はい。不安な文章が続くのかな。
塗っていきましょうか。
どうかお付き合いください。
それでは参ります。
琴のそら音
珍しいね。ひずかしく来なかったじゃないか。
と津田くんが出過ぎたランプの方を細めながら尋ねた。
津田くんがこう言った時、要は鉢切れて膝頭の出そうなズボンの上で、相撲焼きの茶碗の糸底を三本指でぐるぐる回しながら考えた。
なるほど。珍しいにそういない。
この正月に顔を合わせたぎり、腹盛りの今日もで津田くんの下宿を訪問したことはない。
こようこようと思っていながら、つい忙しいもんだから。
そりゃ忙しいだろう。何と言っても学校に居たうちとは違うからね。この後でもやはり午後六時までかい?
うーん、まあ、大概そのくらいさ。うちで帰って飯を食うとそんなに寝てしまう。勉強どころか、家にもろくろく入らないくらいだ。
と、要は茶碗を畳の上に置いて卒業が恨めしいという顔をしてみせる。
津田くんはこの一言に少々同情の念を起こしたとみえて、
なるほど。少し痩せたようだぜ。よほど苦しいんだろう。という気のせいか当人は学士になってから少々太ったように見えるのが尺に触る。
机の上に何だか面白そうな本を広げて、右のページに鉛筆で宙が入れてある。
こんな暇があるかと思うと羨ましくもあり、忌まやましくもあり、同時に我が身が恨めしくなる。
君は相変わらず勉強で結構だ。その読みかけてある本は何かね。ノートなどを入れてだいぶ天然に調べているじゃないか。
ああ、これか。何、これは幽霊の本さ。と津田くんはすこぶる平気な顔をしている。
この忙しい世の中に流行りもせぬ幽霊の書物をすまして愛読するんだろうというのは、のんきを通り越して贅沢の沙汰だと思う。
僕も気楽に幽霊でも研究してみたいが、どうも毎日芝から小石川までの奥まで帰るのだから、研究はおるか、自分が幽霊になりそうなくらいさ。考えると心細くなってしまう。
そうだったね。つい忘れていた。どうだい、新女体の味は。
一個を考えると、おのずから主人らしい心持ちがするかね。
と津田くんは幽霊を研究するだけあって、心理作用に立ち入った質問をする。
あんまり主人らしい心持ちもしないさ。やっぱり下宿の方が気楽でいいようだ。
あれでも晩時静頓していたら旦那の心持ちという特別な心持ちになれるかもしれんが、何しろ真鍮の夜間で湯を沸かしたり、ブリッキの瓦だらいで顔を当てるうちは主人らしくないからな。
と実際のところを白状する。
それでも主人さ。これが俺の家だと思えば何となく愉快だろう。
所有ということと相席ということは大抵の場合において伴うのが原則だから。
と津田くんは心理学的に人の心を説明してくれる。
学者というものは頼みもせぬことをいちいち説明してくれるものである。
俺の家だと思えばどうかは知らんが、てんで俺の家だと思いたくないんだからね。
そりゃ名前だけは主人に違いないさ。だから門口にも僕の名刺だけは貼り付けておいたがね。
七円五十銭の家賃の主人なんざ主人にしたところが見事な主人じゃない。
主人中の俗感なるものだぁね。
主人になるなら直任主人か少なくとも創任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。
ただ下宿の自分より面倒が増えるばかりだ。
と深くも考えずに浮気の不平だけを発表して相手の景色を伺う。
向こうが少しでも同意したらすぐ不平の語順を繰り出すつもりである。
なるほど。心理はその辺にあるかもしれん。
下宿を続けている僕と新たに一個を構えた君とは同じから立脚地が違うからな。
と言語はすこぶる難しいがとにかく世の説に賛成だけはしてくれる。
この模様ならもう少し不平を鎮熱しても差し支えはない。
まず家へ帰ると婆さんが横立ちの帳面を持って僕の前へ出てくる。
こんにちはお味噌を三千、大根を二本、うずら豆を一千五輪買いましたと精密なる報告をするんだね。
やっかい極まるのさ。
やっかい極まるの寄せばいいじゃないか。
と土田君は下宿にだけあって無造作なことを言う。
僕は寄してもいいが婆さんが承知しないから困る。
そんなことはいちいち聞かないでもいいからいい加減にしてくれと言うと、
どういたしまして奥様のいらっしゃらないお家でお台所を預かっております以上は一千一輪でも間違いがあってはなりません。
ってガンとして主人の言うことは聞かないんだからね。
うーんそれじゃあただうんうん言って聞いてるふりをしていればよかろう。
土田君は外部の刺激の遺憾に関せず心は自由に働けると考えているらしい。
心理学者にも似合わしからぬことだ。
しかしそれだけじゃないんだからな。
精細なる会計報告が済むと今度は明日のおかずについて綿密な指揮を仰ぐんだから困る。
見計らってこしらえろと言えばいいじゃないか。
ところが当人見計らるだけにおかずに関して明瞭なる観念がないんだから仕方がない。
うーんそれじゃあ君が言いつけるさ。
おかずのプログラムぐらい訳ないじゃないか。
それが容易くできるくらい楽にはならないさ。
僕だっておかず上の知識はすくぶる乏しいやね。
明日のおみおつけの実は何にいたしましょうと来ると最初から即答はできない男なんだから。
なんだいおみおつけというのは。
味噌汁のことさ。
東京のばあさんだから東京流におみおつけと言うんだ。
まずその汁の実を何にいたしましょうと聞かれると。
身になりうべきものを質量正しく並べた上で洗濯をしなければならんだろう。
一時考え出すのが第一の困難で考え出した品物について取捨をするのが第二の困難だ。
うーんそんな困難をして飯を食っているのは情けないわけだ。
君が特別に好きなものがないから困難なんだよ。
二個以上の物体を同等の程度で交互するときは決断力の上に自動なる影響を与えるのが原則だ。
とまた分かりきったことをわざわざ難しくしてしまう。
味噌汁の実まで相談するかと思うと妙なところへ干渉するよ。
うーんやはり食物上にかね。
うーん毎朝梅干しに白砂糖をかけてきてぜひ一つ食えって言うんだがね。
これを食わないとばあさんすこぶるご機嫌が悪いのさ。
食えばどうかすんのかい?
なんでも薬病よくやのまじないだそうだ。そしてばあさんの理由が面白い。
日本中どこの宿屋で泊まっても朝は梅干しを出さないところはない。
まじないが効かなければこんなに一般の習慣となっているわけがないと言って得意に梅干しを食わせるんだからな。
ほーなるほど。それは一理あるよ。
すべての習慣は皆相応の効力があるので維持せられるのだから。梅干しだって一概に馬鹿にはできないさ。
なんて君までばあさんの肩を持った日には。僕はいよいよ主人らしからざる心持ちになってしまうわ。
と飲みさしの巻き煙草を火鉢の灰の中へ叩き込む。
燃え残りの街の散る中に白いものがガサッと動いて斜めに一の字ができる。
とにかく旧兵なばあさんだな。
旧兵は特に卒業して迷信ばばあさ。
なんでも月に二三遍は伝通院あたりのなんとかという坊主のところへ相談に行く様子だ。
親類に坊主でもあるんかい?
いや何。坊主が小遣い取りに占いをやるんだがね。
その坊主がまた余計なことばかり言うもんだから始末に行かないのさ。
現に僕が家を持つときなども鬼門だとか八方塞がりだとか言って大いに言わらしたもんだ。
だって家を持ってからそのばあさんを雇ったんだろ?
だったのは引っ越すときだが、約束は前からして置いていってたんだからね。
実はあのばばあも夜露の世話でさ。
これなら大丈夫だ。一人で留守をさせても心配ないと母が言うから決めたわけさ。
それなら君の未来の妻君のお母さんの御眼鏡で人生に預かったばあさんだから確かなもんだろう。
人間は確かにそう言いないが、迷信には驚いた。
何でも引っ越すという三日前に例の坊主のところへ行って見てもらったんだそうだ。
すると坊主が今本郷から小石川の方へ動いて行くのははなはな良くない。きっと家内に不幸があると言ったんだがね。
余計なことじゃないか。何も坊主のくしにそんなシュッタ風な盲言をはかんでもいいことだよね。
しかしそれが商売だからしょうがない。
商売なら勘弁してやるから金だけもらって当たり障りのないことをしゃべるがいいや。
そう怒っても僕の戸賀じゃないんだから拉致はあかんよ。
その上若い女に称えるとおまけを付け足したんだ。
さあばあさん驚くこともないか。僕のうちに若い女があるとすれば近いうちもらうはずの鵜の娘にそう言いないと自分で見解を下して一人で心配してるんださ。
だってまだ君のところが今度だろう。
今うちから心配するから取り越してくろうさ。
なんだか洒落か真面目かはわからなくなってきたぜ。
まるでお話にもなれやしない。
ところで近頃僕の家の近辺で野良犬が遠吠えをやりだしたんだ。
犬の遠吠えとばあさんとなんか関係があるのかい。僕には連想さえ浮かばんが。
と津田君は、いかに得意の心霊学でもこれは説明できにくいとちょっと眉を寄せる。
与はわざと落ち着き払ってお茶を一杯と言う。
相馬焼きの茶碗は安くて俗なものである。
元は貧乏氏族が内食に焼いたとさえ伝聞している。
津田君が三十問の出柄をなみなみこの安茶碗についてくれたとき、
与はなんとなく嫌な心持ちがして飲む気がしなくなった。
茶碗の底を見ると華濃方言元信流の馬が勢いよく跳ねている。
野菜に似合わず活発な馬だと感心はしたが馬に感心したからといって飲みたくない茶を飲む義理もあるまいと思って茶碗は手に取らなかった。
さあ飲みたまえと津田君が促す。
この馬はなかなか勢いがいい。
あの尻尾を振って縦髪を乱しているところはノンマだね。
と茶を飲まない代わりに馬を褒めてやった。
冗談じゃない。
婆さんが急に犬になるかと思うと犬が急に馬になるのは激しい。
それからどうしたんだ。
と敷居に後を聞きたがる。
茶は飲まんでも差し支えないこととなる。
婆さんが言うにはあの鳴き声はただの鳴き声ではない。
何でもこの辺に変があるに沿われないから用心しなくてはいかんというのさ。
しかし用心しろと言ったって別段用心のしようもないから打ち合っておくにかまわないがうるさい犬は並行だ。
そんなに鳴き立てるのかい。
なあに犬はうるさくもなんともないさ。
だいじ僕はぐーぐー寝てしまうからいつどんなに吠えるのか全く知らんくらいさ。
しかし婆さんの訴えは僕の起きている時を選んでくるから面倒だね。
なるほど。
いかに婆さんでも君の寝ているところをよって起きようをつけ遊ばせとも言うまい。
ところへ持ってきて僕の未来の細工が風邪をひいたんだね。
ちょうど婆さんのおあつらい通りに事件が復想したからたまらない。
うーん。
それでも鵜野のお嬢様まだ御座にいるんだから心配せんでもよさそうなもんだ。
それを心配するから名神婆婆さ。
あなたがおうつり医にならんとお嬢様のお病気が早く御前回になりませんからぜひこの月中に方角のいいところへ御転託遊ばせと言うわけさ。
どんだけ予言者に捕まって大迷惑だ。
うつるのもいいかもしれんよ。
馬鹿言ってら。この間越したばかりだね。
そんなにたびたび引っ越しをしたら身材限るをするばかりだ。
うーん。
しかし病人は大丈夫かい?
君まで妙なことを言うぜ。
少々伝通医の坊主にかぶれてきたんじゃないか?
そんなに人を脅かすもんじゃない。
脅かすんじゃない。大丈夫かと聞くんだ。
これでも君の細工の身の上を心配ちゃつもりなんだよ。
大丈夫に決まってるさ。
咳は少し出るがインフルエンザなんだもの。
インフルエンザ?
と津田君は突然よう驚かすほどの大きな声を出す。
今度は本当に驚かされて無言のまま津田君の顔を見つめる。
よく注意したまえ。
と憎めや低い声で言った。
はじめの大きな声に反してこの低い声が耳の底を突き抜けて頭の中へ染み込んだような気持ちはする。
なぜだかわからない。
細い針は根まで入る。低くても通る声は骨に応えるのであろう。
碧瑠璃の大空に瞳ほどな黒き点は旗と歌えたような心持ちである。
消えて失せるか溶けて流れるか向山卸にならぬとも限らぬ。
この瞳ほどな点の運命はこれから津田君の説明で決すられるのである。
夜は覚えず相撲焼きの茶碗を取り上げて冷たき茶を一時にぐっと飲み干した。
注意せんといかんよ。
と津田君は再び同じことを同じ調子で繰り返す。
瞳ほどな点が一段の黒みを増す。
しかし流れるとも広がるとも片付かぬ。
変儀でもない。いやに人を驚かせるぜ。
と無理に大きな声で笑ってみせたが、
ふの抜けた勢いのない声が無意味に響くので、我らが気がついて中途でぴったりとやめた。
やめると同時にこの笑いがいよいよ不自然に引かれたので、やはり姉妹まで笑い切ればよかったと思う。
津田君はこの笑いを何と聞いたか知らん。
再び口を開いたときは依然として依然の調子である。
いや、実はこういう話がある。
ついこの間のことだが、僕の親戚の者がやはりインフルエンザにかかってね。
別案のことはないと思っていい加減にしておいたら、
一週間目から肺炎に変じて、とうとう一ヶ月経たないうちに死んでしまった。
そのとき医者の話した。
この頃のインフルエンザはタチが悪い。
じきに肺炎になるから用心をせんといかんと言ったが、
実に夢のようさ。かわいそうでね。
と言いかけて嫌な寒い顔をする。
ああ、それはとんだことだった。
どうしてまた肺炎などに変じたんだ。
と心配だから参考のため聞いておく気になる。
どうしてって別案の事情もないんだが、
それだから君のも注意せんといかんと言うのさ。
ほんとだね。
と、要は満腹の真面目をこの四文字に込めて、
津田君の目の中を熱心に覗き込んだ。
津田君はまだ寒い顔をしている。
やだやだ。考えてもやだ。
二十二夜三で死んでは実につまらんからね。
しかも夫は戦争に行ってるんだから。
女か。
そりゃあ気の毒だな。軍人だね。
夫は陸軍中尉さ。
結婚してまだ一年にならんのさ。
僕は厚屋にも行き葬式の友にも立ったが、
その夫人のおっ母さんが泣いてね。
泣くだろう。誰だって泣か。
ちょうど葬式の当日は雪がちらちら降って寒い日だったが、
お経がすんでいよいよ火継ぎを埋める段になると、
おっ母さんが穴のそばへしゃがんだぎり動かない。
雪が飛んで頭の上がマラーになるから、僕はコウモリを差し掛けてやった。
それは寒心だ。君にも弱な優しいことをしたもんだ。
だって気の毒で見てらんないもの。
そうだろう。と、
与はまた方言もとのぶの馬を見る。
自分ながらこの時は相手の寒い顔が伝染しているに沿いないと思った。
咄嗟の間に死んだ女の夫のことが聞いてみたくなる。
それで、その夫の方は無事なのかね。
夫は黒鬼軍についているんだが、この方はまあ幸いに怪我もしないようだ。
サイ君が死んだという包丁を受け取ったらさず驚いたろう。
いや、それについて不思議な話があるんだがね、
日本から手紙の届かない先にサイ君がちゃんと天使のところへ行ってるんだ。
ん?行ってるとは?
会いに行ってるんだ。
どうして?
どうしてって、会いに行ったのさ。
会いに行くも何も、当人死んでるんじゃないか。
死んで会いに行ったのさ。
若いってら、いくら天使が恋しいったって、そんな芸が誰にできるもんか。まるで林は肖像の怪談だ。
いや、実際行ったんだから、しようがない。
と、津田君は教育ある人にも似合わず頑固に愚なことを主張する。
しようがないって?
なんだか、見てきたようなことを言うぜ。
おかしいな。君、本当にそんなことを話してるのかい?
むろん、本当さ。
これは驚いた。まるで僕のうちの婆さんのようだ。
婆さんでもじいさんでも事実だから仕方がない。
と、津田君はいよいよ躍起になる。
どうも、世にからかっているようにも見えない。
はてな、真面目で言っているとすれば、何か違和感のあることだろう。
津田君と世は、大学へ入ってからかは違うが、高等学校では同じ組にいたこともある。
その時世は、大概四十何人の石松を怪我すのが例であったのに、
先生は毅然として既に二三万を下らなかったところを思ってみると、頭脳はよりも三十五六万円型名石に相違ない。
その津田君が躍起になるまで弁護するのだから、まんざらのでたらめではあるまい。
世は法学士である。国家の事件をありのままに見て、常識でさばいていくより他に資料をめぐらすのはあたわざるよりも、むしろ好まざるところである。
幽霊だ、たたりだ、因縁だ、などと、蜘蛛をつかむようなことを考えるのは一番嫌いである。
が、津田君の頭脳には少々恐れ入っている。
その恐れ入っている先生が真面目に幽霊談をするとなると、世もこの問題に対する態度を義理にも改めたくなる。
実を言うと幽霊とくもすけは異心以来永久廃業したものとのみ信じていたのである。
しからにさっきから津田君の様子を見ると、なんだかこの幽霊なるものが世の知らぬ間に再考されたようにもある。
さっき机の上にある書物は何かと尋ねた時にも幽霊の書物だとか答えたと記憶する。
とにかく損はないことだ。
忙しい世にとってはこんな機会はまだとあるまい。
豪楽のため話だけでも拝聴して帰ろうとようやく春の中で決心した。
見ると津田君も話の続きが話したいという風である。
話したい、聞きたい、とことが決まる場は訳はない。
冠水は依然として聖難に流れるのが戦後の法則だ。
だんだん聞き正してみると、その妻というのが夫の出生前に誓ったんだそうだ。
何を?
もし万一ゴルス中に病気で死ぬようなことがありましても、ただ死にませんって。
ほう。
必ず今泊だけはお蕎麦へ行って、もう一遍お目にかかりますと言った時に、
邸主は軍人で雷落な気象だから笑いながら、
よろしい、いつでも来なさい。戦の見物をさせてやるから、と言ったぎり満州へ渡ったんだがね。
その後、そんなことはまるで忘れてしまって、一向気にもかけなかったそうだ。
そうだろう。僕なんざ戦に出なくっても忘れてしまうわ。
それで、その男が出発をするとき、
妻君がいろいろ手伝って手荷物などを買ってやった中に、懐中持ちの小さい鏡があったそうだ。
ふん。君は大変詳しく調べているな。
何?
後で戦時から手紙が来たんで、その天末が命令になったわけだが、その鏡を先生、常に懐中していてね。
ふん。
ある朝、例のごとくそれを取り出して何心なく見たんだそうだ。
するとその鏡の奥に映ったのが、いつもの通りのヒゲだらけの赤じみた顔だろうと思うと、不思議だね。
実に妙なことがあるじゃないか。
どうしたい?
青白い妻君の病気に痩せた姿がスーッと現れたと言うんだがね。
いえ、それはちょっと信じられるのさ。誰に聞かせても嘘だろうと言うさ。
現に僕なども、その手紙を見るまでは信じない一人だったのさ。
しかし、向こうで手紙を出したのは、無論こちらから死去の通知の言った三週間も前なんだぜ。
嘘を作ったって嘘にする材料のないときださ。
それにそんな嘘をつく必要がないだろうじゃないか。
死ぬか生きるかという戦争中に、こんな小説じみた軟気なホラーを書いて国元へ送る者は一人もないわけださ。
うーん、それはない。
と言ったが、実はまだ半信半疑である。
半信半疑ではあるが、なんだかものすごい気味の悪い一言にして言うと、方角紙に似合わしからざる感じが起こった。
もっとも、話はしなかったそうだ。
黙って鏡の内から夫の顔をしけじけ見つめたげりだそうだが、そのとき夫の胸の内に欠別のとき、
妻君の言った言葉が渦のように突然と湧いて出たと言うんだが、
これはそうだろう。焼き骨で脳みそをじゅっと焼かれたような心持ちだと手紙に書いてあるよ。
うーん、妙なことがあるもんだな。
手紙の文句まで引用されると、ぜひとも信じなければならぬようになる。なんとなく物騒な気配である。
このとき、妻君がもしわっとでも叫んだら、よはきっと飛び上がったに相違ない。
それで時間を調べてみると、妻君が息を吹き取ったのと、夫が鏡を眺めたのが同日同刻になっている。
いよいよ不思議だな。
このときに至っては真面目に不思議と思い出した。
しかし、そんなことがありえるかなと念のため津田君に聞いてみる。
ここにもそんなことを書いた本があるがね。
と津田君はさっきの書物を机の上から取り下ろしながら、
近頃じゃありえるということだけは証明されそうだよと落ち着き払って答える。
法学史の知らぬ間に心理学者の方では幽霊を再考しているなと思うと幽霊もいよいよバカにできなくなる。
知らぬことには口が出せぬ。知らぬは無能力である。幽霊に関しては法学史は文学史に猛獣しなければならぬと思う。
遠い距離においてある人の脳の細胞と他の人の細胞が感じて一種の科学的変化を起こすと。
いえいえ、僕は法学者だからそんなことは聞いてもわからん。要するにそういうことは理論上ありえるんだね。
世の如き頭脳不透明なるものは理屈を受けた周りより結論だけ飲み込んでおく方が勘弁である。
ああ、つまりそこへ帰着するのさ。
それにこの本にも例がたくさんあるがね、そのうちでロード・ブローアムの実と幽霊などは今の話とまるで同じ場合に続するんだ。なかなか面白い。
君、ブローアムは知っているだろう?
ブローアム?ブローアムだ。なんだい?
英国の文学者さ。
ああ、道理で知らんと思った。僕は自慢じゃないか。文学者の名なんかセイクスピアとミルトンとその他に二三人しか知らんのだ。
ヌダ君は、こんな人間と学問上の議論をするのは無駄だと思ったか。
それだから、ウノのお嬢さんもよく注意したまいということさ。と話を元へ戻す。
うむ。注意はさせるよ。
しかし、いまいちのことがありましたら、きっとお目にかかりにあがりますなんて誓いは立てないんだから、そのほうが大丈夫だろう。
と、しゃれてみたが、心の内はなんとなく不愉快であった。
時計を出してみると十一時に近い。これは大変。
家ではさぞお嬢さんが犬の逃亡を欲にしているだろうと思うと、一刻も早く帰りたくなる。
いずれそのうちお嬢さんに近づきになりに行くよ、というヌダ君に。
ご馳走するからぜひ来たまえ、と言いながら白山御殿長の下宿を出る。
我から惜しげもなく咲いた彼岸桜に、いよいよ春が来たなと浮かれ出したのも、わずか二三日の間である。
今では桜自身さえ早まったと後悔しているだろう。
生ぬるく棒を吹く風に、額際からにじみ出す油と、粘りつく砂ぼこりと一緒にぬり去った一昨日のことを思うと、まるで去年のような心持ちがする。
それほど昨日から寒くなった。
今夜は一層である。
さえかえる、などという実節でもないにバカバカしいと街灯の襟を立てて、門羽学校の前から植物園の横をだらだらと降りたとき、
どこでつく鐘だか夜の中に波を描いて静かな空をうねりながら来る。
十一時だなと思う。
時の鐘は誰が発明したものか知らん。
今までは気がつかなかったが注意して聞いてみると妙な響きである。
一つ音が粘り強い餅をちぎったようにいくつも割れてくる。
割れたから円が消えたかと思うと細くなって次の音につながる。
つながって太くなったかと思うとまた筆の穂のように自然と細くなる。
あの音は嫌に伸びたり縮んだりするなと考えながら歩くと、
自分の心臓の鼓動も鐘の波のうねりとともに伸びたり縮んだりするように感じられる。
しまいには鐘の音に我が呼吸を合わせたくなる。
今夜はどうしても方角市らしくないと足早に交番の角を曲がるとき、
冷たい風に誘われてぽつりと大粒の雨が顔に当たる。
極楽水は嫌に陰気なところである。
近頃は両側へ長屋が建ったので昔ほど寂しくはないが、
その長屋が左右とも激然として空き家のように見えるのはあまり気持ちのいいものではない。
貧民に活動は付きものである。
働いておらぬ貧民は貧民たる本性を逸出して生きたものとは認められん。
夜が通り抜ける極楽水の貧民は、うてども蘇る景色なきまでに静かである。
実際死んでいるんだろう。
ぽつりぽつりと雨はようやく細かになる。
傘は持ってこなかった。ことによると、帰る前にはずぶの音になるわいと下打ちをしながら空を仰ぐ。
雨は闇の底から少々と降る。容易に晴れそうにもない。
五六軒先にたちまち白いものが見える。
往来の真ん中に立ち止まって首を伸ばしてこの白いものを透かしているうちに、
白いものは容赦もなく夜の方へ進んでくる。
半分と畳の間に世の右側をかすめるごとく過ぎ去ったのを見ると、
みかん箱のようなものに白いキレをかけて黒い着物を着た男が二人、
棒を通して前後から担いで行くのである。
大方、葬式か焼き場であろう。
箱の中は血のみごに違いない。
黒い男は互いに言葉も交えずに黙ってこの観音鏡を担いで行く。
天下に夜中観音鏡を担うほど当然の出来事はあるまいと思い切った調子でコツコツ担いで行く。
闇に消える観音鏡をしばらくは物珍しげに見送って振り返ったとき、
また行く手から人声が聞こえ出した。
高い声でもない。低い声でもない。
夜が更けているので存外反響が激しい。
昨日生まれて今日死ぬ奴もあるし、と一人が言うと、
寿命だよ。全く寿命だから仕方がない、と一人が答える。
二人の黒い影がまた世の側をかすめて見る間に闇の中へ潜り込む。
その跡を追って足腹に刻む下駄の音のみが雨に響く。
昨日生まれて今日死ぬ奴もあるし、と夜は胸の内で繰り返してみた。
昨日生まれて今日死ぬ者さえあるなら、
昨日病気にかかって今日死ぬ者は元よりあるべきはずである。
二十六年もシャバの木を吸った者は病気にかからんでも十分死ぬ資格を備えている。
こうやって極楽水を四月三日の夜に十一時に昇りつつあるのはことによると死にに昇っているのかもしれない。
なんだか昇りたくない。
しばらく坂の中途で立ってみる。
しかし立っているのはことによると死にに立っているのかもしれない。
また歩き出す。
死ぬということがこれほど人の心を動かすとは今までつい気がつかなんだ。
気がついてみると立っても歩いても心配になる。
この様子では家へ帰って布団の中へ入ってもやはり心配になるかもしれん。
なぜ今まで平気で暮らしていたんだろう。
考えてみると学校にいた自分は試験とベースボールで死ぬということを考える暇がなかった。
卒業してからはペンと印記とそれから月給の足らないのとパーさんの苦情でやはり死ぬということを考える暇がなかった。
人間は死ぬものだとはいかに呑気な世でも承知しておったに沿いないが、
実際世も死ぬものだと感じたのは今夜が生まれて以来初めてである。
世というむやみに大きい黒いものが、歩いても立っても上下四方から閉じ込めていて、
その中に世という形態を溶かしこまると承知せんぞと迫るように感じられる。
世は元来呑気なだけに正直なところ巧妙心には冷淡な男である。
死ぬとしても別に思い起こくことはない。
別に思い起こくことはないが死ぬのは非常に嫌だ。
どうしても死にたくない。
死ぬのはこれほど嫌なものかなと初めて悟ったように思う。
雨はだんだん密になるので、街灯が水を含んで触ると濡れた海面を押すようにじくじくする。
竹林町を横切ってキリシタン坂へかかる。
なぜキリシタン坂というのかわからないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。
坂の上へ来たとき、ふとせんだってここを通って、日本一急な坂。
命の欲しいものは陽神社、陽神社。
と書いた針札が土手の横から端に往来へ差し出ているのを滑稽だと笑ったことを思い出す。
今夜は笑うどころではない。
命の欲しいものは陽神社という文句が聖書にでもある格言のように胸に浮かぶ。
坂道は暗い。
めったに降りると滑って尻餅をつく。
謙論だと八合目あたりから下を見て狙いをつける。
暗くて何もよく見えん。
左の土手から古えの木が無縁流に枝を突き出して、日の目の通わぬほどに坂を覆っているから、
昼でもこの坂を降りるときは谷の底へ落ちると同様あまり良い心持ちではない。
えのきは見えるかなと顔を上げてみると、あると思えばあり、ないと思えばないほどな黒いものに雨の注ぐ音がしきりにする。
この真っ暗な坂を降りて細い谷道を伝って明河谷へ向こうへ上がって七八町へ行けば、
小火縄大町の夜が家へ帰られるのだが、向こうへ上がるまでがちょっと気味が悪い。
明河谷を坂の中途に当たるくらいなところに赤い鮮やかな火が見える。
前から見えていたのか、顔を上げる途端に見えだしたのか反然しないが、とにかく雨を透かしてよく見える。
あるいは屋敷の門口に立ててあるガス灯ではないかと思って見ていると、その火がゆらりゆらりと盆棟楼の空き風に揺られる具合に動いた。ガス灯ではない。
何だろうと見ていると、今度はその火が雨と闇の中を波のようにぬって上から下へ動いてくる。
これは長珍の火に相応いないとようやく判断したときそれがふいと消えてしまう。
この火を見たとき、与ははっと、つゆ子のことを思い出した。つゆ子は与が未来の妻君の名である。
未来の妻君とこの火とどんな関係があるかは心理学者の津田君にも説明はできんかもしれん。
しかし心理学者の説明するものでなくては思い出してならんとも限るまい。この赤い鮮やかな尾の消える縄に似た火は、
与をして確かに与が未来の妻君をとっさの際に思い出さしめたのである。
同時に火の消えた瞬間が、つゆ子の死を未練もなく念出した。
額を撫でると油汗と雨でずるずるする。与は夢中で歩く。
坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思う辺りからまた向き直って西へ西へと爪上がりに新しい谷道が続く。
この辺はいわゆる山の手の赤土で、少しでも雨が降ると下駄の葉を吸い落とすほどにぬかる。
暗さは暮らし、靴はかかとを深く土に据えつけて絶やすくは動かぬ。
曲がりくねってむやみ当たりに行くと、
クコがきともおぼしきものの鋭く折れ曲がる角でパタリとまた赤い火に出くわした。
見ると巡査である。
巡査はその赤い火を焼くまでに与の頬に押し当てて、
悪いからお気をつけなさいと言い捨ててすれ違った。
よく注意したまえと言った津田君の言葉と、
悪いからお気をつけなさいと教えた巡査の言葉とは似ているなと思うと、
たちまち胸が鉛のように重くなる。
あの日だ、あの日だと、
与は息を切らして駆け上がる。
どこをどう歩いたとも知らず、流星のごとく我が家へ飛び込んだのは十二時近くであろう。
三武神の薄暗いランプを片手に、奥から駆け出してきた婆さんが鈍強な声を張り上げて、
「旦那様、どうなさいました。」
という、見ると婆さんは青い顔をしている。
「婆さん、どうかしたか。」
と、与も大きな声を出す。
婆さんも与から何か聞くのが恐ろしく、
与は婆さんから何か聞くのが恐ろしいので、
お互いにどうかしたかと問いかけながら、その返答は両方とも言わずに双方とも三次睨み合っている。
「水が、水が垂れます。」
これは婆さんの注意である。
なるほど、十分に雨を含んだ街灯の裾と、中折れ棒の日差しから容赦なく冷たい点滴が畳の上に垂れる。
折れ目をつまんで放り出すと、婆さんの膝のそばに白樹脂の裏を天井に向けて棒が転がる。
灰色のチェスターフィールドを脱いで、一振り振って投げたときはいつもよりよほど重く感じた。
二本服に着替えて身振りをしてようやく我に帰った頃を見計らって、
婆さんはまた、
「どうなさいました?」と尋ねる。今度は先方も少しは落ち着いている。
「どうするって、別段どうもせんさ。ただ、雨に濡れただけのことさ。」と、なるべく弱みを見せまいとする。
「いや、あの、岡色はただの大色ではございません。」と、電水の坊主を信仰するだけあってうまく妊想を見る。
「お前の方がどうかしたんだろう。さっきは少し歯の根が合わないようだったぜ。」
「私はなんと旦那様から冷やかされてもかまいません。しかし旦那様、冗談ごとじゃございませんよ。」
「え?」と思わず心臓が縮み上がる。
「どうした?留守中何かあったのか?四谷から病人のことでもなんか言ってきたのか?」
「それごらんあそばせ。そんなにお嬢様のことを心配していらっしゃるくせに。」
「なんと言ってきた?手紙が来たのか?使いが来たのか?」
「手紙も使いも参りはいたしません。」
「それじゃあ電報か?」
「電報なんて参りはいたしません。」
「それじゃあどうした?早く聞かせろ。」
「今夜は泣き方が違いますよ。」
「何が?」
「何がってあなた。どうも酔いから心配でたまりませんでした。どうしてもただごとじゃございません。」
「何がさ。それだから早く聞かせろと言ってるじゃないか。」
「千田手中から申し上げた犬でございます。」
「犬?」
「遠吠えでございます。私が申し上げた通りに遊ばせばこんなことにならないで済んだんでございますのに。」
「あなたが婆さんの名神だなんてあんまり人を馬鹿に遊ばすものですから。」
「こんなことにもあんなことにもまだ何も起こらないじゃないか。」
「そうではございません。旦那様もお帰り遊ばす途中、お嬢様のご病気のことを考えていらっしゃったに相違ございません。」
と婆さんズバとズボシを刺す。寒い歯が闇にひらめいてヒヤリと胸打ちを食らわせられたような心持ちがする。
「それは心配してきたに相違ないさ。」
「それご覧遊ばせ。やっぱり虫が知らせるのでございます。」
「婆さん虫が知らせるなんてことが本当にあるもんかな。お前そんな経験をしたことがあるのかい?」
「あるだんじゃございません。昔から人がカラス鳴きが悪いとか何とかよく申すじゃございませんか。」
「なるほど。カラス鳴きは聞いたようだが、犬の遠吠えはお前一人のようだが。」
「いいえ、あなた。」
と婆さんは大軽蔑の口調で世の疑いを否定する。
「同じことでございますよ。婆やなどは犬の遠吠えでよくわかります。論より証拠。これは何かあると思うと外れたことがございませんもの。」
「そうかい。」
「年寄りの言うことは馬鹿にできません。」
「そりゃあ、むろん馬鹿にはできんさ。馬鹿にできんものは僕もよく知っているさ。だから何もお前を…しかし遠吠えがそんなによく当たるもんかな。」
まだ婆やの申すことを疑っていらっしゃる。
「なんでもよろしゅうございますから、明朝四ツ谷へ行ってごらんあそばせ。きっと何かございますよ。婆やが受け合えますから。」
「きっと何かあっちゃいやだな。どうか工夫はあるまいか。」
「それだから早くお越しあそばすと申し上げんのに。あなたがあまり豪情をお張りあそばすもんだから。」
「これから豪情はやめるよ。ともかく明日早く四ツ谷へ行ってみることにしよう。今夜はこれから行ってもいいが。」
「今夜いらしっちゃ婆やはおるすいはできません。」
「なぜ?」
「なぜって、きびが悪くっていてもたってもいられませんもの。」
「それでもお前が四ツ谷のことを心配しているんじゃないか。」
「心配は致しておりますが、私だっておるそろ臭ございますから。」
折からのきをめぐる雨の響きにはして、いずくよりともなく何者か地をほうてうなりまわるような声が聞こえる。
「ああ、あれでございます。」と婆さんが瞳をすすえて小声で言う。
なるほど、陰気な声である。
今夜はここへ寝ることに決める。
与は例のごとく布団の中へ潜り込んだが、このうなり声が気になってまぶたさえ合わせることができない。
普通、犬の鳴き声というものは、後も先ものたでぶち切った薪雑帽を長くついた直線的な声である。
今聞くうなり声はそんな簡単な無雑さのものではない。
声の幅に絶えざる変化があって、曲がりが見えて丸みを帯びている。
ろうそくの火の穂先より始まって、次第にふくやかに広がって、また油のつきた頭身の鼻と前耳に消えてゆく。
どこで吠えるかわからん。
百里の遠き穂下から吹く風に乗せられてかすかに響くと思う間に、近づけば軒馬をおもれて枕にふさぐ耳にも迫る。
うううううという音が丸い段落をいくつも連ねて家の周囲を二、三度巡ると、いつしかその音がワワワワワと変化する拍子。
時風に吹き、のけられて遥か向こうに尻尾はウーンと化して闇の世界にいる。
陽気な声を無理に圧迫して隠移したのがこの遠吠えである。
爽強な響きを顕平塾で鎮痛鳴らしめているのがこの遠吠えである。自由でない。
圧制されてやむを得ずに出す声であるところが本来の隠鬱、天然の鎮痛よりも一層嫌である。聞き苦しい。
余は余儀の中に耳の根まで隠した。余儀の中でも聞こえる。しかも耳を出しているより一層聞き苦しい。また顔を出す。
しばらくすると遠吠えがはたとやむ。この夜半の世界から犬の遠吠えを引き去ると動いてみるものは一つもない。
天井に丸くランプの影がかすかに映る。見るとその丸い影が動いているようだ。いよいよ不思議になってきたと思うと布団の上で脊髄が急にぐにゃりとする。
ただ目だけを見張って確かに動いているかおらぬかを確かめる。確かに動いている。
普段から動いているのだが気がつかずに今日まで過ごしたのか、または今夜に限って動くのか知らぬ。
もし今夜だけ動くならたたことではない。しかしあるいは腹具合のせいかもしれまい。
今日会社の帰りに池の旗の西洋料理屋でエビのフライを食ったかことによるとあれがたたっているかもしれん。
つまらんもんを食って銭を取られてバカバカしい。寄せばよかった。
何しろこんな時は気を落ち着けて寝るのが関心だと固く目を閉じてみる。すると虹を粉にして振りまくように目の前が五色の反転でチラチラする。
これはだめだと目を開くとまたランプの鍵が気になる。仕方がないからまた横向きになって大病人のごとくじっとして夜の明けるのを待とうと決心した。
横を向いて太めに入ったのは襖の影に婆さんが丁寧に畳んでおいた七分明仙の布団着である。
この前四夜に行ってついこの枕元で例の通りたわいもない話をしておった時病人が袖口のほころびから綿が出かかっているのを気にして寄せと言うのは無理に布団の上に置き直って縫ってくれたことをすぐ連想する。
あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変わらなかったのに。
当人ももうだいぶ良くなったから明日辺りから床を上げましょうとさえ言ったのに。
今目の前に梅子の姿を浮かべてみると、浮かべてみるのではない自然に浮かんでくるんだが、
頭へ標納をのせて長い髪を半分濡らしてうんうんうめきながら枕の上へ乗り出してくる。
いよいよ肺炎かしらと思う。
しかし肺炎でもなったら何とか知らせが来るはずだ。
使いも手紙も来ないところを持ってみるとやっぱり病気は前回したに沿いない。
大丈夫だと断定して眠ろうとする。
合わす瞳の底についこの青白い肉の落ちた頬と窪んでガラス張りのようにすごい目がありありと映る。
どうも病気は治っておらんなし。
知らせはまだ来ぬが来るということが安心にはならん。
今に来るかもしれん。
どうせ来るなら早く来ればいい。
来ないか知らんと寝返りを打つ。
寒いとはいえ四月という時節に厚浴衣を二枚も重ねてかけているから
肩でさえ寝苦しいほど暑いわけであるが手足と胸の内は全く血の通わぬように重く冷たい。
手で身の内を撫でてみると油と汗で湿っている。
皮膚の上に冷たい指が触るのが青大正にでも這われるように嫌な気持ちである。
ことによると今夜のうちに使いでも来るかもしれん。
突然何者か表の雨戸を割れるほど叩く。
空来たと心臓が飛び上がってあばらの四枚目を蹴る。
何か言うようだが叩く音と共に耳を襲うのでよく聞き取れん。
「婆さん、何か来たぜ。」
という声の下から
「旦那様、何か参りました。」
と答える。
与と婆さんは同時に表口へ出て雨戸を開ける。
巡査が赤い火を持って立っている。
「今しがた何かありはしませんか。」