当然その堀はですね、大堀とつながってまして、つながっているから我々は建っているところは堀の中であります。
なるほど。
今、説明を申し上げますとですね、この図面でいきますと、この堀のですね、北西角、堀のですね、北西角にいまして、
そこがですね、堀の包みなんですね。
で、実は福岡城はですね、堀の周辺ですね、通常、近西山、近西上角というのは、ここに高石垣があって普通なんですよ。
はい。
高石垣。
高石垣。で、塩宮村もそうですけど、土手の上に建ってます。
で、福岡城はですね、腰巻石垣といいまして、1メーター程度の石垣が周りをずっと回ってたんです。
明治通り側に回るとよくわかるんですけども、明治通り側の堀を見ますとですね、
お城側、内閣側は一番下の方に1メーター程度の腰巻石垣がこう来てます。
あ、残っている。
そうです。で、高石垣があるのはですね、向こう側の、今は電塩宮村。
この矢倉は塩宮村ではないということがわかったから、今電塩宮村としてある下の橋御門のところとですね、上の橋御門のところだけ高石垣があって、その上に塀が乗っているという形なんですね。
じゃあ、面の入り口のとこだけは高石垣。
そうですね。
低い石垣。
そうです。それは江戸時代の図面でもですね、ずっと、これ拡大するとわかるんですけど、石垣がない形で描かれてます。
で、今と同じように上の橋御門、下の橋御門のところだけは高石垣が描かれてます。
だから当時からそうだったということですね。
で、なんでそうかはちょっとわからない。石がもう足りなかったのか、あるいはもしかしたら江戸城、名古屋城の不審の時にですね、あるいは大阪城の集築の時に石を提供したか。
持って行っちゃったの?
そうです。
名古屋とか大阪まで?
そういうのは普通にやってたんですよ。拡大免はとにかく徳川家の関係の城の不審を申し付けられたらですね、自分のところから、自分のところの寮内から石を持って行くと。
協力するというのは普通にやってました。
なるほど。近所ならよかろうけど。
そう。現代人から考えるとびっくりしますけど、当たり前のことだったんですね。
それが中世代の証にもなったんじゃないですかね。
そういうことですね。
今、福岡省が一番福岡城の図面として頼りにしているというのは、新欄下がある図面の一部なんですけど、西方白絵図、西方年間にできた白絵図なんですね。
ここは、今現在、私たちこの今、再建された潮宮寺がちょうど角にあってというところにおります。
このままですね、とにかく城内に入ってもらいます。
ですから今、我々は攻めるとしたら、小舟で星巻白絵の土手に上がりまして、城外によじ登っているということで、今内閣に入ってきたということでございまして。
ここもやっぱり高石垣ではなくて土手であったという本筋が残っているんですね。
こっちも土手が続いています。
当時の土手です。
そのまま内閣ので。
で、こっちに行きますと、今この三の丸はですね、桜も綺麗で、皆さんの楽しむ場ということになっていますけど、
漢西時代はですね、この辺は漢氏の役所ばっかり、役所、役館があったあたりです。
で、三大水月になるとですね、二大忠之まではお殿様の屋敷ですね、本丸にあったんですけども、三大水月の時代にここに下ろしてきます。
奥の方は、漢氏の館があって、こっち側、海に近い方は藩役人の役所があるという広場がこの三の丸です。
建物が結構並んでたんですか?
そうですそうです。これ復元、どっかですね、復元、歩きながら見つけましたら。
その辺もさっきの商法城絵図に記憶が残っているんですか?
商法城絵図、図面によってですね、その辺の役館も書いてる図面と、ない図面があるんです。
商法城絵図はですね、そんな細かいことは書いてないですね。
商法城絵図は、商法元年1644年に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。
城下町内の建造物、石垣の高さ、堀の幅、水深など、軍事情報が精密に描かれていると国立広報所管で。
軍事情報が中心だからですね、あんまり細かいことは商法城絵図は書いてないですね。
だから全体の構造としてはですね、やっぱり幕府に出すものだから相当信頼性があるということで、
福岡市博物館の学園さんなんかはこれ使って説明されますね。
いろんな城の絵図が。たくさんあるんですよ、絵図。
その絵図によってね、作業を説明してましたら、向こう側の茶室があったあたりなんかもしっかり書いてる絵図もあります。
商法城絵図はその辺は無視してる。いろいろタイプありますね。
再建された潮見油がありまして、これもですね、商法城絵図の拡大してますけども、
発掘調査によってはああいう形だったということは床の形がですね、それは確認された上で、
あとその商法城絵図も参考にして、そして何よりもですね、潮見油の場合は双福寺に移転されて仏殿として使われてたんですね。
その写真ここにありますけど。
油そのまま移転させまして使ってたんですね、双福寺さんが仏殿として。
ですからほぼ当時の外見がここに再現されているということであります。
近づきますか。
潮見矢倉って何のためのあれなんですか?
それは名称の通りですね、一番城の中で海に近い部分ですから、前面の海を見るというか監視するというか、
そういう意味合い。
まさに地の通り。
城ですね、矢倉ですね。
潮見矢倉のすぐ近くまでかつては海だったって。
前面に、現在でいうと大手門ですとか港町は江戸時代に埋め立てたんですね。
現在で言いますと長間通りのこっちまでを埋め立て地として江戸時代あったんですね。
今潮見矢倉を見てきまして、今度は伝潮見矢倉のところまで来ましたね。
もともとこっちが潮見矢倉って言われてたんですね。
そうですね、もともとこっちが潮見矢倉って言われてたんですが、
現在再建された実際の潮見矢倉が、総富士山にあるときに危険になったものですから、
改修工事をやったんです。
それで先ほど説明がありましたように、
室谷不断に潮見矢倉と書かれてたんで、あっちが潮見矢倉であるということが確定しました。