西日本新聞Podcast
西日本新聞 戦国山城Podcast
この番組では、福岡県内だけでも戦近くあったとされる
戦国時代の山城の魅力を、現地を歩きながらお話ししてまいります。
山城の研究は、地理や歴史だけでなく、軍事や経済学など、いくつもの側面があります。
かつてその地で暮らした人々の息吹を、一緒に感じてみませんか。
こんにちは。福岡のニュースアプリ、西日本新聞MEの横山智則です。
今回のシリーズなんですが、残念ながらいつものメンバー、
お城映像クリエイターの堀切さん、そして西日本新聞の鹿之助君、お二人ともお休みでございます。
その代わり、うちの西日本新聞からお二人、普段は一緒に山登りはしているけど、
喋っていない坂本さんと梁さん、来てもらいました。
まずお二人、自己紹介をお願いします。
西日本新聞報道センターの坂本信弘です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。西日本新聞社の梁と申します。
我々プロデューサーですね。どっちかというとですね。
今回は一緒に喋ってもらうと。
ピッチヒーターということで。よろしくお願いいたします。
それとですね、心強いゲストをお招き。
二人では堀切さんと鹿之助の穴埋められないということで、
京都鹿清田進さんに来ていただいております。どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
清田さん、ご紹介をすみません。
ご紹介ですか。福岡市内でですね、歴史講座といいますか、歴史街歩きなどを企画しております。
清田と申します。ボジボジやってるんですが、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
それで今回は山城ではなくて、町の真ん中のお城をご紹介したいと思っております。
町の真ん中に城があるんですよね。
僕らの地元、福岡県福岡市の福岡城が今回のテーマになります。
理由は二つありまして、山城ではないんですけども、西日本新聞の番組としては最初から一番近いお城ですし、早い段階で一回取り上げておきます。
これがまず一つ目の理由。
二つ目の理由は、最近福岡城周りがちょっとザワザワしてます。
西日本新聞をめくると、この半年だけでも30本以上の記事が。
よく見る。
あれができた。この人はこんなことを言うよ。いろいろとあってまして、そういったこともありますので、
今日も報道センターの坂本さんは取材なんです。清田さんを取材するという。
ということで、それに同行しながら収録をしようということでございます。よろしくお願いします。
中ほど私はちょっと気に入らないんですけど、
最近で私には新築なんですけど、新築天守が鉄パイプで作られておりますけども見えております。
あそこに天守台があって天守家具があったわけでありますが、
まず全体を説明しますとですね、
これは文化分析のですね、奥村玉蘭という商人なんですけどね、
暇だったもんだから隠居して築前中をですね歩き回ってスケッチした、
築前名所図鋭というのがありまして、そのうちの福岡城の円形を描いた図です。
これですね、先ほど説明しましたように右が大急山、現在の動物園等がある給料から降りてきて、
中ほどに3層のヤグラが描かれてます。
これは現在あそこに新築福岡園主学の横にあったヤグラなんですね。
天守の南を守るヤグラ、ググヤグラです。
左に降りてきますと小さなヤグラがですね、給料の先端、堀にありますね。
これが今再建されました潮見ヤグラです。
これをですね、文化分析の奥村玉蘭が描いてますから、
江戸時代福岡城がどういう状況だったかというのがしっかりと全体像で分かる図になってます。
これはどこから見たかと言いますとですね、右側がありますよね。
ここにはですね、実は黒田藩の茶屋がありました。
茶室ですね、茶室があった。
これはまあ慶長6年とか7年とか長政寒平の時代にですね、ここに茶室を作りました。
この茶室っていうのは現在で言いますと南東人小学校あたりです。
これより西側にですね、向こう側に2,300メートル、大堀は広かったからですね。
そこにですね、鳥海城という小さな平城があったんですね。
そこにですね、現在の鳥海八幡宮があったんですよ。
鳥海八幡宮が始まりまして、もともとは鳥海城だったんですけど、そこに鳥海八幡宮があって、
それを防衛の観点からですね、鳥海八幡宮は現在あります唐津街道のところに移させたんですよ、長政が。
唐津街道あたりで何かあればそこに兵を鳥海八幡宮に集中させるっていうのは意味があったと思います。
移したところにですね、事実上石垣峠あったと言われてますから防衛施設なんですけども、そこに茶屋も作っておったわけでございまして、
この茶屋でですね、黒田長政あるいは親父の官兵衛がですね、神谷総担とお茶を飲んだということも神谷総担日記には書かれてまして、
まさにですね、その時代神谷総担日記に書かれてます神谷総担と黒田長政と父の官兵衛がお茶を飲んだ時と同じ景色をですね、奥村玉良はここに再現してくれてるんですね。
神谷総担ってことは西暦1601年ですか?
そうですね。この図自体は文化分析ですから幕末に近いことですけどね。この図自体はですね、ただその景色としてはですね、その頃と一緒ってことですよね。
向こう側の現在の南通り小学校辺りから見た、江戸時代の福岡城の図ですね。福岡城の天守閣、私の言うと新築なんですけどもね。
ところが実はこの武宮倉はですね、大きさとしては規模としては伊予松山城の天守閣クラスの大きさがあるんです。
しかも30ですからね。
これは一番こっち側の隅谷倉と言いまして、一番西側のですね、これ今から登っていけばわかるんですけど、現場まで行けば。
一番西側の谷倉だけポンと書いてるんですけど、ずっと東に向かってですね、70m平谷倉というのがありまして、その向こうにも同じ規模の、言ってみれば東隅谷倉ですね。
30の谷倉が建っています。大変大規模の谷倉でですね、先ほど申し上げましたように、伊予松山の天守閣、松山城の天守閣の規模があります。
例えば青森の弘前城というのは大変小さなお城ですけども、当然弘前城の天守閣の倍の大きさがあります。
天守閣はですね、私は作るの反対とじゃなくて、現状でですね、資料がない状況の中で、
まあ潮宮倉が再建されたのは写真は残っているというのが何よりも、それと実際その取り壊された時期が近いからですね、いろんな資料が残っているから最近は文化庁が許したんですけども、
まあ天守閣の場合はですね、図面も残ってない、それから写真画像もない、幕末まであれば写真が残っている可能性があったんですけども、
今回博物館のですね館長である中野人志先生の論文では、関栄15年までにはなくなったんだと、それまであったということを言っていますので。
関栄15年ってことは1638年?
1838年とそれぐらいですね。
だからですね、私に言わせると新築になるんですよ。新たに図面を作って、ところがそれは文化庁が許すわけがないんですね。
だから建設が反対というか文化庁が許さないですよということを言ってるんですけども、
それこそ文化行政はどうでもいいって言うんだろう、そしたら幻の信長の安土城をあそこに建てればいいじゃないかという話になるんですよね。
ところがですね、ブグヤグラは実は写真が残ってるんですね。
終わった際に写真もですね、ブグヤグラは後ほど話しますけど移転するんですね。
現代になって明治時代になって移設するんです。今では浜の町の方に移設するんですけども、その移設前の写真も残っています。
移設した、浜の町というのは要するに黒田様の別邸なんですけど、黒田様の別邸に移設して建てます。その写真も残っています。
さらにおはつらい向きにですね、移設後なのか、移設前なのか、骨組みの技も残っているんですよ。
残っています。発掘調査も終わっています。10年ぐらい前だったと思いますけど、
ということは再建をするにあたってですね、文化庁への資料としてはもう十分揃ってるんですよ。
私に言わせると、塩宮倉の方が、その間実際立ってましたからね、各省の資料が多いということだったんでしょうけど、
だいたいですね、塩宮倉の再建にあたってですね、学園さんに聞くと、文化庁とのやり取りは6年かかったって言うんですよね。
今からもしもブギアグラをですね、再建するんだということになっても6年かかるんで、文化庁から許可が降りることが考えられない、
展示画新築よりもですね、さっさととにかくブギアグラ、伊予松山の松山県の展示画クラスのブギアグラをですね、
検査すれば今ここから見えている鉄骨のあれの横にですね、横に、あの高さまではないですけども、しっかりとブギアグラが見えるという景色になります。
その上塩宮倉がですね、再建されてますから、福岡市が頑張ってですね、あの建物もGHQの本部だった建物ですから、レンガ色の建物があるんですよね。
今あれですよ、ゆうちょ保健の建物、あれも歴史的な建物なんですけども、GHQの九州の本部があったそうですから、
あれがなくなればですね、その辺りからですね、この景色が再現されるということです。
塩宮倉も見えて、それでブギアグラも見えるという。
それで皆さん案内するとき、ここからですね、この図を説明しながら案内するということなんですけども。