キクチカンと真田幸村の紹介
寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには、面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見、ご感想、ご依頼は、公式Xまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。
それから番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
最近、ツトに聞いてくださっている方が増えているのを実感しております。
皆様、ありがとうございます。
今日も寝落ちまでお付き合いいただけたらと思います。
今日はキクチカンさんの、
サナダユキムラというテキストを読もうと思っています。
最初、僕、サナダユキムラって聞いたとき、
カブトに愛、ラブの愛って漢字が書いてある人かなと思ったけど、
それはナオエカネツグでした。勘違いしました。
六門船の方ですね。
山津の川を渡るのに必要な駄賃、
さ、六門を加盟にいただく、その、
片道切符帳等みたいなかっこいいところですよね。
で、テキストを書いた方はキクチカンさんです。
文芸春秋の人?文芸春秋社を作った人ですか?
キクチカンさん、日本文芸家協会を組織し、初代会長に就任。
芥川賞、直樹賞、キクチカン賞を創設。
代営社長として映画事業にも参画し、
作家の育成、文芸の普及に勤めた。
芥川龍之介とは無二の親友である、そうです。
代表作に、小説、真珠夫人、
地地帰る、などがあるそうです。
その方の、佐野田幸村ですね。
ちょっと僕は、歴史物はそんなに得意じゃ、
いや好きなんだけど、
カージルペイド?そんなに、
好きな人って本当好きじゃないですか、歴史物ね。
あの、磯田道文先生が、各地を点々として、
お仕事の傍ら古文書を発掘し、
それで昔はああだったんだ、こうだったんだというのをまとめて、
時代交渉の末、ドラマに携わったり、
テレビに、映画に携わったりした裏話を、
安住真一郎の日曜天国というラジオで、
エピソードトークとして持ってきてくれるのが好き、
みたいな、遠いところに身を置いてますけども。
今日はその武将の一人、真田幸村です。
真田家の歴史と戦局
それでは参ります。
真田幸村。真田対徳川。
真田幸村の名前はいろいろ説あり。
兄の信行は、
我が弟実名は武田信玄の舎邸、
天宮と同じ何て、あざなも同じ、
と言っているから、信繁と言ったことは確かである。
真田家古老物語の著者、桃井智直は、
安住に初めは信繁と称し、
中頃、行繁、後に信吉と称せられし者なり、と言っている。
大阪人前後には行繁と言ったのだと思うが、
定山奇談の著者などは信繁と書いている。
これで見ると、徳川時代には信繁で通ったのかもしれない。
しかしとにかく行繁という名前が、
徳川時代の大衆文学者に採用されたため、
この名前が圧倒的に有名になったのだろう。
昔、生命判断などはなかったのであるが、
幸村ほど小さい優れし者は、
時に際しことに触れて、
いろいろ名前を変えたのだろう。
真田は、
信濃の名族、
運の小太郎の末員で相当な名族で、
祖父、幸高の時、武田に仕えたが、
この幸高が反漢を用いるに身を得た父将である。
真田三代記というが、
この幸高と幸村の子の大助を加えて、
四代記にしてもいいくらいである。
一体真田幸村が、
豊臣家恩子の武士と言うべきでもないのに、
なぜ秀織のために花々しき戦士を遂げたかというのに、
おそらく父の正幸以来、
徳川家といろいろ意地が重なっているのである。
常州の沼田は、
利川の上流が片品川と相会するところにあり、
右に利川、
左に片品川を控えた要害無双の地であるが、
関東官僚家が滅びたのち、
真田が自力をもって切り取った土地である。
武田滅びたのち、
真田は仮に徳川に従っていたが、
家康が北条と交話する時、
北条側の要求によって沼田を北条側へ渡すことになり、
家康は真田に、
沼田を北条へ渡してくれ、
そのかわり、おまえには上田をやるといった。
ところが正幸は、
上田は震源以来真田の居所であり、
何にも徳川からもらう筋合いはない。
その上、沼田は我が矛をもって取った土地である。
ゆえなく人に与えんことかなわず、
といって、
家康の要求を断り、
ひそかに秀吉に使いを出して、
俗すべきよし、
言い送った。
伝章十三年のことである。
家康怒って、
大久保忠よ、
鳥居本忠、
伊尾直政等に攻めさせた。
それを正幸が相当な軍力をもって撃退している。
小牧山の直後、
秀吉、家康の関係が難しかった時だから、
秀吉が上杉影勝に命じて、
正幸を後援させるはずであったとも言う。
この競り合いが、
真田が徳川を相手にした始めである。
と同時に、
真田が秀吉の恩子になる始めである。
そのうち、
家康が秀吉と和睦したので、
正幸も地政上、
家康と和睦した。
家康は、
正幸の武勇、
あなどりがだし、
と思って、
真田の着手、
信之を、
本田忠勝の無効にしようとした。
そして使いを出すと、
正幸は、
さようの使いにてあるまじきなり、
使いの利き、
あやまりならん。
急ぎ帰って、
これ、
と言って受け付けなかった。
徳川の家臣の娘などと、
結婚させてたまるかという、
正幸の気概、
思うべしである。
そこで家康が、
秀吉に相談すると、
真田もともなり、
中塚さんが娘を養わせしない、
起きたるあいだ、
我が向うにと、
あらば、
生員致すべし、
と言ったとある。
家康、
すなわち本田忠勝の娘を養女とし、
信之に、
咄嗟せしめた。
結局、
信之は、
女房の縁に惹かれて、
後年、
父や弟と別れて、
家康に従ったわけである。
ところが、
天章十六年になって、
秀吉が、
北条、
宇次正を咄嗟せしめようとの交渉が始まったとき、
北条家で持ち出した条件がまた、
沼田の活状である。
千年、
徳川殿と和平のとき、
もらうはずであったが、
真田がわがままを言ってもらえなかった。
今度はぜひ沼田をもらいたい。
そうすれば咄嗟する。
と言った。
このときの北条の使いが、
板部岡光雪祭という男だ。
北条としては、
沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、
そういう難題を出して、
北条家の面目を立てさせてから、
上楽しようというのである。
秀吉、
すなわち、
上主における真田良知のうち、
沼田を入れて、
三分の二を北条に譲ることにさせ、
残りの三分の一を、
なぐるみ城とともに、
真田領とした。
そして沼田に対する勘知は、
徳川から真田に与えさせることにした。
光雪祭もそれを了承して帰った。
ところが、
沼田の城台となった、
井の又則直という武士が、
がむしゃらで、
条約も何にも頑重になく、
真田良のなぐるみまで、
せめとってしまったのである。
真崎がそれを大綱に訴えた。
大綱は北条家の条約違反を起こって、
ついに小田原政党を決心したのである。
関ヶ原の戦いと真田の選択
真崎からいえば、
自分の面目を立ててくれるために、
北条政抜という大軍を、
秀吉が起こしてくれたわけで、
かなり嬉しかったに違いないだろうと思う。
関ヶ原のときに真崎が、
一も二もなく大阪に味方したのは、
このときの感激を思い起こしたのだろう。
これは余談だが、
小田原落城後、
秀吉は、
そのときの子節たる板部丘皇絶祭をとらえ、
手かせ足かせをして面前に引き出し、
「汝の異言によって北条家は滅んだではないか。
主家をなくして心よきか。」
と罵った。
ところがこの皇絶祭も、
大北条の死者になるだけあって、
少しも悪びれず。
北条家において、
さらに異拝の気持ちはなかったが、
変度の武士ときつかさを知らず、
名ぐるみを取りしは、
北条家の運の作るところで、
是非に及ばざるところである。
しかし天下の大軍を引き受け、
犯罪を支えしは北条家の面目である。」
と号号した。
秀吉その答えを盛んとし、
「汝は京都に送り、
張り付けにしようと思っていたが。」
と言って許してやった。
そのときちょうど、
欧州からやって来ていた正宗を競合するとき、
皇絶さえも売席しているから、
その堂々たる返答が、
よっぽど秀吉の気にかなったのであろう。
とにかく最初徳川家と戦ったとき、
秀吉の後援を得ている。
我が領地の名ぐるみを北条氏が取ったということから、
秀吉が北条政抜を起こしてくれたのだから、
正宗は秀吉の意気に感じていたに違いない。
その後、正宗は秀吉に忠誠を表するため、
幸村を人質に差し出している。
だから幸村は秀吉の身辺にありて、
相当好遇されたに違いない。」
関ヶ原駅の真田
関ヶ原のとき、
真田親子三人、
家康に従って合図へ向かう途中、
石田三成からの使者が来た。
正行、信行、幸村の兄弟に告げて相談した。
正行はもちろん大阪方に味方せんと言った。
兄の信行、
内府は有力百万の人に超えたる人なれば、
討ち滅ぼさるべき人にあらず、
徳川方に味方するにしかずという。
ここで物の本によると、
信行幸村の二人が激論した。
佐々木光雄君の大衆小説に、
その激論の情景から始まっているのがあったと記憶する。
信行、
我本田に親しければ石田に組し方し、
と言うと、
幸村、
女房の縁に惹かれ、
父に弓引く用也ある。
と言う。
信行、
石田に組せば必ず負けるべし。
そのとき、東洋の人々必ず陸を受けん。
我々、
父と弟との綾木を助けて、
家の滅びざらんことと計るべし。
と。
幸村曰く、
西軍破れなばば、
父も我も戦場の土とならん。
何ぞ兄上の助けを借らん。
天章十三年以来、
法家の恩子を探し、
石田に味方するこそ当然である。
家も人も、
滅ぶべく死すべきと聞いたらば、
潔く振る舞うことよけれ。
兄弟の激論と策略
何情汚く生き延びることを計らんやと。
信行、
怒って、
まさに幸村を斬らんとした。
幸村は、
首をはねることは許されよ。
幸村の命は法家のために惜しないもさん。
志になればと言った。
正幸仲裁して、
兄弟の争い、
各々その理あり。
石田が今度のこと、
必ずしも秀織のための柱にあらずと、
信行は思えるならん。
我は幸村と思うところ等しければ、
幸村と共に引き返すべし。
信行は心任せにせよと言って、
別れたという。
この階段の場所は佐野天章であるともいい、
犬節というところだという説もある。
この兄弟の激論は、
おそらく後人の想像であろうと思う。
信行も幸村も、
既に三十を越しており、
辛抱遠慮の良性であるから、
そんな激論をするわけはない。
まして、
父と同意権の弟に切りかけようとするわけはない。
必ず、
しんみりとした深刻な相談であったに違いない。
後年の我々が知っているように、
石田方がはっきり破れるとはわかっていないのだから、
親子兄弟の説が対立したのであろう。
そして、
本田忠勝の女性である信行は、
いつの間にか徳川に親しんでいたのは、
人間自然のことである。
そして、
正幸の腹の中では、
真田が東西両軍に分かれていれば、
いずれか真田の血脈は残るという気持ちもあっただろう。
破れた場合にはお互いに救い合おうというようなことも、
案案理には目的があったかもしれない。
親子兄弟とも頭がいいのであるから、
大事な場合に激論などするはずはない。
後世の人々がその時の幸村の行動などから、
そんな情景を考え出したのであろう。
真田が東西両軍に分かれたのは、
本田忠勝の武勇
真田家を滅ぼさないためには定作であった。
そう場でいえば、
売替両方の玉を出しておく両立てといったようなものである。
しかし、両立てというのは大勝ちするゆえんではない。
真田親子三人、家康に味方すれば、
おそらく真田は五十万国の大名にはなれただろう。
信之一人ではやっと十何万国の大名として残った。
しかし関ヶ原で跡形もなく滅んだ諸公に比べれば、
いくらかマシかもしれない。
信之、家康のもとへ行くと家康喜んで、
阿波の神が片手を祈りつる心地するよ。
戦に勝ちたくば信之をやるしるしぞ。
と言って刀の作業の端を切ってくれた。
正之と幸村は信之へ引き返す途中、
沼田へ立ち寄ろうとした。
沼田城は信之の居所で、
信之の妻たる例の本田忠勝の娘が留守を守っていたが、
正之が入城せんとするといわく、
既に親子は田となりて引き分れ候上は、
たとえ父にて終わし候とも城に居れんこと思いも寄らず。
と言って門を閉ざし、
女房ともに武装させて馬屋に居た足毛の馬を玄関に繋がした。
正之感心して、
日本一と世に言える本田中塚の娘なりけるよ。
弓取りの妻は赤くてこそあるべけれ。
と言って寄らずに上田へ帰った。
本田平八郎忠勝は徳川家随一の豪将である。
小牧山の駅、
たった五百騎で秀吉が数万の大軍を建成して、
秀吉を簡単させた男である。
とんぼ霧長倉をとって武功随一の男である。
あるとき忠勝子息の忠友と、
居城桑名城の堀に船を浮べ、
子息忠友に貝であの足を縫いでみよと言った。
忠友も強力無双の若者であるが、
貝をとって足を払うと足が折れた。
忠勝見て、
当生な若者は手ぬるし我に貸せと、
自身貝をもって横に払うと足が切れたと言う。
そんなことが可能かどうかわからぬが、
とにかく秀吉の忠臣の兜を受け継ぐ者は
忠勝のほかにないと言われたり、
関東の本田忠勝、
関西の橘宗と比べられたりした
典型的な武人である。
大阪城と幸村の動向
政役が上田城を守って、
唐仙堂を上る秀忠の大軍を停退させて、
とうとう関ヶ原に間に合わせなかった話は
歴史的にも有名である。
関ヶ原駅に西軍が勝って
論考交渉が行われたならば、
政役は主君第一であったであろう。
石田三成が約束したように、
新州に九州竹田の故地なる甲州を添え、
それに沼田のある上州を加えて
3カ国ぐらいはもらえたであろう。
真田阿波の上正之は、
戦国時代においてもおそらく
第一級の人物であろう。
黒田助水、大谷義孝、小早川孝影などと同じく、
政治家的素質のある武将で、
市と郷郷とによって家康、元成、
正宗くらいの仕事はできたかもしれない
男の一人である。
その上、武威カクカクたる
信玄の威信として、
その時代に威敬されていたのであろう。
大阪人の時、
ゆきむらの噴泉ぶりを聞いた家康が、
父阿波の神に劣るまじくといって
褒めているのから考えても、
正役の人物がうかがわれる。
書料は少なかったが、
家康などはかなりうるさがっていたに違いない。
秀忠軍が上田を囲んだ時、
頼手の使い番に一人、
向こう側の味方の陣まで使いを命ずられたが、
城を回れば遠回りになるので、
頼手の城門に至り、
城を通してくれという。
正役聞いて、
安木琴成とて通らせる。
その男来と、
また絡めてに来たり、
通らせてくれという。
正役また安木琴成と譲駐を通し、
所々を案内してみせた。
時々と通る奴も通る奴だが、
通す奴も通す奴だといって感嘆したという。
この時の城攻めに、
後年の尾野二郎財門こと見子神範義が、
一の達の手柄を表している。
県の名人必ずしも戦場では役に立たないという説を
なす人がいるが、
必ずしもそうではない。
よりて、力攻めになしがたきを知り、
抑えの兵を起きて唐仙堂を上ったが、
関ヶ原の間に合わなかった。
関ヶ原戦後、
まさやき親子すでに危なかったのを、
信之信州をもって不定の命に変えんことをこう。
だがまさやきに邪魔された秀田田の怒りは、
容易に溶けなかったが、
信之父を忠誠らるる前に、
各申須の神に説服を仰せつけられ候へと頑張りて、
ついに不定の命を救った。
時々と、
吉友には大いに稲る当州かなと感嘆した。
大阪入城
関ヶ原の戦後、
まさやき親子は高谷山のふもと、
九戸神室の宿に引退す。
この時発明した内職が真田紐であるというが、
まさやき67歳にて死す。
まさやき死に臨み、
我が死後三年にして必ず東西手切れとならん。
我生きてあれば相当の自信があるが、
ゆきむら、ぜひその策を教えておいてくれと言った。
まさやき曰く、
策を教えておくのは安いが、
なんじゃ我ほどの精望がないから、
策があっても行われないだろうと言った。
ゆきむら、ぜひにと言うので、
まさやき曰く、
東西手切れとならば、
軍勢を率いてまず、
身の青野ヶ原で敵を迎えるのだ。
しかしそれは当軍と決戦するのではなく、
軽くあしらって世帯へ引き取るのだ。
そこでも四五日を支えることができるだろう。
かくすれば、
真田阿波の神こそ当軍を支えたという噂が天下に伝わり、
大幸恩この大名で大阪が絶えつくものができるだろう。
しかしこの策は自分が生きていたならばできるので、
汝は無力我に劣らずといえども、
精望が足りないからこの策が行われないだろうと言った。
後年、
幸村大阪に入場し、
冬の陣の時、
城を入れ、
当軍を迎撃すべきことを主張したが、
遂に入れられなかった。
正幸の見通した通りであるというのである。
大阪陣の起こる前、
秀織よりの症状が幸村のところへ来た。
徳川家の六をはみたくない以上、
大阪によってことをなそうとするのは、
幸村としてやむを得ないところである。
秀織への忠説というだけではなく、
親譲りの意地でもあれば、
武人としての夢も多少はあったであろう。
真田大阪入場のデマが盛んに飛ぶので、
奇襲の領主、
朝野長明は、
駆土山付近の百姓に命じて、
ひそかに警戒せしめていた。
ところが幸村、
父正幸の法上営むとの触れ込みで、
付近の名衆、
大正也といった連中を招待して、
下校、上校の区別なく酒をし、
酔いつぶしてしまい、
そのあいだに、
一家一門、
かねて用意したる支度、
かいがいしく百姓どもの乗りきたれる馬に、
いろいろの荷物をつけ、
百人ばかりの同棲にて、
槍、
薙刀のさえをはずし、
鉄砲にはひなわをつけ、
桐川をわたり、
大阪をさして出発した。
付近の百姓ども、
あれよあれよと騒いだが、
むらむら在在の顔やくどもは、
真田邸で酔いつぶれているので、
どうすることもできなかった。
朝の長明がこれを聞いて、
真田ほどのものを百姓どもに観察したのは、
こちらのあやまりであったと後悔した。
そのへん、
いかにも軍師らしくていいと思う。
大阪へ着くと、
ゆきむらは、
ただ一人、
王の修理春永のところへ行った。
その頃、
停発していたので、
伝神月荘と名乗り。
大峰の山節であるが、
祈祷の脇物を差し上げたいという。
折から修理不在で、
番所の脇で待たされていたが、
折から十人ばかりで、
刀脇差しの目利きごっこをしていたが、
一人の武士、
ゆきむらにも、
刀拝見という。
ゆきむら山節の犬脅しにて、
お目にかけるものにではなしと言って差し出す。
若き武士、
抜きてみれば、
刃の匂い、
鐘の光ゆうべくもあらず。
脇差しもまた叱り。
とてものことにと、
中子を見ると、
刀は正宗、
脇差しは貞宗であった。
ただものならずと、
若武士ども騒いでいるところへ、
春名が帰ってきて、
真田であることがわかったという。
その後、
ゆきむら家の若武士たちに会い、
刀のお目利きは、
のぼりたるやと言って戯れたという。
真田丸。
東西敵礼となるや、
ゆきむらは城をいで、
当軍を迎え撃つことを力説し、
後藤又兵衛もまた、
真田説を助けたが、
王の渡辺らのいるるところとならず、
ついに老城説が勝った。
前回にも書いてあるとおり、
大阪城そのものを
頼み切っていたわけである。
真田丸の建設
老城の準備として、
大阪城へ大軍の迫る道は、
南よりほかないので、
この方面に
砦を築くことになった。
玉づくり口を隔てて、
一つの笹山あり。
砦を築くには、
屈橋のところなので、
口築にかかったが、
その工事に従事している
妊婦たちが、
いつとはなしに、
この出丸を
建後に守らん人は、
真田のほかなしといいあいて、
いつのまにか、
真田丸という名が
ついてしまった。
城中戦議の結果、
首相たることを命ぜられた。
しかしゆきむらは、
不殆の部下、
七四人しかないので
辞退したが、
後藤が、
妊婦どもまでが、
真田丸と言っている以上、
お引き受けないは
本意ないことではないか、
と言ったので、
しからば建物のことに、
縄張りも自分にやらせてくれ、
と言って引き受けた。
真田、すなわち
正益伝授の秘宝により、
出丸を築いた。
真田が、
出丸の金差しとて、
兵家の秘宝になれりと、
軽言記参考にある。
真田は冬の陣中、
自分に付けられた
三千人を率いて、
この危険な正妻を守り、
数万の大軍を四方に受け、
恐る類狼がなかった。
家康の勧誘。
真田丸の取りでは、
冬の陣中、
ついに、
やぶられなかった。
好話になってから家康は、
雪村を勧誘せんとし、
雪村の王子、
沖の神信忠を使いとして、
新州にて三万石をやるから、
と言って、
味方になることを
すすめさせた。
雪村は出丸の外に、
王子信忠を迎えて、
絶えて久しい対面をしたが、
徳川家につくことだけは、
きっぱり断った。
信忠はやむなく引き返して、
家康にそのよしを伝えると、
家康は、
では、
支那の一国をあて行わんあいだ、
いかに、
と、
重ねて尋ねて参れ、
と言った。
信忠、
再び雪村に対面して書く言うと、
支那の一国は申すに及ばず、
天下に天下を添えて
賜るとも、
秀織公にそむきて不義はつかまつらず、
重ねて、
かかる使いをせられなば、
存ずる胸あり、
と断兵として言って、
追い返した。
定山家団の著書などは、
この場合、
雪村がかくも豊臣家のために
義理を立て通そうとしたのは、
必ずしも道にかなえりとは
言うべからずと言っている。
豊臣家は、
真田崧生の君にあらず、
しかし、
君にそむかずの義を論ぜば、
武田家滅びて功勢を捨てて、
山中に隠れずば、
いかにかあるべき。
など表している。
雪村として見れば、
豊臣家には
父正之依頼の恩義があるとともに、
徳川家に対しては、
前に書いておいたごとく、
やはり父正之依頼の
いろいろの意地が重なっているのである。
でないとしたところが、
今になって武士たる者が
心を動かすべきはずはないのである。
豊臣家不大の連中が、
関東型について
城攻めに加わっているのに、
不大の臣でもない雪村が、
断固大阪型に準じているなど、
戒心のことではないか。
なおこれは余談だが、
大阪型についた不大の臣の中で、
片桐勝元などことさらにいけない。
坪内松陽博士の
霧一葉をなど見ると、
勝元という人物は、
極めて辛抱遠慮の士で、
秀吉亡き後の東西の環状融和に、
反寒苦肉の策をめぐらしていたように書いてあるが、
嘘である。
寸吹きなど見ると勝元、
秀吉の寒気に触れて、
大阪城退出後、
京都二条の家康の陣やにまかり入れ、
午前で東道高虎と大阪攻口の絵図を持って、
暴戯したりしている。
また冬の陣の当初、
大阪型が堺に押し寄せた時、
勝元、
手兵を発して堺を助け、
大御所への忠説を見せたなど、
元びかり国史日記に見えている。
勝元のこうした忌まわしい行動は、
当時の心ある大阪の民衆に、
極度の反寒を起こさしめた。
何がしといえる驚客の都会が、
遂に至って勝元を襲い、
その兵百人ばかりを殺害したという話がある。
勝元、
後にこれを家康に訴え、
その恐覚を制裁してくれと頼んだが、
家康は笑って応じなかった。
当時の勝元が、
大阪備役の連中に、
いかように思われていたかが、
わかるわけである。
霧一葉によって勝元が忠心らしく伝えるなど、
はなはだ心外だが、
今に謳えもんでもしねば、
誰もやるものがないからいいようなものの、
東西和睦。
和平が成立した時、
真田は後藤又兵とともに、
関東寄りの定戦交渉は、
まったくの暴力なることと力説し、
秀織公の御教養をあるべからずと言ったのだが、
例によって、
王の和田辺らのいるるところとならなかったわけである。
幸村はたまたま、
越前、
昭々多田尚郷の親、
原早と佐田谷と互いに、
竹垣にありし時代の旧友であったので、
一日、彼を生じてもてなした。
酒杯数コンの後、
幸村小包を取り出し、
自らこれを売って、
一師大祭に、
癖舞い数番を舞わせて、
協を尽くした。
この時、幸村申すことに、
この度の御和木も一旦のことなり、
遂には、旧戦に、
まかりになるべくと存ずれば、
幸村親子は、
一両年のうちには、
討ち死にとこそ思い定めたれ。
と言って、
床の間を指し、
あれに見える鹿のかかえずの打ったる兜は、
佐田谷に伝えたるものとて、
父、青の紙に譲り与えて候う。
重ねての戦には、
必ず着して討ち死につかまつらん。
見起きて賜り候え。
と言った。
それから庭に出て、
白皮らげなる馬のたくましきに、
六門船を金持てすりたる蔵を置かせ、
ゆらりと打ちまたがり、
五六度乗り回して腹に見せ、
この次は、
城壊れたれば、
平場の戦なるべし。
我、天皇城もてへ乗り出し、
この馬の生き続かん限りは、
戦って討ち死にせんと思うにつけ、
人しを悲憎のものに候う。
と言って、
馬よりおり、
それからさらに主演を続け、
夜半に至って、
この九龍たちは、
名残を惜しみつつ別れた。
はたして翌年、
ゆきむらは、
この兜をかぶり、
この馬に乗って討ち死にした。
東国の兵との戦闘
また、
この和木のなった時、
ゆきむらの気づいた真田丸も、
壊されることになった。
この破壊工事の武行に、
本田政澄がやってきて、
己の手で取り壊そうとしたので、
ゆきむら大いに怒り、
抗議を申し込んだ。
が、
政澄もなかなか引き取らぬ。
両者が互いにいがみ合っているよしが、
やがて家康の耳に入った。
すると家康は、
ゆきむらが心情を断りなり、
政澄心へ違いなり、
と早速判決を下して、
ゆきむらに、
自分の手で勝手に取り壊すことを許した。
このあたり、
家康大いに肝心の道を示して、
あくまでゆきむらの心を関東に悲観者と心見た者かもしれない。
が、ゆきむらは全く無頓着に、
自分の妊婦を使って、
地形までも跡形もなく削り取り、
政澄伝寺の秘宝の跡をとどめなかった。
天皇地口の戦。
厳な元年になると、
東西の和睦はすでに敗れ、
関東の大軍早、不死身まで着すと聞こえた。
5月5日、
この日、
道明寺玉田表には、
すでに戦始まり、
ゆきむらの陣取った大使へも、
その時の声、
筒音などを響かせた。
朝、
ゆきむらの物身の者、
馳せかえって旗三四十本、
人数二三万ばかり、
国府越しよりこちらへ来え来た理想郎と告げた。
これ、伊達政宗の軍標であった。
が、ゆきむら静かに、
招致によりかかったまま、
ひだりあらんとのみ言った。
午後、
物身の者、
また帰って来て、
けさなおと旗の色変りたる者、
人数二万ほど、
立つた越しに押し下りそうろうと告げた。
これ、
松崎田立てるが軍標であった。
ゆきむら、
そろは眠りしていたが、
目を開き、
よしよし、
いかほどにも越えさせよ。
ひとところに集めて討ち取らんには、
大いに心よしと嘘吹いた。
軍に対してすでに生産のちゃんと立っている
軍師らしい落ち着きぶりである。
さて、
遊芸も終ってのち、
ゆきむらをおもむろに、
この人種は戦いに便なし、
いざ敵近くいよらんと言って、
一万五千余の兵を祝祝と押し出した。
その夜は銅明寺表に陣取った。
明ければ六日、
早短野村あたりに至ると、
すでに渡辺倉之助田立が、
水のかつなりと先端を開いていた。
相当の力戦で、
田立はすでに身に不可で覆っていた。
ゆきむらの軍来たるとわかると、
田立は使いを使わして、
ただいまの迫害に傷をこむりて、
また戦うことをなりがたし、
然るゆえ紀伝の駆け引きに妨げならんと存じ、
人数を脇に引き取り候、
かくして横をうたんずる勢いを見せて控え候、
これ紀伝の一助たるべきかと言ってきた。
ゆきむら喜んで、
お働きのほど目を驚かしたり、
敵はこれより我らが受け取ったりと言って軍を進めた。
水のかつなりの軍は、
伊達正宗、松平忠てる等の連合軍であった。
ゆきむら、いよいよ現れると聞き、
正宗の兵一度にかかり来る。
ここで野村というところの地形を言っておくと、
前後が丘になっていて、
その中間十丁ばかりが定地であり、
左右電柱に連なっている。
ゆきむらの兵が今しもこの丘を半ばまで押し上げたと思うと、
正宗の騎馬、鉄砲、八百丁が一同に打ち立てた。
この騎馬、鉄砲は正宗ご自慢のものである。
仙台といえば聞こえた銘馬の山地。
その瞬速に伊達家の士の次男、三男の総力の者を乗せ、
馬上射撃を一斉に試みさせる。
打ち立てられて敵の美の乱れたところを、
煙の下より直ちに乗り込んで馬蹄に蹴散らすという、
いかにも東国の兵らしい荒々しき戦法である。
真田幸村の勇敢な戦術
この猛撃に、さすがのゆきむらの兵も弾丸に傷つき、
死する者も相当あった。
しかしゆきむらは、ここを辛抱せよ。
片足も引かば全く滅ぶべしと、
戦法に馳せきたって下地した。
一度その辺りの松原を盾として、
ひれ伏したまま引く者はなかった。
はじめ、ゆきむらは初熱に兵の弱るのを恐れて、
兜も付けさせず槍も持たせなかった。
かくて敵軍十長ばかりになるを呼んで、
使い板を持って兜を切よと命じた。
さらに二長ばかりになるに及んで、
使い板をして槍を取れと命じた。
これが兵の心の上に非常な効果を招いた。
敵前間近く兜の忍びの尾を絞め、
槍をしごいていて立った兵らの勇気を百倍した。
さしもの伊達の騎馬鉄砲に耐えて、
神父家号の兜であるゆきむらの兵に、
一歩も引く者のなかったのはそのためであろう。
ゆきむらはようやく敵の砲声も耐え、
煙もうすらいできたとき、
頃合はよし、いざかかれと大音上に下地した。
声の下より皆怒って突きかかり、
またたく間に正宗の先手を七八丁ほどひかしめた。
正宗の先手には、
彼の片倉小十郎、石本大善らが加わっていたが、
敵は小勢ぞ、ひくるみて打ち平げん、
など豪語していたにかかわらず、
ゆきむらの疾風の兵にたあいなく崩されてしまったのである。
これが世に真田道明寺の軍といわれたものである。
運命の日の戦闘
新鋭の兵器をもって東国独特の盲衆を試みた伊達勢も、
さすがに真田が軍略には歯が立たなかったわけである。
ゆきむらはそれから子卒をまとめて、
毛利勝長の陣に来た。
そして勝長の手を取って涙を流していった。
今日は後藤又兵衛と紀伝とともに存分、
東軍に切りこまんと訳せしに時刻遅くなり、
後藤を打ち死にさせしゆえ、
計りごとむなしくなり申し候。
これも秀織子御運のつきぬるところか、と。
この6日の朝は霧深くして夜の明けもわからなかったので、
ゆきむらの出陣が遅れたのである。
もしそんな師匠がなかったら、
関東軍はゆきむららにどれほど深く切りこまれていたかわからない。
勝長も涙を表に浮かべ、
去りながら今日のお働き、
大軍に打ち勝たれた武勇のありさま、
いにしえの名称にも勝りたりと称揚した。
ゆきむらの一師大輔、ことし十六歳であったが、
組打ちして取ったる首を蔵の四方を手につけ、
相当の手傷を負っていたが、
流れる血をぬぐいもせずにそこへ馳せてきた。
勝長がこれを見てさらに、
哀れ父が来なりとたたえたという。
こうして5月6日の戦は、
真田親子の水着渡った噴泉に始終した。
真田の危機。
この危機は廃棄処分の機に、
二文字目は旗ですね。捨てる旗。
真田の危機。
5月7日の扶養、越前少将忠直の家臣、
吉田、朱利之助、三重はよく河内の地に通じたるをもって、
先人として二千余騎を率い大和川へ差し掛かった。
その後から越前勢の大軍が祝祝と進んだ。
が、まだ暗かったので越前勢は川の神仙に迷い、
ほとりに佇む者多かった。
大将朱利之助は、川幅こそ広けで、
糸あさしといって自ら先に飛び込んで渡った。
幸村は、つとにこのことあるを予期して、
川底に鉄鎖を沈め置き、
多数が川の中間まで渡るを待って、
これを一斉に巻き上げたので、
先人の三百余騎、みるみる鎖に巻き倒されて、
川中に倒れた。
折から、さみだれの水勢激しきに容赦なく押し流された。
ここに、最も哀れをとどめたのは大将吉田朱利之助である。
彼は真っ先に飛び込んで、
間もなく馬の足を鎖に巻き倒され、
胴となり真っ逆さまに川中に落ちた。
が、大兵飛満の上に鎧を着ていたのでどうにもならず、
翌日の暮れ方、天満橋のあたりに水死体となってあがった。
また同じ国言、天皇城もての郷土を、
石川伊豆の神、宮本丹吾の神ら三百余人が、
平野の南門に着着した。
見ると、そこの陣矢の門がぴったり閉めてあって、入りようがない。
まわって東門をうかがったが同様である。
うちには六門船の旗三四竜朝風に吹きなびいて、せいせいとしていた。
さてはここが彼の真田が固めの場所か。
不活に手を出すべからず。
その上越前勢も大和川の失敗でなかなか到着する景色もないので、
石川は東の橋に控えて様子をうかがっていた。
夜がほのぼのと明け始めた。
そこで東の門をうかがってみると、
うちは神官として人の気配もなかった。
何のことだと言い合いつつ東の門を開いて身形を通そうとしているところへ、
越前勢の先手がやっとのことで押し寄せてきた。
大和川に流された吉田修理之助に代わって本田飛田の神、
松平恵貴の神ら以下の二千余騎である。
が、石川、宮城らはこれを真田津への来襲と思い違い、
すさまじい同志討ちがここに始まった。
石川、宮城らが青井の門に気づいたときは、
すでに手の下しようのない激しい戦いになっていた。
ようやくのことで彼らが兜を取り、
大地に跪いたので越前勢も静まった。
しかしこんな不始末が大和川にしれてはどんなことになるかもしれない。
とあって彼らはその場を作ろうために造兵の首十三ほどを切り取り、
そこにあった真田の旗を証拠としてつけて家康に差し出した。
家康痛く喜ばれ、
真田ほどの者が旗を捨てたるはよくよくのことよ、とお褒めになり、
その旗を下方にせよとて、傍らの大有吉直教に信じられた。
吉直教は教いただいてその旗をよく見たが顔色変わり、
これは下方にはなりませんという。
家康もまた、
よく見れば旗の隅に細字で小さく貴旗、捨旗と書いてあった。
実に無力の人よ、と家康は惨嘆したとあるが、これはいささか照れ隠しであったろう。
頼手の軍がこんな主配を重ねてグズグズしている間に、
雪村は軍を正満員の前から石の花表の西まで三隊に揃え、
旗馬印を竜床に押し立てていた。
さっき天を尽き黒雲の巻き上がるが如しという害があった。
日も昇るに及んでいよいよ合戦の開かれんとする時、雪村は石大介を呼んで、
汝は城に帰りて君が御生涯を見届け後発べし、と言った。
が大介は、
そのことは不大の地下習いに任せておけばよいではないかとなかなか聞かなかった。
そしてあくまで父の最後を見届けたいというのを眺め透かしてやっと城中に帰らせた。
雪村は大介の後姿を見、
昨日本田にて板手多いしが弱る体も見えず、あの分なら最後に人にも笑われし心安し、と言って涙したという。
時々とこの別れを桜井駅に筆している。
雪村はなぜ大介を城に帰して秀織の最後を見届けさせたか。
その心の底には、もし秀織が除名されるようなことがあらば、
大介をもう一度は世に出したいという親心が動いていたと思う。
前に書いた原早人との会合の時にも、
せがれに一度も人らしいことをさせないで殺すのが残念だと実感している。
こういう親心が動いている点こそ、かえって雪村の人格のゆかしさを忍ばしめると思う。
雪村の最後
雪村の最後の戦いは越前勢の大軍を真っ向に受けて開始された。
雪村はしばしば越前勢を悩ましつつ、天皇寺と一神寺との間の竜の丸に備えて秀織に併領を使わせた。
雪村はここでひとまず息を抜いて、その暇に赤氏家紋之助なりとよをして、
今宮表より阿部のへ廻らせて大御所の本陣を後ろよりつかせんとしたが、
この計画は松平武蔵の紙の軍勢に阻まれて着々と運ばなかった。
そこで雪村は毛利勝長と議して、いよいよ秀織公の御出馬を起こうことに決した。
秀織公が御旗御馬印を玉造口まで押し出させ、
寄手の勢力を抑えて赤氏が軍を目的地に進ましめることを図った。
真田の穴山小助、毛利の小林一平氏らがその緊急の死者に城中へ走った。
この死者の往来しつつある猶予を見つけたのが越前型の漢詩坂木原日田の神である。
日田の神は、「今こそ攻めるべし。送るれば必ず後より追撃されん。」と、
忠直卿に言状した。
忠直卿早速、舎邸伊予の神忠政、出馬の神直次をして左右両軍を連ねさせ、
二万余騎をもって押し寄せたが、ゆきむらは今しばらく待って戦わんと、
町味方の備えをもってこれに当たっていた。
幸村の最後と家族の絆
すると意外にも本田忠政、松平忠明ら渡辺大谷などの備えを車任務に切り崩して真田が陣へ駆け込んできた。
また水野勝成らも、きのうの敗れを報いん者と、
正満員の西の方から六百人ばかり、時をあげて攻め寄せてきた。
ゆきむらはついに三方から敵を受けたのである。
もはやこれまでなりと意を決して、兜の忍びの尾を松原型に結び、
これは打ち死の時の結び尾である。
馬の上にて鎧の上帯を締め、
秀織子より賜った肘裏面の陣羽織をさっと着流して、
金の采配を追ったって敵に向かったという。
三方の寄り手、合わせて三万五千人、真田勢わずかに二千四人。
しかも寄り手の戦績はかばかしく上がらないので、
家康は気をもんで、稲止木三郎、
たづけ兵戸らをして、鉄砲の者を召し連れて、
越前勢のそばより真田勢をつるべ打ちにすべしと命じたくらいである。
真田勢の首闘のほど思うべしである。
ゆきむらは三つの附加で追ったところへ、
この鉄砲組の弾が左の首反りの間に当たったので、
すでに落馬線として蔵の前輪に取り付き、
さしうつむくところを忠直卿の家師西尾二重門が槍でついたので、
ゆきむらはどうとうまから落ちた。
西尾はその首を取ったが、誰とも知らずにいたが、
のちにその兜がかつて原早人に話したところのものであり、
口をひらいてみると前歯が二本かけていたので、
まさしくゆきむらが首給うとわかったわけである。
西尾は再覚なき死で、
そのとき太刀を取って帰らなかったので、
太刀はのちに越前家の斎藤勘次郎がこれを得て帰った。
ゆきむらの首給と太刀とは、
のちに兄の伊豆の神信行に賜ったので、
信行は自難な役をして首給は荒野院天徳院に葬らしめ、
太刀はみずから取って真田家の家宝としたという。
この役に関西方についた真田家の一族はことごとく戦死した。
追ゆき綱。
ゆきたからはゆきむらと同じ戦場で倒れた。
石井大輔は城中に於いて、
秀織公の最後、
間近く辞人して果て、
父の言葉に従った。
1987年発行。文芸春住者。文春文庫。
日本合戦譚。
より独領読み終わりです。
はい、いやー、花話ちりざまというか、
男気ある感じの人でしたね。
ちょっと涙出ちゃうね。
ただちょっと歴史上の漢字読みづらくて、
歴史得意じゃなくて、日本史特に、
菊池寛と歴史
ちょっと読み方違うぞってところがあるかもしれません。
そういうとこ気になるとね、もう一気に、
え?今、今なんて?みたいになっちゃうと思うので、
ちょっとすいません。読み方違ったら教えてください。
はい、また菊池寛さんのね、
歴史人物のテキストがいくつかありそうなので、
折を見て読んだりしたいと思います。
歴史好きな人はめっちゃ好きですもんね。
そういうリクエストもあったら、ぜひいただけたらと思います。
はい、といったところで、今日のところはこの辺で、
また次回お会いしましょう。おやすみなさい。