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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠三宏さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
パーソナリティを務めます小篠三宏です。
今、私がいる場所は、大寺飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに、北区内外の多彩な企業家、経営者をお招きして、グラスを傾けながらじっくり楽しくお話しする。そんな雰囲気でお送りしたいと思います。
今月のゲストはこの方です。
井上淳です。よろしくお願いいたします。
はい。井上さんは北区飛鳥山にあります渋沢資料館の前館長で、現在は顧問を務めということなんですけれども、渋沢栄一を丸40年研究し続け、この正しい人物像を発信していこうと、そういう取り組みをされている方です。
私は月に大体5、6回ぐらいお会いしている方でございますけれども、今日はよろしくどうぞお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
それでは、今ご紹介も申し上げましたが、現在のお仕事の内容というのをちょっとご紹介いただけますでしょうか。
はい。渋沢資料館の顧問ということで、渋沢資料館の運営に際して、一線は引いているような感じではあるんですけれども、
まだまだいろいろ運営面において、また事業を展開していく上において、何かアドバイスしなければいけないような場面に遭遇したときに意見を申し述べたり、困ったことに対して何か手を差し伸べるというような役割で今いますのと、
あとはそれを運営します財団の業務執行理事ということで、財団全体の経営面にも着手をさせていただいております。
なるほど。晴天をつけであったり、それから新一万円札の所蔵になるという、ここ数年来の渋沢栄一ブームの中で、渋沢栄一についての語り目として、本当に忙しく全国を飛び回っておられる毎日ですね。
はい、そうですね。昨日も実は、聖誕のち深谷で一日を過ごしておりました。
そうですか。またそういった地方でのお話もいろいろお伺いしていきたいと思いますけれども、今回、今月は5回配信ということでじっくりお話を伺えるので、まずは井上さんの幼少期のお話とかお伺いしてですね、
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人となりを伺っていきたいというふうに思っているんですが、大生まれは大阪府ということですね。
そうですね。大阪市内、住吉というところに生まれています。
本当の、昔からの大阪のということですかね。
そうですね。
幼少期は、まずサッカーに打ち込んできたということですかね。
そうなんですよ。野球も大好きだったですし、週末になるとグラウンドに集まって、みんなで草野球に競じていたというところもあったんですけども、私が小学校の中学になった頃、メキシコオリンピックというオリンピックで。
ちょうど井上さん、僕と同じ昭和34年ですかお前、35年。
34年の年末。
そうですよね。だから、本当に急に日本のサッカーが強くなっちゃって。
そうですよね。
メキシコオリンピックで銅メダルを取ったんですね。
で、そこにサッカーというものに目が向くようになって、たまたまその父親がスポーツ好きでもあって、本人もラグビーをやってたり野球をやってたりというようなことで、そういうのには非常に理解してくれる人で。
当時なかなか手に入らなかった、子供には手に届かないようなものだった、当時の試合球を買ってくれたんですね。
それが自慢げで、学校へ持って行って、みんなでボールを蹴るというようなことで、サッカーに興じるようなことが多くあったのと。
そこから、当時の実業団のチームに応援のメッセージを送ってもらえるステッカーなどというのに、非常に集中的にあったところから、その境地でいたようなところがありましたよね。
大阪ですと、ヤンマーだった。
ヤンマーですね。
鎌本のヤンマーですね。
そうです。
なるほどね。
関西の方が、野球にしてもサッカーにしても、各チームサービス精神を押したりでね、いろんなプレゼントをくれたりとかね。
そうですよね。
大人になって関西の人からそういう話聞いて、うらやましいなって。東京はあんまりそういうのなかった気がするんですよね。
大阪の方は、わりと早くからそういうことに提供されるようなところはありましたよね。
なるほど。
それとですね、これもまた私と同じ共通の思い出でもあるんですけど、あの当時ね、SLブーム。
そうですよね。
ちょうど国鉄で蒸気機関車が廃止になるということで、その教習を込めた年齢の人たちから、そういう僕らみたいな子どもまでね、大ブームになりましたよね。
はい。
関西ではですね、関西本線といいまして、奈良に大阪から続く鉄道において、デコイチを走らせるっていう企画が持ち上がりました。
それにはぜひ乗せてもらいたいということで親に泣きつきましてですね、なんととなく乗せてもらったようなこともありました。
そうですか。
はい。それと、これはもう関西人にとっては特権みたいなものなんですけども、京都に梅小路機関区っていうのがありまして。
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今でもね、動体保存されてるね。
そうです。
SLファン憧れの場所ですよね。
そのターンテーブルで機関車が向きを変えて車庫に入っていくような様子などを眺めると、同時にですね、実はちょっと無理を言って機関車によじ登らせてもらってですね、あのナンバープレート。
D51、101とか書いてあるとこね。
それをですね、周りのすすを集めていって、卓を取るんです。そのコレクションもやってましたね。
いやそれは相当なんというか、熱心にお願いしたんですかね。
そうですね。危険だから中々入れてもらえるようなところではなかったんですけど、多少目を盗んでこっそりやってたようなところもあったかもしれませんけども。
それは後年のいろいろ研究されてる中で、いろんなことのすごい基礎を突きついたみたいな。
そうですね。何か突き詰めていくっていうところが、そんなところにもちょっと現れていたような気がします。
そして長時てですね、高校になると落語がお好きになった。大阪ですから上方落語ですよね。
そうですね。
上方落語、一時非常に衰退したんですけれども、ちょうど昭和49年、50年そのぐらいですかね。
上方落語がだいぶ盛り返してきて。
そうですね。
四天王と言われた将国で、今の鶴部のお師匠さんとかね、それから米朝さんと春男児さんと揃って、だいぶ盛り返してきた時代ですけれども。
先代の春男児さんがね、同じ町内に住んでいたところもあって、その息子さんとはそれこそ野球に一緒になって教授していた仲間でもあったので、
割に落語家の方も身近にいたっていうところは何かあったのかもしれませんし、何か面白い話をするっていうのはやっぱり関西特有のね、何か血が流れていたところがあって、興味を示してしまったようなところはあるかもしれませんね。
ただ好きだっただけじゃなくて、落語同好会を作って演じてもいらっしゃったんですね。
遊び仲間で悪ふざけばっかりやってたメンバーでですね、じゃあ寄せでも開こうよっていうことで、
学校の名前にモモという字がついているものですから、桃源郷というふうなところから桃源亭という寄せで開きまして、
いつも泣き言ばっかりを漏らしているメンバーになったので、泣き言と書いて明金亭というふうに作って、
それでそれぞれ人気が横ばいのカニ館がいたり、私はなぜかみんなのいつも中心になってどんどん構えているので航空母艦という名前をもらって、
明金亭航空母艦。
はいという名前で講座に上がらせていただきました。
それがちょっとここで明金亭航空母艦さんに一説ちょっとご披露いただけますでしょうか。
しばらくお付き合い願いたいと思いますけども、髪型のお笑いですけども、
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まあしかしなんですね、アホなことっていうのはいろいろありますけども、
前から見たらアホかいな、横から見たら足らんのかいなと思って突き寄ってみたらやっぱり抜けてたっていうのがいろいろおりますが、
一目見ただけでアホやってるのもおりますが、いろいろおりますが、
お兄さんこんにちはっていうのが具合で、
桃源郷一席。
いいですね、ちょっとこれもう一回見上げ直していただいて、
鶴子師匠あたりと共演していただけると面白いかもしれないですね。
さて、今ね、非常に楽しい高校時代のお話を伺ってまいりましたけれども、
大学時代は孫楽史共同大論の研究というね、
そうですね。
ちょっと打って変わって勉強の話を伺いますけれども、
これはどういう学問になるんでしょうか。
歴史をやりたいというようなことで、
親に認めてもらって大学進学を認めてもらったんですけれども、
ただ、当時歴史がいろいろ教科書に出てきたりとか、
いろいろな電気等で読んでいたんですけれども、
そういうことが明らかになっていることを改めて調べるよりかは、
なんか自分たちと同じ普通の人間がどういうような生活をしていたのかっていうところにちょっと興味を引かれて、
いろんな大学の中でそういうことを調べられている先生がいるのかなということで、
たまたま私の恩師となる先生に支持することができまして、
孫楽史の大科の先生にご指導をいただくことになって、
最初は孫楽の景観。
どういうふうに水田が広がるのか、畑が広がるのか、
屋敷地がどういうふうに展開しているのか、
そういうようなところから、それぞれの生活の実態を見抜いていくというようなところを。
それは資料としてはどういうものを使うんですか。
土地の代帳類、年古の書き付け類、それと、
当時はあまり資料として認められてもいなかった村絵図という、
特に河川の氾濫源の地域に多いんですけれども、
なかなか文字で状況を書き起こすというよりかは、
一面に図面にして残すというような状況がわりと多かったんだと思うんですね。
数多くの図面を、当時はまた写真で撮ってもそれは読めるものではないから、
写せというところからトレーシングペーパーを持って写しに行ったようなところからの景観論。
そこの景観が展開する中で、水田志向というような問題を、
私の中でふつふつと分かせまして、論文にもまとめさせていただいたこともありました。
その中で、普段どういう村付き合いをして人々は生活しているんだろう。
村というのは、これは行政村なんですね。
領事から決めた枠組みの中。
でも人々が日常生活している中においては、いろんな村付き合いがあって、
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それを村に残っている。
一番最初に手掛けるのは、こういう関係の資料からというのでは、
公伝帳なんですよ。
公伝帳というのはどういうこと?
お葬式の時に公伝帳を持ってきて、
その公伝帳ありますかと言ったら意外と残っている。
資料はありますかと言っても村の中では、
我々には秀吉さんのことを書いたものなんかないよとか、
家康さんのことを書いたものはないよって、あっさり断られるところがあるんです。
じゃあ公伝帳なんか残っていませんかねと言ったら、それが出てきて。
実はその他にも、年始回りの年玉帳とか、
それから人生儀礼において、何々このお祝いを持ってくる。
それをお返しするためにみんな記録をつけているんですね。
そのものだとか、それと本当に通礼的な儀礼的なものであると、
わりと近線でそれを済ませてしまっているというのが見えてきたりとか、
その関係性を村付き合いの中から見抜いていって、
どういうまとまりがこの周辺の生活空間の中にあるのか。
まさにその共同体ってのは。
面白いなそれ。
こういったことっていうのは教科書には出てこないし、
分かんないことを調べていくっていうのが研究だろうなっていうのが、
私の恩師からの指導でもありましたし。
公伝、この人どうして1万円で、どうしてこの人5千円でとかね。
そういうところから見抜いていくってことね。
そんな社会的な関係性も面白いし、
こういった時には駆けつけるけども、この時には来てないよねとか、
それぞれの事情における変化っていうのは読み取っていくと、
村の中における付き合いのあり方、共同体のあり方っていうのが見えてきて、
それを少しずつ明らかにしていく。
なかなか形になるもんじゃないんですよ。
そういう長面を丹念に読んでいって、
1つの表にするにしても何百点も読んで、
ようやく1つになるとかっていうような時もあったんで、
結構読む量はこなしましたよね。
なるほどね。
だからやっぱり制定をつける時に、
まずオープニングから大きな木があって、
村落がずっと広がっていくっていう景色を、
僕ら目の当たりにさせていただいたんだけど、
あそこに時代交渉をアドバイザーとして加わった、
井上さんのそういう基本的な部分が、
あそこに生きてたような感じがしますね。
まさにそう。
あのセットに入った時はタイムスリップしましたよね。
金星の村こうだったよなっていう感じの中に、
あの時は飛び込みましたね。
またその話は後ほどお伺いしたいと思います。
まだこの時点では渋沢栄一に出会っていない、
井上さんの学生時代でありますけれども、
来週はそんな井上さんがいよいよ渋沢資料館に出会って、
学芸員として活躍されていく、
そんなお話を伺ってまいりたいと思います。
また来週もよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。