家族の期待と兄弟関係
寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには、面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見、ご感想、ご依頼は、公式Xまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。
それから番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
さて、今日はですね、山本周五郎さんという人の
花宵?花宵であっているのかな?を読んでいこうと思います。
山本周五郎さん、初めて読みますね。
日本の小説家。
七天の重邸、雑誌記者などを経て文壇に登場。
庶民の立場から武士の苦虫や資生人の哀歓を描いた時代小説、
歴史小説を多く書いたということですね。
代表作に、もみの木は残った。
赤ひげしんりょうたん。
青べか物語などがあるということです。
代表作もちょっと読み上げようかなと思ったんですが、
いかんせんボリュームが多かったので今回はね、
ちょっとサクッと読めそうなやつにしたいと思います。
また3月に入っていると思うので、これ今収録が2月中ですが、
少しあったかくなっているかしらという思いから、
花という文字が入っているやつにしてみました。
花宵ね、どんな内容なんでしょうか。
僕自身、この作家さんのやつ読むのも初めてなので楽しみですね。
どうか寝落ちまでお付き合いください。
それでは参ります。
花宵
1
聖之助の清書きをつくづくと見ていた母親の稲は、
静かに押し戻してやりながら、
よくお出来でした、と優しく言った。
あなたの字はのびのびとしていて、見ていると心がすがすがしくなります。
けれどもう少し丁寧にお書きなさると、もっと見事になると思います。
この次はこれよりお上手なのを見せていただきましょうね。
はい。
聖之助はあっさりとお辞儀をした。
弟のエザブローはそれを待ちかねたように、
自分の清書きを母の方へ差し出した。
今日こそ褒めていただけるぞ。
お師匠様のところから帰る道々、そう思い続けてきたのであった。
なぜなら、兄のものには点がないけれども、
彼のものには点が二つついていたからである。
そのお師匠様が二つ点をつけるなどということは、
全く珍しいことであった。
今日こそ兄上に勝てるんだ。
そう思いながらエザブローは、
自慢そうにちらちらと兄の方を目の隅で見た。
聖之助は知らん顔で庭を見ていた。
良いお点をいただいておいででした。
兄はよくよく文字を見てから言った。
お点は良いと思いますけれど、
母にはお前の字は良いとは思えません。
いつも言う通り、お前は兄さん同じをよく拝見して、
もっともっと勉強しなければいけないと思います。
エザブロー、お分かりですか?
母の声はきつかった。
今日こそ褒めてもらえると信じていたエザブローは、
思いの他の言葉に胸がいっぱいになり、
ちょっと返事もできなかったが、
母のきつい声を聞いてようやくそこへ手をつきながら、
はい、と答えた。
そして兄の後から廊下へ出ると、
素早く指で目を拭った。
青年助は威張って肩を張り、
自分たちの部屋へ入るとき、
えへん、ぷい、と言った。
エザブローは黙って自分の机の前へ行って座った。
エザブロー、山へ行かないのか?
行きません。
どうしてさ、行くと約束したじゃないか。
エザブローは清書を二つに折って引き出してしまい、
本箱の中から手に当たった書物を取り出して机の上に広げた。
青年助はずかずかとそばへ寄ってきて弟の肩を押した。
武士の子が約束を破るという方がないぞ。
さあ、一緒に行こう。
いやです。
なぜいやなんだ。
勉強するんです。
エザブローは広げた書物の上へかぶさるようにしながら言った。
母親が勉強しろとおっしゃったんだから、
だから私は勉強するんです。
それなら帰ってからだっていいじゃないか。
勉強の時間は決まっているのに、
今日だけそんなこと言うのはへそまがりだぞ。
だって母親が。
エザブロー。
不意に廊下で母親の声がした。
兄弟はびっくりして振り返った。
母親は障子の外に立ち止まったまま。
兄さんが行こうと言いなさるのになぜ行かないのです。
母は今すぐ勉強なさいとは申しません。
行っておびでなさい。
お主が出た。
行こう、エザブロー。
青年助はいきなり弟の手を取って立たせた。
母親は静かに奥の方へ去った。
母親はどうしてあんなに兄上だけご悲喜になさるのだろう。
やっぱりあの噂が本当なのではないかしら。
夜になって寝前入ってから、
エザブローはいつも考える同じことをまた考え巡らした。
ずっと前にはそうではなかった。
父が生きていた頃にはそんな不平は少しも感じなかった。
それが二年前の秋に父が亡くなってから、
にわかに母は厳しくなった。
ただ厳しくなったのではない。
兄に対しては前と少しも変わらないのに、
エザブローにだけはずいぶん細かいところまで厳しいのである。
武家では徴用の順が厳重だから、
兄に対して弟が一段低い礼を取るのは当然であるが、
この頃ではエザブローの身につける衣服や袴まで兄のお下がりと決まってしまった。
エザブロー、お前がいけません。
どんな場合でも母はそう言って彼を叱った。
どんなに兄が無理な時でも叱られるのは彼だった。
お前が悪いのです、エザブロー。兄様にお詫びをなさい。
そういうことが度重なるに従って、
エザブローの朧な記憶の中からある一つの言葉がよみがえってきた。
それはもうずっと昔のことであるが、兄と二人で庭で遊んでいた時、
客間の披露宴のところから父と来客の老人とがこっちを見ていた。
二人はエザブローと生の助の遊んでいる様を眺めていただしかったが、
そのうちにふと客の老人が独り言のように呟いた。
まるで誠の兄弟でございますな。
厳しい母の存在
2
言葉はその通りではなかったかもしれない。
けれどもエザブローの記憶にはそういう意味で残っていた。
その時は妙なことを言うご老人だと思っただけですぐ忘れてしまったけれども、
この頃になって一人で考えることが多くなるのと一緒に、
その老人の不思議な言葉がしきりと思い出されるのであった。
もしや自分はママの子ではないかしら。
考えるだけでも目の前が暗くなるような気持であるが、
ともするとエザブローはそのことを思い続けるようになった。
そうだ、本当にそうかもしれない。
彼はよくそう呟いた。
そしてだんだんと口数が少なくなり、
自分の部屋に閉じこもってひっそりと本を読んでいることなどが多くなった。
そういう時に読むのは決まってそが物語であった。
さらに子袖語彙のくだりはいく度繰り返して読んでも飽きなかった。
子袖語彙のくだりは、
十郎助成と五郎時宗の兄弟がいよいよ父の仇を討ちに行く時、
それとは言わずに母へいとま語彙をする。
兄の十郎は母に可愛がられているので、
先別にと言って母から子袖をもらう。
それで五郎が私にもとお願いするが、
五郎は前に母の心に逆らって感動されていたため、
いくらお願いしても子袖がもらえないのである。
しまいには兄の取りなしでようやく感動を許され子袖ももらえるのであるが、
母につれなく叱られて五郎の身も余もなく泣くところが、
永沢郎にはいかにも悲しく読むたびに涙が出て仕方がないのだった。
その夜も同じことを考え続けた後、
永沢郎はまた蘇我物語を取り出し、
有明安頓の碑を細くして読みながら寝た。
そんなことはかつてないのに、
子袖越えの下りでまた泣かされた後、
泣きながらとろとろと眠ってしまったらしい。
永沢郎、永沢郎と呼ばれてはっと目を覚ますと、
枕元に母が座っていた。
彼はびっくりして起き直った。
母の右手には蘇我物語の本が握られていた。
明かりをつけたまま寝るとは何事です。
はい、悪いございました。
それだけではありません。
欲の中で本など読んではならぬと、
いつも母が言ってあるのを忘れたのですか。
永沢郎は両手をついて顔を伏せた。
お許しください、母上。
もう決していたしません。
今夜はもう老けているから許してあげます。
母はそう言いながら立った。
顔が汚れていますよ。
洗ってきてすぐにお休みなさい。
この本は母が預かります。
家計の変化と成長
武家は朝が早い。
兄弟はずっと幼いころから
真冬でも四時には起こされる。
水で体を清め、
庭へ出て汗の流れるまでぼっけんをふる。
それからもう一度洗面して食事を取り、
武術の稽古と学問の勉強に
それぞれの師匠のもとへ行く。
帰るのはたいてい午後三時過ぎであった。
武術や学問の稽古に通うときは
必要な道具に弁当を持つために
下辺が一人供をしていくのが
習慣であったけれど、
父が亡くなってから間もなく
兄弟は供なしで通うようになった。
それは家計を切り詰めるためであった。
父の森脇六郎兵衛は
掛川藩の御勝番頭で
二百五十戸ほどの食録であったが、
父が亡くなるとともに食録が半分になった。
長男靖之助が十五歳になると
家徳を相続することができる。
そうすれば元通り
二百五十戸全部もらえるのだが、
相続するまでは半分だけしか
下がらないのが定まりだった。
そして靖之助が十五歳になるまで
あと二年あった。
その間家計をよほど
切り詰めなければならないので、
下女と下僕は一人ずつ残して
みんな御供を出してしまった。
靖之助がお城へ上がれるようになるまでは
みんなできるだけ辛抱して
契約をしましょう。
母はそう言って
仲が良いの友を辞めさせたのである。
それはよくわかっていた。
けれどそれ以来、
永三郎は自分の道具や弁当のほかに
兄の分まで持たされることになった。
弟が兄のものを持って歩くのは当たり前だ。
靖之助は威張ってそう言うし、
桜の下での稽古
母もそれが当然のことのように言った。
初めからそうしていたのならば別だけれど、
今まで下人の役だったのを
自分がするのだと思うと
これまた永三郎にとっては
悲しく辛いことの一つだった。
前の晩、
老けてから母に呼び起こされて叱られたので
明るい朝、いつもの時刻に起きたけれど、
永三郎は寝足りないようで目が渋かった。
おい永三郎、起きてみろ。
満開になったぞ。
先に井戸畑へ出て
元気に体を拭いていた靖之助は
弟が庭へ降りてくるのを待ちかねて叫んだ。
庭の隅にある桜の老木が
まだほの暗い朝の光の中で
見事に満紫の花を咲かせていた。
永三郎は眠い目が
いっぺんに覚めたように思い
本当ですね。
ずいぶんよく咲きましたね。
と言いながら兄の方へ近寄って行った。
三
あの花の下で試合をしないか。永三郎。
靖之助はいいことを思いついたというように
生き生きと目を輝かせながら
ただぼっけんを振るだけじゃつまんない。
今朝は二人で試合をしよう。
満開の花の下で武術の稽古をするなんて
官営武士みたいでいいじゃないか。
でも道具を汗にしてしまうと
道具なんかつけやしない。ぼっけんでやるんだ。
だってそれでは怪我をしますもの。
よせよ。
俺とお前とでは段が違う。
どんなことがあったって
お前に怪我をさせるようなヘマをしないよ。
さあやろう。
言い出したら聞かない兄だし
段違いと言われたことも尺だった。
いつもの稽古肌着に
短褲をつけた永三郎は
鉢巻きをきっと締めると
言われるままに桜の木の下へ進んで行った。
兄弟の勝負
青之助はにやっと笑った。
よしその元気だ。
遠慮は要らないから思う存分打ち込んで来い。
いいか。
いざ。
永三郎はぼっけんを取って身構えをした。
ひっそりとした朝の空気をぬって
どこか裏の方で鳥の鳴く声がした。
空は次第に明るくなり
頭上の雲が茜色に染まりだした。
頭の上高くぼっけんを振りかぶった兄の姿を
じっとにらみつけていた永三郎は
やがてえいと叫びながら地面を蹴立てて打ち込んだ。
おおと答えて青之助は右へよけた。
永三郎はすさまじい姿でそれを追った。
ぼっけんとぼっけんとが打ちあって
激しい音を立てて
二人の位置は右へ左へと変わった。
その調子だ。元気で来い。
青之助は弟のぼっけんを巧みに反らしながら
自由に飛び回った。
永三郎は逆上してしまった。
自分の腕の立たないのも口惜しく
まるでこっちをからがっているような兄の態度は
さらに口惜しかった。
それでもついには
頬も肩もなくめちゃめちゃに打ってかかった。
おっと危ない。空こっちだ。しっかりしっかり。
青之助は面白がって
縦横に弟を引き回していたが
やがてぼっけんを取り直すと
今度はこっちから打ち込むぞと言い様
えいと叫んで踏み出し
激しい力で下から跳ね上げた。
永三郎のぼっけんは
咲き誇る桜の中へ跳ね飛び
ぱっと雪のように花びらを散らせながら
遠くの方へ落ちた。
まいった。
永三郎が呆然として叫ぶと
まだまだ今度は組み打ちだと言いながら
青之助はぼっけんを投げ出して飛びついてきた。
まいった兄上私の負けです。
なに勝負はこれからだ。
えいそら元気で来い。
母との対話
もう嫌です。
振り放そうとするのを
青之助は構わずひっくんで投げ
ぐっと馬乗りになると
元兵すまのうらの戦だ。
俺は熊谷の二郎直実。
お前は無官の大尉厚森だ。
いいかこう組み伏せたら動けまえ。
まいった。
待て今首級を上げるところだ。
えい。
青之助は右手で首を掻く真似をすると
ようやく弟の上から飛びのき
厚森を撃ちとったぞ
と大声に名乗りをあげた。
青之助はすぐに跳ね起きた。
そして体についた泥を払おうともせず
まっすぐ駆け出していって
広苑へ上がり
自分の居前へ入ったと思うと
すぐに刀を持って飛び出してきた。
するとその様子を見ていたのであろう
母が走ってきて素早く前へ立ちふさがった。
青之助お待ち。
お前刀を持ち出してどうするつもりです。
兄上と兄上と果たし合いをします。
英三郎の顔は青白く引きずっていた。
お黙りなさい。
何ということ言うんです。
兄様と果たし合いをするなどと言ってお前。
行かせてください。
兄上は今私の首を掻く真似をしたんです。
いくら兄上だってあんまりです。
武士の子が自分の首を掻く真似をされて
黙ってはいられません。
お願いです母上。
どうか果たし合いをさせてください。
なりません。
どうしても果たし合いをするというなら
この母を切ってからになさい。
母上。
思いもかけぬ言葉を聞いて
英三郎はびっくりしたように母を見た。
本当にびっくりしたような目つきだった。
そしてしばらくは物も言えずに
母の顔を見上げていたが
急にわっと泣きながらそこへ座ってしまった。
そんなに母上は兄上だけが可愛いんですか。
英三郎は憎いんですか。
英三郎は母上の子ではないのですか。
彼は泣きながら訴えた。
4
兄上はどんなことをしたって叱られない。
どんな時でもお叱りを受けるのは私です。
いつもそうです。
英三郎のすることはみんなお気に召さないんですか。
それはそれは母上。
英三郎が母上の本当の子ではないからなのですか。
お前何を言いだ。
私はそう思います。
英三郎。
私はいつか聞いたんです。
彼は夢中で言った。
ずっと前にご老人のお客が私と兄上の遊んでいるところを見ながら
本当の兄弟のようだと言っていました。
本当の兄弟のようだというのは。
おだまり。
おだまり英三郎。
母は顔色を変えて遮った。
それからじっと英三郎を見つめながら
こっちへおいでと言って仏前へ入っていった。
英三郎も涙を拭いながら後から立っていって母の前へ座った。
母の稲は向き直って座ってからもしばらく何も言えない様子で黙っていた。
まだ夜の残っている暗い部屋に
上げたばかりの仏壇の灯明が瞬いていた。
お前は今、母がお前を憎んでいるとお言いだった。
兄様は叱らないでお前ばかり叱るとお言いだった。
稲はやがて低い声で言い出した。
そうお言いだったけれど
お前は自分が悪いのではないかと
自分で一度でも考えてみたことがありますか。
それは兄様よりもお前の方に厳しくしているのは本当です。
なぜなら兄様はこの森脇の家を継いで一生母のそばにいる人です。
けれどお前は成人すれば
他家へ養子に行くか、または分家して一家を建てなければなりません。
いつかは母の元を去って他人の世界へ行く人です。
そうなってしまえばもう母は面倒を見てあげることができないんです。
悲しいことも嬉しいことも
お前は自分一人の力で耐えてゆかねばならない時が来るんです。
母親は言い刺してそっと目を拭ったが
すぐに涙を隠して続けた。
成人すけはあの通り
元気で性質も明るく
一人でどこへ成しても安心だと思いますけれど
お前は幼い頃から気の弱い子でした。
少しのことにも感じやすく
すぐ自分と人を比べて考える癖があります。
昨日の清垣もその通り
お前は良い点を取って兄様に勝とうという気持ちでいる。
それではいけないのです。
それでは良いお点を取ったところで
行き止まりとなってしまいます。
学問でも武芸でもみな一生の修行ですが
それは賭けがあはんのため
ひいてはお国のお役に立つのでなければだめです。
お礼がという自分だけ偉くなる気持ちでは
どれほど学問武芸に抜きんでたところで
少しも値打ちはありません。
兄様に勝つことよりも
お国のお役に立つ立派な人間になろうと努力をすることが
誠の武士の道ではありませんか。
お前はもう11歳です。
自分ばかり叱られるとか
ママの子ではないかなどという
めめしいことを考えるのはおやめなさい。
母はこれからも叱ります。
けれどそれは
お前がいつか森脇の家を去って
波風の荒い世間で独り立ちになるときのためです。
そのとき世間から未熟者と
笑わせたくないから叱ります。
お前の本当の母だから叱るのです。
ごめんください。
お許しください母上。
英三郎は拳で目を押しぬぐいながら
さっきとはまるで違う
うれしさのあふれる声で言った。
よくわかりました。
私が悪いございました。
お許しください。
本当におわかりですか。
はい。
ママの子だなんて言って申し訳ございません。
ごめんください。
彼は涙でぐしょぐしょに濡れた顔をあげ
泣き笑いをしながらじっと母を見つめた。
でも母上、英三郎は安心しました。
もういくらお叱りを受けても大丈夫です。
嫌な英三郎ですね。
叱られて大丈夫だということがありますか。
母親はそう言いながら思わず笑い出した。
けれど、本当の母だから叱るという一言が
こんなにも我が子を喜ばせたかと思うと
笑いながら目の裏がじっと熱くなるのを感じた。
この五本は返してあげましょう。
立ち上がった母は
ゆうえ持ち去った曽我物語を取り出してきて渡した。
これからは小袖恋ばかり読んではいけませんよ。
どうしてそれをご存じなのですか。
母は答えずただそっと微笑した。
さあ、兄様が待っておいででしょう。
早く午前にしてお稽古へおいでなさい。
五
春の夜には珍しい青じろくさえた月が宵空にかかっていた。
庭の桜に吹く風もなくて
どこか近くの屋敷から
小歌屋の声とつづみの澄んだ音がのどかに聞こえてくる。
どうするんですか。兄上。
兄弟の感情
夜桜を見るのさ。言いつきだぞ。
せいの助を先にその後から
栄三郎がそっと庭へ降りて桜の花かげへやってきた。
いやいや、よく咲いているな。
まるで冬のようじゃありませんか。
もっとこっちへ来ないか。
ここのほうがよく見えますよ。
ちょうど花の枝の間でいい眺めです。
なあ、栄三郎。
せいの助が低い声で突然なことを言った。
われわれはいい母上をもったな。
え、お前そう思わないか。
栄三郎は振り向いたが
兄がじっとこちらを見つめていたのでまごついた。
せいの助の眼は泣いた後のように光を帯びていた。
けいさん、お前が母上に叱られているのを
俺は襖の陰からすっかり聞いていたんだ。
どうしてそんなことをしたんです。
ママの子という言葉は聞こえたからさ。
せいの助はズバズバとした調子で言った。
いつか老人の客が
まるで本当の兄弟のようだと言ったのは俺も覚えている。
けれどもお前がそれを自分のことだと考えていいようとは思わなかった。
あ、兄上もあれをお聞きになったんですか。
お前でさえ聞いたものを二つも年上の俺が聞き逃すと思うのかい。
しかも俺にとっては自分のことなんだぞ。
兄上。
びっくりしてエザブローが何か言おうとするのを
せいの助は静かに静止して続けた。
嘘ではない。
あの老人の客というのは江戸屋敷にいる瀬川淑美という人で
俺のためには母方の祖父にあたるのだ。
俺の母は森脇家へ越し入れをして
俺を産むとすぐ亡くなったんだ。
その後へおいでになったのが今の母上なんだ。
で、でも、でもどうして兄上がそれを知っているんです。
瀬川のおじいさまがすっかり話してくだすったんだ。
そして、けれどもお前は今の母を本当の母だと思え
仮にもまましい考えを起こすようでは物資とは言えぬぞとお言いなすった。
俺は驚かなかった。
だって今の母上の他に母上があるなどとは想像もできやしない。
ただ父上が亡くなってから
せいの助はそこでちょっと言い淀んだが
すぐにいつもの活発な言葉つきで
お前にだけ母上が厳しくおなりなすった。
お前は自分の叱られることを悲しがっていたが
俺はかえって叱られるお前が羨ましくてしようがなかった。
生まれて初めて
俺はママの子だから叱っていただけないんだと考えるようになった。
そしてどうかして叱っていただけるようにと思って
お前に意地悪をしたり乱暴したりしたんだ。
瀬川のおじいさまにひれたらどんなに怒られるだろう。
せいの助はこつんと自分の頭へ原骨をくれた。
けさお前を叱っていらっしゃるのを聞いて
俺は母上のお心が初めてわかった。
せいの助は森脇の家をついで
一生母のそばにいられるからよい。
お前は分家して世間へ出るから厳しく育てるのだ。
そうおっしゃるのを聞いたとき
俺は自分が恥ずかしくて涙が出てきた。
そしてこんな単純なお情けさえわからず
あべこびに母上をお恨み申していたかと思うと
まったく自分が嫌になった。
そうです。エイザブローもそう思いました。
俺たちは
とせいの助はため息をつくように言った。
俺たちはこれまでにも
どんなにたくさん母上のお情けを見逃しているかもしれないんだ。
それを忘れぬようにしようぞ、エイザブロー。
これからは常に母上のお心を見はぐらないようにな。
家族の絆
兄上、エイザブローは立派な武士になります。
そうだ。母上のお望みはそれ一つだ。
掛川藩のため、ひいてはお国のお役に立つべき物の夫になるんだ。やろうぞ。
そう言って弟の肩を叩くと
弟もまた涙にうるんだ目で力強く兄を見上げた。
せいの助はお庭ですか?
披露宴の方で母の呼ぶ声がした。
二人は急いで目を拭きながら振り返った。
はい、ここにおります。
エイザブローもおりますか?
私もおります、母上。
何をしておいでです?
夜桜を見ておりました。
せいの助が大声に叫んだ。
そしてちらと弟にめくばせをしながら母のいる方へと駆け出した。
エイザブローもその後追って走って行った。
どこかの小歌いの声と澄んだつづみの音とはまだのどかに聞こえていた。
1983年発行 新聴者 山本周五郎全集第十九巻 少々十三年
水戸倍夫より独りょう読み終わりです。
うーん、いい世界観でしたね。
ちっちゃい武士の兄弟のね、お互いにジェラシーがあったっていう。
桜の下でそれが、誤解が解けるっていう。
長すぎずね、サクッと聞けてよかったんじゃないでしょうか。
寝落ちまで行ったかどうかはちょっとわかりませんが。
ということで、無事寝落ちできた方も最後までお付き合いいただいた方もありがとうございました。
といったところで今日のところはこのへんで、また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。