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2025-03-24 25:37

24|軍歴照会でたどるあなたの家族の軌跡 教えてください、戦争の記録と記憶

西日本新聞の記者たちが、取材の裏側やニュース解説、福岡の街のあれやこれやをお話しする「西日本新聞me Podcast」。

西日本新聞は読者のみなさんとともに、わが家と戦争の「記録と記憶」を書き留めるキャンペーン報道「うちにも戦争があった~あなたの家族の軌跡~」を展開しています。ご存命の戦争体験者の証言や、家族が聞いた話をお寄せください。そして、みなさんに親族の「軍歴」の照会を呼びかけています。

◆出演:坂本信博(報道センター)、仲山 美葵(同)横山智徳(MC/メディア戦略局)/音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:井上知哉(ビジネス開発部)

◆収録日:2025年2月17日

◆軍歴証明書・資料の申請方法
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1162714/

◆存命の戦争体験者の証言や家族が聞いた話を、ご親族の「軍歴証明書」とともにお寄せください。
https://form.run/@nnp-sengo80nen

◆連載・うちにも戦争があった
https://www.nishinippon.co.jp/serialization/memories-of-war/

◆坂本信博記者の記事一覧
https://www.nishinippon.co.jp/writer/show/1/

◆仲山 美葵記者の記事一覧
https://www.nishinippon.co.jp/writer/show/143/

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#西日本新聞 #西日本新聞me #西日本新聞mePodcast #西日本新聞ポッドキャスト #西ポキャ #うちにも戦争があった #戦後80年 #軍歴照会

Summary

このエピソードでは、戦後80年のキャンペーン報道「うちにも戦争があった」を通じて、家族の戦争記録や記憶を探求しています。特に、軍歴証明書の交付申請を通じて、個々の戦闘体験を振り返る重要性が強調され、過去の記録と家族の記憶の接点が明らかにされています。また、軍歴を通じて家族の戦争の記憶に迫り、大島やカケロマ島での特攻活動についても話が展開されています。さらに、個々のエピソードから戦争の影響を考察し、戦後の家族の思い出や感情が語られています。軍歴紹介キャンペーンを通じて、家族の戦争の歴史を掘り起こし、平和学習としての意義を感じることができる内容です。

戦後80年の取り組み
西日本新聞Podcast
西日本新聞me Podcast
この番組では、西日本新聞の記者が、取材の裏側やニュース解説、福岡の街のあれやこれをお話ししています。
こんにちは、福岡のニュースアプリ、西日本新聞meの横山智則です。
今回は、報道センターの坂本信尋さんと中山美希さんに来てもらいました。
どうぞよろしくお願いします。
今回は、戦後80年のキャンペーン報道、うちにも戦争があった、についてお話を聞こうと思っておりまして、
冒頭で、ぜひ坂本さんに読んでもらいたい記事がございまして、
これは23年の12月31日、大晦日の朝間に坂本さん自身が書かれたコラムなんですけども、お願いしてよろしいですか。
デスク日記というコラムに入ったものです。
来年のことを言うと鬼が笑うという、明日のことさえわからないのに来年の話をしても仕方ない、今日が大事という意味だ。
熊本県増木町の難し話、鬼が笑った話が由来という説もある。
往年の人気テレビアニメ、漫画日本昔話でも紹介された。
さあ来年のことを言うと鬼はどうするだろう。
2025年は終戦から80年、読者と作る戦後80年報道の準備を進めている。
柱の一つが召集兵を含め、旧軍人軍族だった自分の親族がどこの戦地に赴いたかが分かる
軍力証明書の交付申請を読者に呼びかけ、我が家と戦争を共に見つめる企画。
まずは明日の朝間をご覧いただきたい。
ウクライナでそしてガザで、戦争が一旦始まれば容易には止められないことを世界が思い知らされた一年だった。
進むべき明日を見誤らないため、過去に目を凝らしたい。
日本がこの先もずっと戦後であり続けられるようにというコラボです。
軍歴の記録
ありがとうございます。
今坂本さんの記事の中にもありましたけど、ちなみに坂本さんがこの記事を書いたのは2024年の大晦日じゃなくて2023年の大晦日ですよね。
それで言うと戦後79年にあたる2024年頃から西日本新聞では軍力証明書の交付申請を読者に呼びかけ、そしてそのことについて記事にしておられたんですよね。
2024年、戦後79年の幕開けの元日の朝間からスタートしたのが、うちでも戦争があったあなたの家族の奇跡というキャンペーン報道です。
軍力というのは、招集令状、いわゆる赤紙を受けて兵士となった市民を含む旧日本軍の軍人、軍族。
軍族というのは旧陸海軍の非戦闘員、コックさんとかを含めてですね。
あと工場で働いていた方とか、あと従軍看護婦などの履歴のことです。
入隊した日付、赴いた認知など、死亡や除退までの足跡が記されている、まさに履歴書みたいなものなんですね。
軍歴の資料やそれをまとめた軍歴証明書を、ざっくり言うと陸軍の場合は都道府県、その方が終戦を迎えた際にいた本席地があった都道府県に記録が残っています。
海軍については現在の厚生労働省が、ざっくり言うと保管をしている。
陸軍のものでも厚労省が保管しているものもあるんですけども、基本的には戦争に赴いた方、もしくは国から雇われて技術委員とかなった方の記録というのは残っているということになっています。
戦争を記録する方がどんどん高齢化する中で、ご家族の中でも戦争体験がうまく継承されていないということがあるので、
それではその読者の方やご自身の親族、非おじいさんとかおじいさんとかが、戦争をどう過ごしたのかというのを役所に申請をして、その記録をもう一度手にすることで戦争を見て、
しかもそれを新聞社に寄せてもらって、我々が取材をして記事を書くことで、戦争の実装に迫る、今だからこそできる調査報道ができたらなというので始めたのが、このうちにも戦争があったです。
その証明書って誰でも申し込めば教えてくれるというか、見せてもらえるものなんですか?
これが誰でもできなくてですね、本人と配偶者、これ都道府県とかによって異なるんですが、6信徒以内の血族。
6信徒、まあまあ広いですよね。
そうですね、あとは3信徒以内の姻族、これ結婚した配偶者の血族ですね、ただ自治体によっては3信徒までしか申請できないものもあるので、
暇子までしか申請できない、なのでいつかはできなくなってしまう申請の書類なんですね。
そうか、今はまだ3信徒、6信徒というと、父親母親が1信徒、おじいちゃんおばあちゃんが2信徒、ひいおじいちゃんおばあちゃんは3信徒。
だから今戦後80年という2025年の時点では、なんとなく暇子にあたる人たちというのはまだある意味ご存命ですけれども、それがやっぱり年を追うごとにできなくなっていますよね。
あとはその子供さんとかお孫さんがいない方ですね、20代とかで亡くなった軍人とか兵士の方もたくさんいるので、
そういう方の申請ができるのはもういよいよ本当に今20代とか30代の方が最後になる可能性もあるんですよね、おじいさんとかですね。
そう言われてみれば、うちも大分の祖父母の家には、祖父母は戦後も生きましたんで、父も生まれ、父も生まれ、僕も生まれたんですけど、
やっぱり仏壇の横にですね、若い兵隊さんの家が飾ってあって、たぶん婆さんの弟だったんじゃないかなと思いますけど、そういった方々が実際どこでっていう話っていうのは、僕も今これ何信徒になるんだろうか。
だからそろそろギリギリですよね、僕が申請しないとぐらいのところですよね、おじいさんとかなるとですね。
その申請に必要な書類っていうのはいくつかあって、例えば申請したい当日、例えば祖父と自分の関係を証明する書類ですね、戸籍等本ですよ。
私と父親との関係が証明する戸籍等本、そして父親と祖父との関係を証明する戸籍等本みたいなものがそれぞれ必要になってくるんですよ。
それをまずは陸軍の場合は都道府県に連絡をして、記録が残ってくれるかどうか調べてくれます。
で、ありますよということになると、そういった必要書類を揃えて郵送すると、以前は1週間とかだったんですが、このうちにも戦争があったを始めて戦後80年が近いということもあって、ものすごく申請が増えているそうで、
中には1ヶ月とか2ヶ月とかかかることもありますし、厚労省については郵送でしか問い合わせを受け付けてないので、まずは送ってみて、書類があるかどうか調べてくれて、
そこからまた申請書を送っているということなので、かなり時間がかかるのは時間がかかります。
とはいえ数ヶ月待てば、何らか分かりました、こうです、もしくは分かりませんみたいなことももちろんあるでしょうし。
戦後の混乱期に軍が意図的にもしくは何らかの理由で書類が失われてしまったという、処分されてしまったということもあって、私自身もですね、私の祖父の母方の祖父の方は記録がなかった。
記憶と記録の照合
父方の祖父の方は小倉の陸軍工廠という陸軍の工場で技師として働いてたという記録が見つかったんです。
そうなんですね。
いろいろ調べてみると小倉の陸軍工廠の第4工場で働いてたと。
第4工場で何を作ってたかって調べてみると風船爆弾と言いまして、アメリカの本土に風船を飛ばして爆弾を飛ばすというのを何らかの設計に携わってた可能性があるというところまで分かったんですね。
そうなんですね、ここまでだんだん分かってくるんですね。
子供の頃に祖父がまだ元気だった頃に、じいちゃんは人を殺しの道具を作ってしまったと。
今は人のために役立つものを作りたいんだということで、私の祖父は発明家だったんですけども。
発明家だったんですか。
足裏に入って、それを座るとお尻の重みで足つぼが押されるとかですね、そういう健康グッズとかをいろいろ作ってたんですが、今振り返ってみると、この祖父が言ってたのはこういうことだったのかと。
風船爆弾とか戦車とかを作ってたんだなということが分かったり。
風船爆弾とか戦車とかなんだ。
小倉の陸軍保障で小型の戦車とかも作ってたという記録があるので、そういったことが分かったんですね。
北急勤務があるんであれですけど、小倉はそれこそ、今の小倉の中心部ってもともと陸軍の工場が結構あったんですよね。
そこから風船爆弾を作ってアメリカ本土を攻撃してたということで、当初長崎に原爆が8月9日に落ちましたけども、最初の目標は長崎ではなく小倉だった。
その前日にたまたま八幡というところで大空襲があって、B29が小倉上空に差し替わったところに煙が充填してて、目的地が見えなかったんで、長崎に進路を変えたと言われてます。
なので当時平日だったので、私の祖父もおそらく工場で働いたはずで、もし原爆が落ちてたら、もう多分私も生まれてなかったということがこの原爆なんですよね。
そうですか。
そういったことがわかるのが、なので記録と記憶、家族に伝わる記憶と役所に残っている記録を照らし合わせて我が家の戦争を見つめましょうというのが、このうちにも戦争があったというキャンペーン報道です。
そうなんですね。それこそ中山さんも軍歴証明書の交付申請されたんですよね。
私も今回この企画が始まるっていう時に、ちょっと気になっていた、自分の祖父について気になっていたことがあったので、この機会に調べてみたいなということで軍歴紹介しました。
それが私が中学校なんですけど、私の祖父はもう私が生まれる前には亡くなってたんですが、親戚からですね、おじいちゃんは1945年8月15日の終戦の日に人間魚雷で出撃する予定だったけど、戦争が終わったので生き延びたみたいな話を聞いたことがあって、それがちょっとずっと頭に残っていたので調べてみようということで調べてみました。
そうするとどんなことが分かってきたってことになるんですか?
そうですね。まず最初これ気になったならすぐ調べればいい話なんですけど、今までやってなかったのが、やっぱり家族があまりこの話を知らなかったっていうところがあって、天海にいたらしいぐらいの話は聞いてたんですけど、そんな特攻とかですね、そんな話があるなら言ってくれるだろうみたいなものがあったんですけど、
そういったものが全然なかったので今に至ったんですが、なので半信半疑のまま一旦軍歴を紹介してみました。それこそ先ほど坂本さんがおっしゃったように陸軍にいたのか海軍にいたのかさえ分からない状況だったので、
そうですよね。
軍歴の調査
都道府県に聞いてないってことだったんで厚労省に聞いてっていう形で軍歴届きまして、軍歴自体のですね書いてることちょっと限られてはいるんですけども、そこに書かれている範囲の内容で天見大島の方にいたらしいと、そこの部隊にいたらしいっていうことは一応事実として分かっていて、そこからいろいろこう紐づけていくとですね、
天見大島の隣にあったカケロマ島っていう島があるんですけども、そちらにですね、特攻なんですけど飛行機の特攻ではなく、ベニヤ製のボートで爆弾を積んだボートで敵艦に突っ込むっていう、そういう特攻ボートですね、
その方の運用に関わっていたんじゃないかというのがいろんな資料とかですね、親戚の話を、改めて今回いろんな親戚訪ね歩いて聞く中で、そうだったんだろうなということが分かったという感じですね。
特攻ボートっていうのがあったんですかね。 天見 大島 そうなんですね、イメージとしては皆さんやっぱり飛行機に乗って、当時のイメージ、言葉がふさわしいのかどうか分からないですけどかっこいいじゃないですけど勇ましいみたいな、そういうイメージ特攻に私も感覚としてあったんですが、
実際そのやっぱり特攻のボート、ベニヤで見た頼りないボートを見るとですね、こういうものに乗って亡くなっていった方、亡くなるはずだった方っていうのもやっぱりかなり大勢いたんだなっていうのが改めて実感としてありましたね。
この海上特攻艇の信用と言って、地震の震に対併をのようですね、海を震わせるという決意を込めて命名されたという説もありますけど、それについては島尾敏夫さんっていう信用の部隊の部隊長だった方が後に小説家になられて、小説を書いてそれが映画化もされてますけど、岡山さんのおじいさんもその同じ部隊にいた可能性があるという。
そうですね、カケロマ島に二つ信用の基地があって、その一つの隊長さんがその後に作家になった島尾さんなんですけれども、いろんな話を総合すると8月15日に出撃する予定だったけれども、それが終戦で亡くなったというのが島尾さんの回で、まさにその話と一致するなっていうところだとか、いろんな断片的なですね、ここにいた。
その信用というのは、壁に穴を掘って戦隊を隠すんですけども、そういう作業をしていたとか、戦後は船から爆弾を捨てる作業をしていたとかですね、いろんな、私のそれは祖父の話なんですけれども、いろいろそういうのを総合して、祖父も生きている時の姿に近づいたというか、垣間見れた気がしたっていう感じですかね。
今ですね、そういうこと。中山さんが書かれた記事があるんですね、おじいさまのことをですね。にはこの信用の棒とか確かに古い写真がありますけども、なかなか頼りないですよね。
本当に頼りない。私も最初にこれ見た時は、公園のこてこぎ棒とかなみたいな感じの。
大堀公園に向かっては、それよりはちょっとどうにかなってますけど、まあ似たり寄ったりといえばそういう感じですよね。
で、それがその手で掘った壁に、掘った岩壁に入れられているわけですけども、あまりに頼りないですよね。
それが陸上で船体に向かっていくわけですけども、資料によっては命中率1割ぐらいだったとかですね、そういう話もあったりして、いかに終戦時の日本がそういう状況だったかっていうのは伝わってくるものがありましたね。
もし予定通り出撃していたら、おじいさんがそして亡くなっていたら、仲間さんも生まれていなかったっていうことなんですか?
そうだよね。そこが一番最初に気になったポイントで、やっぱり1日終戦が遅かったら、自分は生まれていなかったんじゃないかなっていうところで、心に残っていたというところがありました。
仲間さんのおじいさんが、お母さんと一緒に現地を旅にされた時のエピソードがありましたよね。
戦後まで祖父生きていたので、一度奄美大島の方に母と母の両親と3人で旅行観光ですね、行ったという話は聞いたことがあるんですけども、奄美大島から小型のボートに乗ってですね、かけろま島の方に向かっていくと、
それは今回の取材というか、親族的に聞いてわかった話なんですけど、ボートで向かっていく途中に当時岩壁に掘った、船体を隠すために掘った穴っていうのが見えるらしいんですね。
穴は残ってるし、見えるんですね。
おそらくそこに向かって行ったんでしょうけども、そこが見えた時に祖父がですね、いきなり立ち上がって、多分そちらの方に向かってだと思うんですけど、敬礼をして、それがもうでも終戦から何年も経った後の話だったので、
母にしてみるとですね、もうなんか時代が違うというか、ずっと前の戦争の軍人のような形で海に向かって敬礼っていうのがすごく母の印象としては残っていたらしいんですけども、ただ母もそのことは詳しく知らなかったですし、祖父自体も周りにあまり詳しいことを話すことはなく、なくなったというのがあったんで、今回本当にとてもいい機会だったなと思っていて、
そうですね、これを機にいろんな文献読んだりとかできましたし、本当にいい体験をさせてもらったと思っています。
最初この企画スタートした時に、読者の方に軍力紹介って短いではないので、まずは私たち記者自身がやってみようということで、編集局の仲間に声をかけて何人もの記者がやったんですけど、
例えば写真部に所属する軸丸記者、カメラマンがいるんですけども、軸丸記者の親族は人間爆弾オウカの発射する母艦の整備士だったってことが今回分かったり、先ほどの中山さんの話もそうですけど、
実はすごく身近なものだったんだなと、やっぱり3,000人4,000人の若者が命を特攻だけでも落としてますから、そういったものが本当に身近なものだったんだなというのを記録を通して初めて知れたというかですね。
それを読者の方たちに記事を書いてあったところ、すごく反響があって、印象的だったのが、自分の祖父母とか祖父祖父もそうなんですけど、王子の記録を知りたいという方が多かったんですよ。
戦争と記憶の重要性
さっきユウカムさんおっしゃったみたいに、自分のところの実家に家があって、この若い兵隊さんなんだろうということで調べてみたら、いろいろ記録が分かったということがすごく多かったですよね。
8月15日にはアイドルグループの新しい桜井翔さんの軍歴を紹介していただいてですね、そちらの記事を掲載したんですけど、まさに桜井さんが同じ例で王子の方の軍歴を紹介して、そこで思ったこととかをですね、いろいろ語っていただいたというような内容だったんですけども、
やはり先ほどユウカムさんもお話しされたように、戦死された方というのは子孫がいないという場合もあるので、やっぱり王子とかに当たるような方ですね。
っていうのはやっぱり気になる方が多いんだなというのは今回改めて思いますね。
今その記録を取らないと、もうその王子の方たちが生きてた記録が本当にご家族の記憶からも消えてしまうという。
そうですよね。
いや、ありがとうございました。
それこそ今YouTubeをご覧の方はあれですけども、まさにこれが軍歴紹介で、これでしたよと送ってくるのがこういったものだってことなんですね。
これは桜井翔さんの王子の軍歴を撮影させていただいたものですね。
もともと軍歴紹介をやろうと思ったのがですね、中国に私2023年の8月までいたんですけど、
帰国したら2025年は1580年なんで、必ず1580年の企画をやりたいと思っていて、
でも戦争の体験者の方自身がかなり高齢になっていて、かつてのように当事者の方の話を聞いてっていうのはなかなか難しくなっていて、
しかも若い人にとっては戦争がすごく遠慮なくなっているというのがあって、何かできないかなと思ってた時にNHKのファミリーヒストリーという番組を私はよく見ていて、
これ、そしてあと永遠のゼロという、若者が自分の親族の歴史をたどっていったら特効隊員で、
いろんな人に話を聞いたらいろんな側面が浮かび上がってきたっていうのがあって、
それをファミリーヒストリーと永遠のゼロを足して2で割ったような企画ができれば、しかもそれを読者の方ご自身しか申請できないので、
読者と記者が一緒に連携してやっていけたら、今しかできないこの1580年の報道ができるんじゃないかなと。
ただ申請に時間がかかるので、あえて1年前から、
そうですよね。
1580年からスタートしようとやってきたのがこの企画です。
これまでにそれほど何人ぐらいの方が呼びかけに応じていただいて、記事になっていったってことなんですか。
数えずに言うと多分100人ぐらいの方、いろんな読者の方も含めて、今約40人分のうちにも戦争があったを掲載できて。
それぞれのってことですよね。
田山さん、それこそ今日の話、今感想の話もありましたけど、どうでしたか。
そうですね、自分のことで言うと、私の祖父って家でしか見たことない、モノクロのぼやっとしたイメージしかなくて、本当に遠い存在、遠いというかイメージができない人だったんですけれども、
軍歴紹介とかすることでですね、本当に動き出すような、人物がカラーの中で3Dで動くような、そんな感覚があって、また同じようなことを嵐の桜井さんもおっしゃってたんですけども、
やっぱり自分に惹きつけるというか、身近に感じるという上では、本当にとても良い方法だなと思っているので、自分には大した話はないとかですね、自分の家族にそんなエピソードなんてないですって思っていらっしゃるような方にこそですね、ぜひ一度試してほしいなと。
なるべく早く試してほしいなと。今回私ももう少し早かったら、あの人にも話が聞けたとか、あの方ももっと覚えてたかもしれないとかですね、そういうことを思う機会が多くて、やっぱりもう間もなく1580年ということなので、なるべく早く動いてみていただきたいなというふうに思っています。
おじいさまはもう生まれた時は亡くなっていらっしゃったって言われてましたけども、そうでない親戚の方たちも含めて当時の話がもっと聞けたんじゃないかということですよね。
家族の戦争の歴史を探る
やっぱりなんかそのかつては言わなかったとか言わずに亡くなった方っていうか相当いらっしゃるんだなと、自分が相当つらい思いをしたので追い出したくないとか、自分の家族とかには話したくないとか、あと息子とか娘には言えないけど孫になったら話せるみたいな方がいらっしゃるとかがあるので、この軍歴紹介キャンペーンに参加していただくことでご家族の中でご家族の中の戦争の歴史を掘り起こす機会になればなと思っています。
一番の平和学習のような気もしました。お二人の話を聞きながらですね。僕も祖父母から先日の話で聞いたことはありますが、やっぱりどこかまだ遠い世界で起こった話しか聞こえてこなかったような気もしますので、やっぱりこういったことって一人でも多くの方に一手間かかりますけども、それ以上の価値があると言いましょうか。
今またこの世界の中でガザーとかグラナーとかで戦争が起きていて、同じように人が亡くなるという、同じような悲しみを抱えている方がいたしているという現実もありますので。
ありがとうございました。今日は何て言いましょうか、戦後80年にふさわしい回になったのかなと思っています。8月15日に向けて今後もいわゆるうちにも戦争があったについては随時連載が続いていくと思いますので、読者の方もぜひ読んでいただきたいですし、今坂本さんたちに言ったように自分とこの軍歴紹介、おじいちゃんおばあちゃん、大おじ、大おばがどういった生きたのかということですよね。
ぜひこの機会に確認していただければなというふうに思います。
西日本新聞MEで軍歴紹介って入れていただければですね、どういうふうな方法を取ればできるかということが出てきますので。
ちなみにその紹介の小文字が自己紹介の紹介ではなくてテラスと書いてある記録を紹介する時とかの紹介ですね。
それで検索していただければ西日本新聞軍歴紹介だけでもやり方が出てきますので。
ありがとうございます。
それではエンディングにしましょうかね。
エンディングの前にただ2つお知らせがございまして、西日本新聞ポッドキャストにまた新しい番組が誕生いたしました。
番組のタイトルは星野松本のしゃべりーよです。
番組では記者たちが就職活動や新人時代、プライベートの生活などをザックバランにしゃべっております。
毎週火曜日の配信です。
よかったら聞いてください。
それともう一つあります。
スマホアプリの西日本新聞ミーでは、4月1日の学校の先生の人事異動に合わせてですね、福岡県内の転任する先生の名簿を公開いたします。
先生のお名前や学校名で検索ができる、知る人ぞ知る西日本新聞ミーの人気コンテンツです。
ぜひ利用してみてください。
よろしくお願いいたします。
エンディングと購読のお願い
それではここまで聞いていただきありがとうございました。
坂本さんや中山さんの記事が読みたい、この番組を応援したいと思っていただけましたら、
ぜひ西日本新聞もしくはスマホアプリの西日本新聞ミーのご購読をお願いいたします。
ありがとうございました。
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