寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。 このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
さて、今日は夏目漱石さんの「こころ」の上中下のうち下を読んでいこうと思います。
続きものですね。まだ番組のフォローをされていないという方、ぜひフォローをよろしくお願いします。
それから、お日にりを投げていただけるととても嬉しいです。 概要欄のリンクよりどうぞご検討のほどよろしくお願いします。
この下が一番長いらしいので、 とっとといきますか。
3時間コースを想定しているんですけどね。 鎌倉で知り合った先生からお仕事のアッセンをいただけるかと思って届いた分厚い書類はどうやら遺書だったというところから始まりますね。
やってみますか。 どうかお付き合いください。
それでは参ります。
こころ 下
先生と遺書 1
私はこの夏あなたから2、3の手紙を受け取りました。 東京で相当の地位を得たいからよろしく頼むと書いてあったのは確か2度目に手に入ったものと記憶しています。
私はそれを読んだとき何とかしたいと思ったのです。 少なくとも返事をあげなければ済まんとは考えたのです。
しかし自白すると、私はあなたの依頼に対してまるで努力をしなかったのです。 ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮らしているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。
しかしそれは問題ではありません。 実を言うと、私はこの自分をどうすればいいのかを思い患っていたところなのです。
このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在していこうか、それとも。 その自分の私は、それともという言葉を心の内で繰り返す度にゾッとしました。
駆け足で絶壁の端まで来て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のように。 私は卑怯でした。
そして多くの卑怯な人と同じ程度において反問したのです。 いかんながらその時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったと言っても誇張ではありません。
一歩進めて言うと、あなたの地位、あなたの故郷の死、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。 どうでも構わなかったのです。
私はそれどころの騒ぎではなかったのです。 私は、調査しあなたの手紙をさしたなり、依然として腕組みをして考え込んでいました。
うちに相応の財産がある者が、何を苦しんで卒業するかしないのに、地位、地位と言ってもがき回るのか。 私はむしろ苦々しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一別を与えただけでした。
私は返事をあげなければ済まないあなたに対して、言い訳のためにこんなことを打ち上げるのです。 あなたを怒らすためにわざとブシつけな言葉を漏するのではありません。
私の本意は後をご覧になればよくわかることと信じます。 とにかく私は何とか挨拶すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
その後、私はあなたに電報を打ちました。 ありていに言えば、会うとき私はちょっとあなたに会いたかったのです。
それから、あなたの希望通り、私の過去をあなたのために物語りたかったのです。 あなたは返電をかけて、今東京へは出られないと断ってきましたが、私は失望して長らくあの電報を眺めていました。
あなたも電報だけでは気が済まなかったと見えて、まだ後から長い手紙をよこしてくれたので、あなたの出境できない事情がよくわかりました。
私はあなたを失礼な男だとも何とも思うわけがありません。 あなたの大事なお父さんの病気をそっちのけにして、なんであなたが家を開けられるもんですか。
そのお父さんの生死を忘れているような私の態度こそ不都合です。 私は実際、あの電報を打つときに、あなたのお父さんのことを忘れていたのです。
そのくせあなたが東京にいる頃には、難症だからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。
私はこういう矛盾な人間なのです。あるいは私の脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果、こんな矛盾な人間に私を変化させるのかもしれません。
私はこの点においても十分私の我を認めています。あなたに許してもらわなくてはなりません。
あなたの手紙。あなたから来た最後の手紙。
お読んだとき、私は悪いことをしたと思いました。
それで、その意味の返事を出そうかと考えて筆を取り掛けましたが、一行も書かずにやめました。
どうせ書くなら、この手紙を書いてあげたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時期が少し早すぎたからやめにしたのです。
私が、ただ来るには及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それが駄目です。
2.私はそれからこの手紙を書き出しました。
平成、筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。
私はもう少しであなたに対する私のこの義務を法的するところでした。
しかし、いくら寄せようと思って筆を置いても何にもなりませんでした。
私は一時間経たないうちにまた書きたくなりました。
あなたから見たら、これが義務の遂行を悶ずる私の性格のように思われるかもしれません。
私もそれは否めません。
私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、
義務というほどの義務は、自分の左右前後を見回しても、どの方角にも根を張っておりません。
恋か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。
けれども私は義務に怜嘆だからこうなったのではありません。
むしろ鋭敏すぎて刺激に耐えるだけの勢力がないから、
ご覧のように消極的な月日を送ることになったのです。
だから一旦約束した以上、それを果たさないのは大変嫌な心持ちです。
私はあなたに対してこの嫌な心持ちを避けるためにでも、置いた筆をまた取り上げなければならないのです。
その上、私は書きたいのです。
義務は別として、私の過去を書きたいのです。
私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有と言っても写真使えないでしょう。
それを人に与えないで死ぬのは惜しいとも言われるでしょう。
私にも多少そんな心持ちがあります。
ただし、受け入れることのできない人に与えるくらいなら、
私はむしろ私の経験を、私の命と共に葬った方がいいと思います。
実際、ここにあなたという一人の男が存在していないならば、
私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にならないで済んだでしょう。
私は何千万と言える日本人のうちで、ただあなただけに私の過去を物語りたいのです。
あなたは真面目だから。
あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと言ったから。
私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。
しかし、恐れてはいけません。
暗いものをじっと見つめて、その中からあなたの参考になるものをおつかみなさい。
私の暗いというのは、もとより倫理的に暗いのです。
私は倫理的に生まれた男です。
また、倫理的に育てられた男です。
その倫理上の考えは、今の若い人とだいぶ違ったところがあるかもしれません。
しかし、どう間違っても私自身のものです。
間に合わせにかれた尊良義ではありません。
だから、これから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
あなたは、現代の思想問題についてよく私に議論を向けたことを記憶しているでしょう。
私のそれに対する態度もよくわかっているでしょう。
私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払うる程度にはなれなかった。
あなたの考えには何らの背景もなかったし、
あなたは自分の過去を持つにはあまりに若すぎたからです。
私は時々笑った。
あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。
その一句、あなたは私の過去を絵巻物のようにあなたの前に展開してくれと迫った。
私はその時心の内で初めてあなたを尊敬した。
あなたが無遠慮に私の腹の中からある生きたものを連まようという決心を見せたからです。
私の心臓を断ち割って温かく流れる血潮をすすろうとしたからです。
その時私はまだ生きていた。死ぬのが嫌であった。
それで他実を訳してあなたの要求を知りづけてしまった。
私は今、自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせようとしているのです。
私の鼓動が止まった時、あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です。
3. 私が両親を亡くしたのはまだ私の二十歳にならない自分でした。
いつか妻があなたに話していたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。
しかも妻があなたに不審を起こさせた通り、ほとんど同時と言っていいくらいに前後して死んだのです。
実を言うと、父の病気は恐るべき腸致腐でした。それが傍にいて看護をした母に伝染したのです。
私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。
うちには相当の財産があったので、むしろ応用に育てられました。
私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどっちか片方でいいから生きていてくれたなら、
私はあの応用な気分を今まで持ち続けることができたろうにと思います。
私は二人の後に呆然として取り残されました。
私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした。
父の死ぬ時、母は傍にいることができませんでした。
母の死ぬ時、母には父の死んだことさえまだ知らせていなかったのです。
母はそれを悟っていたか、または旗の者の言うごとく実際父は回復期に向かいつつあるものと信じていたか、それは分かりません。
母はただ叔父に番字を頼んでいました。そこに居合わせた私を指すようにして、「この子をどうぞ何分。」と言いました。
私はその前から両親の許可を得て東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでに言うつもりらしかったのです。
それで東京へとだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後を引き取って、「よろしい。決して心配しないがいい。」と答えました。
母は強い熱に耐え得る体質の女なんでしたろうか。叔父はしっかりしたものだと言って、私に向かって母のことを褒めていました。
しかし、これが果たして母の言う言であったのかどうだか、今考えると分からないのです。
母は、むろん父のかかった病気の恐るべき名前を知っていたのです。そして、自分がそれに伝染していたことも承知していたのです。
けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。
その上、熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなものにせよ一向記憶となって母の頭に影さえ残していないことがしばしばあったのです。
だから、いや、しかしそんなことは問題ではありません。
ただ、こういうふうにものを解きほどいてみたり、またぐるぐる回して眺めたりする癖は、もうその自分から私にはちゃんと備わっていたのです。
それはあなたにも初めからお断りしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に対して関係のないこんな記述がかえって役に立ちはしないかと考えます。
あなたの方でもまあそのつもりで読んでください。
この章文が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来、ますます人の特技心を疑うようになったんだろうと思うんです。
それが私の反問や苦悩に向かって積極的に大きな力を添えているのは確かですから覚えていてください。
話が本筋を外れるとわかりにくくなりますから、また後へ引き返しましょう。
これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他の人と比べたらあるいは多少落ち着いていいやしないかと思っているんです。
世の中が眠ると聞こえ出すあの電車の響きももう途絶えました。
雨戸の外にはいつの間にか哀れな虫の声が梅雨の秋をまたしのびやかに思い出させるような調子でかすかに鳴いています。
何も知らない際は次の部屋で無邪気にいすやすや寝入っています。
私が筆を取ると一字一画が出来上がりつつペンの先でなっています。
私はむしろ落ち着いた気分で紙に向かっているんです。
不慣れのためにペンが横へ反れるかもしれませんが、頭が濃乱して筆がしどろに走るのではないように思います。
4. とにかくたった一人取り残された私は
母の言いつけ通りこの叔父を頼るより他に道はなかったのです。
叔父はまた一切を引き受けてすべての世話をしてくれました。
そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
私は東京へ来て高等学校へ入りました。
その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐でそやでした。
私の知ったものに夜職人と喧嘩をして相手の頭へ下駄で傷を負わせたものがありました。
それが酒を飲んだ挙句のことなので夢中に殴り合いをしている間に学校の聖母をとうとう向こうのものに取られてしまったのです。
ところがその帽子の裏には当日の名前がちゃんとひし形の白いキレの上に書いてあったのです。
それでことが面倒になってその男はもう少しで警察から学校へ紹介されるところでした。
しかし友達がいろいろと骨を負ってついに表沙汰にせずに済むようにしてやりました。
こんな乱暴な行為を上品な今の空気の中に育ったあなた方に聞かせたら定めてバカバカしい感じを起こすでしょう。
私も実際バカバカしく思います。しかし彼らは今の学生にない一種失目な点をその代わりに持っていたのです。
当時私の月々おじからもらっていた金はあなたが今お父さんから送ってもらう威嚇値に比べるとはるかに少ないものでした。
無論価値も違いましょうが。
それでいて私は少しの不足も感じませんでした。
のみならず数ある同級生のうちで経済の点にかけては決して人を羨ましがる哀れな境遇にいたわけではないのです。
今から解雇するとむしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。
というのは私は月々決まった送金のほかに書籍費、私はその自分から書物を買うことが好きでした。
及び臨時の費用をよくおじから請求して随分それを自分の思うように消費することができたのですから。
何も知らない私はおじを信じていたばかりでなく常に感謝の心を持っておじをありがたいもののように尊敬していました。
おじは実業家でした。県会議員にもなりました。
その関係からでもありましょう。政党にも縁起があったように記憶しています。
父の実の弟ですけれどもそういう点で正確から言うと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。
父は先祖から譲られた遺産を大事に守っていく特実一方の男でした。
楽しみには茶だの花だのをやりました。それから詩集などを読むことも好きでした。
書が骨董といったふうのものにも多くの趣味を持っている様子でした。
家は田舎にありましたけれども、にりばかり隔たった市。その市におじが住んでいたのです。
その市から時々道具屋が掛け物だのコールだのを持ってわざわざ父に見せに行きました。
父は一口に言うとまあマンオフミーンズとでも評したらいいのでしょう。
比較的上品な思考を持った田舎紳士だったのです。 だから気象から言うと活発なおじとはよほどの見学がありました。
それでいて2人はまた妙に仲が良かったのです。 父はよくおじを評して自分よりもはるかに働きのある頼もしい人のように言っていました。
自分のように親から財産を譲られたものはどうしても固有の債券が鈍る。
つまり世の中と戦う必要がないからいけないのだとも言っていました。 この言葉は母も聞きました。私も聞きました。
父はむしろ私の心得になるつもりでそれを言ったらしく思われます。 お前もよく覚えているがいいと父はその時わざわざ私の顔を見たのです。
だから私はまだそれを忘れずにいます。 このくらい私の父から信用されたり褒められたりしていたおじを私がどうして疑うことができるでしょう。
私にはただでさえ誇りになるべきおじでした。 父や母が亡くなって万事その人の世話にならなければならない私にはもう単なる誇りではなかったのです。
私の存在に必要な人間になっていたのです。
私が夏休みを利用して初めて国へ帰った時、両親の死に絶えた私の住まいには新しい主人としておじ夫婦が入れ替わって住んでいました。
これは私が東京へ出る前からの約束でした。 たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより他に仕方がなかったのです。
おじはその頃市にあるいろいろな会社に関係していたようです。 業務の都合から言えば今まで居宅に寝起きする方が、にりもへだだった私の家に移るより遥かに便利だと言って笑いました。
これは私の夫婦が亡くなった後、どう屋敷を始末して私が東京へ出るかとの相談の時、おじの口を漏れた言葉であります。
私の家は古い歴史を持っているので少しはその界隈で人に知られていました。
あなたの距離でも同じことだろうと思いますが、田舎では有所のある家を相続人があるのに壊したり売ったりするのは大事件です。
今の私ならそのくらいのことは何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし家はそのままにしておかなければならず、
はなはだ処置に苦しんだのです。 おじは仕方なしに私の空き家へ入ることを承諾してくれました。
しかし、市の方にある住まいもそのままにしておいて、両方の間を行ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困ると言いました。
私にもとより意義のあるようはずはありません。私はどんな条件でも東京へ出られればいいくらいに考えていたのです。
子供らしい私は、ふるさとを離れてもまた心の目で懐かしげにふるさとの家を望んでいました。
もとよりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人の心で望んでいたのです。
休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出てきた私にも力強くあったのです。
私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
私の留守の間、おじはどんなふうに両方の間を行き来していたか知りません。
私の着いたときは、家族の者がみんな一つ家の内に集まっていました。
学校へ出る子供などは平成おそらく市の方にいたのでしょうが、これも休館のために田舎へ遊び半分といった格で引き取られていました。
みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいたときより帰って賑やかで陽気になった家の様子を見て嬉しがりました。
おじは元私の部屋になっていたひと間を占領している一番目の男の子を追い出して、私はそこへ入れました。
座敷の数も少なくないのだから私は他の部屋で構わないと辞退したんですけれども、おじはお前の家だからと言って聞きませんでした。
私は折々亡くなった父や母のことを思い出す他に何の不愉快もなく、そのひと夏をおじの家族と共に過ごしてまた東京へ帰ったのです。
ただひとつその夏の出来事として私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、おじ夫婦が口をそろえて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧めることでした。
それは前後でちょうど三四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。
二度目にははっきり断りました。 三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。
彼らの主意は簡単でした。早く嫁をもらって、ここの家へ帰ってきて亡くなった父の跡を相続しろというだけなのです。
家は休みになって帰りさえすればそれでいいものと私は考えていました。 父の跡を相続する、それには嫁が必要だからもらう、両方とも理屈としては一通り聞こえます。
ことに田舎の事情を知っている私にはよくわかります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったでしょう。
しかし東京へ修行へに出たばかりの私には、それが遠眼鏡でものを見るように遥か先の距離に臨まれるだけでした。
私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。
六。 私は縁談のことをそれなり忘れてしまいました。
私のぐるりを取り巻いている青年の顔を見ると初対峙見た者は一人もいません。みんな自由です。そしてことごとく単独らしく思われたのです。
こういう気楽な人のうちにも裏面に入り込んだらあるいは家庭の事情に余儀なくされてすでに災を迎えていたものがあったかもしれませんが、子供らしい私はそこに気がつきませんでした。
それからそういう特別な境遇に置かれた人の方でもあたりに気兼ねをして、なるべくは諸生に縁の通りそんな内輪の話はしないように謹んでいたのでしょう。
後から考えると私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえわからずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いていきました。
学年の終わりに私はまた氷をからげて親の墓のある田舎へ帰ってきました。
そして去年と同じように父母のいた我が家の中でまたおじ夫婦とその子供の変わらない顔を見ました。
私は再びそこでふるさとの匂いを嗅ぎました。その匂いは私にとって依然として懐かしいものでありました。
一学年の単調を破る変化としてもありがたいものに違いなかったのです。
しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然、結婚問題をおじから花の咲きへ突きつけられました。
おじの言うところは去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。
ただこの前勧められた時には何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心の当人を貫いていたので、私はなお困らせたのです。
その当人というのはおじの娘、すなわち私のいとこにあたる女でした。
その女をもらってくれればお互いのために便宜である。父も残暑中そんなことを話していたとおじが言うんです。
私もそうすれば便宜だとは思いました。 父がおじにそういうふうな話をしたというのもありうべきことと考えました。
しかしそれは私がおじに言われて初めて気がついたので、言われない前から悟っていた事柄ではないのです。
だから私は驚きました。驚いたけれどもおじの希望に無理のないところもそれがためによくわかりました。
私はうかずなのでしょうか。 あるいはそうなのかもしれませんが、おそらくそのいとこに無頓着であったのが主な原因になっているのでしょう。
私は子供のうちから死にいるおじの家へ四重遊びに行きました。 ただ行くばかりでなくよくそこに泊まりました。
そしてこのいとことはその自分から親しかったのです。 あなたもご承知でしょう。兄弟の間に恋を成立した試しのないのを。
私はこの公認された事実を勝手に敷衍しているかもしれないが、 四重接触して親しくなりすぎた男女の間には恋に必要な刺激の起こる精神な感じが失われてしまうように考えています。
香を嗅ぎうるのは香を吐き出した瞬間に限るごとく、 酒を味わうのは酒を飲み始めた刹那にあるごとく、
恋の衝動にもこういう際どい一点が時間の上に存在しているとしか思われないのです。 一度平気でそこを通り抜けたら慣れれば慣れるほど
親しみが増すだけで恋の神経はだんだん麻痺してくるだけです。 私はどう考え直してもこのいとこを妻にする気にはなれませんでした。
叔父は、もし私が主張するなら私の卒業まで結婚を延ばしてもいいと言いました。 けれども禅は急げということわざもあるから、できるなら今のうちに終言の酒漬だけは済ませておきたいとも言いました。
当人に望みのない私にはどっちにしたって同じことです。私はまた断りました。 叔父は嫌な顔をしました。
いとこは泣きました。 私に添われないから悲しいのではありません。
結婚の申し込みを拒絶されたのが女として辛かったのです。 私がいとこを愛していないごとく、いとこも私を愛していないことは私によく知れていました。
私はまた東京へ出ました。 7
私が3度目に帰国したのはそれからまた1年たった夏のとっ月でした。 私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。
私にはふるさとがそれほど懐かしかったからです。 あなたにも覚えがあるでしょう。生まれたところは空気の色が違います。
土地の匂いも格別です。 父や母の記憶も細やかに漂っています。
1年のうちで78の双月をその中にくるまれて、青に入った蛇のようにじっとしているのは、私にとって何よりも温かい良い心持ちだったのです。
単純な私は、いとことの結婚問題についてさほど頭を痛める必要がないと思っていました。 嫌なものは断る。断ってさえしまえば後は何にも残らない。
私はこう信じていたのです。 だからおうちの希望通りに意思を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。
過去1年の間、いまだかつてそんなことにくったくした覚えもなく、相変わらずの元気で国へ帰ったのです。
ところが帰ってみると、おじの態度が違っています。 元のようにいい顔をして私を自分の懐に抱こうとしません。
それでも応用に育った私は、帰って4、5日の間は気がつかずにいました。 ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。
すると妙なのは、おじばかりではないのです。 おばも妙なのです。いとこも妙なのです。
中学校を出て、これから東京の高等商業へ入るつもりだと言って、手紙でその様子を聞き合わせたりした、おじの男の子まで妙なのです。
私の性分として考えずにはいられなくなりました。 どうして私の心持ちがこう変わったのだろう。いや、どうして向こうがこう変わったんだろう。
私は突然死んだ父や母が、鈍い私の目を洗って急に世の中がはっきり見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。
私は父や母がこの世にいなくなった後でも、いたときと同じように私を愛してくれるものとどこか心の奥で信じていたのです。
もっともその頃でも私は決して利に位立ちではありませんでした。 しかし先祖から譲られた迷信の塊も強い力で私の血の中に潜んでいたのです。
今でも潜んでいるでしょう。 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪きました。
半ばは哀悼の意味、半ばは感謝の心持ちで跪いたのです。 そして私の未来の幸福がこの冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で私の
運命を守るべく彼らに祈りました。 あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。
しかし私はそうした人間だったのです。 私の世界は棚心をひるがえすように変わりました。
もっともこれは私にとって初めての経験ではなかったのです。 私が16死の時でしたろう、初めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には一度に
はっと驚きました。 何遍も自分の目を疑って何遍も自分の目をこすりました。
そして心の内でああ美しいと叫びました。 16死といえば男でも女でも俗に言う色気のつく頃です。
色気のついた私は世の中にある美しいものの代表者として初めて女を見ることができたのです。
今までその存在に少しも気のつかなかった異性に対してめくらの目がたちまち空いたのです。
それで私の天地は全く新しいものとなりました。 私がおじの態度に心づいたのも全くこれと同じなんでしょう。
不可然として心づいたのです。何の予感も準備もなく不意に来たのです。 不意に彼と彼の家族が今までとはまるで別物のように私の目に映ったのです。
私は驚きました。 そしてこのままにしておいては自分の行き先がどうなるかわからないという気になりました。
8
私は今までおじ任せにしておいた家の財産について詳しい知識を得なければ死んだ父母に対して済まないという気を起こしたのです。
おじは忙しい体だと受証するごとく毎晩同じところに寝泊りはしていませんでした。
2日家へ帰ると3日は市の方で暮らすといったふうに両方の間を行き来して、その日その日落ち着きのない顔で過ごしていました。
そして忙しいという言葉を口癖のように使いました。 何の疑いも起こらないときは私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。
それから忙しがらなくては統制流でないのだろうと皮肉にも解釈していたのです。 けれども財産のことについて時間のかかる話をしようという目的ができた目で、この忙しがる様子を見ると、
それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなってきたのです。 私は容易におじを連まえる機会を得ませんでした。
私はおじが市の方に目かけを持っているという噂を聞きました。 私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。
目かけを置くぐらいのことはこのおじとして少しも怪しみに至らないのですが、 父の生きているうちにそんな評判を耳に入れた覚えのない私は驚きました。
友達はその他にもいろいろおじについての噂を語って聞かせました。 一時、事業で失敗しかかっていたように人から思われていたのに、この2、3年来また急に盛り返してきたというのもその一つでした。
しかも私の疑惑を強く染め付けたものの一つでした。 私はとうとうおじと談判を開きました。
談判というのは少し不温等かもしれませんが、話の成り行きから言うと、そんな言葉で形容するより他に道のないところへ自然の調子が落ちてきたのです。
おじはどこまでも私を子供扱いにしようとします。 私はまた初めから猜疑の目でおじに対して言います。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
いかんながら私は今その談判の展末を詳しくここに書くことのできないほど先を急いでいます。 実を言うと私はこれより以上にもっと大事なものを控えているのです。
私のペンは早くからそこへたどり着きたがっているのをやったのことで抑えつけているくらいです。 あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は筆を取る術に慣れないばかりでなく、
たっという時間を惜しむという意味からして書きたいことも省かなければなりません。 あなたはまだ覚えているでしょう。
私がいつかあなたに作りつけの悪人が世の中にいるものではないと言ったことを、 多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないと言ったことを、
あの時あなたは私に興奮していると注意してくれました。 そしてどんな場合に善人が悪人に変化するのかと尋ねました。
私がただ一口金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。 私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。
私は今、あなたの前に打ち明けるが、私はあの時このオジのことを考えていたのです。 普通の者が金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足る者が存在しえない例として、
象と共に私はこのオジを考えていたのです。 私の答えは思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたにとって物足りなかったかもしれません。
陳腐だったかもしれません。 けれども私にはあれが生きた答えでした。
現に私は興奮していたではありませんか。 私は冷ややかな頭で新しいことを口にするよりも、
熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。 血の体で体が動くからです。
言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強いものにもっと強く働きかけることができるからです。
9 一口で言うと、オジは私の財産をごまかしたのです。
ことは、私が東京へ出ている3年の間に絶やすく行われたのです。 すべてをオジ任せにして平気でいた私は、世間的に言えば本当のバカでした。
世間的以上の見地から表すれば、あるいは純なるタッと言う男とでも言えましょうか。 私はその時の己を顧みて、なぜもっと人が悪く生まれてこなかったかと思うと、正直すぎた自分が悔しくてたまりません。
しかしまたどうかして、もう一度ああいう生まれたままの姿に立ち返って生きてみたいという心持ちも起こるのです。
記憶してください。 あなたの知っている私は、塵に汚れた跡の私です。
汚くなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私は確かにあなたより先輩でしょう。 もし私がオジの希望通り、オジの娘と結婚したならば、その結果は物質的に私にとって有利なものでしたろうか。
これは考えるまでもないことと思います。 オジは策略で娘を私に押し付けようとしたのです。
好意的に両家の便宜を図るというよりも、ずっと下人は利害心に駆られて結婚問題を私に向けたのです。
私はいとこを愛していないだけで嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。
ごまかされるのはどっちにしても同じでしょうけれども、乗せられ方から言えば、いとこをもらわない方が向こうの思う通りにならないという点から見て、少しは私の画が通ったことになるのですから。
しかしそれは、ほとんど問題とするに足りない些細な事柄です。ことに関係のないあなたに言わせたら、さぞ若気大事に見えるでしょう。
私とオジの間に他の親戚の者が入りました。 その親戚の者も私はまるで信用していませんでした。
信用しないばかりでなくむしろ敵視していました。 私は、オジが私を欺いたと刺さるとともに、他の者も必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。
父があるだけ褒め抜いていたオジですらこうだから、他の者はというのが私のロジックでした。
それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切のものをまとめてくれました。 それは金額に見積もると私の余儀よりはるかに少ないものでした。
私としては黙ってそれを受け取るか、出なければオジを相手取って大焼け沙汰にするか、二つの方法しかなかったのです。
私は行き通りました。また迷いました。 訴訟にすると落着までに長い時間のかかることも恐れました。
私は修行中の体ですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。
私は試案の結果、市におる中学の給油に頼んで私の受け取ったものをすべて金の形に変えようとしました。
給油は良した方が得だと言って忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。 私は長く故郷を離れる決心をその時に起こしたのです。
オジの顔を見舞いと心の内で誓ったのです。 私は国を立つ前にまた父と母の墓へ参りました。
私はそれぎりその墓を見たことがありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。 私の給油は私の言葉通りに取り計らってくれました。
もっともそれは私が東京へ着いてからよほど去った後のことです。 田舎で畑地などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、
私の受け取った金額は直に比べるとよほど少ないものでした。 自白すると、私の財産は自分がおふところにして家を出た若干の交際と、
後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。 親の遺産としてはもとより非常に減っていたにつおりありません。
しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持ちが悪かったのです。 けれども学生として生活するにはそれで十分以上でした。
実を言うと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。 この余裕ある私の学生生活が私を思いもやらない境遇に陥れたのです。
10 金に不自由のない私は想像し、下宿を出て新しく1個を構えてみようかという気になったのです。
しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれるばあさんの必要も起こりますし、 そのばあさんがまた正直でなければ困るし、
家を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、と言ったわけで、ちょくらちょいと実行することはおぼつかなく見えたのです。
ある日、私はまあ家だけでも探してみようかというそぞろう心から、散歩かけたら日本豪台を西へ降りて小石川の底をまっすぐに電通院の方へ上がりました。
電車の通路になってからあそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が法平交渉の土塀で、
右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。 私はその草の中に立って何心なく向こうの崖を眺めました。
今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣が違っていました。
見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも神経が休まります。 私はふとここいらに適当な家はないだろうかと思いました。
それですぐ草原を横切って細い通りを北の方へ進んでいきました。 いまだにいい街になりきれないでガタピシしているあの辺の家のみは、その自分のことですから随分汚らしいものでした。
私は路地を抜けたり横丁を曲がったりぐるぐる歩き回りました。 しまいに駄菓子屋さんの神さんにここいらに小じんまりした貸し屋はないかと尋ねてみました。
神さんはそうですねと言ってしばらく首をかしげていましたが、 貸し屋はちょいとっと全く思い当たらないふうでした。
私は望みのないものと諦めて帰りかけました。 それと神さんがまた、「素人下宿じゃいけませんか?」とお聞くんです。
私はちょっと気が変わりました。 静かな素人屋に一人で下宿しているのは、かえって家を持つ面倒がなくて結構だろうと考え出したんです。
それからその駄菓子屋の店に腰をかけて、神さんに詳しいことを教えてもらいました。
それはある軍人の家族というよりもむしろ遺族の住んでいる家でした。 主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだんだと神さんが言いました。
一年ばかり前までは市街の師官学校のそばとかに住んでいたんだが、馬の屋などがあって屋敷が広すぎるのでそこを売り払ってここへ引っ越してきたけれども無人で寂しくて困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたんだそうです。
私は神さんからその家には未亡人と一人娘と下女より他にいないのだということを確かめました。
私は歓声で至極よかろうと心の内に思いました。けれどもそんな家族のうちに私のようなものが突然行ったところで、
素情の知れない書生さんという名称のもとにすぐ拒絶されはしないかという懸念もありました。 私は予想かとも考えました。
しかし私は書生としてそんなに見苦しいなりはしていませんでした。 それから大学の聖母をかぶっていました。
あなたは笑うでしょう。大学の聖母がどうしたんだと言って。 けれどもその頃の大学生は今と違ってだいぶ世間に信用のあったものです。
私はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出したくらいです。 そして駄菓子屋の神さんに教わった通り紹介も何もなしにその軍人の遺族の家を訪ねました。
私は未亡人に会って来意を告げました。 未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについていろいろ質問しました。
そしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう。 いつでも引っ越してきて差し支えないという挨拶を即座に与えてくれました。
未亡人は正しい人でした。またはっきりした人でした。 私は軍人の細君というものはみんなこんなもんかと思って感覚しました。
感覚もしたが驚きもしました。この気象でどこが寂しいのだろうと疑いもしました。
11 私は早速その家へ引き移りました。
私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。 そこは家中で一番いい部屋でした。
本号編に高等下宿といった風の家がポツポツ建てられた自分のことですから、私は諸生として占領し得る最も良い間の様子を心得ていました。
私の新しく主人となった部屋はそれらよりずっと立派でした。 移った当座は学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。
部屋の広さは8畳でした。床の横に違い棚があって、縁と反対の側には一軒の押入れがついていました。
窓は一つもなかったのですが、その代わりに南向きの縁に明るい陽が抑差しました。
私は移った日にその部屋の床に生けられた花と、その横に立て掛けられた琴を見ました。どっちも私の気に入りませんでした。
私は師や書屋、煎茶をたしなむ父のそばで育ったので、絡めいた趣味を子供のうちから持っていました。
そのためでもありましょうか、こういう生めかしい装飾をいつの間にか軽蔑する癖がついていたのです。
歌わないのではありませんがまるで内緒話でもするように小さな声しか出さないのです。 しかも叱られると全く出なくなるのです。
私は喜んでこの下手な生け花を眺めてはまずそうなことの音に耳を傾けました。
12 私の気分は国を建つときすでに遠征的になっていました。
人は頼りにならないものだという観念がその時骨の中まで染み込んでしまったように思われたのです。
私は私の敵視する王子だの、おばたの、その他の親戚だのをあたかも人類の代表者のごとく考え出しました。
汽車に乗ってさえ隣の者の様子をそれとなく注意し始めました。 たまに向こうから話しかけられてもするとなおのこと警戒を加えたくなりました。
私の心は沈屈でした。鉛を飲んだように重苦しくなることが時々ありました。
それでいて私の神経は今言ったごとくに鋭く尖ってしまったのです。
私が東京へ来て下敷きを出ようとしたのもこれが大きな原因になっているように思われます。
金に不自由がなければこそ一個を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、
もとの通りの私ならばたとえ懐に余裕ができても転んでそんな面倒な真似をしなかったでしょう。
私は小石川へ引き移ってからも当分この緊張した気分に屈辱を与えることができませんでした。
私は自分で自分が恥ずかしいほどキョトキョト周囲を見回していました。
不思議にもよく働くのは頭と目だけで口の方はそれと反対にだんだん動かなくなってきました。
私はうちの者の様子を猫のようによく観察しながら黙って机の前に座っていました。
時々は彼らに対して気の毒だと思うほど私は油断のない注意を彼らの上に注いでいたのです。
俺は物を盗まないきんちゃっきり見たようなもんだ。私はこう考えて自分が嫌になることさえあったのです。
あなたは定めて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢さんをどうして救う余裕を持っているか、
そのお嬢さんの下手な生け花をどうして嬉しがって眺める余裕があるか、同じく下手なその人のことをどうして喜んで聞く余裕があるか。
そう質問された時私はただ両方とも事実であったのだから事実としてあなたに教えてあげるというほか仕方がないのです。
解釈は頭のあるあなたに任せるとして私はただ一言付け足しておきましょう。
私は金に対して人類を疑ったけれども愛に対してはまだ人類を疑わなかったのです。
だから人から見ると変なものでもまた自分で考えてみて矛盾したものでも私の胸の中では平気で両立していたのです。
私は未亡人のことを常に奥さんと言っていましたからこれから未亡人と呼ばずに奥さんと言います。
奥さんは私は静かな人、おとなしい男と表しました。
それから勉強家だとも褒めてくれました。
けれども私の不安な目つきやきょときょとした様子については何事も口へ出しませんでした。
気がつかなかったのか遠慮していたのかどっちだかよくわかりませんが何しろそこにまるで注意を払っていないらしく見えました。
それのみならずある場合に私を応用な方だと言ってさも尊敬したらしい口の聞き方をしたことがあります。
その時正直な私は少し顔を赤らめて向こうの言葉を否定しました。
すると奥さんはあなたは自分で気がつかないからそうおっしゃるんですと真面目に説明してくれました。
奥さんははじめ私のような所生を家へ置くつもりでなかったらしいのです。
どこか役所へ勤める人か何かに座敷を貸す料金で貧乗の者に修繕を頼んでいたらしいのです。
放給が豊かでなくてやむを得ず素人屋に下宿するくらいの人だからという考えがそれで前方から奥さんの頭のどこかに入っていたんでしょう。
奥さんは自分の胸に描いたその想像のお客と私とを比較してこっちの方が応用だと言って褒めるのです。
なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら私は金銭にかけて応用だったかもしれません。
しかしそれは気象の問題ではありませんから私の内生活にとってほとんど関係のないのと一般でした。
奥さんはまだ女だけにそれを私の全体に押し広げて同じ言葉を応用しようと努めるのです。
13 奥さんのこの態度が自然私の気分に影響してきました。
しばやくするうちに私の目はもとほどキョロつかなくなりました。
自分の心が自分の座っているところにちゃんと落ち着いているような気にもなれました。
要するに奥さんの始め、うちのものが悲願だ私の目や疑い深い私の様子に天から取り合わなかったのが私に大きな幸福を与えたんでしょう。
私の神経は相手から照り返してくる反射のないためにだんだん静まりました。
奥さんは心得のある人でしたからわざと私をそんな風に取り扱ってくれたものと思われますし、
また自分で公言するごとく実際私を応用だと観察していたのかもしれません。
私のこせつき方は頭の中の現象でそれほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方でごまかされていたのかも変わりません。
私の心が静まるとともに私はだんだん家族のものと接近してきました。奥さんともお嬢さんとも冗談を言うようになりました。
茶を入れたからといって向こうの部屋へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買ってきて二人をこっちへ招いたりする晩もありました。
私は急に交際の空気が増えたように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰されることも何度となくありました。
不思議にもその妨害が私には一向お邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより暇人でした。
お嬢さんは学校へ行く上に花田のことだのを習っているんだから定めて忙しかろうと思うとそれがまた案外なもので、
いくらでも時間に余裕を持っているように見えました。それで三人は顔さえ見ると一緒に集まって世間話をしながら遊んだのです。
私を呼びに来るのは大抵お嬢さんでした。 お嬢さんは縁側を直角に曲がって私の部屋の前に立つこともありますし、
茶の間を抜けて次の部屋の襖の陰から姿を見せることもありました。 お嬢さんはそこへ来てちょっと止まります。
それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。 私は大抵難しい書物を机の前に開けてそれを見つめていましたから旗で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。
しかし実際を言うとそれほど熱心に書物を研究してはいなかったんです。 ページの上に目をつけていながらお嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなもんでした。
待っていてこないと仕方がないから私の方で立ち上がるのです。 そして向こうの部屋の前へ行って、こっちからご勉強ですかと聞くんです。
お嬢さんの部屋は茶の間と続いた六畳でした。 奥さんはその茶の間にいることもあるし、またお嬢さんの部屋にいることもありました。
つまりこの二つの部屋は仕切りがあってもないと同じことで、親子二人が行ったり来たりしてどっちつかずに占領していたのです。
私が外から声をかけると、「お入りなさい。」と答えるのはきっと奥さんでした。 お嬢さんはそこにいても滅多に返事をしたことがありませんでした。
時たまお嬢さん一人で用があって私の部屋へ入ったついでにそこに座って話し込むような場合もそのうちに出てきました。
こういう時には私の心が妙に不安に侵されてくるのです。 そして、若い女とただ差し向かいで座っているのが不安なのだとばかりは思いませんでした。
私はなんだかそわそわしだすのです。 自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。
しかし相手の方はかえって平気でした。 これがことをさらうのに声さえろくに出せなかったあの女かしらと疑われるくらい恥ずかしがらないのです。
あまり長くなるので茶の間から母に呼ばれてもはいと返事をするだけで容易に腰を上げないことさえありました。
それでお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の目にはよくそれがわかっていました。 よくわかるように振る舞ってみせる痕跡さえ明らかでした。
14
私はお嬢さんの立った後でほっと一息するのです。 それと同時に物足りないようなまたすまないような気持ちになるのです。
私は女らしかったのかもしれません。 今の青年のあなた方から見たら尚そう見えるでしょう。
しかしその頃の私たちは大抵そんなもんだったのです。 奥さんは滅多に外出したことがありませんでした。
たまに家を留守にする時でもお嬢さんと私を二人きりで残していくようなことはなかったのです。
それがまた偶然なのか故意なのか私にはわからないのです。 私の口から言うのは変ですが奥さんの様子をよく観察しているとなんだか自分の娘と
私と接近させたがっているらしくも見えるのです。 それでいてある場合には私に対して案に警戒するところもあるようなんですから
初めてこんな場合に出会った私は時々心持ちを悪くしました。 私は奥さんの態度をどっちかに片付けてもらいたかったのです。
頭の働きから言えばそれが明らかな矛盾に違いなかったのです。 しかしおじに欺かれた記憶のまだ新しい私はもう一歩踏み込んだ疑いを差し
挟まずにはいられませんでした。 私は奥さんのこの態度のどっちかが本当でどっちかが偽りだろうと推定しました。
そうして判断に迷いました。 ただ判断に迷うばかりでなくなんでそんな妙なことをするかその意味が私には飲み込めなかったのです。
訳を考え出そうとしても考え出せない私は罪を女という一時になそりつけて我慢したこともありました。
必強女だからああなのだ。女というものはどうせ愚なものだ。 私の考えは行き詰まればいつでもここへ落ちてきました。
それほど女を見くびっていた私がまたどうしてもお嬢さんを見くびることができなかったのです。 私の理屈はその人の前に全く用をなさないほど働きませんでした。
私はその人に対してほとんど信仰に近い愛を持っていたのです。 私が宗教だけに用いるこの言葉を若い女に応用するのを見てあなたは変に思うかもしれませんが
私は今でも堅く信じているのです。 本当の愛は宗教信とそう違ったものでないということを堅く信じているのです。
私はお嬢さんの顔を見るたびに自分が美しくなるような心持ちがしました。 お嬢さんのことを考えると気高い自分がすぐに自分に乗り移ってくるように思いました。
もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端に神聖な漢字が働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛は確かにその高い極点を貫いたものです。
私はもとより人間として肉を離れることのできないからでした。 けれどもお嬢さんを見る私の目やお嬢さんを考える私の心は全く肉の匂いを帯びていませんでした。
私は母に対して反感を抱くとともに、子に対して恋愛の度を増していったのですから、三人の関係は下宿した初めよりはだんだん複雑になってきました。
もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れてこなかったのです。 そのうち私はあるひょっとした機会から今までお嬢さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。
奥さんの私に対する矛盾した態度がどっちも偽りではないのだろうと考え直してきたのです。 その上、それが互い違いに奥さんの心を支配するのでなくて、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。
つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に片方の態度を忘れるのでも翻すのでもなく、
やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。 ただ、自分が正当と認める程度以上に二人が密着するのを吟味のだと解釈したのです。
お嬢さんに対して肉の方面から近づく念のを刻さなかった私は、その時いらの心配だと思いました。 しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。
15
私は奥さんの態度をいろいろ総合してみて、私がここのうちで十分信用されていることを確かめました。 しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。
人を疑い始めた私の胸にはこの発見が少しキーなくらいに響いたのです。 私は男に比べると女の方がそれだけ直感に富んでいるのだろうと思いました。
同時に女が男のために騙されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。 奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直感を強く働かせていたんだから、今考えるとおかしいのです。
私は人を信じないと心に誓いながら絶対にお嬢さんを信じていたんですから。 それでいて私を信じている奥さんをキーに思ったのですから。
私は距離のことについてあまり多くを語らなかったのです。 ことに今度の事件については何も言わなかったのです。
私はそれを念頭に浮かべてさえすでに一種の不愉快を感じました。 私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと努めました。
ところがそれでは向こうが承知しません。何かにつけて私の国元の事情を知りたがるのです。 私はとうとう何もかも話してしまいました。
私は二度と国へは帰らない。帰っても何にもない。 あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。
お嬢さんは泣きました。 私は話していいことをしたと思いました。私は嬉しかったのです。
私のすべてを聞いた奥さんは果たして自分の直感が適中したと言わないばかりの顔を押し出しました。 それから私を自分の身寄りに当たる若い者か何かを取り扱うように待遇するのです。
私は腹も立ちませんでした。むしろ愉快に感じたぐらいです。 ところがそのうちに私の猜疑心がまた起こってきました。
私が奥さんを疑い始めたのはごく些細なことからでした。 しかしその些細なことを重ねていくうちに疑惑はだんだんと根を張っていきます。
私はどういう表紙か、ふと奥さんが、おじと同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと努めるのではないかと考え出したのです。
それと今まで親切に見えた人が急に狡猾な策略家として私の目に映じてきたのです。 私は苦々しい唇をかみました。
奥さんは最初から、無人で寂しいから客を置いて世話をするのだと公言していました。 私もそれを嘘とは思いませんでした。
婚姻になっていろいろ打ち明け話を聞いた後でも、そこに間違いはなかったように思われます。 しかし一般の経済状態は大して豊かだというほどではありませんでした。
利害問題から考えてみて、私と特殊な関係をつけるのは先方にとって決して損ではなかったのです。 私はまた警戒を加えました。
けれども娘に対して前言ったくらいの強い愛を持っている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。
私は一人で自分を嘲笑しました。バカだなと言って自分を罵ったこともあります。 しかしそれだけの矛盾ならいくらバカでも私は大した苦痛も感じずに済んだのです。
私の反問は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問にあって初めて起こるのです。
二人が私の背後で打ち合わせをした上、バンジをやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくなってたまらなくなるのです。
不愉快なのではありません。絶対絶命のような行き詰まった心持ちになるのです。 それでいて私は一方にお嬢さんを堅く信じて疑わなかったのです。
だから私は信念と迷いの途中に立って少しも動くことができなくなってしまいました。 私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。
私は自由な体でした。たとえ学校を中途でやめようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、誰とも相談する必要のない位置に立っていました。
私は思い切って奥さんにお嬢さんをもらうける話をしてみようかという決心をしたことが、それまでに何度となくありました。
けれどもその度ごとに私は躊躇して、口へはとうとうざさずにしまったのです。断られるのが恐ろしいからではありません。
もし断られたら、私の運命がどう変化するかわかりませんけれども、その代わり今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じてくるんですから、
そのくらいの勇気は出せば出せたのです。しかし私はおびき寄せられるのが嫌でした。
人の手に乗るのは何よりも強腹でした。おじに騙された私は、これから先どんなことがあっても人には騙されないと決心したのです。
17 私が書物ばかり買うのを見て奥さんは少し着物をこしらえろと言いました。
私は実際田舎で追った木綿のものしか持っていなかったのです。 その頃の学生は糸の入った着物を派手に着けませんでした。
私の友達に横浜のアーキンドか何かで、うちはなかなか派手に暮らしているものがありましたが、そこへあるとき羽布帯の道着が配達で届いたことがあります。
するとみんながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがっていろいろ弁解しましたが、せっかくの道着を氷の底へ放り込んで利用しないのです。
それをまた大勢が寄ってたかってわざと着せました。すると運悪くその道着に白身がたかりました。
友達はちょうど幸いとでも思ったのでしょう。氷板の道着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに根津の大きな土部の中へ捨ててしまいました。
そのとき一緒に歩いていた私は橋の上に立って笑いながら友達の所作を眺めていましたが、私の胸のどこにももったいないという気は少しも起こりませんでした。
その頃から見ると私もだいぶ大人になっていました。けれどもまだ自分でよそゆきの着物をこしらえるというほどの分別は出なかったのです。
私は卒業してヒゲを生やす時代が来なければ服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えを持っていたのです。
それで奥さんに書物はいるが着物はいらないと言いました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。
買った本をみんな読むのかと聞くんです。私の買うもののうちには地引きもありますが当然目を通すべきはずでありながらページさえ切ってないものも多少あったんですから
私は返事に急しました。私はどうせいらないものを買うなら書物でも衣服でも同じだということが気がつきました。
そのめ私はいろいろ世話になるという後日のもとにお嬢さんの気に入るような帯か短物を買ってやりたかったのです。
それで万事を奥さんに依頼しました。 奥さんは自分一人で行くとは言いません。私も一緒に来いと命令するんです。
お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。 今と違った空気の中に育てられた私どもは学生の身分としてあまり若い女などと一緒に歩き回る習慣を持っていなかったものです。
その頃の私は今でもまだ習慣の奴隷でしたから多少躊躇しましたが思い切って出かけました。
お嬢さんは体操を着飾っていました。自体が色の白いくせにお城を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。
往来の人がじろじろ見ていくんです。 そしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして私の顔を見るんだから変なもんでした。
三人は日本橋へ行って買いたいものを買いました。 買う間にも色々気が変わるので思ったより暇がかかりました。
奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。 時々短物をお嬢さんの肩から胸へ縦に当てておいて私に2、3歩遠のいて見てくれると言うんです。
私はその度ごとにそれはダメだとかそれはよく似合うとかとにかく1年前の口を聞きました。
こんなことで時間がかかって帰りは夕飯の時刻になりました。 奥さんは私に対するお礼に何かごちそうすると言って木原棚という寄せのある狭い横丁へ私を連れ込みました。
横丁も狭いが飯を食わせるうちも狭いもんでした。 この辺の地理を一向心得ない私は奥さんの知識に驚いたくらいです。
我々は夜に行って家へ帰りました。 そのあくる日は日曜でしたから私は終日部屋の中に閉じこもっていました。
月曜になって学校へ出ると私は朝っぱらから早々給油の一人からからかわれました。
いつ妻を迎えたのかと言ってわざとらしく聞かれるんです。 それから私の妻君は非常に美人だと言って褒めるのです。
私は3人連れで日本橋へ出かけたところをその男にどこかで見られたものと見えます。
18 私は家へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。
奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だろうと言って私の顔を見ました。
私はその時腹の中で男はこんな風にして女から気を引いてみられるものかと思いました。
奥さんの目は十分私にそう思わせるだけの意味を持っていたのです。 私はその時自分の考えている通りを直接に打ち明けてしまえばよかったかもしれません。
しかし私にはもう小義というさっぱりしない塊がこびりついていました。 私は打ち明けようとしてひょいと止まりました。
そして話の角度を小意に少し反らしました。 私は肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。
そしてお嬢さんの結婚について奥さんの意中を探ったのです。 奥さんは兄さんそういう話のないでもないようなことを明らかに私に告げました。
しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いからこちらでは朝ほど休がないのだと説明しました。 奥さんは口は出さないけれどもお嬢さんの養殖にだいぶ重きを置いているらしく見えました。
もしその男が私の生活の航路を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起こらなかったでしょう。
私は手もなく間の通る前に立って、その瞬間の陰に一生を薄暗くされて気がつかずにいたのと同じことです。
自白すると私は自分でその男を家へ引っ張ってきたのです。 無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて奥さんに頼んだのです。
ところが奥さんは寄せと言いました。私には連れてこなければ済まない事情が十分あるのに寄せという奥さんの方には筋の立った理屈はまるでなかったのです。
だから私は私のいいと思うところを強いて断行してしまいました。
19 私はその友達の名をここにケイと呼んでおきます。
私はこのケイと子供の時からの仲良しでした。 子供の時からといえば断らないでもわかっているでしょう。
二人には同居の縁子があったのです。ケイは新州の坊さんの子でした。最も長男ではありません。
次男でした。それである医者のところへ養子にやられたのです。
私の生まれた地方は大変本願寺派の勢力の強いところでしたから、新州の坊さんは他の者に比べると物質的に割が良かったようです。
一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃になったとすると、男家の者が相談してどこか適当なところへ嫁にやってくれます。
無論、費用は坊さんの懐から出るのではありません。 そんなわけで新州寺は大抵裕福でした。
ケイの生まれた家も総王に暮らしていたのです。 しかし次男を東京へ修行に出すほどの容力があったかどうか知りません。
また修行に出られる便宜があるので、養子の相談がまとまったものかどうか、そこも私にはわかりません。
とにかくケイは医者の家へ養子に行ったのです。 それは私たちがまだ中学にいる時のことでした。
私は教場で先生が名簿を呼ぶ時に、ケイの姿勢が急に変わっていたので驚いたのを今でも記憶しています。
ケイの養子先もかなりな財産家でした。 ケイはそこから学資をもらって東京へ出てきたのです。
出てきたのは私と一緒でなかったけれども、東京へ着いてからはすぐ同じ家宿に入りました。
その自分は一つ部屋によく二人も三人も机を並べて寝起きしたもんです。 ケイと私も二人で同じ間にいました。
山で生けぞられた動物が檻の中で抱き合いながら外を睨めるようなもんでしたろう。
二人は東京と東京の人を恐れました。 それでいて、六畳の間の中では天下を閉戒するようなことを言っていたのです。
しかし我々は真面目でした。 我々は実際えいらくなるつもりでいたのです。
ことにケイは強かったのです。 寺に生まれた彼は常に精進という言葉を使いました。
そして彼の行動動作はことごとくこの精進の一語で形容されるように私には見えたのです。
私は心の内で常にケイを異形していました。 ケイは中学にいた頃から宗教とか哲学とかいう難しい問題で私を困らせました。
これは彼の父の館下なのか、または自分の生まれた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのかわかりません。
ともかくも彼は普通の坊さんよりははるかに坊さんらしい性格を持っていたように見受けられます。
元来ケイの養家では彼を一緒にするつもりで東京へ出したのです。
しっかり頑固な彼は一緒にならない決心を持って東京へ出てきたのです。
私は彼に向かって、それでは養父坊を欺くと同じことではないかとなじりました。
大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためならそのくらいのことをしても構わないというのです。
その時彼の用いた道という言葉はおそらく彼にもよくわかっていなかったでしょう。
私は無論、わかったとは言えません。
しかし年の若い私たちには、この漠然とした言葉がたっとく響いたのです。
よしわからないにしても、気高い心持ちに支配されて、そちらの方へ動いていこうとする意気込みに、いやしいところの見えるはずはありません。
私はケイの説に賛成しました。
私の同意がケイにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。
一途な彼は、たとえ私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。
しかし毎日の場合、賛成の声援を得た私に多少の責任ができてくるぐらいのことは、子供ながら私はよく承知していたつもりです。
よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、政治に従って過去を振り返る必要が起こった場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが主導になるくらいな動きで私は賛成したのです。
20. ケイと私は同じ会へ入学しました。
ケイは澄ました顔をして、8日から送ってくれる金で自分の好きな道を歩き出したのです。
知れはしないという安心と、知れたって構うもんかという度胸男が二つながらケイの心にあったものと見るより他仕方がありません。
ケイは私よりも平気でした。
最初の夏休みにケイは国へ帰りませんでした。
細米のある寺の一枚を借りて勉強するのだと言っていました。
私が帰ってきたのは9月上旬でしたが、彼は果たして黄岩の野そばの汚い寺の中に閉じこもっていました。
彼の座敷は本堂のすぐそばの狭い部屋でしたが、彼はそこで自分の思う通りに勉強ができていたのを喜んでいるらしく見えました。
私はその時彼の生活のだんだん坊さんらしくなっていくのを見ためたように思います。
彼は手首に珠をかけていました。
私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと感情する真似をして見せました。
彼はこうして非何面も珠の輪を感情するらしかったのです。
ただしその意味は私には分かりません。
丸い輪になっているものを一粒ずつ数えていけば、どこまで数えていっても終局はありません。
慶はどんなところでどんな心持ちがしてつまぐる手を止めたでしょう。
つまらないことですが、私はよくそれを思うのです。
私はまた彼の部屋に聖書を見ました。
私はそれまでにお経の名をたびたび彼の口から聞いた覚えがありますが、
キリスト教については問われたことも答えられた試しもなかったのですからちょっと驚きました。
私はその訳を尋ねずにはいられませんでした。
慶は理由はないと言いました。
これほど人のありがたがある書物なら読んでみるのが当たり前だろうとも言いました。
その上彼は機会があったら甲羅も読んでみるつもりだと言いました。
彼はモハメットとケンという言葉に大いなる興味を持っているようでした。
2年目の夏に彼は国から採測を受けてようやく帰りました。
帰っても専門のことは何にも言わなかったものと見えます。
うちでもまたそこに気がつかなかったのです。
あなたは学校教育を受けた人だからこういう消息をよく返しているでしょうが、
世間は学生の生活など学校の規則などに関して驚くべく無知なものです。
我々に何でもないことが一向外部へは通じていません。
我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、
校内のことは最大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思いすぎる癖があります。
ケンはその点にかけて私より世間を知っていたのでしょう。
澄ました顔でまた戻ってきました。
国を渡すときは私も一緒でしたから、
汽車へ乗るや否やすぐどうだったとケンに問いました。
ケンはどうでもなかったと答えたのです。
3度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。
私はそのときケンに帰国を勧めましたがケンは応じませんでした。
そう、毎年家へ帰って何をするのだというのです。
我々はまた踏みとどまって勉強するつもりらしかったのです。
私は仕方なしに一人で東京を訪すことにしました。
私の距離で暮らしたその2ヶ月間が私の運命にとっていかに波乱に富んだものかは前に書いた通りですから繰り返しません。
私は不平と憂鬱と孤独の寂しさ等を一つ胸に抱いて、
9月に行ってまたケンに会いました。
すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。
彼は私の知らないうちに8日先へ手紙を出してこっちから自分の偽りを白状してしまったのです。
彼は最初からその覚悟でいたんだそうです。
今さら仕方がないからお前の好きなものをやる他に道はあるまいと向こうに言わせるつもりもあったのでしょうか。
とにかく大学へ入ってまでも養父坊を欺き通すつきはなかったのらしいのです。
また欺くとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかもしれません。
21
ケンの手紙を見た養父は大変怒りました。
親を騙すような不埒なものに学習を送ることはできないという厳しい返事をすぐよこしたのです。
ケンはそれを私に見せました。
ケンはまたそれと前後して実家から受け取った書簡文を見せました。
これにも前に劣らないほど厳しい既席の言葉がありました。
養家先へ対してすまないという義理が加わっているからでもありましょうが、こっちでも一切構わないと書いてありました。
ケンがこの事件のために復席してしまうか、それとも単に妥協の道を講じて依然養家にとどまるか、
そこはこれから起こる問題として差し当たりどうかしなければならないのは月々に必要な学習でした。
私はその点についてケンに何か考えがあるのかと尋ねました。
ケンは夜学校の教師でもするつもりだと答えました。
その自分は今に比べると存外世の中がくつろいでいましたから内職の口はあなたが考えるほど不定でもなかったのです。
私はケンがそれで十分やっていけるだろうと考えました。
しかし私には私の責任があります。
ケンが養家の希望に背いて自分の行きたい道を行こうとしたとき賛成したものは私です。
私はそうかと言って手をこまねいでいるわけに行きません。
私はその場で物質的な補助をすぐ申し出ました。
するとケンは一問にもなくそれを跳ねつけました。
彼の性格から言って自活の方が友達の保護のもとに立つよりはるかに心よく思われたのでしょう。
彼は大学へ入った以上自分一人ぐらい同化ができなければ男でないようなことを言いました。
私は私の責任を全うするためにケンの感情を傷つけるに忍びませんでした。
それで彼の思う通りにさせて私は手を引きました。
ケンは自分の望むような口を程なく探し出しました。
しかし時間を惜しむ彼にとってこの仕事がどのぐらい辛かったかは想像するまでもないことです。
彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩めずに新しい任を背負って申しにしたのです。
私は彼の健康を気遣いました。しかし豪気な彼は笑うだけで少しも私の注意に取り合いませんでした。
同時に彼と洋家の関係はだんだんこんがらがってきました。
時間に余裕のなくなった彼は前のように私と話す機会を奪われたので私はついにその天末を詳しく聞かずにしまいましたが
解決のますます困難になっていくことだけは承知していました。
人が中に入って朝廷を試みたことも知っていました。
その人は手紙でケンに帰国を促したのですがケンは到底ダメだと言って応じませんでした。
この強情なところが。
そのうちに毎日の場合には私がどうでもするから安心するようにという意味を強い言葉で書き表しました。
これはもとより私の一存でした。
ケンの行き先を心配するこの姉に安心を与えようという行為は無論含まれていましたが、
私を軽蔑したとより他に取りようのない彼の実家や業界に対する意地もあったのです。
彼の複跡したのは一年生の時でした。
それから二年生の中頃になるまで約一年半の間、彼は独力で己を支えていったのです。
ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と青春の上に影響をしてきたように見え出しました。
それには無論、業界に出る出ないのうるさい問題も手伝っていたでしょう。
彼はだんだんセンチメンタルになってきたのです。
時によると自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているようなことを言います。
そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。
それから自分の未来に横たわる光明が次第に彼の目を遠のいていくようにも思ってイライラするのです。
学問をやり始めた時には誰しも偉大な抱負を持って新しい旅に登るのが常ですが、
一年とたち、二年と過ぎ、もう卒業も間近になると急に自分の足の運びの呪いの息がついて、
過半はそこで失望するのが当たり前になっていますから、ケインの場合も同じなのですが。
彼の焦り方はまた普通と比べると遥かにはなはだしかったのです。
私はついに彼の気分を落ち着けるのが千一だと考えました。
私は彼に向かって余計な仕事をするのは寄せと言いました。
そうして当分体を楽にして遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。
傲情なケインのことですから容易に私の言うことなどは聞くまいとかねて予期していたのですが、
実際言い出してみると思ったよりも解き落とすのに骨が折れたので弱りました。
ケインはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。
意思の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。
それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。
普通の人から見ればまるで衰強です。
その上窮屈な境遇にいる彼の意思はちっとも強くなっていないのです。
彼はむしろ神経衰弱にかかっているくらいなのです。
私は仕方がないから彼に向かって至極同感であるような様子を見せました。
自分もそういう点に向かって人生を進むつもりだとついには明言しました。
もっともこれは私にとってまんずら空虚な言葉でもなかったのです。
ケインの説を聞いているとだんだんそういうところに吊り込まれてくるくらい彼には力があったのですから。
最後に私はケインと一緒に住んで一緒に工場の道をたどっていきたいと発議しました。
私は彼の工場を折り曲げるために彼の前にひざまずくことをあえてしたのです。
そうしてやっとのことで彼を私の家に連れてきました。
私の座敷には控えの間というような四畳が付属していました。
玄関を上がって私のいるところへ通ろうとするにはぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、
実用の点から見るとすごく不便な部屋でした。
私はここへケインを入れていたのです。
もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて次の間を共有にしておく考えだったのですが、
ケインは狭苦しくっても一人でいる方がいいと言って自分でそっちの方を選んだのです。
前にも話した通り奥さんは私のこの処置に対してはじめは不賛成だったのです。
下宿屋ならば一人より二人が便利だし、
二人より三人が得になるけれども商売でないのだからなるべくならよした方がいいというのです。
私が決して世話のやける人ではないから構うまいというと、
世話はやけないでも気心の知れない人は嫌だと答えるのです。
それでは今厄介になっている私だって同じことではないかとなじると、
私の気心ははじめからよくわかっていると弁解してやまないのです。
私は苦笑しました。
すると奥さんはまた理屈の方向を変えます。
そんな人を連れてくるのは私のために悪いからよせと言い直します。
なぜ私のために悪いかと聞くと今度は向こうで苦笑するのです。
実を言うと私だって強いてKと一緒にいる必要はなかったのです。
けれども月々の費用をお金の形で彼の前に並べてみせると、
彼はきっとそれを受け取るときに躊躇するだろうと思ったのです。
彼はそれほど独立心の強い男でした。
だから私は彼を私の家へ置いて、
二人前の食料を彼の知らないまにそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。
しかし私はKの経済問題について一言も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
私はただKの健康について云々しました。
一人で置くとますます人間が偏屈になるばかりだからと言いました。
それに付け足して、
Kが洋家と折り合いの悪かったことや実家と離れてしまったことや
いろいろ話して聞かせました。
私は溺れかかった人を抱いて自分の熱を向こうに移してやる覚悟で
Kを引き取るのだと告げました。
そのつもりで温かい面倒を見てやってくれと
奥さんにもお嬢さんにも頼みました。
私はここまで来てようよう奥さんを解き捨てたのです。
しかし私から何にも聞かないKはこの天末をまるで知らずにいました。
私もかえってそれを満足に思って
のっそり引き移ってきたKを知らん顔で迎えました。
奥さんとお嬢さんは親切に
彼の荷物を片付ける世話や何かをしてくれました。
すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は
心の内で喜びました。
Kが相変わらずむっちりした様子をしているにもかかわらず。
私がKに向かって新しい住まいの心持ちはどうだと聞いたときに
彼はただ一言悪くないと言っただけでした。
私から言わせれば悪くないところではないのです。
彼の今まで居たところは北向きのしめっぽい匂いのする汚い部屋でした。
食い物も部屋相応に粗末でした。
私の家へ引き移った彼は
幽谷から峡谷に移った思う向きがあるったぐらいです。
それをさほどに思う景色を見せないのは
一つは彼の業場から来ているのですが
一つは彼の主張からも出ているのです。
仏教の教義で養われた彼は
異色住について渡覚の贅沢を言うのを
あたかも不道徳のように考えていました。
なまじ昔の高僧だとか聖縁徒だとかの伝を読んだ彼は
例ともすると精神と肉体等を切り離したがる癖がありました。
肉を弁達すれば霊の功績が増すように感じる場合さえあったのかもしれません。
私はなるべく彼に逆らわない方針を取りました。
私は氷を日向へ出して溶かす工夫をしたのです。
今に溶けて温かい水になれば
自分で自分に気がつく後期が来るに違いないと思ったのです。
私は奥さんからそういうふうに取り扱われた結果
だんだん快活になってきたのです。
それを自覚していたから
同じものを今度は慶の上に応用しようと試みたのです。
慶と私とが性格の上においてだいぶ相違のあることは
長く付き合ってきた私によくわかっていましたけれども
私の神経がこの家庭に入ってから多少過度が取れたごとく
慶の心もここにおけば
いつか沈まることがあるだろうと考えたのです。
慶は私より強い決心を有している男でした。
勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。
その上持って生まれた頭の立ちが私よりもずっと良かったのです。
後では専門が違いましたから何とも言えませんが
同じ級にいる間は中学でも高等学校でも
慶の方が常に定石を占めていました。
私には平成から何をしても
慶に及ばないという自覚があったくらいです。
けれども私が慶で慶を私の家へ引っ張ってきた時には
私の方がよく地理をわきまえていると信じていました。
私に言わせると
彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。
これは特にあなたのために付け足しておきたいのですから聞いてください。
肉体なり精神なりすべて我々の能力は
外部の刺激で発達もするし破壊されもするでしょうが
どっちにしても刺激をだんだんに強くする必要があるのは無論ですから
よく考えないと非常に賢悪な方向へ向いて進んでいきながら
自分はもちろん旗の者も気が付かずに医療恐れが生じてきます。
医者の説明を聞くと
人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。
かゆばかり食っていると
それ以上の固いものをこなす力が
いつの間にかなくなってしまうのだそうです。
だから何でも食う傾向をしておけと医者は言うんです。
けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。
次第に刺激を増すに従って
次第に栄養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。
もし反対に胃の力の方がじりじり弱っていったなら
結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ分かることです。
Kは私より偉大な男でしたけれども
全くここに気が付いていなかったのです。
ただ困難に慣れてしまえば
しまいにその困難は何でもなくなるものだと決めていたらしいのです。
艱苦を繰り返せば繰り返すだけの苦毒で
その艱苦が気にかからなくなる時期に
巡り合えるものと信じ切っていたらしいのです。
私はKを解くときにぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。
しかし言えばきっと反抗されるに決まっていました。
また昔の人の霊などを引き合いに持ってくるに違いないと思いました。
そうなれば私だってその人たちとKと違っている点を
明白に述べなければならなくなります。
それを受けがってくれるようなKならいいのですけれども
彼の立ちとして議論がそこまで行くと容易に後へは帰りません。
なお先へ出ます。
そうして口で叫び出た通りを行為で実現しにかかります。
彼はこうなると恐るべき男でした。偉大でした。
自分で自分を破壊しつつ進みます。
結果から見れば彼はただ事故の成功を打ち砕く意味において
偉大なのに過ぎないのですけれども
それでも決して平凡ではありませんでした。
彼の気象をよく知った私はついに何とも言うことができなかったのです。
その上私から見ると彼は前にも述べた通り
多少神経衰弱にかかっていたように思われたのです。
よし私が彼を解き伏せたところで彼は必ず激するに違いないのです。
私は彼と喧嘩をすることは恐れていませんでしたけれども
私が孤独の勘に耐えなかった自分の境遇を変えりみると
親友の彼を同じ孤独の境遇に置くのは私にとって忍びないことでした。
一歩進んでより孤独な境遇に突き落とすのはなお嫌でした。
それで私は彼が家へ引き移ってからも当分の間は
批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。
ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見ることにしたのです。
私は影へ回って奥さんとお嬢さんになるべく敬意と話をするように頼みました。
私は彼のこれまで通ってきた無言生活が彼にたたっているのだろうと信じたからです。
使わない鉄が腐るように彼の心には錆が出ていたとしか私には思われなかったのです。
奥さんは取り付き派のない人だと言って笑っていました。
お嬢さんはまたわざわざその礼を挙げて私に説明して聞かせるのです。
火鉢に火があるかと尋ねると計はないと答えるそうです。
では持ってこようと言うと要らないと断るそうです。
寒くはないかと聞くと寒いけれども要らないんだと言ったぎり応対をしないのだそうです。
私はただ苦笑しているわけにも行きません。
気の毒だから何とか言ってその場を取り付くろうって置かなければ済まなくなります。
もっともそれは春のことですから強いて火に当たる必要もなかったのですが
これでは取り付き派がないと呼ばれるのも無理はないと思いました。
それで私はなるべく自分が中心になって女二人と計との連絡を図るように努めました。
計と私が話しているところへうちの人を呼ぶとか
またはうちの人と私が一つ部屋に応じあったところへ計を引っ張り出すとか
どっちでもその場合に応じた方法をとって彼らを接近させようとしたのです。
もちろん計はそれをあまり好みませんでした。
ある時はふいと立って部屋の外へ出ました。
またある時はいくら呼んでもなかなか出てきませんでした。
計はあんな無駄話をしてどこが面白いというのです。
私はただ笑っていました。
しかし心の内では計がそのために私を軽蔑していることがよくわかりました。
私はある意味から見て実際彼の軽蔑に値していたかもしれません。
彼の目の付け所は私より遥かに高いところにあったとも言われるでしょう。
私はそれを否見はしません。
しかし目だけ高くて他がつり合わないのは手もなく片輪です。
私は何をおいてもこの際彼を人間らしくするのが千一だと考えたのです。
いくら彼の頭が偉い人のイメージで渦まっていても
彼自身が偉くなってゆかない以上は何の役にも立たないということを発見したのです。
私は彼を人間らしくする第一の手段として
まず異性のそばに彼を座らせる方法を講じたのです。
そうしてそこから出る空気に彼をそらした上
錆びつきかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
この試みは次第に成功しました。
初めのうち融合しにくいように見えたものがだんだん一つにまとまってきだしました。
彼は自分以外に世界のあることを少しずつ悟っていくようでした。
彼はある日私に向かって
女はそう軽蔑すべきものではないというようなことを言いました。
軽は初め女からも私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。
そしてそれが見つからないとすぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。
今までの彼は性によって立場を変えることを知らずに
同じ視線で全ての男女を一様に観察していたのです。
私は彼に
もし我ら二人だけが男同士で永久に話を交換しているならば
二人はただ直線的に先へ伸びてゆくに過ぎないだろうと言いました。
彼は最もだと答えました。
私はその時お嬢さんのことで多少夢中になっている頃でしたから
自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。
しかし裏面の消息は彼には一口も打ち明けませんでした。
今まで書物で城壁を築いて
その中に立てこもっていたような軽の心が
だんだん打ち解けてくるのを見ているのは
私にとって何よりも愉快でした。
私は最初からそうした目的でことをやり出したのですから
自分の成功に伴う気絶を感じずにやれなかったのです。
私は本人に言わない代わりに
奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。
二人とも満足の様子でした。
二十六
Kと私は同じ課におりながら
専攻の学問が違っていましたから
自然出るときや帰るときに遅速がありました。
私の方が早ければ
ただ彼の空室を通り抜けるだけですが
遅いと簡単な挨拶をして
自分の部屋へ入るのを習いにしていました。
Kはいつもの目を書物から離して
襖を開ける私をちょっと見ます。
そしてきっと今帰ったのかと言います。
私は何も答えないでうなずくこともありますし
あるいはただうんと答えていきすぎる場合もあります。
ある日私は神田に用があって
帰りがいつもよりずっと遅れました。
私は急ぎ足に門前まで来て
格子をがらりと開けました。
それと同時に私はお嬢さんの声を聞いたのです。
声は確かにKの部屋から出たと思いました。
玄関からまっすぐに言えば
茶の間お嬢さんの部屋と二つ続いて
それを左へ曲がるとKの部屋
私の部屋という間取りなのですから
どこで誰の声がしたぐらいは
正解になっている私にはよくわかるのです。
私はすぐ格子を閉めました。
するとお嬢さんの声もすぐ止みました。
私は靴を脱いでいるうち
私はその自分からはいからで
手数のかかる編み上げを履いていたのですが
私は小言でその靴ひもを解いているうち
Kの部屋では誰の声もしませんでした。
私は変に思いました。
ことによると私の勘違いかもしれないと考えたのです。
しかし私がいつもの通りKの部屋を抜けようとして
襖を開けるとそこに2人はちゃんと座っていました。
Kは例の通り今帰ったかと言いました。
お嬢さんもお帰りと座ったままで挨拶しました。
私には気のせいかその簡単な挨拶が
少し固いように聞こえました。
どこかで自然を踏み外しているような調子として
私の鼓膜に響いたのです。
私はお嬢さんに奥さんはと尋ねました。
私の質問には何の意味もありませんでした。
家の内が平常より何だかひっそりしていたから
聞いてみただけのことです。
奥さんは果たして留守でした。
下女も奥さんと一緒に出たのでした。
だから家に残っているのはKとお嬢さんだけだったのです。
私はちょっと首を傾けました。
二もむれ長い間世話になっていたけれども
奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして
家を開けた試しはまだなかったんですから。
私は何か休養でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。
お嬢さんはただ笑っているのです。
私はこんな時に笑う女が嫌いでした。
若い女に共通な点だと言えばそれまでかもしれませんが、
お嬢さんもくだらないことによく笑いたがる女でした。
しかしお嬢さんは私の顔色を見てすぐ普段の表情に返りました。
休養ではないがちょっと用があって出てたんだと真面目に答えました。
下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。
私は沈黙しました。
私が着物を改めて席に着くか着かないうちに
奥さんも下女も帰ってきました。
やがて晩飯の食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。
下宿した当座は晩時客扱いだったので
食事の度に下女が禅を運んできてくれたのですが
それがいつの間にか崩れて
飯食には向こうへ呼ばれていく習慣になっていたのです。
Kが新しく引き移った時にも
私が主張して彼を私と同じように取り扱わせることに決めました。
その代わり私は薄い板で作った足の畳み込める華奢な食卓を奥さんに寄付しました。
今ではどこの家でも使っているようですが
その頃そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。
私はわざわざお茶の水の家具屋へ行って
私の工夫通りにそれを作り上げさせたのです。
私はその卓上で奥さんから
その日いつもの時刻に魚屋が来なかったので
私たちに壊せるものを買いに町へ行かなければならなかったのだ
という説明を聞かされました。
なるほど客を置いている以上
それももっともなことだと私が考えた時
お嬢様は私の顔を見てまた笑い出しました。
しかし今度は奥さんに叱られてすぐやめました。
27
1週間ばかりして私はまた
Kとお嬢さんが一緒に話している部屋を通り抜けました。
その時お嬢さんは私の顔を見るや否や笑い出しました。
私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったんでしょう。
それをつい黙って自分の言い間まで来てしまったのです。
だからKもいつものように
今帰ったかと声をかけることができなくなりました。
お嬢さんはすぐ障子を開けて茶の前へ入ったようでした。
夕飯の時お嬢さんは私を変な人だと言いました。
私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。
ただ奥さんが睨めるような目をお嬢さんに向けるのに気がついただけでした。
私は食後Kを散歩に連れ出しました。
二人は電図院の裏出から植物園の通りをぐるりと回ってまた富坂の下へ出ました。
散歩としては短い方ではありませんでしたが
その間に話したことは極めて少なかったのです。
性質から言うとKは私よりも無口な男でした。
私も多弁な方ではなかったのです。
しかし私は歩きながらできるだけ話を彼にしかけてみました。
私の問題は主に二人の下宿している家族についてでした。
私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているかを知りたかったのです。
ところが彼は海の者とも山の者とも見分けのつかないような返事ばかりするのです。
しかもその返事は容量を得ないくせに極めて簡単でした。
彼は二人の女に関してよりも先行の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。
もっともそれは二学年目の試験が目の前に迫っている頃でしたから
普通の人間の立場から見て彼の方が学生らしい学生だったんでしょう。
その上彼はシュエーデンボルグがどうだとかこうだとか言って無格な私を驚かせました。
我々が主尾役試験を済ましたとき、
二人とももうあと一年だと言って奥さんは喜んでくれました。
そういう奥さんの唯一の誇りとも見られるお嬢さんの卒業も間もなく来る順になっていたのです。
ケイは私に向かって女というものは何も知らないで学校を出るのだと言いました。
ケイはお嬢さんが学問以外に稽古しているぬいはりだのことだのいけばなだのをまるで眼中に置いていないようでした。
私は彼の迂闊を笑ってやりました。
そうして女の価値はそんなところにあるものではないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。
彼は別段反駁もしませんでした。
その代わりなるほどという様子も見せませんでした。
私にはそこが愉快でした。
彼のフンといったような調子が依然として女を軽蔑しているように見えたからです。
女の代表者として私の知っているお嬢さんを物の数とも思っていないらしかったからです。
今から解雇すると私のケイに対する嫉妬はその時にもう十分きざしていたのです。
私は夏休みにどこかへ行こうかとケイに相談しました。
ケイは行きたくないような口ぶりを見せました。
無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける体ではありませんが私が誘いさえすればまたどこへ行っても差し支えない体だったのです。
私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。
彼は理由も何もないというのです。
うちで書物を読んだほうが自分の勝手だというのです。
私が秘書地へ行って涼しいところで勉強したほうが体のためだと主張すると、
そういうのは私一人行ったらよかろうというのです。
しかし私はケイ一人をここに残していく気になれないのです。
私はただでさえケイとうちのものがだんだん親しくなっていくのを見ているのがあまり良い心持ちではなかったのです。
私が最初希望した通りになるのが何で私の心持ちを悪くするのかと言われればそれまでです。
私は馬鹿に違いないのです。
果てしのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが中へ入りました。
二人はとうとう一緒に某州へ行くことになりました。
28ケイはあまり旅へ出ない男でした。
私にも某州は初めてでした。
二人は何にも知らないで船が一番先へ着いたところから上陸したのです。
確かホタとか言いました。
今ではどんなに変わっているか知れませんがその頃はひどい漁村でした。
第一どこもかしこも生臭いのです。
それから海へ入ると波に押し倒されてすぐ手だの足だのをすりむくのです。
こぼしのような大きな石が打ち寄せる波に揉まれて始終ゴロゴロしているのです。
私はすぐ嫌になりました。
しかしケイはいいとも悪いとも言いません。
少なくとも顔つきだけは平気なものでした。
そのくせ海へ入るたんびにどこかに怪我をしないことはなかったのです。
私はとうとう彼を解き伏せてそこから富浦に行きました。
富浦からまた名古屋に移りました。
すべてこの沿岸はその地面から主に学生が集まるところでしたから
どこでも我々にはちょうど手頃の海水浴場だったのです。
けれど私はよく海岸の岩の上に座って
遠い海の色や近い水の底を眺めました。
岩の上から見下ろす水はまた特別にきれいなものでした。
赤い色だの藍の色だの
普通市場に登らないような色をした小魚が
透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。
私はそこに座ってよく書物を広げました。
慶は何もせずに黙っている方が多かったのです。
私にはそれが感慨にふきゃっているのか
景色に見とれているのか
もしくは好きな想像を描いているのか全く分からなかったのです。
私は時々目を開けて
慶に何をしているのだと聞きました。
慶は何もしていないと一口答えるだけでした。
私は自分のそばにこうじっと座っているものが慶でなくて
お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思うことがよくありました。
それだけならまだいいのですが
時には慶の方でも私と同じような希望を抱いて
岩の上に座っているのではないかしらと
突然疑いだすのです。
すると落ち着いてそこに書物を広げているのが急に嫌になります。
私は不意に立ち上がります。
そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴ります。
まとまったしなのうたなのを
面白そうに吟ずるような手ぬるいことはできないのです。
ただ野蛮人のごとくに喚くのです。
ある時私は突然彼の襟首を後ろからぐいと掴みました。
こうして海の中へ突き落としたらどうすると言って慶に聞きました。
慶は動きませんでした。
後ろ向きのままちょうどいいやってくれと答えました。
私はすぐ首筋を押さえた手を離しました。
慶の神経衰弱がこの時もうだいぶ良くなっていたらしいのです。
それと反比例に私の方はだんだん過敏になってきていたのです。
私は自分より落ち着いている慶を見て羨ましがりました。
また憎らしがりました。
彼はどうしても私に取り合う景色を見せなかったのです。
私にはそれが一種の自信のごとく映りました。
しかしその自信を彼に認めたところで私は決して満足できなかったのです。
私の疑いはもう一歩前へ出てその性質を諦めたがりました。
彼は学問なり事業なりについてこれから自分の進んでいくべき前途の巧妙を再び取り返して心持ちになったのだろうか。
単にそれだけならば慶と私との利害に何の衝突も起こるわけはないのです。
私はかえって世話のしがいのあったのを嬉しく思うぐらいなものです。
けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば私は決して彼を許すことができなくなるのです。
不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振りに全く気がついていないように見えました。
むろん私もそれが慶の目につくようにわざとらしく振る舞いませんでしたけれども。
慶は元来そういう点にかけると鈍い人なのです。
私には最初から慶なら大丈夫という安心があったので彼をわざわざ家へ連れてきたのです。
29
私は思い切って自分の心を慶に打ち明けようとしました。
もっともこれはその時に始まったわけでもなかったのです。
旅に出ない前から私にはそうした腹ができていたのですけれども、
打ち明ける機会をつらまえることもその機会を作り出すことも私の手際ではうまくいかなかったのです。
今から思うとその頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。
女に関して立ち入った話などをする者は一人もありませんでした。
中には話す種を持たないのもだいぶいたでしょうが、
とどい持っていても黙っているのが普通のようでした。
比較的自由な空気を呼吸している今のあなた方から見たら定めし変に思われるでしょう。
それが道学の予習なのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなたの理解に任せておきます。
慶と私は何でも話し合える仲でした。
たまには愛とか恋とかいう問題も口に昇らないではありませんでしたが、
いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。
それも滅多には話題にならなかったのです。
大抵は書物の話と学問の話と未来の事業と抱負と修養の話ぐらいで持ちきっていたのです。
いくら親しくってもこう堅くなった日には突然調子を崩せるものではありません。
二人はただ堅いなりに親しくなるだけです。
私はお嬢さんのことを慶に打ち明けようと思い立ってから何遍歯がゆい不快に悩まされたか知れません。
私は慶の頭のどこか一箇所を突き破ってそこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。
あなた方から見て正視千万なこともその時の私には実際大困難だったのです。
私は旅先でも家にいた時と同じように卑怯でした。
私は始終機械を捉える気で慶を反殺していながら変に高等的な彼の態度をどうすることもできなかったのです。
私に言わせると彼の心臓の周囲は黒い漆で厚く塗り固められたも同然でした。
私の注ぎかけようとする血潮は一滴もその心臓の中へは入らないでことごとく弾き返されてしまうのです。
ある時はあまり慶の様子が強くて高いので私はかえって安心したこともあります。
そうして自分の疑いを腹の中で公開するとともに同じ腹の中で慶に詫びました。
詫びながら自分が非常に過等な人間のように見えて急に嫌な心持ちになるのです。
しかししばらくすると以前の疑いがまた逆戻りをして強く打ち返してきます。
すべてが疑いから割り出されるのですからすべてが私には不利益でした。
要望も慶の方が女に好かれるように見えました。
性質も私のようにコセコセしていないところが異性には気に入るだろうと思われました。
どこか間が抜けていてそれでどこかにしっかりした男らしいところのある点も私よりは優勢に見えました。
学歴になれば専門こそ違いますが私はもろん慶の敵ではないと自覚していました。
すべて向こうの良いところだけがこう一度に目先へチヤツキ出すとちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
慶は落ち着かない私の様子を見て嫌ならひとまず東京へ帰ってもいいと言ったのですがそう言われると私は急に帰りたくなくなりました。
実は慶を東京へ帰したくなかったのかもしれません。
二人は某州の花を回って向こう側へ出ました。
我々は暑い日にいられながら苦しい思いをして数多の底一里に騙されながらうんうん歩きました。
私にはそうして歩いている意味がまるでわからなかったくらいです。私は冗談半分慶にそう言いました。
すると慶は足があるから歩くのだと答えました。
そして暑くなると海に入って行こうと言ってどこでも構わず潮へ浸かりました。
その後また強い日で照りつけられるのですから体がだるくてグダグダになりました。
こんな風にして歩いていると暑さと疲労とで自然体の調子が狂ってくるものです。
もっとも病気とは違います。
急に人の体の中で自分の霊魂が宿替えをしたような気分になるのです。
私は平然の通り慶と口を聞きながらどこかで平然な心持ちと離れるようになりました。
彼に対する親しみも憎しみも旅中限りという特別な性質を帯びる風になったのです。
つまり二人は暑さのため、潮のため、また歩行のため、在来と異なった新しい関係に入ることができたのでしょう。
その時の我々はあたかも道連れになった行商のようなものでした。
いくら話をしてもいつもと違って頭を使う込み入った問題には触れませんでした。
我々はこの調子でとうとう調子まで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今に忘れることができないのです。
まだ防臭を離れない前、二人は小港というところで体の裏を見物しました。
もう年数もよほど経っていますし、それに私にはそれほど興味のないことですから、半然とは覚えていませんが、
何でもそこは日蓮の生まれた村だとかいう話でした。
日蓮の生まれた日にタイが二尾磯に打ち上げられていたとかいう逸材になっているのです。
それ以来村の漁師がタイを獲ることを遠慮して今に至ったのだから裏にはタイがたくさんいるのです。
我々は小舟を雇ってそのタイをわざわざ見に出かけたのです。
その時、私はただ一途に波を見ていました。
そしてその波の中に動く少し紫がかったタイの色を面白い現象の一つとして明かず眺めました。
しかしケイは私ほどそれに興味を持ち得なかったものと見えます。
彼はタイよりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。
ちょうどそこにタンジョウ寺という寺がありました。
日蓮の生まれた村だからタンジョウ寺とでも名をつけたものでしょう。
立派な柄んでした。
ケイはその寺に行って十字に会ってみると言い出しました。
実を言うと我々はずいぶん変ななりをしていたのです。
ことにケイは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、すげ傘をかってかぶっていました。
着物はもとより双方とも赤じみた上に汗で臭くなっていました。
私は坊さんなどに会うのはよそうと言いました。
ケイは強情だから聞きません。
嫌なら私だけ外に待っていろと言うんです。
私は仕方がないから一緒に玄関にかかりましたが、
心のうちではきっと断られるに違いないと思っていました。
ところが坊さんというものは案外丁寧なもので、
ひどい立派な座敷へ私たちを通してすぐ会ってくれました。
その自分の私はケイとだいぶ考えが違っていましたから、
坊さんとケイの談話にそれほど耳を傾ける気も起こりませんでしたが、
ケイはしきりに日蓮のことを聞いていたようです。
日蓮は総日蓮と言われるくらいで、
総書が大変上手であったと坊さんが言ったとき、
字のまずいケイはなんだくだらないという顔をしたのを私はまだ覚えています。
ケイはそんなことよりももっと深い意味の日蓮が知りたかったんでしょう。
坊さんがその点でケイを満足させたかどうかは疑問ですが、
彼は寺の境内を出るとしきりに私に向かって日蓮のことを云々しだしました。
人間らしいとか人間らしくないとかいう小理屈はほとんど頭の中に残っていませんでした。
Kにも宗教家らしい様子が全く見えなくなりました。
おそらく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題はその時宿っていなかったでしょう。
二人は異人種のような顔をして忙しそうに見える東京をぐるぐる眺めました。
それから両国へ来て暑いのにシャモを食いました。
Kはその勢いで小市川まで歩いて帰ろうと言うんです。
体力から言えばKよりも私の方が強いのですから私はすぐ応じました。
宇宙へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚きました。
二人は、ただ色が黒くなったばかりでなくむやみに歩いていたうちに大変痩せてしまったんです。
奥さんはそれでも丈夫そうになったと言って褒めてくれるんです。
お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいと言ってまた笑い出しました。
旅行前、時々腹の立った私もその時だけは愉快な心持ちがしました。
場合が場合なのと久しぶりに聞いかせでしょう。
それのみならず私はお嬢さんの態度の少し前と変わっているのに気がつきました。
久しぶりで旅から帰った私たちが平成の通りを落ち着くまでには、
晩時について女の手が必要だったんですが、
その世話をしてくれる奥さんはとにかく、
お嬢さんが全て私の方を先にして経営を後回しにするように見えたんです。
それを露骨にやられては私も迷惑したかもしれません。
場合によってはかえって不快の念さえ起こしかれなかったろうと思うんですが、
お嬢さんの所作はその点でハナハナ容量を得ていたから私は嬉しかったのです。
つまりお嬢さんは私だけにわかるように、
持ち前の親切を余分に私の方へ割り当ててくれたんです。
だからケイは別に嫌な顔もせずに平気でいました。
私は心の内で密かに彼に対する害火を装しました。
やがて夏も過ぎて、
9月の中頃から我々はまた学校の課業に出席しなければならないことになりました。
ケイと私とは転伝の時間の都合で出入りの刻厳にまた遅速ができてきました。
私がケイより遅れて帰るときは一周に3度ほどありましたが、
いつ帰ってもお嬢さんの影をケイの部屋に認めることはないようになりました。
ケイは例の目を私の方に向けて今帰ったのかを規則のごとく繰り返しました。
私の映写もほとんど機械のごとく簡単でかつ無意味でした。
確か10月の中頃と思います。
私は寝坊をした結果、
日本服のまま急いで学校へ出たことがあります。
履物も編み上げなどを結んでいる時間が惜しいので、
造流を突っ掛けたなり飛び出したのです。
その日は時間割から言うとケイよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。
私は戻ってくるとそのつもりで玄関の格子をガラリと開けたのです。
すると、いないと思っていたケイの声がひょいと聞こえました。
同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。
私はいつものように手数のかかる靴を履いていないから、
すぐ玄関に上がってしきりの靴間を開けました。
私は例の通り机の前に座っているケイを見ました。
しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。
私はあたかもケイの部屋から逃れ出るように去る
その後ろ姿をちらりと認めただけでした。
私はケイに通して早く帰ったのかと問いました。
ケイは心持ちが悪いから休んだんだと答えました。
私が自分の部屋に入ってそのまま座っていると、
まもなくお嬢さんがお茶を持ってきてくれました。
その時お嬢さんは初めてお帰りと言って私に挨拶をしました。
私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような裁けた男ではありません。
それでいて、腹の中ではなんだかそのことが気にかかるような人間だったのです。
お嬢さんはすぐ座を立って縁側自体に向こうへ行ってしまいました。
しかしケイの部屋の前に立ち止まって、
双子と巫女と内と外とで話をしていました。
それはさっきの続きらしかったのですが、
前を聞かない私にはまるでわかりませんでした。
そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になってきました。
ケイと私が一緒に家にいる時でもよくケイの部屋の縁側へ来て彼の名を呼びました。
そうしてそこへ入ってゆっくりしていました。
むろん郵便を持ってくることもあるし、洗濯物を置いていくこともあるんですから、
そのくらいの交通は同じ家にいる二人の関係上当然と見なければならないんでしょうが、
ぜひお嬢さんを占有したいという強烈な一言に動かされている私には、
どうしてもそれが当然以上に見えたんです。
ある時はお嬢さんがわざわざ私の部屋へ来るのを回避して、
ケイの方ばかりへ行くように思われることさえあったくらいです。
それならなぜケイに家を出てもらわないかとあなたは聞くでしょう。
しかしそうすれば、私がケイを無理に引っ張ってきた主意が立たなくなるだけです。
私にはそれができないのです。
11月の寒い雨の降る日のことでした。
私は街灯を濡らして、例の通りこんにゃく縁間を抜けて畑を坂道を上がって家へ帰りました。
ケイの部屋はがらん堂でしたけれども、火鉢には継ぎ立ての火が温かそうに燃えていました。
私も冷たい手を早く赤い炭の上にかざそうと思って急いで自分の部屋の仕切りを開けました。
すると私の火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで火種さえ尽きているのです。
私は急に不愉快になりました。
その時、私の足音を聞いて出てきたのは奥さんでした。
奥さんは黙って部屋の真ん中に立っている私を見て、
気の毒そうに街灯を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。
それから私が寒いというのを聞いて、すぐ次の間からケイの火鉢を持ってきてくれました。
私がケイはもう帰ったのかと聞きましたら、奥さんは帰ってまた出たと答えました。
その日もケイは私より遅れて帰る時間割だったんですから、私はどうしたわけかと思いました。
奥さんは大型用事でもできたんだろうと言っていました。
私はしばらくそこに座ったまま初見をしました。
家の中がしんと静まって、誰の話し声も聞こえないうちに、
初冬の寒さと和びしさとが私の体に食い込むような感じがしました。
私はすぐ書物を伏せて立ち上がりました。
私はふと賑やかなところへ行きたくなったのです。
雨はやっと上がったようですが、ソロはまだ冷たい鉛のように重く見えたので、
私は用心のため蛇の目を肩に担いで、
法平交渉の裏手の土塀に着いて東へ坂を降りました。
その時分はまだ道路の改正ができない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。
道幅も狭くて、ああまっすぐではなかったのです。
その上、あの谷へ降りると南が高い建物で塞がっているのと、水はけが良くないのとで往来はドロドロでした。
ことに細かい石橋を渡って柳町の通りへ出る間がひどかったのです。
足立でも長靴でも南に歩くわけには行きません。
誰でも道の真ん中に自然と細長く泥がかき分けられたところを御所を大事に辿って行かなければならないのです。
その幅はわずか一二尺しかないのですから、
手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向こうへ越すのと同じことです。
行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。
私はこの細帯の上で、はたりと慶に出会いました。
足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向き合うまで彼の存在にまるで気がつかずにいたのです。
私はふいに自分の前が塞がったので偶然目をあげたとき、初めてそこに立っている慶を認めたのです。
私は慶にどこへ行ったのかと聞きました。
慶はちょっとそこまでと言ったぎりでした。
彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。
慶と私は細い帯の上で体を交わせました。
すると慶のすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。
近眼の私には今までそれがよくわからなかったのですが、
慶をやり越した後でその女の顔を見るとそれがうちのお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。
お嬢さんは心持ち薄赤い顔をして私に挨拶をしました。
その自分の即発は今と違って久しが出ていないのです。
そして頭の真ん中に蛇のようにぐるぐる巻きつけてあったものです。
私はぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが、
次の瞬間にどっちか道を譲らなければならないのだということに気がつきました。
私は思い切ってどろどろの中へ片足を踏み込みました。
そして比較的取りやすいところを開けてお嬢さんを渡してやりました。
それから柳町の通りへ出た私はどこへ行っていいか自分にもわからなくなりました。
どこへ行っても面白くないような心持ちがするのです。
私は羽根の上がるのもかまわずにぬかるびの中をやけにいとしどし歩きました。
それからすぐ家へ帰ってきました。
私は慶に向かってお嬢さんと一緒に出たのかと聞きました。
慶はそうではないと答えました。
政子町で偶然出会ったから連れて帰ってきたんだと説明しました。
私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。
しかし食事のときまたお嬢さんに向かって同じ問いをかけたくなりました。
するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。
そしてどこへ行ったか当ててみろと姉妹に言うのです。
その頃の私はまだ感触持ちでしたから、そう不真面目に若い女から取り扱われると腹が立ちました。
ところがそこに気のつくのは同じ食卓についている者のうちで奥さん一人だったのです。
慶はむしろ平気でした。
お嬢さんの態度になると知ってわざとやるのか知らないで無邪気にやるのか、そこの区別がちょっと反然しない点がありました。
若い女としてお嬢さんは資料に富んだ方でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところもあると思えば思えなくもなかったのです。
そしてその嫌いなところは慶が家へ来てから初めて私の目に突き出したのです。
私はそれを慶に対する私の嫉妬に期してもいいものか、また私に対するお嬢さんの偽行とみなして叱るべきものか、ちょっと分別に迷いました。
私は今でも決してそのときの私の嫉妬心を打ち消す気はありません。
私は度々繰り返した通り愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから、しかも旗のものから見るとほとんど取りに足りないサジにこの感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。
これは余辞ですが、こういう嫉妬は愛の反面じゃないでしょうか。
私は結婚してからこの感情がだんだん薄らいでいくのを自覚しました。
こんなわけで私はどちらの方面へ向かっても進むことができずに立ちつくんでいました。
体の悪いときに昼寝などをすると目だけ覚めて周囲のものがはっきり見えるのにどうしても手足に動かせない場合がありましょう。
私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。
そのうち年が暮れて春になりました。
ある日奥さんがケイにカルタをやるから誰か友達を連れてこないかと言ったことがあります。
それとケイはすぐ友達などは一人もいないと答えたので奥さんは驚いてしまいました。
なるほどケイに友達というほどの友達は一人もなかったのです。
往来で会ったとき挨拶をするくらいのものは多少ありましたがそれらだって決してカルタなどを取る柄ではなかったのです。
奥さんはそれじゃあ私の知ったものでも呼んできたらどうかと言い直しましたが私もあいにくそんな陽気な遊びをする心持ちになれないのでいい加減な生返事をしたなり打ち合っておきました。
ところが晩になってケイと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。
客も誰も来ないのにうちうちの小人数だけで取ろうというカルタですからすこぶる静かなものでした。
その目こういう遊戯をやりつけないケイはまるで懐出をしている人と同様でした。
私はケイに一体百人一種の歌を知っているのかと尋ねました。
ケイはよく知らないと答えました。
私の言葉を聞いたお嬢さんは大型ケイを軽蔑するとでもとったのでしょう。
それから目に立つようにケイの過性を知らしました。
しまいには二人がほとんど組になって私に当たるという有様になってきました。
私は相手次第では喧嘩を始めたかもしれなかったのです。
幸いにケイの態度は少しも最初と変わりませんでした。
彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は無事にその場を切り上げることができました。
それから二、三日経った後のことでしたろう。
奥さんとお嬢さんは朝から市貝屋にいる新類のところへ行くと言って家を出ました。
ケイも私もまだ学校の始まらない頃でしたから、るすい同様後に残っていました。
私は書物を読むのも散歩に出るのも嫌だったので、ただ漠然と火鉢の縁に肘を乗せてじっと顎を支えたなり考えていました。
隣の部屋にいるケイも一向音を立てませんでした。
双方ともいるのだかいないのだかわからないくらい静かでした。
もっともこういうことは二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったんですから、私は別段それを気にも止めませんでした。
十時頃になってケイは不意にしきりの襖を開けて私と顔を見合わせました。
彼は敷居の上に立ったまま私に何を考えていると聞きました。
私はもとより何も考えていなかったのです。
もし考えていたとすれば、いつもの通りお嬢さんが問題だったかもしれません。
そのお嬢さんには無論奥さんもくっついていますが、近頃ではケイ自身が切り離すべからざる人のように私の頭の中をぐるぐる巡ってこの問題を複雑にしているのです。
ケイと顔を見合わせた私は、今までおぼろげに彼を一種の邪魔者のごとく意識していながら明らかにそうと答えるわけにはいかなかったのです。
私は依然として彼の顔を見て黙っていました。
するとケイの方からつかつかと私の座敷へ入ってきて、私の当たっている火鉢の前に座りました。
私はすぐ両肘を火鉢の縁から取り除けて、心持ちそれをケイの方へ押しやるようにしました。
ケイはいつもに似合わない話を始めました。
奥さんとお嬢さんは一概のどこへ行ったんだろうと言うんです。
私は大方おばさんのところだろうと答えました。
ケイはそのおばさんは何だとまた聞きます。
私はやはり軍人の細君だと教えてやりました。
すると女の年始は大抵15日過ぎたのになぜそんなに早く出かけたんだろうと質問するのです。
私はなぜだか知らないと挨拶するより他に仕方がありませんでした。
ケイはなかなか奥さんとお嬢さんの話をやめませんでした。
しまいには私にも答えられないような立ち入ったことまで聞くのです。
私は面倒よりも不思議の勘に打たれました。
以前私の方から二人を問題にして話しかけたときの彼を思い出すと、
私はどうしても彼の調子の変わっているところが気がつかずにはいられないのです。
私はとうとうなぜ今日に限ってそんなことばかり言うのかと彼に尋ねました。
そのとき彼は突然黙りました。
しかし私は彼の結んだ口元の肉が震えるように動いているのを注視しました。
彼は元来無口な男でした。
平成から何か言おうとすると言う前によく口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました。
彼の唇がわざと彼の意思に反抗するようにたやすく開かないところに
彼の言葉の重みもこもっていたのでしょう。
一旦声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。
彼の口元をちょっと眺めたとき、私はまた何か出てくるとすぐ勘づいたのですが、
それが果たして何の準備なのか私の予覚はまるでなかったのです。
だから驚いたのです。
彼の重々しい口から彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられたときの私を想像してみてください。
私は彼の魔法棒のために一度に化石にされたようなものです。
口をもぐもぐさせる働きさえ私にはなくなってしまったのです。
そのときの私は恐ろしさの塊といいましょうか、または苦しさの塊といいましょうか、何しろ一つの塊でした。
石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。
呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに固くなったのです。
幸いなことにその状態は長く続きませんでした。
私は一瞬間の後にまた人間らしい気分を取り戻しました。
そうしてすぐしまったと思いました。
線を越されたなと思いました。
しかしその先をどうしようという分別はまるで起こりません。
恐らく起こるだけの余裕がなかったのでしょう。
私は脇の下から出る気味の悪い汗がシャツに染み通るのをじっと我慢して動かずにいました。
彼はその間いつもの通り重い口を切ってはポツリポツリと自分の心を打ち明けていきます。
私は苦しくてたまりませんでした。
恐らくその苦しさは大きな広告のように私の顔の上にはっきりした字で貼り付けられてあったろうと私は思うんです。
いくらけでもそこに気のつかないはずはないのですが、
彼はまた彼で自分のことに一切を集中しているから私の表情などに注意する暇がなかったんでしょう。
彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。
重くて呪い代わりにとても容易なことでは動かせないという感情を私に与えたのです。
私の心は半分その自白を聞いていながら半分どうしようどうしようという念に絶えずかき乱されていましたから、
細かい点になるとほとんど耳に入らないと同様でしたが、
それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。
そのために私は前へ行った苦痛ばかりでなく時には一種の恐ろしさを感じるようになったのです。
つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念がきざし始めたのです。
Kの話が一通り済んだとき私は何とも言うことができませんでした。
こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち上げずにいる方が得策だろうか、
私はそんな理解を考えて黙っていたのではありません。
ただ何事も言えなかったのです。
また言う気にもならなかったのです。
昼飯のときKと私は向かい合わせに席を占めました。
下所に給食をしてもらって私はいつにないまずい飯を済ませました。
二人は食事中もほとんど口をききませんでした。
奥さんとお嬢さんはいつ帰るのだかわかりませんでした。
三十七
二人は明々の部屋に引き取ったぎり顔を合わせませんでした。
Kの静かなことは朝と同じでした。
私もじっと考え込んでいました。
私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。
しかしそれにはもう時期が遅れてしまったという気も起こりました。
なぜさっきKの言葉を遮ってこっちから逆襲しなかったのか、
そこが非常な手抜かりのように見えてきました。
せめてKの後に続いて、自分は自分の思う通りをその場で話してしまったら
まだ良かったろうとも考えました。
Kの自白に一段落がついた今となって、
こっちからまた同じことを聞き出すのはどうしようにしても変でした。
私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。
私の頭はカイコンに揺られてグラグラしました。
私はKが再びしきりの襖を開けて向こうから突進してくれればいいと思いました。
私に言わせれば戦国はまるで不意打ちにあったも同じでした。
私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。
私は午前に失ったものを今度は取り戻そうと許した心を持っていました。
それで時々目を開けて襖を眺めました。
しかしその襖はいつまで経っても開きません。
そしてKは永久に静かなのです。
その後、私の頭はだんだんこの静かさにかき乱されるようになってきました。
Kは今襖の向こうで何を考えているだろうと思うと、それが気になってたまらないのです。
普段もこんな風にお互いがしきり一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、
私はKが静かであればあるほど彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、
その時の私はよほど調子が狂っていたものとみなければなりません。
それでいて私はこっちから進んで襖を開けることができなかったのです。
一旦言いそびれた私は、また向こうから働きかけられる時期をまずより他に仕方がなかったのです。
しまいに私はじっとしておられなくなりました。
無理にじっとしていればKの部屋に飛び込みたくなるのです。
私は仕方なしに立って縁側へ出ました。
そこから茶の間へ来て、何という目的もなく鉄瓶の湯を湯呑みについで一杯飲みました。
それから玄関へ出ました。
私はわざとKの部屋を回避するようにして、こんな風に自分を往来の真ん中に見い出したのです。
私には無論どこへ行くという当てもありません。ただ、じっとしていられないだけでした。
それでも方角も何もかまわずに正月の街をむやみに歩き回ったのです。
私の頭はいくら歩いてもKのことでいっぱいになっていました。
私もKを古い音好きで歩き回るわけではなかったのです。
むしろ自分から進んで、彼の姿を咀嚼しながらうろついていたのです。
私には第一に彼が返しがたい男のように見えました。
どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、
またどうして打ち明けなければいられないほどに彼の恋が募ってきたのか、
そうして平然の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、
全て私には返しにくい問題でした。
私は彼の強いことを知っていました。また、彼の真面目なことを知っていました。
私はこれから私の取るべき態度を決する前に、
彼について聞かなければならない多くを持っていると信じました。
同時にこれから先、彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。
私は夢中に街の中を歩きながら、自分の部屋にじっと座っている彼の要望を始終、目の前に描き出しました。
しかもいくら私が歩いても、彼を動かすことは到底できないのだという声がどこかで聞こえてくるのです。
つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。
私は永久、彼にたたられたのではなかろうかという記載しました。
私が疲れて家へ帰ったとき、彼の部屋は依然として人気のないように静かでした。
38
私が家へ入ると間もなく車の音が聞こえました。
今のようにゴム輪のない自分でしたから、ガラガラいう嫌な響きがかなりの距離でも耳に立つのです。
車はやがて門前で止まりました。
私が夕飯に呼び出されたのは、それから30分ばかり経った後のことでしたが、
まだ奥さんとお嬢さんの腫れ着が脱ぎ捨てられたまま、別の部屋を乱雑に彩っていました。
二人は遅くなると私たちに済まないというので、飯の支度に間に合うように急いで帰ってきたんだそうです。
しかし奥さんの親切は、ケイと私とにとってほとんど無効も同じことでした。
私は食卓に座りながら、言葉を惜しがる人のように素っ気ない挨拶ばかりしていました。
ケイは私よりもなお加減でした。
たまに親子連れで会出した女二人の気分が、また平成よりは優れて晴れやかだったので、我々の態度はなおのこと目につきます。
奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。
私は少し心持ちが悪いと答えました。
実際私は心持ちが悪かったのです。
すると今度はお嬢さんがケイに同じ問いをかけました。
ケイは私のように心持ちが悪いとは答えません。
ただ口が聞きたくないからだと言いました。
お嬢さんはなぜ口が聞きたくないのかと追求しました。
私はそのときふと重たいまぶたをあげてケイの顔を見ました。
私にはケイが何と答えるだろうかという好奇心があったのです。
ケイの唇は例のように少し震えていました。
それが知らない人から見るとまるで返事に迷っているとしか思われないのです。
お嬢さんは笑いながらまた何か難しいことを考えているんだろうと言いました。
ケイの顔は心持ち薄赤くなりました。
その晩私はいつもより早く床へ入りました。
私が食事のとき気分が悪いと言ったのを気にして
奥さんは十時ごろ蕎麦湯を持ってきてくれました。
しかし私の部屋はもう真っ暗でした。
奥さんはおやおやと言って手切りの襖を細めに開けました。
ランプの光がケイの机から斜めにぼんやりと私の部屋に差し込みました。
ケイはまだ起きていたものと見えます。
奥さんは枕元に座って大方風邪をひいたんだろうから体を温めるがいいと言って
湯飲みを顔のそばへ突きつけるのです。
私はやむを得ずドロドロした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。
私は遅くなるまで暗い中で考えていました。
むろん一つ問題をぐるぐる回転させるだけで他に何の効力もなかったのです。
私は突然ケイが今隣の部屋で何をしているだろうと思い出しました。
私は半ば無意識においと声をかけました。
すると向こうでもおいと返事をしました。ケイもまだ起きていたのです。
私はまだ寝ないのかと襖越しに聞きました。
もう寝るという簡単な挨拶がありました。
何をしているんだと私は重ねて問いました。今度はケイの答えがありません。
その代わり五六分たったと思う頃に押入れをガラリと開けて床を述べる音が手に取るように聞こえました。
私はもう何時かとまたたずねました。
ケイは一時二十分だと答えました。
やがてランプをふっと吹き消す音がして、うち中が真っ暗なうちにしんと静まりました。
しかし私の目はその暗い中でいよいよ冴えてくるばかりです。
私は半ば無意識な状態でおいとケイに声をかけました。
ケイも以前と同じような調子でおいと答えました。
私は今朝彼から聞いたことについてもっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだととうとうこっちから聞き出しました。
私はむろんふつま腰にそんな談話を交換する気はなかったんですが、ケイの返答だけは即座に得られることと考えたのです。
ところがケイはさっきから二度おいと呼ばれて二度おいと答えたような素直な調子で今度は応じません。
そうだなと低い声でしぶっています。私はまたはっと思わせられました。
39
ケイの生返事は翌日になってもその翌日になっても彼の態度によく現れていました。
彼は自分から進んで例の問題に触れようとする景色を決して見せませんでした。
もっとも機会もなかったのです。
奥さんとお嬢さんがそろって一日うちを明けでもしなければ、二人はゆっくり落ち着いてそういうことを話し合うわけにもいかないのですから。
私はそれをよく心得ていました。
心得ていながら変にイライラしだすのです。
その結果、はじめは向こうから来るのを待つつもりで案に用意をしていた私が、おりがあったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。
同時に私は黙ってうちの者の様子を観察してみました。
しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振りにも別に平静と変わった点はありませんでした。
ケイの自白以前と自白以後とで、彼らの挙動にこれという差異が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、
肝心の本人にも、またその監督者たる奥さんにもまだ通じていないのは確かでした。
そう考えたとき私は少し安心しました。
それで無理に機会をこしらえて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が良かろうと思って、
例の問題にはしばらく手をつけずにそっと置くことにしました。
こう言ってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の軽快には、塩の満ち火と同じように色々の高引きがあったのです。
私はケイの動かない様子を見て、それに様々な意味を付け加えました。
奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心が果たしてそこに現れている通りなんだろうかと疑ってもみました。
そして人間の胸の中に装置された複雑な機械が、時計の針のように明瞭に偽りなく番状の数字を差し得るものだろうかと考えました。
要するに私は、同じことをこうもとり、ああもとりへ下挙句、ようやくここに落ち着いたものと思ってください。
さらに難しく言えば、落ち着くなどという言葉はこの際決して使われた義理ではなかったかもしれません。
そのうち、学校がまた始まりました。
私たちは時間の同じ日には連れ立って家を出ます。
都合が良ければ帰る時もやはり一緒に帰りました。
外部から見たケイと私は、何にも前と違ったところがないように親しくなったのです。
けれども腹の中では、でんでんにでんでんのことを勝手に考えていたに違いありません。
ある日私は突然、往来でケイに肉吐くしました。
私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。
私のこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第で決めなければならないと私は思ったのです。
すると彼は、他の人にはまだ誰にも打ち上げていないと明言しました。
私は事情が自分の推察通りだったので内心嬉しがりました。
私はケイの私より横着なのをよく知っていました。
彼の度胸にもかなわないという自覚があったのです。
けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。
学士のことで8日を3年も欺いていた彼ですけれども、
彼の親友は私に対して少しも少なわれていなかったのです。
私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。
だから、いくら疑い深い私でも明確な彼の答えを腹の中で否定する気は起こりようがなかったのです。
私はまた彼に向かって彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。
それが単なる自白に過ぎないのか、
またはその自白に次いで実際の効果をもう収める気なのかと問うたのです。
然るに彼はそこになると何にも答えません。
黙って下を向いて歩き出します。
私は彼に隠し盾をしてくれるな、
全て思った通りを話してくれと頼みました。
彼は何も私に隠す必要はないとはっきり断言しました。
しかし私の知ろうとする点には一言の返事も与えないのです。
私も往来だからわざわざ立ち止まってそこまで突き止めるわけにいきません。
ついそれなりにしてしまいました。
40
ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。
私は広い机の片隅で窓から射す光線を半目に受けながら、
新着の外国雑誌をあちらこちらとひっくり返して見ていました。
私は担任教師から専攻の学科に関して
次の週までにある事項を調べて来いと命ずられたのです。
しかし私に必要な事柄がなかなか見つからないので、
私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。
最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して一心にそれを読み出しました。
すると突然幅の広い机の向こう側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。
私はふと目を開けてそこに立っているKを見ました。
Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして彼の顔を私に近づけました。
ご承知の通り図書館では他の人の邪魔になるような大きな声で話をするわけにゆかないのですから、
Kのこの所作は誰でもやる普通のことなんですが、私はその時に限って一種変な心持ちがしました。
Kは低い声で、「勉強か?」と聞きました。
私はちょっと調べ物があるんだと答えました。
それでもKはまだその顔を私から話しません。
同じ低い調子で一緒に散歩をしないかと言うんです。
私は少し待っていればしてもいいと答えました。
彼は待っていると言ったまますぐ私の前の空席に腰を下ろしました。
すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。
なんだかKの胸に一文字があって、ダンパンでも死に懲られたように思われて仕方がないのです。
私はやむを得ず読みかけた雑誌を伏せて立ち上がろうとしました。
Kは、「落ち着き払ってもう済んだのか?」と聞きます。
私は、「どうでもいいのだ。」と答えて雑誌を返すとともにKと図書館を出ました。
二人は別に行く所もなかったので、辰夫課長から池の畠へ出て上野の公園の中へ入りました。
その時彼は例の事件について突然向こうから口を切りました。
前後の様子を総合して考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引っ張り出したらしいのです。
けれども彼の態度はまだ実際的な方面へ向かってちっとも進んでいませんでした。
彼は私に向かってただ漠然と、「どう思う?」というのです。
どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼をどんな目で私が眺めるかという質問なのです。
一言で言うと、彼は現在の自分について私の批判を求めたいようなのです。
そこに私は彼の平成と異なる点を確かに認めることができたと思いました。
度々繰り返すようですが、彼の転生は人の思惑をはばかるほど弱く出来上がってはいなかったのです。
こうと信じた一人でどんどん進んでいくだけの度胸もあり、勇気もある男なのです。
8日事件でその特色を強く胸の内に掘り付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。
私がケイに向かって、この際何で私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいずにも担い肖然とした口調で、
自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいと言いました。
そして、迷っているから自分で自分が分からなくなってしまったので、私に公平な批評を求める他に仕方がないと言いました。
私はすかさず迷うという意味を聞きただしました。
彼は、進んでいいか、退いていいか、それに迷うのだと説明しました。
私はすぐ一歩先へ出ました。
そうして、退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。
すると彼の言葉がそこで不意に行き詰まりました。
彼はただ苦しいと言っただけでした。
実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。
もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼の都合のいい返事を、
その渇き切った顔の上に自由の如く注いでやったか分かりません。
私はそのくらいの美しい同情を持って生まれてきた人間と自分ながら信じています。
しかし、その時の私は違っていました。
四十一
私はちょうど他流試合でもする人のように敬意を注意して見ていたのです。
私は私の目、私の心、私の体、
すべて私という名のつくものを五分の隙間もないように用意して敬意に向かったのです。
罪のない敬意はあなただらけというよりむしろ開け話と表するのが適当なくらいに無用心でした。
私は彼自身の手から彼の保管している要塞の地図を受け取って、
彼の目の前でゆっくりそれを眺めることができたも同じでした。
敬意が理想と現実の間に方向してフラフラしているのを発見した私は、
ただ一打で彼を打ち倒すことができるだろうという点にばかり目をつけました。
そうしてすぐ彼の拠につけ込んだのです。
私は彼に向かって急に厳粛な改まった態度を示し出しました。
無論策略からですが、その態度に相応するくらい緊張した気分もあったのですから、
自分に滑稽だの周知だのを感じる余裕はありませんでした。
私はまず精神的に好調心のないものは馬鹿だと言い放ちました。
これは二人で某州を旅行している際、敬意が私に向かって使った言葉です。
私は彼の使った通りを彼と同じような口調で再び彼に投げ返したのです。
しかし決して復讐ではありません。
私は復讐以上に残酷な意味を持っていたということを自白します。
私はその一言で敬意の前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです。
敬意は新州寺に生まれた男でした。
しかし彼の傾向は中学時代から決して松下の修士に近いものではなかったのです。
行儀上の区別をよく知らない私がこんなことを言う資格に乏しいのは承知していますが、
私はただ南寮に関係した点についてのみそう認めていたのです。
彼は昔から精進という言葉が好きでした。
私はその言葉の中に金欲という意味もこもっているんだろうと解釈していました。
しかし後で実際を聞いてみると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので私は驚きました。
道のためには全てを犠牲にすべきものだというのが彼の第一心情なんですから、
節欲や金欲はもろん、たとえ欲を離れた恋そのものでも道の妨げになるのです。
敬意が自活生活をしている時点に私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。
その頃からお嬢さんを思っていた私は勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。
私が反対すると彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。
そこには同情よりも分別の方が余計に現れていました。
こういう過去を二人の間に通り抜けてきているのですから、
精神的に好情心のない者はバカだという言葉は敬意にとって痛いに違いなかったのです。
しかし前にも言った通り、私はこの一言で彼がせっかく積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。
かえってそれを今まで通り積み重ねて生かせようとしたのです。
それが道に達しようが天に届こうが私には構いません。
私はただ敬意が急に生活の方向を転換して私の利害と衝突するのを恐れたのです。
要するに私の言葉は単なる利己心の発言でした。
精神的に好情心のない者はバカだ。
私は二度同じ言葉を繰り返しました。
そしてその言葉が敬意の上にどう影響するかを見つめていました。
バカだとやがて敬意が答えました。
僕はバカだ。
敬意はピタリとそこへ立ち止まったまま動きません。
彼は地面の上を見つめています。
私は思わずぎょっとしました。
私には敬意がその刹那に稲織強盗のごとく感じられたのです。
しかしそうにしては彼の声がいかにも力に乏しいということに気がつきました。
私は彼の目遣いを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。
そしてそろそろとまた歩き出しました。
四十二
私は敬意と並んで足を運ばせながら、
彼の口を出る次の言葉を腹の中で案に待ち受けました。
あるいは待ち伏せといった方がまだ適当かもしれません。
その時の私はたとえ敬意を騙し討ちにしても変わらないくらいに思っていたのです。
しかし私にも教育相当の良心はありますから、
もし誰か私のそばへ来て、お前は卑怯だと一言囁いてくれるものがあったなら、
私はその瞬間にはっと我に立ち返ったかもしれません。
もし敬意がその人であったなら、私はおそらく彼の前に席面したでしょう。
ただ敬意は私をたしなめるにはあまりに正直でした。
あまりに単純でした。あまりに人格が善良だったのです。
目のくらんだ私はそこに敬意を払うことを忘れて、かえってそこにつけ込んだのです。
そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。
敬意はしばらくして私の名を呼んで私の方を見ました。
今度は私の方で自然と足を止めました。すると敬意も止まりました。
私はその時やっと敬意の目を真向きに見ることができたのです。
敬意は私より背の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。
私はそうした態度で狼のごとき心の罪のない羊に向けたのです。
もうその話はやめようと彼が言いました。
彼の目にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。
私はちょっと挨拶ができなかったのです。
すると敬意は、「やめてくれ。」と今度は頼むように言い直しました。
私はその時彼に向かって残酷な答えを与えたのです。
狼が隙を見て羊の喉笛へ喰らいつくように。
「やめてくれって僕が言い出したことじゃない。もともと君の方からもおっしゃった話じゃないか。
しかし君がやめたければやめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。
君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ、一体君は君の平成の主張をどうするつもりなのか。
私がこう言った時、背の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるような感じがしました。
彼はいつも話す通りすこぶる強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、
自分の矛盾などをひどく非難される場合には決して平気でいられない立ちだったのです。
私は彼の様子を見てようやく安心しました。
すると彼は突然、「覚悟?」と聞きました。
そうして私がまだ何とも答えない先に、「覚悟、覚悟ならないこともない。」と付け加えました。
彼の調子は独り言のようでした。
また夢の中の言葉のようでした。
二人はそれぎり話を切り上げて小石川の宿の方に足を向けました。
割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬のことですから。
公園の中は淋しいもんでした。
ことに霜に打たれて青みを失った杉の子たちの茶化粧が、
薄暗い空の中に梢を並べてそびえているのを振り返ってみたときは、
寒さが背中へかじりついたような心持ちがしました。
我々は夕暮れの本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、
また向こうの丘へ登るべく小石川の谷へ降りたのです。
私はその頃になってようやく街灯の下にタイの温かみを感じ出したぐらいです。
急いだためでもありましょうが、
我々は帰り道にはほとんど口を聞きませんでした。
家へ帰って食卓に向かったとき、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。
私は慶に誘われて上野へ行ったと答えました。
奥さんはこの寒いのにと言って驚いた様子を見せました。
お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。
私は何もないがただ散歩したのだという返事だけしておきました。
平静から無口な慶はいつもよりなお黙っていました。
奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑ってもろくな挨拶はしませんでした。
それから飯を飲み込むようにかっこんで、私がまだ席を立たないうちに自分の部屋へ引き取りました。
その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない自分でした。
しかし慶が古い自分をさらりと投げ出して一位に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。
彼には投げ出すことのできないほどたっとい覚悟があったからです。
彼はそのために今日まで生きてきたと言ってもいいくらいなのです。
だから慶が一直線に愛の目的物に向かって猛進しないと言って決してその愛の生ぬるいことを証拠立てるわけにはいきません。
いくら熾烈な感情が燃えていても彼はむやみに動けないのです。
前後を忘れるほどの衝動が起こる機会を彼に与えない以上、
慶はどうしてもちょっと踏みとどまって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。
そうすると過去が指し示す道を今まで通り歩かなければならなくなるのです。
その上彼には現代人の持たない強情と我慢がありました。
私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。
上野から帰った晩は私にとって比較的安静なようでした。
私は慶が部屋を引き上げた後を追いかけて彼の机のそばに座り込みました。
そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。
彼は迷惑そうでした。
私の目には勝利の色が多少輝いていたでしょう。
私の声には確かに得意の響きがあったのです。
私はしばらく慶と一つ火鉢に手をかざした後、自分の部屋に帰りました。
他のことにかけては何をしても彼には及ばなかった私も、
その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対して持っていたのです。
私は程なく穏やかな眠りに落ちました。
しかし突然私の名を呼ぶ声で目を覚ました。
見ると間の襖が二尺ばかり空いてそこに慶の黒い影が立っています。
そして彼の部屋にはよりの通りまだ明かりがついているのです。
急に世界の変わった私は少しの間口を聞くこともできずにぼーっとしてその光景を眺めていました。
その時慶はもう寝たのかと聞きました。
慶はいつでも遅くまで起きている男でした。
私は黒い影帽子のような慶に向かって何か用かと聞き返しました。
慶は大した用でもない、ただもう寝たかまだ起きているかと思って便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。
慶はランプの火を背中に受けているので、
彼の顔色や目つきは全く私には分かりませんでした。
けれども彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした。
慶はやがて開けた襖をぴったりと立て切りました。
私の部屋はすぐ元の暗闇に帰りました。
私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた目を閉じました。
私はそれぎり何も知りません。
しかし横浅になって夕べのことを考えてみるとなんだか不思議でした。
私はことによると全てが夢ではないかと思いました。
それで飯を食うとき慶に聞きました。
慶は確かに襖を開けて私の名を呼んだと言います。
なぜそんなことをしたのかと尋ねると別にはっきりした返事もしません。
調子の抜けた頃になって近頃は熟睡ができるのかとかえって向こうから私に問うのです。
私はなんだか変に感じました。
その日、ちょうど同じ時間に講義が始まる時間割になっていたので、
二人はやがて一緒に家を出ました。
今朝から昨夕のことが気にかかっている私は途中でまた慶を追求しました。
けれども慶はやはり私を満足させるような答えをしません。
私はあの次元について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。
慶はそうではないと強い調子で言い切りました。
昨日上野でその話はもうやめようと言ったではないかと注意するごとくにも聞こえました。
慶はそういう点にかけて鋭い自尊心を持った男なのです。
ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた覚悟という言葉を連想しだしました。
すると今までまるで気にならなかったその虹が妙な力で私の頭を抑え始めたのです。
慶の過談にとんの性格は私にもよく知れていました。
彼はこの事件についてのみ優柔なわけも私にはちゃんと飲み込めていたのです。
つまり私は一般を心得た上で例外の場合をしっかり貫いたつもりで得意だったのです。
ところが覚悟という彼の言葉を頭の中で何遍も咀嚼しているうちに私の得意はだんだん色を失って姉妹にはぐらぐら動き始めるようになりました。
私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかもしれないと思い出したのです。
全ての疑惑、反問、横濃を一度に解決する最後の手段を彼は胸の中にたたみ込んでいるのではなかろうかと疑い始めたのです。
そうした新しい光で覚悟の虹を眺め返してみた私ははっと驚きました。
その時の私がもしこの驚きをもってもう一遍彼の口にした覚悟の内容を公平に見合わせたならばまだ良かったかもしれません。
悲しいことに私はめっかちでした。
私はただ軽がお嬢さんに対してすずんでいくという意味にその言葉を解釈しました。
下段に富んだ彼の性格が恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一途に思い込んでしまったのです。
私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。
私はすぐその声に応じて勇気を振り起こしました。
私はケイより先にしかもケイの知らない間にことを運ばなくてはならないと覚悟を決めました。
私は黙って機会を狙っていました。
しかし二日経っても三日経っても私はそれを貫えることができません。
私はケイのいない時またお嬢さんの留守な檻を待って奥さんに談判を開こうと考えたのです。
しかし片方がいなければ片方が邪魔をするといった風の日ばかり続いて、
どうしても今だと思う交通法が出てきてくれないのです。
私はイライラしました。
一週間の後私はとうとう堪えきれなくなって奇病を使いました。
奥さんからもお嬢さんからもケイ自身からも起きろという催促を受けた私は生返事をしただけで
十時頃まで布団をかぶって寝ていました。
私はケイもお嬢さんもいなくなって
家の中がひっそり静まり返った頃を見計らって寝床を出ました。
私の顔を見た奥さんはすぐどこが悪いかと尋ねました。
食べ物は枕元へ運んであるからもっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。
体に異常のない私はとても寝る気にはなれません。
顔を洗っていつもの通り茶の間で飯を食いました。
その時奥さんは長干鉢の向こう側から給食をしてくれたのです。
私は朝飯とも昼飯とも片付かない茶碗を手に持ったまま
どんな風に問題を切り出したもんだろうかとそればかり憎ったくしていたから
外観からは実際気分の良くない病人らしく見えただろうと思います。
私は飯をしまって煙草を吹かし出しました。
私が立たないので奥さんも火鉢の側を離れるわけに行きません。
下嬢を呼んで禅を避けさせた上鉄弁に水をさしたり火鉢の縁を吹いたりして私に調子を合わせています。
私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。
奥さんはいいえと答えましたが今度は向こうでなぜですと聞き返してきました。
私は実は少し話したいことがあるんだと言いました。
奥さんは何ですかと言って私の顔を見ました。
奥さんの調子はまるで私の気分に入り込めないような軽いものでしたから
私は次出すべき文句も少ししぶりました。
私は仕方なしに言葉の上でいい加減にうるつき回った末
しかし近頃何か言いはしなかったかと奥さんに聞いてみました。
奥さんは思いもよらないというふうをして何をとまた反問してきました。
そして私の答える前にあなたには何かおっしゃったんですかと帰って向こうで聞くのです。
Kから聞かされた打ち明け話を奥さんに伝える気のなかった私は
いいえと言ってしまった後ですぐ自分の嘘を心よからず感じました。
仕方がないから別段何も頼まれた覚えはないんだから
それに関する要件ではないのだと言い直しました。
奥さんはそうですかと言って後を待っています。
私はどうしても切り出さなければならなくなりました。
私は突然奥さんお嬢さんを私にくださいと言いました。
奥さんは私の勇気してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが
それでもしばらく返事ができなかったものと見えて黙って私の顔を眺めていました。
一度言い出した私はいくら顔を見られてもそれに頓着などはしていられません。
くださいぜひくださいと言いました。
私の妻としてぜひくださいと言いました。
奥さんは年をとっているだけに私よりもずっと落ち着いていました。
あげてもいいがあんまり急じゃありませんかと聞くのです。
私が急に言いもらいたいんだとすぐ答えたら笑い出しました。
そしてよく考えたんですかと念を負すのです。
私は言い出したのは突然でも考えたのは突然ではないという訳を強い言葉で説明しました。
それからまだ二つ三つの問答がありましたが私はそれを忘れてしまいました。
男のようにハキハキしたところのある奥さんは普通の女と違ってこんな場合には大変心持ちの良く話しをできる人でした。
よこざんす。差し上げましょう。と言いました。
あは。差し上げるなんて威張った口の引ける境遇ではありません。どうぞもらってください。
ご存知の通り父親のない哀れな子です。と後では向こうから頼みました。
話は簡単でかつ明瞭に片付いてしまいました。
最初から始まりまでにおそらく十五分とはかからなかったでしょう。奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。
親類に相談する必要もない。後から断ればそれでたくさんだと言いました。
本人の意向さえ確かめるに及ばないと明言しました。
そんな点になるとか苦悶した私の方がかえって形式に肯定するくらいに思われたのです。
親類はとにかく当人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは
大丈夫です。本人が不承知のところへ私があの子をやるはずがありませんから。と言いました。
自分の部屋へ帰った私はことのあまりにわけもなく進行したのを考えてかえって変な気持ちになりました。
果たして大丈夫なのだろうかという疑念さえどこからか頭の底に這い込んできたくらいです。
けれども大抵の上において私の未来の運命はこれで定められたのだという観念が私の全てを新たにしました。
私は昼頃また茶の前へ出かけて行って奥さんに今朝の話をお嬢さんにいつ通じてくれるつもりかと尋ねました。
奥さんは自分さえ承知していればいつ話しても変わらなかろうというようなことを言うのです。
こうなるとなんだか私よりも相手の方が男みたいようなので私はそれぎり引っ込もうとしました。
すると奥さんが私を引き止めてもし早い方が希望ならば今日でもいい。
稽古から帰ってきたらすぐ話そうというのです。
私はそうしてもらう方が都合がいいと答えてまた自分の部屋に帰りました。
しかし黙って自分の机の前に座って二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみるとなんだか落ち着いていられないような気もするのです。
私はとうとう帽子をかぶって表へ出ました。
そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き合いました。
何も知らないお嬢さんは私を見て驚いたらしかったのです。
私が帽子をとって今お帰りと尋ねると向こうではもう病気は治ったのかと不思議そうに聞くのです。
私はええ治りました治りましたと答えてずんずん水道橋の方へ曲がってしまいました。
46
私は猿岳町から神保町の通りへ出て小川町の方へ曲がりました。
私がこの界隈を歩くのはいつも古本屋を冷やかすのが目的でしたがその日は手連れのした書物などを眺める気がどうしても起こらないのです。
私は歩きながら絶えず家のことを考えていました。
私にはさっきの奥さんの記憶がありました。
それからお嬢さんが家へ帰ってからの想像がありました。
私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。
その前私は時々往来の真ん中でわれ知らずふと立ち止まりました。
そうして今頃は奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている自分だろうなどと考えました。
またある時はもうあの話が済んだ頃だとも思いました。
私はとうとう万世橋を渡って明神の坂を上がって本郷台へ来てそれからまた菊坂を降りてしまいに小石川の谷へ降りたのです。
私の歩いた距離はこの山区にまたがっていびつな円を描いたとも言われるでしょうが私はこの長い散歩の間ほとんど経営のことを考えなかったのです。
今その時の私を解雇してなぜだと自分に聞いてみても一向わかりません。
ただ不思議に思うだけです。
私の心が慶を忘れ得るくらい一方に緊張していたとみればそれまでですが、私の両親がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。
慶に対する私の両親が復活したのは私が家の格子を開けて玄関から雑誌家へ通う時、すなわち例のごとく彼の部屋を抜けようとした瞬間でした。
彼はいつもの通り机に向かって書献をしていました。
彼はいつもの通り書物から目を離して私を見ました。
しかし彼はいつもの通り今帰ったのかとは言いませんでした。
彼は病気はもういいのか?
医者へでも行ったのか?と聞きました。
私はその刹那に彼の前に手をついて謝りたくなったのです。
しかも私の受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。
もし慶と私がたった二人、荒野の真ん中にでも立っていたならば、私はきっと両親の命令に従ってその場で彼に謝罪したろうと思います。
しかし奥には人がいます。
私の自然はすぐそこで食い止められてしまったのです。
そして悲しいことに永久に復活しなかったのです。
夕飯の時、慶と私はまた顔を合わせました。
何も知らない慶はただ沈んでいただけで、少しも疑い深い目を私に向けません。
何も知らない奥さんはいつもより嬉しそうでした。
私だけが全てを知っていたのです。
私は鉛のような飯を食いました。
その時、お嬢さんはいつものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。
奥さんが拙速すると、次の部屋で「ただいま。」と答えるだけでした。
それを慶は不思議そうに聞いていました。
しまいにどうしたのかと奥さんに尋ねました。
奥さんは大方決まりが悪いんだろうと言って、ちょっと私の顔を見ました。
慶はなお不思議そうに、何で決まりが悪いのかと追求しにかかりました。
奥さんは微笑しながらまた私の顔を見るのです。
私は食卓に着いた初めから、奥さんの中を突きで事の成り行きをほぼ推察していました。
しかし、慶に説明を与えるために、私のいる前でそれをことごとく話されてはたまらないと考えました。
奥さんはまたそのくらいのことを平気でする女なんですから、私はひやひやしたんです。
幸いに慶はまた元の沈黙に帰りました。
平静より多少機嫌の良かった奥さんも、とうとう私の恐れを抱いている点までは話を進めずにしまいました。
私はほっと一息して部屋へ帰りました。
しかし私がこれから先、慶に対して取る態度はどうしたもんだろうか、私はそれを考えずにいられませんでした。
私はいろいろの弁護を自分の胸でこしらえてみました。
私が進もうか寄せようかと考えて、ともかくも明るい日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に慶は自殺して死んでしまったのです。
私は今でもその光景を思い出すとぞっとします。いつも東枕で寝る私がその晩に限って偶然西枕に床についたのも何かの因縁かもしれません。
私は枕元から吹き込む寒い風で太目を覚ましたのです。見るといつも立て切ってある慶と私の部屋との仕切りの襖間がこの間の晩と同じくらい空いています。けれどもこの間のように慶の黒い姿はそこには立っていません。
私は安寿を受けた人のように床の上に肘をついて起き上がりながらきっと慶の部屋を覗きました。
ランプが暗く灯っているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛け蓋ははね返されたように裾の方に重なり合っているのです。そして慶自身は向こうに突っ伏しているのです。
私は、「おい!」と言って声をかけました。しかし何の答えもありません。
「おい、どうかしたのか?」と私はまた慶を呼びました。それでも慶の体はちっとも動きません。私はすぐ起き上がって敷居際まで行きました。そこから彼の部屋の様子を暗いランプの光で見回してみました。
そのとき私の受けた第一の感じは慶から突然声の自白を聞かされたときのそれとほぼ同じでした。私の目は彼の部屋の中を一目見るや否やあたかもガラスで作った義眼のように動く能力を失いました。
私は棒立ちに立ちすくみました。
それが疾風のごとく私を通過した後で私はまたああしまったと思いました。
もう取り返しがつかないという黒い光が私の未来を貫いて一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。
そうして私はガタガタ震え出したのです。
それでも私はついに私を忘れることができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に目をつけました。
それは予期通り私の名当になっていました。私は夢中で封を切りました。
しかし中には私の予期したようなことは何にも書いてありませんでした。
私は私にとってどんなにつらい文句がその中にかけつられてあるだろうと予期したのです。
そしてもしそれが奥さんやお嬢さんの目に触れたらどんなに軽蔑されるかもしれないという恐怖があったのです。
私はちょっと目を通しただけでまず助かったと思いました。
もとより世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。
手紙の内容は簡単でした。そしてむしろ抽象的でした。
自分は白紙若行で到底行く先の望みがないから自殺するというだけなのです。
それから今まで世話になった例がごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。
世話ついでに死後の片付け方も頼みたいという言葉もありました。
奥さんに迷惑をかけてすまんからよろしくわびをしてくれという句もありました。
国元や私から知らせてもらいたいという依頼もありました。
必要なことはみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。
私は姉妹まで呼んですぐKがわざと回避したんだということに気がつきました。
しかし私の最も痛切に感じたのは最後に墨の余りで書き添えたらしく見える
もっと早く死ぬべきなのになぜ今まで生きていたんだろうという意味の文句でした。
私は震える手で手紙を巻き収めて再び封の中へ入れました。
私はわざとそれをみんなの目につくようにもとの通り机の上に置きました。
そして振り返ってふすまにほとばしっている血潮をはじめてみたのです。
私は突然Kの頭を抱えるように両手で少し持ち上げました。
私はKの死に顔が一目見たかったのです。
しかしうつぶしになっている彼の顔をこうして下から覗き込んだとき
私はすぐその手を離してしまいました。
ゾッとしたばかりではないのです。
彼の頭が非常に重たく感じられたのです。
私は上からは今触った冷たい耳と平静に変わらないゴブ狩りの濃い髪の毛をしばらく眺めていました。
私は少しも泣く気になれませんでした。
私はただ恐ろしかったのです。
そしてその恐ろしさは目の前の光景が観音を襲撃して起こる単調な恐ろしさばかりではありません。
私は、忽然と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。
私は何の分別もなくまた私の部屋に帰りました。
そして8畳の中をぐるぐる回り始めました。
私の頭は無意味でも当分そうして動いていろと私に命令するのです。
私はどうかしなければならないと思いました。
同時にもうどうすることもできないのだと思いました。
座敷の中をぐるぐる回らなければいられなくなったのです。
檻の中へ入れられた熊のような態度で。
私は時々奥へ行って奥さんを起こそうという気になります。
けれども女にこの恐ろしいありさまを見せては悪いという心持ちがすぐ私を抑え切ります。
奥さんはとにかく、お嬢さんを驚かすことはとてもできないという強い意志が私を抑えつけます。
私はまたぐるぐる回り始めるのです。
私はその間に自分の部屋のランプをつけました。
それから時計を折々見ました。
その時の時計ほど拉致の明かない襲い物はありませんでした。
私の起きた時間は正確に分からないのですけれども、もう夜明けに間もなかったことだけは明らかです。
ぐるぐる回りながらその夜明けを待ち焦がれた私は、
永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。
我々は七時前に起きる習慣でした。
学校は八時に始まることが多いので、それでないと授業に間に合わないのです。
下旬はその関係で六時ごろに起きるわけになっていました。
しかしその日、私が下旬を起こしに行ったのはまだ六時前でした。
すると奥さんが今日は日曜だと言って注意してくれました。
奥さんは私の足音で目を覚ましたのです。
私は奥さんに目が覚めているな、ちょっと私の部屋まで来てくれと頼みました。
奥さんは根巻きの上、普段着の羽織を引っ掛けて私の後についてきました。
私は部屋へ入るや否や今まで空いていたしきりの襖をすぐ立て切りました。
そして奥さんに飛んだことができたと小声で告げました。
奥さんは、なんだと聞きました。
私は顎で隣の部屋を指すようにして、
驚いちゃいけませんと言いました。
奥さんは青い顔をしました。
奥さん、ケイは自殺しましたと私がまた言いました。
奥さんはそこに居すくまったように私の顔を見て黙っていました。
その時私は突然奥さんの前へ手をついて頭を裂けました。
すみません、私が悪かったのです。
あなたにもお嬢さんにもすまないことになりましたと謝りました。
私は奥さんと向かい合うまでそんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。
しかし奥さんの顔を見た時不意にわれとも知らずそう言ってしまったのです。
ケイに謝ることのできない私は、こうして奥さんとお嬢さんに言われなければいられなくなったのだと思ってください。
つまり私の自然が平静の私を出し抜いてフラフラと懺悔の口を開かしたのです。
奥さんがそんな深い意味に私の言葉を解釈しなかったのは私にとって幸いでした。
青い顔をしながら、
不良の出来事なら仕方がないじゃありませんか、
と慰めるように言ってくれました。
しかしその顔には驚きと恐れとか掘り付けられたように固く筋肉をつかんでいました。
50
私は奥さんに気の毒でしたけれどもまた立って今閉めたばかりのカラカミを開けました。
その時ケイのランプに油がつきたと見えて部屋の中はほとんど真っ暗でした。
私は引き返して自分のランプを手に持ったまま入り口に立って奥さんをお帰り見ました。
奥さんは私の後ろから隠れるようにして四畳の中を覗き込みました。
しかし入ろうとはしません。
そこはそのままにしておいて雨戸を開けてくれと私に言いました。
それから後の奥さんの態度はさすがに軍人の見防人だけあって容量を得ていました。
私は医者のところへも行きました。また警察へも行きました。
しかしみんな奥さんに命令されていったのです。
奥さんはそうした手続きの済むまで誰もケイの部屋へは入れませんでした。
ケイは小さなナイフで軽動脈を切って一息に死んでしまったのです。
他に傷らしいものは何にもありませんでした。
私が夢のような薄暗い日で見たカラカミの血潮は彼の首筋から一度にほとばしったものと知れました。
私は日中の光で明らかにその跡を再び眺めました。
そして人間の血の勢いというものの激しいのに驚きました。
奥さんと私はできるだけの手際と工夫を用いてケイの部屋を掃除しました。
彼の血潮の大部分は幸い彼の布団に吸収されてしまったので畳はそれほど汚れないで済みましたから後始末はまだ楽でした。
二人は彼の死骸を私の部屋へ入れて普段の通り寝ている体に横にしました。
私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです。
私が帰った時はケイの枕元にもう閃光が立てられていました。
部屋へ入るとすぐ仏臭い煙で鼻を打たれた私はその煙の中に座っている女二人を認めました。
私がお嬢さんの顔を見たのは昨夜来この時が初めてでした。
お嬢さんは泣いていました。奥さんも目を赤くしていました。
事件が起こってからそれまで泣くことを忘れていた私はその時ようやく悲しい気分に誘われることができたのです。
私の胸はその悲しさのためにどのくらいくつろいだか知れません。
苦痛と恐怖でぐいと握りしめられた私の心に一滴の潤いを与えてくれたものはその時の悲しさでした。
私は黙って二人のそばに座っていました。奥さんは私にも閃光をあげてやれと言います。
私は閃光をあげてまた黙って座っていました。
お嬢さんは私には何とも言いません。
たまに奥さんと一口二口言葉を交わすことがありましたがそれは当然の用事についてのみでした。
お嬢さんには経営の整善について語るほどの余裕がまだ出てこなかったのです。
私はそれでも夢のものすごい有様を見せずに済んでまだ良かったと心の内で思いました。
若い美しい人に恐ろしいものを見せるとせっかくの美しさがそのために破壊されてしまいそうで私は怖かったのです。
私の恐ろしさが私の髪の毛の末端まで来た時ですら私はその考えを度外に置いて行動することはできませんでした。
私には綺麗な花を罪もないのに乱れに鞭打つと同じような不快がそのうちにこもっていたのです。
国元からケイの父と兄が出てきた時私はケイの遺骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。
私は彼の生前にゾウシガヤ近辺をよく一緒に散歩したことがあります。ケイにはそこが大変気に入っていたのです。
それで私は冗談半分にそんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。
私も今その約束通りケイをゾウシガヤへ葬ったところでどのくらいの苦毒になるものかとは思いました。
けれども私は私の生きている限りケイの墓の前に跪いて月々私の懺悔をあらたにしたかったのです。
今まで構えつけなかったケイを私が万事世話をしてきたという義理もあったんでしょう。ケイの父も兄も私の言うことを聞いてくれました。
51
ケイの葬式の帰り道に私はその友人の一人からケイがどうして自殺したんだろうという質問を受けました。
時限があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。
奥さんもお嬢さんも国から出てきたケイの父ケイも通知を出した知り合いも彼とは何の縁起もない新聞記者までも必ず同様の質問を私にかけないことはなかったのです。
私の両親はその度にチクチク刺されるように痛みました。
そして私はこの質問の裏に早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。
私の答えは誰に対しても同じでした。
私はただ彼の私宛てで書き残した手紙を繰り返すだけで他に一口も付け加えることはしませんでした。
葬式の帰りに同じ問いをかけて同じ答えを得たケイの友人は懐から一枚の新聞を出して私に見せました。
私は歩きながらその友人によって指し示された歌詞を読みました。
それにはケイが父ケイから感動された結果遠征的な考えを起こして自殺したと書いてあるのです。
私は何にも言わずにその新聞をたたんで友人の手に返しました。
友人はこの他にもケイが気が狂って自殺したと書いた新聞があると言って教えてくれました。
忙しいのでほとんど新聞を読む暇がなかった私はまるでそうした方面の知識を書いていましたが腹の中では始終気にかかっていたところでした。
私は何よりもうちの者の迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。
ことに名前だけにせよお嬢さんが引き合いに出たらたまらないと思っていたのです。
私はその友人に他に何とか書いたのはないかと聞きました。
友人は自分の目についたのはただその二種切りだと答えました。
私が今居る家へ引っ越したのはそれから間もなくでした。
奥さんもお嬢さんも前のところにいるのを嫌がりますし私もそのような記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だったので相談の上移ることに決めたのです。
移って2ヶ月ほどしてから私は無事に大学を卒業しました。
卒業して半年も経たないうちに私はとうとうお嬢さんと結婚しました。
外側から見れば万事が予期通り運んだんですからめでたいと言わなければなりません。
奥さんもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。私も幸福だったのです。
けれども私の幸福には黒い影がついていました。
私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。
結婚した時お嬢さんが、もうお嬢さんではありませんから妻と言います。
妻が何を思い出したのか2人で敬意の墓参りをしようと言い出しました。
私は意味もなくただぎょっとしました。
どうしてそんなことを急に思い立ったのかと聞きました。
妻は2人揃ってお参りをしたら敬意がさぞ喜ぶだろうというのです。
私は何事も知らない妻の顔をしけじけ眺めていましたが、
妻からなぜそんな顔をするのかと問われて初めて気がつきました。
私は妻の望み通り2人連れ立って雑誌が屋へ行きました。
私は新しい敬意の墓へ水をかけて洗ってやりました。
妻はその前線香と花を立てました。
2人は頭を下げて合掌しました。
妻は定めて私と一緒になった天末を述べて敬意に喜んでもらうつもりでしたろう。
私は腹の中でただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。
その時妻は敬意の墓を撫でてみて立派だと評していました。
その墓は大したものではないんですけれども、
私が自分で石屋へ行って見立てたりした因縁があるので妻は特にそう言いたかったんでしょう。
私はその新しい墓と新しい私の妻と、
それから地面の下に埋められた敬意の新しい白骨とを思い比べて
運命の令和を感じずにいられなかったのです。
私はそれ以後、決して妻と一緒に敬意の墓参りをしないことにしました。
私の亡き友に対するこうした感じはいつまでも続きました。
実は私も初めからそれを恐れていたのです。
年来の希望であった結婚すら不安のうちに意識を挙げたといえば言えないこともないでしょう。
しかし自分で自分の先が見えない人間のことですから