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2025-03-16 18:13

07|1300年前、国土防衛のために築かれた砦「大野城」の遺構【岩屋城編②】

この番組は、福岡県内だけでも1,000近くあったとされる戦国時代の山城の魅力を、現地探訪を交えて紐解き、熱く語り合う番組です。山城研究は地理学、歴史学、軍事学、地域経済学などいくつもの側面があります。かつて、その地で暮らした人々の息吹をあなたも一緒に感じてみませんかー。

シリーズ2回目は、大野城に残る遺構をめぐります。1300年前に国土防衛のために築かれた砦「大野城」には、4つの城門があります。その一つ「大宰府口城門」を中心にご案内します。

◆出演:堀切凡夫(お城映像クリエーター)、中山紘一郎(しかのすけ/販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/ 音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:中山 紘一郎(しかのすけ/販売部)/ディレクション:坂本信博(報道センター総合デスク)、梁京燮(販売部)

◆収録日:2025年3月2日

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Summary

福岡県の大野城に関するポッドキャストでは、1300年前に築造されたこの古代山城の遺構や特徴を掘り下げています。特に、巨大な城門や石垣の技術、古代山城の名称の変遷についても触れています。1300年前に築かれた大野城は、国土防衛において重要な砦の役割を果たしていました。このエピソードでは、古代山城の構造やその歴史的背景、特に白村江の戦い後の影響に焦点を当てています。

大野城の紹介
西日本新聞Podcast
西日本新聞 戦国山城Podcast
この番組では、福岡県内だけでも戦地核あったとされる戦国時代の山城の魅力を、
現地田んぼを交え、熱く語り合ってまいります。
山城の研究は、地理や歴史だけでなく、軍事学や地域経済学など、いくつもの側面があります。
かつてこの地で暮らした人々の息吹を、あなたも一緒に感じてみませんか?
福岡のニュースアプリ、西日本新聞民の横山智則です。
こんにちは。お城映像クリエイターの堀木津陵です。
こんにちは。西日本新聞社の鹿之助こと中山光一郎です。
今回は、メッセージが来ているので、そこの紹介からしたいなと思っております。
そうそう、岩屋城2話目ですね。まだ岩屋城はできていませんけど。
岩屋城2話目の今回なんですけども、Qさんという方がメッセージをくれております。
西日本新聞がまた新たなポッドキャスト番組を配信開始。
今回、新たに始まった番組のコンセプトは山城。
福岡県内だけでも1000近くあったとされる、これ冒頭僕はいつも読んでるんですけど。
っていうのに、びっくりされてるみたいで、戦国の山城の魅力を語り合う番組とのこと。
近所の、これわかります堀木さん?小牧山城も取り上げられるかな?というコメントなんですけど。
小牧山城って知らないですね。
愛知とかあちらの方。
あっちの方の方が聞いてくれてるんですね。
そうですね。あっちなんてもう千とかどころじゃないですからね。もうめちゃめちゃありますんで。
そうか。
あっちが本場っちゃ本場ですね。
そうですね。
愛知ね。
豊臣秀吉がいたのも愛知県。名古屋市。
違うんですかね。名古屋城は。
そうですね。名古屋城。
本場ですね。本場の方たちですね。
そうですね。
ということでいいですかね。それこそ鹿之助さん前回出場あんまなかったですけど、
昨日何食いました?
昨日はうどんを食べました。
うどんですか。
夜ご飯がうどん?
夜ご飯がうどんです。
昼ご飯がうどんじゃなくて、夜ご飯がうどん。
古代山城の特徴
うどんはお店ですか?
お店ですね。私もともと福岡の人じゃないんで。
熊本県ですよね。
福岡に来てびっくりしたのはうどんが柔らかい。
うどんが柔らかいので腰があんまりないというか、あんまり食べ慣れてなかったんですけど、
昨日行ったお店は博多さぬきうどんって名前の。
あそこ僕昼よく行きますよ。うまいよね。
うまいです。
博多なのかさぬきなのか。
どっちなんだろうね。
それで言うとさぬきうどんってしっかり腰があるんです。
博多うどんってそれこそ言うように腰のないうどん。
どっちの名前もついてるっていうなんやちうどん屋さんですけど、
あれ結構昼間は車食みたいにして会社の人いっぱいおるよ。
渡辺通りあたり?天津。
天津の博多さぬきうどんおいしいですよ。昔から。
本題に入りましょうか。
たまには鹿之助を喋らせろっていう指示があったんで、ちょっと喋らせない。
でも今回は鹿之助3回なんですよ。
先ほどそれこそ1本目の収録終わった後に、
大野城の意向を見てきました。
立派な城門でしたよね。
あれは何だっていうところから入りましょうか。
やっぱり古代山城っていうのは目的があまり定かではないので、
これだっていうのはないんですけど、
やっぱりあそこまで大きな城門ってなると何かのアピールとか、
それとも想像ですけど感じられるのかなって思いましたね。
ちなみにちゃんと言っておきましょうかね。
特別史跡大野城跡太宰府口城門。
太宰府口。
太宰府口城門じゃなくて太宰府口城門っていうのが
駐車場から3分みたいなところにあって、
そこを今見てきたところなんですね。
確かに立派な城門跡だったと思うんですけど、
これはその時代ってことなんですか?
その時代っていうのは白村口が終わって、
天野湾やここに城を築きましたっていう前回の話の
あのところに作られた城門?
大野城自体は665年に築造されているんですけども、
ここから何回かの改築を重ねていると言われているので、
ちょっとあの城門がいつできたかって特定はできない、
ひょっとしたらされているかもしれないですけど、
ただ明確な何か示したいものだったりとか
理由があったんだろうなっていうふうに感じはありますね。
それこそ古代山城の特徴みたいな話になると、
先にこの城門の話をした方がいいのかな?
どのくらいの大きさでみたいな説明した方がいいですかね?
かなり巨大ですよね。
1300年前のものがあんだけ立派に残っているんですよね。
ちょっと高厚しさも感じるっていう。
実際河原とかも発掘で出てきたりしていますので、
おそらくあの規模から、遠目から見ても高さ10メートル近い
ヤグラのようなものがあったような印象がありますよね。
それこそ資料に書いてあるのは、4.5メートルの大きさで
四か所城門があったうちの一つだそうなんですけど、
あの城門を含めて結局囲まれているわけですよね、そのお城が。
ただ、前回言ったように囲んだ中には
大したものがよくない、よくわからないみたいな話でもあると。
土類とか、どこからいきましょうか?
そうですね。そもそもこの時代、
古代山城ってどういった定義があるのかっていう話から、
その名称の変遷とかをちょっと整理しておきたいなと思うんですけども、
最初に今は古代山城っていう名称が使われるんですけども、
もともと学術界では朝鮮式山城と神戸石系山城という名称が使われていたんですけども、
その名称の変遷とかをちょっと整理しておきたいなと思うんですけども、
神戸石系山城という名称が使われていて、
それは2種類あるってこと?それは同じことを2つの呼び方がある?
今は統合されてしまったんですけども、
ここで説明させてもらおうと思うんですけども、朝鮮式山城って何かっていうと、
文献、例えば日本書紀とか、初期日本書紀に書かれて、
登場するお城の跡と、それが大野城とか、それこそそうなんですけども、
これはもう前回でも触れたように、瀬戸内海から九州にかけて分布する、
時代国家プロジェクトだったわけですね。水城とかも含めて。
一方で神戸石というのは、久留米のほうら山、
あそこで見つかった石垣に由来するんですけども、
これは実は文献にも登場しないけど、似たような作りがあると。
似たような、おそらく幅広いんですけども、
数百年間はあるんですけども、似たような形式の特徴を持つ山城があって、
これ一個一個見ていくと、お城なのに貯水施設がなかったりとか、
牢城には不向きな城跡もあったりして、
これって何の目的なんだろうと、長年議論されてきた歴史があるんですよ。
ただ最近になって、おそらく同じ流れだろうということで、
統合して古代山城というふうに、
技術的な謎
そういった言葉が用いられるようになっています。
皇城?
皇後石です。
神様の?
家後の石。
この本って指定字なので、皇后陛下の皇後石とか、
交わるに合わせるで皇後石なのか、
実際どういった、本当はどういう字なのかとか、
何の意味なのかとか分かってないんですね。
おそらく明治大正あたりに議論が始まっていたんですけど、
いわゆる古代山城という、もし仮に防衛施設だとするならば、
また別目的の、いわゆるそういう何か神域的な、
そういういろんな意味合いも含めた。
神様的な。
そういうのもあって、そういう名称になったのかもしれないんです。
最終的には今もう古代山城だろうということで、
一方になっているんですが、
逆に地域によっては皇后石で根付いてしまっているので、
ちょっとその読み方だったり、
ちょっとナイブな部分は今も残っている次第ですからね。
どっちとは言い切れないみたいな話ですね。
話を続けますと。
今回見に行った縄文とさらに石垣もあったんですけど、
石垣もありましたね。
石垣もなかなかフリキーさんも見ていただいてお分かりだったと思うんですけど、
かなり加工された石でしたよね。
そうですね。
何か戦国時代の山城の、
山城というか普通の姫路城とかもそうですけど、
石垣っていろんな大小の石をそれぞれ組み合わせて、
きれいな形で積み上げていっているのに対して、
古代山城の場合は石一個一個きれいに整形をして、
それを積んでいるというか、
本当に場所によっては切り欠き加工といって、
パズルゲームみたいな感じで、
本当にきっちりデコボコ、テトリスみたいな感じで
合わせるところもあるんですよね。
なので、そういうすごい高い技術で組んでいる一方、
それも目的が、
何でそういう風にしているかというのは分からないんですよね。
確かに、いわゆる真四角とは言わないけど、
長方形にちゃんと加工した上で石積みを積んでいるということなんですね。
確かにそうなっていますね。
場所によっては本当にもっときれいな長方形が生まれるんですね。
古い時代なのに大したものですよね。すごいですよね。
すごいですね。とても高い技術で。
これも聞いた話ですよ。
研究家によってはそういう段差の調整加工といいますか、
そういうちょっと段差があって、
それをあえてわざと切ったりとかして加工しているんですけど、
そういうのは宮廷とかでしか見られない作り方らしいんですよ。
だからそれを古代山城で作っているというのも、
かなり謎が多い心の中で、
惑わされるというか、いろんな議論が生まれるところで。
なるほど。
なんでここまで丁寧に作っているんだというか、
技術があるんだというか。
これはだから朝鮮の人たち、
くだらの貴族の人たちが教えてくれたからこんなものができるってことですか。
そうですね。
そうなんですね。こういうことなんですね。
そうですね。
あと、縄文の話に戻ってしまいますけど、
支柱の跡、あれも結構特徴的でしたよね。
そうですね。
普通はどうって言ったらいいですか。
これは四角と、だから長方形と丸をそれぞれ隣同士に穴が掘ってあって。
よく城跡で見る組織とかは丸だったりするんですよ。
単に丸。
きれいな丸だったり。
だからそこにいわゆる柱をストンと入れる基礎ですよね。
なんだけどここは丸と四角が隣同士になっているんですね。
大野城の築城技術
そこにたぶん柱を突っ込んだんでしょうけど。
組ませているところがまたおそらくどういった形で組んであったかっていう部分も含めて
かなり高度な技術をしてあったのかなというふうな印象を感じますね。
なんか文があったんだろうけど、確かに分からんような感じになってますよね。
どうしたとか書いてないです。
何がどうだったとは書いてないですね。
珍しいんですね。
1300年前の話ですよね。
もちろん1300年前なので築城技術もそこまで洗練されてないというか
例えば前回シリーズで見た橘城では食い違い小口とか
曲がらないと小口に入っていけないような構造でしたけども
今回はもうまっすぐな道で門が立っているような感じで
形だったのでそこは建築思想の違いなのか
あるいは目的の違いなのか
それも全然想像するしかないんですけども
そういったところも見れて
なかなか普段扱っている我々が扱うであろう
これから扱っていくであろう山城とは違う
なんだっけ
違うものになりますよね。
戦国時代の山城、今回の話はないからですね
1300年前の古代に近いような時期に
作られたお城の話を今しているので
そういった意味でも同じ石垣、同じ柱の跡でも
作った時代が何年違うってことは
数百年違うわけですから
家庭ですけど戦いの時代は
戦う勢力があまりにも大きかったりするので
1個のパイというか巨大なんですね
古代山城ってスケールがでかすぎるので
先ほどの城門も確かに
山城って言ったら平小口みたいな感じなんですけど
その後ろを見たら
4、50メートルぐらいの大きいボックス状の空間ができていまして
たぶん土塁で上からは全部見れるような感じになっていますので
たぶん規模がかなり
九州の山城は
比較的ミニマムなところが多いですけど
規模感が圧倒的にでかいので
それから私もちょっと
山城だったかどうかって分からないこともあるんですが
いろいろ考えされるところがありますね
規模が違うんですね
さらに鹿之助さんが調べたところを話をしますと
大野城自体は結局
特にこれといった仕様の痕跡は見られなかったんですけど
この後に四王子山っていう風に
名前に残っているとお寺が建てられるんですよね
これは何でかっていうと
白村国の戦いの後に
日本、和国は
白城を挑発しないように
恩便に行くんですけど
それが100年くらい続くんですけど
8世紀ぐらいになって
白城が日本を呪っている
呪って帰投しているっていう噂が広まるんですね
あの時敵だったんですか
100年前にですね
それを受けて大野城の跡地にお寺が建てられて
今、仏教系の地名が残っているんですね
ヴィラモンテンとか
自国天とか
そういった地名が近辺に残っていて
そういった仏教系の地名も残っていることから
九州における仏教の一大拠点だったんじゃないかな
というのが見受けられるところでは
そういう説明をしています
そこではそういうスケールの大きい話が
ここで行われていたと
古代山城の役割
いわゆる古代山城を作るに至った
何百年ぐらいの隣国との関係性が
それだけ緊張状態がずっと続いていたっていう
証が地名として残っているのかもしれない
そういうことなんですね
それこそ2,3年うちに
とっとと城は作って
奴隷を作って
100年後もやっぱり怖いし
呪っているって嘘か本当か分からないけど
噂は流れるし
それで塩寺山っていうのも面白いですね
だから塩寺っていうお寺は
それを守るという意味で建てられたお寺が
700年頃に建てられたお寺っていうのがあるんですよね
これまで見てきた通り
大野寺跡には戦国時代から江戸時代に描ける
山城や金星城郭に見られる構造の石垣とか見ると
ひょっとしたら一部原点と言えるようなところもあったりとか
逆に違う点もあったりとか
そこがファンタジーもありますけど
想像を掻き立てられるようなところでもあって
だから恐らくこの近辺に住んでいる方にとっては
あの裏山が大陸と関わりがあって
日本の一大拠点だったっていうのを
とても想像すると楽しいと思うので
ぜひ田沢府近辺の方は
そういったこと、歴史も調べていただけると
楽しいかなと思います
ありがとうございます
今日はそんなところですか
次はですね
いよいよ今回のシリーズのタイトルになってます
岩屋城の話に移っていければと思っております
時代で言うと
岩屋城の話って
岩屋城の話って
1500年
400年500年
ということは
今僕らが大野城と話している
白村江の戦いだと言っているところから
900年ぐらい後の時代の話を
今度はしていこうということになるわけですね
わかりました
よろしくお願いいたします
ではエンディングの前に2つお知らせがございます
堀切さんが全国各地のお城をドローンで撮影した
YouTube番組
それともう1つ堀切さんと
西日本新聞で一緒に作っている紙面
および西日本新聞ミーのコーナー
城・九州・戦国ドローン
というのもございますので
ぜひご覧ください
そしてもう1つ西日本新聞ミーの会員特典として
天神ビジネスセンタービルの飲食店街8店で
お得なサービスが受けられるようになりました
生ビールやハイボールが1杯無料になったり
ランチが10%割引になったりと
かなりお得な特典です
すべてリンクは概要欄に貼っております
それではエンディングです
ここまで聞いていただきありがとうございました
山城のことをもっと知りたい
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本日はありがとうございました
ありがとうございました
皆さん!穴時ちゃんだよ!
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