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2025-08-21 19:13

157芥川龍之介「大川の水」(朗読)

157芥川龍之介「大川の水」(朗読)

隅田川のおはなし。

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サマリー

芥川龍之介の「大川の水」では、墨田川を背景にして、川を愛する思いが描かれています。水の色や香り、そして水辺の景色を通して、故郷への懐かしさや感情が表現されています。また、この作品では、東京の水の色や匂いを通じて著者の感情が描写され、都市と自然との融合が表現されています。都市生活の中で感じることのできる温かさや独自の美しさも掘り下げられています。

作者の故郷と川の魅力
寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。 このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
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さて今日は、芥川龍之介さんの
大川の水というテキストを読もうと思います。 調べたところ、この大川とは
墨田川のことらしいです。 東京の東側ってことですね。
芥川龍之介。 青丹の地みたいな石碑が両国にあるらしいので、本当東京の東側で生まれ育ったんだな。
育ちはわかんないですけど、生まれたんだなという ことらしいですね。
僕はなかなか新宿を中心に東京の西側に来ているので、東側あんまり行かないんですけど。
ギュッと詰まった町ですが東京は。 意外と東側まで行くの遠いんだよな。電車の乗り継ぎとかって。
意外と意外となんですよ。 やっぱ30分くらいかかるんですよね。東側まで行くのに。
お目当てのラーメン屋さんが東京の東側だと、ちょっとそれなりの覚悟をしていく感じがありますね。
片道1時間弱ぐらいかかるかなみたいな。 そんな感じですが。
今日はその墨田川のお話、大川の水というテキストを読もうと思います。 文字数が
4300文字なので、 そうですね、15分
ぐらいでしょうか。 短いサクッとしたテキストだと思います。
ゆっくり目に読もうかな。
どうかお付き合いください。 それでは参ります。
大川の水への愛
大川の水。 自分は大川端に近い町に生まれた。
家を出て市の若葉に覆われた黒べいの多い横浜の工事を抜けると、すぐあの幅の広い川筋のみ渡される
百本杭の架支へ出るのである。 幼い時から中学を卒業するまで自分はほとんど毎日のようにあの川を見た。
水と船と橋と砂図と、 水の上に生まれて水の上に暮らしている慌ただしい人々の生活等を見た。
真夏の日の昼過ぎ、焼けた砂を踏みながら水泳を習いに行く通りすがりに、 嗅ぐともなく嗅いだ川の水の匂いも、
今では歳とともに親しく思い出されるような気がする。 自分はどうしてこうもあの川を愛するのか。
あのどちらかといえば泥濁りのした大川の生温かい水に限りないゆかしさを感じるのか。 自分ながらも少しくその説明に苦しまずにはいられない。
ただ自分は昔からあの水を見るごとに、なんとなく涙を落としたいような、 言い難い慰安島、関梁島を感じた。
まったく自分の住んでいる世界から遠ざかって、 懐かしい死母と水浴島の国に入るような心持ちがした。
この心持ちのために、この慰安島、関梁島を味わいうるがために、 自分は何よりも大川の水を愛するのである。
銀灰色のもやと、青い油のような川の水と、 吐息のようなおぼつかない汽笛の音と、
石炭線の飛び色の三角穂と、 すべて病みがたい哀愁を呼び起こすこれらの川の眺めは、
いかに自分の幼い心をその岸に立つ溶流の葉のごとくおののかせたことであろう。 この三年間、自分は山の手の郊外に雑木林の陰になっている所在で、
平静な読書山前にふけていたが、それでもなお、月に二、三度は、 あの大川の水を眺めに行くことを忘れなかった。
動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、 静寂な所在の空気が休みなく与える刺激と緊張とに切ないほど慌ただしく、
動いている自分の心も、ちょうど長旅に出た巡礼が、 ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような寂しい自由な懐かしさに溶かしてくれる。
大川の水があって、はじめて自分は再び巡なる本来の感情に生きることができるのである。 自分は幾度となく青い水に臨んだアカシアが、初夏の柔らかい風に吹かれて、
ほろほろと白い花を落とすのを見た。 自分は幾度となく霧の多い十一月の夜に、暗い水の空を寒そうに泣く千鳥の声を聞いた。
自分の身、自分の引くすべてのものは、ことごとく大川に対する自分の愛を新たにせる。 ちょうど夏川の水から生まれる黒トンボの羽のような、
おののきやすい少年の心は、そのたびに新たな驚異の瞳を見晴らずにはいられないのである。 ことに弱みの船の船端に寄って、音もなく流れる黒い川を見つめながら、夜と水との中に漂う死の呼吸を感じた時、
いかに自分は頼りのない寂しさに迫られたことであろう。 大川の流れを見るごとに、自分はあの草院の鐘の音と、
くぐいの声とに暮れてゆくイタリアの水の都。 バルコンに咲くバラもユリも、
水底に沈んだような月の光に青ざめて、黒い棺に似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢のように漕いでゆく。 ベネチアの風物にあふれるばかりの熱情を注いだ断念状の心持ちを、今さらのように
慕わしく思い出さずにはいられないのである。 この大川の水に舞舞いされる沿岸の町々は、みな自分にとって忘れがたい、懐かしい町である。
水の情景と記憶
東橋から川下ならば、駒形、並木、蔵前、大地、柳橋、あるいは太田の薬師前、梅堀、横浜の川岸、
どこでもよい。これらの町々を通る人の耳には、日を受けた土蔵の白壁と白壁との間から、
格子土造りの薄暗い家と家との間から、あるいは銀茶色の芽を吹いた柳とアカシアとの並木の間から、磨いたガラス板のように青く光る大川の水は、その冷ややかな潮の匂いとともに、
昔から南へ流れる懐かしい響きを伝えてくれるだろう。 ああ、その水の声の懐かしさ。
つぶやくようにすねるように舌打つように草の汁を絞った青い水は、日も夜も同じように両岸の石垣を洗ってゆく。
繁女といい成平と言う。 武蔵野の昔は知らず、遠くは多くの江戸城類作者。
近くは川竹木編み王が、戦争時の鐘の音とともに、その殺し葉の朱鎮文具を最も力強く表すために、しわしわその世話物の中に用いたものは、
実にこの大川の淋しい水の響きであった。 潔い精神が身を投げた時にも、
源の城が鳥追い姿のお子様を見染めた時にも、 あるいはまたイカケやマツゴロウがコウモリの飛び交う夏の夕暮れに、天秤を担いながら両国の橋を通った時にも、
大川は今のごとく船宿の桟橋に、岸の青足に、 貯木船の船原にものいうささやきを繰り返していたのである。
ことに、この水の音を懐かしく聞くことのできるのは、私船の中であろう。 自分の記憶に誤りがないならば、
東橋から新大橋までの間に、もとは五つの私があった。 その中で、駒形の私、不死身の私、
あたかの私の三つは、次第に一つずつ、いつとなく捨たれて、 今ではただ市の橋から浜町へ渡る私と、
三倉橋から菅町へ渡る私との二つが、昔のままに残っている。 自分が子供の時に比べれば、川の流れも変わり、
露敵の茂った所々の砂漬も、後方なく埋められてしまったが、 この二つの私だけは、同じような底の浅い船に、
同じような老人の船頭を乗せて、 岸の柳の葉のように青い川の水を、今も変わりなく日に幾度か横切っているのである。
自分はよく、何の用もないのに、この私船に乗った。 水の動くのにつれて、ゆりかごのように軽く体を揺すられる心地よさ。
ことに時刻が遅ければ遅いほど、私船の寂しさと嬉しさとが、しみじみと身にしみる。 低い船べりの外は、すぐに緑色のなめらかな水で、
青銅のような鈍い光のある幅の広い川面は、 遠い新大橋に遮られるまで、ただ一目に見渡される。
両岸の家々はもう、黄昏のネズミ色に統一されて、 その所々には、
生地に映る灯火の光さえ、黄色くもやの中に浮かんでいる。 揚げ潮につれて、灰色の方、半ば張った天間船が、
一層、二層と稀に川を上ってくるが、 どの船もひっそりと静まって、舵を取る人の産むさえもわからない。
自分はいつもこの静かな船のほと、 青く平らに流れる潮の匂いとに対して、
なんということもなく、ホフマン・スタールのエアレ・エプニスという詩を読んだ時のような、 異様のない寂しさを感じるとともに、
自分の心の中にもまた、情緒の水のささやきが、 もやの底を流れる大川の水と同じ旋律をたっているような気がせずにはいられないのである。
けれども、自分を見するものは、一人大川の水の響きばかりではない。 自分にとっては、この川の水の光がほとんど、どこにも見出しがたい滑らかさと、
温かさと思っているように思われるのである。 海の水は、例えばジャスパーの色のように、あまりに重く緑を凝らしている。
といって、潮の微塵を全く感じない上流の川の水は、 いわばエメラルドの色のように、あまりに軽く、あまりに薄っぺらに光りすぎる。
ただ、淡水と潮水とが交錯する平原の大川の水は、 冷ややかな青に濁った木の温かみを交えて、
どことなくヒューマナイズされた親しさと、 人間らしい意味において、ライフライクな懐かしさがあるように思われる。
東京の水の描写
ことに大川は、赤ちゃけた粘土の多い関東平野を行き尽くして、 東京という大都川を静かに流れているだけに、その濁って皺を寄せて、
気難しいユダヤの牢屋のように、ブズブズ口小言を言う水の色が、 いかにも落ち着いた人懐かしい、手触りのいい感じを持っている。
そして同じく町の中を流れるにしても、 なお、海という大きな神秘と絶えず直接の交通を続けているためか、
川と川とをつなぐ堀割りの水のように暗くない。 眠っていない。
どことなく生きて動いているという気がする。 しかもその動いて行く先は、無し無終に渡る永遠の不可思議だという気がする。
東橋、馬谷橋、両国橋の間。 こういうのような青い水が、大きな橋台の河口石とレンガ等を浸していく嬉しさは言うまでもない。
岸に近く船宿の白い安堵を写し、 銀の羽裏をひるがえす柳を写し、また水門にせかれては、
三味線の根のぬるむ昼杉を、 ベニフ用の花に嘆きながら、木の弱いアヒルの羽根に乱されて、
人気のない栗屋の下を静かに光りながら流れるのも、 その重々しい水の色に夕べからざる温情を造していた。
たとえ両国橋、新大橋、永台橋と河口に近づくに従って、 川の水は著しく断腸の新乱色を交えながら、
騒音とエンジンとに満ちた空気の下に、 白くただれた芽をギラギラとブリキのように反射して、
石炭を積んだダルマ船や、 白ペンキの剥げた古風な木船を物憂げにうすぶっているにしても、
自然の呼吸と人間の呼吸とが応じ合って、 いつの間にか融合した都会の水の色の暖かさは容易に消えてしまうものではない。
ことに日暮れ、 川の上に立ち込める水蒸気と次第に暗くなる夕空の薄明かりとは、
この大川の水をしてほとんど比喩を絶した微妙な色調をおばしめる。
自分は一人、私船の船べりに肘をついて、 もう靄の折りかけた白帽の川の水面を何ということもなく見渡しながら、
その暗緑色の水のあなた、 暗いイエイエの空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、
おそらく終生を忘れることはできないであろう。 すべての位置はその位置に固有な匂いを持っている。
フロレンスの匂いはイリスの白い花と埃ともやと、 古の絵画のニストの匂いである。
メレジュ・コーフスキー もし自分に東京の匂いを問う人があるならば、
自分は大川の水の匂いと答えるのに何の躊躇もしないであろう。 一人匂いのみではない。
大川の水の色、大川の水の響きは我が愛する東京の色であり、 声でなければならない。
自分は大川があるがゆえに東京を愛し、 東京あるがゆえに生活を愛するのである。
物語の結末
1912年1月 その後、
一ノ橋の私の絶えたことを聞いた。 三倉橋の私の廃れるのも間があるまい。
1950年発行 門川書店 門川文庫
羅正門 花 芋がゆ
より独領 読み終わりです。 はい、江戸っこだったんですね。
これ多分アップは8月
何日だ 19日かな
になると思うんですけど
高校野球が 盛り上がっているようですね
ここは正味野球全然わからないんですけど youtube の野球のチャンネルのナレーションのお仕事をもらうぐらいで
全然野球わかんないんですが 街の飲み友達はもう本当に高校野球好きで
本当君ら高校野球好きだねーって言ったら いやまあそりゃそうだよもうどんどん好きになっていくよって言ってね
ドリカムジャンズってわかりますかこれ なんかありましたよね
金曜日の歌
若い人を応援するって感じなんでしょうかね 若い人といえば
お便りをいただきまして久しぶりに多分学生の方だと思うんですけどイギリスに留学中です という方から聞いてます
すごい褒めていただきましたありがとうございますでリクエストもいただいたんですが 銀のサジ中かんすけさんの
作品リクエストいただいたんですが取り掛かろうとは思いますが10万字あるので しばらくお待ちください
学業と 英語に囲まれた生活の中ふと母国語が聞きたくなって見つけてもらったようです
そういう人もいるんですね
あなたの一助になれば幸いです はい
他にもリクエストなどありましたら投稿フォームよりお寄せくださいはい よしお願いしますか
無事に寝落ちできた方も最後までお付き合いいただいた方も大変にお疲れ様でした といったところで今日のところはこの辺でまた次回お会いしましょう
おやすみなさい
19:13

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