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2025-03-23 21:31

08|大友VS島津 岩屋城は激戦の舞台に【岩屋城編③】

この番組は、福岡県内だけでも1,000近くあったとされる戦国時代の山城の魅力を、現地探訪を交えて紐解き、熱く語り合う番組です。山城研究は地理学、歴史学、軍事学、地域経済学などいくつもの側面があります。かつて、その地で暮らした人々の息吹をあなたも一緒に感じてみませんかー。

島津家の九州統一が目前に迫る中、高橋紹運率いる大友勢は岩屋城に籠り、島津家と激戦を繰り広げます。今回は岩屋城の戦いの実態について迫ります。

◆出演:堀切凡夫(お城映像クリエーター)、中山紘一郎(しかのすけ/販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/ 音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:中山 紘一郎(しかのすけ/販売部)/ディレクション:坂本信博(報道センター総合デスク)、梁京燮(販売部)

◆収録日:2025年3月2日

◆「空から攻める」堀切凡夫Neo2(YouTube)
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Summary

このエピソードでは、岩屋城の築城の歴史や法札戦争について詳しく掘り下げています。島津軍との激しい闘いが繰り広げられた岩屋城の重要性や、高橋上雲の守備の苦労が紹介され、戦国時代のダイナミクスが歴史的な視点から語られています。また、岩屋城での戦いを通じて、島津軍と伊予軍の激しい攻防や城の重要性が探求されており、岩屋城に関連する歴史的背景や城の遺構についても触れています。

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西日本新聞Podcast
西日本新聞 戦国山城Podcast
この番組では、福岡県内だけでも戦地核あったとされる戦国時代の山城の魅力を、
現地探訪を交えて熱く語り合ってまいります。
山城の研究は、地理や歴史だけでなく、軍事学や地域経済学など、いくつもの側面があります。
かつてその地で暮らした人々の息吹を、あなたも一緒に感じてみませんか。
こんにちは。福岡のニュースアプリ、西日本新聞民の横山智則です。
こんにちは。お城映像クリエイターの堀切恒夫です。
こんにちは。西日本新聞社の鹿之助こと中山光一郎です。
岩屋城の築城と歴史
はい。ということで、岩屋城編第3回で、ようやく今日からが岩屋城が築城されたということになるんですけども、
今回もですね、メッセージが一つ届いているので、そちらを紹介させてください。
名前がいいですね。飛べる豚になりたいさんからです。
飛べる豚になりたいんでしょうね。飛べないんでしょうね。
すいません。山城ポッドキャスト、いつも聞いてます堀切さんの丁寧な説明で、当時の様子がよみがえってきます。
横山さんのMCも大好きです。鹿之助、かわいい。かわいいそうです。
声優みたいと言われたり、かわいいと言われたり。いいですね。頑張ってください。ということです。
ありがとうございます。
かわいいそうですよ。
最近言われなくなりましたね。
でも言われてたよね。
言われてました。
今からどんどんおっさんになってくるから、かわいいと言われなくなりました。
ありがとうございます。
もう一つ来てるみたいなんです。ちょっと待ってくださいよ。
ゆりっぺさんです。福岡県大野城市民です。戦国山城ポッドキャストに後藤家山次郎が登場で気持ちが上がりました。
大野城という地名の由来、初めて知りました。城門跡にも行ってみたいです。
城門跡すぐ行けます。駐車場を止めて5分も歩かずに行けますので、ぜひ行ってください。
堀切さんの解説、とっても分かりやすいし、鹿之助さんの声も好きです。ありがとうございます。
ありがとうございます。
やっぱり鹿之助さんの声ファン多いですね。もっと喋れってことですね。
そうかもしれない。
ということで、今回はいよいよ岩屋城編なんですけども、まずは岩屋城が築城の歴史からいきましょうか。
岩屋城は先ほどこれまで紹介をしました大野城、古代山城の大野城があります。
塩寺山の南面に面した標高281mの岩屋山山頂に築かれています。
比較的緩やかな斜面の北側に対して、この南側は崖になっていて、その崖に沿うような形で多数の車群、いわゆる平坦地が現在も残されています。
歴史としては1478年に大内政宏が深野茂地下という人物を在場させたというのが文献に初めて岩屋城を登場してきたのが歴史という部分でありまして、
以後は大内氏の、後には大友氏のお城に変わって、ここのあたり三笠郡の拠点城郭として機能して、
やがてこの大友氏の中での高橋氏がこの城を任されて、後々高橋上雲が大友氏から派遣された城徳、城の徳、定徳の徳と書いて、
城徳という、いわゆる城主ですかね、という形でここを治めるようになりました。
さっきそれこそ岩屋城跡まで行ってきましたけども、めちゃくちゃ見晴らし良かったですね。
素晴らしいでしたね。
素晴らしいですよね。
あそこにお城があったと。確かに平らになってたと。広場みたいになってますけど、あそこにお城が建ってたんですね。
で、あのあたりを一帯に、おそらくふもとで生活というか集落というか城下町があったと思うんですけど、
何かあった際にここで建てこもったり、応戦したりするという形で城跡があったと思います。
実際、先ほどそうやって眺望があったように、博多湾から南の平安前、全部情報が飛び込んでくる素晴らしい立地に建っていますので、
そういった分ではあそこは的確だったんでしょうね。
なるほど。見晴らしが良いというのは眺めが良いぞというだけじゃなくて、情報が入ってくるということなんですね。
的確そうだと思います。
確かにそうですね。
そういうことで、左は法満山、すぐそばに九州国立博物館、森に囲まれた太宰府展望宮、
で、美濃蓮山が真正面にずっと並んで、それこそふもとという意味では、ふもとには太宰府成長が見えて、
水木も綺麗にいわゆる奴隷の跡だったというのがわかりますよね、上から見るとですね。
そうですね。
という感じで、本当にちょっと雨もあって霧がかっていましたけど、それでも見晴らし良かったですよね。
はい。
で、このお城の言うと物語の一番のところということになるんでしょうけども、何て言うんですか。
法札戦争の概要
法札戦争。
法札戦争。漢字で言うと文語の文、大分の方の文語の文、
で、薩摩の薩、で、法札戦争、大智vs島津の戦いがこの城を話す上での一番のお話ということになるんでしょうけども。
そうですね。一応大智の背景だけを簡単に言いますと、特に戦国時代の前半に九州北部っていうのは本当に大智がずっと支配が広がっていたわけなんですけど、
やがてこの大智総林であったりとか、この後目の後継者の争いとかがいろいろ起きたりとかしまして、
田原氏とかっているんですけど、そういう内紛だったり、あと島津市と大規模な戦いになった現在の宮崎の耳川の戦いであったりとか、そこで大智負けてしまうんですよね。
あったりとか、あと被護の九二州、いわゆる小さいエリアの領主たち、九二州って言うんですけど、その九二州がそれまでは大智に属していたんですけど、
そこからもう大智の自分たちは属するのはやめようって言って、離藩をしまして、それが島津に取り込まれたりとかした形で、だんだんだんだんこの大智が弱くなっていく。
戦国時代の前半戦はイケイケだったのに、徐々に徐々に離藩されたり、戦いに負けたりっていうのが続いてたってことなんですね。
その流れというのを取り込んで、島津氏が徐々に徐々に被護も抑え、また竹前、武前に進行を始めていくんですね。屋上をしていくというんです。
岩屋城の直前には佐賀県鳥栖市にある葛能城っていう、竹志市という人物が治ったところがあるんですけど、そこも島津氏が攻略をしまして、
そこからいよいよこちらの、いわゆるこのエリアまで、竹前のエリアまで入ってきて、岩屋城の攻略に入るという流れになってきました。
なるほど。だから前半戦調子が良かった大智家、なんだが戦国時代の後半戦になってくると徐々にいわゆる劣勢になっていく。
一方で島津の方は、いわゆる薩摩、鹿児島から比古ですから熊本あたりまで北上をしてきて、いよいよ直前、いわゆる鳥栖のあたりまでやってきているというのが、時代で言うと1580年とかそういうことになるんですよね。
いわゆる本当に後半戦になってくるということですね。
そうですね。
で、とっとことっとこ登ってきて、いよいよここに来るんですかね。
岩屋城の激戦について
そうですね。岩屋城の合戦で先ほど見てきました。比較的この岩屋城自体は、主覚部あたりはちょっとコンパクトな地域になるんですが、その周りを約、諸説あるんですけど、1万から8万とか、いわゆる大群で島津が取り囲んでいたのに対しまして、高橋将軍が率いる岩屋城の守備隊は約1000人満たないことだったと言われております。
島津軍は主に南側の斜面を中心に装甲撃をかけていくのではありますが、先ほども見えたとおり、南側はかなり急な崖になっていまして、実際の黒和っていうところでは、結構広い、かなり広範囲にわたって岩屋城って広い形になっているんですよね。
なので、実際この激戦はかなり南側の方で中心的に行われているとされております。
今で言うと天満軍の付近から上がってきたりとか、成長跡のあたりから上がってきたりっていうのが、やはり南側斜面ってことになるんで、あっちの方から攻めてきたってことですね。
そうですね。特にこの中でいろんな諸説もあるんですが、その中で一つ明確な記録という部分では、島津軍の中に上井克健という人物がありまして、島津軍の宿郎なんですけど、宿郎だからかなり偉い立場ですね。
この方ってすごいのは、繁盛にわたってずっと日記を残しているんです。
趣旨というかざっくりな言い方ですよ。何月何日、今日は何々城の庭でみんなでけまりをして遊びましたとか、何月何日ちょっと体調を崩して寝込みましたとか。
書いてるんですが、一方では何月何日に誰々が訪ねてきて、四国ではこういうことが起きてるらしいとかっていう話は、結構歴史的なことを残してくれているので、
かなりの裏付けみたいな確かな情報の上井克健日記というのがあるんです。
自分の身の回りの本当に日記でもあるし、いわゆる偉い人だからいろんな人が訪ねてきていろんな話をしてくれると、それを書いてる部分があると。
どうしてもこのいろんな戦国時代の資料といいますか、伝わってきているものでは、若干江戸時代とかで誰かが聞いて、素直にまとめればいいんですけど若干もったりしている場合もあるんですね。
本当にそれが全て正しいとは言えない、主にそういうのが二次資料って言うんですか。
だけど戦国時代の人が例えば大名から大名の書簡で誰々さんに兵何千円起こすよとか書簡とかっていうのはかなり重要だったりするんですけど、それに並ぶぐらい大事な日記の資料でもございまして。
それこそ新聞でもよく一次情報、二次情報的な話になるわけですよね。
手紙は一次情報ですよね、リアルですよね。
でも江戸時代に爺ちゃんから聞いた話みたいなのを書き写したっていうものはそこから言うと鮮度も低いし、ある意味真偽もどうかしたらいつも正しいわけでないってことですよね。
その上居各県は岩屋城の戦いも参加をしておりまして、最終的に岩屋城を高橋城が守るところを総攻撃をかけていくわけなんですけど。
もうその時も仲間も亡くなったり、上居各県自身も顔面に銅石なんかで石でガッて傷を負ってしまって、思わず一時退却をしてしまったほどの壮烈な戦いだったことが日記に記されているそうでございます。
数万対数百の戦いだったわけじゃないですか。
一万から八万とはいえ、さっき太宰府市の看板には五万と書いてましたし、六百から七、八百だったのかなぐらいの戦いなのに壮烈だったんですね。
そうですね。実際は各県自身も広報に早く援軍をよこしてほしいみたいな胸を、そういったものを伝えたりしてあったそうでございます。
諸説あるんですが、もしかしたら島津県を包囲した兵数っていうのは数万とかではなかったか、もしくは数万だったかもしれないですけど、言っても薩摩とかがみんな寄せ集めできているので、思った以上に士気が上がっていなかったりもして、なかなかうまく戦いがいかなかったりとか、という状況があったのかもしれないという。
なるほど。いわゆる高橋上雲側が必死だったからももちろんあるでしょうと。と同時に兵隊さんの数が歴史で変わったってあるほど数が多くなかったんじゃないか。もしくは数はいたけど、あるあるで、なんで俺いかないかんちゃろうかっておじさんたちは結構数の中にいてやる気なかったと。
劣勢な部分もあって。へー、なるほど。
高橋上雲もそういったのもあったし、また大友氏への忠義というのもあって、守っていたという説もあるんですけど、そういうのもあり、必死で守っていた。それに対して総攻撃を早めて戦いを終わらせたという行き方になります。
秀吉はこっちにいこう、いわゆる課税に来てたんですね。
はい、もうすぐそこまで来ているみたいな形で。
それは本当に来てたんですか。それとも。
そうですね、本当に来てて、実際この岩屋城の戦いが終わった後で橘山城の戦いになるんですけど、そこでも宗重が様々な策で間を持たせた間に本当にやってきて。
なので始末軍は完全に北部のエリアから撤退をせざるを得なくなる状況になります。やっぱりそういった意味では岩屋城の防衛戦はとても重要な、実は時間稼ぎと言ったら言葉で片付けたらいけないかもしれないんですけど、大変重要な意味があったのかもしれない。
どのくらいの日数、期間というのはわかっているんですか。守っていたというより戦っていたというのは。
岩屋城の激戦
十何日とも言われてはいるんですけど、普通老城戦というのは一見鳥取城とか三木城とかすごい長期戦な印象を持つんですけど、全国大半の城っていうのはほぼ1日とか半日で決着がついてしまう。老城戦という自体があるようではあまりなかったりする。
十数日とかだけでもかなり異例な部分。それだけ意味を持って、若干捨て駒な感じはあるのかもしれないですね。そういうものがあったのかもしれないです。
普通だったら本当に特に兵の数が違えばあっという間にやっつけられちゃうから1日であったり、戦わずしてもあるってことですか。
そうですね。戦わずして敵がここまでバーって陣を押したら自分たちの城にすぐ火をつけて、自分たちは兵も失わずに後退したりとか。本当に時間稼ぎで使うというのも全国でよくある形で。
まあそうですはなって。下には何万もおって、うちらは数えても何百人とかせいぜい千人くらいで、これはいかんって言ったら火をつけるというのは邪魔をするってことですね。
邪魔をして自分たちはここで言えば立場の城に逃げてもよかったんですね。でもある種そうはせずに十数日、二週間ぐらい持ちこたえたり。頑張ったんですね。
そういうことか。それで最終的にはということになるんですけども、さっき見てきましたけどジョーンさんのお墓もね、今まだ残っているんですよね。
ジョーンさんのお墓があるところも岩屋城の車の一つでございまして、あの下をどんどん下っていくとずっと階段状に削平地がずっと残っていますので、どれだけ岩屋城が広大だったかというのも伝わるかと思います。
で、その玉砕したお城の敷地内にお墓を建てられて子孫の方がね、まだお墓のお世話をされているというか。
大変綺麗な状態でありますね。本当に高橋ジョーンを慕う方は現在も数多くおられまして。
ファンもいるんでしょうね。
そうですね。もう皆さん行かれているという話をよく聞きますので。
鹿野さんここまでの話いかがですか。
そうですね。1点ちょっと遡っちゃうんですけど、気になったのは島津軍の構成というか、もちろん島津家家臣団もいると思うんですけど、被護国衆とかも多く含まれていたということですか。
そうですね。途中からどんどんどんどんそういう休合をしていったという部分では何万とかっていう部分もある程度納得はするかなというところではあるんですけど。
一方ではですね、そんなにこの薩摩で言ったらこの3州というか3つの大きいエリアを頑張って鹿児島、今現在の鹿児島というか統一をして、そこからさらに北上していくというのはもう未知の場所に行くので、本当に四季だったりどうだったんだろうという部分もありますよね。
疲れてますよね。
そうですね。なかなか。
疲れてるもあるんですね。
本当にここは岩屋城というところで戦いがあってますけど、同時期では薩摩のイエヒサとかですかね、ここを攻めてるのはタダトモだったか別の島津家の人物なんですけど、いわゆる別胴体がずっとこの大分の方も攻めてるわけなんですね。
城の遺構について
ここだけじゃないんですね。
そうですね。もうおともし全体を攻略するためにいろんな方面から北上をしているので、そういった部分でも一見すごい強大そうなイメージもありますし、やっぱりなかなか運営が大変だったんじゃないかなという印象は感じます。
そういうことになっていくんですね。それこそシルの敷地っていう言葉は?
そうですね。
変わるんだろうけど。
そうですね。岩屋城南西陸の大和坂本っていう子には引っ張るのに引くに陣って書いて敷地っていう地名が残されていて、島津軍が岩屋城の守備隊があまりにも抵抗がすごくて被害も大きかったのでここまで引いたっていう由来から作られているというところでございます。
昔ここに訪ねたことがあったんですけど、結構だいぶ離れてるんですよ場所が。
敷地っていう場所が。
場所がですね。
だからもう本当ここまで引くくらいかなり大変だったなという岩屋城を攻めるにあたってというのが伝わってくるところでございます。
ありがとうございました。さっきここを守ってたのが?
島津軍が岩屋城を攻めるにあたって、岩屋城を攻撃していた島津軍の部隊は島津忠永が中心となっていて、大分川の方とかは主に家久とかが中心になって攻めていたという話はあります。
ありがとうございました。今回はぼちぼちでいいですかね。エンディングしましょうか。
次回はですね。それこそ鹿之助さんにバトンタッチしましてですね。今回は岩屋城の遺構についての話を聞きたいなというふうに思っております。
どんな話になりますかね。予告編だけでも。
そうですね。岩屋城実はそんなに大きい。歩いて来たとおりそんな大きいお城ではないですが、実は後世で結構脚色された部分があったりとかして、
そういったところも追いながら、周辺の遺跡とかも遺構とかを見ながら、岩屋城の遺構について話していきたいなというふうに思っております。
ありがとうございます。エンディングの前に2つお知らせです。
堀切さんが戦国各地のお城をドローンで撮影したYouTubeの番組、空から攻める。それと堀切さんと西日本新聞で作る城九州戦国ドローンという。
これもお城の記事であり映像ですよね。もあります。ぜひご覧ください。
そしてもう一つ、西日本新聞ミーの会員特典として、先陣ビジネスセンタービルの飲食店街8店でお得なサービスが受けられるようになりました。
生ビールやハイボールが1杯無料になったり、ランチが10%引きになったりとかなりお得な特典です。
すべてリンクは概要欄に貼っておきます。
それではエンディングです。ここまで聞いていただきありがとうございました。
山城のことをもっと知りたい。番組のことを応援したいと思っていただけましたら、ぜひ西日本新聞もしくはスマホアプリの西日本新聞ミーのご購読をお願いいたします。
本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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