また前回触れられたとおり、筑前六波城とか黒田が入った際に作られる。
その時に堀多平もここの城主として機能します。
鷹取以上、先ほど登ってきて、登ってくる途中もさまざますごい意向があったんですけど、
大きく見どころがあるとしたら3つありまして、
1つはそれぞれの各所に大きい車がお根沿いに残っているということと、
地形図にも現れるほどの巨大な縦彫りが何本も多くあるということですね。
あとはこの四角部の、まるで塔地下のような四角部の土台の意向という部分が
大きく見どころがあるかと思っております。
登ってくる途中に福知山との結成というお根を通る北東のお根があるんですよ。
北東のお根にも大きく意向がいくつかありまして、
1つは出丸といって、車で突き出したような車があるんですけど、
それがちょうどこの登山道を見下ろすような場所に。
ありましたね。
あそこの場所には土塁があって、いかにも下を全部見下ろせるような形になっていまして、
実はあの場所の車とかからは白磁の皿が出て発掘されて、
その皿って実は14世紀頃なので正に小西の頃のものだったので、
おそらくあそこの辺りっていうのは実は堀さんが入ってきた時に作ったというわけじゃなくて、
元からあったのではないかと考えられています。
その見下ろす場所に結構広い平壇地があったんですよ。
ありましたよね。
今はもう杉が植わっているからちょっと気づきにくいかもしれないですけど、
あれもし杉がなかったらかなり山頂と同じくらいの広さの平らな平地がありましたよね。
ありましたね。
あそこが貯水機能を持ったのかもしれないと言われる溝状の移行が検出されたということで、
調査でわかっております。
もしかしたらそういう山頂の部分の四角の部分ってのはそれこそ堀さんが作った
江戸とかの時代に作ったと言われているんですけども、
それ以外の部分ってのは意外と高鳥城の前身というか前の形という分ではそういう機能をしていたのかもしれません。
ちなみになんですけど、お皿が出てきたりとか貯水施設があるってことは
生活機能もある程度あったっていうふうに考えてもいいんですかね。
そうなのかもしれないですね。
おそらく自分の中では、車からは掘ったて柱の建物跡とか確認をされていました。
つまり3軒ぐらいの幅ぐらいで柱の跡とかがあったそうなので、建物がやっぱりあった可能性があるんですね。
おそらくそういった先ほど司官音声さんが言われたように、生活をしていた人たちにとっては
そういうことで堀木さん、前回か何かにもお話いただいたけど、
山頂にある山城っていうのは、いざ戦うときには使うけども、
普段は留守番がおるぐらいで、普段の生活はやはり麓でされているっていう話だったけど、
今の話でいくと、ひょっとしたら山頂ではなくて一段下にあった、
山頂にある山城を使うときには使うかもしれないですね。
お花畑、貯水施設があったかもしれない。
あの辺りっていうのは生活も含めてされていたかもしれない。
そうですね、かもしれないですね。
あと途中にありましたが、うねじょうはてぼり軍ですかね、からぼり軍ですかね、
今後もしかしたら山城をポッドキャストの中で見ていくかもしれないですけど、
ちょっと類を見ないくらいからぼり軍を使うかもしれないですね。
横幅も10メートルぐらいありますし、
一般的に考えられるうねじょうからぼり軍というのは、
登ってくる敵兵がいるとしても、
侵入を限定するためのコースを作っちゃうための規模なので、
横に本当に1、2メートルあるかないかぐらいの形なんですけど、
あんなに大規模なものをいっぱい作る目的とかは、
ちょっとわからないですけど、
その規模が20本、20本周りにあると言われています。
言ったら全部を取り囲むようにというか。
そうですね。
お城で言いますと西側半分と言いますか、東側です。
東側か。
東側で福知山の方のお根伝いの方に、
ずっと半分くらいの規模を作っています。
そういうのがあって、
国土地理院に傾斜量図というのがあって、
いわゆる角度が強ければ強くても影みたいになって、
どのくらい急か分かりやすい図があるんですが、
それで見ても高鳥山城周囲を見ても分かるぐらいに
縦振りがバーッと走っているんですね。
かといってもそれは自然地形という感じで、
その縦振りがバーッと走っているんですね。
かといってもそれは自然地形という感じでもなく、
人為的に作った可能性が高い部分もありますので、
そういった部分も含めて、
どういう目的か分からないですけど、
それぐらい守りに意識していたのかもしれないですね。
なるほど。
どういう目的か分からないというのは、
確かにその通りで、前回立花城で見せてもらった縦振りとかもそうですし、
いわゆる一般的にみたいな話をすると、
相手が下から登ってくる時に、
結局敵兵が一列に並んでくれると、
上から攻撃がしやすいと。
そりゃそうですね。想像つきますよね。
一列に並べて登ってくると、
上から順番、一番前のやつを倒していけばいいわけですから、
守りやすい。
ところが横幅10mも掘ると、
10人一緒に横一列になって登ってこれるわけだから、
本来そういう意味での目的からすると、
大きすぎないって話ですよね。
そうですね。
そこまでやる必要があったのかという感じが。
かえって困らないと守るのにって思う。
でもそういうのもあって、
そういうことを小木さん言うように、
全国には縦振りっていうのはあちこちあるけども、
なんでそうなんていうのは結構あるんですね。
はい、そうですね。
こんなに大きいのはなかなか、
しかも縦振りがあるところはあるんですけども、
こんなに20本も連続してっていうのはなかなかないので、
本当に謎といえば謎でありますし、
もしそれが根性空振り群っていうのは、
比較的戦国時代の後半とかによく見られると考えられているので、
江戸時代のそれこそ、
堀さんが緊張状態で作ったっていうことであれば、
それほどやはり細川とかが、
いつ何があってもという形の緊張の度合いが伝わってくる、
一つのものなのかもしれないですね。
ただあれですよね、今言った東側に集中してっていうのは、
いわゆるここは竹前側ですけど、
竹前側の一番東、
すぐ隣は武前の方、細川がいる。
だからそっちに向けて掘ってるわけですもんね。
だから何か守りのために掘ってるんではあろうけども、
なんでこんなにデカいんかって話ですよね。
どうなんでしょうか、遠くから見たら、
本当に一目でわかるぐらいなものなのかもしれないし、
これだけもし木がなかったとしたら、丸坊主だったとしたら、
ふもとから丸見えなくらい、バーって縦折りがあるので、
アピールだったのかとか、勝手に個人の妄想では思う。
なるほどですね。
やはりこんなにすごいんだぞと、攻めたくたって攻めれないんだぞと、
石表示なのかなと思ってしまうぐらいな希望を感じる。
また特に出てきましたこの四角ですね。
この部分も今のところ調査の結果とかでは、
上下二段平坦がありまして、いずれも総石垣で、
登ってくる登山道の途中にも石垣が一部残ってましたけど、
本来だったら高さ5メートル近くが石垣で、
廃墟のとき、一国一条例だったり、
そのときは八脚で半分以上崩壊をしています。
ただやはり登ってくるときもありましたけど、
ちゃんと生きているラインというか、ちゃんとそういうのが残ってますので、
やっぱり本当に総石垣だったんだなという当時の片鱗が残っています。
またこの平坦の場所もすごい広いんですけど、
南西隅には隅矢倉が置かれていまして、