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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光洋です。渋沢資料館顧問、井上潤さんをお迎えしてのプログラム。今月のプログラムも、いよいよもうラストになってしまいました。あっという間です。それでは、今週もよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
お話を伺っていきたいと思うんですけれども、渋沢氏がこういう事業以外のものに関わったという思いはどういうところにあったんでしょうか。
これも前回お話したかと思うんですけれども、やっぱりみんなが豊かに生活ができる、そして安全安寧を願うというところではですね、確かにその実業の世界で尽力した結果、経済発展が見られてというところはあったんですけれども、じゃあみながみな豊かな生活が送れるようになったかというと、そうでもなくて、意外とその貧富の差が明確にする。
また、都市部において多くの企業等が立ち上がるということでは、地方から多くの人々が流入してきて、地方は逆に言うと疲弊してしまう。そして都市部に集まった人たちも、じゃあ職人みんなつけたかというと、そうでもなくて、あふれるような人たちが道に迷うような形で、多く今でいうホームレスのような形になってしまうというところで、経済発展の姿にはちょっと程遠いような形になってしまうというようなところで、
渋沢栄一自身もちょっとジレンマに陥っているようなところがあって、そんな中で、やっぱり困窮者を救うというようなところにもやはり目を向けなければ、本当の意味での経済発展、本当の意味でのより良い社会には導けないんだというようなところに自分自身にも気づかされて、同時並行で福祉の事業にも着手していくというところがあって、
実は最初に手がけた第一国立銀行が明治6年に手をつけるんですけれども、その翌年にはもう福祉の事業には着手しているんですね。
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決してその実業界で多くの罪を成したから、それをもって社会公共事業に還元しなければいけないということではなくて、同時並行で世の中全体をうまくまとめていった人だからこそ、そういうふうに合わせて福祉などにも目を向けてやらなければというふうになっていったところがありますね。
なるほど。そういったものの一つとして、町もとにも近い東京養育会ですね。今、東京都の健康長寿医療センターというものになっていて、広橋にあるものですけれども、これなんかは典型というか、本当に明治の初めから亡くなるまで養育員の委員長を務めていた。
そうですね。初代の委員長を亡くなるまで全うしましたね。
これはどういう活動をされていた場所になりますか?
まずは財務的なところの面倒を見るという役割で関わりを持つんですけれども、明治の12年に初代の委員長になって、中で収容されている人々の処遇をちゃんと整えなければいけないとか、
あと、そこに収容されている人たちを守るのではなくて、その人たちがやはり自分たちと同じ世の中の一員であるということの自覚を持たせる。また、そこを出て世の中の中で自立して生活できるようにしなければいけないというような道筋も考えられていて、
手に触をつけさせたりとか、いろいろ技術面を収容できるような、またそういう困った人たち、身動きも取れないような高齢の人たち、病気を患った人たちを面倒を見る、今でいう看護師だとか保育士などの養成などにも力を入れていたような機関だったんですね。
そういう意味では、タコ部屋みたいに、そこに押し込めちゃって、臭いものに蓋をするみたいな、そういうような施設じゃダメだと、ちゃんと病気の人もいるだろうし、治ればまた社会に復帰ができるようにするとか、そういうことも含めてきちっとやってきたということですかね。
この概念っていうのは、もちろんその特殊化、当時もたくさんいらっしゃったと思いますけれども、非常にある意味先進的ですよね。
そうですよね。それも幼い頃の村社会の中にあって、病気で患って、村八部的な位置づけにあった人を真剣に一員として守り続けた母親の姿なんかの影響もあっただろうし、実はヨーロッパに行ったときに、ナポレオン一世のお墓を見学させる施設等で、
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いわゆる焼夷軍人として、国のために戦って傷を負って、なかなか社会復帰できないような人たちを、ちゃんとあてがって仕事に尽かせているというような姿から、やはり人としての位置づけをちゃんと守り、また世に示し続けなければいけないというような思いっていうのは、割と経験から来ていて、それが養育員の中にも生き続けたのではないのかなという気がしますね。
社会復帰とかそういうものに対する考え方っていうのは、なかなか時代時代で進化してきているものなので、渋沢栄一の成したことに対しての批判的なものも当然あるんですけれども、
すごくこの明治という時代の中には、あっては非常に精神的だったし、その次の世代に対して着実なものを残していってくれたという、そんな気がしますよね。
そうですね。維持させることの意義をちゃんと残し、受け継がせたなという気がしますね。
一人一人に天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処生上の第一要件である。
できるだけ多くの人に、できるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが、我々の義務であるという言葉も残されているようですね。
はい、その通りです。
さて、今年7月にはいよいよ新一万円札ということで、ここから渋沢栄一がより注目される時間帯に入っているんだろうと思いますが、
これからどのように未来に向かって渋沢栄一さんとお付き合いしていく、向き合っていくというお話をこれから伺っていきたいと思いますが、
まず、すごいざっくりした質問になりますが、渋沢さんの思想を未来にどう活かしていくべきか、井上さんのお考えを聞かせていただけますでしょうか。
今、全世界的に見て明確なビジョンが人に対してちゃんと伝えられているのか、
なんとなくリーダーとなっている人の個人的な思惑等で、ちょっと偏った考えの下で動きすぎてはいないのかというようなところが、
割と問われるような時代になってきてしまっているようなところがあると思うんですけれども、
リーダーというのはポジションとしての役割として与えられるものでしょうけれども、そこについた時のリーダーシップの発揮の仕方というところは、
渋沢栄一から大いに学ぶところがあるんじゃないのかなという気が致していますね。
そうですね。僕もまがりなりに小さな会社をやったり、帰宅の中で組織の長を受けたまったりしていますけれども、
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渋沢さんのリーダーシップというものから学ぶところというのは、メリハリだと思っているんですよ。
先ほど来お話が出ていたように、株がある程度順調になったら株は売却して任せるよというふうにやったりとか、
その事業をやっている間にもいろんな人に任せていくということをやる。
いわば後ろにいて押してあげているリーダーシップを平時はやっているんだけれども、
いっちょことが起きると、本当に先頭に立ってやる。このメリハリですよね。
そうですよね。
いっちょことがあってって何かというと、本当にリーダーしかできないこと。そのタイミングでやる。
これは典型的なのが関東大震災の時じゃないかな。
昨年100年前の締めになりました。今年もノト半島の地震ですとか、今台湾のほうでもありますけれども、
この関東大震災で渋沢さんがやったことというのはどういうことだったんですかね。
自分自身が83という高齢の中にあって、危険であると。老齢であるということと、
当時、命亡家が命を狙われるという風評が広がっていたので、息子たちはちょっと身を隠したほうがいいということで、深屋に送り出そうとしたんですけど、
こういう時こそ動いてこそ、自分が長く生きながらえさせてもらったものなんだということで、
率先して救護所をめぐって、何か苦しいことがあればそれを手助けするとか、いろいろ意見を聞き回って、
情報を集める。また、今こういう状況だということを世にちゃんと知らしめるという、やっぱり今でも必要なことを率先してやっていたところがある。
それと、なかなか手がつけられない。この帰宅内においても地元の人たちが困っているということであれば、
食料の供給本部を自分の屋敷で提供しようということで、しかも埼玉のほうから米や野菜を取り寄せる。
もう何百万円も取り寄せて、地元の方に提供するというようなことをやったり、また病院等の施設がなくなって、それを補う意味で、
これは実現はしなかったんですけども、自定の土地を提供して、そこに組合率の病院を建てればいいという話もあったり、安価でね。
医療を受けさせる。また、それは受ける側じゃなくて、それを施す方の医者たちにもその道をちゃんとつけさせようとした考えがあって、
それをこの地域の中に目指すように行動したというようなところ。それが一つ一つ、関東大震災以降においても率先して動いたところでもあったんですね。
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それでもう一つ言えば、その物質的なところでの変化、復興したいよなというのが見えてくるようなところがあっても、
いやいや、人の心ってのはもう痛って傷ついてしまってるんだと。その人心がようやく癒えて、穏やかになってこそ初めての復興につながるんだよ。
そのためにもやはり人々一人一人がですね、道徳心というものをちゃんと強く持って生きていくことを、ここで述べなければいけないというようなことも走ってますよね。
さっきも持続可能な社会を作らなきゃいけない。SDGsなんていうこともありますけれども、そういう意味ではそのSDGsの思想にもつながると言いますか、そういう感じがしますが、その点についてはいかがでしょうか。
渋沢栄一が肉性で大正12年に吹き込んだ道徳経済工事説、この言葉を読み込んでいくと、やはりまさにそのSDGsが目指す持続可能な発展、成長というようなところが目指されている内容だと読み込んでいます。
今ここへ来て目標値を掲げて、何項目かのことに実践を踏み込んでいこうとするようなところがありましたけれども、明治の後半から大正にかけて渋沢栄一はもうそれをすでに実践していた人なんですよということを改めてかみしめて、
そのありようというものをSDGsとうまく重ね合わせて、これからの世の中のあり方、自分たちの生き方というものを考えるときなんじゃないのかなという気がしますね。
今後今のようなことをより多くの皆さんに知っていただくために、またその渋沢研究の方向性ということも含めて一言いただけますでしょうか。
ようやく日々の中で毎日のように渋沢栄一が目にするような時代がやってきたというようなところでは非常に喜ばしいところがある。
名前を知るだけでなく、こんな人だったということが語られるようにもなってきたこの世の中にあって、いやいやまだまだこういうことが伝わってないよというところを我々も伝えていかなきゃいけないし、
その真の姿を発掘してこそ、これからの世の中を考えていく上でのいい糧になっていくのではないのかなという気持ちでいます。
先日ですね、私も小学校で渋沢栄一さんについてお話を聞きました。
終わりましたらね、小学校5年生だったけど小柄な男の子だったな、僕のところに来て質問したいらしいんですね。
何に質問は?って聞いたら、オズオズとですね、渋沢栄一さんのようになりたいんですけれどもどうしたらいいでしょうかって聞かれたんですが、
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私はちゃんと答えられなかったんで井上さんから最後に一言、その子に対してメッセージをお願いします。
自分の思いってのはどういう思いなのかっていうのを明確に持ち続けること、そして将来、先を見据えて一つ一つ道筋を考えていくという生き方、
これをまず試みていくと、自然と渋沢さんのような生き方になっていくような気がしますよ。
いつも今苦しいなぁじゃなくて、いやこの先こうなるんじゃないのか、そういう夢を見ながら生き続けるということが大切なんじゃないのかなっていう気がします。
私66歳ですが渋沢さんの土地まで生きるとすれば今からでも間に合うような気がするんで、そこを心がけていきたいというふうに思います。
それは私も同じですね。
前後回にわたり、井上淳さんにインタビューさせていただきました。本当にありがとうございました。
ありがとうございました。
また1万円札カウントダウンプロジェクトがありますので、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。ありがとうございました。