そうか。ね、特に専門家だから、かなさんはそういうこの話題が目の前に現れた時に、はってキャッチできるアンテナがすごく敏感なアンテナがあるんだと思うんですけどね。
そう、私もね、なんか性のことと、例えばかなさんのそのエモーショナルイーティングだったり、トラウマだったりっていうところって関係なさそうに見えてね、やっぱりそのホリスティックなウェルネスっていうのを考えたときに、全部つながってるなって感じることが私もすごく最近多くて。
で、そのなんだろうな、最近スペイン語での活動を結構力を注いでやっている中で、リクエストをいただくんですよね。ありがたいことにね、こういうこのワークショップを私のこの娘とお友達のママと娘さんのためにやってほしいっていうリクエストをいただいて、今オーガナイズしてるんですけどね。
それスペイン語、日本語両方。
スペイン語。
スペイン語いいね。
スペイン語で、今週末日本語もね、お友達がリクエストしてくれてやるんですけど、それはスペイン語で、かなり詳しく11歳から12歳の女の子たちがいるお母さんたちのグループなんですけど、どんなことを心配だと思ってるのかっていうのをすごく細かく書いてくれたので、それに合わせていつもの内容からちょっとここはこういうところを詳しくお話しますっていうのをメッセージしたんですけど、
ところで詐欺はボディイメージについても話をするのかっていうご相談があって、もちろんします。このパート2のところでやりますよみたいな話をしてて、そしたらそのグループの中の女の子がとってもどこからどう見ても痩せているっていうところに入る体型だそうなんですけど、本人は私太ってるから、私太ってるからって周りに常に言っているそうなんですね。
それでみんな周りのお友達も、そのお友達のお母さんたちも何々ちゃんね、すごく痩せてるのにいつも私太ってるからって言うんだよねって子供から親に伝わっていきますよね。
だからその周りのお母さんたちもすごく心配してるらしいんですよ。本当に細い、痩せてるっていうスタイルの子だから。だけどそのAちゃんとしたら、Aちゃんもずっと私はでも太ってるからって言い続けているし、Aちゃんのお母様も特に心配している気配はなくて、周りのお母さんたちがすごいざわざわと心配しているっていう話を聞いたんですけどね。
なんかちょっとかなさんに質問みたいになっちゃうんですけど、これをもし聞いてくださっている方も、もしこういうケースを周りで耳にしたり見かけた時には、どんなふうに話を聞いてあげたりとか、もちろんご本人が話を聞いてほしいって言わないと難しいかもしれないんだけど、
例えば身近なお友達、大人、子供に関わらず明らかに痩せてるのに、私太ってるから太ってるからって言い続けてる人がいた時って、私たちはどうやって対応してあげるのが最もホリスティックなのかなっていうのを考えてたんですよね。
これはね、すごいセンシティブなトピックだと思う。私は難しいな。一番簡単なことは何も言わないことが一番かなと思うので、それよりも何も聞かないかもしれない。
もし何か選択肢があるとして、何か言ってあげる、何か聞いてあげる、黙って見つめてあげるとしたら、私は基本的にこの黙って見つめてあげるっていうのは最終手段だと思うし最強手段でもあると思っているので、この沈黙っていうものは無視する沈黙じゃなくてスペースを与えてあげる。
相手の人が準備できて話してくれるまで聞いてくれるまで待ってあげるっていうスペースを与えるっていう沈黙なんだけども、これが一番このケースをもしかしたら安全かもしれない。安全というのがこの人の状況をもし困っているなら自分の言葉で悪化させないようにするという意味。
例えば、2つ私はケースがあるなと思っていて、私太っているからっていう風で本当に思い込んでいて、Aちゃんがね、私は太っているから、でももう周りから見たら多分虚職症っていう風な体型だと思うので、周りのお母さんたちが心配するっていうぐらいだったらね。
虚職症なのに本人は私太っているからっていう風であったら、それはとっても心配だから何かサポートを受けてほしいなと思うけれども、外野、関係性にもよるけれども外野が出ていくことではまだないと思うのね。
で、それがまず本人がすごい痩せてるのに太ってるからって言ってるってことでしょ。で、あともう一個私が何を言うとしたんだっけ。あとは、でも本当に太ってないんだもんね。体型を知らなくて私が太ってるっていう風だったら別だと思っていて、体重を落とした方が健康的に良いっていう風だったら別だけども、
痩せすぎていて太ってるからっていう風だったらやっぱりなんでそう思うのか、それが心配しているのか、私はすごい太っているからっていう風に体重を自分のことに関して心配しているのか嬉しい。
この私がすごい太っているからって言って相手にそんなの痩せてるよ、痩せすぎだよと言われることが快感になる。これ虚職症のパターンの一つでもあるんだけども、っていうどこのメンタルスペースかっていうのは知りたいなと思うけれど、もう
これを理解するのは、例えばこのAちゃんの周りのお母さんたちみんなができるかって言ったらみんなはできないかもしれない。じゃあ、このAちゃんが私太ってるからって、もしこのママたちの前でも言うことがあったとしてみんなが、いやーそんなことないよ痩せすぎだよって心配している言葉がAちゃんには褒め言葉に変わって届いてしまうから、
今のあり方をもっと奨励するっていうケースになるくらいだったら、難しいなぁここで何かね私は太ってるからって言われたときに、そうなんだねって受け止めてあげる。
でも人によっては受け止めてもらったけれども、痩せすぎだよって待ってた言葉が来ないから、もっと痩せなきゃ、痩せてやろうっていうケースもある。で、この痩せることが、痩せすぎよって言われることが嬉しい、プラス本当に鏡を見たらもうガリガリなんだよ。
でも自分はすごい太ってるように見えるっていう現実と全然違うものが見えるケースも多いから、すっごい難しいここは。
本当にこの声かけて難しいなぁと思う。大体余計な周りは本当に心配して愛情たっぷり言葉をかけているんだけれども、愛情たっぷりの方たちから出た言葉がどこかでカーブしてしまって、受け止めてもっと悪化するっていう風。
だからやっぱりこのメンタルのところがね、受け止め方が今変わってしまっているから、そこをサポートしてもらえる、サポートしてほしいなと思うんだけれども、本当にここは難しいよね。
私もAちゃんに実際まだお会いしたわけではないから、明らかに痩せている体型っていうのがどのレベルでの、痩せているっていう体型なのかっていうのも見ていないから、わからないし、彼女とやっぱり話していない、彼女の言葉を聞いていないから判断するのはすごく難しいなって思ったんですよね。
なんかね、本当にやっぱりこの、もちろんAちゃんがどういう環境の中で成長してきて、今その状態に置かれているのかっていうのは全く私にはわからないことなんですけれどもね。
そのね、かなさんとはどこかでもきっとこの話はしたかもしれないんだけど、その体型についてのステレオタイプっていうのがね、本当に偏ってるよなって思って、ある時もそのね、お母さんと話をしていたら、娘さんがね、すごく食べることが好きで、なんか私自分が食べることが好きだから、食べることが好きって言ってる人に出会うとすごい幸せな気持ちになるんですよね。
だよね、みたいな感じで、このね、ジョイを分かち合える人がいるっていうことが本当に好きなんですよね。
で、一緒にご飯を食べて、美味しくて楽しい時間を過ごしたんだけれども、お母さんがね、なんかその、食べるのはいいんだけど、やっぱりちょっと食べすぎな気がして、体型がね、こうなってきてるからっていうふうにジェスチャーをしたんですよね。
この、太ってきてるっていうジェスチャー。
それに私はすごく傷ついて、ひそかに。
で、もしかしたら、その女の子にも聞こえてたかもしれないんですね。
で、彼女は全然、あの、健康的な体型をしてるし、その、美味しいって、ご飯を食べられるって、すごい私は心と体にね、健康的な習慣っていうか時間。
カナさんがね、話してる、ほんとビタミンラブのLの時間だと思うから、なんか、その病気になったり何かこうね、健康上の支障があるような、その体重オーバーの状態になった時には、やっぱりその、その状態になる前に対策をしなきゃいけないのは、みんなわかってるじゃないですか。
で、そのなんだろうな、成長期のプレティーンだったりティーンの、男の子でも女の子でもですよね。
食べることが楽しくて大好きって言ってる子たちに対して、こう、そういうふうにね、体型のことを大人が、まだこういうのがあるかって思ってて、すごいがっかりしたんですよ、ひそかに。
わかる。
大人のさ、大人というかもう、本人の美の基準でね、誰か他の人まで、その基準にやめて、ジャッジメントする人間の権利って私はないと思うのね。
子供であれ、大人であれ、お友達であれ、誰であれ。
で、例えばこのお母さんであれば、心配してこうなってきたからねっていうふうで、太ってきたのが心配っていうことで、いろいろおっしゃってるのかもしれないし、
全部愛情ベースで出てきた言葉だとしても、彼女なりの基準があって、こうあれば幸せ、こうなったら、例えば太っていなければ幸せ、太っていたら、
例えばすごい昔の古い美の基準とか、痩せてた方がいいっていうふうであれば、痩せていれば、結婚できる、彼が見つかる、いい仕事が見つかる相手から褒められるアートフォーだっていろいろあるものが、まだ自分の中でそれがベースだとしたら、
いろいろ世の中が変わってくる中で、もっと心地よく自分らしく生きていこうっていう世の中にしていくっていうこのムーブメントがある中で、小さくいいとしてもね、ある中で、この古いものを誰かに当てはめようとしなくてもいいと思うし、私はするべきじゃないと、そのべきっていう言葉は嫌いだけれども、
人と人と平等な命がある中で、それを誰かに押し付ける必要もないし、押し付けられる必要もないと思うのね。
すごいこれも難しい質問も何十年もかかって変わっていくものだとは思うんだけれども、でも、生まれ持ってきた権利が食べることであって、食べることを喜ぶことでもあるじゃない、それをどっかで出会うわけよ、多分私たち、こういうまだ美の基準がある世の中だからね、痩せていた方がいいっていうようなところはどこの世界に行ってもってことはないかもしれないけれども、
多くの国に行ってもそういうメッセージはどこかで受け取ると思うから、そんな中でどっかで生きていたら出会うんだから、それは私は遅ければ遅いほど嬉しいなと思うのっていうのも、遅ければ遅いほどいろんな経験をしているから、
自分にとってその考え方が合うかどうか無視するか無視しないかっていう選択をできるところの人生のキロになっているかもしれない、それが10代の若い頃とかもっと小さい頃であったら、そんな選択肢なんてわからないわけだから、例えば親が自分のことに対してこうジェスチャーをしてて、笑っていたとかする、そうすると笑われたことに傷ついて、その笑われた理由がこのジェスチャーだった。
このジェスチャーっていうのは太ったっていうことだ、じゃあ太っちゃいけないんだな、じゃあ食べるのを楽しんじゃいけないんだなって、また固定観念を作っていってしまって、それにずっと縛られて生きていく、どっかでセルフワークをしない限り何十年後とかにね、それってすごく悲しいなと思うから、
先ほど悲しくなった理由はわかるなっていうところだし、これがプロフェッショナルとしてサポートを求められた時の方が対応がしやすいと思うのね、そういうのを見たら、例えば親子カウンセリングをしているのであれば、お母さん今の言葉はね、今のジェスチャーはね、自分がされたら嬉しいことでしたかとか、
あなたの権利の中に入っているものでしょうか、いろんなことを話していけると思うんだけども、なんでそういうことを言ってあげたんでしょうか、どんな意図があったんでしょうか、違う言い方はなかったでしょうかっていうようなことが聞く権利をいただいているけれども、話し合う権利をいただいているけれども、お友達同士とか、
プロフェッショナルでない関係だと、私は何も言わないことが一番聞かれない限り、結局私に何も意見を聞かれていないわけだから、彼女たち彼らの意見を尊重すべき、尊重するべき人間関係があると思うから、よっぽどプロフェッショナルのところで聞かれた方が対応しやすいケースだから難しいなと思う。
ありがとうございます。そっか、そうだよね、まあ幸いね、ああーってなったのを抑えて何も言わなかったんですけど、私が傷ついちゃった勝手に、うーんっていう切ない時間だったりとか、ちょっと話が広がっちゃうかもしれないけど、体系のことだけじゃなくて、この前久しぶりにいつも出かけない私がね、ママともと朝カフェに行ってきたんですけど、
そしたらね、なんかその方の家族は一昨年ぐらいにドゥバイからバルセロナに引っ越してきたんですけど、その天津族みたいな感じでいろんな場所に何年かずつ住んでいるから、子供たち、子供が二人いるんだけれども、子供たちがこう、いまだにこうベスティ、親友と呼べるような友達とのこういうクリックがなくって、
それがすごくかわいそうだっていうふうにお母さんが話してたんですね。でなぜなら、私はこの娘が10歳、10歳の娘ぐらいの年の時からのベスティが今でもとっても大事な友達としているんですよ。
んー、だけどさ、なんか私その時に何もなくてあそっかーってこのね、方この人は、それを娘さんがね、もっとやっぱベスティみたいにギュッてこうコネクトできる友達ができたらいいと思ってるんだなーって思って、家に帰ってきたから考えてたんですけど、私ね、小学校とか中学校の時の友達で、中学の時の友達で唯一一人、
とかかな。いまだにコンタクトをしている大切な、本当に大切な友人っていうのは一人だけ。そう。で、小学校の時のお友達ってちょっともうコンタクトできない感じ、もうみんな離れ離れになっちゃって、何十年も連絡を取ってないっていう感じだから、で逆に大人になってから、完全に大人になってから、
でバルセロナに来てから、私の場合はオンラインですごくね、かなさんもそうだけどいいお友達に出会ってるからね。なんか、友達っていろんなところで出会うチャンスがいつどんな時でもタイミングとしては、あの、あると思っているから、あ、それってそっかあんまり心配しなくてもいいんじゃないかなって私はね、その後一人で家で考えてたんですよね。
だから、なんかこんな風にやっぱり私たち大人の眼鏡を通してね、これが心配だとか、これはいいとか悪いとか、それみんなしますよね、人間だから。だけどやっぱりあ、私の眼鏡があるように別の子供は子供で、特にやっぱり親子になると、なんかちょっと所有物みたいに扱っちゃったりすることってあると思うんですよ。
守ってあげたいし大切だから。だけど本当にその親だからといって、ね、子供に対してこのママの眼鏡を通して見えている世界、ママの眼鏡のそのレンズの色ですよね。
っていう世界をこの眼鏡かけなさいって押し付けるのはやっぱり違うよなーって私もやっぱりしちゃうことがあるので、いろんなシーンで。
それは愛情があったよね。そんなことを考える機会が結構、そう、そんなことを考える機会がちょこちょこちょこちょここの数ヶ月の間にあったんですよね。
そっか、シェアしてくれてありがとう。もうその方に対してはね、まあこのそこを話したかったわけではないと思うけれども、そのクリックするねお友達がいないと小さい時に心配で、私はそれ全然大丈夫だと思って、うちも転勤族というよりも引っ越し族で自分たちで選んでいろいろすごい引っ越しをしてきているんだけれども、その時に最初は大丈夫だろうと思っていったんだけれども、
子供ってやっぱりこう自分が触れる距離で遊べる距離で誰か一人仲間絶対的にI got your backみたいな、何があっても自分のことをサポートしてくれる人が一人いるだけで全然違うんだなっていう経験をしてきていて、いるかいないかで全然違うという経験があったから、
その方が心配していることすごいわかるなぁと思うので、その前までは全然そんなこと思ってなかったから、家族の愛情さえあれば帰ってくる暖かい場所、絶対大丈夫だよっていう場所があれば大丈夫だと思っていたけれども、親、家族では与えられないことがあるなというものは感じたから、その人の心配するよりもすごいわかるなっていうところはちょっと触れておきたいなと思ったんだけれども、
うさぎちゃんが言ってたみたいに、やっぱり自分の眼鏡、それこそ目が悪い人って自分用の眼鏡があるわけじゃない。それをかけて自分はちゃんと見えるけれども、その自分がちゃんと見える眼鏡を例えば子どもにあげても見えなくなっちゃうわけじゃない。
必ずしもね、見えるようにしてあげたいと思って眼鏡をあげても役立つかって言ったら、それ自体自分の考え方であったり生き方であったりが必ずしも役立ってあげるかって言うとそうじゃないっていう。親としては切なかったりもするよね。全部やってあげたい、守ってあげたい。
ライフスキルが子どもたちについていかないわけだから、本当に難しいなと思うし、正解はないなと。
だからね、親として最初の方に戻るけれども、ボディイメージであれ、食べ方であれ、子どもたちのいじめというか子どもたち同士の問題であれ、自分がやってあげる。
例えば子どもが小さくておむつをしていて、おむつをかいてあげるとか、自分がちょっと大変だけどもやってあげることができる、全部をサポートしたいからサポートしてその場を改善してあげることができる環境から、今度はもう感情の部分に入っていったりすると、いくら助けてあげたい。
それから思考、見えるものというものは、いくら助けてあげたい、いいようにしてあげたい、自分の子どもが悲しまないようにしてあげたいと思っても、もう私たちはコントロールできなくなってくるわけじゃない。コントロールすべきじゃないし、一人の大人として飛び立っていくのに、やっぱりライフスキルを上げること、リジエンスを上げることということ、そして愛情がいつもどこに何をあなたがしててもあるよということをわかってもらうことぐらいしかできなくなってくるから、コントロールしたい。
助けてあげたいって思うのに、それが100%達成できなくなってくるのもすごく難しいなとは思うね。なんか親の親子の話になっちゃったけどね。
でも本当なんかこれパートナーシップもそうだし、他人との人間関係っていうところでやっぱりその他人のパーソナルスペースに入り込んで、すごいその人のためになんかしたいっていうね、その相手がやっぱり大事な人であればあるほどそういうふうになってしまうことってあると思うけれども、
なんかただじっと辛抱するっていうことが大事なこともあるなーって思ったりね、して。
だけどなんだろう、自分自身がさ、やっぱりこのホリスティックに自分のまずウェルネスを大切にしてみようかなって、少しずつそういう視点を身につけてみることで、人との関わり方も変わってきたなって私は感じることが多くて、
前はもっとやっぱり人のパーソナルスペースにその身体的にもエモーショナル的にもづけづけ入っていって、自分が良かれと思っていることを押し付けようとしてたの、その人のためって言いながら。
でも本当に助けたいという気持ちはあるんだけど、そんなこと相手はしてほしいと思ってないのに、私はそこにバーって入っていって、みんなが詐欺みたいに考えるわけじゃないんだよって言われてはってした出来事があったんだけれども。
どうですかね、カナさんは昔からそういう風になんていうのかな、人のスペースをちゃんとリスペクトして、その人にあったというか、その人が必要としているサポートだったり、ただ見守るっていうことは昔からカナさんできていましたか?
とんでもない、もう困っていたら私が全部あなたの人生助けに行って、スーパーカナだったら、全部助けたいみたいに一つのこと相談されたら、もうあなたのうちに行って、もう24時間全部何やってるか教えてください、そこ全部殺しますからみたいなね、それぐらいやってあげてしまいたい、おせっかいだよね。
結局パーソナルスペースも分かっていないし、自分のキャッパも分かっていないし、自分の立場も分かっていないしっていうところがあって、ただその人がね、親族であれお友達であれ誰であれすごく大切だからこそ、どの部分でもそのホリスティックで見たら24時間の中で、24時間中どこでも苦しんでほしくないから、私全部やるわよ、解決策私が見つけたいわよって、
いう風で、ずけずけね、これもサポートしたい、これも助けたいっていう風にサポートをしたいなって思っていた時期も、プライベートでも仕事でもね、あったけれども、そんなのは誰にもできないことであって、お互い好みもあって、生き方も違って考え方も違って、プロフェッショナルではそのプロとして全部できるわけじゃないわけだから、
だからそれはすごい色々痛い目をして学んだんだけれども、でもその私もホリスティックという見方を知らなかった時は、ゼロか100かみたいな、サポーター、メンター、コーチとしたら全部助けられなきゃいけないみたいな、例えば野球のコーチなのに、バスケットボールもソフトボールもサッカーも全部助けられなきゃいけない、だってスポーツのコーチだからみたいなね、
そうじゃなくて、ホリスティックっていうのは本当に全体的にまず人を見てあげて、それから引くところは引くというものも理解する、足りないもの、ありすぎるものっていうもののバランスを理解することであったり、人生関わっていくものすべては、
人生、自分という人間がある中で関わっているものすべては、関わってはいるんだけれども、じゃあそこに全部自分が関わればいいかって言われたら、全然そうじゃない、全然そうじゃなくて、環境、境界線というものも私たちホリスティックウェルダンスの中ではすごい大事にしていることだと思うけれども、その境界線の理解であったり、パーソナルスペースの理解であったり、
まずは自分が一番いい状態であるからこそ、そのエネルギーで他の人たちに自分が必要とされているところでサポートできるというところとかも学ぶこと、体験すること、実行することができ、今もちろん学び中だけれどもさ、だからそういうところがなかったら、すっごい迷惑な人。
インテンスだから、私たちすごい濃厚な感じだからね、もうこの方のためにっていう、すごい尽くすタイプだと思うんだけれども、だから専門的な分野で本当にそのテーマを極めて、本当にその方に苦しんでほしくないっていう気持ちは絶対に本物だけれども、やっぱりその中にも相手のね、相手がどうしたいのか、
その境界線はどこにあるのか、本当にそれをきちんとまずは知らないと、すごい自分の視点のエゴから来るサポートしたい、お満たすための行動になっちゃうんだよね。
ということで、なんかちょっとまとまりがないですけど、なんかいろんな話をして、ボディイメージの話をしたりとか、私たちのその目がね、一人一人違う目がね、大人でも子どもでもそれはやっぱり違っていて、子どもはまだもしかしたらレンズが入ってないかもしれないフレームだけで、だんだんね、いろんなレンズが色が変わっていったりとか、視力の検査みたいにこういうふうにいろんな度数を試してなるじゃないですか。
ああいう感じで子どもたちもいろんな経験を通して、多分その目がねの中にレンズが入ったりレンズの色がついたりすると思うから、ホリスティックなウェルネスをやっぱりまずは一人一人が大事にしていくということで、そのお互いを尊重するような関わり合いっていうのもスムーズになるのかななんて思います。
本当だね。さげりちゃんこれ終わる前にさ、これを初めて例えば聞いてくれたのに、さげりちゃんがさ、さげりさんが今ホリスティックなウェルネスって言ってくれたけど、なんじゃそりゃって思った方のためにさ、なんか一言それ説明してあげたらいいのかもと思った。
ほら私たちは日常会話で出てきてしまっていることだけれども、なんか全然ねわからないかもしれないなと思ったからさ、さげりちゃんとどんな時にホリスティックなウェルネス、もしくはどんなことを考えているのみたいなことを伝えてあげたらいいのか。
確かにね、ウェルネスっていうのはその心地よさというか、自分自身のその心地よい状態、心も体もだけれども、その状態を見つけてあげることでね、なんかウェルネスって言うと、なんか瞑想したりヨガしたりみたいなヘルシーな食べ物を食べて、運動をしてよく睡眠時間をとって、もちろんそれも大切なんだけれども、
本当にそのホリスティックっていうのを考えたときに、なんだろうな、そのヘルシーな生活習慣とかアクションだけではなくて、そこにはそのなんだろう、自分の価値観みたいなものが入ってきたりとか、人と人が関わるときに、どこにそのね、さっきお話があったけど、自分の境界線とか、そのここまではokです。
境界線かなっていうのは、その人間関係において自分は何を大事にしたいのかという価値観だったりとか、境界線っていうものをすごく大事にすることだったり、だからなんだろうな、何でもかんでもイエスって、今まではもしかしたら嫌われるのが怖くて言っちゃってたっていう感じだったら、それをね、それですごく実は後々自分にストレスがかかったり、うわーってなったりするっていうのを感じていたら、
それをやめるっていうことをしてみたりとか、なんだろうな、自分が好きだと思っているアクティビティとか食べ物とか生活習慣っていうのも、もしかしたらそれはなんか流行りとか、友達のグループがそれが好きだから合わせてるだけで、本当は自分はそれをあんまり好きじゃないのかもしれないとか、なんだろうな、長くなっちゃったけど、
結局自分にとって心も体も本当にスピリットも心地よくいられるそのバランスを見つけていくことがホリスティックウェルネスなのかなって思います。
なんかね、それを話して、今もらってありがとうね。それでいい加減終わるからさ、私が話すの。話して話して。
うさぎりちゃんというプロフェッショナルなうさぎりちゃんを見たときに、それを話してくれて思ったのが、セクシャルウェルネスの視点で、どこまでがOKで、どこからは嫌かっていうところで、例えばプリティーン、12歳の子、14歳の子、12歳にしようか、12歳の子にこういうフレンド、ガールフレンドができましたと、
女の子と男の子っていう風で、どっちがどういう風に出てくるかわからないけれども、例えば女の子の方が男の子のボーイフレンドに、例えば胸を触っていい、お手で繋いでいいって言われて、いいよって、お手で繋ぎたいから繋いでいいよって女の子が言いましたと。
で、これがもちろん逆のパターンもあるよね、女の子と男の子に、それはどっちでもありっていうケースで、もしくは男の子、男の子、女の子、女の子でもあると思うんだけども、ボーイフレンド、ガールフレンドってなんていうの、恋愛関係っていう意味でね、それで女の子が、じゃあ今度は男の子、ボーイフレンドが、あなたの、アブしていい、抱きしめていいって言われたとして、それも女の子がしてほしいからいいよっていう風にする。
で、じゃあ今度は男の子が、あなたの胸を触っていいって、でも女の子、12歳の女の子は、すごくまだ自分に対して大事なところで誰にも触れてもらいたくない、自分の体だから、本当は誰にも触ってほしくない、今時期にいると。
でも、ボーイフレンドに嫌われたくないから、嫌だけれども、イエス、いいよっていうケースってすごく多いと思うのね。これが逆のケースもちろんありっていうのは大前提としてね。
そういう時に、さぎりちゃんが教えていることで本当に素晴らしいなと思うのは、ホリスティックウェルンですね。境界線っていうところも大事にしているから、境界線をしっかり持って、女の子は嫌われようが嫌われなかろうが、ボーイフレンドに一番私が大切にすべきものは、私自身の感情、体だから触らないでください。今はね。
今はまだっていう風で、それでボーイフレンドもそうだね、教えてくれてありがとう、準備ができたら一緒に楽しもうねっていうのが私の理想だと思うんだけれども、理想ってパターンとしてね。
でも、それを知らずに、男の子が自分の彼、彼女が聞いてきたら、イエスって言わなきゃいけないと思っている境界線の崩れってまだまだ多いと思うし、それが当たり前になっているような気もするからこそ、さぎりちゃんがお伝えしようとしているメッセージとかって、小さい頃から教えていればいるほどすごい私は大事だと思うので、
それが当たり前になるから、自分のことを大切にするのが当たり前で、そうじゃないときはノーと誰に対してもノーと言っていいんだよ、それが私の権利っていう風に覚えていく、そう感じながら育てていけばノーも言いやすいんだけれども、いきなりそういう環境で育っていないのに、
ちょっと心地悪いから、12年間生きてきて初めて、本当はしてほしくないことに対してノーって言おうって、すごい勇気がいることだと思うから、難しくてできなくて、14歳になって16歳になってもそれを続けてしまって、本当はしたくない性行為になってしまってっていうところまで、普通に発展しているのを私は聞いているから、
そういった意味でもね、サギちゃんがやってること大切だなと思って、大切なことをしてるんだよねっていうことを伝えたかったです。
ありがとう。
とりあえず伝えたかったし、ホリスティックウェルネスの大事な、私的だなと思うところもシェアしておきたかったんだけども、足したいことある?
それまさに境界線の大切さっていうのは、セクシャルウェルネスだけじゃなくて、かなさんがホリスティックヘルスコーチとしてサポートをしていくときにも絶対的に大切なポイントだと思うんだよね。
なんかその、例えばそうだね、食べることみたいな、そういうソーシャルなところで話すと、本当は食べたくないのに、ケーキバイキング行こうって言われて断れないとかさ、私は絶対イエスって言っちゃうけど。
私、熱そうな顔してるのができれば。
もしかしたらそうだな、お酒本当は飲みたくないんだけど、すごい素敵なバーができたから行こうよって言われて、そこに行ったらさ、こんな素敵なところにわざわざ友達と来て、お酒飲んでないとつまんないって言われちゃうから飲みたくないけど飲もうって言って飲んで具合悪くなったりとかね、そういうことってすごくあると思うんですよ。
私たちの生活の中に、だから本当にさ、特になんか、どうですかかなさんも小さい頃からのって言えるかなさんでしたか?小さいかなちゃん。
小さいかなちゃん、かなりのって言われても、とにかく意見がストレートすぎる、言いすぎる。
でも、どこかで学んだんだよね。
言っちゃいけない。
そういう感じで生きてきて、私はでも一番大きかったのは顔面殴られた時かな、13歳ぐらいの時かな、なんかうさぎちゃんには話したことがあると思うんだけども、すっごい仲いい子ではないんだけども、ある同じ環境にいる子が抽象されて、それで私はそれはひどいでしょうと思って言い返すということだよね。
言ったり言い返すことを続けて生きてきて、それで言い返した。守りたいから、誰でも私が守りたいから。
正義感の塊だからね。
余計なお世話なんだけども、場所によってはね。
でも、それで言い返した時に、もう本当に身体的にすごい痛かったんだよね。
そりゃそうだよね。
この思いはしたくないと思った時ぐらいから、やっぱり考え出したかな。
こういう痛みを負わないにはどうしたらいいんだろう。
それでやっぱり身体的ダメージもあったから、こういう気持ちにならないようにするには極端な話ね。
言い返さないようにしとけば安全なんだ、NOと言わなければ安全なんだ、みたいな感じで、そういうこうしなければ安全なんだ、
生きやすいんだ、楽に生きていけるんだっていうものを人生で経験していって、立証できてしまうから、その生き方になっていく。
私の場合はそういうのがどんどん重なって、でも重なりきるような便秘みたいにうんち溜まりきっちゃったら、死んじゃうからさ。
これを出してあげる、この感情をどうにかしてあげる。
私は食べ物に走るのが一番簡単だったから、食べ物で気持ちよくなる、感情をなくすようにする、一瞬だけ嬉しくなる。
もしくは一瞬だけ何かをコントロールしている気持ちになる、みたいな感じで食べ物の方に行ったんだけども、ちょっと話がずれちゃったけどもさ。
ずっとNOを言える子だったのが何かをきっかけに、それは危険なことだからっていう防衛反応ができたと思うし、
ほとんどの方がそうしているからこそ私たちがオリスティックウェルスでそこをまた訪問して、
どういうNOが危険なNOって、いいえのNOミスじゃなくて、NOのね。
NOのNOです。
いいえっていうことがあなたにとって危険なことなのかとか、それは本当は危険じゃないんだよとかっていうところをコーチングでしていたり、
さきちゃんもそういうところもいろいろね、ビーナスさんと私と話すと思うんだけども、やっぱり深い部分はあるよね。
一回傷ついて安全じゃなくなったからこそ、
防御反応として身につけたスキルが今は自分を一番心地よい生き方で生きれなくなるようにしてしまっているみたいなね。
難しいものだけれども、そういうところはあるな。
そうだね。だからね、やっぱり大人がNOって言ってるところを見せてあげるのってすごく大切だし、
その、なんだろうな、NOって言うこともすごく大事なんだけれども、
誰かがNOって言ってるときはそれをリスペクトしないといけないよっていうこともね、合わせて伝えていく。
でその、なんだろう、NOって言われてしまったときに過剰な反応するのって、
NOって言われたイコール、今私拒絶されたよねっていう風に受け取ってしまうことがほとんどだと思うんですよ。
だからこう、なんかオフェン、オフェンシブ、その、わ、攻撃されてる、嫌われてる、これってすごく嫌なことだから、
じゃあ逆切れしてこれね、自分のこの感情、悲しい感情をカバーしておこうってなると思うんだけど、
そのね、親子のワークショップの中でもね、あの女の子たちにNOっていうのはすごく大事なんだけれども、
あなたたちがNOって言われても、傷つく必要は、まあね、好きな人に告白してNOって言われちゃったら悲しいかもしれないけど、
その、このシチュエーションではNOなんだけど、別にあなたの存在を否定されてるわけじゃないし、あなたの価値は絶対に変わらないから、
その、NOと言われたことで自分の価値をこう、に、こう影響を与えないでねっていう話をね、するんですよね。
それでもやっぱり傷つくことはあると思います。これから先の人生でNOって言われたら、いえいえいなんてね、言う人いないじゃないですか、NOって言われて。
ね、就職、ね、就職したい会社に、もうすごい行きたい会社に、あの面接に行ったけど落ちちゃった、それもね、NOですごい傷つくと思うんですよ。
あ、私能力がないからこうなんだ、みたいな。でもね、そうじゃない。そうじゃないんです、本当に。
もう本当にそういうのも繰り返しね、大人たちがまず自分たちで実践するっていうのも大切だし、子供たちには小さい時からそれを教える、伝え続けることっていうのも大切だし、
その子供たちのNOっていう気持ちを軽んじないっていうこともすごく大切。ね、もうそのぐらい何言ってんのよ、みたいな感じで、