西日本新聞Podcast
西日本新聞 戦国山城Podcast
この番組では、福岡県内だけでも戦地核あったとされる、戦国時代の山城の魅力を、現地を歩きながらお話ししてまいります。
山城の研究は、地理や歴史だけでなく、軍事や地域経済など、いくつもの側面があります。
かつてその地で暮らした人々の息吹を、一緒に感じてみませんか。
こんにちは。福岡のニュースアプリ、西日本新聞民の横山智則です。
そして今回、福岡城シリーズ第4話。
西日本新聞の坂本さん、りょうさん、それと、京都市下の清田進さんとご一緒です。
今日もよろしくお願いします。
いよいよ天守台の下まで。
天守閣を攻めろと思ったら登れない。登れんかったですね。
無念でござるが、ここでお話を。
今ちょうど天守閣再建、新築同行で話があってまして、
学術的にと言いますか、天守閣がなかったと言ってらっしゃるのは旧代の服部秀夫先生で、
私は服部秀夫先生の文章論文をだいぶ読んでまして、
いろいろ参考にさせてもらいますから、大変申し訳ない言い方なんですけど、
なかったというのはですね、いろいろこの資料等から考えるとですね、
ちょっと無理があると。
服部先生は、黒田さんお金がなかったから建てんかったじゃないとということなんですけどね、
ちょっと無理があると思います。
私が一番参考にしているのは、工科士博物館の館長になられた旧代の先生でありました中野人志先生ですけども、
中野先生は館営15年頃までにあったけれども、
何らかの理由で天守閣は失ってしまったんだということであります。
それは、そこまであったというのはですね、
黒田忠幸の具体的な命令の書上なんかも残ってましてですね、
天守閣の面倒を見てました侍であります郡正太夫と野村駿、
この二人が忠幸時代と天守閣の面倒を見させられてたようでですね、
二人に対して天守閣の内部にありますいろいろなものですね、
もう再度改めて一覧にせよという書上が残ってます。
それとあともう一つは天守閣に置いているお金金銀をどうこうしろという司令の書上を残してます。
ですから忠幸時代まではもうはっきり天守閣として書いてですね、
ですからあったということですね。
関原後の1601年くらい以降に建てられて、
丹永15年、1638年、
建てられて30年後くらいまではあったのではないか。
亡くなった理由はですね、中野先生も何らかの理由でという、
ちょっとそれまでのですね、やっぱり忠幸の書上などに、
雷が落ちてどうのこうのみたいなのもあるからですね、
一番可能性が高いのは天才じゃないでしょうかね、
消失したというようなですね。
その後ですね、歴代藩主は再建しなかったということなんです。
ちょっとこれ打ち合わせて今話してなかったので思い出したんですけど、
変わってですね細川藩熊本の場合はですね、
何度天守が焼けても地震で崩壊しても再建してます。
だから細川藩はですね藩主の意思で明治10年に再び焼け落ちるまで、
西南戦争に焼け落ちるまでですね、維持されたということなんですね。
まあ福岡の藩主はですね、やっぱりその辺天守に対する
執着心がさらっとしてたんだと言えます。
実際長政がですね、今ちょっと話題になっている長政の天守閣についてのですね、
考え方を細川忠祐がですね記した書上、
これがですね、天守閣再建したいという方の中でですね、
まあ天守はあったんだと証拠に挙げられる書上なんですけども、
その中で長政がですね、忠祐いわくですね、
長政はもう天守閣を壊すらしいぞと、
息子に対してそういう書上を送ってるんですよね、細川忠祐が。
どうも黒田の長政は天守閣を壊すらしいと、
その壊す理由の中に、いやいやもうこの太平の時代になって
攻められても徳川様が守ってくれるから天守閣はいらないんだと、
長政は言ってると、忠祐が書いてるんです。
それは事実であればですね、
長政自体その天守閣に対するそのこだわりがなかったとも考えられます。
ちょっとその忠祐と長政はまたある理由で大変対立してましたからね、
忠祐がまあ膨らまして書いてるかもしれませんけども、
事実であればですね、長政候補の時代から
黒田家は天守に対する執着がなかったんじゃないかと考えられます。
江戸城もあれですよね、かつて天守閣がありましたけども、
大火で焼けた後に再建するかどうかってなった時に、
その国家良さの当時点で再建するよりも、
その民を救ったりとかその国の安定に使ったほうがいいということで、
もはや戦国の時代ではないので天守閣は必要ないということで
再建しなかったということなんですよね。
天守台だけが江戸城に残ってます。
だからまあ私はですね、細川藩と比べた場合ですね、
やはりこういくら天才にあってもですね、
こだわって天守を再建してきたと、
それはまあ細川家の反風と言いますかね、反のあれですよね。
一方、長政がそう言ったと事実かどうか分かりませんけども、
天守の後不要であるというのが黒田家に伝わる反風であると、
それを無視して現在の私たちがですね、
無視して再建するということはどういうことかという点も、
実は私は考えております。
ちなみに福岡市、福岡城跡は国の史跡ですけども、
天守台で初めてとなる学術的な発掘調査が今年6月にも着手されると。
福岡市によると国の史跡に指定されている天守台での発掘調査については、
今年2月に文化庁から許可が出たということで、
6月にも初めてとなる学術調査をすると。
発掘調査は東西に25メートル、南北に22メートルの天守台の一番の頂上部に
半年ほどかけて進められますと。
天守台が天守閣の重さに耐える強度があったか、
それだけ重い建物が乗るだけの強度があったかどうかとか、
手掛かりとなる出土品がないかを調べるために、
レーダー探査やボーリング調査も実施すると。
少し掘り返してみるってことでしょうね。
新年度中に調査が行われるので、期間中は天守台への立ち入りが制限されます。
それで、今日もたくさんの方が調査始まる前に行ってみようということで、
行列を作ってて、我々に乗って。
人が多くて、我々は天守台に攻め登ることができなかったということですね。
実際、調査の意義というか。
文化庁側はですね、