祖父の戦争経験
はい、みなさん、こんにちは。さらば、ラバウルカンパニーです。
はい、えっとね、今、おじさんが私の実家に仕事の出張のあれで来ているんですけれども、
おじさんにですね、たびたび私がラジオで話している、私のおじいちゃんの話をですね、
おじさんがおじいちゃんの息子なので、よく一番わかっているので、
おじいちゃんが特に若い頃、戦争に行ったりしているものですから、
どんなふうに戦争に行ったのか教えてもらおうかなとか思っております。
ただ、今、フランクに聞いているので、細かい事実関係とかはちょっとあれですけど、
おじいちゃんの思い出として教えていただこうかなと思っております。
お願いします。
はい、私の父は大正12年生まれで、北海道で育っているんですけど、
家がですね、裕福な家に生まれたはずだったのが、親が失敗してそれで夜逃げして、
非常に急に貧乏になって、ありがちな話なんですけど、
そういう家からたった一人の、女4人、男1人の兄弟だったものですから、
とにかく家を何とかするためにはということで、陸軍士官学校に志願して入学したということですね。
4年学校からじゃなくて、中学卒業してから陸軍士官学校に、
昭和19年ですから、かなり戦争が厳しくなっている時代ですけど、
3月に59機で入校しているんですね。
戦争が忙しくなっているから、59機というのは、いろんなことを繰り上げになっていて、
すぐに早期修了みたいな感じで送り出されて、
陸軍航空士官学校、正確に言うと、操縦士の士官を要請するところで、
所沢イルマあたりで訓練していたと思うんですけど、
航空士官の中でも操縦をする専門の学科みたいなの。
その生徒だけは、本当に終戦近くなってから、
終戦というか、まだその時に終戦していないんですけど、
配色が濃くなって、本土が危ないということで、
操縦の専科だけの人間は、20年の7月に満州の訓練基地に送られて、
最後に訓練していたということですけど、
おそらくはどんどん操縦士を作って、その後沖縄あたりへ特攻をかけるという、
そういう陣を早く作りたかったから、そういうことをしていたと思うんですけど、
1ヶ月半ぐらいで終戦になって、その後、ソビエトが参戦した時に、
軍人だとか、こういうのを優先して逃がしたと。
これは一般的に言うとすごく批判されているんですけど、
士官候補生だとかをどんどん先に逃がしたということで、
飛行機で鎮太尾まで運ばれて、鎮太尾から博多に船で復印したと。
復印は20年の10月頃なので、非常に早く奇跡的に帰ってこれたというんですね。
当時満州にいた他の人たちとか、一般市民とか広見にあったり、
シベリアに送留された人が60万人ぐらいいたという話なんですけど、
幸いそうやって帰ってこれたということですね。
戦後、そういう老いたちなんで、あんまり戦争の話とかですね、
戦争に行ったわけじゃないしね、実際に。
しなかったんですけど、おそらくおめおめと生き残ったという気持ちというのが、
あの世代にはあったんじゃないかなと。
その陸軍航空士官の2基先輩という57基生というのは、
沖縄でチランダとか万世吉田とかから沖縄へ特攻に出て死んだ若い将尉だとかというのは、
戦後の生活
56基、7基というのがもう中心で、おそらく士官学校に入った時に指導を受けたりしているはずなんですね、57基生ってね。
そういう意味でもいろんな思いがあってですね、そのことについては何か語らなかったんですね。
あとで私も仕事で陸軍士官学校60基生とかですね、
そういう人で戦後企業で偉くなった人とかですね、そういう話を随分聞いたりしました。
すごく有名な人ですけど、あんまり名前ここで言うと問題ないんですけど、
もう日本の有名企業の経営者で、60基で、最後は60基の人たちというのはほとんど訓練なんかしないで、
天皇陛下を避難させるために、長野県の松城あたりで特別な防空壕掘りに行かされたとかですね、
そういうような人たちなんですよね。
でもね、そういう人たちはね、あんまり傷が残ってないというか、だから勇ましい話しますよ。
それでその経営者なんかも、私ら軍人はってよく講演会なんかでも言ってましたけど、
実は軍人にまだなってないね、士官候補生というか士官学校の生徒ですからね、まだなってない状態ですけど、
そういう人たちは、その辛さを知らないというか、
私の父は、なんか羽が、今目も横ちたんですけど、訓練中に仲間が亡くなったりとかもしてるし、
ソベトが攻め行ってくるという時に、中国の地元の馬族というか、貴族みたいなのがざわめき出して、
大草原の中で飛行機から機関銃を下ろして、それを撃ったとか、そういう思い出もあるみたいで、
その辺の話は全く、ちょっと聞こうとしたら口をつぐむというか、ほとんどしなかったなと思いますね。
飛行機乗りでしたから、飛行機の話はよくしてくれたんで、私も子供の頃から飛行機が好きで、
模型飛行機作ったりすると、いろいろ手伝ってくれたり教えてくれたりもしましたけど、
戦争そのものについては語らなかったですね。
特攻基地の話なんかも、たまにテレビとかいろんなので見てると、
チランは陸軍の特攻基地だったんですけど、陸軍の特攻基地で同期の桜を歌う時に、
同期の桜というのは海軍兵学校でもともとできた歌なんで、
一番の歌詞は同じ兵学校の庭に咲くという台詞なんですね。
それをチランで、行った人が歌っているのを聞いて、すごく怒ってまして、
陸軍と海軍は仲が悪かったんで、ふぬけの海軍のせいで負けたぐらいのことをチランと言ってましたから、
なんでそんなものを歌うんだ、みたいな話とかしてました。
私も最近、特攻についての話がいろいろあるんですけど、ちょっと思うところがあって、
あの人たちは決して犬死にしたわけではないけれども、
だけど、何の迷いもなくお国のために死ぬということだけで言ったのかというと、ちょっと違う。
そういうことが全くみんなわからなくなっていって、歴史の中で書き換えられていくというか、
それはちょっと違うなと思っています。
こういうことを言うと必ず英霊を侮辱するのかとか、いろんなことを言う人がいるんですけど、
全くそういうことではないんですけど、ちゃんと知るべきだなというかですね。
考えてみると、戦争を知らない子どもたちという歌を北山治虫が歌ったのは、戦後20年ぐらい経ってからですけど、
その戦争を知らない子どもたちがもう80歳なんですよね。
だから、戦争そのものを実体験した人たちというのは、なかなか話ができなくなっているということなので、
その次の世代であった我々も、親から聞いたこととかですね、そういうことを少しちゃんと思い出していくべきかなというふうにちょっと思っていますね。
ということで、何で追い子の引っ張り出すのかよくわからないんですけど、
ような話を今後少ししていこうかなと思っています。
アレンさんありがとうございます。
えっと、そうですね。
あれ、だから、向こうに、満州の方に行ったのはもう44年とかなのに。
いや、45年です。
45年。
終戦の1ヶ月半前です。
そんな、じゃあもう本当にもう、とりあえず戦時に。
避難させたという感じでしょうね。
避難。
特攻要員として将来大事だったんで、総司司は。
だから、満州に避難させて、そこでなおかつ訓練をしてということですね。
帯広の中学校時代からグライダーとか。
小樽中学ですね。
小樽中学でグライダーをやって、
そして親が心象を潰したんで、
それで帯広によ逃げしたと。
そこそこ優秀だったのが、帯広中学から士官学校に志願して入ったということですね。
士官学校の試験というのはあれなのか。
東京に行って受けたんですかね。
いや、四方であったのかな。
その辺よく分かりませんけど、相当難しい試験だったことは間違いないでしょうね。
航空士官学校自体も15期ぐらいなんですけど、最後の。
それで、卒業生が6200人ですから、一期の数でいうととても少ないんで。
100人ちょっとか。
600人?400人ぐらいか。
15期で6000人。
じゃあ陸軍のパイロットになる人は大抵そこ出身だった?
いやいや、陸軍のパイロットは少年飛行兵だとか、
一般の民間の免許を持っていた人なんかも、そういうのに採用されたりする道もあったり、
あと一般の兵科から志願して操縦の道に進んだ人もたくさんいたりして、
ただし士官で操縦士っていうことなんで、あくまでも管理職要請のコースで、
今で言えば公務員、上級職とかそういうことで、それでしかも操縦のということですから。
陸軍士官学校自体が、いわゆる省異常の職業軍人を育てる機関で、
その中に航空というのが特別にあった。
海軍は海軍兵学校。仲悪かったから、呼び名が違う。
陸軍は士官学校、海軍は兵学校。
それがだんだん厳しくなって学徒動員とかで、いわゆる士官候補生といって、
士官学校じゃなくて士官候補生という制度もできて、
学生からなっていくとか、複雑ですごく難しいですよね。
その辺はちょっと私も性格じゃないんだけど。
その終戦で、満州で終戦して、どうやって帰ってきたんですか?
チンタオまで総発の輸送機ってチラッと聞いたんですけど、
それにみんな乗ってチンタオまで逃げたっていうことですから。
何人くらい乗れたんだろう?
どうかね、よくわかんないですけどね。
当時みんなソビエトが入ってきたとき、列車に乗れたのも最初は軍人だとか家族だとかね、
だけだったって言うんですけど、それ以上に飛行機で逃がしたってことですから。
おそらく、さっき言ったように特攻のパイロットの予備軍ですから、
だから一番大事にされたっていうか、感じだったと思うんですけどね。
チンタオまで逃げて、そこで終戦だったのかな?よくわかんないですけど。
終戦後に逃げたか、土作作ですよね。
だから博多に船で着いたときに、
昨日ちょっと見せましたけど、自分の母親にね、博多湾島にて原稿の
イニシエオシノビ・ケツルイ・アラタナリって血の涙で出たっていう、悔しくて。
っていうのを書いてるんですよね。
そしてその後、九州から列車で帯広まで帰ってるんですけど、
被爆直後の広島を通ったって言ってましたから。
列車は通ってたんですか?
通ってたんですね。
復旧してたのか。
でも早かった。だから帯広に着いたのが20年の10月ですから、
終戦後2ヶ月くらいで着いて。
で、ばあちゃんが言うには、駅に着いてその姿を見たときに幽霊だと思ったと。
信じられなかったっていう幽霊だと思ったってずっと。
それはばあちゃんがずっと言ってましたね。
帰ってくると思ってなかったってこと?
帰ってきてしばらくは、帰ってくる前の葉書にはね、
山にこもって百姓にでもなるつもりで、準備を頼みますみたいなこと書いてたんです。
昔、軍人っていうのは全部、アメリカ軍来たら虚勢されて、そうなるっていう噂もあって、
逃げなきゃいけないと。
司官だったからね。
それを書いたみたいなんだけど、そうはならなかったんだけど、
帰ってきてどうだったのって言ったら、
1年くらいぼやーっとして、近所の子どもを集めて相撲を取らせたり、
ぼやーっとしてたと。
祖父の戦争体験
それが、神聖大学北大の募集っていうのがあったときに、
陸士の59期までが、59期は終戦後に卒業っていうのを認められてるんですよ。
60期はもう卒業してないんですけど、
士官学校卒業っていうのを59期は認められてるので、
大学の4課、いわゆる今で言う教養部を終わったっていう資格をもらってるんですね。
それで、もともと士官だったとか軍人だった人間っていうのは、
大学にすごく入りにくかったらしいんだけど、
急に勉強を始めて、それで北大に入ったんですね。
入ったときに、軍服着てたって言いますよね。
軍服の衿装とか全部取って、
それで行って、そしてね、
同期が、海軍兵学校出身の同期が一人だけ。
それが、ずっと、下地さんっていう人なんだけど、
後で教授になった人ですけど、
ずっと親しく付き合ってた人が一人いたんですね。
そうそう、父の葬儀のときに長寿呼んでくれたんですけど、
それは元やっぱり海軍士官だったから、
家の前でかかとが鳴るような敬礼。
カチンとかかとが鳴るような気をつけして呼んでくれました。
先生も亡くなったと思います。
なんか、おじいちゃんの資料を読んでたら、
戦後の、なんだっけ、
子供たちは体づくりが、みたいな話ありましたっけ、
教育についても一つ考える。
PTA会長とかやってましたからね。
同じだね。
聞いてなかったから、息子としてはどんな話してたのかね。
聞いてなかったですけどね。
昔風の、貴様そこに殴れ、みたいな最後はね、
妹だったらね、そういう人です。
でも、小っちゃい子供の頃に背中に物差し、
姿勢悪いと物差しを入れられて、姿勢悪いとかって言われたり、
本読んで目が近いとかって言われたりして、
そういうことは結構あったけど、
でもそれほどなんか、昔のあれっていうのは、
そういうことに対してもいろんな思いがあったんじゃないかと思いますよ。
教育とかそういうことについても、
軍隊の経験はあったから。
厳しい反面、やっぱりほろ苦い思い出があったのかなっていうね。
本当、自分が分かってなかったのは、
かなり終戦ギリギリだったっていう話と、
2校上の先輩とかがそうやって実際に特攻してるっていう話と、
チランから出てるんだもんね、やっぱり。
だから、おそらく戦争もうちょっと長引いてたら、
内地に戻されて、チランとかで待機させられて、
飛行機飛ばせるやつは、もうどんな初心者みたいなのでも飛ばしただろうし、
それから最後は赤トンボっていうね、
コーレンっていうんだけど、2枚羽のハフ張りの練習機で飛んでるんですよ、特攻はね。
福翼機っていうこと?
福翼機。
第一次世界大戦みたいな。
練習機でね。
それで、うちの父はまだコーレンにも乗らないユングマンっていう、
100何十馬力くらいの本当の初期練習機があるんだけど、
おそらくもう乗るもんなくなったら、そんなものでも乗っていけって言われたんじゃないかと思いますよ。
だから、あと3ヶ月くらい延びてたら、もしかしたらチランとかあの辺で待機させられて、
そうやって出されたっていうね。
その頃の特攻ってやっぱり、これはね、ここで語り尽くせないんで、
聞いてる人はいろんなもの読んでほしいんですけど、
特攻隊の理解
死なせるために飛ばすっていうか、そういうこともあったりしたみたいな部分もあるんで。
昨日教えてもらった参考書籍は誰のなんでしたっけ?
高木敏郎っていうね、人の。
昨日のはチランの話ですけど、この人陸軍特別攻撃隊っていう隊長ですけど、
文庫になって出てるんで、興味のある人っていうか、
特攻っていうことをちゃんと知りたい人はね、まずこれを読むべきですね。
もちろんそれ以外のいろんな当事者の話とかいっぱいあるんで、
私は父親がそういうあれもあったんで、おそらくそれに関する本は100冊ではくだらないと思う。
いろんなものを読んで、いろんな角度から見て。
勉強して。
例えば特攻兵でも、少年飛行兵出身の純粋なまだ10代の子たちとかっていうのは、
本当にあの純粋に国のために死んだみたいな勇ましさみたいなことがあったり、
あと学徒出身の人は、やっぱりもうこの戦争は負けると。
負ける戦争だけど、死にに行くっていうことについての苦悩だとか、
そういうものがあったりとか、いろんな人がいるんですよ。
それはもういろんなものを読むべき。
だから私が一番問題だなと思ってるのは、今チランが観光化して、
平和記念館という施設を作った、最初に作った意図も、
私は観光目的っていうか、そういうのが非常にちらついて感じられるんだけど、
そういうとこ行って、そういう隊員たちの遺書だとか見てね、
確かに感動的な、こんな立派な覚悟で死んだんだみたいな。
それだけじゃないんで、だからそれだけで何か語ったりするのは違うんですよ。
企業とかでも、チランに社員と研修に行って、
というかって流行ってるんだけど、それを金儲けにしてる人いるんだ。
チラン研修とか言ってさ。
もうすごく頭にくる、こういう、金儲けしやがってってすごく思うし、
あんまりたくさん聞いてないから。
もう24分経ったというか、好きな人しか聞いてないから大丈夫だ。
考え合わない人も聞いてないから。
鳥浜透明さんというね、透明屋食堂っていうのをやってて、
本当に特攻兵たちを手厚く最後見送ったっていうか、
それは美談として残ってて、それはそれでいいんだけど、
それを卵丼をね、当時あんまりなかった卵を集めて食べさせたっていう話があるんだけど。
今靖国に行くと、鳥浜透明さんの卵丼って言って、1000イクラっていうのを食べさせる豪華な店があって、
みんなありがたがってね、これを特攻兵が食べたのかっていう。
金儲けの種にするなって。
私はね、やっぱり鳥浜透明さん生きてたらどう思うかなって、
自分の子孫たちがこういうことでやってるけど、
もっと伝えるべきことは他にあるんじゃないかって、
きっと草場のおかげで言いたいというふうに思いますよ。
それはちょっとね。
ということで。
そろそろ行かなきゃいけない。ありがとうございました。
はい、そんな感じで今、おじさんから私のおじいさんの話を教えてもらいました。
この後は予定ありますので、ここで切り上げましたけども。
おじさんにもね、スタンドFM始めたらどうかっていうのをお話ししてて。
おじさん、企業研修とかしてるんでね、お話がやっぱりうまいですね。
ちょっと勉強になりました。
これからね、おじさんとおばあちゃんのところに行ってきます。
そんな感じでね、本日の放送終わろうと思います。
はい、ありがとうございました。