1. 西日本新聞 戦国山城Podcast
  2. 16|これ1本で分かる!福岡城..
2025-05-18 1:13:49

16|これ1本で分かる!福岡城の現在【福岡城総集編】

この番組は、福岡県内だけでも1,000近くあったとされる戦国時代の山城の魅力を、現地探訪を交えて紐解き、熱く語り合う番組です。山城研究は地理学、歴史学、軍事学、地域経済学などいくつもの側面があります。かつて、その地で暮らした人々の息吹をあなたも一緒に感じてみませんかー。

最近なにかと話題な福岡城。天守の有無から巨大な櫓の存在まで。これ1本で福岡城の現在が分かります。福岡県民必見です。

◆出演:清田進(郷土史家)、坂本信博(報道センター総合デスク)、梁京燮(販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/ 音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:中山 紘一郎(しかのすけ/販売部)

◆収録日:2025年3月30日

◆me会員特典「天神ビジネスセンター」の飲食店街でお得な優待体験
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◆「空から攻める」堀切凡夫Neo2(YouTube)
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Summary

福岡城は福岡県福岡市に位置する平山城で、関ヶ原の合戦で名を馳せた黒田長政によって建設されました。城の周辺が最近話題となり、取材が行われています。その歴史や地形について詳しく触れられています。福岡城の現在の状況については、堀や石垣の特徴、再建された潮見ヤグラ、歴史的な背景や構造が詳しく説明されています。福岡城が持つ独自の魅力や、その保存と再現の努力が伝えられています。 福岡城の現在に焦点を当て、黒田長政が築いた石垣やブグヤグラの重要性が解説されています。また、石垣の設計や再建計画が持つ歴史的意義に触れ、福岡城の魅力が広く伝えられています。福岡城については、追い回し門の再建や天守閣の歴史的な意義、発掘調査を通じた新たな知見が語られています。特に、天守閣再建の必要性や過去の災害による消失について深く考察されています。 福岡城の歴史や周辺の古墳についての調査が進められています。特に、天守台の発掘調査を通じて、古墳とその祭祀空間の関係や、福岡城建設前の地形の重要性に焦点を当てています。福岡城についてのエピソードでは、城の現在の状況や歴史的価値について深く掘り下げられています。

福岡城の紹介
この番組は、福岡県内だけでも1000近くあったとされる
戦国時代の山城の魅力を現地田んぼを交え、
ひも解き厚く語り合う番組です。
福岡県内の戦国山城の魅力、
戦国時代の山城の魅力、
戦国時代の山城の魅力、
戦国時代の山城の魅力、
戦国時代の山城の魅力、
戦国時代の山城の魅力、
戦国時代の山城の魅力、
戦国時代の山城の魅力、
戦国時代の山城の魅力、
よろしくお願いします
よろしくお願いします
西日本新聞社のりょうと申します
我々プロデューサーですね
どっちかというとですね
今回は一緒に喋ってもらう
ピンチヒーターということで
よろしくお願いいたします
それとですね心強いゲスト
そうですね
我々2人では
そうね
堀切さんと鹿之助の穴埋められない
ということで
福岡の郷土鹿清田進さんに来ていただいております
どうぞよろしくお願いします
清田さんよろしくお願いします
簡単に自己紹介をすいません
自己紹介ですか
福岡市内でですね
歴史講座と言いますか
歴史街歩きなどを企画しております
清田と申します
ボジボジやってるんですがよろしくお願いします
よろしくお願いします
今回は山城ではなくて
街の真ん中のお城を
紹介したいと思って
街の真ん中にお城があるんですね
僕らの地元福岡県福岡市の福岡城が
今回のテーマになります
福岡城の歴史
理由は2つありまして
山城ではないんですけども
西日本新聞の番組としては
会社から一番近いお城です
早い段階で1回取り上げておきます
これがまず1つ目
2つ目の理由は
最近福岡城周りがちょっとザワザワしてます
西日本新聞をめくると
この半年だけでも30本以上記事が
確かによく見る
あれができた
この人はこんなことを言い寄る
いろいろとあってまして
そういったこともありますので
今日も報道センターの坂本さんは取材なんです
そういうこと
ということで
それに同行しながら
収録をしようということでございます
よろしくお願いします
山城ではないんですけども
福岡城は平山城と言われるジャンルで
平らに山城とか
定格式平山城
かしごに定格の角に式平山城ということで
本丸の周りを2方3方を2の丸3の丸が
囲む形のものを平山城
定格式平山城
まさに戦国山城を持っておけば
その番外編というのもザワザワしいかなと思います
平たい城ってあるんですよね
ちょっと山もある
なるほど
ということですね
早速初心者もおりますので
福岡城ってどんな城から
坂本さんに説明していただければなと
今日は市長さんのご案内で
福岡城を歩きながら
いろいろ学んでいくという
ここはどこですと言っておきましょうか
ここは大堀公園の
ボートハウスと言ったら分かると思うんですけど
アヒルがいっぱい
ラチョーですね
ラチョーのボートに乗り場があるところ
昔からのレストランが隣にあるところが
今日の出発地点ということになります
今から京都さんと一緒に歩きながら
説明してもらって
番組が2本3本4本と
続いていく感じですね
ということでよろしくお願いいたします
よろしくお願いします
福岡城今全域が見えるところに立っておりまして
福岡城は南側の
江戸時代で言いますと大急山と言っておりました
現在動物園とか植物園がある山ですね
山から丘陵がずっと海に向かって降りてきています
丘陵の途中を使って
福岡城が作られているわけです
丘陵を使ってますから半分山城だということもあって
定格式平山城と
言ってらっしゃる先生が多いということでございます
それで福岡城自体は
ご存知のように関原の合戦で
黒田が当軍におりまして
もともと無税の中津におりましたが
中津におる時は18万石程度だったんですけども
52万石の蓄税に
賠償して家康から
高価な領地をもらって
新たに城を作ろうという時に
3つほど候補地があったんですけども
そのうち第9山から降ってくる丘陵が一番いいということで
ここに福岡城を建設するということになりました
経調5年に福岡に
黒田長政が入ってくるんですけど
技術上経調6年から建設が始まって
7年間で完成したと言われております
それで今建ってます
福岡城の現状とメディア
先ほど申し上げましたように
第9山からの丘陵が一望で見えております
中ほど私は気に食わないんですけど
私今は新築なんですけど
新築天守が鉄パイプで作られておりますけども
見えております
そこに天守台があって
天守家具があったわけでありますが
天守台を説明しますと
資料で説明することができますか
この資料の一番上のこの図
これは文化分析の
奥村玉蘭という
商人なんですけどね
暇だったもんだから陰居して
築前中を歩き回ってスケッチした
築前名所図鋭というのがありまして
そのうちの福岡城の遠景を描いた図です
先ほど説明しましたように
右が第9山
現在の動物園等がある丘陵から降りてきて
中ほどに3層のやぐらが描かれてます
これは現在あそこに新築された
天守閣の横にあったやぐらなんです
天守の南を守るやぐら
左に降りてきますと小さなやぐらが
丘陵の先端
堀にあります
これが今再建されました
潮見やぐらです
これを文化分析の奥村玉蘭が描いてますから
江戸時代福岡城がどういう状況だったか
しっかりと全体像で分かる図があります
どこから見たかと言いますと
右側があります
ここには実は黒田藩の茶屋がありました
茶室ですね
これは慶長6年とか7年とか
長政官僚の時代にここに茶室を作りました
この茶室は現在で言いますと
南当任小学校あたりです
これより西側に
向こう側に2,300メートル
大堀は広かったから
そこに鳥海城という小さな平城があったんです
今は大堀公園ですが
その頃いう鳥海型の
鳥海城という小さな城がありまして
そこに現在の鳥海八幡宮があったんです
鳥海城が始まりまして
もともとは鳥海城だったんですが
そこに鳥海八幡宮があって
それを防衛の観点から
鳥海八幡宮は現在あります
唐津街道のところに映させたんです
唐津街道あたりで何かあれば
そこに兵を
鳥海八幡宮に集中させるという意味があったと思います
映したところに
事実上石垣島もあったと言われてますから
防衛施設なんですけども
そこに茶屋も作っておったわけでございまして
この茶屋で
黒田 長政 あるいは
親父の官兵衛が
神谷総担とお茶を飲んだと書いても
神谷総担日記には書かれてまして
まさにその時代
神谷総担日記に書かれてます
神谷総担と黒田長政と父の官兵衛が
お茶を飲んだときと同じ景色を
奥村玉田教倉学校に再現してくれてるんです
ということは清暦1601年で
そうですね
この図自体は文化分析室から幕末に近いところです
この図自体は
ただ景色としてはその頃と一緒ということです
現在の南東日本小学校あたりから見た
江戸時代の福岡城の図ですね
今福岡城の天守閣
私の方は新築なんですけど
ところが実はこのブグヤグラはですね
大きさとしては規模としては
伊予松山城の天守閣クラスの大きさがあるんです
ブグヤグラ
30ですからね
こっち側の炭ヤグラと言いまして
一番西側のですね
これ今から登っていけば分かるんですけど
一番西側のヤグラだけポンと書いてるんですけど
ずっと東に向かってですね
70m平ヤグラというのがありまして
その向こうにも同じ規模の
西と言ってみれば東炭ヤグラ
30のヤグラがあるんです
大規模のヤグラでですね
先ほど申し上げましたように
伊予松山の天守閣
松山城の天守閣の規模があります
例えば青森の弘前城というのは
大変小さなお城ですけども
当然弘前城の天守閣の倍の大きさがあります
倍の大きさがあります
ここで喋ってしまおう
それで天守閣は私は作るの反対じゃなくて
現状で資料がない状況の中で
潮見ヤグラが再建されたのは
写真は残っているというのが何よりも
それと実際取り壊された時期が近いからですね
いろんな資料が残っているから
再建は分割を許したんですけども
天守閣の場合はですね
図面も残っていない
それから写真画像もない
幕末まであれば写真が残っている可能性があったんですけども
福岡市博物館の館長である中野斗先生の論文では
関栄15年までにはなくなったんだと
それまであったということを言ってますので
関栄15年ということは1638年
1638年それぐらいですね
だからですね
また図面は新築になるんですよ
あがたに図面を作って
ところがそれは文化庁が許すわけがないんですね
だから建設が反対というか
文化庁が許さないですよということを言っているんですけども
それこそ文化行政はどうでもいいというのなら
そしたら幻の信長のあずき城をあそこに建てればいいじゃないか
なるほどね
もう一層ね
一層
それで
ところがブギャグラは
実は写真が残っているんですね
その写真もですね
綺麗に建っている
ブギャグラは後ほど話しますけど
移転するんですね
いつ頃やったか
最初はちょっとはっきりと
とにかく近代
現代になって
明治時代になって移設するんです
いわゆる浜の町の方に移設するんですけども
その移設前の写真も残っています
浜の町の要するに黒田様の別邸なんですけど
黒田様の別邸に移設して建てます
その写真も残っています
さらにおはつらい向きにですね
移設後なのか移設前なのか
骨組みの画像も
骨組みの画像も残っています
発掘調査も終わっています
10年ぐらい前だったと思いますけど
ということは再建をするにあたってですね
文化庁への資料としてはもう
十分揃っています
私がそうすると
塩宮倉の方が
この間まで実は建ってましたからね
資料が
確証の資料が多いところだったんですけど
だいたいですね
それで塩宮倉の再建にあたってですね
学園さんに行くと
文化庁とのやり取りは6年かかったって言うんですよね
今からもしもう僕があれをですね
作るんだということになっても
6年かかるんで
文化庁から
西日本新聞戦国山城ポッドキャスト
この番組は福岡県内だけでも
戦地核あったとされる
戦国時代の山城の魅力を
現地田んぼを交え
ひも解き熱く語り合う番組です
鯨公園の方
90なら良かろうけど
石村統領が江戸時代に
鯨公園の方って言ったら
福岡の人は分かると思いますけど
一番大堀公園で
一番大きな公園
竜部があるところね
竜部があるところ
大堀公園の向こうの入り口
流星関係の建物が
レンガの建物がある横です
そうですね
まで来ております
ここはあれですか
公園
今公園ですけども
昔はどうだったんですか
昔は
昔は
昔は
昔は
昔は
昔は
昔は
昔は
昔は
昔は
昔は
昔は
昔は
当時は
我々が立ってるところ
まあ
公園ももちろんですけど
これも
堀の中
ですね
現在
当時は
公園の角まで
メイドルドルの堀が
福岡城の堀と石垣
вместеの堀が
まぁその
堀はですね
大堀と繋がっていまして
繋がってるから
我々が立っているところは
堀の中で入って
続けて説明申し上げますと
この図面でいきますと、この堀の北西角、堀の北西角にいまして、ここがですね、堀の包みで、実は福岡城は堀の周辺ですね、通常金星城郭というのは、ここに高石垣があって普通なんですね。
はい、はい、はい。
塩宮川もそうですけど、土手の上に立っています。福岡城は腰巻石垣といいまして、1メーター程度の石垣が周りをずーっと張っています。
明治通り側のですね、石垣、明治通り側の堀を見ますとですね、後ろ側、内閣側、一番下の方に1メーター程度の腰巻石垣がこう来ています。
高石垣があるのはですね、向こう側の、いまはね、殿塩宮寺、この矢倉は塩宮寺じゃないということがわかったから、今、殿塩宮寺としてある下の橋御門のところとですね、上の橋御門のところだけ高石垣があって、その上に塀が乗っているという形なんですね。
じゃあ、面の入口のところだけは高石垣で、それ以外は低い石垣。
そうですね。それが江戸時代の図面でもですね、ずーっと拡大するとわかるんですけど、石垣がない形で描かれています。
で、今と同じように、塀の橋御門、下の橋御門のところだけは高石垣が描かれています。
それは当時からそうだったというか。
そうかはちょっとわからない。石がもう足りなかったのか、あるいはもしかしたら江戸城、名古屋城の付信の時にですね、あるいは大阪城の集蓄の時に石を提供したか。
持って行っちゃったのか。
大阪城は普通にやってたんですよ。
徳川家の関係の城の付信を申し付けられたらですね、自分のところの寮内から石を持って行くと。
潮見ヤグラの再建
まあ普通にやってました。
なるほど。
近所ならよかろうけど、こっちは90倍って。
現代人から描かれてもびっくりしますけど、当たり前のことだったんですね。
中世代の証にもなったんじゃないですかね。
そういうことですね。
でですね、これは福岡県が一番福岡城の図面として頼りにしている、新段階がある図面の一部なんですけど、
西方城絵図、西方年間にできた城絵図なんですね。
ここは、今現在私たちこの辺の再建された城みわくらがちょうど角にあってというところにおります。
で、このまま城内に入ってまいります。
ですから今、我々はおふりの中から…
おふりの中から?
おふりの中から這い出して…
攻めるとしたら今小舟で…
小舟で?
小島紀博の土手に上がりまして、上下によじ登っているということで、内閣に入ってきたということでございまして、
ここもやっぱり高石垣ではなくて土手であったという本席が残っているんですよね。
こっちもそうです。土手が続いています。
これだけ当時の形のまま?
そのまま内閣に入ってきました。
今この三の丸はですね、さすがにきれいで皆さんの楽しむ場ということになっていますけど、
繁盛時代はこの辺は繁殖の薬莢があったあたりです。
三大水月になるとですね、二大忠行まではお殿様の屋敷が本丸にあったんですけども、三大水月の時代にここに下ろしてきました。
奥の方は繁殖の館があって、こっちが海に近い方は半百人の薬莢があるという広場がこの三の丸。
建物が結構並んでいたんですか?
そうです。これ、歩きながら見つけましたが、その辺もさっきの昇宝城絵図に記録が残っているんですかね。絵図?
昇宝城絵図はその辺の薬莢も書いている図面とない図面があるんですけど、昇宝城絵図はそんなに細かいことは書いていないですね。
ちなみに昇宝城絵図は昇宝元年1644年に幕府が昇藩に明治で作成させた城下町の地図だ。
城下町内の建造物、石垣の高さ、堀の幅、水深など軍事情報が精密に描かれている。国立広報所から。
軍事情報が中心だから、あまり細かいことは昇宝城絵図は書いていないですね。
全体の構造としては幕府に出すものだから、相当信頼性があると。
福岡産物館の学園さんはこれを使って説明されますね。
いろいろな城の絵図があるんですかね。
たくさんあるんですよ。
昇宝城絵図によって、向こう側の茶室があったあたりもしっかり描いている絵図もあります。
昇宝城絵図はその辺は無視しているタイプがありますね。
再建された潮見油がここにありまして、これも昇宝城絵図の拡大してますけども、
昇宝城絵図、発掘調査によってはああいう形だったということが確認された上で、
あと昇宝城絵図も参考にして、
そして何よりも潮見油の場合は送服時に移転されて、仏殿として使われていたんですね。
ヤグラそのままお寺に移して?
移して、送服時に使っていたんですね。
ほぼ当時の外見がここに再現されているということであります。
近づいて。
近づきますか。
潮見ヤグラって何のためのあれなんですか?
これは名称の通りです。
そこから先は、一番城の中で海に近い部分ですから、前面の海を見るとかするとかで、
こういう意味合い。
まさに城の通り。
城ですね。
ヤグラですね。
潮見ヤグラのすぐ近くまでかつては海だった。
現在でいうと大手門ですとか港町は江戸時代に埋め立てたんですね。
現在でいうと長間通りのこっちまでを埋め立て地として江戸時代にあったんです。
すごいね。
こんにちは。
こんにちは。
ちょうどこの位置から胸札が見えますね。
右側の黒いのがですね。
黒いのが創福寺で仏殿として使われていたんですけども、
実は創福寺に移される前の福岡城では潮見ヤグラだったというのが胸札で分かって、
じゃあ潮見ヤグラとして復元しようということで。
なるほど。
2年かけてこれを復元したんですか?
そうなんですが、東浦御門というのがあって、
東浦御門の横に時ヤグラというのがあったんです。
おそらくこれは時ヤグラだったんだろうと言われています。
もう一つこの潮見ヤグラ、前潮見のエピソードがあって、
昭和50年頃だったと思いますけど、
改修工事をやったんですよ。
先ほども潮見ヤグラでブランティアの方が胸札があってということを話したんですけど、
こっちにも胸札があってですね、
そこから石村統領が江戸時代に建てたという胸札が出てきたんです。
その石村さんというのは実はお菓子屋の石村さんで、
石村さん家にはですね、
自分のところは先祖は黄金庵の城台区であったというのが伝説的にあったんです。
それがですね、ここの改修工事の時に昭和50年くらいだったと思うんですけど、
事実だったんだというのがわかったという。
こういう。
今潮見ヤグラを見てきまして、今度は伝潮見ヤグラのところに来ましたね。
もともとこっちが潮見ヤグラって言われてたんですね。
そうですね、もともとこっちが潮見ヤグラって言われてたんですが、
書いてないね。
向こうがですね、向こうが、
現在再建された実際の潮見ヤグラがですね、
潮見ヤグラが宗久寺さんにある時にですね、
危険になったもんですから改修工事をやったんです。
それで先ほど説明がありましたように、
胸札に潮見ヤグラと書かれてたんで、
あっちが潮見ヤグラがあるということが確定したんです。
で、こっちの潮見ヤグラはですね、長く、
それまでは潮見ヤグラと表示されていたんですけども、
かわいそうな話ですけども、
それ以来全潮見ヤグラということで、
潮見ヤグラと伝わってたけども違うということで、
全潮見ヤグラという風に掲示板も書き換えられてます。
平成3年の調査でわかったということですね。
そうですね、平成3年の調査でわかったんです。
その場所に五十近くあったヤグラの一つで、
大正初期に黒田に行って、先ほど、
旧室さんの話にあったように勤めて蓄され、
で、こういうことでございます。
なるほど。
これです。で、潮見ヤグラと言われるものが、
昭和31年、1956年に採用される。
でもそれが実は平成3年の調査になって、
別の潮見ヤグラがあったということで、
これは本当は潮見ヤグラじゃなかったということで、
伝わると書いてある、
全潮見ヤグラという名前に。
ちょっとある意味ではありそうです。
石垣はだからあれですよね。
昭和31年に作ったやつ。
いやいや、石垣はもう、
元々のやつ。
当時の築城時代の石垣だと思われます。
なるほど。
何度か石垣が電裁で壊れたりしてますから、
手は加えられてるはずですけども、
これは石垣みたいなもの、築城時代からの石垣みたいな。
オリジナルのこの4月から、
今年の2025年の4月から公開される、
潮見ヤグラは、
福岡城の歴史と現状
ボランティアの方の話だと、
元々はここにあったんですけども、
陸軍の施設ができた際に、
創服寺というお寺に建設されていたという。
さっきおっしゃってましたね。
あっちのですね、
現在の潮見ヤグラと、
石垣の方は再建時に、
鑑集してというか、
歴史的な資料等を参考にして、
石垣が積んだというか、
新たに積んだというか。
それともう一つ私が知っていることを言いますと、
あっちの潮見ヤグラ、
新潮見ヤグラじゃないですか。
現在の潮見ヤグラ、
大変耐震工事がしっかりされていまして、
実は見えない分、
床の下で、
振り子になる形がとられているので、
なんていうんですかね。
一緒に揺れる。
一緒に揺れる。
見えない部分は相当現代的な。
石垣の下あたりは隠されています。
なるほど。
耐震装置がですね。
装甲機はいくらというんですか。
4億じゃないですか。
すげえ。そんなにかかるんだ。
首の1個が500円。
釘だけで200万円かかると言っている。
200万円という。
それはどういうこと。
最新の釘を使うから。
昔と同じようなものを再現して使う。
昔のやつを再現しているからですよ。
なるほど。
先ほど潮見ヤグラを拝見すると、
古い見つかった潮見ヤグラでは
昔の財務省の名前が書いていましたけど、
最近は施主として高島市長の名前が書いていました。
書いていましたね。
あと市の幹部の。
市の幹部の。
市の幹部の名前が書いていましたね。
あとこのヤグラはですね。
五門。
どっちだったっけ。
足村五門セットでですね。
福岡城の最大の
見学スポットですね。
人が多いですね。
ここは焼けたんですよ。
焼けた後ですね。
まあ焼けましたけど。
焼ける前の写真が残っていますから。
はいはい。
いつでしたっけ。
いやいや違う違う。
現在です。
どれくらい前だったかな。
10年前から20年前焼けたんですよ。
そんな近くに。
それでですね。
その時もまた再建するにあたってですね。
実はその
ちょっとその
古い図面とか写真とか
幕末から明治の写真とかとはですね。
焼ける前の構造も
ちょっと違ってたんじゃないかと。
またこれを
再建するときもですね。
相当な
ローソー接続があって
今のように再建されています。
えー。
それこそ
掘り先生方の論文で書いてあるんですけどね。
まあ例えば
窓の作りが実は
焼ける前の再建。
焼ける前も結局
ある程度再建ですからね。
焼ける前のやつも
窓の位置が違うんじゃないかとか
いろいろ論争があってですね。
その論争確認が
あった後
その課題があった後
その形になったということです。
まあ再建するというのは
釣りの式ですからね。
相当なこの
細かい確認
こういうのが行われます。
エンディングの前に
一つお知らせで
西日本新聞のポッドキャスト番組が
また一つ誕生いたしました。
番組のタイトルは
西日本新聞ゆるり政治講です。
長田町で日々取材をする
東京報道部の記者たちが
政治を身近に感じてもらえるようにと
ゆるりとニュース解説や
裏話をする番組です。
毎週土曜日配信しております。
どうぞお聞きください。
それではエンディングです。
ここまで聞いていただきありがとうございました。
堀木さんが
全国各地のお城をドローンで撮影した
YouTube番組
ホラーから攻めるは公表配信中です。
ぜひそちらもご覧ください。
それから堀木さんの
封殺と専門家の解説で
九州のお城を紹介する
城九州戦国ドローンは
西日本新聞と
スマホアプリの西日本新聞ミーで
連載中です。ご購読の方
ぜひよろしくお願いいたします。
本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
こんにちは。福岡のニュースアプリ
西日本新聞ミーの横山智則です。
福岡城のブグヤグラを探求
今日も前回に引き続きで
福岡城シリーズの第3話目で
ございまして
西日本新聞の坂本さん、りょうさん
それと郷土地下の清田さんが
ご一緒です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ここまで
ここからは
どこに行くんでしたっけ?横山さん
ブグヤグラを見に行く
ブグヤグラだったところを
見に行く。探求すると言うか
探求する。はい。わかりました。
心で見るということですね。はい。
掘りの跡から
三の丸、二の丸と上がってきまして
黒田永政が
天守の守りであると書上に書いてます
ブグヤグラを乗せてました
石垣の下に参りました。
この石垣の上に
石垣の上が本丸なんですけど
左手は天守台があります。はい。
この石垣の上の左手に天守台がありまして
天守台の
南西角、天守台があります
本丸の南西角の
今、下におります。はい。
ここにですね、三層のブグヤグラが
ありまして、何度も言いますけど
例えば
比べますと愛媛県ですね
愛媛県伊予松山の松山城の
天守角の規模に相当する
三層のヤグラ
ブグヤグラがここに立っておりました
それは前もご説明
うんうん。一話目で先生がおっしゃって
大正時代には写真が
残ってます。うん。
具体的にですね、この石垣を
築くにあたって、ブグヤグラを築くに
あたっている黒田長政がこの頃の
石垣武士の担当で
ありました舛添と
野村という家臣に対して
その時ですね、実は長政はですね
なかなか都から家康に返して
もらえなくて、まあ
慶長六年の話なんですけども
それは色々その、黒田家がですね
西奥の初代名と関わりが
ありましたから、戦後処理のですね
指紋が
家康から黒田家にあったはずです
なかなか家康の
西奥に対する戦後処理
それで、なかなか
長政も
父であります官兵衛も
都から返してもらえずに、なかなか
返ってこれなかったんですけども
慶長六年ですね、いよいよ
石垣など武士園を
始めなくてはいけないという時に
官兵衛は先に一足先に帰ってきてたんです
長政は
都から
諸行を増田と
戸倉に与えまして
この戸倉を乗せる石垣について
親父官兵衛が色々言うけれども
当初
打ち合わせ通りに
急いで武士園を進めようという
諸行を残してます
ですからこの戸倉の
石垣、そして戸倉自体で
具体的に
長政が親父官兵衛との間で
設計について
考え方が違って
急げという諸行を残した
諸行という
誘惑がある石垣であり
また戸倉であってですね
歴史的に貴重な
文書素人としても
貴重なものを伝える石垣であり
戸倉であるということが
黒田家と石垣の歴史
言えます
この石垣自体は
福岡城内で
最長の長さを持った石垣です
ちょっとそれが見える方向
長いってことですか
東西に一番長い
それと高さもですね
具体的に検索すればわかります
確かに高さも
20メートル近く
戸倉を入れると30メートル
最長最大の石垣がここです
福岡城内
これが清朝6年というか1601年
月が春の翌年
8月に検索が始まったということです
その検索するにあたって
官兵衛は親父との意見が違うもんだから
親父の言うことは無視して
さっさとやれよという諸情が残っています
約70メートル
高さも最高で
桜が綺麗ですけども
ここに
西墨谷
谷倉の構造は
多門谷倉もそうですけども
角々に谷倉が立つわけです
こっち側は西墨谷倉
三層の谷倉がありました
向こう側に東墨谷倉
右谷倉の東墨谷倉が向こう側に
三層でありまして
左谷倉がつないで
全部を総合して
72メートルの石垣の上に立っている
全部を総合して武谷倉と言うんですけど
個別には西墨谷倉
東墨谷倉
何度も言いますように
見上げます
最高の高さの石垣の上に
さらに他のお城では
天地閣クラスの
大きさの規模の谷倉が
三層
三階建て
これが
大正年間だったか
とにかく陸軍の兵衛ができまして
それで
払い下げがされまして
この武谷倉については
黒田港の別邸が
今で言う浜の町にありまして
その浜の町に移されました
それは全く
ここに建っていた状況と同じ形で
移設され
写真も残っています
移設する前の写真も
残っているわけですね
この石垣があって
1,2,3階建て
西住谷倉
東住谷倉があって
白谷倉でつながっていて
全体を武谷倉
武器の倉庫
だいたい
何人に使っていたか
使うんです
例えば川谷倉もあります
この下に川谷倉
川製品を入れたそうで
時谷倉
今は全市読谷倉になってしまった
川製の谷倉ですね
時谷倉は
そこで
金をついて時間を知らせたと
大体
用途で谷倉の名前が
呼ばれますね
ここはとにかく発掘調査も終わっているんですよ
検索すれば武谷倉発掘調査
きっとしますけど
いろいろ資料が揃っていますから
写真もある
発掘調査も終わっている
お集い向きに
異設寺
異設寺前か
異設寺か
骨組みの写真も残っている
だから文化庁に対して
再検を求めれば
間違いなく
やれという報告が出るだろうと
ここはできるんだ
やろうと思えば
武谷倉を再検するみたいな話も
市の計画として上がったこともあるんですか
それは
福岡市の
整備計画の中で
ランクが付けられています
再検の可能性の優先度みたいな
可能性の優先度みたいな
武谷倉は
2番目のランクにあります
当然再検があった
潮宮倉1番目のランクだったんですけど
次は
いろいろあった
建設物
建築物の中で
2番目はやっぱり
潮宮倉の次は武谷倉ですよね
残っている
その上その規模としては
福岡県の
谷倉の中では当然最大規模
ですし
対外的に見れば
愛媛県の
伊尾松山城の
天守閣クラスの規模がある
という点では
当然早々に
文化庁に対して
検証を
始めた方がいいのではないかと
私は思う
かなり立派なものができますね
再検すると
歴史に興味があるものとしては
最初に
お話ししましたけど
奥村玉蘭の絵で
武谷倉を再検しますと
絵の中心の丘の上にあります
山荘の武谷倉
左手には潮宮倉が
御堀公園の西側から
見える
風景自体は
神谷総担任期に
残しています
黒田勘弁と
黒田長政と
三者で
御堀公園の西側
黒田家の茶室で
茶室を行った
そこから見た
黒田長政あるいは
神谷総担が見た風景を
再現することになって
意味があると
私はそう思います
清朝6年1601年に
黒田勘弁長政親子と神谷総担が
見た景色が再現できる
そのためには
この武谷倉を再建する
福岡城の再建計画
必要がある
歴史的に深い
意味があります
それプラス
石垣の設計については
勘弁と
親父の勘弁と
御堀川の仲正が
親父は無視してやれと
現場の町田所に
言ったと
その症状
その症状あたりも
お渡しした資料の中に
ここは
清谷日記中の
ここから見た
茶会の記録
茶会記は
あれなんですよ
道具
と書いてあるだけです
景色の感想などは
ないですけど
松原の茶屋と言ってたんですけど
現在では大堀小屋の西側に
松原の茶屋と呼んでた
茶屋がありまして
そこで茶会をやってたわけですから
こういう風景を見てたということで
堀の掘削のこと
喋っちゃいました
実は私が
福岡城の最大の工事は何かと
よく
言うんですけども
南側の堀ですね
実はこの南側にも
堀を通してますけども
向こう側からですね
南公園があります
動物園があります
大宮山と言ってましたから
大宮山から途中赤坂山と言います
ずっと丘陵が続いて
その丘陵は天守台まで
続いてあります
ですからこの
石垣と
天守台石垣と
向こうが今マンションが去ってますけど
道路で言えば欅通りが
六本松と西に
分かれる豪福神社があって
そこのところは実は
丘陵が続いていたので黒田が
改札しまして堀切りを
作ってですねさらにその
堀切りを作って改札した
霧通しを作った下を
堀を掘ってるんです
大変な工事だったと
そうですよね
堀を崩して地面まで下げて
さらに掘ることが
掘ったということですね
土はどこにあったかというと
大堀公園の北側ですね
今の住所で言いますと
大手門ですか港町を
埋め立てるのに
町を作るのに作ったと
考えられます
本当まさに長政が
リアグラの石垣
天守の守りであると言いましたけども
さらにその先は
天守の守りとしての
大規模な堀を作る
峰を削ってですね
山を削ってその下をさらに
掘って堀を作るという
守るための工事をしたと
いうことになります
すごい工事ですよね
削らないとすぐ天守台が
攻められてしまうからという
向こうから峰伝いが来るから
来るから
攻めてくるということですね
平山城ですよね
向こう側は馬の関係の
家臣が住んでいたんですよ
住所は赤坂とか
上水通り
あのあたりですか
住所は何なのかな
赤坂でしょうね
小爪を見ると馬屋って書いてあった
馬の関係
ちょっと話が飛びますけど
この下ですね
西側の角
福岡城にはですね
3つ入り口がありまして
表側は今でも
あれが五門と矢倉が
残ってます下の橋
下の橋です
もう一つは今駐車場になってますけど
裁判所がありました上の橋
もう一つは
こちらが追い回し
追い回し橋というのがあって
追い回し門の再建
福岡市美術館に行く方向の角なんですけど
橋残ってますよね
あれが追い回しも
復元した体になってるんですけど
この3つです
なぜ追い回し門というかと言いますと
その向こうに
馬の世話をする家臣がいましたから
緊急事態には
馬を追い回して
城内にあるいは
城内から馬をですね
突出させる
追い回しを突出させるということでですね
追い回し門というのが
西隅にはありました
再建された塩宮からと
反対方向ですね
ちょうど反対方向の角
は追い回し門がありました
追い回し門から上がってきたら
ブギャグラの高い石垣があって
ブギャグラが立ってたということです
そういう
構造になっております
間には大工事の掘りがある
ということでございます
天守閣の歴史的意義
なるほど一旦そしたら
ブギャグラ編は
いよいよ展示台に登ってきました
今からですね
攻め上る
ここで一旦
第3話目
じゃあ一つお知らせをさせてください
西日本新聞のポッドキャスト番組が
また一つ誕生いたしました
番組のタイトルは
西日本新聞ゆるり政治講
政治を考える番組です
永田町で日々取材をする
東京報道部の記者たちが
政治を身近に感じてもらえるようにと
ゆるりニュース解説や
裏話をする番組です
毎週土曜日配信しております
それではエンディングです
ここまで聞いていただきありがとうございました
堀切さんが全国各地のお城を
ドローンで撮影したyoutube番組
空から攻めるは好評配信中です
それから堀切さんと
堀切さんの空撮
専門家の解説で
九州のお城を紹介する
城九州戦国ドローンは
西日本新聞とスマホアプリ
西日本新聞みで
こちらは連載中です
ぜひチャンネル登録をよろしくお願いします
本日はありがとうございました
ありがとうございました
西日本新聞みの横山智則です
そして今回
福岡城シリーズ
第4話
西日本新聞の坂本さん
りょうさん
京都市課の清田進さんと
ご一緒です
今日もよろしくお願いします
いよいよ
テンシュ台の
見えるところに
攻めろと思ったら登れない
登れなかったですね
大挙劣で
時期を間違えましたね
桜満開で
無念でござるが
ここでお話を
今ちょうど
テンシュ企画
再建
新築
同行で話があってまして
学術的にといいますか
テンシュ企画がなかったと
言ってらっしゃるのは旧代の
鳩尾秀夫先生で
私は鳩尾秀夫先生の文章
論文をだいぶ読んでまして
いろいろ参考にさせてもらいますから
大変申し訳ない
言い方なんですけど
ちょっと無かったというのは
いろいろ資料等から考えると
ちょっと無理があると
鳩尾先生は
お金が無かったから
建てんかったじゃないと
ちょっと無理があると
私が一番参考にしているのは
去年でしたかね
福岡市博物館の館長になられた
旧代の先生でありました
中野人志先生ですけども
中野先生は
館営15年頃までに
あったけれども
何らかの理由で
テンシュ企画は失ってしまったんだと
いうことであります
それは
そこまであったというのは
黒田忠幸の
具体的な
館営の所情なども残ってまして
テンシュ企画の
面倒を見てました
侍であります
郡正太夫と野村駿
この二人が
忠幸時代とテンシュ企画の
面倒を見させられていたようで
二人に対して
テンシュ企画の内部にあります
いろいろなものを
再度改めて一覧にせよ
という
残っています
あともう一つは
テンシュ企画に置いている
金金銀を
どうこうしろという
指令の所情を残しています
ですから忠幸時代までは
はっきりテンシュ企画として
書いてあったということですね
関原後の
1601年くらい以降に
建てられて
館営15年1638年
建てられて
160年後くらいまでは
あったのではないかと
亡くなった理由は
中野先生も何らかの理由で
それまでの
忠幸の所情などに
雷が落ちて
どうのこうのみたいなのもあるから
一番可能性が高いのは天災
落雷だとかで
消失したということですね
その後
歴代版紙は再建しなかった
ということです
これ打ち始めて
今話していなかったのに思い出したのですが
変わって細川藩
熊本の場合は
何度テンシュが
焼けても
地震で崩壊しても
再建しています
だから細川藩は
藩主の意思で
明治10年に再び焼け落ちるまで
西南戦争に焼け落ちるまで
維持されたということなんです
福岡の藩主は
藩主に対する
執着心がさらっとしていたのだと
思います
実際長政が
今話題になっている
長政の
天守閣についての
考え方を
細川忠幸が
過ごした所情
これが天守閣再建したいという
方の中で
天守はあったんだと
証拠に挙げられる
その中で長政が
忠幸いわく
長政は天守閣を壊すらしいぞと
息子に対して
そういう所情を送っているんです
細川忠幸
黒田の長政は天守閣を壊すらしいと
壊す理由の中に
いやいや
太平の時代になって
攻められても徳川様が守ってくれるから
天守閣はいらないんだと
長政は言っていると
黒田家は天守に対する
執着がなかったのではないかと
考えられます
江戸城も
かつて天守閣がありましたが
大火で焼けた後に
再建するかどうか
考えられる
黒田家は
天守に対する
執着がなかったのではないかと
考えられます
江戸城も
かつて天守閣がありましたが
大火で焼けた後に
再建するかどうか
国家良さの当時点で再建するよりも
民を救ったり
国の安定に使った方がいいということで
もはや戦国の時代ではないので
天守閣は必要ないということで
再建しなかった
江戸城も残っています
私は
細川藩と比べた場合
いくら天才にあっても
こだわって
天守を再建してきた
それは
細川家の
藩の
一方
長政がそう言ったと
事実かどうか分かりませんが
天守は不要であるというのが
黒田家に伝わる
それを無視して
現在の私たちが
無視して再建するということは
どういうことかという点も
私は考えております
ちなみに
福岡城跡は国の史跡ですが
天守台で初めてとなる
学術的な発掘調査が
今年6月にも着手される
福岡市によると
国の史跡に指定されている天守台での
発掘調査については
今年2月に文科庁から許可が出たということで
6月にも
始めたとなる学術調査をする
発掘調査は東西に
25m
南北に22mの天守台の
頂上に
半年ほどかけて進められます
天守台が天守閣の
重さに耐える強度があったか
それだけ重い建物が
乗るだけの強度があったかどうかとか
手掛かりとなる出土品がないかを
調べるためにレーダー探査や
ボーリング調査も実施すると
掘り返してみるということでしょうね
そうですね
新年度中に調査が行われるので
調査の意義と未解決の問題
期間中は天守台への立ち入りが
制限される
今日もたくさんの方が
調査が始まる前に行ってみようということで
行列を作っていて我々が登れなかった
人が多くて我々は天守台に
攻め登ることができなかったということですね
実際
どんな調査の意義というか
あの
意義ですか
文化庁側はですね
木があったかどうかを
確かめる調査なんですね
文化庁側が
新築させない
理由というのは
再建ではないからなんですよね
結局
構造上の
確証がないということなんですよ
なんとかなかったら問題じゃないから
これ以上は
言いませんが
大変失礼な
単語が頭に噛んだんですけど
申し訳ませんけども
視点がずれてるんですね
それで
私としては
調査するんだと
実は
学術的な
高校学的な
調査されたことないんですよ
ないんですね
ないんだけども
昭和39年に
NHKが
NHKが
学者さんに先駆けて
天守台を
掃除しよったら
古墳時代の石棺が
見つかったという報道を
してたんです
それをタカノコ6という
ザイヤの研究者が
ニュースを見まして
石棺が天守台にあったのかということで
翌日だからすぐ
見に行って
見に行くと石棺が
割ろうとしてたんですよ
お前どうするのか
重いのを残土処理所に
持っていくのに重いから
3つぐらいに割ろうと思うんだけど
ちょっと待ってくれとタカノコさんは
止めてですね
有名な航路勘を発見することになる
道を開いた
平山定次郎先生を呼んで
旧タカノコ
お医者さんですけどザイヤの研究者
航路勘などを研究して来られた
平山先生を呼んで
これは古墳の間違いなく
石棺であると質疑である
ということで
なんとか
救われて
何が分かったかと言いますと
あの
高山
ホロクさんのレポートでは
間違いなく
地山の上に
この天守台はあると
地山の上に石棺が
乗っているということは
古墳時代の
地面が残っていると
残っているということなんですが
ということはですね
今回の調査で
掘るとですね
古墳の遺物が出てくる
なるほど
かつてさっき平山定次郎と
言いましたけどここは
丘、丘陵、山があって
そこに天守台ができたんですけど
そのもっと前にさらに
古墳時代、航路勘の時代よりも
さらに前に古墳が
あったと
頂上部分だからということですかね
山の上に
古墳の丘陵ですね
古墳の墳丘か
墳丘をほぼ削らずに
あの
天守台の床というんですかね
があるということですね
天守台の
専門用語でなんて言いますか
天守台の床ですね
床面があるんだということですね
じゃあその古代の
古墳の墳丘、丘ですよね
その丘のところに
天守台の発掘調査
天守台を作った
と言う
古墳さんのレポートでは
ほぼそれを掘り下げてない
せっかくある位置
せっかくどろんと残っていたということですからね
掘り下げていれば
そのせっかくは
どこか持っていっている
そこに残っているということは
掘り下げていないということです
墳丘の周りを石垣で固めて
天守台を作った可能性があるということですね
あと周りを整えて
それでですね
華厳神社が今も天神のあそこに
ありますけれども
華厳神社はその辺にあったんですよ
天守台の下に
この辺はなんか
祭祀の空間であったと言えるんですね
ああ
華厳神社についてですね
茅原県がなんか
よくわからん神社みたいな
書いてます
はっきり言うとよくわからんな
みたいな
おそらくですね
高山コロックはですね
コロック氏は
それをレポートしているんですけど
そのレポートの150ページ
程度のですね
平和台の広告資料という
レポートしています
手書きでですね
副題に唯一残っていまして
この間コピーしに行ったんですけど
その
石棺を救ったという
記事の後にすぐ
華厳神社のことを書いてるんです
華厳神社はここにあってみたいな
天守台の下にあったみたいな
書いてるんですけど
おそらく
熊本のチプサン公墳がそうなんですけど
金星になると
お父が出る神様として
チプサン公墳の
現室自体が
お祭りの対象になってるんですよね
それを考えると
華厳神社の前身があって
古墳があってですね
お城ができる前に
古墳があったということは
もしかしたら古墳をですね
お祭りする拝殿が
華厳神社とであったのではないかと
高野孤六がですね
石棺を発見した後に
華厳神社のことも書いてるんで
高野さんもそれを
好み化したかったんじゃないか
そういうことではないか
という見合いで
書いてるんじゃないかと思うんですよね
石棺
石の棺ですよね
それは
普通に考えて福岡市博物館あると思う
ちょっとまだ確かめてないですか
坂本さん今度聞いてみてください
天守台を掃除しようとしたら
出てきたって言われて
それを割ろうとしたけど
それがどこにあるのか
普通に考えて福岡市博物館あると思いますけどね
面白いですね
それがもしかすると今回の発掘調査で
何らか紛糾の跡が
見つかるかもしれない
苦想品が出てくるかもしれない
その時にちょうど
孤六さんが止めた時に
石工の親分にですね
当領にね
他なんかなかったかと聞いたら
なんか壺みたいなのがあったか
なんて書いてたか
要するに何かあったか
あったけどよくわからんことを
言っとったというか
持ってったということですよ
古墳群の確認
石工って石工のことですか
そうです
石垣を整える
その時ですね
なんでNHKの記者がそれを
整備してたんですよ
全体としてですね
その時が福岡城が公園として
整備されてたんじゃないですかね
その中の一つの工事と言いますか
整備の中で
この停止台の中に入って
石工さんが石垣と
触ってたんじゃないですか
そこをNHKの記者がたまたま来て
これ石幹だって
それを全く
工工学に詳しい人が
あったんでしょうね
それで報道したの
高野さんが見てたまたま見て
これはもしかして
この石幹がどこかに
持っていかないかと思って見に来たということです
なるほど
面白いですね
実はこの丘陵はですね
実は福岡市博物館の
方としては
このケゴ丘陵と
高野丘陵
名称してまして
ケゴ古墳群と
呼んでます
だからこの停止台は福岡市博物館の方では
停止台古墳群と
名称してます
もう少し南の方に行きますと
実はこの
赤坂山がありますけど
このある横には畜生河原がありますけど
畜生河原高校
畜生河原高校の中は2つ
丸山古墳
チャウス山古墳
2つ60m級のですね
古墳が確認されてます
その近くにはもう1つチャウス塚古墳
というのがありまして
実はこれ3つですね
江戸時代から確認されてたんですよ
これは
畜生河原の丸山古墳の方は
茅原越見がですね
丸山ってところでたくさん円筒状の
川崎が出てる
それが円筒埴輪のことですね
そのあと
筑前植
付録を書いた
加藤一巡という人がですね
越見の続編を書いた人が
やっぱりチャウス塚古墳
チャウス塚ってのがあってみたいな
そのあとまた
筑前国族録取
これは青山
簡単にログって書いてある
そこはやっぱりチャウス山ってのがあって
って書いてありまして
それを平成7年の福岡県の調査でですね
古墳と
確認できたんです
それがこの
天守台のですね天守台古墳の南側に
ありまして
北側に行くと
古墳の
副葬品と確認されるものが
いくつも出てまして
コロカンの周りからはですね
コロカン確かABC古墳
少なくとも3つから4つ
古墳があったということが
確認されてます
福岡城の歴史的意義
なるほど
面白いです
私はですね
私は
黒田のことも知らてますけどね
今回の調査
新しい知見が出るのを
楽しみにしております
なるほど楽しみですね
天守閣の
河原みたいなのが出てくるかもしれないけど
さらに
さらに
もっと
まかたまとか
谷和みたいなのが
出てくるかもしれない
天守閣よりももっとこの
歴史的な意義があるものが
出てくるかもしれないですね
面白い
これがですね
福岡城が建設される前の
福岡城
黒田がこの地形を扱う前の
創造図なんですよ
これ福岡博物館の
図に私がいろいろ書き込まれてるんですけど
このアルファベットで
示してるのが古墳の
まさにこの周り
さっき言ってたあった位置
天守台がありまして
それとですねさらにこの
BCここは
よくある博多小津
というのになりまして
これが埋め立てる前の
大堀湖の入り口なんですけど
大竹市小竹市というのが
ありまして
茅原一見が
筑前国族に書いてるんですけども
ここには
毎年
春の大祭で
墨尾神社さんの
御神輿が来てお祭りをしてると
それは
墨尾神社さんというのは
祖骨葬の神が
祭神ですけども
四川室神社さんは
足摘みの神が祭神ですけども
同じ時に生まれた神様
足摘みの神
というのがですね
この大竹市小竹市
この大堀公園の
入り口であった
岩床
小竹市小竹市に
足摘みの神が降臨して
そこに墨尾神社さんが来て
お祭りをしてた
という記述が
茅原一見やってます
ということは
赤坂山
もっと南に行きますと
現在
動物園等があるですね
江戸時代は大旧山といった山から
赤坂山
そして
小竹の天守台
大堀公園の出口
お祭りの空間だと
いうことが
言えるわけでございます
以上
なるほど
興味深い話でしたね
調査がどうなるか
楽しみですよね
一度もあの下を
調べたことが今までなかったというのが
それはそれで不思議だなと
思いますけど
天守台の
祖跡もあるんですよ
天守台としては
それ以上の
調査の必要がないということだと思います
あー
祖跡も16個くらい
天守閣の柱を支えた
祖跡が16個くらいありますからね
調査は必要ない
という感じだったんですけど
天守台ということで
それ以上の
まさか古墳があるというようなことは
想像もしなかったでしょうか
あー
天守閣があったのかなかったのか
そしてそれを再建するべきか
新築すべきか色々議論がありますけども
この天守台を調べること自体は
すごく意義があります
そうですよね
私の興味はそっちのほうがいい
もっと奥深い歴史のところがね
何が古墳であるのか
何が出てくるかな
おもしろい楽しみですね
じゃーん
古墳時代からこのあたりは
王様が住んでいたから古墳があるということでしょう
そうですね
住んでいたら
古墳の平地でしょうね
末ってね
それがその後航路館となり
そうですよね
そして福岡城となって
なるほど
おもしろい
4話に続いて
福岡城をお届けしましたけども
いかがでしたか
横浜さん
それでいうと
今回のこの地域の話題として
一個取りこぼしているのは航路館なんです
航路館の話まだしてないんですよね
なので航路館の
あの頃の博多の町の
話っていうのも
戦国山城
ポッドキャストからはちょっとまた
出るかもしれませんけど
していきたいのか
航路館っていうのは簡単に言うと
なんなんですか
いきなり航路館来ます
外国施設
ですよね
元は竹篠室積みと
呼ばれてまして
対外施設が出てくるとき
あるいは対外施設が来るとき
受け入れ等をやった
ということです
対外と同時に
いろいろな対外的な
事務処理を
やってたと思うので
ありがとうございました
佐藤さんいかがでしたか
福岡城
実際京都地下の
教授さんと一緒に歩いたことで
いろいろ歴史が
知らなかったこともたくさんあって
地域の宝だなと
改めて思いました
面白かった
大事にしていかないといけないですね
そうですね
できるだけシーズンに乗って
大事にしてもらいたいですね
切なる思い
あとググヤグラの再建
これぜひ
福岡城という点では
ググヤグラなんです
あれほどの規模で
資料も残ってる
余計な方に
精力を
取ろうと思いますから
文化庁が許可を下ろすと
例えば
飛んでしまいますけど
日本の世界遺産って
どうなのってユネスコが思うと
思うんですよね
日本の文化庁の
ユネスコに対する
方向は信用できるんじゃないと
私は大変
飛躍しますけど
いろんな意味で
福岡城の現状とその重要性
頑張っていきたいですね
ありがとうございました
ありがとうございました
それではエンディングでいいですか
一つお知らせをさせてください
西日本新聞のポッドキャスト番組は
また一つ誕生いたしました
番組のタイトルは
西日本新聞ゆるり政治講
永田町で日々取材をする東京報道部の記者たちへ
政治を身近に感じてもらえるように
ゆるりとニュース解説や
裏返しをする番組です
毎週土曜日開始です
それではエンディングです
ここまで聞いていただき
ありがとうございました
堀切さんが全国各地のお城を
ドローンで撮影したyoutube番組
空から攻めるは好評配信中です
それから堀切さんの空撮と
専門家の解説で
九州のお城を紹介する
城九州戦国ドローンは
西日本新聞とスマホアプリの
西日本新聞2で連載中です
ご購読の方ぜひよろしくお願いいたします
本日はありがとうございました
ありがとうございました
01:13:49

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