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2024-06-23 24:46

ながらcast3/243 沖縄慰霊の日に思う

沖縄戦を学ぼう。【NHK映像アーカイブ】https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0060978
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はい、sasayukiです。ながらcastを始めます。 この番組は、自分大好き60歳の私、sasayukiの公営のブログ、公営の日記です。
通勤途中に歩きながら収録してますので、 息が上がったり、周りの雑音・騒音、風切り音などが入ったりしますが、何卒ご呼び下さい。
今日は今、とてもよく晴れてますね。 今日の夜から下り坂。
ちょっとしばらく雨になりそうで、なんか梅雨に入ったらしいんですけどね、この静岡も。 まだちょっと
曖昧な感じ。こんな良い感じに晴れたりしてますけどね。
えーっと、車が、 どうしてるんだこの人。
怖いんだよな、ちょっと。 怖い。
今、車が完全に優先の場所で途切れるのを待って渡る、すごい幅の狭い道路だったんですけども、
なぜかその優先車線の車が止まってくれて、 俺も止まってたんですけど、ちょっとお互いしばらく
にらめっこって感じになりましたけどね。 先に渡らせてもらいましたが、
こんな時ってどう思います? あの
向こうが優先なのにわざわざ止まってくれるっていうの、 俺の中では若干
迷惑だなって思ってて、 なんだか、
ちょっと、普通に通り過ぎてもらって、
それを確認して渡った方が俺は好きなんですけどね。 ありがたいはありがたいですけど、むしろ
横断歩道でちゃんと止まって欲しいなとは思うんですけどね。 そうじゃないところは、
車は優先でいいと思う。 そんな私です。
今朝ですね、 テレビで、
もしくはポッドキャストで
触れたのが、 沖縄慰霊の日のことですね。
昨日の夜かな?
津田さんのポリタスTVを見てたら、 ゲストが青木さんで、
でもそこでは触れてなかったか?ごめんごめん。 織上千喜さんのセッションの方で
ゲストの方が沖縄から出演ということだったり、 あと今朝のテレビでも
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沖縄線の話が出て、
たぶんあれは、 伊都満市にある
がま?
地下の洞窟というかを利用した
避難場所の話なんかが出て、
あとAIの語り部の話とか、 そのがまも上から
岩が崩れて、岩というか塊がない石のちょっと大きいやつが落ちたっていうことで、 今入れないなんて話をして、
それもね3Dのデータ化して、 擬似体験できるようにしているなんていう話と、今言ったAIの語り部の話なんかをやってました。
そんなわけでね、過去もやってると思うんですが、 6月23日沖縄慰霊の日の話をしようと思います。
じゃあ行ってみよう。
まあこれね時々 僕も
話すようにしている 話題なんですけども
この沖縄慰霊の日っていうのは何かっていうとですね、 当時1945年なんですけども、この6月23日に当時の日本軍の牛島司令官
が自決したっていうことで、 組織的戦争が
終わったんですね。 それを一つの区切りとみて、
慰霊の日という風になっております。
僕の認識では唯一の地上戦が
行われたのが沖縄で、もちろん東京大空襲とか、 空襲もあったし、この後8月には
広島、長崎に原爆が落とされるっていう意味では本当に甚大な被害を受けるわけですけども、
実際に米軍が
乗り込んできて、自分たちの住んでいる場所に。 そこで戦闘が行われたっていう
その地上戦ですよね。が行われた場所っていうのが沖縄
だったということなんですね。
だから沖縄ならではの
非常に本当にいろんな悲劇が
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悲劇っていう言い方もちょっと情緒的なんですけども
大変いろんなことが起きたっていう認識
なんですね。私も多分ある程度注意深く見てると、歴史を見ていくとそういうことがわかると
思います。 僕の仕事で書いたブログをちょっと読んでみますね。
6月23日は沖縄慰霊の日。 1945年のこの日。
6月22日という説もあります。
日本軍の牛島司令官が自決したことで組織的戦闘が終結しました。 しかし最終命令で最後まで戦えと命じたばかりに、その後も多くの軍人、住民が犠牲になったのです。
岩波ジュニア新書 姫百合の沖縄戦から関連部分を引用します。
ここから引用ですね。 住民戦没者はなぜ多いか
村上雄慶さん。ちょっと読み方がわかんないな。 4月上旬から5月下旬までの主力攻防戦こそが沖縄戦でした。
日本軍の主力部隊の70%はこの攻防戦で死んだり傷ついたりしました。
中略。 5月28日、第32軍は首里の司令部を撤退し、南部の間部に江戸司令部を移しました。
この時点で軍隊同士の戦争の勝負はついていました。 ところが日本軍は南部戦線で軍民混在となって戦争を続けたのです。
このために死ななくてもいい多くの人たちが死んでいったのです。
中略。
首里で沖縄戦を終えていれば半数以上が死なずに済んだのです。
そのチャンスは何度もありました。 米軍は牛島司令官に対して再三に渡って降伏勧告を伝えています。
でも牛島司令官は最後まで降伏をしなかったのです。
6月19日には最終命令を出しています。 ここからが最終命令ですね。
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時今、ただいまって意味ですけども、各部隊は各局地における生存者中の上級者これを指揮し、
最後まで勘当し、有給の大義に行くべし。
行くというのは生きるのですね。
ここまでです。
ちょっと紙を砕くと、
各部隊に対して各局地、それぞれの局地戦において、生存者の中の一番上の者が
指揮をして、要は組織の指揮系統みたいなものがもうバラバラになっていたんじゃないかなと思うんですけど、
とにかくそこの生き残った小さな部隊、生き残りの中でも一番上の者くらいが指揮をして、
最後まで勘当し、要は最後まで戦えと。
大義に、大義っていうのは、僕の理解で言えば、国体、国の体と書く、天皇を頂点とする国、
国家制度を守る、っていう大きな義ですね。
に、生きろという命令を最後に、6月19日にしたということですね。
また任用を続けます。
最後まで徹底抗戦し、玉砕せよと命じたのです。
この最後まで勘当しっていうのがそれかもしれないですね。
あ、ごめんなさい。玉砕せよと命じたのです。
6月22日の牛島自決後も、さらに8月15日のポツダム宣言受諾以後も、
多くの軍人、住民が死んで生かざるを得なかった原因がここにありました。
これがひめゆりの沖縄戦という本の引用になります。
ここまでを読むと、牛島司令官が自決する前に、最後までお前ら戦って、
住民もみんな戦って戦って戦い抜けみたいな命令を出したが故に、
組織的な戦争は終結して、決着がついたにもかかわらず、
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極地戦的にみんなが抵抗する。
その中で命を奪われていくっていう図式になったわけですね。
だから僕としては、この牛島司令官は許せるなってずっと思っていたわけなんですね。
ただもう一個上の視線で見ると、牛島司令官が独断でそうしたっていうわけではなく、
むしろもっと上からそうしろというふうに言われていたのか、圧力をかけられていたのかわからないんですけども、
まあそういうことだったんだろうなと、これはただの推測に過ぎないんですけども、
結局のところ、本当に言い方が悪いんだけど、
本土を守るためのステージにされたっていうことなんだろうなと、
そこでどれだけ足止めを食わせるか、そこで粘れるだけ粘ってくれっていうことだったと思うんですね。
本土側というかもっと上の軍部の上層部はそういうふうに考えていた。
それが何を目的としていたか、もちろん首都なりを守りたい、そこに来ては欲しくないっていうようなことなのか、
時間稼ぎだったのかもしれませんし、そこのところは僕もちょっと勉強不足でわからないんですけども、
いずれにしても時間稼ぎとして使われたっていうことじゃないかなと推測するわけですね。
だから牛島司令官は憎いんだけども、その上にもっと憎むべき相手がいるんだろうなという気はしています。
この辺は戦争についてちゃんと書かれた本を読んでいけば明らかになることだと思うんですけどもね。
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まあでもいずれにしても、そのことで巻き添えを食った非常に多くの住民たちがいたっていうことは本当に悲劇だし、
人災という言い方もおかしいよね。
まあとにかく、そんなことはできなかったのかもしれないけども、素直に投稿せよというふうであったら良かったのになぁと、
今更言ってもしょうがないんですけどね。本当に思いますね。
だから逆に言えば、その上の都合、それは軍なのか国なのかわかりませんけども、
その都合で兵隊も住民も簡単に見殺しにされちゃうというか、犠牲になりたいわけじゃなくてさ、
ただ、向こうの思惑でそういう仕打ちに遭うっていうことを、
よーく覚えておかないといけないというか、別に住民のことなんか考えてくれないよっていう話だと思うんですね。
彼らが自分の身を守るためなら。だからそのためだったら、国民も兵隊も犠牲にするよっていう構図。
それを本当に肝に銘じておかないと、変に期待してもしょうがないなと思うんですよね。
むしろそんな期待はしない方がいいし、そういう風にならないようにしていかなきゃいけない。そういう風っていうのはそういう目に合わないようにしなきゃいけないってことですね。
そんなことがまたあるとは思いたくないんだけども。
はい、そんなわけで今日は6月23日の沖縄慰霊の日に絡めてちょっとお話をしてきました。
毎年この時期にブログを書いて、内容は一緒なんですけどね。ちょっとだけ変えるぐらいで。
本を紹介するっていうことをしています。まあそんな売れるわけではないんですけどね。
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ただこういう機会でもないと、そういうことを伝えるチャンスがないという気もするので。
本当はいつでもそういうことをすればいいんですけども、せめて
こういう機会を活用して、訴えていこうかなと思っています。
先ほど一つ引用したんですが、もう少し続けますね。
こちらもね、「悲鳴売りの沖縄戦」という岩波ジュニア新書からの引用です。
悲鳴売りの悲劇はなぜ起こったのか? これも村上有吉さんかな?
前略。
6月17日、米軍司令官バックナー中将が
丑島中将に降伏の勧告をした時点では、悲鳴売り額との犠牲者は11名だった。
その翌18日、6月18日ですね。
額と対は陸軍病院から解散を命じられた。
19日には現在の悲鳴売りの業でガス弾を放り込まれて
職員生徒35名が無残な災禍を遂げた。
その他多くは、沖縄最南端の弾劾に追い詰められて命を絶ったのである。
悲鳴売りの塔に祀られている生徒は194名。
なんと悔しい思いか。
牛島司令官は19日、最後の1兵卒まで戦えとの最終司令を出し、
22日間分にで自決しました。
住民の命を守らない軍隊は民衆を巻き込み、
軍民混在となって南部へと戦争を引き延ばしたために、
死ななくても良い人たちが死んでいったのです。
こんな文章があります。
僕がこの中で太人にしたのは11名という数字と194名という数字です。
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もう一回振り返ると、
米軍の司令官が牛島中将に降伏勧告をした6月17日。
その時点で悲鳴売り額との犠牲者は11人。
それが17日ですね。
18日翌日、解散を命じられ、
その翌日19日はもうガス弾を放り込まれて35名が亡くなったんです。
17日の降伏勧告、
18、19日にガス弾で35名が亡くなった。
その後は日付は書いてませんが、
ずっと南の方へ追い詰められて、
悲鳴売りの話をご存知の方はある程度イメージできるかもしれませんが、
一番南の岬の断崖から飛び降りて自決した人たちもいたそうです。
最終的に194名が亡くなった。
あの時降伏してくれていればっていう思いですよね。これは本当に。
そんなこともあって、
うちはそのジュニア新書っていうのを売ってることもあってお勧めしているんですけども、
他にもいい本がたくさんあるとは思います。
ジュニア新書ね、僕もそんなたくさんは読んでないんですけども結構お勧めで、
中高生に向けて書かれてはいるんですけども、
正直大人が読んでも全然問題がないクオリティです。
で、
一般的に新書って入門書的な位置づけで、それ一冊バーッと読めば、
この全体像がつかめるっていうようなものが多いんですけども、
ジュニア新書も一応そういう感じなんですけども、かなり内容が濃いんですね。
ただただ濃いと読者もついてこれないんで、その辺を読みやすくしながらみたいなところが工夫されているので、
非常に大人にもお勧めの本なんですね。
まあ、よかったら手に取ってみてください。
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あとはNHKの方の歴史証言アーカイブっていうところがウェブページとしてあって、
そこで過去の番組とか当事者のインタビューなんかがあります。
僕はもちろんほとんど見たことがないので、部分的にしか見たことはありませんけども、
非常に貴重なアーカイブなのでね、そちらを見るというのも一つの手じゃないかなと思います。
というところで今日は終わりです。最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。
ではまたね。
ちゅーす。
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