まあ普通にやってました。
なるほど。
近所ならよかろうけど、こっちは90倍って。
現代人から描かれてもびっくりしますけど、当たり前のことだったんですね。
中世代の証にもなったんじゃないですかね。
そういうことですね。
でですね、これは福岡県が一番福岡城の図面として頼りにしている、新段階がある図面の一部なんですけど、
西方城絵図、西方年間にできた城絵図なんですね。
ここは、今現在私たちこの辺の再建された城みわくらがちょうど角にあってというところにおります。
で、このまま城内に入ってまいります。
ですから今、我々はおふりの中から…
おふりの中から?
おふりの中から這い出して…
攻めるとしたら今小舟で…
小舟で?
小島紀博の土手に上がりまして、上下によじ登っているということで、内閣に入ってきたということでございまして、
ここもやっぱり高石垣ではなくて土手であったという本席が残っているんですよね。
こっちもそうです。土手が続いています。
これだけ当時の形のまま?
そのまま内閣に入ってきました。
今この三の丸はですね、さすがにきれいで皆さんの楽しむ場ということになっていますけど、
繁盛時代はこの辺は繁殖の薬莢があったあたりです。
三大水月になるとですね、二大忠行まではお殿様の屋敷が本丸にあったんですけども、三大水月の時代にここに下ろしてきました。
奥の方は繁殖の館があって、こっちが海に近い方は半百人の薬莢があるという広場がこの三の丸。
建物が結構並んでいたんですか?
そうです。これ、歩きながら見つけましたが、その辺もさっきの昇宝城絵図に記録が残っているんですかね。絵図?
昇宝城絵図はその辺の薬莢も書いている図面とない図面があるんですけど、昇宝城絵図はそんなに細かいことは書いていないですね。
ちなみに昇宝城絵図は昇宝元年1644年に幕府が昇藩に明治で作成させた城下町の地図だ。
城下町内の建造物、石垣の高さ、堀の幅、水深など軍事情報が精密に描かれている。国立広報所から。
軍事情報が中心だから、あまり細かいことは昇宝城絵図は書いていないですね。
全体の構造としては幕府に出すものだから、相当信頼性があると。
福岡産物館の学園さんはこれを使って説明されますね。
いろいろな城の絵図があるんですかね。
たくさんあるんですよ。
昇宝城絵図によって、向こう側の茶室があったあたりもしっかり描いている絵図もあります。
昇宝城絵図はその辺は無視しているタイプがありますね。
再建された潮見油がここにありまして、これも昇宝城絵図の拡大してますけども、
昇宝城絵図、発掘調査によってはああいう形だったということが確認された上で、
あと昇宝城絵図も参考にして、
そして何よりも潮見油の場合は送服時に移転されて、仏殿として使われていたんですね。
ヤグラそのままお寺に移して?
移して、送服時に使っていたんですね。
ほぼ当時の外見がここに再現されているということであります。
近づいて。
近づきますか。
潮見ヤグラって何のためのあれなんですか?
これは名称の通りです。
そこから先は、一番城の中で海に近い部分ですから、前面の海を見るとかするとかで、
こういう意味合い。
まさに城の通り。
城ですね。
ヤグラですね。
潮見ヤグラのすぐ近くまでかつては海だった。
現在でいうと大手門ですとか港町は江戸時代に埋め立てたんですね。
現在でいうと長間通りのこっちまでを埋め立て地として江戸時代にあったんです。
すごいね。
こんにちは。
こんにちは。
ちょうどこの位置から胸札が見えますね。
右側の黒いのがですね。
黒いのが創福寺で仏殿として使われていたんですけども、
実は創福寺に移される前の福岡城では潮見ヤグラだったというのが胸札で分かって、
じゃあ潮見ヤグラとして復元しようということで。
なるほど。
2年かけてこれを復元したんですか?
そうなんですが、東浦御門というのがあって、
東浦御門の横に時ヤグラというのがあったんです。
おそらくこれは時ヤグラだったんだろうと言われています。
もう一つこの潮見ヤグラ、前潮見のエピソードがあって、
昭和50年頃だったと思いますけど、
改修工事をやったんですよ。
先ほども潮見ヤグラでブランティアの方が胸札があってということを話したんですけど、
こっちにも胸札があってですね、
そこから石村統領が江戸時代に建てたという胸札が出てきたんです。
その石村さんというのは実はお菓子屋の石村さんで、
石村さん家にはですね、
自分のところは先祖は黄金庵の城台区であったというのが伝説的にあったんです。
それがですね、ここの改修工事の時に昭和50年くらいだったと思うんですけど、
事実だったんだというのがわかったという。
こういう。
今潮見ヤグラを見てきまして、今度は伝潮見ヤグラのところに来ましたね。
もともとこっちが潮見ヤグラって言われてたんですね。
そうですね、もともとこっちが潮見ヤグラって言われてたんですが、
書いてないね。
向こうがですね、向こうが、
現在再建された実際の潮見ヤグラがですね、
潮見ヤグラが宗久寺さんにある時にですね、
危険になったもんですから改修工事をやったんです。
それで先ほど説明がありましたように、
胸札に潮見ヤグラと書かれてたんで、
あっちが潮見ヤグラがあるということが確定したんです。
で、こっちの潮見ヤグラはですね、長く、
それまでは潮見ヤグラと表示されていたんですけども、
かわいそうな話ですけども、
それ以来全潮見ヤグラということで、
潮見ヤグラと伝わってたけども違うということで、
全潮見ヤグラという風に掲示板も書き換えられてます。
平成3年の調査でわかったということですね。
そうですね、平成3年の調査でわかったんです。
その場所に五十近くあったヤグラの一つで、
大正初期に黒田に行って、先ほど、
旧室さんの話にあったように勤めて蓄され、
で、こういうことでございます。
なるほど。
これです。で、潮見ヤグラと言われるものが、
昭和31年、1956年に採用される。
でもそれが実は平成3年の調査になって、
別の潮見ヤグラがあったということで、
これは本当は潮見ヤグラじゃなかったということで、
伝わると書いてある、
全潮見ヤグラという名前に。
ちょっとある意味ではありそうです。
石垣はだからあれですよね。
昭和31年に作ったやつ。
いやいや、石垣はもう、
元々のやつ。
当時の築城時代の石垣だと思われます。
なるほど。
何度か石垣が電裁で壊れたりしてますから、
手は加えられてるはずですけども、
これは石垣みたいなもの、築城時代からの石垣みたいな。
オリジナルのこの4月から、
今年の2025年の4月から公開される、
潮見ヤグラは、