。
この話は後ほどしますけど。
実際には線の繋ぎ方だけでは
いつか必ず
済まないことになってくる。
現にこのタスクシュートの話でも
ヤフーのループとかは
早く寝ればいいじゃんっていう話になるのかもしれないけど
早く寝られないっていう
方が必ず
一定数以上現れてくるわけですね。
早く寝られないのは
だったら
民罪飲めばいいじゃんっていう話にもなるんだけど
このところで
情緒を
排走排走と
情緒を排除しようという
力がかかっているという風に
見るか見ないかなんですよ。
僕はここに
いつもいつも
私たちの時代は進めば進むほど
なぜか情緒を排除しようと
頑張っている。
そういう情緒があるって言いたいわけですよ。
人々が
この問題について
そしてこの
力動的に
力動的に見ようとしない。
なるべく見ずに済むなら
力動は無視したいって思ってる。
だからパワハラとかセクハラとか
言いたくなるわけですよ。
毒親とかもそうで
発達障害とかHSPとかも
僕は名称としてはそういう
27:00
つまり分かりにくいじゃないですか。
そこに気持ちの問題が含まれているというのは
分かりにくくなっている。
発達障害と言われると
気持ちの問題が含まれていないはずはないのに
どこにどう含まれているのかが
分かりにくくなっている。
そういう言葉が発明されるようになっている
ような気がするんですね。
それはこの種の
情緒的な生々しさを
可能な限り廃して
ドライにドライに
ドライになのかな。
とにかく一見ニュートラルに
やっていきたいからなんだろうと思うんですよね。
それが負のループという表現に
また現れてくるんですよ。
そしてそれは
行動を修正したり
タスクというものを
操作したりすれば
扱えるんじゃないかという
意識から
生まれてきていると思うんですね。
だから多分
コーチングって言うんですよ。
僕が思うにね。
こうやっているということ
それ自体がものすごく
僕の目には生々しく見えるんですよ。
その情緒を何としても排除しようと
みんなで懸命になっている
その情緒に対する恐怖感ね。
これが
渦巻いているような気が
最近は特にしてきているんですね。
時代がそういう時代であるというのと
私がたまたまそういうものに
興味を持ったというのが
最近になって一致しているから
そう見えるんであるでしょうけれども
私の目にはそう見える。
だからもうここをさらに
情緒を廃する方向に
行くということがもう僕には無理なんですよね。
あまりにも目につくって
とてもそんなことを
自分自身としてはやっていられない
というところになってきたんですよ。
以前は
情緒のほうをケアしたほうが
話早そうなのにぐらいだったんだけど
今はもうこれを無視して
行くっていうのには
なんていうんですかね。
見ないぞという強い意思が
必要だなという感じがするんです。
一例といいますか
手元にあるわけですよ。
本がね。
一つはあれですね。
発達障害の僕が食える人になった
すごい仕事術。
これはつまり発達障害の人が書いた
仕事術というたてつけの本ですね。
そういうテーマ設定。
もう一つが
容量が良くないと思い込んでいる人のための
仕事術図鑑。
図鑑。
これは私も
知人の書いている
高橋さんという方と高橋さんという方が書いている。
この二つは
飛ぶように売れたんですね。
どっちも発達障害
という人の
著者が発達障害であるという
設定。そして仕事術の
本であるという設定。
なんですよ。
で、
これが飛ぶように売れる
というのが
もう
なんというのかな。
30:00
と言っているような話は
全部この本に
集約されているなと。
良いとか悪いという話ではない。
全くないです。
時代がそういう時代なんだということです。
で、この発達障害の
すごい仕事術の本に
あるわけですよ。
あらゆるものがどこかに消える
残念な人々へという
込み出しにあるわけですよ。
あらゆるものがどこかに消える
残念な人々は
カバンにぶっこんでおきましょうという
わけなんだけれども
これって今の時代では
全く普通に
受け入れられる話だからこういう風に
書かれているわけね。あらゆるものが
あらゆるものの中はすごい色々
あるんですよね。
すぐに
あらゆるものがどこかに消えます。
大事な書類も大切にしたかった
万年筆も実印も何もかもです。
で、
つまりそれは
なんていうんですかね
よくこの本を
考えてみるとね、別にこの本を
批判する意味も
称賛する意味も僕の中にはなくて
ただここには
この種の課題を
一括し、それを取り扱う
上において
ある前提となる条件が
前提となる
考え方がありまして
その前提となる考え方には
並行して前提としない考え方が
排除されているんですね。
で、
鞄の中に印鑑とか
大事な書類とか
大切にしたかった万年筆
この辺ね、大切にしたかった万年筆も
どこかになくしてしまう。
分かるとか
僕の中には感じられるので
どこかに行ってしまう
っていう言い方をするわけです。
自分がだらしないからって
言いたいのかもしれないけど
必ずしも
だらしないとは
だらしないっていうのは
あまり意味がないじゃないですか。
だらしないというのはどういうことなのか
っていう説明がないですよね。
だらしなくなければ
なくさないはずだっていう
単なるそれだけのことでしかないですよね。
つまり結果というものを
軸に
結果というものを中心に
ものを捉えてますよね。
原因というのがどうでもいいようなものになって
だらしないという
それは
なくさなければだらしなくないってことでしょ。
結果からすべてを
判断するわけですよ。
この辺がすごく現代的なんですね。
結果からすべてを判断するんですよ。
これが
僕らの生きづらさだと思うんです。
私は今ではね。
これ自明ではないですかって
人は言うのかもしれない。
これは引用はしませんけど
この発達障害の本の後ろの方に
自分は本当に
いろんなことがだめで
価値がない人間だと思っていたけれども
一発逆転することを
目指していたと。
お金持ちになったり
あるいは仕事がすごいできるやつになって
33:01
一発逆転しようと
そうすればすべてが
引用に近いことになっちゃってるけど
免罪されると思っていたって書いてあるんですよね。
罪なんですよ。
昨日
倉園さんが何回も
罪悪感から怒りが生まれる話を
してくださいますけど
どうしてタスク管理で
罪悪感から怒りが生まれる話を
しなきゃならないのかというと
罪の意識があるから
発達障害で
発達障害だって書いているのに
病気だって書いているのに
罪だって言ってるわけですよ。
だらしないことはね。
でもそれは大金持ちになったり
仕事ができるという風になると
一切が免罪されるという
結果なんですよ。
全ては。
結果で罪を帳消しにしなければいけない。
で、なんで罪かっていうのも結果なんですよ。
だらしないから。
で、だらしないとどういうことかというと
大切にしたかった万年筆をなくしたり
実印をなくしたり
大切な書類をなくしたりすることがだらしない。
全てが結果なんですよ。
結果以外は何も見ない
っていうのがここには
はっきりとあるわけだと思うんですね。
で、それは僕は
この著者がいけないとは思わないんですよ。
僕らの時代が
こういう考え方を徹底している。
しかも悪気は別にない。
ただ
ただですね
すごくいろんなところが
手厚くケアされたり
差別に反対されたり
いろんなことが言われているにもかかわらず
言ってることは
えらい過酷だということです。
発達障害というのは
罪だと言わんばかりなわけですよ。
そうは言ってないかもしれないですけれどもね。
でもならしないのは罪なんですよ。
だって免罪されなきゃいけないわけだから。
免罪されると思い込んでいた
っていう表現を取るということは
免罪はされないんだけど
免罪されたかったっていう意味じゃないですか。
それは
物をなくしたり
実位をなくしたりすることは
罪なことであるっていう
考え方がなかったら
免罪という発想は出てこないはずですよね。
そして全ては結果によって
免罪されるべきだと
信じているんですね。頭から。
お金持ちになるということによって
免罪されるんですよ。
それは結果を出すことで
免罪されるという意味なんですね。
私の考えでは
病気であることはそもそも
罪じゃないと思うんですね。
ついでに言うならば
だらしないことは罪じゃないと思うんですよ。
全然。だらしないからって
逮捕されないじゃないですか。
ここら辺に
話が出てくるんですね。
例えば
親が
子育てがうまくできなかった。
それは罪かっていうと
育てられた子からすればそうかもしれない。
でも私は子育てが
うまくいかないという
例えば発達障害って話が出てきたときも
同じだと僕は思うんですよね。
病気の人は
子供を育ててはいけないのか
っていうような議論に
36:01
この流れでいくと言っちゃうんですよね。
パワハラとかも同じですよ。
だからこういう話になると
どんどん際どくなっていくじゃないですか。
だから私は
物事を全て結果から見るのはやめたほうが
いいって思うんですよ。
これほど僕らを
苦しめる考え方は考え方ですよ。
あくまでも。社会制度そのものは
そこまで人に対して
過酷になってないと私は思うんですね。
一歩間違うと
昔はある種の病気の人は
強制収容所に入れたりショッピーたりしていた
現代はそういうことはしなくなった
じゃないですか。
ただ考え方としては
その割にはきつきつなものが
残っている感じがして
しかもそれがややもすると
無邪気に強化される気がするんですね。
原因に目を向ける
ってのは難しいとは思います。
原因に目を向けたところで
意味があんまりないケースもいっぱいあります。
人は原因を見間違えますからね。
倉園さんが
グッドワイブスでよく最初の頃
言った通りなんですよ。
人は因果率を間違うと。
結局ののでからを
かき上げ塾でも封印したりしてますけれども
なんとかだからこうなった
っていうのは大体嘘がそこに含まれています。
でも
原因を一切見ないという考え方は
つまり結果で
すべてを評価するっていうのは
とってもリスキーな世の中というものを
あるいはですね
生きていてすごく
ある種の
必要もない不快感を
ずっと背負い続ける。だって
罪の意識ずっと持って生きていく。
すごい嫌なことだと思うんですよね。
いつもいつも免罪を目指すということが
単なる成功を目指す
人よりも一層深刻になり
かねないですよね。
俺はとにかく金持ちになって成功したい
っていうだけの人に比べて
私はとにかく成功して
金持ちになることで今までの
自分の罪を帳消しにしたいっていう人の方が
遥かに僕は
自体が厳しくなってるな
と思うんですよ。
結果から全てを評価する
ということはそういうことになっちゃうと思うんですよね。
もう一つの
この要領が良くない
の方の
高梨さんは
ある意味遥かに
遥かに
穏やかなって
こういう書き方はしません。
しませんが
ある箇所でですね
えー
仕事に給食する直前に
ものすごく本当に辛くなって
左が向けなくなったっていう
エピソードを書かれてですね
左が向けない。なんで左が向けないかというと
改札を出たときに
会社は
左側にあるから
なんだそうです。駅のね。
これ
私はもう
ここを読んでしまったらですね
どうしてここにフロイトが出てこないんだろう
としか思わないですよね
つまりさっきの
要領
発達障害の僕がの本もそうなんですけれども
どうしてここに精神分析が
39:01
あるいは精神力動が
全然全く出てこなくなっちゃうんだろう
っていう風に考えるんですよ
僕だったらね
カバンぶっこみも構いませんけれども
つまりそれをまたしても
行動として修正するという意味では
構いませんけれども
左が向けなくなっても
僕らはタスク管理しなきゃ
ならないのかなと
私だったら思いますね。やっぱり
左が向けないというのは
これが
身体的な問題であろうと
精神的な問題であろうと
間違いなく成功者なんですけれども
つまり心因的なものなんですけれども
心因に
行きましょうと
思わずにはいられない
そこを結果から見るという
左が向けなくなった
という事態を
左が向けるようにしましょうということは
単純ではないにしても
転職して
怒らないでくださいという風に
原氏さんが面接でお話になった
っていう僕はこの本の
肝はここにあるといつも思ってるんですけど
怒らないでくださいと社長に
頼むっていうね
そしたら本当に会社を守ってくれて
怒らなくなったっていう話なんですけど
これ仕事術なのかと
僕は思います
これは僕から見ると
やっぱり精神分析
でしょう
精神分析が無理なら
カウンセリングを受けに行くべき
話ですよね
左が向けなくなるというのは
ものすごいことですよ
赤ちゃんは
首が座っていませんから
当然首を動かすことは
できません
自分ではね
まず座れませんからね
こういうことしかできないんで
当然首だけ後ろを向かせる
なんてことができないんですよ
人間の赤ちゃんって実に非力なんですね
ここをみんな通ってきたんですよ
親がどういう親であろうとね
この状態をなんとか
乗り切るまでは
誰かが面倒を見てくれているわけですよ
我々は
自立して生きているって思うってのは
必ず後天的な発想なんですよ
生まれながらにして
自立して生きてる人は一人もいないんでね
最初に僕途中で言いましたけど
流宝のようにね
自分一人だったら
すぐ死んじゃうような人が
天下とるわけですよ
ここに人間の生き方の面白さが
多分あると思うんですけれども
左が向けなくなるというのは
親的な状態としては
もう対抗としては
ゼロサイジ的なところまで
後退して
こうなったらですね
僕はしかしそこを
自分でタスク管理で乗り切る
っていうのはそれは
無理ゲーだろうと
それを成し遂げて本まで書いて
ベストセラー作家になってる高梨さんは
超人的だなと思うんだけど
僕には無理ですね
左が向けなくなったら諦めますよ
誰か助けてくれよっていう
話ですよね
さっきの
42:01
この左が向けなくなる
話もそうで
あらゆるものが
成し遂げてなくなるのは
残念な人だからではないんですよ
と僕は思う
それを残念な結果として
見てその結果を
修正するべく
結果からアプローチするんではなくて
これを行動両方
言うんでしょうけど
行動を変えましょうって話ですから
原因はともかく
どういう心理状態であろうと
行動を変えましょうって話ですから
そこのやり方は厳しさがあるなと
偉いストイックだなって思うんですよね
でそのストイックはどう
起こしてるなと僕なら思うんですよ
精神分析のほうがずっと優しい
と思うんですよ
僕じゃ絶対無理です
左向けなくなったのに
会社を変えて乗り切るのっていうのは
僕には到底できる気が
しません
ちょっと面白く書いて
いらっしゃるんですよね
左向けなくなっちゃったんですよ
笑えないですよね
僕はここは
到底笑えるところではないです
恐ろしい話に聞こえます
物が
どんどんなくなるのを
僕には同様に恐ろしい話に
読めるんですよ
やっぱりここもちょっと面白い話として
書かれるんですよね
残念な人たちへと
解決策を示されているわけですからね
解決される人にしてみれば
大変助かると
実員なくなったら大変ですからね
大事な書類というのも
相当めちゃくちゃ大事な書類
なわけじゃないですかきっとね
大切にしたい万年筆
ここででも左も
向けなくなる話もそうだし
高梨さんの方はさっきも言ったように
非常にこれをマイルドにお伝えになっていて
それは
内心思うところもっといっぱいあるんだろうなと
でも僕はそれは発達障害の
すごい借金玉さんね
あると思うんですよ
実員なくしたときの
何なれば笑い話で済むのかもしれないけど
なくしたときの
感触というのは
なかなか大変なものがあるんですよね
残念な人だからでは
やっぱり進まないと思うんですよ
例えばなんですけど
もう一つ手元にちょっと
今日長くなっちゃってますけど
お好みけいごさんとばばけんしさんの編集による
フロイトの精神分析入門という
多分今となっては誰も
あんまり読まないだろうなという本があるんですけど
この本でもですね
奥づけ見ると1977年
僕が4歳のときに
初版発行で
1999年に
第23ズリを発行していて
いろんな人が読むっていうこともあるんでしょうけれども
読まれてない本では決してないんですね
ぱっと見読まれている感じが
する本でもないですけど
ここにあるんですよ
物がなくなる人の話
例えば
引用はしませんけれども
例えばですね
まさに
45:01
義兄から義理のお兄さんから
もらった万年筆をなくす人の
話が出てくるんですよ
大切にしたかった万年筆をなくすって話が
借金生さも書かれてましたけど
文脈ががらっと変わるんですよね
なんでお兄さんからの
万年筆をなくしたのか
それはですね義兄から
最近の行動を強く叱責する手紙を受け取って
50年ぐらい前の話だから
そういうこともあったんでしょうね
で怒られたと
そうしたら面白くないですよね
義兄のことは思い出したくもないと
強く思えば
万年筆をもらった万年筆は
見たくないですよ
だからなくすんですよ
もちろんこれは
ここが精神分析の弱みにも
なったんですよね
それこじつけじゃないって言われたときに
非常に反論が難しい
なぜならこれはすごくパーソナルな出来事で
証拠とかが残るような話ではないから
ただ
どうしてこういう文脈が
はっきり書かれている本が
50年前には山のように
出ていたのに
全部僕らの目の前から消えて
物がどんどんなくなるっていう
のがすべて
残念な人っていう
言葉で集約されるようになったんだろう
とは思うんですよね
これは歴史みたいな話じゃないですから
戦前の本に書かれてましたよ
っていう話ではないですからね
僕が生まれた後にも
1999年に23釣りが発行されている
本に書いてあるような
この万年筆がなくなると
全く同じ
大切な万年筆がなくなるっていうのが
その原因が
残念な人ないしは発達障害
というところに置き換えられるんですよ
フロイト
排除されたわ
だと僕は思うんですよね
僕がやろうとしているのは結局
これをある程度の
ところに復活させたいと
前と全く同じ形でというわけじゃないんだけど
ある程度のところに
復活させたいと
そうしないと
左が向けなくなっても
僕らは転職活動しなきゃなんなくなっちゃうんですよ
社会がサポートしてくれない
って話ではないですよ
ただ物の考え方としての話ですよね
もうちょっと
込み入った話で
ふなかの夫婦が
あったと
これもさっきの精神分析入門からの引用なんですけど
ふなかの夫婦がいたと
そのふなかの夫婦は
ふなかだったんだけど
昔の話だって冷淡だ
っていう感じにお互いになって
よそよそしいとか冷たいとか
ある日奥さんが
本買ってきてくれて
夫はそれがすごい面白そうな本だと思ったんだけれども
すぐになくしてしまった
これもすごく
今時だったら
発達障害とか言われるんだろうなって
本がなくなりました
大切にしようとしていた本なんだけど
金玉さんが書いている
文脈とほとんど同じですよね
だけどその奥さんが
48:01
自分のお母さん
つまりシュート目が病気になった時に
すごく不眠不休で
頑張って面倒を見てくれて
看病もしてくれて感動したと
つまり夫婦の愛情が戻ってきたんですね
そして感動していたところ
奥さんからもらった本が
不意に見つかった
っていう話を
精神分析入門で取り上げているんですね
これも同じです
つまりこういう話は
弱点があります
その証拠はって言われちゃうんですよ
これは奥さんとの愛情が戻ってきた
というのを契機に
奥さんからもらった本というものを
もう一度目にしたくなった
っていう文脈がなかったら
全く意味のない偶然になってしまいますね
でも
精神分析で言っていることって
こういうことの連続なんですよ
物事はたまたまも起こらない
って言ってるわけですよね
たまたま左が
高梨さんのケースでは
高梨さんご自身がちゃんと書いてます
左が向けなくなったのは
改札の左側に会社があったからだと
これはもう無意識ではないですよね
ただ心身傷だとは
僕は思います
だからこの問題を
解決するにあたっては
私は行動の修正に向かう
ものではないような気がします
借金玉さんの方は無意識です
気が付くとなくなっているわけです
でも僕はそれはたまたま起きている
ことではないし
発達障害という言葉によって
発達障害については物をなくすんです
というねそこの間の
つながりの説明は一切ないような雰囲気で
あるいは残念な人だから物を
なくすんですというこの間の説明も
一切ないなぜ残念なのというと
いや物をなくすからですってこれだと
つまり物をなくす人は物を
なくすんですですよね
発達障害も最近の文脈ってそう
使われている気がするんですよ
ドワセレする人はドワセレするんです
説明になってないんです
でもこっちの方が今の世の中では
受け入れられるんです
全部のフォーカスを結果に当てるか
結果に当てる方が
望ましいんだって
そういう風に一般的に
考えられているからこのように
説明してそしてそういう
考え方の修正
修正というのはつまり行動を
修正するというやり方が
どちらかというとやっぱり受け入れられやすい
いいんですよ
行動修正できるならば行動修正するので
行動修正すればことが足りる
というならばやっぱり行動修正するので
いいんだと思うんです行動修正すること
自体がよくないとは
思わないですよねただ
行動以外の部分を
切り捨ててしまわない方がいいと思うんですよ
やっぱり
左を向けなくなったのが
会社だということであるならば
違う会社に行って今度
右向けなくなったらたまったもんじゃないじゃないですか
そう
考えてもいいような気がするんですよ
うまくいってるケースについてまで
こういうことを考える必要は
ないかもしれないんだけど
うまくいかなくなった場合の人に
51:01
してみれば
この問題を必ず
スク管理と
怒らないでくれと
上司に交渉するということと
転職するということ
以外つまり
自分の心ですよ
自分の心に
目を向ける方が優しいと思うんですよ
どっちかっていうと
自分の心に目を向けるとなってくると
それは自己責任
なんですかっていう話になっちゃうんだけど
そういう
話になってしまうのかもしれないんですけれども
でもやっぱりですね
自分の心に目を向ける方が
やり方と
プロセスとしては
優しくて済むと思うんですよね
うまくいったから高梨さんの
話はこれでいいんですよ
高梨さんご自身にとってもこれでいいんですよ
まして本が売れたんだから
それもいいんですよ
これは全部トータルオールグリーンなんですよ
でも
絶対にこうしなきゃいけないわけではない
ってことなんですよ
そういうふうに高梨さん書いていらっしゃらないんで
えふたさんもそう書いているわけではないんですよ
ただ僕らは
絶対そうしなきゃいけないと
思ってるわけじゃなくても
他の方法
何も考えつかなくなりつつあるっていう点は
要注目なんだと思うんです
つまり
結果というものを修正したいと
免罪されないという風な
思い込みから脱する方法を
知らないという点は
要注目だと思うんですね
どこかにそこに免罪という意識がある
つまり
例えば会社に
転職はいいんですよね
だけれども左が向けなくなり
会社を休むようになり
家にいるようになりました
だと
免罪という意識を持っている限りは
これは罪なことだ
他の人はそれでもいいかもしれないけど
自分がこれをやるのは
罪なことだっていう
例えばニートは罪なことだみたいな
自分が家から出られなくなるのは
罪なことだって考え始めると
行動を修正するという
やり方を
取ることができる間は
いいかもしれませんけれども
行動を修正できなくなったときには
非常に難しいことになって
しまうだろうと
これが罪なことだと思わずに
済むような心の持っていき方を
取らないと
取ったほうがいいんじゃないだろうか
思うんですよね
そのためにはこれが罪じゃないという風に
言うためにはですね
やっぱりパワハラとか
なんとかハラとか
ドコヤとかが
この世にいては
罪だっていうところから
僕らは脱する方法を
探んなきゃならないだろうなっていう
気がするんですよ
つまり
心の中に罪の意識を持っていて
これが原因で
残念な振舞いをしてしまうということが
罪だということになると
これは心の中に持っている
それは罪の意識なんだけれども
54:00
心の中に持っている
なんらかの免罪されなければいけない
何かというものを
行動によって
一般的にですね
行動によって
言ってみれば
見た目の
いい行動というものが
取れる人間にならなければいけない
っていう話になっちゃうと思うんです
あるいは取れる人間にならなくてもいいけれども
そういう行動を取らなければいけない
っていう話になってしまうと思うんですよ
でも
そうじゃない方法があったということが
わずか50年前の本に
こんなにいっぱい書かれているのに
それを全部
ないことにしなくてもいいんじゃないかと
思うんですよね
残念な行動を取っている裏には
はっきりとした理由があって
その理由を本人は認識できて
いなかったとしてもですね
偶発的に起きているわけではないんですよ
だから偶発的に起きているわけではない
行動というものは
その原因を取り除けば
消えてしまうはずなんですよね
平切な万年筆は
無くさないように
なれるはずなんですが
そのためには
無くさないように行動を変えるのではなくて
無くそうとしている
自分の心
の罪悪感が必ずあるんですけど
それはもう
既に免罪されているというか
最初から罪はない
だから許すって話に
ここで落ち着くはずなんですよね
許すときはあらゆる人
それに相当する人は
全部許さなきゃいけない
絶対に何とかからとか
子供をきちんと育てられない
親御さんの中には
この罪悪感というものが原因で
全く同じ
許される状態というのを
必要としている人が
全員じゃないかもしれないけれども
必ず相当の割合でいるはずなんです
ここが許されないんだったら
私たちは結局
行動を示すことで
免罪されなければならなくなっちゃうわけですね
そういうふうな
ここで
今私たちは動いている
という気がします
僕はそれには
ついていけないと思っているわけです
どうもありがとうございました
56:15

コメント

スクロール