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こんにちは、早川洋平です。今日はですね、広島県の呉市大崎下島の須賀彩乃さんにお話を伺います。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
須賀彩乃さんは、昭和3年11月5日の生まれ、85歳ということで、年齢伺うまで女性に年を聞くのはあれなんですけど、すごくお元気そうで今本当に驚いたんですけども、
須賀彩乃さんと呼んでも大丈夫ですか?
はい、いいですよ。
須賀彩乃さんは、この大崎下島でずっとお生まれになったんですか?
いやいや、松山です。
愛媛県の松山市。
そうすると、これ聞いてる方も、広島、呉に詳しくない方もいらっしゃると思うのであれですけど、近いですか、ここから。
松山です。あまり近くないです。
全国的に考えると近いか。
それから高速でちょっと1時間ぐらい、フェリーだったら2時間ぐらいかかりますね。
そして今治港もあれば、この前の島が愛媛行ったでしょ、あの島のフェリー基地から今治港までがフェリーでちょっと2時間ぐらい、高速で30分ぐらいですか。
それからまた電車に乗って、1時間ぐらい電車に乗って、やっと松山に着くんです。
すみません、近いと思いましたが結構遠いです。
はい、遠いです。
大変ですね、車の。
遠いです。
そうすると松山でお生まれになって、その後こちらに来たのはいつぐらいというか。
もう50年ぐらい前。
本当ですか。
そうするともうほぼ半世紀ということだと思うんですけども。
そのあたりも含めてちょっといろいろお話が書いてあるんですけども。
今回この戦争の記憶ということで、第二次大戦ちょうど1945年に終わりましたけども、その前後を少しお話が書いてあるんですけども。
いわゆる第二次大戦中の時っていうのは、綾野さんは当時だから68年70年ぐらい前っていうのは、どこで例えば学生だったのかとか、どんな感じで今思い出すと何をされていましたか。
私は学校を卒業して、ちょうど戦争中だからいろいろ、低身体とかなんとか言って、女の人でも軍塾、工場とかいろんなところへ出され寄ったんです。
それが私はもう嫌だもんだから、東京の造兵局を試験を受けたんです。親に内緒で。
そしてそれがマレーに通ったんです。通ってもう行くようになったら親に話さないといけないから、今考えると10日ぐらい前だったと思います。
その時にお父さんお母さんにちょっとお話があるんだけど、何の話があるのかというと、実は私は低身体に行くのはどこに行くかわからないから嫌だから、東京の造兵局を試験を受けたら試験が通ったので、出発せないといけないので行かせてくれって言って頼んだんですよ。
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それがダメだと言って二人が言うんですよ。でももう行くようにしているので、何時の汽車に乗らないといけないので、行かせてくれって言って毎日のように頼んだんです。
そうしたら結局、そんなに言うんだったら、お前はこの世に俺なんだと思って諦めるから行けと父親が言ったんですよ。
それで行かせてもらうから、元気で頑張るからと言ったんですよ。
東京に?
東京に。東京はもう今まで行ったこともないところだから。
一度もなかった?
一度もなかったです。どちら向いてもわからないことばかりでしょ。そしてちょうど戦争中だから食べるものもないでしょ。朝昼晩のご飯が出るだけで。何も他にお店に行ったってないし、買いに行くものもないんですよ。
母親が何日か送ってくれたり、日の持つものを送ってくれたり、東京の池袋に私のいとこがいたんです。
その人のところへお米とか何とかを送って、それをその人が加工して食べるようにして、土曜日には必ず持ってきてくれって言ったんですよ。
それで毎日の日を送って、増兵局に行っても入るときに体を全部調べられるんです。
調べられる。
調べて、入るでしょ、中へ。晩の5時が来たら帰りますよね。寮まで帰るんですよね。帰るときにまた全部体を触って。
何を調べているんですか。
お金を作っているから。
そうか、まさに。
私が言っていた頃は、1円が今の1万円札ぐらいあったんですよ。
1人女の子がそのお金を縛るのに、中が袋になった紐で縛るんです。その紐が絹なんですよ。
絹じゃないと縛らないんですよ。普通の絹だったら、わーっと溶けていって。
その中にもう1本入れたら下駄の花を縛るんですよ。
そこでそれを持って、ポケットに入れて、出て、そこで捕まって、どうしたのかなとみんなと言いました。
1個今日は出させてくれないのか、どうなったのかと言ったら、
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高校でちょっと事故があったから、ちょっと皆さん遅なるけど待ってくださいと言って来られて、
何事故があったのかなと言ったら、その紐を持って帰るのにポケットを入れて、それが見つかって。
そういうことがあったりしてね。
そして順々にと戦争が激しくなっていって、
アメリカの飛行機が会社のネキに落ちて手がもげたりしたのを私たちは見たんですよ。
見たんですか。
見てもう気持ちが悪いの。何日かはもう気持ちが悪くてね。
毎晩のように空襲が今度はしだして、空襲があったら防空壕へみんなと行き寄ったんです。
ある1日だけ皆さん5人同じ部屋におったんですけどね。
私がもう出ているもんじゃと思って、皆さんあと4人が急いで出たらしいんです。
私は朝起きたら誰もいないんですよ。
いないからおかしい。どうしたのかなと思って。
そして倉庫をしよると皆さん帰ってきて、皆さんどこに行っていたの。
あら、昨日空襲があって私たちは防空壕に逃げていたの。
どうして私だけがここに寝ているの。
もうあなたは防空壕に行っていると思って、みんな急いで行ったんじゃい。
そしたらあなたたちは逃げて助かっても、私は助からないようなこともありえないんだけど
どうして起こしてくれないのかって言ったことがあったんですけどね。
それからもうすごく東京に落ちだして、
そして工場の係長さんが空襲になって、あれだったら僕のところへ来なさい。
僕が一緒に連れて行って、あなたらはまだ東京の中がわからないから、
連れて一緒に逃げよう。
空襲のひどいのがあった時には、すぐ僕を捜してくるよと言ってくれました。
何か課長さんが言ってくれると、何かあった時には課長さんを探して行かないといけないと
皆さんと言いました。
毎日のように空襲があって、仕事も多いから、空襲がどんどん来るから、
仕事も身が入らないんですよね。
私は東京じゃない、大阪にいとこがいたんです。
その人がひょっくり返ってきて、「どうしたの、何しに来たの?」と言ったら、
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「あなたを連れに来たんだよ。何で?」と言ったら、
お父さんが体が悪いから、あなたに会いたいから連れに来たんだから、
早く帰ろう、支度してくれって言うんですよ。
4、5日前か何か手紙が来て、「まだ私は持っているよ」と言ったら、
それでもお父さんは悪いから、早く帰らないといけないと言って、
そこで会社の一人では玄関のところに出られません。
上の人がついていないと出られません。
その人が一緒に連れて行って、
「これ、いいとこですけど、こういう手紙が来ているんですけど、
それは帰ってあげなさい。その人がちゃんと帰るように手続きしてあげるから、帰ってきなさい」と言うので、
帰ってきてもらって、寮に行って帰りました。
私は貯金をしていたので、「お金をもらって行こうか。帰るのにも寮にもいるから、帰ってきて取ってこい」と言いました。
荷物も持って帰ったら、
「荷物は置いておいてもいいんだけどね」と言ったら、
「いや、荷物も持って帰れ」と言いました。
そうしたら、そうしようと荷物も持って帰りました。
もう一人のいとこが池袋にいました。
そこへ行きました。
「お父さんは悪いのに、こんなに寄り道をするのだろうか」と思いました。
東京にいるいとこが、
「お父さんは病気ではないよ。なんでそんなに遅くて、私を連れに来たのか」と言いました。
空襲や戦争がもっとひどくなったので、
「おじいちゃん、あなたがここにいたら、寮を逃げたらもうだめになるから、
おじいちゃんからお父さんと相談して、この人が連れに来てくれたので、一緒に帰ったらいいよ」と言いました。
私たちは松山の方へ帰り、思い寄るから、相手に言うから、そう言って帰りました。
高松から宇野へ渡る大きな船があったのですが、
手紙が濡れてきたのです。名前が二陣台でした。
ここに来ると、「おかしい、この手紙が濡れてきたのか、郵便さんが濡れてきたのかな?」と思いました。
その連絡船が爆撃を受け、沈みかけたので、急いで手紙をあげました。
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-その後で濡れていたということですか。
そうですよ。そんなことがあったり、松山でも命からがら逃げ回っていました。
-今、いろいろ経緯を聞いてお聞きしたいのですが、
-今で大倉省ですよね。そもそもですが、そこで寮に住まれていたのですが、
-寮は東京のどこにあったのですか。
竹の川です。
-竹の川というと、すみません、僕も東京に居ながらうっといんですけど。
今は変わっていますが、竹の川でした。
-中心地ですかね。霞ヶ関とかあの辺なのかな、やっぱり。
-でも、中心の方だったのですかね。
-さらっと造兵局を受けたら、受かったとお話ししましたが、
-それはすごく難しい試験だったのではないかと思いますが、全国からすごい人が受けるんじゃないですか。
-そうです。松山県から宇和島県に一人、
-同じ松山県に男の子が一人、私と。
-三人は知っているのです。松山県でいうのを。他の人は私は知らなかった。
-そうですよね。
-ちょうど18歳とかそのくらいで東京に行ったという感じですか。
-定身所、定身局とか行くのが嫌でも結構普通だったんですか、当時は。
-女性が当時、戦争の時に借り出されるっていうのは、軍事工場とかそういうのが結構普通だったんですかね。
-そうです。
-その中で、行きたくないっていうのもあって造兵局を受けたっておっしゃったと思うんですけど、
-実際に試験を受けるっていうこと自体がすごいなと。
-例えば、東京にいて造兵局にすごい家が近くにあって、なじみがあったとかなんですけど、
-その発想自体がすごいなと思って。
-私、本当に何が何なのかさっぱりわからないんです。
-東京に行ったらどっち向いているかわからないし、距離がどんなに離れているかそれもわからないし、
-やっぱり軍事工場とか、決められたところに送り込まれるより、
-自分がここに行こうと思って決めたところに行く方が、自分が働きよいかなと思って、そちらを決めたんですけどね。
-それは究極的に言うと、戦争とかあんまり関係なくても、
-彩野さん自体はもともと決められたところより、自分で選んでやりたいっていうような性格とかもあったんですかね。
-それはありましたね。
-あとは、結果的にはご両親内緒でってことだったと思うんですけど、
-試験自体は普通に松山で受けられるっていうのはあったんですね。
-増兵局に行かれて、17、8で松山でずっと暮らしている男の子も女の子もいっぱいいるわけですよね。
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-その中で、生まれ育ったところ離れる寂しさとかそういうのは全然なかったんですか。
-いや、それは寂しかったです。親はもうこれで会うのがしまいかなと思って、出るのは出ましたけどね。
-結局、東京にはどのくらいいらっしゃったんですか。
-東京には2年くらいかな。
-大阪のいとこさんがお父様のということで一緒に連れ戻したというか、
-その後、もう一回戻ったんですか、東京に。
-いや、戻らなかった。
-東京は毎日のように空襲があって、落とされるから、絶対に東京には行かないと言って、その人は海軍に行ったんですよ。
-結局、その人は東シナ海があそこでちょうど船が南方の方に行き寄って、爆弾を落とされて、そこで沈んで亡くなった。
-その人というのは。
-私を連れに来てくれた、東京に連れに来てくれたいとこなんです。
-あ、いとこの方も。
-東シナ海で、爆撃に追って亡くなってしまった。
-そのいとこの方は、当時海軍にいて。
-いや、まだそれから、私連れに行ってから海軍に出て。
-年はそんなにあやのさんと変わらなかった。
-私と言ったら、5つぐらい違ったかね。
-でもある意味その方が連れ戻しに来てくれなかったら、また違う人生になった。
-私も同じ道を踏んで亡くなっていると思います。
-昭和、東京にいらっしゃったのは、だいたい時期的には、もし分かればいいんですけど、何年から何年の何月ぐらいまで。
-16、17年ぐらいだったかな。
-終戦の2年前ぐらいまで逆に東京にいたということですかね。昭和20年とかは東京にいなかったということですか。
-20年はもう帰っていったです。
-やはり東京大空襲を経験されたわけではないですか。
-私が帰った後が、もうやけのがらになった。
-東京大空襲の前にも当然空襲があったと今お話がかかっていて思ったんですけど、
-それはもう造兵局で就職された時から空襲はしょっちゅうあったみたいな、どういう頻度でどういう感覚だったんだろうなっていうのが。
-行った時はまだ全然空襲なんかなかったんですよ。
-行って半年ぐらいしてからぼちぼち空襲のサイレンが出て、そういう合図があって、
-僕は逃げ込み寄ったんですけどね。それがもうずっと日に日に酷くなって、
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-でも私を連れに来てくれた時なんか一日に何回も来るようになって、
-だから危ないって連れに来てくれたみたいなんですけどね。
-それから池袋におったいとこが知らせたんだろう。空襲が激しいから連れに来てあげると空襲に追ったら亡くなってしまうから連れに来いとか何とか言って、
-手紙でも出したんじゃないかと思うんですけどね。
-池袋のそのいとこの方はご無事だったんですか。
-はい。松山の方に帰っておったからね。自分らが激しくなってあれからいて引き上げて帰っておったから。
-空襲がどんどん激しくなってきてっておっしゃってましたけど、実際だから警報もなるでしょう。空を見ると普通に戦闘機とか飛んでるんですよね。
-飛んでるんです。
-想像はつくけど想像つかないんですけど、やっぱり生きている心地がしない感じですか。それから意外と慣れちゃうものなのか。
-いやいや、本当に怖かったです。そのネキが落ちたのは本当に恐ろしかったですよ。
-時間も朝から晩まで常にいつあるかわからないって感じなんですか。
-そうですよ。仕事しよっても空襲があったらすぐみんな同じところに集めて、そのカーカーで集めて、
そしてもう上の人が指導して、僕を行くか他行くか言うように分けてしてくれていたんですけど。
-造兵局っていう、やっぱり誰もが務められるところじゃないところにいらっしゃったと思うんですけど、その当時、直接軍の本部があったというわけではないでしょうけど、
その国の機関ではあったわけで、戦争に対する、修正の2年くらい前だから状況がちょっと僕もわからないですけど、
-戦争に対するいろんな国の握っている情報とか、そういう雰囲気とかって内部に伝わってくるとか、そういうのは特には全然ない?
-なかったです。もう本当に何にもなかったですね。
-振り返ると、2年間いらっしゃった中で、当然空襲警報とかもいろいろあったり、命の危険を言うところもいっぱいあったと思うんですけど、
そういう中でも毎日が当然あったわけで、支えられていた時間とか楽しかった時間とか、そういうのって何かありますか?例えば寮での生活でもいいですし、お休みの日に。
-お休みの日に、時には上野の公園とか東京タワーとか、ああいうとこへ連れて行ってくれよったです。
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-それは一緒に仲間が?
-上野の方がついて連れて行ってくれたりはしよったですけどね。
-さっきおっしゃっていたように、いよいよ空襲が激しくなってきたということで、いとこの方が連れ戻して、そこからまた命かねがらってさっきおっしゃっていましたけど、戻ってからも大変だったということなんですか?
-松山に空襲で落ちるでしょ、爆撃されると。東京で見ているから、飛行機の音がしたら、またやってきたのかなと思って、それこそ胸がドキドキしよったです。
-東京が危ないからって言って逃げてきたけど。
-松山が、そしたら今度は広島があるでしょ。だから本当に戦争は怖かったです。
-当時、他にも例えばご兄弟とかお父様お母様とかはどういう状況で松山にいらっしゃったのかっていうのはどういう感じだったんですかね、皆さん。
-松山は市内じゃない、外れているから、市内におるようなことはないですよね、松山の市から、ちょっと外れたところにいたから、松山の市内におるよりは安全だったんです。
-お父様は何をされていたんですか、当時は。
-お父さんは田んぼを作っていました。お百姓さん。
-その意味では、東京にいらっしゃった時も食べ物とか持っていましたけど、当時はお父様は食べ物には困らなかった、そんなことはなかったんですか。
-食べ物には困らなかった。いろんなものを作っていたから、お米作ったり、お麦作ったり、豆さん作ったりしたから、食べ物には困っていない。
-農家だったということですか。
-農家です。
-ご商売としても農業もやっていらっしゃって、という感じなんですよね。
-農業がもう第一番の仕事なんですよね。
-当然、戦争になると食料がなくなってくるってあって、いくら農家であっても、いろんな不安はあるでしょうし、国に強制的に何かある程度徴収されたとか、そういうのはなかったんですか。
-あったです。お米はもうほとんど、これからお米がそれこそ、このコップにいっぱいだったら、お麦はそれの倍入れて炊くようなご飯を食べよったけど、うちはそんなにお麦の入ったご飯は食べたことなかったですね。
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-父親がお麦の匂いが嫌いだから、俺からご飯は早く炊いておいて、早く炊いておいてって言ったんですが、熱かったら匂いが鼻にぽんと来て、嫌だから、早くご飯を炊いておいてって言ったんですよ。
-そんなお父さんもいらっしゃって、ご兄弟はあやなさんは何番目で、どういう感じですか。
-5人おいて2番目です。
-上はお兄さん?
-いや、姉。姉、私、妹、妹、弟。
-ほとんど女性じゃないですか。
-一番下の弟が今、後ついでます。
-当時あやなさんは17歳か18歳ぐらいだった。昭和20年ぐらいでいくと思うんですけど、お父さんはまだちっちゃかった?
-ちっちゃかったですよ。
-直接ご家族の中で戦争に行かれた方はいなかった?
-いません。女子ギリだから。
-そうですよね。
-だから私が東京に行ったぐらいで、後のものはもう全然行ってないです。
-そうか、でもね、冒頭の話に戻りますが、やっぱりそういう中で東京の、しかも造兵局に行くって結構すごいことかなと思って。
-そうです。私も自分が後で考えて、よー、この造兵局が入れたもんやなと思って、私自分ながらに関心を持ったですよ。
-戻っていらっしゃって、空襲松山とかもある中で、いわゆる8月15日に戦争が終わったと思うんですけども、その時のまさに天皇陛下の放送を聞いたとか、何か記憶ってありますか?
-聞きました。
-どこで?
-郵便局で聞きました。
-郵便局?
-局へ勤めよって。
-今度は郵便局?
-うん。局で聞きました。その時には知らんうちにもう涙が出たです。
-あ、そうなんですね。その涙ってどういう感情だったんですかね。
-その涙というのが、どう言っていいんですかね。悔しいやら、自分でその戦争に負けたのが悔しいところがあるし、その天皇陛下さんが放送されて、それを聞く天皇陛下さんの気持ちを考えたら、なんでもう涙が出たんです。
-終わってほっとしたっていうのとはちょっと違う?
-いや、ほっとはしませんでしたね。
-あ、しなかった?
-うん。そのどう言っていいんか。悔しいのと、その天皇陛下が放送するのをどれだけ考えて、つらい思い出されたのかなと思って、それを考えたら、そんなもん思いませんでしたわ。
-その郵便局で勤めてらっしゃるときに、当然郵便局に訪れてる人とかもいたわけですよね。お客さんとか。その時って、ちょっとわかんないですけど、これより天皇陛下の何かありますみたいに、そういうのが流れるんですか。ラジオで。
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-えっと、そうそう。どう言って最初に。なんか天皇陛下の何かがこれからあります、言って。何をあれ言ったのかな。そしてその戦争に負けたの、あれを放送された。その前に何か言って、アナウンサーが言ってから。
-綾野さんの気持ちもそうですけど、その時の郵便局、そんなに余裕なかったかもしれないけど、雰囲気もやっぱり同じような雰囲気でしたか。
もう、シーンとしてしまったね。もうみんな、もう。局に来てる人なんかパーンとやって、何かあけに取られたような感じで聞き入ってましたね。
-その悔しいとか、あるいはポカーンとしちゃった時の、そういうものから徐々に戦争が終わったんだ、これからどうしようとか、なんかそういうふうに現実を受け入れるというか、そういうふうに変わっていったのっていつぐらいから、例えばもう数日経ったら何か切り替わってたのか、綾野さんの中でどういう感じだったんですか。
それから数日したら、もうアメリカの兵隊がずっと来るんですよ。それが怖かったですね。
-それまでアメリカの兵隊を実際に見たことはなかったんですか。
-見たことはなかったんですか。
いや、東京で飛行機で落ちてるのは見たけど、それより他には見たことはなかったんです。
絵の中で見るのは見たけど、実物は見たことがなかったので、本当に見たら怖かったので、ちょろちょろちょろちょろ、それこそ子どもが逃げるように逃げましたね。
-実際にその印象が変わったりとかっていうのは徐々になったんですか。あれあんまり怖くないな、みたいなのはずっと怖かったんですか。
半年、1年ぐらいは怖かったですね。
-8月15日。8月15日って僕は終戦の日として当然知ってるんですけど、その日に歴史的には戦争があったかもしれないですけど、全部が急に変わったわけじゃないんですよね、その生活とかが。
変わりませんでしたよ。もうそれこそ何年間徐々に変わっていった。
-東京にいるときもそうですけど、未来を描けたというか、そういう風になったのっていつぐらいからですか。
3年ぐらい経ってからだったと思います。
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もう日本は戦争に負けてあれになったんじゃないかという気持ちが出てきたのは、その3年ぐらい経ってからだったと思います。
-昭和20年で終わってから、3年ぐらいで昭和23年ぐらい。その3年って多分当然激動の時代だったと思うんですけど、今振り返れば。
-いわゆる3年、そういう風にかかった人もいれば、人それぞれだったんですかね。
それぞれだったと思います。
-二の回りとかでもそうですね。
-綾野さんは郵便局でそのまましばらくずっと勤めていらっしゃったんですか。
-こちらに来たのはそこからまた数年後。
-それはご結婚されてとかそういう感じなんですか。
基本的にそのいわゆる戦争っていうのは東京とこの松山、愛媛の松山で受けてという感じだと思うんですけど、振り返って、今空襲の話を伺いましたけど、改めて振り返って本当にこれだけは一番辛かったなということっていうのはどんなことでしたかね。
-やっぱり東京行ってた時かね。
-東京行ってた時。
-それはまあその行った時全部かもしれないですけど、特に象徴的なことってもう二度とこんな思いをしたくないっていうのはどういうことですかね。
-やっぱり東京で行って空襲が落ちた時やね。空襲を落とされた時がもうこれが最後かな、これが最後かなと思いもって逃げましたからね。
-普通に本当に目の前で爆弾落ちたとかも見てるんですよね。
-目の前ででも落ちるし、その飛行機が落ちてアメリカのパイロットが乗ったの落ちたらもうすぐ増兵局のネキ落ちたからね。
だからそんなんも見とるしするから、やっぱりそれが一番気持ちが悪いし怖かったように思います。
-その時って、特に酷くなってきたら空襲警報も一日も何回もってありましたけど、寝る時とか生きてる気がしないとか、明日も向かわれるんだとか、そういうふうに常によぎることってやっぱりあったんですか。
-ありましたね。もう寝ると言っても綺麗に脱いで寝巻き着てなんかは寝ませんでしたね。
もう普通の服、もうすぐなんかあったらそのまま飛び出せるような。
-木の幹のまま。
-木の幹のまま言うんですか。そういう格好で寝てましたね。
-その中で、死がある意味日常だったというか、今考えれば非日常ですけど、そういう時代を送っていく中で、松山戻ってからだと思うんですけど、実際戦争はほぼ負けてたわけじゃないですか。
-そういう時の新聞を見たりとか、ご自身は、あとご家族はどう見てたんですか。やっぱりその報道で勝ってるって言ってたのをそのままそういうふうに信じてたのか、なんかちょっと違うんじゃないかみたいな。
まあみんな、日本は負けない、日本は負けないって言ってたからね。だからやっぱり国民はみんな負けたということを天皇陛下さんが放送されたらもうがっかりしたんじゃないですかね。
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-そういう中で、いろんな当時の人がいたと思うんですけど、やっぱり戦争負けてるとか、生きたくないとか、そういうことを言う人は、漫画とかアニメとかでしか知らないですけど、やっぱり非国民だとか変わり者だっていうふうに扱われがちだったと思うんですけど、そういう感じはあったんですか、全体の雰囲気として。それからみんなも本当は思ったけど、やっぱり言えない雰囲気だった。
-でも、それこそ赤髪をね、兵隊にとられるときに赤髪が来たらもう嫌がおうでもいかないからね。そういうあれはなかったですけどね。
-それと、ご兄弟、女性、ご兄弟多い中で、上お姉さんですよね。そこは当時結婚されてたんですか。-いや、してなかったです。
-本当に皆さん無効無事で。-そうです。みんな元気で。母も95歳まで元気で。父は86歳で亡くなったけどね。母親は95歳まで、もう死ぬ1週間前くらいまで元気で。
それと、私がいたおばあちゃんも95歳まで元気で。本当にチョロチョロしていましたよ。元気で。
-戦争は昭和2年8月15日に終わって、東京に行ったときは一番やっぱりしんどかったとおっしゃってますけど、命の危険というか、いろいろ大変なりにも命を奪われることはないだろうなと思えるようになったのって、戦争が終わったときには全然そういうふうに思えましたか。
-そうですね。助かって、元気でこれからまた働けるなと思ったですね。それまではもういつ、明日死ぬのか、今日死ぬのだろうか、明日死ぬのだろうかというのが、もうこの胸の中で、もういつもあれしよったですよね。
-いろんな方にお話があった。8月15日の天皇陛下の言葉でいろんな意味で、やっぱりホッとしたっていうより悔しいとか、ポカンとしちゃった方がやっぱり多いってお話が結構かかってたんですけど、
あやのさんの身の回りでもいろんな方いました。つまりそのご自身はご自身なりに考えたことがあって、ある意味未来は3年ぐらいっておっしゃってましたけど、しばらく戦争が終わったのを受け入れられない人とか、例えばこんな人がいたとか身の回りで。
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知り合いの方でも、戦争が終わったような気がせんとか言ってましたけどね。でも、戦争は終わったのよって言ったら、終わったんじゃない、負けたんじゃという人もおるしね。
-増兵局の話ありましたけども、小さい時というか、ある程度物心ついてから、戦争入る前かな、こういうことをやってみたいとか、将来の夢とかってあったんですか。
全然なかったです。
だいたいね、昔は看護婦で、今は看護師で、あれになってみたいかなと思ったりはしたんですけど、
やっぱり年寄りを扱うんだから、しんどいけん、これはダメだ、やめた、これは考えない、怒ったりしたこともあったんですけどね。
-改めて大きくすると、松山にいて、17、8歳で増兵局に受かることもそうですけど、やっぱり行ってたっていうのはすごいですよね。
いや、それがそうです。よっぽど低身体にとられるのが辛かったんだろうと思うんです。
それで自分が東京へ行ったこともないところへ自分が募集して、試験を受けて行ったんだろうと思うんですけどね。
-増兵局の中でどんな仕事をしてたんですか。
お金がありますよね。そしたらここに番号が入ったんですよ。
-機械に、お札に。
お札に。それでそれの番号を抜け取らせないか、それを調べたりして、100枚なら100枚ずつ束に、先ほど言ったような紐で縛って束にしたり、
私たちがいるところはそういうふうにしようとする。他は印刷しようとするところもあるし、紙をお金の大きさに切り寄るところもあるし、いろいろ。
-これ今思い出して、当然働いた人が知らないことだと思いますけど、戦争と直接関係なくてもいいんですけど、こんなことやってるんだ増兵局ってみたいな、
驚いたことでも不思議だったことでも面白いことでもいいんですけど、何かありますか。
あれだったらですね、外国のお金も擦り寄ったんですよ。
-そうなんですか。
で、なんで日本が外国のお金を印刷せないといけないのかな、思ったりしたこともあったです。
-ちなみにどこの国ですか、思い出したとしたら。
あれ、中国だった?どこのお金だったのか。なんか変なお金だったです。
-変なお金。
変なお金だった。
-変なお金っていうのは見た目的に。
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日本だったらこうやって小徳大使かなんかこうおられて、あるでしょうが、もうあんなのなしに。
-まあでもどっかの国だったんですけど、擦ってるのは間違いない。
間違いない。
-擦ってるの見てるわけですか。
はい。
-それに関してどこの国。
それが国はわからない。
-いろんな機密がいっぱいあったんじゃないですかね。
まあお金がこうあるでしょう。この隅っこを切り取っても返らせてもらえないのだから。
その歯切れがあるまで、切れた先がなくなっているところがあるまで探して。
それから今日仕事したゴミは絶対その日にはつつかないのです。
あくる朝ゴミを捨てるところへ持って行くんですよ。
それをもう晩まで、次の日までしていないんです。
そこがお金の端っこを切り取ったら、ここがないから、これを探すんです。
仕事はせないのですよ。仕事はさせないけど、もう待機をね。
それがあるまで。
ゴミを捨てた人は誰が捨てに行ったか、どこに捨てたかをちゃんと調べて、
それをもういちいち探すんです。
探してあったらテープで貼って、一枚のお金にきちんとなったら返らせてもらう。
同期というか、同じ同期生というか、どのくらい人数いたんですか。
それは覚えてないですね。
何十人もいたという感じでしたか。
四、五十人はいたじゃないですか。
数人という感じではないですね。
女性が多いんですか。
女性も多い。男の人も多かったですね。
もう一人男の子がいたでしょ。あの子はね、食堂におったんです。
食堂で働いてた。造油局に入っても食堂で働くという人も。
私も食事を五人おったら、五人分を交代で取りに行くんですよ。
取りに行ったときに、胸に近藤ゆうのパッチをつけとったんです。
あら、近藤さん。うちらの方にたくさん近藤ゆうがあるんだが、
日本全国から来ているんだから、他にも近藤さんがいるんだなと思って、
最初はご飯をもらって帰ったんですよ。
また次に当番が当たったときに行ったんですよ。
またその子がいるからね。
近藤さんはいつここに入られたんですか。
私と同じ年に入ったんですよ。高校です。
お宅はどこですかと聞いたんですよ。
42:04
松山の方で言うでしょ。あら、私も何やら松山の方ですよ。
お宅と同じ年に入ったんですよ。あら、知らなかったと言ってね。
それからご飯を余計、五人分言っても七人分くらいくれたりね。
同居ですね。
おかずも数のものじゃなかったら余計入れてくれたりするものだからね。
部屋調査員で年を取った方が一人同じ部屋に入っているんですよ。
その人が、菅さんが行ったらたくさんご飯やおかずもらってくるけん、
菅さん行って来ていいけん、私は小敷じゃないけん、嫌ですって言ったんやね。
稀に同じところから来ている方だって、
あれしたらその人が親切でくれたんだから、
そんなに私は当番以外には行きませんって断ったんですけどね。
そんなこともあったです。
なんでこれ東京で隣の人に会うのかなと思ったりして。
これインタビューと関係ないですけどね、
さっきも娘さんが僕の近所だったりとか、わからないもんですよね。
食堂っていうのは無料だったのか、安いけどお金を払うのかみたいな感じだったんですか、ご飯っていうのは。
ご飯を食事代理では取らなかったけどね、給料が20円、今の10円銀貨2つ。
でも今で言うと20万円ぐらい?1万円、2万円ぐらい?
今で言っていい?ちょっと比較がわからないんですけど、
それは綾野さんしか比較ができないと思うんですけど。
どういう感覚ですか。
20円でやったんやから、今でやったら20万?
僕の意味では造兵局って誰でも入れるわけじゃないし、むしろ普通よりはいい?
給料は普通よりは、他よりは確か良かったと思うんです。
これから60年前のこっちやから、今でやったら20万円に加算するんじゃろうね。
20円で何ができました、当時。
何円でどういうものを買っていたのか、今の記憶にあるものでいいですか。
あのね、そら豆があるでしょ。
あれを炊いて、さっかりんかちょっと甘味を入れて、このぐらいのお皿に入れて売り寄るとこがあったんですよ。
そこに私がそら豆の炊いたのを売り寄るとこがあるけん。
行くってお友達に言ったら、わー、そんなとこがあるけん。
行くって言ったら、行くけん。ほいじゃ、一緒に行きましょうって言って。
それが一皿が5千円。
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20円はやっぱ大金ですね。
5千円、5千円だったんですよ。
ほいで、わー、見つけたねん。
私、街を歩くのが好きで、あまり遠く行ったらよう帰らんけん。
近くは結構帰るから、おもて、散歩しよったら見つけたからね。
ほいじゃ、買おうかなと思って話したんよって言ったら、
いや、買って帰るって言って、その人も買って帰ったけどね。
そっか、じゃあ20円だったんですね。
この間も別プイ一人が行ってきたんですよ。
あ、そうなんですか。お一人で。
ひろまで、ここから朝、広島駅の急行バスに乗って、
ひろで降りて、ひろから別プイまで切符買って、
広島の駅で降りて、そして新幹線に乗って、
小倉で降りて、小倉で降りて、ほいでまた乗り換えて、ほいで行ったんですよ。
実際そこで戦争が終わって、今もう68年経って、
その時、ちょっと描いててわかんないですけど、
自分が将来おばあちゃんになった時とか、想像したこととかってありますか。
例えば20代の時に、50年後って日本ってどうなってんだろうとか、
考えたこととかってありました?
それはあったですね。
あ、ありました。
あったけど、おばあさんになるとは思わんかった。
今もおばあさんじゃないですよ、気持ちは、見た目も。
おばあさんになるとは思わんかったけど、
それこそ、息子じゃない、孫の子供、ひいばあちゃん、ひいばあちゃん、
ひまごさんもそうなんですか。
6年生がおるんですよ。
それからね、ひいばあちゃん言われたら、なんか知らんけど、誰によるんかな、いうようなです。
ご自身の方はまだ少女のような気持ちで。
そうですよ。
それこそ、だから50年後を想像したことはあるって今ちょろっとおっしゃいましたけど、
それも具体的かわかんないですけど、
その時描いた50年後と今ってどうです?
例えば戦争終わった時に、50年後というか、
すごい自分が、孫とか子供の時代、こういう時代になるかと思ってたものと今。
もっとね、どう言っていいんですか、
平和な、もういい国になるんじゃないかと思ったですけど、
私の考え違い。
そう言われちゃうと、これはもう聞くしかないですけど、
どういうところで、まさにその時代に生きた綾菜さんだから今も生きていて、
言葉にできる部分があれば、どういうところで、
そうなっていないなって感じますか。
もっと人間が穏やかで、
そして、もっと一人一人が親切で、
もっと国が平和で、ゴタゴタせん平和な国になったらいいなと思ったけど、
今は全然違うでしょう。
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それと逆に若い人間としては、やっぱり悲しいし頑張らなきゃと思うんですけど。
今だったら、人間一人一人が自分本位で生きているような感じでしょう。
だから、ひい孫に、みんなにね、
おじいちゃん、おばあちゃん、お友達、みんなに好かれるような子にならなきゃいけないのよ、
私はいつも言うんですけどね。
思ったような感じには、日本も国民もなっていないというような話がされましたけども、
70年近く見てきて、
最初はご自身も含めて周りもそうですけど、
良くしようとか、戦争は二度とやだという気持ちがあって、
良くなりかけたけど、途中どこかでそういう風になったか、
具体的に言えないかもしれないですけど、
それか最近特にそう感じるのかとか、
どういう風に感じられているのかな?
つまり日本があまり良くなっていないとか、
今むしろ悪い方向に向かっているとか、
この70年見てた時に、
最初はいい方向に向かっていたけど、
最近停滞しているなみたいに感じるのか、
もう10年ぐらい経っちゃったら、それこそみんな戦争を忘れちゃって、
どんどん年が経てば経つほど悪くなっているみたいな、
あと民意も国民の品格も下がっているとか、
どういう風に思われますか?
そうですね。
だから日本がいい時はもう終わったような気がします。
いい時は終わった?
もうこれからが水平に行けばいいので、
それが下っていくような気がする。
私は思うんですけどね。
今日2013年12月ですが、
綾野さんいつまでも本当にお元気でいてください。
本当に今日はどうもありがとうございました。
お役に立てませんですいません。
今日は広島県の呉市の大崎下島です。
大崎下島のご自宅で菅綾野さんにお話を伺いました。
綾野さんどうも長時間ありがとうございました。