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西日本新聞Podcast
西日本新聞me Podcast、こんにちは。福岡のニュースアプリ、西日本新聞meの横山智則です。
普段は、西日本新聞の記者と一緒にニュース解説や福岡の話をする番組なんですが、今回は特別編です。
西日本新聞文化財団が地域文化の発展に寄与した九州・沖縄・ゆかりの個人団体を検証する第83回
西日本文化賞の贈呈式が、文化の日の11月3日、福岡市中央区天神のアクロス福岡で開かれました。
今回受賞されたのは、学術・文化部門が長崎大学名誉教授の友永雅夫さん、
社会・文化部門は、知人の伊藤博美さんと熊本県甲子市の菊池慶風園絵画クラブ金曜会のお三方です。
また、若手・中堅を対象にした奨励賞については、学術・文化部門が九州大学教授の尾上哲次さん、
社会・文化部門は熊本市出身の俳優甲羅健吾さんです。
さらに、今年のノーベル平和賞に選出された日本原水爆被害者団体協議会には特別賞が贈られました。
そこで今回は特別番組として、選考委員や受賞された方々のスピーチをお届けしようと思います。
また、受賞者のプロフィールと業績については、西日本新聞文化財団のホームページや西日本新聞民に掲載しております。
概要欄にリンクを貼っておりますので、併せてお読みいただければと思います。
それでは受賞式の模様をお聞きください。
続きまして、今回候補者の選考審査をしていただきました西日本文化省選考委員から、委員の一人、
元三巡様より公表をいただきたいと存じます。元様、お願いいたします。
どうも、高いところからお話しさせていただきます。
私、選考委員なんですが、代表でもありませんので、ちょっと身が重いなと思いながら、
今日はそちらに塩谷先生もいらっしゃって、むしろ私よりは塩谷先生を的にしたじゃないかと思いますが、
ご指名がありましたので、先ほど柴田理事長のほうから、それぞれの政省とそれから省令省について、
的確なむしろ公表があったんじゃないかと思います。
私のほうは、今日は西日本新聞の社説に、今日のことを控えて、社全体が何か覚悟があるなという、そういうものを感じました。
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とりわけ、特別賞を急遽こういう形で作って、ぜひとも受賞者をということでしたので、
非常に西日本新聞の社を挙げての、何かそういう意気込みというものを感じました。
今般、これはそれぞれ学術文化、それから社会文化、それぞれ政省があり、またそれぞれ省令省が学術文化、社会文化とあるわけですけれども、
着せずして何か共通点があったのではないかと。それはやっぱり暴力ということだと思います。暴力に抗うという。
抗うという意味でもいろんな意味があると思います。
皆さんも言うまでもなく、今般、ノーベル文学賞に、韓国ではハンガンさんという方、また今般は本当に長年の、それこそおそらくは何度でも断念しかかったんでしょうけれども、
やはり非核に向けた非断境の思いというものが世界に通じました。
核というのは、ある意味では暴力の究極的な形態です。韓国では、現代韓国史は言うまでもなく暴力の連続でした。
軍というものが市民社会から外れたときに、どれほどの暴力というものを振るうのかということが。
そういうものの究極的な形態が核につながっていくわけでございます。
それに対して何を我々は対抗したらいいのかというときに、やはり今般この聖書、小霊書、四文文とも一言で言えば命ということだと思います。
やはり富永先生の場合には医学という立場から、また伊藤先生の場合はやはり死という、これもある意味において版画さんに通じるものがあると思いますし、
また尾上先生の場合は非常に大きなマクロな宇宙論から、宇宙物理学という観点から、生命という大きな宿題を我々に残されていますし、
また甲羅さんの場合は、やはり役者さんとして人間の生きているということの喜びを本当に表現されているのではないかと思うんです。
そういう点では今も我々は地球上でいろいろな意味での暴力、これは反暴力主義と言えるかどうかですね。
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20世紀はある歴史家の話をすると極端な時代だったと。何かそれは殺戮と戦争の時代だった。また一方で極端な繁栄の時代でもあったと。
我々はもう20世紀が終わったと思っていたわけですね。しかしその中で先ほど私が触れることが非常に私にとっても辛かった。
それはやはり菊地慶夫園のですね、絵画クラブのこの金曜会でございました。私個人もやはり慶夫園とのつながりというのがいろいろあって、自分の中にも幼い記憶としていろんなものが残っています。
やはりそれは隔離という一つのこれはソフトな暴力、それから差別という多くの人々の中にあるある種の見えない暴力、こういうものに晒された方々がこのようなやはりアートを通じて、やはりある意味ではそういうものに抗う力を我々に示してくれましたし、
今日21世紀ももう4分の1過ぎてですね、世紀を過ぎて、依然として我々が20世紀が終わっていない、歴史は終わらない、歴史は死なないということをですね、非常に強く意識しております。
そういうものをいかにして次の世代に伝えていくのか、そういう点で今般のこの聖書、それから奨励書、それぞれの学術文化、社会文化、非常に大いなる意義がありましたし、
また先行委員の方も本当に今般はかなり早いスピードで決定いたしました。それはやっぱりそれを受けるに値する章であるということを、みんな先行委員がご理解されたんだと思います。
何とぞこれを機にですね、多くの方々に、この今我々が直面しているその暴力というものをいつかは終わらせる、そういう時代を手繰り寄せる一つの学術、あるいは文化、芸術、あるいは演劇、こういう人間が作り出した広い身での文化が、
やはりそれに抗う力なんだということをですね、今般の書を通じて多くの方々に知っていただければと思います。私の方は雑白ですけれども、こういう公表で終わらせていただきます。どうもご清聴ありがとうございました。
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菅さんじゅんさま、ありがとうございました。
続きまして受賞者の皆様からお言葉を頂戴したいと存じます。
まずは、西日本文化賞学術文化部門を受賞されました、友永雅夫様、男女へとお願いいたします。
お礼の言葉を申し述べたいと思います。この度は、西日本で最高の文化賞を本日受けることになりまして、大変嬉しく思っております。西日本新聞社に対して熱く御礼を申し上げます。
私は先ほどご紹介されましたように、昭和18年まででして、その当時日本帝国は戦争中、しかも昭和17年のちょうど私の誕生日の1年前はミッドウェイ海戦で日本が敗れてまして、そこから下り坂というのはあったわけですけれども、
そのとどのつまりで原子爆弾の広島に続く第二発目の被爆を受けました。幸い2.5キロという落下中心地からは近かったんですけれども、
家がつぶれて火災で焼けてしまうという間を母親に抱きかかえられて逃げ出すというラッキーなことで生き延びました。その後ですね、高校時代になりましてから友人たちの中から白血病が出たりし始めておりまして、かなり不安を覚えました。
医学部に進んで、白血病の何で放射線によって起こるのかを非常に疑問に思いまして、研究を開始して今日に至っております。
その後、私が僕の長崎大学医学部の原爆抗生が医療研究所というのができましてですね、いまだに続いておって、そこで研究をしてきたことが、かなり白血病の解明にはつながったと思います。
しかし、白血病に限らず他の種類の多くのがんがいまだに出続けておりまして、それをグラフに書きますとですね、被爆者の若い時に被爆した人が今70、80代になっているんですけど、ずっと続いているんですね、発病がですね。
これは障害児属性ということで、2013年頃からヨーロッパとかアメリカとかですね、いろんなところで講演をしてまいりました。
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それで、この障害児属性をまだ広げないといけないということで、昨年はアメリカに被爆者団体としてですね、トモノ会の会長をしてますが、10人の方と一緒に参りまして、約1000人以上のアメリカの市民にこういう報告をしてまいりました。
今年の8月の終わり頃に突然、ノーベル平和賞委員会から平和賞受賞式と、その次の日の講演会に招待がございまして、びっくりしたんですけども、そのときに、今年は日本の被爆者団体が受賞するなということを確信しました。
しかし、それを被弾協の方にお伝えしていいかどうか、ずいぶん迷いまして、とうとう最後までお伝えしませんでしたけども、喜びはまた素晴らしい喜びがあったんじゃないかなと思います。おめでとうございます。
私も今度行きまして、また今お話したような障害児属性についての講演をしてまいります。
研究だけじゃなくて、核廃絶の平和運動にも入り込みましたのは、学術研究がだいたい20年続いた後でしたけども、いまだに世界は、金澤さん自身がおっしゃったように不安定です。
核兵器に関しては、また拡大の方向も明確にするという状況ですので、まだ私の体力が持つ限りは海外にも出かけて活動していきたいと思っております。この度の受賞、本当にありがとうございました。
西日本文化賞、学術文化部門を受賞されました、友永雅夫様でございました。おめでとうございました。続きまして、西日本文化賞、社会文化部門を受賞されました、伊藤博美様、お願い申し上げます。
伊藤博美でございます。どうもありがとうございます。さっき菅さんが暴力に抗うということをおっしゃいまして、本当にそうだなと思ってじみじみと聞いていたんですけど、私の場合はおそらく外からの暴力って言うんじゃないんですね、抗ってきたのが。
いきなりここから始めたらあれなんですけど、今回の賞は私は人生相談でいただいたのかなと思ってたんです。そうしたら、いやいやそんなことない、詩人としての仕事をちゃんと評価してくだすっていうことで、非常に嬉しく思っております。
いろんなところで講演やってまして、大体万事オッケーやりましょうってことになって、ライブっていうんでその場から集めるんですね。その時に必ず皆さん笑わせて帰らなくちゃいけないので、やることが私は詩人なんですよって言うと皆さん笑うんですよ。
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本当に笑うんです。特に福岡あたりの人が笑うので、なんかおかしいこと言ったかしらっていうぐらい、でも最近慣れてそれを笑いとして使ってるんですけれども、そんな感じで人生相談というのでずっとやってますけれども、自分自身がなぜ人生相談をやるかというと、私はもう本当に何回も何回も結婚したり離婚したりしてまして、アメリカに長いこと住んでましたが、そこで移民としてだいぶ苦労してきまして、熊本も実は移民でして、
もともと私東京の生まれで28歳の時に熊本に来たもんですから、未だに熊本弁は喋れない。娘たちは喋る。でも私は喋れない。そして醤油が甘い。これがどうしても許せんっていうところで困っているんですけれども、そんな感じで暮らしていますと、離婚した時なんかに本当に苦しんだんですね。
これってやっぱり例えば戦争だ、あるいは飢餓だ、差別だってことになると外から来る暴力なんですが、私たちが抱えた問題っていうのは、家の中あるいは自分の中にある暴力、それに対してずっと抗ってきたってそんな気がするんですね。
それが今の世の中ではかなりの部分がジェンダーということで表現されてしまっていると思うんです。私いつも人生相談をやるときに年代70代とか60代とかそういうのとそれから性別を書いてくださいって頼むんですけれども、
男女OKでも一回それやめようかって話になって、やめかけたことがあるんですね。でもやめちゃうとその人たちがどうやって育ってきたのか分からないんです。そこが分かれば彼らの苦しみや苦しみの元が分かるっていうのでずっと続けてます。
性別書いていただいて、女性、男性、その他っていうことで。だからそういうものに関する暴力、つまりうちなる暴力ですね、たくさんあって抗ってきたって言うんですけれども、その抗うためにはそこにたくさんの読者が必要で、私の場合本当にありがたかった26年間、さっき柴田さんがおっしゃってくださいましたが、
26年間人の相談、悩みを毎週毎週聞き続けてきたっていうことなんですね。私は詩人として始めたときは、私が私がっていうことしか書かない、本当に生意気な自分中心なそういう女でした。
それが26年前にこの人生相談を始めて、人の苦しみ、痛み、うちなる暴力、それに抗う心、あるいは負けちゃう心、そういうふうに向かい合ってきて、自分の文学がどんどんどんどん変化してきたのを自分でも感じてます。
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そして、どんどんどんどん日本の中心の文学から外れていって、広見の人生相談文学みたいになっちゃってるのも感じています。このままずっとぶっちぎって、私は多分このまま熊本にずっといます。家族みんな離散してアメリカにいるもんですから、一人で熊本で死んでいくんだろうなって思います。それまでどうぞよろしくお付き合いください。お願いいたします。どうもありがとうございました。
ありがとうございました。西日本文化賞 社会文化部門を受賞されました伊藤博美様でございました。続いて、西日本文化賞 社会文化部門を受賞されました木口慶夫園絵画クラブ金曜会様です。それでは、会を代表して吉山靖彦様、お願いいたします。
一つ書いてきました、読ましていただきます。
この度は早いある西日本文化賞をいただきありがとうございます。この賞を今はなき金曜会の皆さんと一緒に喜び合いたいと思っております。
私ども金曜会に、木口慶夫園自治会文化部の絵画グループで金曜日に集まる金曜会でした。絵を描くことの基本的なことは全く知らず、長い間描いてきました。
帰ることのできなかったふるさと、流してくれた母の涙、悲しみはそれぞれ違っても、絵を描くことで心が癒され、興味津々明るく楽しく生きてゆけようと金曜日のようを太陽のように取り替え、みんなで金曜会と改め、
そして毎年行われている園内の文化祭に出品することが一番の楽しみでもありました。
1980年、慶夫園内科医の原田三郎先生の取り計らいで、園内だけではもったいないと言われ、初めて園外で金曜会展が毎日頃にて始まります。
幸いなことに、毎年の文化祭出品作を許された空き部屋を保管場所として、既に700点を超えていました。
その頃、2003年、熊本現代美術館にて金曜会展を開かせていただき、光の絵画展とまで言われ、大変好評でしたことを思い出します。
しかしながら、より年並みには勝てず、儚くも一人また一人とお亡くなりになり、一人は大変体が不自由になり、絵を描くのは私一人になってしまいました。
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私も95歳、残る4歳をお迎えが来るまでは、絵筆をしっかり描き続けたいと思っておりますので、今後ともご返答くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
本日は誠にありがとうございました。
令和6年11月6日、吉山康彦です。
それから、敗因の矢野佐祖様からお便りいただいておりますので、読ませていただきます。
西日本文化賞受賞式にあたり、感謝の言葉を述べさせていただきます。
この度はこのような輝き賞をいただき、大変ありがたく歓迎者の皆様に熱くお礼申し上げます。
企業界の絵画がここまで皆さんに周知されるようにあったのも、学芸員の増田さんの尽力のおかげだと思います。
本当に感謝しております。
私は現在、体が不自由になり、絵を描くことができなくなりましたが、心の中ではいつも輝いて描いています。
私たちの描いてきた絵がたくさんの人の目に留まることで、少しでもハンセン病の啓発に役立つことを切に祈っております。
私は残念ながら、式に出席できませんが、一言お礼を述べさせていただき、このような手紙を書かせていただきました。
本当にありがとうございました。
菊池景風園、山里様のお便りでした。どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
西日本文化賞、社会文化部門を受賞されました、菊池景風園絵画クラブ金曜会を代表して、吉山康彦様に一言お言葉を頂戴いたしました。ありがとうございました。
続いて、西日本文化賞奨励賞、学術文化部門を受賞されました、尾上哲次様、お願いいたします。
皆さんこんにちは。九州大学理学研究院の尾上哲次と申します。
この度はこのような大変栄誉ある賞をいただきまして、またここでお話しさせていただく機会をいただきまして、誠にありがとうございます。
推薦いただいた石橋総長はじめ、関係者の皆様に熱くお礼申し上げます。
ちょっと突然なんですけど、皆さん高校の時に地学って履修されましたか、ここにいらっしゃる方。
もう僕の時はすでに地学って高校からほとんどなくて、その時言われてたのは、地学っていうのはただの暗記学問です。
地学っていうのを勉強しても大学の役に立ちませんというふうに先生に言われてたんですね。
だから僕自身も高校の時に全く地学に触れる機会がなかったんですよ。
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ところが大学に入って、たった1個だけ地質学に関する授業がありました。
その時に、なんてすごい学問があるんだと思って、そこで僕の人生って180度変わってですね。
今で石ころの研究者としてやっているわけです。
それで、その石の研究の一端をすごさをお見せするために、ここのポケットに石ころを1個忍ばせてきました。
これ重さちょうど15グラムで、岐阜の山中から取ってきた石です。
このちっこい石ころ1個から、実は2億100万年前の地球の歴史がすごくたくさんわかるんですよ。
例えばこれができた当時は、日本の面積のだいたい20倍ぐらいの広さの面積で同時に火山噴火が起こったとか、
あるいはその火山噴火で二酸化炭素が1000ppm増えて温暖化が6度起こったとか、
その後、アカシオが10万年続いて海から酸素がなくなって生き物が消えたとか、
たったこれだけの量の石から今話した地球の歴史がすべてわかるんですよ。
それで僕らはそういった情報を引き出す技術を日々研鑽しているわけですけれども、
とにかくこの石ころというのはかなりロマンがあるものだなというのがわかるわけです。
こういった話を実際に石を見せながら、小学生、中学生とかに地球の歴史の話をすると、
みんな目を輝かせて喜んでくれます。
そういった姿を見るたびに、なんで僕が大人になるまで、大学生になるまで、
誰もこんな地学の面白さを教えてくれなかったんだろうというふうに、
ちょっと悔しく思うところもあるわけですよね。
ですので、僕の研究室では、こういった石から情報を取り出す技術とかを日々研鑽して、
学生はその技術を使って、資源とか地質調査、あるいはコンサルタントで社会の役に立てていくわけですけれども、
そういうのは抜きにして、大学で石を調べて、地球の歴史を明らかにするという行為自体は、
本当に面白くてたまらないわけです。
なので、この受賞をきっかけに、この石の魅力といいますか、地学の魅力、
そういったものを社会に発信していけるような機会になればなというふうに思っています。
最後になりますけれども、私の研究を支えてくれる家族とか友人とか、それから研究室のメンバーにお礼申し上げたいです。
思い返すと、僕は20年前に、心を持たない研究マシーンというふうに学生に言われていたんですよ。
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学生の気持ちを全く考えない、研究のことしか考えない。
学生が人生の悩みを持っていようが、そんな悩みがある人は暇です。
研究しなさいと言っていたらしいです。
だけど、そういった僕が今、多少人間らしく生活できているのは家族のおかげです。
子どもたちは僕と遊んでくれますし、人間らしく人と関われるようになりましたし、
妻は、僕は海外出張が多いんですけれども、そういった長期出張の間も家庭を支えてくれています。
この家族にお礼申し上げたいと思います。
今回の受賞金、これから地学の教育とか、あるいは地球の歴史の探究、そういったものに情熱を傾けていきたいと思います。
本日は誠にありがとうございました。
おめでとうございました。
西日本文化賞奨励賞、学術文化部門を受賞されました小野上哲史様でございました。ありがとうございました。
続いて、西日本文化賞奨励賞、社会文化部門を受賞されました甲羅健吾様、お願いを申し上げます。
こんにちは。俳優の甲羅健吾です。
この度は西日本文化賞奨励賞という素敵な賞をいただき、大変嬉しく思います。
僕は今年で俳優20年目で、もうそろそろ中堅なのかなと思っていたんですけれども、先ほど若手俳優と言っていただき、大変嬉しく思います。ありがとうございます。
僕は熊本で生まれて、その後文字北九州市内、福岡市内に移り住んで、中学校2年生のときに熊本に戻りました。
多感な時期を過ごした熊本での思い出が深くて、そして今の自分を作ってくれたのは熊本だと思っているので、僕の地元は熊本です。
両親が天津族だったので、いろんなところに住んでいたので、僕は一一倍地元というものへの憧れであったり、地元という言葉に憧れが強くあります。
それが今に至っていると思います。
この賞をいただけたのは、きっと自分の地元愛から生まれる活動を評価していただけたからだと思っています。
ただ正直言うと、自分はこの大好きな地元とつながっていたくて、上京してもこの仕事を始めてもその地元とつながっていたくて、つながっているために、自分のために意識してやっているところがあります。
熊本で地震があったときも、東京にいる地元の友達と現地で被災されている方々の協力があってできましたし、特に現地で被災されているのに協力していただいた方々、その人たちがいなかったらできませんでした。
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放牧での活動も、自分の髪を切ってくれている友達が放牧の焚き出しの日に髪を切るボランティアをしていて、それで東京に戻ってきたときにいろんな話をしてくれるんです。
そのときの目であったり言葉というのに興味を持って、そしてその話の中に出てくる代表の奥田さんに魅了されて、僕は放牧の活動に参加しました。
それも友達が誘ってくれたから、連れて行ってくれたからです。
正直、何一つ自分一人で行動したことはなくて、誰かのおかげで今ここに立っている気がしています。
地元のためにありがとう、九州のためにありがとうと言っていただけるのはとても嬉しいことです。
だけど本当に一人ではやれていなくて、ただ今日このような日を迎えられたというのは僕にとってご褒美ですし、このショーにつながるような活動をサポートしてくれた方々の代表としてこのショーをいただくそういう気持ちです。
そして俳優としては、私生活でも大きな変化がありましたし、これから自分がどういう俳優になっていくのか、自分自身興味があります。
そして俳優の表現としては、自然とかリアルとかそういうものを超えた表現を目指していきたいですし、これから長くこの俳優というものをやっていくためにもっと技というものを磨いていきたいと思っています。
金井さん、お話を聞いていただけますか?
はい、はい。
僕をいつも成長させてくれるこの地元、そして九州というものにとても感謝しています。
この賞を励みにますます頑張ることができます。
今日は本当に誠にありがとうございました。
おめでとうございました。
西日本文化賞奨励賞、社会文化部門を受賞されました、ポーラ・ケンコ様でございました。
おめでとうございました。
続いて、西日本文化賞特別賞を受賞されました、日本原水爆被害者団体協議会様です。
代表理事の中村国利様に、代表委員の田中茂道様からのお言葉を代読していただければと存じます。
なお、中村様、田中様お二人は来月のノルウェーで開かれますノーベル平和賞にご出席の予定でございます。
おめでとうございます。
代読させていただきます。
西日本新聞文化賞特別賞の英雄に預かり、心から御礼を申し上げます。
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ノーベル平和賞受賞の一報を耳にした時にはびっくりしました。
過去にもノミネールとされながら、かなわずもうないものと思っておりました。
おめでとうのお祝いの言葉をたくさんかけられて、とてもうれしく実感しました。
今日も皆さん方からお祝いの言葉をいただき、身が引き締まる思いです。
多くの先人たちの努力、苦労がみなったのです。ありがとうございました。
1945年8月6日、広島、9日、長崎に投下された原子爆弾により、町は破壊され、焼け野原となり、向こうの人々の多くの命が奪われました。
男か女かもわからないほどの黒焦げの遺体がゴロゴロ、ずるむけの皮膚をたらしてよろよろと歩き、バタバタと倒れる人、人。
水を求めて川に飛び込む人、人。
そこには、おびただしいばかりの死体の山、人間の尊厳など、みじんもない、残酷、極まりないものでした。
過労死で生き残った被爆者も、若くして原爆症を起こされ、亡くなっていきました。
大量破壊兵器で、大量破壊するなど、大量殺戮するなど、人道で許せることではありません。
いかなる理由があろうとも、正当化できません。
被爆者が、病気、貧困、差別や偏見等、途端の苦しみにある中、国は手一つ差し伸べることなく、救援さえ要請しなかったのです。
それどころか、連合国軍の統治下にある間、独立後の合わせて12年間、被爆者は放置されていました。
また、プレス行動式原爆投下の非人道性は隠蔽されました。
天気が訪れます。
1954年3月、アメリカのビキニ水爆実験で、マグロ漁船1,000隻余りが被災し、
第5福龍丸が死の灰を浴びて、乗組員全員が原爆症を発症。
大量のマグロが廃棄され、その年、乗組員の久保山愛吉さんがお亡くなりになりました。
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これらのことが連日報道され、社会問題化していきます。
原爆反対、核実験反対と声を上げた女性の叫びは、またたく間に日本中に広がり、3,216万筆の署名を集めました。
原水爆禁止運動で、広島・長崎の被爆者の存在が国民に初めて知られるようになったのです。
1956年、日本原水爆被害者団体協議会、通称日本被弾協を結成、国家保障による被爆者援護法と核兵器廃絶を掲げ運動を展開、
国に対して国家保障を求め、被爆者対策を求め、援護法の制定を求めてきました。
日本被弾協は、結成以来68年間にわたり、国連などの国際政治の舞台で、
多くの国々で誰にも同じ思いを味わわしてはならないと被爆の実装、核の恐ろしさを語り、ただひたすら核兵器廃絶を訴えてきました。
被爆者の訴えに、多くの国々が感動し、核の非人道性を共有して核兵器禁止条約が採択・発行されるに至りました。
国際法上、核に関するすべてが禁止されるという、まさに核危機的なことです。
しかしながら、核保有国と同盟国は、条約に背を向く続け、核抑止力に頼り、核戦略を強化し、核軍核を進めています。
このような世界の厳しい状況下で、日本被弾協が、ノーベル平和賞の受賞は意義深いことです。
日本政府には、核兵器禁止条約を批准し、定約国会議にも参加して、核兵器廃絶の先頭に立ってほしいものです。
世界は今、危機的状況にあります。戦火は止むことなく、逆に拡大し、核使用のリスクが高まっています。
核の使用は、人類の地球の滅亡しかありません。核を使用させないためには、核をなくすことでしかありません。
改めて、世界の指導者に、世界中の人々に、核兵器廃絶を訴えたいと思います。
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再び被爆者をつくらないために、ありがとうございました。
日本原子力発電被害者団体協議会代表委員、田中茂三
ありがとうございました。
西日本文化賞特別賞を受賞されました、日本原子力発電被害者団体協議会様でございました。
ここまで聞いていただき、ありがとうございました。
今回の受賞者の記事については、西日本新聞文化財団のホームページや西日本新聞MEでお読みいただけます。
概要欄に記事を貼っておりますので、あわせてお読みいただければと思います。
本日はありがとうございました。