昨日一昨日堀切さんから300ページぐらいあるPDFの資料が
×3で1000ページぐらいあるんじゃないかっていう資料が届きまして、
今日はその中からのお話なんですけど、
そもそもこの何百ページもあるPDFってこれは何ですかというところを先に聞きましょうか。
福岡県教育委員会さんが十数年かけて福岡県の中勤制上巻報告書をまとめられまして、
こういった上巻報告書というのは各県にもそれぞれ存在はしているんですけども、
福岡県の場合はこれを誰でも見れるようにPDFで無料で見れる配布をウェブで行っておりまして、
今回その中でも畜戦、畜亡であったり無禅方面であったりというファイルをお送りさせていただいています。
これを元に各城それぞれを紹介していければと思っております。
なるほど、そういうことなんですね。
いくつぐらいこれお城が?
全部数えてはないんですけど、本当に4,500ぐらいはあるかと思いますね。
一つのお城は何ページかにまとまっているんで、そういう意味ではあれですよね。
そうですね、でも本当に全部読んだつもりであるんですけど、やっぱり知らないなと、ただ。
全部読んだんですね。
一応、ざっとですね。
やっぱり改めて見返してみてもっていうのもあるので。
面白いですね。
面白いですね。
今回は前々回になりますけど、たかとり城の話になりました。
黒田藩の市城、畜戦六波城というのがあったんですが、たかとり城はその六波城の1になるんですけど、残りの5つはどこかということで、今回それについてこの城管報告書を元に追っていきたいと思っています。
紹介は朝倉の奥にある小石原にあります松尾城を紹介できればと思っております。
松尾城。松尾さんが作ったから松尾城。
松という場所にあったから松だと思います。
城管報告書の元にちょっと説明をさせていただきますが、小石原集落の北小丘陵の浦山山頂。
こちら全体的に飛行が高い地域なので標高は516メートルに位置するんですが、ここに置かれた城でございまして、戦国時代には黒人領主の広州山氏という人物がおりまして。
あそこらに確かに広州山とも言いますが。
おそらくそこから来ていると思います。
広州山氏が治め江戸時代初期には駒田藩の市城になるいわゆる地区前六波城の一つになりましたが、元那という時代に一国一条例というのが1615年ですが、その時に廃城となっております。
一応概要といたしましては山頂の部分に二段に渡る駒は主角と副角とされているんですが、いわゆる削平された場所がありまして、その周囲に山田の割石や裏込石を用いた総石垣が巡らされております。
石垣の要所には直角の屈曲を持って張り出すことで横から攻撃したのではないかという、いわゆる正面をちょっと入り口を曲げることによって兵がすぐに入ってこれない、そこを横から矢とか弓とかで攻撃したかもしれない、それは横矢と呼んでるんですけど。
横矢の効果を持たせた矢倉台が主角に3箇所、副角に至っては小口に伴って2箇所を確認することができ、副角の北側には巨大な内、マス型小口が開いているということで、空話の規模、結構コンパクトなお城なんですけど、過剰なまでの防御意識を持って構築しているのがわかるとされています。
小さなお城だけど防御力はあるぞと。
そうですね。
次のページで説明しますと、調査をされておりまして、主角からは二棟、副角からは一棟の建物だったと思われる組織建物が検出されています。
ただ、出土遺物が出てきたものの中には河原が全くないので、河原吹きではない建物、木だったのか、藁吹きだったのか、というものがあったということでございまして。
ただ、周りの石垣や矢倉があったので、居住するというよりは見張りも含めたそういう仕事だったので、戦うための仕事だったんですかね。
これらの石垣、小口、組織建物は黒田が治めた時代、すなわち慶長5年1600段階の改修によるものであって、他の六波城とともに植法系城郭、石垣作りの、単純に言ったらそういうお城ですからね。
1500年後半に見られたお城ですけど、その築城技術がいかんな活気されたものでありますとされています。
現在、福岡県の県市席に指定されている。
行かれたんですよね。
行きました。
どの程度残っている、見れるものなんですかね、石垣とかは。
そうですね、石垣自体も行ったらすぐ分かるぐらいの形なんですけど、夏場がちょっと草の植生とかの関係で結構やぶになってて、冬場とかで地元の方がおそらく買ってくださってるんですね。
前のページにある松尾城縄張り図っていうのが見られたら分かると思うんですけど、ピャピャピャピャって伸びてる縦彫りがあるんですね。
このピャピャピャピャって確かに絵の方でしょ。
この左側の絵になるとこですね。
なんかこうカクカクってあった真ん中のこのクルワの外側に出てる縦彫りなんですけど、この縦彫りがいわゆるよくこれまで戦国山城ポッドキャストが訪れたうねじょう空彫り文なんですけど、それが巡らされてありまして、この縦彫りの部分がちょっとやぶがわーって、これはちょっと見ることができないんです。
なるほど、もうやぶなし表ですね。
自分が見に行った時が5年前ぐらい、その時は綺麗に描かれてあったんですけど、最近は多分、描かれるのに追いついてボランティアでしていただいてると思うんで、空彫り文は見にくいんですけど、石垣とかクルワはしっかり見ることができる。
これは1600年に建てられたってことは、いわゆる戦国時代の、最後の江戸時代に入るあたりで建てられたというお城なんですね。
おそらくというか、ほぼほぼそうだと思うんですけど、この松尾城がある東側のエリアは細川さんのエリアで、黒田と細川というのはバチバチな関係だった。
おそらく何かあった時の防衛戦という意味で六波城っていう綺麗な縦線みたいな感じでずっとなってるんですけど、その一個なんです。
この松尾城のこれ縄張り図は西が上になってるんですか、東ですかね。東のずっと先に確か行者杉っていう大きな杉があるんですけど、そこが国境とされていたみたいで。
そこを監視して、もし何か異常があったらというのをために建っていた場所だと。
その意味では小石原とか、あのあたりが国境だったんですね。
そうですね、もうあのあたりが国境だったので、今は松尾城の元は小石原焼きとかの焼き物で有名な街になっていて、もうちょっと民当祭とかがあってまた大混雑する時期になるんですが、その小石原にある松尾城ですね。
鹿之助さん、いかがですか、気になる点は。
気になる点、やっぱあれですよね、この図を見た時に気になるのは、うね城空掘り群とかがこの石垣の築城年代と一致するのかっていう話で。
そうですね、確かに土の城にありがちなうね城空掘り群に石垣が築かれているので、その時にいきなり建ったかどうかって、もしかしたら前にあったかもしれない感じがするかもしれない。
ちょっとなんともわからないですけど、付け足したというか、もともと小さな山城で、そこに石垣化して建物を建ててという形の拡張、改修したというか、という可能性もあるかもしれないですね。
そういうことなんですね。そういうこともあるのかなってことになります。
だからここでは資料では1600年に建てられたって書いてあるけども、それはそうなんだけど、その以前からお城としての機能的なものっていうか、要所って取り出としての機能みたいなものがあったかもしれなくて、空掘りもその頃に、だからその以前に掘られてたのかもしれないみたいな話。
そういうのが気になるんやね。
再利用したのかなっていうのがもしかしたら、あとひとつロマンとして、昔の山城技術が職工芸術にハイブリッドみたいな形になってるのかなっていうロマンな話もちょっと気になる。
一概には言えないんですけど、九州北部の城って結構そういう土のお城の上に金星城郭という石垣で、さらに矢倉とか漆喰の城とか建てたようなところがいっぱいあって、なんか本当にハイブリッドというか、うどんで言ったら全部乗せうどんみたいなのが多いんですよ。
そうなんですね。
そういう意味では北部九州の城跡は面白いのが多いですね。
確かにその時になって今まで何もなかったところにぽんと城を作るぞっていうこともあるんでしょうが、
それはその時代はその時代で、長い歴史の中でっていうことを考えたら、昔からここは地形的に守るも攻めるもいい場所だっていうものは、1600年になってぽっと出るわけじゃないからですね。
そういうことですよね。
そういうこともあるかもしれないですね。
なるほど。今日はこのぐらいにしておきましょうか。よろしいですかね。
松尾城もし行かれる場合は本当はそういったコンパクトなお城なので、
熊本からの駐車場から3分ぐらいあればすぐ登れる城跡でして、手軽に見学できるお城跡なので、ぜひお勧めなので行かれてみてください。
わかりました。ありがとうございます。
ここまで聞いていただきありがとうございました。
堀切さんの空から攻めるはYouTubeで好評配信中です。
そして西日本新聞は今、城、九州、戦国ドローンっていうのをちょっとリニューアルしてまた別の企画にしようかなっていうふうに考えておりますので、
それはそれでまたお楽しみにしていただければと思います。
西日本新聞とスマホアプリ西日本新聞民もぜひご購読いただければと思います。
本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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