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2025-06-16 22:39

36|1945年6月19日福岡大空襲 福岡を焼いた「あの日」移ろう街、残る跡と記憶

西日本新聞の記者が、取材の裏側やニュース解説、福岡の街のあれやこれやをお話しする「西日本新聞me Podcast」。

太平洋戦争末期の1945年6月19日深夜、221機の米軍機が福岡市の都心部を中心に焼夷弾を投下しました。戦後80年となる今年。「あの日」を、これからも忘れないために、記者たちは当時を知る人を訪ねました。

◆出演:福間慎一(報道センター)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:井上知哉(ビジネス開発部)

◆収録日:2025年6月12日

◆福岡大空襲80年
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サマリー

1945年6月19日、福岡市は米軍のB29による大空襲を受け、多大な人的損失と建物の焼失が発生しています。この事件は福岡の中心部に大きな衝撃を与え、地域に深く刻まれています。福岡大空襲は、街に深い傷跡と記憶を残しています。避難方法や町の復興についての証言を通じて、戦争の影響を振り返っています。福岡大空襲を取り上げ、戦争の記憶を残す重要性や戦後の福岡の変遷について語られています。

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西日本新聞 Podcast
西日本新聞me Podcast
この番組では、西日本新聞の記者が、取材の裏側やニュース解説、福岡の街のあれやこれをお話ししています。
こんにちは。福岡のニュースアプリ、西日本新聞meの横山智則です。
福岡大空襲の概要
西日本新聞では、うちにも戦争があったをはじめ、1580年の企画を続けていますが、今回は1945年6月19日、福岡大空襲を振り返りたいと思っております。
スタジオには報道センターの福間さんに来ていただきました。どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
放送日が6月16日の予定で、19日が福岡大空襲の日でことになっているので、それもあって、改めてお話を聞きたいと思ったんですが、いわゆる福岡大空襲ってどういった被害があったんですか?
福岡に住んでいる方、福岡市であったりその周辺に住んでいる方は、もしかしたら学校の授業で福岡大空襲ということをずっと勉強したり、触れたりすることがあったかもしれません。
僕もそうでした。平和学習の日だったと思います。
私たちは平和学習の日という認識が強いかと思います。
この日、本当にちょうど80年前ですね、1945年、もう太平洋戦争が終わる2ヶ月以内、2ヶ月終わるまで1ヶ月を切ったという状況でした。
その日の夜ですね、米軍のB29が福岡市にたくさん焼夷弾を落として町が燃えたというものなんですけども、
夜のですね、皆さん大体寝た方も多かったであろう午後の10時55分、この時に空襲警報が発令されまして、そして米軍機が福岡の上空に到達したのは午後11時過ぎでした。
この時に、大体221機というふうに言われています。
221機のB29が福岡市の広範囲にわたって焼夷弾を投下していくんですけれども、東は三笠川を測っているのです。
そこから西は東川、この範囲約5キロぐらいを中心に焼夷弾を大量に投下していきました。
当時やっぱり福岡市人口が30万人ちょっと、今は160万人ですけど小さな、まだまだそんなに大きな町ではなかったんですけれども、
その5キロの間には当然家屋が密集していますし、多くの商業施設があったりというところでとても大きな被害が出た。
実際本当にこの空襲で何人が亡くなりになったのかというのは実はあまりよくわかっていないんですけれども、
少なくとも翌年の記録だったりすると、2000人以上の方が亡くなりになったり行方不明になったり、あるいは怪我をされたということで大きな人的な被害が出て、
そして1万4千ぐらいの建物、1万4千戸ぐらいが燃えたと。本当私たちが日頃目にする家の数をいっぺんに1万4千というのは目にしないでしょうから、それだけの家がやっぱり燃えてしまうというのはとてつもない空襲だったというふうに思います。
これ11時過ぎに焼夷弾の投下を始めまして、そして焼夷弾の投下は約1時間半ちょっと、午前1時前ぐらいまで続いたというふうに言われています。
その後ただ町はずっとくすぶり続けてですね、で多くの家屋が焼けて、そしてまた多くの方が亡くなったというのが福岡大空襲でした。
空襲の被害と影響
今三笠川から飛河までというお話されましたけど、今の福岡の町を想像すると完全にやっぱり町の真ん中という感じがしますけど、当時もやっぱりそうなんですか?
そうですね、特に当時は博多の地域、そして当時は福岡城のところは陸軍の施設がありました。なのでその周辺である堀小屋のちょっと北側にある角子の地域が大きな被害を受けています。
特にやっぱり一番最もひどかったのは博多、それこそ今の博多小学校であったり唐屋のあたりですね。ここはすごく大きな被害が出ています。
そして大名の方にも大きな被害が出ました。天神にも焼夷弾がもちろん落ちているんですけども、例えば岩田屋であったり今のパルコですね。
考えてみたら岩田屋は当時からもう建ってたんですよね。
岩田屋は1936年に建ちましたので、その時も百貨店として存在をしています。
で、今のパルコの場所ですね、のところであったり、あとはうちの西日本新聞も今もうすでに同じ場所にあるんですけど、であったりは大きな被害はなかったと。
そうですか、すぐそばだけちょっと今の天神の真ん中みたいなところは少し被害が少なかった。
写真を見るとやっぱり多くの建物が焼けて、その岩田屋の向かいにあった今の天神ビルのところにあった九州鉄道の建物なんかは時計台のところが焼けたり、やっぱりいろんな被害は出ている。
なので本当に狭い範囲にたくさんの焼夷弾が落とされて多くの被害が出たという空襲でした。
で、この日は当時はやっぱり大戦の末期でですね、いろんな都市にいわゆる無差別的に空襲がひっくり広げられていて、同じ日に実は豊橋市、愛知県ですね、と静岡市、この日も昭和20年の6月19日に空襲を受けています。
そうなんですね。
そうだったんですね。福岡だけじゃなかったんですか、あの日っていうのは。
はい、本当にいろんな都市が同じように空襲を受けて、場所は違えど同じように家が焼けたりですね、多くの方が亡くなるという、そして本当に日常のようにそういったことが日々新聞で報じられていると、そういう日々でした。
そういうことですよね。1945年の6月頃っていうのは、今日は福岡だった、じゃあ明日はっていうような話で、日本各地でそういった空襲があってた頃ってことですよね。
ということで当時はとはいえですね、空襲があったって新聞はじゃあ大変だったというふうにはやっぱり伝えることはしません。やっぱり新聞は繊維紅葉になっていた。
でやっぱりこんなこと大したことはないであったり、もう一刻も早く生産に取り掛かれとかですね、そういったことがやっぱり日々新聞に書いてあるということですね。
というのがあったので、じゃあ今の視点でその空襲みたいなものを報じたらどんなふうになるんだろうかっていうのが、今後ろに画像に出ているというものです。これは戦後70年の、ですから10年前。
10年前に西日本新聞が福間さん中心に作られた紙面。
当時のまた同僚たちと一緒にですね、じゃあ今の視点で福岡の大空襲を新聞に載せたらどういうふうな伝え方になるだろうというのをみんなで考えて作った4ページの新聞というのが10年前に作ったものです。
そうするとこういうとにかく福岡に空襲が来て被害が甚大であるということをちゃんと伝えざるを得ないよねと、そういうことになるというものでした。
記憶と取材の継承
今年もそれこそ今ちょうど特集づくりに取り組まれていると思うんですけども、どういった方を今年は取材ができたんですか。
今年は戦後80年ですね。80歳の方はゼロ歳。
ゼロ歳、おやっと生まれて80歳ですからね。
これまで新聞はいわゆる6月19日に合わせてずっとこれを忘れないためにという報道を先輩の記者たちも続けてきて、そのためには当時こういうことがあったということを聞くことから始まるというふうに思います。
これがさっき申し上げたように80年、85歳の方が5歳という時代になってきました。
なのでお話を聞ける方、機会というのが本当にどんどんどんどん少なくなってきています。
横山さんが子供の頃にこういろいろそういう平和学習の時とか思い出すと、やっぱりいろんな方が多分お話になってきます。
そうですね。当時を知る近所のおじいちゃんおばあちゃんがですね、時には学校に来てくれてお話ししてくれたっていうのは、僕は今ちょうど49歳ですから、10歳の頃というとちょうど40年ぐらい前。
その頃はそうだったと思います。
おそらく例えば当時30歳ぐらいでこの空襲にあった方、やっぱりその時にこんな仕事をしていたとか、こういう救援活動をしたっていうふうに話せる方がたくさんいらっしゃった時代だったと思います。
これが当たり前のように私たちも聞いていたんですけど、やっぱり今80年経っていくとそういった方々にお話を聞くことはもうできません。
その代わりたくさんの手記であったり記録であったり文集みたいなものが残されているので、こういったものを読むというのも当時に触れる大きなチャンスだと思っています。
とはいえ私たち今回、戦後80年で聞ける人が少なくはなってきているけれども、やっぱり聞けるならちゃんと聞こうよということで同僚のみんなとまた話し合いをしてですね。
いろんなご協力こういった方はご存じないですかっていうことをお尋ねしたりですね。
過去にうちに投稿を寄せてくださった方みたいな方にお連絡を取るようなことをしてですね。
今回はそれでも9人ぐらいの方にお話を伺うことができました。
当時の6月19日のことを覚えていらっしゃる方々です。
それこそ少しだけでもどういったお話が聞けたかっていうのは。
本当多くの方はやっぱり子ども自分ですね。
そうなりますよね。
ですので子どもの頃のお記憶を元にお話しくださっています。
それでもやっぱり記憶は鮮明でですね。
例えば中にはお父さんだけ家に残してみんなで家族他の家族4人で家を出て。
家の近くはほとんどもうすでに人はいなかった。
西公園の例えばですね防空壕に逃げて行ったんだけれども結局入れなくて家族とはぐれてそのまま自分は一人で茂みで一夜を明かしましたっていう方。
怖かったでしょうね。
それがあんまり不安でもなかったっていうのが日頃西公園親しんで行っていたところだったんで。
よく遊んでたところ。
その方はやっぱりその茂みの場所まで覚えてらっしゃる。
そうなんですね。
今もちゃんとっていうやっぱり本当に話を聞かんとわからないということ。
でもそうだろうな忘れられない場所ですよね。
そうですね。
避難方法の実態
あとは聞いていた記者たち記者のみんなが聞いた中で多かったのがやっぱりその防空壕に避難しないように決めていたっていう方が結構多くてですね。
そうなんですか。
当時はかなりその家だったり家の下だったり庭だったりに壕を作るように指導されていました。
でこの時はいわゆるその防空砲要するに空襲で起きた火事は消さないといけないというふうに決められていた時代でした。
なので実は退避豪というふうに言ってるんですけどその退避豪の退の字は知り族じゃないんですね。
退避する退却するの退じゃないんですね。知り族じゃないんですね。
なんと思いますか。
待つ?
待つ。
だから火が消せるチャンスを待つ豪。
退避。
退避する避難するじゃないんですね。
待つ。火を消さなきゃいけなかったんでそういった豪をいろんな家庭だったりで放ってらっしゃったというふうに聞いています。
ですけどやっぱりそこに。
防空豪とも言われてたんでしょうけど同時に退避豪とも呼ばれてて火を消すまでの間一時避難する場所だぞと。
はいはいはい。
でとはいえやっぱりその焼夷弾すごく高温で落ちてきてやっぱり特に豪の上に建物があってその建物が燃えてしまうと当然中はすごい高い温度になってしまってやっぱり中で亡くなってしまうという方も多くいらっしゃったっていうのはやっぱり
焼夷弾の空襲福岡大空襲ではそういう方もすごく多くいらっしゃった。
そしてやっぱりご証言された方では翌朝ですね町にはかなりそうやって焼ける中で燃える中で亡くなった方のご遺体があったりで学校にですねご遺体が並べられていたりということを目にされたりした方もそういったお話をされている方もいらっしゃいました。
みんなそれこそ今回お話聞いたっていうのはそういったお話が幼い自分の出来事ですもんね。
それでもやっぱりしっかり覚えていらっしゃる。中には90代の方の話も伺うことができて、その方はやっぱりずっと空を見ていたと。
どんどんどんどん焼夷弾が落ちてくる様をやっぱり比較的冷静に見てらっしゃったというふうにおっしゃられていました。
翌朝焼けた町を見てですね、暗い時に起きてますからその次の日にならないと被害の前容はわからないものですから。
福岡の再開発
見た時にやっぱほんといつか見ておれとこういうふうに思いを新たに、いわゆる敵害心ですね。
いつか見ておれとこの野郎がアメリカってことなんですね。
そうですね。というふうに思いを強くしたというふうに当時を振り返ってお話いただいた方もいらっしゃいました。
それこそ証言が取りづらくなっていっているという話もありますけども、一方で福岡の町にはいわゆる戦争の記憶をたどれる場所がいくつかあるように。
福岡市内、やっぱり福岡大空襲の後、福岡ご存知の通りものすごく再開発が進んで、今やとても大きな町になりました。
それこそちょっと前の建物ももうないという状態でもあって。
これ多分他の町も同じだと思うんですけど、こういった戦争の記憶をとどめるものであったり場所がどんどん消えていっているという状況。
これはもうある種仕方のないことかもしれませんし、それでも残っていると後に伝えることができるというものでもあると思います。
福岡市も先ほど申し上げた博多、いわゆる博多部ですね。
博多部のあたりであったり、あとはそのこのあたりにはいくつかそういったものが残っていました。
その子の方ではですね、その子公園に異例の木があるんですけども、その後ろにですね、レンガの低い壁が、レンガの壁が残っていまして、このレンガの壁はやっぱり当時の壁がちゃんと残って、
ほんと間近で日々子供さんたちが遊んでいる、ほんと日常に賑わっている公園です。
ボール遊びしたりしてるんで、そこにやっぱりそのレンガの塀って今も残ってまして、中には少し黒くすすけたような。
これはやっぱ地域の人だったり、役所も含めて保存をしてくれているっていう例でしょうか、だと思います。
あとはですね博多の方に、その子もその公園の向かいにある縁の寺、お寺ではやっぱり当時の亡くなられた方を追悼するための仏像がありますし、博多の方でも街の結構まだたくさんいろんなところにですね、お地蔵さんがやっぱり立ち寄って。
やっぱ6月の19日にそこに手を合わせに来られる方もいらっしゃるんです。
それは今朝の紙面っていうことになるんで、6月12日の紙面になりますけど、そのいわゆる慰霊の日もちょっと老朽化しているっていうところもあるみたいですね。
その日もほんと、その新聞で取り上げました、霊前公園に1965年に建てられた戦災で亡くなられた方たちのための慰霊祭。
10メートルぐらいの人、4メートルぐらいのやや円弧型になっている壁のようなもので構成されているところですけど、それこそできたのが60年前。
戦後20年、今からあれすると60年前。
ということでそれがやっぱり老朽化をしているということで、周辺は立ち入りできなくなっていて、大きな地震の時にどうなるかわからないということで立ち入りできなくようにしているという教室という記事が載ったと思います。
記憶をとどめるものさえ古くなっている。
古くなっていって、そういうことですよね。
いうことなので、いかに80年長い時間が経ってしまったのかというのを思わずにはいられないニュースだというふうに思いました。
やっぱり中には本当にもう全くそういう案内版。中にはその子の公園であったりですね。
あとは前裁判所があって今駐車場になっているマイズル公園の平和台の横のところとかには、当時の西武軍司令部という防空なんかの時に指揮をしていたところの建物の後の壁。
ものすごく分厚い壁がですね、保存されています。
そこはまたしっかり案内版が残っていて、ここにこういった施設があったのか。
こういうふうにたどることができるんですけど、やっぱりもうたどることができないものもあったりします。
一番この福岡大空襲で大きな弊害が出たところの一つと言われているのが十五銀行という。
十五銀行。
当時の銀行ですけれども、ここはやっぱり堅牢な建物、頑丈な建物なものですから、避難する場所として認知をされていた。
丈夫な建物だから何かあったらここに逃げ込みなさいということで、そこに多くの方が当日避難をして。
ですけどやっぱり申し上げたようにすごい高温になっていくということで、この地下室で60人以上の方がお亡くなりになったという痛ましい場所です。
この十五銀行、実際今の博多座のところにあった建物です。
博多座になってますから建物ないんですけど、そこにこういうことがありましたっていうふうに伝えるものはないのでわからない。
近くに昔お地蔵さんがあったり、こういうことがあったものを伝えるものはあったということではありますけど、建物そのもののところは。
何もないというふうになっている。
戦争の記憶を伝える
いうことです。
そうなんですね。それこそ今年もその19日に向けて、今まさに新聞を作って締め作っていらっしゃるところなんですけど、どういった締めになるというのは改めて紹介していただいて。
今回はですね、先ほど申し上げたようなやっぱりまずは話を聞こうと。話しいただける方聞ける方のところでお尋ねして聞こうと。
中にはもうやっぱりほとんど覚えていなくて、日だけのことをうっすら覚えているという方もいらっしゃって、そういった方も含めてそのことだけでも聞こうというような感じでみんなで取材をしました。
ということでそういった方々がその日の夜ですね。その日の夜だったり、その当時どこにいらっしゃったのかっていうところをちょっと地図と一緒にですね。
福岡は昔も今もちろん埋め立てで町の場所が変わってますけど、例えば天神の駅であったりですね、大堀公園であったりですね、今も昔も町の形ややわかりやすいところもあります。
なんで昔の地図であっても、この辺にいらっしゃったんだっていうのがちょっとわかりやすい、なるべくこう今の時代の実続きに感じてもらえるような表現ができればというふうに今紙面を作っています。
なるほど、今ラフがちょうど福岡さんの手元にあって、まあまあもうポッドキャスト聞いてる方はあれですけども、その番号が振ってあるっていうのは証言を聞かれた方たちが当時そこにいたんですよの地図になっているということなんですね。
はい、そこにいらっしゃったということです。
なるほど。
それと一方で今も残っているその戦争、復讐を伝えるものがこの辺りにありますよということも含めて、本当に実続きとよく言いますけど、まさに地図を通して、今我々暮らしている福岡の町でかつてこういうことがあったと。
こういうことがあったということを、まあ今だからこそ不締め報道とか言われることもありますけども、不締めだからこそ改めてこれから先も伝えていけるようにというふうに思ってこの紙面を今作っているところです。
新人も何か取材で入ったって。
ちょうど福岡大空襲は6月19日、毎年これ6月当然6月19日で、実は多くの会社、入社される方4月に入社されると思います。
いろいろ研修をしたりして、ちょうど少し取材の現場とか入り始めるって大体6月ぐらいなんです。
特に西日本新聞は多くの新聞社そうだと思います。
福岡大空襲の記憶
なのでやっぱりこれは私たちもそう思ってますし、やっぱり新人の記者さんにもこの空襲のことをぜひ取材をしてもらおうということで、何人かの方にやっぱりお目にかかって話を聞いてきてもらって、記事を原稿を書いてもらったりしました。
本当にこれから先聞くことができない時代が必ず来るので、もう聞けるのなら絶対聞こうよということで言ったらやっぱり聞いてきてよかったというふうに新人の記者も言ってくれましたし、
同じようにみんなで残るいろんな場所を何時間かけて歩いてですね。
で、やっぱり改めて福岡でこういうことがあったっていうのを場所を見ることで実感できたというふうに言ってくれた新人もいました。
それこそ新人連れて福山さんを来ると回ったというか。
江浜さんとおっしゃるとずっと長年こういう戦争の後、福岡に残る戦争の後をずっと調べていらっしゃる方も5本も出されている方なんですけども、その方のご案内で我々記者一緒にいくつか回らせてもらってですね。
その中に新人の記者も一緒に行こうと言って、感想も含めて原稿を書いてみようかというようなことで記事を書いてもらいました。
そういうことを先に読ませてもらいましたけど、やっぱりこうなんていうのかな、こう感じるものがあったんだろうなっていうような話になってましたね。
もう横山さんもそうでしょうけど、福岡の人間でもやっぱり本当に遠いことになって、そもそも実際は知らない私たちですけど、もう本当にいよいよ遠くなってきたので、
とはいえやっぱり町の大きな記録、出来事をやっぱり町の人間としては何とかしつないで残していかないとなっていうきっかけの一つになればというところで、あまりうまくできるかわかりませんけど、ちょっと精一杯作れればなというふうに思っています。
ありがとうございました。エンディングにすいません、映らせてください。
実は6月19日はですね、朝の8時半頃から福岡七億天神の西鉄福岡駅近くで、今回特集を載ってます西日本新聞無料で配布させていただこうと思っております。
やっぱりこの特集は多くの方に見ていただきたいですし、その中でいわゆる戦争とか平和とか考えるきっかけにしていただければと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。
近くの方はぜひ手に取っていただければと思っております。ここまで聞いていただきありがとうございました。地元市としてあの日をこれからも忘れないために報道を続けてまいります。
ぜひ西日本新聞もしくはスマホアプリの西日本新聞MEのご報道をお願いいたします。本日はありがとうございました。
アプリの紹介
ありがとうございました。
どうも西日本新聞MEです。このアプリではあなたの知りたい記事から福岡の経済社会子育て教育イベント情報ライブカメラマップでわかる防犯情報に特集記事調査を依頼できるあなたの特命取材班速報
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