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寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。 このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、 それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。 作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見、ご感想、ご依頼は公式Xまでどうぞ。 寝落ちの本で検索してください。
また別途投稿フォームもご用意しました。 合わせてご利用ください。 それと最後に番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
さて今日はですね、 夏目漱石さんの夢十夜というテキストを読もうかと思います。
さすがに夏目漱石さんについては説明は割愛しますが、 前の、前の千円札だった人ですね。
野口秀夫の前ね。はい、です。 その人の夢十夜というテキストです。
さらっと見ましたが、 こんな夢を見たっていう話ばっかりなので、夢の内容について書いているという、
正直どうでもいい文章というかね。 夢見た本人はみんなに語りたいだろうけど、見てないこっちからすると別にそんなにこうね、全く共感できないんで、
っていう文章になってます。はい。 それが10日間分、
連ねてあるということですね。はい。 夢見ないよって人もいるらしいですけど、覚えてないだけというのがモッパラのこう、
説のようですけどね。夢見ないぐらい、覚えてないぐらいぐっすり寝てるってことなのかもしれません けど。
夢は僕も結構見る方ですが。 今回は夏目漱石が見た夢のお話です。
第一夜の夢
それでは参ります。夢十夜。 第1夜。
こんな夢を見た。 腕組みをして枕元に座っていると、仰向きに寝た女が静かな声でもう死にますという、
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかなウリザネ顔をその中に横たえている。
真っ白な頬の底に温かい血の色が程よく差して、唇の色は無論赤い。到底死にそうには見えない。
しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。 自分も確かにこれは死ぬなと思った。
そこで、「そうかね。もう死ぬのかね。」と上から覗き込むようにして聞いてみた。
死にますともと言いながら、女はぱっちりと目を開けた。大きな潤いのある眼で、長いまつげに包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。
その真っ黒な瞳の奥に自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。 自分は透き通るほど深く見えるこの黒目の艶を眺めて、これでも死ぬのかと思った。
それで年頃に枕のそばへ口をつけて、「死ぬんじゃなかろうね。大丈夫だろうね。」とまた聞き返した。
すると女は黒い目を眠そうに見張ったまま、やっぱり静かな声で、「でも死ぬんですもの。仕方がないわ。」と言った。
じゃあ私の顔が見えるかいと一心に聞くと、「見えるかいってそら、そこに映ってるじゃありませんか。」とニコリと笑ってみせた。
自分は黙って顔を枕から離した。腕組みをしながらどうしても死ぬのかなと思った。 しばらくして女がまたこう言った。
死んだら埋めてください。大きな真珠貝で穴を掘って、 そして天から落ちてくる星のかけらを墓印に置いてください。
そして墓のそばに待っていてください。また会いに行きますから。 自分はいつ会いに来るかねと聞いた。
日が出るでしょ。それから日が沈むでしょ。 それからまた出るでしょ。そうしてまた沈むでしょ。
赤い日が東から西へ、東から西へと落ちていくうちに、あなた待っていられますか。 自分は黙ってうなずいた。
女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待っていてください。」と思い切った声で言った。
百年私の墓のそばに座って待っていてください。 きっと会いに来ますから。
自分はただ待っていると答えた。 すると黒い瞳の中に鮮やかに見えた自分の姿がぼーっと崩れてきた。
静かな水が動いて映る影を見出したように、流れ出したと思ったら女の目がパチリと閉じた。
長いまつ毛の間から涙が頬を得たれた。もう死んでいた。 自分はそれから庭へ降りて真珠貝で穴を掘った。
真珠貝は大きな滑らかな縁の鋭い貝であった。 土をすくうたびに貝の裏に月の光が射してキラキラした。
湿った土の匂いもした。 穴はしばらくして掘れた。
女をその中に入れた。 そうして柔らかい土を上からそっとかけた。
かけるたびに真珠貝の裏に月の光が射した。
それから星の欠けの落ちたのを拾ってきて、軽く土の上へのせた。 星の欠けは丸かった。
長い間大空を落ちている間に角が取れて滑らかになったんだろうと思った。 抱き上げて土の上へ置くうちに自分の胸と手が少し暖かくなった。
自分は苔の上に座った。 これから100年の間こうして待っているんだなと考えながら腕組みをして丸い墓石を眺めていた。
そのうちに女の言った通り日が東から出た。 大きな赤い日であった。
それがまた女の言った通りやがて西へ落ちた。 赤いまんまでのっと落ちていった。
一つと自分は感情した。 しばらくするとまたからくれないの天灯がのそりと昇ってきた。
そして黙って沈んでしまった。 二つとまた感情した。
自分はこういうふうに一つ二つと感情していくうちに赤い日をいくつ見たかわからない。 感情しても感情してもし尽くせないほど赤い日が頭の上を通り越していった。
それでも百年がまだ来ない。しまいには苔の生えた丸い石を眺めて自分は女に騙されたのでは なかろうかと思い出した。
すると石の下から波数に自分の方へ向いて青い茎が伸びてきた。 見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て止まった。
と思うとすらりと揺らぐ茎の頂に心持ち首を傾けていた細長い一輪のつぼみがふっくらと花びらを開いた。
真っ白な百合が花の先で骨に応えるほどに酔った。 そこへ遥かの上からぽたりと梅雨が落ちたので花は自分の重みでフラフラと動いた。
自分は首を前へ出して冷たい梅雨の滴る白い花びらに接吻した。 自分が寄りから顔を離す拍子に思わず遠い空を見たら
暁の星がたった一つ瞬いていた。 百年はもう来ていたんだなとこの時初めて気がついた。
第二夜の悟り
第二夜 こんな夢を見た。
保生の室を下がって廊下伝いに自分の部屋へ帰ると暗鈍がぼんやり灯っている。 片膝を座布団の上について
等身を掻き立てた時花のような長寿がぱたりと朱塗りの台に落ちた。 同時に部屋がぱっと明るくなった。
襖の絵は武尊の筆である。 黒い柳を濃く薄く、おちこちと書いて寒そうな漁夫が傘を傾けて土手の上を通る。
床には懐中文字の軸が掛かっている。 焚き残した線香が暗い方で未だに匂っている。
広い寺だから神官として人気がない。 黒い天井に差す丸安藤の丸い影が仰向く途端に生きているように見えた。
縦膝をしたまま左の手で座布団をめくって右を差し込んでみると思ったところにちゃんとあった。
あれば安心だから布団を元のごとく直してその上にどっかり座った。 お前は侍である。
侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が言った。 そういつまでも悟れぬところを持ってみるとお前は侍ではあるまいと言った。
人間のクズじゃと言った。 母は怒ったなと言って笑った。
悔しければ悟った証拠を持ってこいと言ってぷいと向こうを向いた。 けしからん。
隣の広間の末に据えてある置時計が次の時を打つまでにはきっと悟ってみせる。 悟った上で今夜また入室する。
そして和尚の首と悟りとを引き換えにしてやる。 悟らなければ和尚の命が取れない。
どうしても悟らなければならない。自分は侍である。 もし悟らなければ自陣する。
侍が恥ずかしめられて生きているわけにはいかない。綺麗に死んでしまう。 こう考えた時、自分の手はまた思わず布団の下へ入った。
そして取材屋の担当を引きずり出した。 ぐっと束を握って赤い鞘を向こうへ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。
凄いものが手元からスースーと逃げていくように思われる。 そうしてことごとく喫茶機へ集まって殺気を一点に込めている。
自分はこの鋭い刃が胸にも針の頭のように縮められて、 くすん五分の先へ来てやむを得ず尖っているのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。
体の血が右の手首の方へ流れてきて、握っている束がにちゃにちゃする。 唇が震えた。
担当を鞘へ納めて右脇へ引きつけておいて、それから禅が置くんだ。 長襲曰く無徒。
無徒は何だ。クソ坊主めと鋼をした。 奥歯を強く噛みしめたので、鼻から熱い息が荒く出る。
米紙が釣って痛い。目は普通の梅も大きく開けてやった。 掛物が見える。杏丼が見える。畳が見える。
和尚のやかん頭がありありと見える。 蚊に口を開いて嘲笑った声まで聞こえる。
けしからん坊主だ。どうしてもあのやかんを首にしなくてはならん。 悟ってやる。無駄、無駄と舌の根で念じた。
無駄というのにやっぱり線香の匂いがした。何だ線香のくせに。 自分はいきなり原骨を固めて自分の頭を嫌というほど殴った。
そして奥歯をギリギリと噛んだ。両脇から汗が出る。 背中が棒のようになった。
膝の継ぎ目が急に痛くなった。 膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。
無はなかなか出てこない。 出てくると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に悔しくなる。
涙がほろほろ出る。ひと思いに身を大岩の上にぶつけて、骨も肉もめちゃくちゃに砕いてしまいたくなる。
それでも我慢してじっと座っていた。 耐えがたいほど切ないものを胸に入れて忍んでいた。
その切ないものが体中の筋肉を下から持ち上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残酷極まる状態であった。
そのうちに頭が変になった。 暗洞も武尊の柄も畳も違い棚もあってないような殴ってあるように見えた。
と言って無はちっとも厳然しない。 ただいい加減に座っていたようである。
ところへ突然、隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。 はっと思った。
右の手をすぐ担当にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。 第三夜。
第三夜の子供
こんな夢を見た。 六つになる子供をおぶっている。確かに自分の子である。
ただ不思議なことにはいつの間にか目がつぶれて青坊主になっている。 自分がお前の目はいつつぶれたのかいと聞くと、何昔からさと答えた。
声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。 左右は青田である。
道は細い。 先の影が時々闇にさす。
田んぼへかかったね。と背中で言った。 どうしてわかる。と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
だって詐欺が泣くじゃないか。と答えた。 すると詐欺が果たして二声ほど泣いた。
自分は我が子ながら少し怖くなった。 こんなものを背負っていてはこの先どうなるかわからない。
どこかうっちゃえるところはなかろうかと向こうを見ると、 闇の中に大きな森が見えた。
あそこならばと考え出す途端に背中で、ふんふんという声がした。 何を笑うんだ。
子供は返事をしなかった。ただ、 お父さん重いかい。と聞いた。
重かはない。と答えると、今に重くなるよ。と言った。 自分は黙って森を目印に歩いて行った。
他の中の道が不規則にうねってなかなか思うように出られない。 しばらくすると二股になった。
自分は股の根に立ってちょっと休んだ。 石が立っているはずだがな。と小僧が言った。
なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。 表には左ひがくぼ、右ほったはらとある。
闇なのに赤い地が明らかに見えた。 赤い地は芋利の腹のような色であった。
左がいいだろう。と小僧が命令した。 左を見るとさっきの森が闇の影を高い空から自分らの頭の上投げかけていた。
自分はちょっと躊躇した。 遠慮しないでもいい。と小僧がまた言った。
自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。 腹の中ではよく目倉のくせに何でも知っているなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、
背中でどうも盲目は不自由でいけないねと言った。 だからおぶってやるからいいじゃないか。
過去との対峙
おぶってもらってすまないがどうも人に馬鹿にされていけない。 親にまで馬鹿にされるからいけない。
なんだか嫌になった。 早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
もう少し行くとわかる。ちょうどこんな晩だったな。 と背中で独り言のように言っている。
何が。と際どい声を出して聞いた。 何がって知ってるじゃないか。と子供はあざけるように答えた。
するとなんだか知ってるような気がしだした。けれどもはっきりとはわからない。 ただこんな晩であったように思える。
そしてもう少し行けばわかるように思える。 わかっては大変だからわからないうちに早く捨ててしまって安心しなくってはならないように思える。
自分はますます足を早めた。 雨はさっきから降っている。道はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。
ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照らして、
寸分の事実も漏らさない鏡のように光っている。 しかもそれが自分の子である。
そうして盲目である。自分はたまらなくなった。 ここだここだ。ちょうどその杉の根のところだ。
雨の中で小僧の声ははっきり聞こえた。 自分は思えず止まった。
いつしか森の中へ入っていた。 一見ばかり先にある黒いものは確かに小僧の言うとおり杉の木と見えた。
お父さん、その杉の根のところだったね。 うん、そうだ。と思わず答えてしまった。
文化5年、たつ年だろう? なるほど、文化5年たつ年らしく思われた。
お前が俺を殺したのは今からちょうど100年前だね。 自分はこの言葉を聞くや否や。
今から100年前、文化5年のたつ年のこんな闇の晩に、この杉の根で一人の盲目を殺したという自覚が
忽然として頭の中に起こった。 俺は人殺しであったんだなと初めて気がついた途端に、
背中の子が急に石地蔵のように重くなった。 第4夜
じいさんの不思議な行動
広い土間の真ん中につずみ台のようなものを据えて、 その周りに小さい将棋が並べてある。
台は黒光りに光っている。 片隅には四角な禅を前に置いて、
じいさんが一人で酒を飲んでいる。 魚はニシメらしい。
じいさんは酒の加減でなかなか赤くなっている。 その上、顔じゅうツヤツヤしてシワというほどのものはどこにも見当たらない。
ただ白い髭をありたけ生やしているから年寄るということだけはわかる。 自分は子供ながらこのじいさんの年はいくつなんだろうと思った。
ところえ、裏の家系から手桶に水を汲んできた上さんが、 前垂れで手を拭きながら、「おじいさんはいくつかね。」と聞いた。
じいさんは頬張ったニシメを飲み込んで、「いくつか忘れたよ。」と澄ましていた。 上さんは拭いた手を細い帯の間に挟んで、横からじいさんの顔を見て立っていた。
じいさんは茶碗のような大きなもので酒をぐいと飲んで、 そしてふうと長い息を白い髭の間から吹き出した。
すると上さんが、「おじいさんの家はどこかね。」と聞いた。 じいさんは長い息を途中で切って、「へその奥だよ。」と言った。
上さんは手を細い帯の間に突っ込んだまま、「どこへ行くかね。」とまた聞いた。
するとじいさんが、また茶碗のような大きいもので熱い酒をぐいと飲んで、前のような息を ふうと吹いて、「あっちへ行くよ。」と言った。
まっすぐかい? とかみさんが聞いたとき、ふうと吹いた息が正常通り越して柳の下を抜けて河原の方へまっすぐに行った。
じいさんが表へ出た。自分も後から出た。 じいさんの腰に小さいひょうたんがぶら下がっている。
肩から四角な箱を脇の下へつるしている。 アサギの桃引きを履いてアサギの袖なしを着ている。
たびだけが黄色い。なんだか川で作ったたびのように見えた。 じいさんがまっすぐに柳の下まで来た。
柳の下に子供が三、四人いた。 じいさんは笑いながら腰からアサギの手ぬぐいを出した。
それを肝心寄りのように細長く寄った。 そして地べたの真ん中に置いた。
それから手ぬぐいの周りに大きな丸い輪を書いた。 しまいに肩にかけた箱の中から真鍮でこしらえた雨矢の笛を出した。
いまにその手ぬぐいが蛇になるから見ておろう見ておろうと繰り返していった。 子供は一生懸命に手ぬぐいを見ていた。自分も見ていた。
見ておろう見ておろういいかと言いながらじいさんが笛を吹いて輪の上をぐるぐる回り出した。 自分は手ぬぐいばかり見ていた。
けれども手ぬぐいは一向動かなかった。 じいさんは笛をピーピー吹いた。そして輪の上を何遍も回った。
わらじを妻立てるように抜き足をするように手ぬぐいに遠慮するように回った。 怖そうにも見えた。面白そうにもあった。
やがてじいさんは笛をピタリと止めた。 そして肩にかけた箱の口を開けて手ぬぐいの首をちょいとつまんでポーッと放り込んだ。
こうしておくと箱の中で蛇になる。いまに見せてやる。いまに見せてやる。 と言いながらじいさんがまっすぐに歩き出した。
柳の下を抜けて細い道をまっすぐに降りていった。 自分は蛇が見たいから細い道をどこまでもついていった。
じいさんは時々、「いまになる。」と言ったり、「蛇になる。」と言ったりして歩いていく。 しまいには、「いまになる。蛇になる。きっとなる。笛がなる。」と歌いながらとうとう川の岸へ出た。
橋も船もないからここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、 じいさんはザブザブ川の中へ入り出した。
はじめは膝くらいの深さであったが、だんだん腰から胸の方まで水に浸かって見えなくなる。 それでもじいさんは、「深くなる。夜になる。まっすぐになる。」と歌いながらどこまでもまっすぐに歩いていった。
そしてひげも顔も頭も頭巾もまるで見えなくなってしまった。 自分はじいさんが向こう岸へ上った時に蛇を見せるだろうと思って足の鳴るところに立ってたった一人いつまでも待っていた。けれどもじいさんはとうとう上がって来なかった。
戦の記憶
第五夜 こんな夢を見た。
なんでもよほど古いことで神世に近い昔と思われるが自分が戦をして運悪く負けたために生け鳥になって敵の大将の前に引き据えられた。
その頃の人はみんな背が高かった。そうしてみんな長いひげを生やしていた。 革の帯を締めてそれ棒のような剣を吊るしていた。
弓は藤鶴の太いのをそのまま用いたように見えた。 漆も塗っていなければ磨きもかけていない。極めて素朴なものであった。
敵の大将は弓の真ん中を右の手で握ってその弓を草の上へついて酒亀を伏せたようなものの上に腰をかけていた。
その顔を見ると鼻の上で左右の眉が太くつながっている。 その頃髪剃りというものは無論なかった。
自分は虜だから腰をかけるわけにいかない。 草の上に矢倉をかいていた。
足には大きな藁靴を履いていた。 この時代の藁靴は深いものであった。立つと膝頭まで来た。
その端のところは藁を少し編み残して草のように下げて、歩くとバラバラ動くようにして飾りとしていた。
大将は篝火で自分の顔を見て死ぬか生きるかと聞いた。 これはその頃の習慣で虜には誰でも一応はこう聞いたものである。
生きると答えると降参した意味で死ぬというと屈服しないということになる。 自分は一言死ぬと答えた。
大将は草の上についていた弓を向こうへ投げて 腰に吊るした棒のような剣をするりと抜きかけた。
それ風になびいた篝火が横から吹きつけた。 自分は右の手を楓のように開いて棚心を大将の方へ向けて目の上へ差し上げた。
待てという合図である。 大将は太い剣をかしゃりと鞘に収めた。
その頃でも恋はあった。 自分は死ぬ前に一目思う女に会いたいと言った。
大将が夜が明けて鳥が鳴くまでなら待つと言った。 鳥が鳴くまでに女をここへ呼ばなければならない。
鳥が鳴いても女が来なければ自分は会わずに殺されてしまう。 大将は腰をかけたまま篝火を眺めている。
自分は大きな藁靴を組み合わせたまま草の上で女を待っている。 夜はだんだん更ける。時々篝火が崩れる音がする。
崩れるたびにうろたえたように炎が大将になだれかかる。 真っ黒な眉の下で大将の目がピカピカと光っている。
すると誰やら来て新しい枝をたくさん火の中へ投げ込んでいく。 しばらくすると火がパチパチと鳴る。
暗闇をはじき返すようなひさましい音であった。 この時女は裏の奈良の木に繋いである白い馬を引き出した。
縦髪を三度撫でて高い背にひらりと飛び乗った。 蔵もない、あぶみもない裸馬であった。
長く白い足で太腹を蹴ると馬は一山に駆け出した。 誰かが篝火を継ぎ足したので
遠くの空が薄明るく見える。 馬はこの明るいものを目かけて闇の中を飛んでくる。
鼻から火の柱のような息を二本出して飛んでくる。 それでも女は細い足でしきりなしに馬の腹を蹴っている。
馬はひずめの音が中で鳴るほど早く飛んでくる。 女の髪は吹き流しのように闇の中に尾を引いた。
それでもまだ篝のあるところまで来られない。 すると真っ暗な道の旗でたちまちコケコッコーという鳥の声がした。
女は身を空ざまに両手に握った手綱をうんと控えた。 馬は前足のひずめを固い岩の上に端と刻み込んだ。
コケコッコーと鶏がまた一声鳴いた。 女はあっと言って締めた手綱を一度に緩めた。
馬はもろ膝をおる。 乗った人とともにまともへ前へのめった。
岩の下は深い淵であった。 ひずめの跡はいまだに岩の上に残っている。
鳥の鳴く真似をした者は天の邪鬼である。 このひずめの跡の岩に刻みつけられている間、天の邪鬼は自分の仇である。
第六夜。 運慶が五穀樹の三門で仁王を刻んでいるという評判ながら散歩ながら行ってみると、自分より先にもう大勢集まって
しきりに下馬評をやっていた。 三門の前五六軒のところには大きな赤松があって、その幹が斜めに三門の苛川を隠して遠い青空まで伸びている。
松の緑と朱縷の門が互いに移り合って見事に見える。 その上、松の位置がいい。
門の左の端を目障りにならないように端に切っていって、上になるほど幅を広く屋根まで突き出しているのが何となく古風である。
鎌倉時代とも思われる。 ところが見ている者はみんな自分と同じく明治の人間である。
そのうちでもシャフが一番多い。 辻町をして退屈だから立っているに相違ない。
大きなもんだなぁと言っている。 人間を越しらえるよりもよっぽど骨が折れるだろうとも言っている。
そうかと思うと、 へー仁王だね。今でも仁王を掘るのかね。
へーそうかね。私はまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた。 と言った男がある。
どうも強そうですね。何だって言いますぜ。 昔から誰が強いって仁王ほど強い人はないって言いますぜ。
なんでも山戸武の御事よりも強いんだってからね。 と話しかけた男もある。
この男は尻をはしょって帽子をかぶらずにいた。 よほど無教育な男と見える。
雲啓は見物人の評判には一切頓着なくのみと土を動かしている。 一向振り向きもしない。
高いところに乗って仁王の顔のあたりをしきりに掘り抜いていく。 雲啓は頭に小さい絵帽子のようなものをのせて、
巣王だか何だかわからない大きな袖を背中でくくっている。 その様子がいかにも古臭い。
わやわや言っている見物人とはまるで釣り合いが取れないようである。 自分はどうして今自分まで雲啓が生きているのかなと思った。
どうも不思議なことがあるものだと考えながらやはり立って見ていた。 しかし雲啓の方では不思議とも期待ともとんと感じえない様子で一生懸命に掘っている。
仰向いてこの態度を眺めていた一人の若い男が自分の方を振り向いて、
さすがは雲啓だな。眼中に我々なしだ。 天下の英雄はただ仁王と我とあるのみという態度だ。
あっぱれだ。と言って褒め出した。 自分はこの言葉を面白いと思った。
彫刻の始まり
それでちょっと若い男の方を見ると、若い男はすかさず、 あののみと土の使い方を見たまえ。
大事材の妙境に達している。と言った。 雲啓は今、太い眉を一寸の高さに横へ掘り抜いて、
のみの葉を縦に返すや否や、端に上から土を打ち下ろした。 片息を一刻に削って、厚い木屑が土の声に応じて飛んだと思ったら、
小花のほっぴらいた怒り花の側面がたちまち浮き上がってきた。 その灯の入れ方がいかにも無遠慮であった。
そして少しも疑念を差し挟んでおらんように見えた。 よくああ無造作にのみを使って思うような真見えや花ができるものだなぁ。
と自分はあんまり感心したから一人ごとのように言った。 するとさっきの若い男が、
何あれは真見えや花をのみで作るんじゃない。 あの通りの真見えや花が木の中に埋まっているのをのみ土の力で掘り出すまでだ。
まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない。 と言った。
自分はこの時初めて彫刻とはそんなものかと思い出した。 果たしてそうなら誰にでもできることだと思い出した。
それで急に自分も仁王が掘ってみたくなったから見物をやめて早速家へ帰った。 道具箱からのみと金槌を持ち出して、裏へ出てみるとせんだっての嵐で倒れた菓子を
薪にするつもりで小引きにひかせた手頃なやつがたくさん積んであった。 自分は一番大きいのを選んで勢いよく掘り始めてみたが、
不幸にして仁王は見当たらなかった。 その次のにも運悪く掘り当てることができなかった。
三番目のにも仁王はいなかった。 自分は積んである薪を片っ端から掘ってみたが、どれもこれも仁王を隠しているのはなかった。
ついに明治の木にはとうとう仁王は埋まっていないものだと悟った。 それで運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった。
船の旅
第七夜 何でも大きな船に乗っている。
この船が毎日毎夜少しの絶え間なく黒い煙を吐いて波を切って進んで行く。 すさまじい音である。
けれどもどこへ行くんだかわからない。 ただ波の底からやけ火箸のような太陽が出る。
それが高い帆柱の真上まで来てしばらくかかっているかと思うと、 いつのまにか大きな船を追い越して先へ行ってしまう。
そうしてしまいにはやけ火箸のようにじゅっと行ってまた波の底に沈んで行く。 そのたんびに青い波が遠くの方で仁王の色にわきかえる。
すると船はすさまじい音を立ててその後を追っかけて行く。 けれども決して追いつかない。あるとき自分は船の男をつらまえて聞いてみた。
「この船は西へ行くんですか?」 船の男はけげんな顔をしてしばらく自分のを見ていたがやがて
「なぜ?」と問い返した。
落ちて行く火を追いかけるようだから。 船の男はカラカラと笑った。
そして向こうの方へ行ってしまった。 西へ行く火の果ては東か。それはほんまか?
東出る火のお里は西か。それもほんまか? 実は波の上。カジマクラ。流せ流せ。
と囃している。 辺先へ行ってみたら水布が大勢寄って太い穂綱をたぐっていた。
自分は大変心細くなった。いつ丘へ上がれることかわからない。 そしてどこへ行くのだか知れない。
ただ黒い煙を吐いて波を切っていくことだけは確かである。 その波はすこぶる広いものであった。
再現もなく青く見える。時には紫にもなった。 ただ船の動く周りだけはいつでも真っ白に泡を吹いていた。
自分は大変心細かった。こんな船にいるより一層身を投げて死んでしまおうかと思った。 乗り合いはたくさんいた。
大抵は偉人のようであった。 しかしいろいろな顔をしていた。
空が曇って船が揺れたとき一人の女が手摺りに寄りかかってしきりに泣いていた。 目を拭く半ケチの色が白く見えた。
しかし体にはサラサのような洋服を着ていた。 この女を見たときに悲しいのは自分ばかりではないのだと気がついた。
ある晩看板の上に出て一人で星を眺めていたら、一人の偉人が来て天文学を知っているかと尋ねた。
自分はつまらないから死のうとさえ思っている。天文学などを知る必要がない。黙っていた。 するとその偉人が
金牛偶の頂にある七星の話をして聞かせた。 そして星も海もみんな神の作ったものだと言った。
最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。 自分は空を見て黙っていた。
ある時サロンに入ったら派手な衣装を着た若い女が向こう向きになってピアノを弾いていた。 その側に背の高い立派な男が立って聖歌を歌っている。
その口が大変大きく見えた。けれども二人は二人以外のことにはまるで頓着していない様子であった。
船に乗っていることさえ忘れているようであった。 自分はますますつまらなくなった。
とうとう死ぬことに決心した。 それである晩あたりに人のいない自分思い切って海の中へ飛び込んだ。
ところが、 自分の足が甲板を離れて船と縁が切れたその刹那に急に命が惜しくなった。
心の底から寄せばよかったと思った。 けれどももう遅い。
自分はイヤでもオオでも海の中へ入らなければならない。 ただ大変高くできていた船と見えて体は船を離れたけれども足は容易に水につかない。
しかし捕まえるものがないから次第次第に水が近づいてくる。 いくら足を縮めても近づいてくる。水の色は黒かった。
そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて通り過ぎてしまった。 自分はどこへ行くんだかわからない船でもやっぱり乗っている方が良かったと初めて悟りながら、
しかもその悟りを利用することができずに無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちていった。
床屋の不思議
第八夜。 床屋の敷居をまたいだら白い着物を着て固もっていた三四人が一度に
「いらっしゃい。」と言った。 真ん中に立って見渡すと四角な部屋である。
窓が二方に開いて残る二方に鏡がかかっている。 鏡の数を勘定したら六つあった。
自分はその一つの前へ来て腰を下ろした。 するとお尻がぶっくりと言った。
よほど座り心地が良くできた椅子である。 鏡には自分の顔が立派に映った。
顔の後ろには窓が見えた。 それから長馬格子が端に見えた。
格子の中には人がいなかった。 窓の外を通る往来の人の腰から上がよく見えた。
翔太郎が女を連れて通る。 翔太郎はいつの間にかパナマの帽子を買って被っている。
女もいつの間にこしられたものやらちょっとわからない。 双方とも得意のようであった。
よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。 豆腐屋がラッパを吹いて通った。
ラッパを口へ当てがっているんでほっぺだが鉢に刺されたように膨れていた。 膨れたまんまで通り越したもんだから気がかりでたまらない。
生涯鉢に刺されているように思う。 芸者が出た。まだお作りをしていない。
島田の根がゆるんでなんだか頭に締まりがない。 顔も寝ぼけている。
色艶が気の毒なほど悪い。 それでお辞儀をしてどうも何とかですと言ったが相手はどうしても鏡の中へ出てこない。
すると白い着物を着た大きな男が自分の後ろへ来てハサミと串を持って自分の頭を眺め出した。
自分は薄い髭をひねってどうだろうものになるだろうかと尋ねた。 白い男は何も言わずに手に持った琥珀色の串で軽く自分の頭を叩いた。
さあ頭もだがどうだろうものになるだろうかと自分は白い男に聞いた。 白い男はやはり何も答えずにチャキチャキとハサミを鳴らし始めた。
鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで目を見張っていたがハサミの鳴るたんびに黒い毛が飛んでくるので恐ろしくなってやがて目を閉じた。
すると白い男がこう言った。 旦那は表の金魚類をご覧なせたか。
自分は見ないと言った。 白い男はそれぎりでしきりとハサミを鳴らしていた。
すると突然大きな声で危ねえと言ったものがある。
はっと目を開けると白い男の袖の下に自転車の輪が見えた。 人力の舵棒が見えた。と思うと白い男が両手で自分の頭を押さえてうんと横へ向けた。
自転車と人力車はまるで見えなくなった。 ハサミの音がチャキチャキする。
やがて白い男は自分の横へ回って耳のところを刈り始めた。 毛が前の方へ飛ばなくなったから安心して目を開けた。
青餅屋、餅屋、餅屋、という声がすぐそこでする。 小さい木根をわざと薄へ当てて表紙をとって餅をついている。
青餅屋は子供の時に見たばかりだからちょっと様子が見たい。 けれども青餅屋は決して鏡の中に出てこない。
ただ餅をつく音だけする。 自分はあるたけの視力で鏡の角を覗き込むようにしてみた。
すると長馬格子のうちにいつの間にか一人の女が座っている。 色の浅黒いマミエの太い大柄な女で、
髪をイチョウ返しによって黒じゅすの半襟のかかった巣合わせで叩き膝のまま札の勘定をしている。 札は10円札らしい。
女は長いまつげを伏せて薄い唇を結んで一生懸命に札の数を読んでいるが、 その読み方がいかにも早い。
しかも札の数はどこまで行ってもつける様子がない。 膝の上に乗っているのはたかだか100枚ぐらいだが、その100枚がいつまで勘定しても100枚である。
自分は呆然としてこの女の顔と10円札を見つめて行った。 すると耳の下で白い男が大きな声で洗いましょうと言った。
ちょうど上手い折りだから椅子から立ち上がるや否や長歯格子の方を振り返ってみた。 けれども格子のうちには女も札も何も見えなかった。
台を払って表へ出ると角口の左側に小判なりの桶が5つばかり並べてあって、 その中に赤い金魚や不入りの金魚や痩せた金魚や太った金魚がたくさん入れてあった。
そして金魚居がその後ろにいた。 金魚居は自分の前に並べた金魚を見つめたまま頬杖をついてじっとしている。
騒がしい往来の活動にはほとんど心を止めていない。 自分はしばらく経ってこの金魚居を眺めていた。
けれども自分が眺めている間金魚居はちっとも動かなかった。 第9夜。
世の中がなんとなくざわつき始めた。 今にも戦が起こりそうに見える。
焼け出された裸馬が夜昼となく屋敷の周りを暴れ回ると、 それを夜昼となく足軽どもがひしめきながら追っかけているような心持ちがする。
それでいて家の内は静として静かである。 家には若い母と三つになる子供がいる。
父はどこかへ行った。 父がどこかへ行ったのは月の出ていない夜中であった。
床の上でわらじを履いて黒い頭巾をかぶって勝手口から出て行った。 その時母の持っていたぼんぼりの火が黒い闇に細長く刺して生垣の手前にある古い日の木を照らした。
父はそれきり帰ってこなかった。 母は毎日三つになる子供にお父様はと聞いている。
子供はなんとも言わなかった。 しばらくしてからあっちと答えるようになった。
母がいつお帰りと聞いてもやはりあっちと答えて笑っていた。 その時は母も笑った。
そして今にお帰りという言葉を何遍となく繰り返して教えた。 けれども子供は今にだけを覚えたのみである。
時々はお父様はどこと聞かれて今にと答えることもあった。 夜になって辺りが静まると母は帯を締め直してサメザヤの担当を帯の間にさして子供を細帯で背中へ背負ってそっとくぐりから出て行く。
母はいつでもゾウリを履いていた。 子供はこのゾウリの音を聞きながら母の背中で寝てしまうこともあった。
土塀の続いている屋敷町を西へ下ってだらだら坂を折りつくすと大きな胃腸がある。 この胃腸を目印に右に切れると
胃腸ばかり奥に石の鳥居がある。 片側は田んぼで片側はクマザサばかりの中を鳥居まで来てそれをくぐり抜けると暗い杉の子達になる。
それから20軒ばかり敷石沿いに突き当たると古い廃殿の階段の下に出る。 ネズミのに洗い出された細線箱の上に大きな鈴の紐がぶら下がって
昼間見るとその鈴のそばにハチマングウという額がかかっている。 蜂の字が鳩が2羽向かい合ったような書体にできているのが面白い。
母の祈り
その他にもいろいろの額がある。 大抵は家中の者の射抜いた金滴を射抜いた者の名前に添えたのが多い。
たまには太刀を納めたのもある。 鳥居をくぐると杉の子勢でいつでもフクロウが鳴いている。
そうして冷飯造りの音がピチャピチャする。 それが廃殿の前で止むと母はまず鈴を鳴らしておいてすぐにしゃがんでかしわでを打つ。
大抵はこの時フクロウが急に泣かなくなる。 それから母は一心不乱に夫の無事を祈る。
母の考えでは夫が侍であるから弓矢の紙のハチマンへこうやって是非ない願をかけたらよもや聞かれる通りはなからと一途に思い詰めている。
子供はよくこの鈴の音で目を覚ましてあたりを見ると真っ暗だものだから急に背中で泣き出すことがある。
その時母は口の内で何か祈りながら背を振ってあやそうとする。 するとうまく泣き止むこともある。
またますます激しく泣き立てることもある。 いずれにしても母は容易に立たない。
一通り夫の身の上を祈ってしまうと今度は細帯を解いて背中の甲をずり下ろすように背中から前へ回して両手に抱きながら廃殿を登って行って
いい子だから少しの間待っておいでよ。 ときっと自分の頬を子供の頬へ擦りつける。
そして細帯を長くして子供を縛っておいてその片側を廃殿の欄間にくくりつける。 それからだんだん降りてきて二十軒の敷石を行ったり来たり
お百度を踏む。 廃殿にくくりつけられた子は暗闇の中で細帯の丈のゆるす限り広苑の上を這い回っている。
そういう時は母にとってはなはだ楽な夜である。 けれども縛った子にひいひい泣かれると母は気が切れない。
お百度の足が非常に速くなる。 大変息が切れる。
仕方のない時は中途で廃殿へ上がってきていろいろすかしておいてまたお百度を踏み直すこともある。
こういうふうに幾晩となく母が気を揉んで、 世の目も寝ずに心配していた父は徳の昔に老死のために殺されていたのである。
正太郎の冒険
こんな悲しい話を夢の中で母から聞いた。 第十夜
正太郎が女にさらわれてから七日目の晩にふらりと帰ってきて、急に熱が出てどっと床についていると言ってケンさんが知らせに来た。
正太郎は町内一の好男子で至極善良な正直者である。 ただ一つの増落がある。
パナマの帽子をかぶって夕方になると水菓子屋の店先へ腰をかけて往来の女の顔を眺めている。
そうしてしきりに感心している。 その他にはこれというほどの特色もない。
あまり女が通らない時は往来を見ないで水菓子を見ている。 水菓子にはいろいろある。
スイミツトウやリンゴやビワやバナナをきれいにカゴに持ってすぐ土産物に持って行けるように二列に並べてある。
正太郎はこのカゴを見てはきれいだと言っている。 商売をするなら水菓子屋にかけると言っている。
そのくせ自分はパナマの帽子をかぶってぶらぶら遊んでいる。 この色がいいと言って夏みかんなどを品評することもある。
けれどもかつて銭を出して水菓子を買ったことがない。 ただではむろん食わない。色ばかり褒めている。
ある夕方一人の女が不意に店先に立った。 身分のある人と見えて立派な服装をしている。
その着物の色がひどく正太郎の気に入った。 その上正太郎は大変女の顔に感心してしまった。
そこで大事なパナマの帽子をとって丁寧に挨拶をしたら、女はカゴ詰めの一番大きいのを指してこれをくださいと言うんで、正太郎はすぐそのカゴを取って渡した。
すると女はそれをちょっと下げてみて大変重いことと言った。 正太郎は元来暇人の上にすこぶる気さくな男だから、ではお宅まで持って参りましょうと言って女と一緒に水菓子屋を出た。
それぎり帰ってこなかった。 いかな正太郎でもあんまり呑気すぎる。
ただ事じゃなかろうと言って親類や友達が騒ぎ出しているとは、七日目の晩になってふらりと帰ってきた。
そこで大勢寄ってたかって正さんどこ行っていたんだいと聞くと、 正太郎は電車に乗って山へ行ってたんだと答えた。
なんでもようほど長い電車に違いない。 正太郎の言うところによると電車を降りるとすぐと原へ出たそうである。
非常に広い原でどこを見渡しても青い草ばかり生えていた。 女と一緒に草の上を歩いていくと急に霧岸のてっぺんへ出た。
その時女が正太郎にここから飛び込んでご覧なさいと言った。 そこを覗いてみると霧岸は見えるがそこは見えない。
正太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。 すると女がもし思い切って飛び込まなければ豚に舐められますがようございますかと聞いた。
正太郎は豚とクモエモンが大嫌いだった。 けれども命には変えられないと思ってやっぱり飛び込むのを見合わせていた。
ところへ豚が一匹鼻を鳴らしてきた。 正太郎は仕方なしに持っていた細い貧老樹のステッキで豚の鼻面をぶった。
豚はグーと言いながらコロリとひっくり返って絶壁の下へ落ちていった。 正太郎はほっと一息ついているとまた一匹の豚が大きな鼻を正太郎にすりつけに来た。
正太郎はやむを得ずまたステッキを振り上げた。 豚はグーと鳴いてまた真っ逆さまに穴の底へ転げ込んだ。
するとまた一匹現れた。 この時正太郎はふと気がついて向こうを見ると遥かの青草原の月流あたりから幾万匹か数えきれぬ豚が群れをなして一直線にこの絶壁の上に立っている正太郎を目がけて鼻を鳴らしてくる。
正太郎は心から恐縮した。 けれども仕方がないから近寄ってくる豚の鼻頭を一つ一つ丁寧に貧老樹のステッキで打っていた。
不思議なことにステッキが鼻へ触りさえすれば豚はコロリと谷の底へ落ちていく。
夢の深淵
覗いてみると底の見えない絶壁を逆さになった豚が行列して落ちていく。 自分がこのくらい多くの豚を谷へ落としたかと思うと正太郎は我ながら怖くなった。
けれども豚は続々来る。 黒雲に足が生えて青草を踏み分けるような勢いで無人像に鼻を鳴らしてくる。
正太郎は必死の優を奮って豚の鼻頭を七日無晩叩いた。 けれどもとうとう精魂が尽きて手がこんにゃくのように弱って姉妹に豚に舐められてしまった。
そして絶壁の上へ倒れた。 ケンさんは正太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは良くないよと言った。
自分も最もだと思った。 けれどもケンさんは正太郎のパナマの帽子がもらいたいと言っていた。
正太郎は助かるまい。パナマはケンさんのものだろう。 1988年発行。
ちくま書房。ちくま文庫。 夏目漱石全集10巻。
より独領読み終わりです。
はい、夢のお話だったのでね。なんかこう、取り留めのないというか、着地点もどうでもいいというか、ね。
オチもないというか、なんかね。 だから何とか。
それどういう意味みたいに気になるけど意味はないからね。夢だからみたいな話の羅列でした。 よくもまぁこんなに覚えてたな。
夏目漱石も。メモったのかな。それか半分以上フィクションか。
だと思いますが。 あの僕年にですね、1回多い時は2回
名石無ってのを見るんですよ。皆さんご存知ですか。 見ている夢を、あ、これ夢だなってわかる
っていうのを名石無と呼ぶらしいんですけど、僕はもうちょっとね、その一歩ね、上の名石を見ることが
あって、名石無を見るときはだいたいその上位ランクの夢を見るんですけど、何かっていうと、あの
コントロールの権限がフルで与えられているんですよ。その空間のデザインとか
空間の広さ、それから登場するもの、人。 色は、あ、色もあるな。色もコントロールできるな。
で、相手が何を言うか、自分がどう行動するかが、こう
すべて権限が与えられて、すべてがね、自在っていうね、状況の夢がね、楽しいんですけど、楽しいんですけど
あの、普通の夢って自分でコントロールできないし、夢だって気づいてないから、なんていうかな、こう
カオスなわけですよね。自分からしたら。自分にとっては秩序が取れてないじゃないですか。普段見る夢って。
その、どう転がっていくかわからないストーリーを延々と見せられている
感じ。登場人物もどう行動するかわからないし、っていうカオスな状況が普段の夢であって。で、今回はその
フルコントロール権限が与えられている管理者みたいな状態で、夢の中に登場する自分ってなるんですけど、
あのね、コントロールしようとするんだけど、どんどんね、カオスな状態に引っ張れこもうとするので、どんどんこの自分のコントロール外のことで、要は
例えば半径2メートル以内のことをいろいろやってたら、2メーター半のところでいろいろ自分の手の及ばない、
自分が決定してないようなことが起こり始めて、どんどんカオス状態に引っ張りこもうとするわけです。
で、その2メーター半で起こってたことが、2メーターに近づいてきて、2メーターで近づいたその先は1.5メーターみたいに、どんどんどんどん自分のコントロールの権限を剥がそうとする
そのカオスとの綱引きをずっとする感じの夢で、楽しいんだけどすごいね、起きたら疲れてるんですよね。
もう超疲れてる。どうにか自分の自由な空間を刺繍しようとしている僕と、いつものカオスな夢を見せてやるっていうその夢陣営とのね、この綱引き。
楽しいんだけどね、ぐったりしてる朝起きたら。 皆さんはそんな夢を見たことが終わりでしょうか。
ということで今日は夢のお話でした。無事に寝落ちできた方も最後までお付き合いいただいた方も大変にお疲れ様でございました。
といったところで今日のところはこの辺で。また次回お会いしましょう。おやすみなさい。