今三笠川から飛河までというお話されましたけど、今の福岡の町を想像すると完全にやっぱり町の真ん中という感じがしますけど、当時もやっぱりそうなんですか?
そうですね、特に当時は博多の地域、そして当時は福岡城のところは陸軍の施設がありました。なのでその周辺である堀小屋のちょっと北側にある角子の地域が大きな被害を受けています。
特にやっぱり一番最もひどかったのは博多、それこそ今の博多小学校であったり唐屋のあたりですね。ここはすごく大きな被害が出ています。
そして大名の方にも大きな被害が出ました。天神にも焼夷弾がもちろん落ちているんですけども、例えば岩田屋であったり今のパルコですね。
考えてみたら岩田屋は当時からもう建ってたんですよね。
岩田屋は1936年に建ちましたので、その時も百貨店として存在をしています。
で、今のパルコの場所ですね、のところであったり、あとはうちの西日本新聞も今もうすでに同じ場所にあるんですけど、であったりは大きな被害はなかったと。
そうですか、すぐそばだけちょっと今の天神の真ん中みたいなところは少し被害が少なかった。
写真を見るとやっぱり多くの建物が焼けて、その岩田屋の向かいにあった今の天神ビルのところにあった九州鉄道の建物なんかは時計台のところが焼けたり、やっぱりいろんな被害は出ている。
なので本当に狭い範囲にたくさんの焼夷弾が落とされて多くの被害が出たという空襲でした。
で、この日は当時はやっぱり大戦の末期でですね、いろんな都市にいわゆる無差別的に空襲がひっくり広げられていて、同じ日に実は豊橋市、愛知県ですね、と静岡市、この日も昭和20年の6月19日に空襲を受けています。
そうなんですね。
そうだったんですね。福岡だけじゃなかったんですか、あの日っていうのは。
はい、本当にいろんな都市が同じように空襲を受けて、場所は違えど同じように家が焼けたりですね、多くの方が亡くなるという、そして本当に日常のようにそういったことが日々新聞で報じられていると、そういう日々でした。
そういうことですよね。1945年の6月頃っていうのは、今日は福岡だった、じゃあ明日はっていうような話で、日本各地でそういった空襲があってた頃ってことですよね。
ということで当時はとはいえですね、空襲があったって新聞はじゃあ大変だったというふうにはやっぱり伝えることはしません。やっぱり新聞は繊維紅葉になっていた。
でやっぱりこんなこと大したことはないであったり、もう一刻も早く生産に取り掛かれとかですね、そういったことがやっぱり日々新聞に書いてあるということですね。
というのがあったので、じゃあ今の視点でその空襲みたいなものを報じたらどんなふうになるんだろうかっていうのが、今後ろに画像に出ているというものです。これは戦後70年の、ですから10年前。
10年前に西日本新聞が福間さん中心に作られた紙面。
当時のまた同僚たちと一緒にですね、じゃあ今の視点で福岡の大空襲を新聞に載せたらどういうふうな伝え方になるだろうというのをみんなで考えて作った4ページの新聞というのが10年前に作ったものです。
そうするとこういうとにかく福岡に空襲が来て被害が甚大であるということをちゃんと伝えざるを得ないよねと、そういうことになるというものでした。
今年もそれこそ今ちょうど特集づくりに取り組まれていると思うんですけども、どういった方を今年は取材ができたんですか。
今年は戦後80年ですね。80歳の方はゼロ歳。
ゼロ歳、おやっと生まれて80歳ですからね。
これまで新聞はいわゆる6月19日に合わせてずっとこれを忘れないためにという報道を先輩の記者たちも続けてきて、そのためには当時こういうことがあったということを聞くことから始まるというふうに思います。
これがさっき申し上げたように80年、85歳の方が5歳という時代になってきました。
なのでお話を聞ける方、機会というのが本当にどんどんどんどん少なくなってきています。
横山さんが子供の頃にこういろいろそういう平和学習の時とか思い出すと、やっぱりいろんな方が多分お話になってきます。
そうですね。当時を知る近所のおじいちゃんおばあちゃんがですね、時には学校に来てくれてお話ししてくれたっていうのは、僕は今ちょうど49歳ですから、10歳の頃というとちょうど40年ぐらい前。
その頃はそうだったと思います。
おそらく例えば当時30歳ぐらいでこの空襲にあった方、やっぱりその時にこんな仕事をしていたとか、こういう救援活動をしたっていうふうに話せる方がたくさんいらっしゃった時代だったと思います。
これが当たり前のように私たちも聞いていたんですけど、やっぱり今80年経っていくとそういった方々にお話を聞くことはもうできません。
その代わりたくさんの手記であったり記録であったり文集みたいなものが残されているので、こういったものを読むというのも当時に触れる大きなチャンスだと思っています。
とはいえ私たち今回、戦後80年で聞ける人が少なくはなってきているけれども、やっぱり聞けるならちゃんと聞こうよということで同僚のみんなとまた話し合いをしてですね。
いろんなご協力こういった方はご存じないですかっていうことをお尋ねしたりですね。
過去にうちに投稿を寄せてくださった方みたいな方にお連絡を取るようなことをしてですね。
今回はそれでも9人ぐらいの方にお話を伺うことができました。
当時の6月19日のことを覚えていらっしゃる方々です。
それこそ少しだけでもどういったお話が聞けたかっていうのは。
本当多くの方はやっぱり子ども自分ですね。
そうなりますよね。
ですので子どもの頃のお記憶を元にお話しくださっています。
それでもやっぱり記憶は鮮明でですね。
例えば中にはお父さんだけ家に残してみんなで家族他の家族4人で家を出て。
家の近くはほとんどもうすでに人はいなかった。
西公園の例えばですね防空壕に逃げて行ったんだけれども結局入れなくて家族とはぐれてそのまま自分は一人で茂みで一夜を明かしましたっていう方。
怖かったでしょうね。
それがあんまり不安でもなかったっていうのが日頃西公園親しんで行っていたところだったんで。
よく遊んでたところ。
その方はやっぱりその茂みの場所まで覚えてらっしゃる。
そうなんですね。
今もちゃんとっていうやっぱり本当に話を聞かんとわからないということ。
でもそうだろうな忘れられない場所ですよね。
そうですね。
見た時にやっぱほんといつか見ておれとこういうふうに思いを新たに、いわゆる敵害心ですね。
いつか見ておれとこの野郎がアメリカってことなんですね。
そうですね。というふうに思いを強くしたというふうに当時を振り返ってお話いただいた方もいらっしゃいました。
それこそ証言が取りづらくなっていっているという話もありますけども、一方で福岡の町にはいわゆる戦争の記憶をたどれる場所がいくつかあるように。
福岡市内、やっぱり福岡大空襲の後、福岡ご存知の通りものすごく再開発が進んで、今やとても大きな町になりました。
それこそちょっと前の建物ももうないという状態でもあって。
これ多分他の町も同じだと思うんですけど、こういった戦争の記憶をとどめるものであったり場所がどんどん消えていっているという状況。
これはもうある種仕方のないことかもしれませんし、それでも残っていると後に伝えることができるというものでもあると思います。
福岡市も先ほど申し上げた博多、いわゆる博多部ですね。
博多部のあたりであったり、あとはそのこのあたりにはいくつかそういったものが残っていました。
その子の方ではですね、その子公園に異例の木があるんですけども、その後ろにですね、レンガの低い壁が、レンガの壁が残っていまして、このレンガの壁はやっぱり当時の壁がちゃんと残って、
ほんと間近で日々子供さんたちが遊んでいる、ほんと日常に賑わっている公園です。
ボール遊びしたりしてるんで、そこにやっぱりそのレンガの塀って今も残ってまして、中には少し黒くすすけたような。
これはやっぱ地域の人だったり、役所も含めて保存をしてくれているっていう例でしょうか、だと思います。
あとはですね博多の方に、その子もその公園の向かいにある縁の寺、お寺ではやっぱり当時の亡くなられた方を追悼するための仏像がありますし、博多の方でも街の結構まだたくさんいろんなところにですね、お地蔵さんがやっぱり立ち寄って。
やっぱ6月の19日にそこに手を合わせに来られる方もいらっしゃるんです。
それは今朝の紙面っていうことになるんで、6月12日の紙面になりますけど、そのいわゆる慰霊の日もちょっと老朽化しているっていうところもあるみたいですね。
その日もほんと、その新聞で取り上げました、霊前公園に1965年に建てられた戦災で亡くなられた方たちのための慰霊祭。
10メートルぐらいの人、4メートルぐらいのやや円弧型になっている壁のようなもので構成されているところですけど、それこそできたのが60年前。
戦後20年、今からあれすると60年前。
ということでそれがやっぱり老朽化をしているということで、周辺は立ち入りできなくなっていて、大きな地震の時にどうなるかわからないということで立ち入りできなくようにしているという教室という記事が載ったと思います。
記憶をとどめるものさえ古くなっている。
古くなっていって、そういうことですよね。
いうことなので、いかに80年長い時間が経ってしまったのかというのを思わずにはいられないニュースだというふうに思いました。
やっぱり中には本当にもう全くそういう案内版。中にはその子の公園であったりですね。
あとは前裁判所があって今駐車場になっているマイズル公園の平和台の横のところとかには、当時の西武軍司令部という防空なんかの時に指揮をしていたところの建物の後の壁。
ものすごく分厚い壁がですね、保存されています。
そこはまたしっかり案内版が残っていて、ここにこういった施設があったのか。
こういうふうにたどることができるんですけど、やっぱりもうたどることができないものもあったりします。
一番この福岡大空襲で大きな弊害が出たところの一つと言われているのが十五銀行という。
十五銀行。
当時の銀行ですけれども、ここはやっぱり堅牢な建物、頑丈な建物なものですから、避難する場所として認知をされていた。
丈夫な建物だから何かあったらここに逃げ込みなさいということで、そこに多くの方が当日避難をして。
ですけどやっぱり申し上げたようにすごい高温になっていくということで、この地下室で60人以上の方がお亡くなりになったという痛ましい場所です。
この十五銀行、実際今の博多座のところにあった建物です。
博多座になってますから建物ないんですけど、そこにこういうことがありましたっていうふうに伝えるものはないのでわからない。
近くに昔お地蔵さんがあったり、こういうことがあったものを伝えるものはあったということではありますけど、建物そのもののところは。
何もないというふうになっている。