はい。ということで、岩屋城編第3回で、ようやく今日からが岩屋城が築城されたということになるんですけども、
今回もですね、メッセージが一つ届いているので、そちらを紹介させてください。
名前がいいですね。飛べる豚になりたいさんからです。
飛べる豚になりたいんでしょうね。飛べないんでしょうね。
すいません。山城ポッドキャスト、いつも聞いてます堀切さんの丁寧な説明で、当時の様子がよみがえってきます。
横山さんのMCも大好きです。鹿之助、かわいい。かわいいそうです。
声優みたいと言われたり、かわいいと言われたり。いいですね。頑張ってください。ということです。
ありがとうございます。
かわいいそうですよ。
最近言われなくなりましたね。
でも言われてたよね。
言われてました。
今からどんどんおっさんになってくるから、かわいいと言われなくなりました。
ありがとうございます。
もう一つ来てるみたいなんです。ちょっと待ってくださいよ。
ゆりっぺさんです。福岡県大野城市民です。戦国山城ポッドキャストに後藤家山次郎が登場で気持ちが上がりました。
大野城という地名の由来、初めて知りました。城門跡にも行ってみたいです。
城門跡すぐ行けます。駐車場を止めて5分も歩かずに行けますので、ぜひ行ってください。
堀切さんの解説、とっても分かりやすいし、鹿之助さんの声も好きです。ありがとうございます。
ありがとうございます。
やっぱり鹿之助さんの声ファン多いですね。もっと喋れってことですね。
そうかもしれない。
ということで、今回はいよいよ岩屋城編なんですけども、まずは岩屋城が築城の歴史からいきましょうか。
岩屋城は先ほどこれまで紹介をしました大野城、古代山城の大野城があります。
塩寺山の南面に面した標高281mの岩屋山山頂に築かれています。
比較的緩やかな斜面の北側に対して、この南側は崖になっていて、その崖に沿うような形で多数の車群、いわゆる平坦地が現在も残されています。
歴史としては1478年に大内政宏が深野茂地下という人物を在場させたというのが文献に初めて岩屋城を登場してきたのが歴史という部分でありまして、
以後は大内氏の、後には大友氏のお城に変わって、ここのあたり三笠郡の拠点城郭として機能して、
やがてこの大友氏の中での高橋氏がこの城を任されて、後々高橋上雲が大友氏から派遣された城徳、城の徳、定徳の徳と書いて、
城徳という、いわゆる城主ですかね、という形でここを治めるようになりました。
さっきそれこそ岩屋城跡まで行ってきましたけども、めちゃくちゃ見晴らし良かったですね。
素晴らしいでしたね。
素晴らしいですよね。
あそこにお城があったと。確かに平らになってたと。広場みたいになってますけど、あそこにお城が建ってたんですね。
で、あのあたりを一帯に、おそらくふもとで生活というか集落というか城下町があったと思うんですけど、
何かあった際にここで建てこもったり、応戦したりするという形で城跡があったと思います。
実際、先ほどそうやって眺望があったように、博多湾から南の平安前、全部情報が飛び込んでくる素晴らしい立地に建っていますので、
そういった分ではあそこは的確だったんでしょうね。
なるほど。見晴らしが良いというのは眺めが良いぞというだけじゃなくて、情報が入ってくるということなんですね。
的確そうだと思います。
確かにそうですね。
そういうことで、左は法満山、すぐそばに九州国立博物館、森に囲まれた太宰府展望宮、
で、美濃蓮山が真正面にずっと並んで、それこそふもとという意味では、ふもとには太宰府成長が見えて、
水木も綺麗にいわゆる奴隷の跡だったというのがわかりますよね、上から見るとですね。
そうですね。
という感じで、本当にちょっと雨もあって霧がかっていましたけど、それでも見晴らし良かったですよね。
はい。
で、このお城の言うと物語の一番のところということになるんでしょうけども、何て言うんですか。
そうですね。岩屋城の合戦で先ほど見てきました。比較的この岩屋城自体は、主覚部あたりはちょっとコンパクトな地域になるんですが、その周りを約、諸説あるんですけど、1万から8万とか、いわゆる大群で島津が取り囲んでいたのに対しまして、高橋将軍が率いる岩屋城の守備隊は約1000人満たないことだったと言われております。
島津軍は主に南側の斜面を中心に装甲撃をかけていくのではありますが、先ほども見えたとおり、南側はかなり急な崖になっていまして、実際の黒和っていうところでは、結構広い、かなり広範囲にわたって岩屋城って広い形になっているんですよね。
なので、実際この激戦はかなり南側の方で中心的に行われているとされております。
今で言うと天満軍の付近から上がってきたりとか、成長跡のあたりから上がってきたりっていうのが、やはり南側斜面ってことになるんで、あっちの方から攻めてきたってことですね。
そうですね。特にこの中でいろんな諸説もあるんですが、その中で一つ明確な記録という部分では、島津軍の中に上井克健という人物がありまして、島津軍の宿郎なんですけど、宿郎だからかなり偉い立場ですね。
この方ってすごいのは、繁盛にわたってずっと日記を残しているんです。
趣旨というかざっくりな言い方ですよ。何月何日、今日は何々城の庭でみんなでけまりをして遊びましたとか、何月何日ちょっと体調を崩して寝込みましたとか。
書いてるんですが、一方では何月何日に誰々が訪ねてきて、四国ではこういうことが起きてるらしいとかっていう話は、結構歴史的なことを残してくれているので、
かなりの裏付けみたいな確かな情報の上井克健日記というのがあるんです。
自分の身の回りの本当に日記でもあるし、いわゆる偉い人だからいろんな人が訪ねてきていろんな話をしてくれると、それを書いてる部分があると。
どうしてもこのいろんな戦国時代の資料といいますか、伝わってきているものでは、若干江戸時代とかで誰かが聞いて、素直にまとめればいいんですけど若干もったりしている場合もあるんですね。
本当にそれが全て正しいとは言えない、主にそういうのが二次資料って言うんですか。
だけど戦国時代の人が例えば大名から大名の書簡で誰々さんに兵何千円起こすよとか書簡とかっていうのはかなり重要だったりするんですけど、それに並ぶぐらい大事な日記の資料でもございまして。
それこそ新聞でもよく一次情報、二次情報的な話になるわけですよね。
手紙は一次情報ですよね、リアルですよね。
でも江戸時代に爺ちゃんから聞いた話みたいなのを書き写したっていうものはそこから言うと鮮度も低いし、ある意味真偽もどうかしたらいつも正しいわけでないってことですよね。
その上居各県は岩屋城の戦いも参加をしておりまして、最終的に岩屋城を高橋城が守るところを総攻撃をかけていくわけなんですけど。
もうその時も仲間も亡くなったり、上居各県自身も顔面に銅石なんかで石でガッて傷を負ってしまって、思わず一時退却をしてしまったほどの壮烈な戦いだったことが日記に記されているそうでございます。
数万対数百の戦いだったわけじゃないですか。
一万から八万とはいえ、さっき太宰府市の看板には五万と書いてましたし、六百から七、八百だったのかなぐらいの戦いなのに壮烈だったんですね。
そうですね。実際は各県自身も広報に早く援軍をよこしてほしいみたいな胸を、そういったものを伝えたりしてあったそうでございます。
諸説あるんですが、もしかしたら島津県を包囲した兵数っていうのは数万とかではなかったか、もしくは数万だったかもしれないですけど、言っても薩摩とかがみんな寄せ集めできているので、思った以上に士気が上がっていなかったりもして、なかなかうまく戦いがいかなかったりとか、という状況があったのかもしれないという。
なるほど。いわゆる高橋上雲側が必死だったからももちろんあるでしょうと。と同時に兵隊さんの数が歴史で変わったってあるほど数が多くなかったんじゃないか。もしくは数はいたけど、あるあるで、なんで俺いかないかんちゃろうかっておじさんたちは結構数の中にいてやる気なかったと。
劣勢な部分もあって。へー、なるほど。
高橋上雲もそういったのもあったし、また大友氏への忠義というのもあって、守っていたという説もあるんですけど、そういうのもあり、必死で守っていた。それに対して総攻撃を早めて戦いを終わらせたという行き方になります。
秀吉はこっちにいこう、いわゆる課税に来てたんですね。
はい、もうすぐそこまで来ているみたいな形で。
それは本当に来てたんですか。それとも。
そうですね、本当に来てて、実際この岩屋城の戦いが終わった後で橘山城の戦いになるんですけど、そこでも宗重が様々な策で間を持たせた間に本当にやってきて。
なので始末軍は完全に北部のエリアから撤退をせざるを得なくなる状況になります。やっぱりそういった意味では岩屋城の防衛戦はとても重要な、実は時間稼ぎと言ったら言葉で片付けたらいけないかもしれないんですけど、大変重要な意味があったのかもしれない。
どのくらいの日数、期間というのはわかっているんですか。守っていたというより戦っていたというのは。