1. グッドモーニングボイス
  2. 「これさえあれば大丈夫!」な..
万能空想の副作用。
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
1月22日、月曜日、朝7時36分です。
今日は暖かいですね、非常に暖かいです。
普段であれば、これから最高気温ぐらいの気温が最初からで、水木あたりから著しく寒くなるみたいですけど、
その、こういう行ったり来たりなんでしょうけど、暖かいなって感じがします。
暖かいと言っても、自由度あるわけじゃないんで、結構暖房とかつけていないわけにはいかないんだけど、でも暖かいとは思いますね。
先日この番組でもしつこく、しつこくっていうのはですね、開催してお話を伺ってみると分かるんですけど、
告知、足りないよっていう話もあるんですよね。
これはいつもやっぱりね、私もこう、こっちは告知頑張ってるぐらいの人いるけど、
これはやっぱり、告知をしている側の言い分であって、もっとちゃんとやってくれないとぐらいなことはね、言われるんだなっていうことを、
そう言われてるわけじゃないにしてもですね、そういうぐらいのお話ってあるんですよね。
最後の最後の方の告知でようやく知りました、みたいなのを伺って、そうかと。
やっぱりですね、こういうのを聞かなければできないな、できないっていうか忘れるな、そういうことは思いますね。
うるさがられてるって方ばかりをどうしてもやっぱり、告知をする側の人間は考えるわけですよね。
見たくない広告は人は見ないんで。
だけれども、やっぱりこう、足りないという人も反面いるわけで、両方の人を完璧に満足させるとかは事実上不可能だと思うんですよね。
ものすごいテクノロジーを駆使すれば可能なのかもしれないけど、およそ私のレベルでやる話ではない。
東京ライフ発見協会を告知するのに、ものすごいテクノロジーを使うっていう場面ではないと思うんで、
そこは諦めていただいてですね、ここでは繰り返しやると。
今回東京ライフ発見協会、最終的には結構成長で10名超えてきましたので、
僕なんかはですね、これで良かったじゃないかって思うわけですよ。
別に赤字になったわけでもないしね。
これでビジネスを拡大。
主催者の北信也さんですけど、ベックさんがどうお考えなのかまでは私にはわかんないけど、
でも彼も今、ホラー圏で食べようとしている、そういう頻度でやってませんからね。
開催回数も少なさから考えて、そういうふうではないんじゃないかとは思っているので、
03:06
だけだ言って黒字になれば、しかもゲスト呼んでね、オンの字じゃないですかっていう、
私なんかはほとんど大成功ぐらいな感覚で本当にいるんですけれども、
今回良かったなぁみたいな感じでいるんですけども、
初回の55人がライフハック研究会に来るっていう時代はもう、
ほとんど歴史に属するぐらいに思っておりますから、
3人とかじゃなかったらいいじゃないっていう感じを抱くんですけどね。
これは本当に温度差みたいなのは、温度差がなかったらおかしいですからね。
同一人物になっちゃうんで、同一人物ではないですから。
あるかもしれないですけれども、
僕は今回大変来ていただいた方にも、聞いていただいた方にも、
それぞれすごく感謝していますし、
ぜひまたホラー圏なのかはわかりませんが、
またこういうのは私は逐次やっていきますんでね。
ただ、ライフハックという枠でやるのは難しさは感じたので、
でも、だから今回はやった内容は良かったんじゃないかなと思うんですよね。
ライトニングトークまで含めまして、
私はすごい良かったと思っているんですよ。
やっぱりあれはライフハックが絡んだから、
あんな風にうまくまとまったんじゃないかという気もしなくはないんですよね。
ライフハックの話はほとんど出てきてないに等しいんですけどね。
言葉だけは飛び交ってたけども、
ライフハックそれ自体は出てこなかった気がするんだけど、
良かったとは思うんですよ。
あれが精神分析の話だけだったわけでは、
まあだけだったけどね、結果としては。
良かったんじゃないかなとは思っています。
で、来週ですね。
来週の今度は28日日曜日にGood Vibes×タスクシュートというテーマで、
これはすでに僕の感覚ではそこそこの参加者さんに集まってきていただいているので、
そんなに心配しているわけではないんだけれども、
これをせっかく今度は倉園圭三さんとやりますから、
これを僕はイベント的にやっていきたいと思っていて、
次回は本を出すぐらいのタイミングで、
僕が本について喋るみたいな、
まあ全然わかりませんが、
そんなんでもいいかなとは思っておりまして、
28日日曜日、15時からですね。
オンラインこれはオンリーです。
リアルではやらない。
こういうふうにやっぱり立て付けがですね、
ハードルが低いといいと思うんですよ。
これだったら創液分岐点というところは非常に低くなりますから、
ゲストをあえて呼んでいるわけでもなく、
会場の確保も必要ないという、
06:01
こういう形がやっぱり、
この種の人を多くの人に聞いていただきたく、
単価はそう高くはなっていないイベントでは、
今はいいんじゃないかなというふうに思ってはいます。
これは僕の浅い考えですけどね。
誰でも考えつくような話ではありますが、
無理のない形ってのはこういう形なんじゃないかと。
東京来客研究会はLTはあるし、
懇親会も必ずやるという、
そういう構造になっている以上、
オンラインだけの会というのは逆に難しいんだとは思うんですよね。
その分値段はさらに下がっていますよね。
割引だったら3000円を切るみたいな、
そこまで来ているんで。
ただ、そして動画も撮ると、
それを配信もすると、
だからある意味手厚いんですよね、非常に。
ここはテクノロジーの世界なんだろう、
ライフハックだということもありますからね。
そんな感じではありますが、
1月28日はちょっと違うんでね。
今回は不安ゼロで先送りゼロみたいなテーマで、
前回第2回やりましたけど、今度はあれです。
負のループから抜け出そうというやつですね。
どんな話が出るか、
なんとなくイメージはつくんじゃないかとは思うんですけど、
寝るのが遅くなり、朝起きるのが辛い。
朝起きるのが辛いからやることがはかどらず、
また寝るのが遅くなるといったような、
そういう話ですね、話としてはね。
これはお悩みのほうであり、
それをどういうふうに払拭していくかというか、
解決していくかという話で、
それぞれ私はタスクシュートからアプローチし、
フェラゾンさんがグッドバイブスのお話をしするという、
大枠はそういう話ですね。
前回の不安ゼロから先送りゼロもそうだったんですけれども、
罪悪感というのは1つ大事なキーワードにはなる。
もう1つはループという話をするんだけれども、
このループの中には、
ご本人は因果関係だと思っていらっしゃる因果関係が、
実はないと。
これはトラケンでも割と出た話ではありますが、
そこには例えば寝るのが遅くなったから朝起きるのが辛いというのは、
正しい因果律なのかという問題がある。
この正しい因果律なのかという問いは、
カウンセラーが絶え間なく立てたがる。
私も立てたがるんですよね。
それは本当でしょうかってやつですね。
なんでこれを問われるのかという話を、
今日ちょっとしてみたいわけですね。
09:01
この問いが成立しなくなるポイントというのが、
ものすごく大事だ。
これは先日ですね。
ある方と3ヶ月チャレンジでお話しして、
こういう話は3ヶ月チャレンジではしょっちゅう出ますが、
まさに来伯研究会の当日もこういう話は出たんですけど、
つまり問いが立つというところに行き止まりがあるわけですね。
これは倉園さんがよくおっしゃる話で言うと、
罪であるってなったらそこに問いは立たないんですね。
罪なんだから。
なぜ罪なんですかっていうのは、
もう挑戦的態度になってしまうって話は、
先週もしたと思うんだけど、
罪であるもの、問いは立たない。
問いが立つというのは、
そこにまた選択の自由があるっていう話になるんですよ。
罪は選択の自由はもうないんですよね。
それはやっちゃいけないことをやっちゃったって話だから、
選択の余地はないわけですよ。
普通に済む方が良かったに決まってるっていう。
だからそう思わない人は、
ここで必ず問いを差し挟みたくなるわけですね。
この自然な気持ちを利用してカウンセラーは、
あえてそこで問いを立てるわけですよ。
でもこの問いを立てれば角が立つってことは、
もちろん重々承知しているんだけど、
この問いを立てない限り、
その人は絶対そこから自由にはなれない、
という行き詰まりがあるわけです。
まあ行き詰まってるから悩んでるわけですけどね。
だから例えばですけれども、
これだいぶ昔に決まってるんですけど、
ぶっちゃけ相談というのは、
倉園平塚さんとYouTubeでやってましたが、
非常に面白い質問だなと。
あれは質問をハガキで投函する人。
今時普通にはYouTubeに投函するっておかしいんで、
フォームをハガキ化しているという脚色をしてたんですけれども、
その中にアフィリエイトをやってる人は、
もう立派なことを言ってても信用できないんです、
っていう相談が寄せられて、
普通にまず倉園さんが、
このアフィリエイトっていう仕組みは商品が悪くなくて、
本人が信じてるなら悪くはないんじゃないですか、
っていうところ、
これは非常に穏やかな話なんですけど、
それよりも、
アフィリエイトをしているというのは、
罪悪だっていうね、
この感じを持っている人は、
なぜですかっていう問いはないわけですよ。
ここがすごく大事なんですね。
そこに自由はないってことですよ。
アフィリエイトしてもいいし、しなくてもいいではないですよ。
しちゃダメなわけですね。
ここに僕らのどん詰まりというか、
行き止まりがあるんですよ。
私はこのアフィリエイトの例は、
いいなとなぜ思ったかというと、
12:00
そう思わない人がいるっていうのは、
イメージしやすい話だと思うんですよ。
もちろんそう思う人もいますよ。
アフィリエイトしてる人は罪人である、
ってぐらいに感じてる人もいるでしょうけれども、
当然そう感じてない人もいっぱいいるわけですね。
これはイメージしやすい。
つまり選択の余地があるはずなんですよ、
この話に。
多くのこの罪悪感問題、
なぜ倉園さんがGood Vibesで、
倉園恵都さんが罪悪感の話を、
もう今やほぼ、
罪悪感と愛の話しかしないぐらいに、
なってきてるんじゃないかと。
話はものすごい先に渡るんだけど、
最終的にはそこに行き着くよねっていうのは、
まず一つにはここに選択の自由がない。
そして倉園さんは、
人はどんなシーンでも、
これはGood Vibesってどのぐらい強調されてるか、
分かりませんが、
僕はこれは確実にそう言ってるなって思ってるのが、
人間は自由を失う瞬間は存在しないって、
彼は言ってるんですよ、事実上。
人間というのは、
どんな瞬間でも自由であるっていう、
これはですね、
非常に宗教的な部分もありますけれども、
人間という種が、
生物種が、
一つの思想として行き着いた、
極点の一つだなって、
よく思ってるんですよ。
人は自由を失うことはないんだと。
普通そうは考えないじゃないですか。
例えば、
ものすごく深刻な話で言いますと、
今まさにそうですけれども、
ガザ地区とかね、
人は自由全くなくなるじゃって、
思ってしまうんですよ。
そういう観点があるからこそ、
あのようにニュース等で、
特集されているわけですよ。
人は自由を完全に失う瞬間を、
ものすごく恐れているわけですね。
だから、
この人は自由を失う瞬間なんて、
永遠にないんだって言い切るっていう人たちは、
凄まじいんですよ。
僕はそういうふうに、
あのメッセージを受け取っているので、
仏教もそれを目指している。
このアプローチが少し違うってことなんですよね。
仏教ってのは、
多分自由ってのは仏教用語なんですが、
仏教ってのは悟りを開けば、
人は永遠に自由だ、
みたいな考え方なんですよ。
そこに対するアンチテーゼが、
必ずその宗教を持ってますよね。
絶対持ってるんですよ。
いや自由じゃないだろって反論が、
必ず、
例えばブッダもしょっちゅうそれはされてたはずだから、
究極の自由じゃない考えはなんだっていうのは、
その宗教の思想には付きものになってくるわけです。
だって、
人間は絶対自由は失いませんって言った瞬間に、
いやガザ地区はどうなんだっていう反論が来るじゃないですか。
そうすると、
宗教の創始者、
特に出来がいい人たちは、
十分その辺のことは考えているわけだから、
その反論の究極形はなんだっていう問いが、
あるはずなんですよね。
絶対人は自由じゃない瞬間があるはずだっていう。
その辺のことをニーチェが一番深刻に捉えていたなって感じがするんですよね。
永劫回帰ってやつですね。
永劫回帰っていうのは、
人間が絶対自由じゃないっていう主張の一つだと思うんですよね。
15:03
だって永劫同じことが続いていくんだから、
そこから逃れられないっていうのは、
もう全く自由じゃないんだよっていう意味になってくると思うんですよね。
そこを超える自由が、
つまり超人っていう風に彼が言ったわけですよね。
もはやそいつは人間じゃないってわけですね。
こういう思想的な話は、
すっ飛ばしまして、
人が自由を失わないっていう話の中で、
僕らのような、
福道さんですよ。
小規模な生活を営んでいる人間としては、
そういう超人と永劫回帰みたいな、
めちゃくちゃでかい問いじゃない方向で考えると、
人が絶対に自由だって言った時に、
まずそうじゃないかもなっていう、
疑問なり不安なりはどんなところから来るでしょうっていうのが、
僕はGood Vibesの非常によく話題になっているポイントの一つだと思うんですね。
それは罪悪感なんですよ。
人は罪悪感を持った瞬間に自由を失うと、
プラドンさんの言ってることはそういうことだと思うので、
だから僕らはそこで問いを立てられなくなってしまう。
だからそこでカウンセラーはそこをしつこく問うことになる。
カウンセラーっていうのは多分ですね、
クライアントさんとディスカッションとか議論とかしたい人は、
いなくはないかもしれないけど、
それはちょっとやや問題があって、
できれば議論なんかしたくないわけですよ。
だって議論に勝ったところで、
クライアントさんが二度と来なくなったら意味ないじゃないですか。
自分の職業としては失敗に近いし、
ビジネスとしても厳しいし、
そうでなくても臨床審議というのは、
お金にならない商売とされていますからね。
一人でもクライアントは失いたくないわけですよ。
むしろ職業倫理をそこに問われるぐらいなんですね。
つまりディスカッションを避けるあまり、
大丈夫ですよ、いいんですよって言ってちゃダメなわけですよ。
それはそれで人来なくなりそうなんだけど、
つまり罪悪感を持ってもいいんですよって言ってるだけでは、
商売になり方ない。
でも一方で本当にそうですか、なぜそうなんですか、
みたいなことをずっと言ってて、
クライアントさんがいっかり浸透に達すると、
もう来なくなっている。
だからこの辺に難しさと多分モラルが問われるんですね。
どんな場合でもそうなんですよ。
罪悪感を抱くポイントは、
質問というものが受け付けられなくなるポイントと、
一致していなければおかしいわけですね。
朝起きられない、
それは良くないことだという考えの人に、
朝起きられないと本当にダメなんでしょうか。
例えばトラケンでも、
ゲストの山崎隆さんは精神分析、
精神分析家ではないけれど、
精神分析知っている人なんで、
やっぱりこう、
18:02
例えばですけれど、
たまには休んでもいいんじゃないですか、
っていう風に言うかもしれない、
みたいなことを言うわけですね。
これはすごい大事なわけですよ。
たまには休んでもいいんじゃないだろうか、
というのが問いですよね。
絶対休んじゃダメだと思っている人は、
そういう問いは受け付けられないんですよ。
つまりそれは罪じゃないですか、
という風な思いに囚われているわけですね。
絶対行くべきだってことになっているわけですよ。
たまには休んでもいいんじゃないですか、
という質問は、
一歩間違うと大変挑戦的になり、
心臭になり、
鼻裸しい場合はトラウマになってしまうわけですね。
もしそれが分からないというのであればですね、
罪は客観的ではないって話に向かっていくしかないわけです。
これがさっきのアフィリエイトは罪かってやつですよ。
こういうのがいいわけですね。
これが窃盗は罪かみたいな話になると、
難しくなるでしょ。
いやいや、窃盗は罪でしょってことになって、
選択の自由はないだろうって話になりやすいわけですね。
アフィリエイトは罪かだと、
ここで我々は問いが立つなっていうのが直感的に働きますからね。
やっぱりそういう例が、
こういう商売をしていると欲しくなるわけです。
考えやすくなりますから。
これ結構、
いい例って少なくて、
いっぱいあるんですけどね、日常では。
本当にいっぱいあるなと思うんだけど、
例えばね、右折車。
ここの右折と頑張ろうとする車は罪かっていう僕の問いは、
昔、倉須野さんが面白い話、マクドナルドかなんかかな、
あるじゃないですか、車に乗ったまま買えるやつ。
なんでこんなのまで言葉が出てこなくなるのかな。
とにかくありますよね。
車に乗ったまま買えるやつ。
そこにハイロード頑張ってる右折車がいたんですって。
で、後ろに長蛇の列ができたと。
これは罪かっていう。
道路交通法的にこれは僕は罪ではないと思うんですね。
しかし、その人の、その車のドライバーに向かって、
みんなが一斉に白い目を向けても、
罪ではないんですよ。社会的にはね。
まあ、迷惑だ。
で、迷惑は罪かって、これはですね、
ものすごく僕は人によって違うなって、
いつも面白いなと思ってるんですよ。
僕はもう極限まで迷惑は罪ではないっていうのを押し通そうって思って、
すごい迷惑やろうなっていくかもしれないんだけど、
なかなかそうはならない気もするんだよね。
だけど、迷惑か罪だっていうのは、
すごく僕は面白いと思うんですよね。
日本人は空気を読まない人は罪だと思ってますからって、
21:00
サラッと言っちゃう人もいるわけですよ。
この日本人って主語はでかいですよね。非常にでかい。
で、こういうのっていうのは、
やっぱり一人一人に、
これを取りただしていくと角が立つんだけど、
ここで角を立てるぐらいな気持ちで、
最初は不器用だからこういうのって、
自分が始めた頃も。
こなれてる人はもっと上手くやるんですけれども、
やっぱり角が立っちゃう言い方になるんですけど、
そこはもう通過しなければいけないかなっていう風に、
僕のような商売をやってる人間は通過するべきだなって思うんですよね。
角が問いを立てているというニュアンスを、
うんと下げながら問いを立てていく。
そうしないと、
そこでやっぱり僕らは考えるようには決してならないですから。
脊髄反射的って言うのも、
倉園さんも山崎さんも時々使われるな。
脊髄反射的にそれは罪だって話にしちゃうんですよね。
それがまさに問いが立たないっていう状態なわけで、
ここで問いを立てる。
つまりマクドナルドに無理やり右折して入ろうとして、
後ろに長蛇の列を作ってるけど、
なぜ行けないのかっていうのを
フラットに問えるようにしたい。
ここに、こういうところに僕らは
どん詰まりがあるわけですよ。
客観的事実であるっていうふうに誤解してしまう。
客観的事実ではないから。
後ろで待ってて何とも思ってない車って必ずありますからね。
私なんか何とも思わなくなっちゃってるんで。
時間を失うと、
時間を奪われるって言うじゃないですか。
ここにまた人によっては罪を当然見るわけです。
時間となってくると、
全然犯罪じゃないんだけども、
非常に多くの人は厳しくなってくるわけですね。
だから時間とかいうサンプルは
あんまり上手くないなって思ってるんですよ。
タスクシュードとかいう話になった時は
ここで時間絶対出てこなきゃならなくなるんですけれども、
残念ながら時間というのは多くの人が
無駄にしてはいけないんだと信じているんで、
アフィリエートとかのほうがいいわけですね。
アフィリエートは罪かとか、
右折で頑張るのは罪かとか、
時間を奪うやつは罪かとか、
いろいろあるわけです。
バカな質問をするやつは罪だとかね。
いろいろあるわけですね。
私は質問しづらかっただろうなって思うんだけど、
今オンラインでも質問飛び交うところを見ても、
罪じゃないという認識に改まると、
人は本当は行動をガラッと変えるんですよね。
だから罪じゃないって思うのは大事なことだというのもあるんだし、
もっと言うとではないんだけど、
別の言い方をすると自由だって思うのは非常に大事なんですよね。
そこには当然不安があります。
人に白い目で見られるのが不安だとか、
人の時間を奪うのが不安だとか、
24:00
右折で後ろに渋滞を作るのは不安だとか、
いっぱい不安があって、
僕らはどんどんどんどん行動が狭まっていくわけですね。
罪の行動は取れませんからね。
罪だと信じている人にしてみればね。
そして、そしてなんですよ。
ではどうしてこれは最終の問いになってしまうのかという話ですね。
つまり、
なぜここで問いが立たなくなるのか。
問いが立たなくなるのは本当に、
良い悪いを言いたくないのに良くないっていうのは良くないと思ってるんですけど、
なんか別の言い方、
手放すべきみたいな言い方になっちゃうんですけどね。
どうしてこの罪悪感、
最終的などん詰まりに行き着かない方が
いいと思っているのかと言いますと、
それは非常に簡単でして、
これがトラケンでも話題に僕がテーマに掲げた、
頭ではわかってるんですけどねっていうやつにしないためなんですね。
頭ではわかってるんですけれども、
できないんですよみたいなことを言ってるって状態を
脱しなきゃいけないと思うんですね。
頭ではわかってるだけでは、
行動には全く、
行動に拡大できないというか、
精神が自由にならないというか、
例えば一番単純なところで死ぬのが、
みんな人は死ななければならない、
頭ではわかってるんですけど怖いんですっていう状態が
どんどん進行すると、
僕らはとにかく意志業界ずっと怖がってなければならないことになりますよ。
どうしたってね。
だから結局、
馬鹿な質問をしてしまうのでも同じなんですけど、
できなくなりますからね、そのことは。
これが辛いはずなんですよね。
朝起きるのが辛いみたいな話になっていくわけですよ。
朝起きるのが辛いというのは、
つまり、
その状態で起きるのは罰であるっていう状態だと思うんですよね。
あの、
しっくりこないかもなんですけれども、
私はこの朝起きるのが辛いというのと、
自分の母親が怖くないっていうのを結びつけたときに、
朝起きるのは辛くなくなったわけではないですけど、
ほぼ辛くなくなったんですよ。
こういうことが本当に起こるんだなって思うんですけど、
朝起きることになのかな、
眠いということが一種の罰であると考えている。
何らかの罪の結果として、
朝起きるのが辛くなってるっていう捉え方を外すことってできるんですよ。
そうすると、眠いんだけど辛くはないっていうですね、
ある種の人には信じがたい状態を
簡単に割と実現することができる。
例えば私、今8時ですね。
眠いんですよ。6時間弱しか寝れないんでね。
眠いんだけど全然辛くなく、
割とこうやって元気に喋っていられるわけです。
それは、眠いということは罰ではないっていう風に
27:00
認識できるようになって以来のことなんです。
この眠いというのが罰だというのは、
どうして感じていたかというと、
つまり私にとって母親というのは、
恐ろしい存在である限りにおいて、
眠いのは辛いことだったんですよ。
でも、今は眠いということは少しも辛いことではないんですね。
眠いだけなんですよ。
眠いから、寝る余裕があれば寝るんですけど、
二度寝でも何度寝でもするし、何時間でも寝るんだけど、
眠い中起きるというのは別段辛くはないんですね。
こういうことって実現できることなんだなっていうのを
知ってから非常に楽なんですよ。
だから、罪悪感というものを感じたり、
ここで行き止まりだという、
つまりそれは客観的事実だというポイントなんですけど、
必ず本当は問いを立てたほうがいいから、
パウンセラーは問い正してくるわけ。
眠いのは辛いですかみたいな質問ですよ。
辛いに決まってんじゃんっていう風に答えている限りは、
頭では分かっている状態は抜け出せないので、
必ずそこで本当に辛いんだろうかって、
なんで辛いんだろうってやっぱり問いですよね。
いずれも問いなんですね。
この問いは何を裏返して、
裏返してるって先に言ってはいけないか、
つまりこれは裏返しなんです。
裏返しというのは、これは私の考えではないけれども、
私の考えじゃないからね。
必ずここに戻って、
ここに最初は行き着くしかないというのが
万能感なんです。
万能感の裏返しに、
僕は罪悪感があるんだろうと思います。
罪悪感というのか発砲塞がりというのか、
なんでも構いませんが、そういったものはですね、
万能感の裏側にあるんだという風に思いますね。
ここに行き着くことで、
頭では分かっている感を抜け出せると思うんですよ。
3カ月チャレンジでお話しした方には、
うつぱんというね、
これも東京ライフ研究会で先日紹介した本で、
これは精神分析の山崎さんにもちょっと響いてたんですけど、
つまりうつぱんの本に書いてあることって
問いが立ってないんですね。
なぜ問いが立たないかというと、
彼にとっては、例えばですけど、大学に落ちる。
もうダメなんですよ。大学に落ちるというのは
彼にとっては罪なので、
大学に落ちたら、やっぱり生きてはいられない。
生きてはいられないんですよ。
これは不思議なんですけど、じゃあ他の人、大学落ちたで
平気で生きてる人はどうするのって話なんですけど、
こういう問いが立たなくなってしまうんですよ。
罪悪感というものにとらわれると。
罪なんで、他の人のこととかはもうどうでもいいんですよ。
ただそれをそうしてしまったら生きていけないという。
本当に受かってよかったんですけれども。
って思っちゃうんですけどね、片目から見ると。
30:01
僕なんかあっさり落ちてますから、1回目。
9個も落ちましたからね。
これが罪だったら大変なことになってるわけですよ。
9回ぐらい罰を受けなきゃならないことになりますから。
こういう話って、例えば親に迷惑をかけるとかもそうなんだけど、
こういう話って、その反対側を問わなければいけないんですね。
うつぱんっていう漫画は、
その辺がすごくよくできているっていうか、
なんか独特のものがあってね。
大学に受かったっていうことによって、
彼は罪人であることを一緒にやめることができるんですね。
この時に感じるものが、
つまり我々の万能感ってやつなんですよ。
万能感を失うということは、
大変恐ろしいことです。
なぜならそれは万能なんだから。
失ってはまずいわけですよね。
つまり万能であるというのは、
善能であるというのと全く同じなんで、
善能であるというのを失うということは、
完全に無能になるってことになるじゃないですか。
こうして僕らは完璧に自由を失うわけですよ。
ということはね、例えばアフィリエイトの話って、
こういう時にいいわけね。
多分多くの人はそんなこと大したことだと思ってないから、
これがさっきから言っていることなんだけど、
アフィリエイトがしちゃいけないと思っている人っていうのは、
実はアフィリエイトが万能だと思ってるんですよ、心のどこかで。
大変不思議なことですよね。
僕なんかアフィリエイトに何の万能性も感じないから、
アフィリエイトなんてやってもやらなくてもどっちでも良くないになるわけ。
つまり何かが罪だとか、
それをやったらおしまいだ、人間としておしまいですって思っている人っていうのは、
必ずそれというものを万能だと
どこかで信じているんですね。
このことは僕は精神分析の歩き方という、
まさに山崎孝明さんがさっきから言っている
虎拳のゲストさんが書いた、
大変良い本だと思うんですよ。
大畑さんの本ぐらい売れてもおかしくないと思うんですけど、
精神分析の歩き方に精神分析を万能視していると
そういうことになるって話を読んだ時に、
このことがよくわかったんですね。
精神分析絡みの話ってのはちょっとわかりにくいかもしれませんけど、
何かと面倒くさいんですよ。
それは精神分析として正しくないとか。
めちゃくちゃポリスがいるわけで。
このポリスがいる世界ってのは、つまり罪があるってことじゃないですか。
罪があるってことは、そこに必ず万能なものが入っているわけです。
こういうところって議論になりやすいというか、
議論そのものの世界なんですよね。
日本で言えば、議論と言えば、
憲法9条ですよね。
これは明らかに罪の世界になっちゃってますよね。
法だからしょうがないのかもしれないんだけども、
やっぱりね、私が子供の頃なんてまだまだそれあって、
今なんかはもうだいぶゆるくなりましたよ。
9条について、9条の口にすること自体が罪であるぐらいの
勢いの人っていましたから、
平和憲法を汚すなみたいな、
33:01
そういうノリがありましたからね。
それはどういうことかというと、
9条を変えようだというのは、罪そのものだったりするし、
直ちにどこか強制収束を入れるぐらいのノリが
本当にあったんですよ。
まだ僕が子供の頃には一部ですけれど。
教育会だったらそのぐらいのことはあったわけですよ。
それはどうしてかというと、
こういう話になると議論になるでしょ。
だからアフィリエイトっていいんですよね。
議論になっちゃうかもだけど、もうすぐ大丈夫だ。
憲法9条なんて本当に議論するためのネタみたいなもんですからね。
でもここは分かりやすいわけですよ。
憲法9条は万能なんですよ。
ある種の人にとっては。
あれさえ持っておけば、戦争絶対にやらないで済むんだっていう意味で
万能なんですね。
だから平和憲法って言うわけですよ。
万能なものを失うことほど、人にとって恐ろしいことはないので、
万能なものを失うっていうのは本当に恐ろしいじゃないですか。
ドラえもんの第6巻ですよね。
第6巻の最後。
あれはドラえもんを信田くんが失うという恐怖感。
読んだ子供はそういうものに囚われると思うんですよ。
僕なんか囚われましたから、信田くんどうなっちゃうんだろうみたいな。
だけど信田くんはもともとドラえもんなしでやってたわけじゃないですか。
つまり僕らは万能なものを手に入れると、
手に入れることはできないんだけど、
手に入れると自分はものすごい弱くなったもんだって勘違いするんですね。
しかもその上万能なものを絶対に失うことはできなくなるって。
で、それを失うというのが大変な恐怖になってしまうわけ。
なので万能なものを失ったり取り上げたり、
それを傷つけたりするものは罪人なわけですよ。
絶対に許せない。
だからドラえもんがいなくなったらっていう問いは
ここでは成り立たないわけですよね。
でも、その前に、
あれはそういう問いを立てた話だったから、
すげえ切実な話になったんで、
7巻から先も続くことになったんだと思うんですけども、
こういうことだと僕は思う。
だから時間に万能感を見たり、
お金に万能感を見たりするっていうのは、
わざわざ不安を作り出すようなもんだんですよ。
というか、不安を作り出す以外の結果は絶対に訪れないわけです。
万能自体は、
ないものを万能だということにしちゃうわけですから。
時間さえあればなんとかなると思っている人、
そういう人は有能なんだけど、
自分の有能性にもまた万能感を抱いているんですけど、
土台無理な話をしているわけですよ。
能力がいくらあったからって、
人は死なずに済むわけじゃないし、
病気にならずに済むわけじゃないし、
事故に遭わずに済むわけでもないじゃないですか。
だけれども、現代の世の中というのは、
時間とお金に対する万能的な、
ある種の信仰みたいなものがあるので、
ここら辺はもう多分に近づいてしまうんですよ。
問いが足らなくなっちゃうんですね。
36:01
お金の無駄をしてなんではいけないんですかっていうのは、
挑戦的態度になってしまうんですよ、聞こえ方によっては。
でもここ問わないと、カウンセリングにならないわけですね。
その人はお金を失うことをものすごい恐れてたりするっていうのが、
病理だった場合、あるいは時間を失うことをものすごい失う。
時間とは命ですって平気で書いてあるんで、
とっても危険な感じがしなくはないわけですね。
危険ではないにしても伸びたくになっちゃうわけですよね、
そういうことを言っていると。
時間というものさえあれば、
あらゆる問題がきれいに片付くんであれば、
ドラえもんのポケットみたいなものとして時間があるんであれば、
その人が時間を失うってことはドラえもんを失うってことになっちゃうんで、
完全に無能で何もできない存在として、
その辺に放り出されるっていう恐怖があるから、
その不安は尽きないわけですよ。
これを何とかするためには、
結局のところ質問するしかないんですよね。
特に大事な質問の一つとして、
過去が出てくるわけです。
過去のことをほじくり返したって、
今の役には立たないじゃないかっていう反論は、
一見非常に当たっているようで、
その人にとって当たってないっていう反論だったりするわけです。
だから反論って面白いんですよ。
その人にとって最も致命的なポイント、
当人がついてくるっていう形をとってケースが多いんですね。
過去のことを何のために質問しているかというと、
その人の万能感はその人のものなんですよ。
そのことをその人は深く考えるって、
つまりドラえもんのポケットっていうのは、
深く考えるって、つまりドラえもんって伸び田くんのためのものじゃないですか。
そしてドラえもんは過去に来ましたよね。
過去のある時点でやってきた。
それ以来伸び田くんは、実は不安に苛まれるようになったはずなんですよ。
生まれつきドラえもんがいたわけじゃないから。
これが過去をほじくり出す大きな意味なんですね。
アフィリエイトを罪だという人は、
どうしてそう思うようになったの?
法律の条文にそうは書かれていないし、
生まれながらにしてアフィリエイトを知ってたわけではないですよね。
私に至っては、生まれながらにしてはアフィリエイトは存在しなかったんで、
必ずこれは肯定的に学んだものであり、
身につけた考え方であり、
しかも客観的事実とは関係ないんですね。
人から人に迷惑をかけるというのも同じで、
迷惑をかけたら犯罪ですとは誰も書いていない。
しかもそのような観念を子供が生まれながら持っているわけでもない。
遺伝子によって伝えられる話をしている。
必ずそれは過去のどこかの段階で、
自分の考えとして身につけ、自分のですよ。
他の人とは関係ない考え方として身につけた瞬間があるはずなんです。
ここに自由になれる大きなポイントがあるから、
必ず人はそれについて問い正すわけです。
あなたにそれを吹き込んだ奴は誰なんだ?
あなたに憲法90をやっていれば絶対に言いそうになるわけです。
あなたにそれを吹き込んだ奴は誰なんだ?
あなたに憲法90をやっていれば絶対に言いそうになるわけです。
あなたに憲法90をやっていれば絶対に戦争せずに済むと教え込んだ人は誰ですか?
あなたに憲法90をやっていれば絶対に戦争せずに済むと教え込んだ人は誰ですか?
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これは問われた人によってはですね、
ものすごい腹立たしい質問だったり、
犯罪まみれみたいな質問に聞こえるはずなんですよ。
そういうふうに聞こえる質問があったらラッキーなわけです。
なぜならはそこに自由になれる鍵があるからっていう話なんですよ。
なぜならはそこに自由になれる鍵があるからっていう話なんですよ。
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