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2025-04-27 18:41

13|2つの潮見櫓とあの地元菓子店との意外な関係とは【福岡城潮見櫓編】

この番組は、福岡県内だけでも1,000近くあったとされる戦国時代の山城の魅力を、現地探訪を交えて紐解き、熱く語り合う番組です。山城研究は地理学、歴史学、軍事学、地域経済学などいくつもの側面があります。かつて、その地で暮らした人々の息吹をあなたも一緒に感じてみませんかー。

福岡城の北西に位置する潮見櫓。解体調査から福岡県民にお馴染みのあの老舗菓子店との意外なつながりが明らかになりました。

◆出演:清田進(郷土史家)、坂本信博(報道センター総合デスク)、梁京燮(販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/ 音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:中山 紘一郎(しかのすけ/販売部)

◆収録日:2025年3月30日

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Summary

福岡城の潮見矢倉について、その歴史や構造、再建の経緯を詳しく解説しています。また、潮見矢倉がかつて海に近かったことや、全潮見矢倉との関係にも言及しています。福岡城の潮見櫓の再建過程についての議論と、地元のお菓子店である石村万世堂との意外な関係が明らかになります。石村万世堂の創始者が福岡城の大工であったという伝説が語られています。

福岡城の紹介
西日本新聞Podcast
西日本新聞 戦国山城Podcast
この番組では、福岡県内だけでも戦地核あったとされる、戦国時代の山城の魅力を、現地を歩きながらお話しして参ります。
山城の研究は、地理や歴史だけでなく、軍事や地域経済など、いくつもの側面があります。
かつてその地で暮らした人々の息吹を、一緒に感じてみませんか。
こんにちは。福岡のニュースアプリ、西日本新聞民の横山智則です。
で、今回も堀切さんも鹿之助もおりませんで、
龍さん、坂本さん、それと福岡の郷土鹿、清田進さんと一緒に進めてまいります。どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
引き続き大堀公園で、今から清田さんと歩きながら、お城を学んでいくと。
はい。
福岡城の方に入っていく。
はい。
なるほど。楽しみですね。
楽しみですね。
福岡城を攻めます。
攻める。今から攻めるんですね。よろしくお願いします。
攻めるわけでございます。
はい。
続けますか。
続けましょう。
えっとですね、今から潮宮倉が復元されてますから、潮宮倉の話と、
それまで潮宮倉であったと言われてました、現在全潮宮倉と言われてる、
この二つの矢倉についてのエピソードを話すんですが、
ついてから話します。
ついてからのほうがいいんじゃないですかね。
はいはい。
前回のボートハウスから鯨公園の方、福岡の人は分かると思うんですけど、
大堀公園で一番大きな公園。
遊具があるところ。
そう、遊具があるところ。
大堀公園の入口、郵政関係の建物、弁護の建物の横です。
そうですね。
まで来ております。
はい。
ここはあれですか、公園、今公園ですけども、昔はどうだったんですか。
はいはい。当時はですね、今我々は建っているところ、公園ももちろんですけど、
これはもう堀の中ですね、現在、潮向公園の角まで明治通りの堀が来てますけども、
潮見矢倉の歴史
当然その堀はですね、大堀とつながってまして、つながっているから我々は建っているところは堀の中であります。
なるほど。
今、説明を申し上げますとですね、この図面でいきますと、この堀のですね、北西角、堀のですね、北西角にいまして、
そこがですね、堀の包みなんですね。
で、実は福岡城はですね、堀の周辺ですね、通常、近西山、近西上角というのは、ここに高石垣があって普通なんですよ。
はい。
高石垣。
高石垣。で、塩宮村もそうですけど、土手の上に建ってます。
で、福岡城はですね、腰巻石垣といいまして、1メーター程度の石垣が周りをずっと回ってたんです。
明治通り側に回るとよくわかるんですけども、明治通り側の堀を見ますとですね、
お城側、内閣側は一番下の方に1メーター程度の腰巻石垣がこう来てます。
あ、残っている。
そうです。で、高石垣があるのはですね、向こう側の、今は電塩宮村。
この矢倉は塩宮村ではないということがわかったから、今電塩宮村としてある下の橋御門のところとですね、上の橋御門のところだけ高石垣があって、その上に塀が乗っているという形なんですね。
じゃあ、面の入り口のとこだけは高石垣。
そうですね。
低い石垣。
そうです。それは江戸時代の図面でもですね、ずっと、これ拡大するとわかるんですけど、石垣がない形で描かれてます。
で、今と同じように上の橋御門、下の橋御門のところだけは高石垣が描かれてます。
だから当時からそうだったということですね。
で、なんでそうかはちょっとわからない。石がもう足りなかったのか、あるいはもしかしたら江戸城、名古屋城の不審の時にですね、あるいは大阪城の集築の時に石を提供したか。
持って行っちゃったの?
そうです。
名古屋とか大阪まで?
そういうのは普通にやってたんですよ。拡大免はとにかく徳川家の関係の城の不審を申し付けられたらですね、自分のところから、自分のところの寮内から石を持って行くと。
協力するというのは普通にやってました。
なるほど。近所ならよかろうけど。
そう。現代人から考えるとびっくりしますけど、当たり前のことだったんですね。
それが中世代の証にもなったんじゃないですかね。
そういうことですね。
今、福岡省が一番福岡城の図面として頼りにしているというのは、新欄下がある図面の一部なんですけど、西方白絵図、西方年間にできた白絵図なんですね。
ここは、今現在、私たちこの今、再建された潮宮寺がちょうど角にあってというところにおります。
このままですね、とにかく城内に入ってもらいます。
ですから今、我々は攻めるとしたら、小舟で星巻白絵の土手に上がりまして、城外によじ登っているということで、今内閣に入ってきたということでございまして。
ここもやっぱり高石垣ではなくて土手であったという本筋が残っているんですね。
こっちも土手が続いています。
当時の土手です。
そのまま内閣ので。
で、こっちに行きますと、今この三の丸はですね、桜も綺麗で、皆さんの楽しむ場ということになっていますけど、
漢西時代はですね、この辺は漢氏の役所ばっかり、役所、役館があったあたりです。
で、三大水月になるとですね、二大忠之まではお殿様の屋敷ですね、本丸にあったんですけども、三大水月の時代にここに下ろしてきます。
奥の方は、漢氏の館があって、こっち側、海に近い方は藩役人の役所があるという広場がこの三の丸です。
建物が結構並んでたんですか?
そうですそうです。これ復元、どっかですね、復元、歩きながら見つけましたら。
その辺もさっきの商法城絵図に記憶が残っているんですか?
商法城絵図、図面によってですね、その辺の役館も書いてる図面と、ない図面があるんです。
商法城絵図はですね、そんな細かいことは書いてないですね。
商法城絵図は、商法元年1644年に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。
城下町内の建造物、石垣の高さ、堀の幅、水深など、軍事情報が精密に描かれていると国立広報所管で。
軍事情報が中心だからですね、あんまり細かいことは商法城絵図は書いてないですね。
だから全体の構造としてはですね、やっぱり幕府に出すものだから相当信頼性があるということで、
福岡市博物館の学園さんなんかはこれ使って説明されますね。
いろんな城の絵図が。たくさんあるんですよ、絵図。
その絵図によってね、作業を説明してましたら、向こう側の茶室があったあたりなんかもしっかり書いてる絵図もあります。
商法城絵図はその辺は無視してる。いろいろタイプありますね。
再建された潮見油がありまして、これもですね、商法城絵図の拡大してますけども、
発掘調査によってはああいう形だったということは床の形がですね、それは確認された上で、
あとその商法城絵図も参考にして、そして何よりもですね、潮見油の場合は双福寺に移転されて仏殿として使われてたんですね。
その写真ここにありますけど。
油そのまま移転させまして使ってたんですね、双福寺さんが仏殿として。
ですからほぼ当時の外見がここに再現されているということであります。
近づきますか。
潮見矢倉って何のためのあれなんですか?
それは名称の通りですね、一番城の中で海に近い部分ですから、前面の海を見るというか監視するというか、
そういう意味合い。
まさに地の通り。
城ですね、矢倉ですね。
潮見矢倉のすぐ近くまでかつては海だったって。
前面に、現在でいうと大手門ですとか港町は江戸時代に埋め立てたんですね。
現在で言いますと長間通りのこっちまでを埋め立て地として江戸時代あったんですね。
今潮見矢倉を見てきまして、今度は伝潮見矢倉のところまで来ましたね。
もともとこっちが潮見矢倉って言われてたんですね。
そうですね、もともとこっちが潮見矢倉って言われてたんですが、
現在再建された実際の潮見矢倉が、総富士山にあるときに危険になったものですから、
改修工事をやったんです。
それで先ほど説明がありましたように、
室谷不断に潮見矢倉と書かれてたんで、あっちが潮見矢倉であるということが確定しました。
再建された潮見矢倉
こっちの潮見矢倉は長く、それまでは潮見矢倉と表示されていたんですけども、
かわいそうな話ですけども、それ以来全潮見矢倉ということで、
潮見矢倉と伝わってたけども違うということで、
全潮見矢倉というふうにこの掲示板も書き換えられています。
平成3年の調査で分かったということですね。
そうです、平成3年の調査で分かったんです。
そういうことでございます。
全潮見矢倉と言われるものが、昭和31年、1956年に再位置されて、
でもそれが実は平成3年の調査になって、別の潮見矢倉があったということで、
これは本当は潮見矢倉じゃなかったということで伝わると書いて、
全潮見矢倉という名前に変わったとあるにかわいそうですけどね。
石垣は昭和31年に?
石垣は当時の築城時代の石垣だと思われます。
何度か石垣が転栽で壊れたりしてますから、
手は加えられているはずですけども、
石垣自体は築城時代からの石垣ですね。
オリジナルのこの4月から、今年の2025年の4月から公開される潮見矢倉は、
ボランティアの方の話だと、
元々ここにあったんですけども、陸軍の施設ができた際に、
総睦寺徳寺に移設されたということなんですね。
さっきおっしゃってましたね。
あっちを支えている、現在の潮見矢倉といわれて支えている石垣の方は、
再建時に勧修して、歴史的な資料等を参考にして、
石垣を新たに積んだということなんですね。
それともう一つ私が知っていることを言いますと、
あっちの新潮見矢倉じゃないですね、
現在の潮見矢倉、再建された潮見矢倉、大変耐震工事がしっかりされてまして、
実は見えない部分、床の下で振り子になる形が取られているので、
一緒に揺れる。
見えない部分は相当現代的な、石垣の下あたりは隠されています。
耐震装置がですね。
なるほど。
4億じゃない?
4億。
うまくなるんだ。
1個は500円と。
釘だけで200万円かかると。
200万って、それはどういうこと?
耐震の釘を使うから、それを昔と同じようなものを再現して使う。
昔のやつを再現しているからですよ。
だからか。
先ほどの潮見矢倉を拝見すると、古い、見つかった潮見矢倉では昔の大工さんの名前が書かれていましたけど、
最近は施主として高島市長の名前が書いてましたね。
あと市の幹部の。
市の幹部の。
嬉しがろうね。
社長以下の名前が書いてましたね。
あとこのやつはですね、
五門。
こっちどっちだったっけ?
福岡城と潮見櫓の再建
足室五門とセットでですね、福岡城の最大の見学スポットですよね。
人も多いですね。
ここは焼けたんですよ。
焼けた後ですね。
まあやってましたけど、当然焼ける前の写真等残ってますから。
でさらに。
いつでしたっけ?
ごめんなさい。
いやいや違います。
現代です。
どれくらい前だったかな。
そんな近くに?
最近の話です。
それでですね、その時もまた再建するにあたってですね、
実はちょっと古い図面とか写真とか、幕末から明治の写真とかとはですね、
焼ける前の構造もちょっと違ってたんじゃないかみたいな論争があって、
でまたこれを再建する時もですね、相当な論争手続きがあって、
今のように再建されてます。
ちょっと細かくはですね、
九段堀先生方の論文で書いてあるんですけどね、
例えば窓の作りが実は焼ける前の再建。
焼ける前も結局ある程度再建ですからね。
焼ける前のやつも窓の位置が違うんじゃないかとか、
いろいろ論争があってですね、その論争確認があった後、
火災があった後ですね、今この形になったということですね。
石村万世堂の歴史
だから再建するっていうのは、国の主席ですからね、
再建するっていうのは相当な細かい確認の上に行われます。
実はですね、東海市内で有名な石村万世堂さんですね。
お菓子屋さん。
お菓子屋さんですね、ショップが各市にあります。
石村さんですね、実は東大、仙台、仙仙台、仙台。
だから5代前まではですね、大工さんだったんですね。
それで仙台、仙台、仙台、仙台、仙台。
今から3代前か。
石村万世堂、お菓子となった石村万世堂初代の方はですね、
実は石村家の長男だったんです。
大工都市の石村家の長男だったんですが、
体が弱くてですね、これは仙台の石村社長から聞いたんですけども、
体が弱くて大工はできないから、
それでも神様と関わるですね、神社と関わる仕事がしたいということで、
お菓子といえば新鮮ですね。
新鮮菓子を作るお菓子屋さんの修行をして、
初代石村万世堂お菓子屋さんになられたんです。
伝説的にといいますかね、
大工の家ってことは分かってたんですけども、
伝説的には福岡城のですね、
城大工であったという話が伝わっていたんです、
石村さん家には伝わっていたわけです。
それは伝説的に伝わっていたんですけども、
ここにあります、現在でんしおみやぐらと言われてます、
このやぐらをですね、昭和時代にですね、
ちょっとずいぶんと危なくなったんで、
改修工事が起こられたんです。
そこで胸札が出てきまして、
胸札にですね、ちょっと名前は今忘れましたけども、
当領石村という名前が出てきまして、
石村家がですね、福岡藩の城大工であったということを
証明されたという話が伝わります。
石村家にとってはですね、
ほんとやったんやーって話ですよね。
石村さん、石倉さんもそうでしょうけど、
今100年ぐらいの石倉さんですね。
石倉さんもだって、
ああいう醸造元っていうのはですね、
江戸時代は藩との関係が強くないと、
いわば藩から免許もらえないんですね。
石倉さんと同じ石ですけどね、
石倉さん家も相当藩との関係が強い上だったってことですね。
石村さん家もたまたまどっちも石ですけどね。
坂倉の方の石倉。
だから私一人は勝手に盛り上がったんですけど、
どっちも石で、
片山は藩の大工で、
片山、醸造元っていうのはほぼ、
藩との関係が強い家しかできませんからね。
坂屋さんですね。
そうです。
一旦ここで、
あそこですね、お堀から、
塩宮倉を見て、
電塩宮倉を見て、
一旦ここで締めます。
エンディングの前に一つお知らせです。
西日本新聞のポッドキャスト番組が、
また一つ誕生いたしました。
番組のタイトルは、
西日本新聞ゆるり政治講です。
永田町で日々取材をする東京報道部の記者たちが、
政治を身近に感じてもらえるようにと、
ゆるりとニュース解説や裏話をする番組です。
毎週土曜日配信しております。
どうぞお聞きください。
それではエンディングです。
ご視聴ありがとうございました。
堀切さんが、
全国各地のお城をドローンで撮影したYouTube番組、
空から攻めるは好評配信中です。
ぜひそちらもご覧ください。
それから堀切さんの空撮と専門家の解説で、
九州のお城を紹介する、
城九州戦国ドローンは、
西日本新聞とスマホアプリの
西日本新聞MEで連載中です。
ご購読の方、ぜひよろしくお願いいたします。
本日はありがとうございました。
続きよろしくお願いいたします。
来週もお楽しみに。
来週はどこに行くんですか?
ここから?
ブグヤグラの方まで行くんです。
今からブグヤグラ。
ブグヤグラの下で話し始めましょうか。
はい。分かりました。
お楽しみにということで。
失礼します。
みなさーん!
アナとくちゃんだよ!
困っていること、調べてほしいことあったらどうします?
検索する?それもいいけど。
新しい方法を西日本新聞が作っちゃいました!
パチパチ!
新聞記者に直接SNSで聞いてみる?
みんなのなんで?に答える
アナタの特命取材班です。
西日本新聞で検索!
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