1. 寝落ちの本ポッドキャスト
  2. 189芥川龍之介「歯車」(朗読)
2025-12-16 1:21:10

189芥川龍之介「歯車」(朗読)

189芥川龍之介「歯車」(朗読)

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サマリー

このエピソードでは、芥川龍之介の短編「歯車」が朗読され、主人公の不安や孤独感、周囲の不気味な出来事が探求されます。幽霊や錯覚が物語に現れ、主人公の心理状態を反映しており、彼の人生の「歯車」がどのように機能しているのかが考察されます。「歯車」は、主人公の心の葛藤や不安を描いた作品であり、姉の夫の自殺や家庭、社会への恐怖感も深く探求されています。主人公は自身の不安や孤独を感じながら、様々な本を通じて内面的な葛藤が描写され、物語はギリシャ神話や伝統的精神に触れつつ心の闇に迫ります。エピソードでは、主人公の内面の葛藤や社会との関わりも描写され、感じられる孤独や哲学的な思索がリスナーに深い印象を与えます。朗読では、主人公の苦悩や精神的葛藤が描かれ、内面的な闇と光の存在についての考察を通じて存在の不安定さが浮き彫りにされます。「歯車」は、主人公の不安や恐怖を中心に展開される詩小説であり、彼の晩年の精神状態が色濃く反映されています。物語では、日常生活の中で見え隠れする悲劇や罪悪が描かれ、主人公の内面的な葛藤が主題となっています。

00:04
寝落ちの本ポッドキャスト、こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見・ご感想・ご依頼は、公式Xまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。
また、投稿フォームもご用意しております。ぜひリクエストなどをお寄せください。
これからまだしてないよというそこのあなた、ぜひ番組のフォローをどうぞよろしくお願いします。
そして最後にお日にりを投げていただけるととても嬉しいです。
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物語の導入と設定
さて、今日は芥川龍之介さんの歯車です。
有名どころをね、結構読み進めてきて、次何読むかなみたいに毎回なってるんですけど。
走れメロス、実はまだ一回も読み上げてないんですけど、内容知ってるし、ってなるともう全然触手が伸びないんですよ。
セリヌンデュースでしょってなっちゃうから。
歯車、タイトルだけ知ってて読んだことがないので、どんな内容なのかという感じです。
文字数は2万8千字。そうですね、1時間は超えるでしょう。1時間半はいかないと思うけど。
どれくらいのボリュームですね。タイトルがいいね、歯車。
何の歯車を指しているのか、そして誰を歯車に見立てているのかという感じもしますけど。
読んでいきましょう。どうかお付き合いください。それでは参ります。
歯車 1.レーンコート
僕はある知人の結婚披露式に連なるためにカバンを一つ下げたまま、東海道のある停車場へその奥の秘書地から自動車を飛ばした。
自動車の走る道の両側は大抵松ばかり茂っていた。
上り列車に間に合うかどうかはかなり怪しいのに違いなかった。
自動車にはちょうど僕の他に、ある利髪店の主人も乗り合わせていた。
彼は夏目のようにまるまると太った短いあごひげの持ち主だった。
僕は時間を気にしながら時々彼と話をした。
妙なこともありますね。バツバツさんの屋敷には昼間でも幽霊が出るって言うんですが。
昼間でもね。
僕は冬の西日の当たった向こうの松山を眺めながら、いい加減に調子を合わせていた。
もっとも天気の良い日には出ないそうです。一番多いのは雨の降る日だって言うんですが。
雨の降る日に濡れに来るんじゃないか?
ご冗談で。しかしレーンコートを着た幽霊だって言うんです。
自動車はラッパーを鳴らしながらある停車場へ横付けになった。
僕はある利発線の主人に別れ停車場の中へ入って行った。
すると果たして上り列車は二三分前に出たばかりだった。
待合室のベンチにはレーンコートを着た男が一人ぼんやり外を眺めていた。
僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。
が、ちょっと苦笑いしたぎり、とにかく次の列車を待つために停車場前のカフェへ入ることにした。
それはカフェという名を与えるのも考え物に近いカフェだった。
僕は隅のテーブルに座りココアを一杯注文した。
テーブルにかけたオイルクロースは白地に細い青の線を粗い格子に引いたものだった。
しかしもう隅々には薄汚いカンバスを表していた。
僕はにわか臭いココアを飲みながら人気のないカフェの中を見回した。
ほこりじみたカフェの壁には親子丼ぶりなの、かつれつだのという紙札が何枚も貼ってあった。
じたまご、オムレツ。
僕はこういう紙札に東海道線に近い田舎を感じた。
それは麦畑やキャベツ畑の間に電気機関車の通る田舎だった。
次の上り列車に乗ったのはもう日暮れに近い頃だった。
僕はいつも二等に乗っていたが何かの都合上その時は三等に乗ることにした。
汽車の中はかなり混み合っていた。
しかも僕の前後にいるのは大急かどこかへ遠足に行ったらしい小学校の女性とばかりだった。
僕はまきたぼこに火をつけながらこういう女性との群れを眺めていた。
彼らはいずれも快活だった。のみならずほとんどしゃべり続けだった。
写真屋さん、ラブシーンって何?
やはり遠足についてきたらしい僕の前にいた写真屋さんは何とかお茶を濁していた。
しかし十四後の女性との一人はまだいろいろなことを問いかけていた。
僕はふと彼女の鼻に畜農症のあることを感じ何か微笑まずにはいられなかった。
それからまた僕の隣にいた十二三の女性との一人は若い女教師の膝の上に座り
片手に彼女の首を抱きながら片手に彼女の頬をさすっていた。
しかも誰かと話す合間に時々こう女教師に話しかけていた。
可愛いわね先生は。可愛い目をしていらっしゃるわね。
彼らは僕には女性とよりも一人前の女という感じを与えた。
リンゴを皮ごとかじっていたりキャラメルの皮を剥いていることを除けば。
しかし年笠らしい女性との一人は僕のそばを通る時に誰かの足を踏んだとみえ
ごめんなさいましと声をかけた。
彼女だけは彼らよりも混ぜているだけにかえって僕には女性とらしかった。
僕は薪煙草をくわえたままこの矛盾を感じた僕自身を冷笑しないわけにはいかなかった。
いつか電灯を灯した汽車はやっとある郊外の停車場へ着いた。
僕は風の寒いブラッドホームへ降り一度橋を渡った上商船電車の来るのを待つことにした。
すると偶然顔を合わせたのはある会社にいるT君だった。
僕らは電車を持っている間に不景気のことなどを話し合った。
T君はもちろん僕などよりもこういう問題に通じていた。
が、たくましい彼の指にはあまり不景気には縁のないトルコ石の指輪もはまっていた。
大したものをはめているね。
ああ、これか。
これはハルビンへ商売に行っていた友達の指輪を買わされたんだよ。
といつも今は王女をしている。
コーペラティブと取引ができなくなったもんだから、
僕らの乗った商船電車は幸いにも汽車ほど混んでいなかった。
僕らは並んで腰を下ろし、いろいろなことを話していた。
T君はついこの春にパリにある勤め先から東京へ帰ったばかりだった。
したがって僕らの間にはパリの話も出がちだった。
海洋夫人の話。
カニ料理の話。
誤解言う中のある殿下の話。
フランスは存外困ってはいないよ。
ただ、元来フランス人という奴は税を出したがらない国民だから、
内閣はいつも倒れるかね。
うーん、だってフランは暴落数士さ。
ああ、それは新聞を読んでいればね。
しかし向こうに行ってみたまえ。
新聞史上の日本のあるものはの別大地震や大洪水があるから。
すると、レーンコートを着た男が一人、
僕らの向こうへ来て腰を下ろした。
僕はちょっと不気味になり、
何か前に聞いた幽霊の話をティ君に話したい心持ちを感じた。
が、ティ君はその前に、
正度へをくるりと左へ向け、
顔はむやいを向いたまま小声に僕に話しかけた。
あそこに女が一人いるだろう。
ネズミ色の毛糸のショールをした。
うーん、あの西洋髪に打った女か?
うん。
風呂敷包みを抱えている女さ。
あいつはこの夏は軽井沢にいたよ。
ちょっとシャレた洋装などをしてね。
しかし彼女は誰の目にもみすぼらしいなりをしているのに違いなかった。
僕はティ君と話しながらそっと彼女を眺めていた。
彼女はどこか眉の間にきちがいらしい感じのする顔をしていた。
しかも、そのまた風呂敷包みの中から表に似た海面をはみ出させていた。
軽井沢にいた時には若いアメリカ人と踊ったりしていたっけ?
モダーンなんというやつかね。
レーンコートを着た男は、
僕のティ君と別れる時にはいつかそこにいなくなっていた。
僕は商船電車のある停車場からやはりカバンをぶら下げたままあるホテルへ歩いて行った。
往来の両側に建っているのはたいてい大きいビルディングだった。
僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。
のみならず、僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。
妙なものを?
というのは絶えず回っている半透明の歯車だった。
僕はこういう経験を前にも何度か持ち合わせていた。
歯車は次第に数を増やし、半ば僕の視野を塞いでしまう。
が、それも長いことではない。
しばらくの後には、気を失せる代わりに今度は頭痛を感じ始める。
それはいつも同じことだった。
眼科の医者は、この錯覚のために旅でぶり僕に切縁を命じた。
しかしこういう歯車は、僕のタバコに親しまない20日前にも見えないことはなかった。
僕は、また始まったなと思い、
左の目の視力を試すために片手に右の目を押さえてみた。
左の目は果たして何ともなかった。
しかし右の目のまぶたの裏には歯車がいくつも回っていた。
僕は右側のビルディングの次第に消えてしまうのを見ながらせっせと往来を歩いていった。
ホテルの玄関を入った時には歯車ももう消え失せていた。
が、頭痛はまだ残っていた。
僕は街灯や帽子を預けるついでに部屋を一つ取ってもらうことにした。
それからある雑誌社へ電話をかけて金のことを相談した。
晩餐と心理的葛藤
結婚披露式の晩餐はとうに始まっていたらしかった。
僕はテーブルの隅に座り、ナイフやフォークを動かし出した。
正面の新郎や新婦をはじめ白い王子型のテーブルについた50人余りの人々はもちろんいずれも陽気だった。
が、僕の心持ちは明るい電灯の光の下にだんだん憂鬱になるばかりだった。
僕はこの心持ちを逃れるために隣にいた客に話しかけた。
彼はちょうど獅子のように白い頬ひげを伸ばした老人だった。
のみならず僕も名を知っていたある名高い観学者だった。
したがってまた僕らの話はいつか古典の上へ落ちていった。
キリンはつまり一角獣ですね。
それから鳳凰もフェニックスという鳥の…
この名高い観学者はこういう僕の話にも興味を感じているらしかった。
僕は機械的に喋っているうちにだんだん病的な破壊欲を感じ、
行進を架空の人物にしたのはもちろん、
春秋の著作もずっと後の寛大の人だったことを話し出した。
するとこの観学者は露骨に不快な表情を示し、
少しも僕の顔を見ずにほとんど虎の唸るように僕の話を切り離した。
もし行進もいなかったとすれば孔子は嘘をつかれたことになる。
聖人の嘘をつかれるはずはない。
僕はもちろん黙ってしまった。
それからまた皿の上の肉へナイフやフォークを加えようとした。
すると小さいウジが一匹静かに肉の縁にうごめいていた。
ウジは僕の頭の中にワームという英語を呼び起こした。
それはまたキリンやホウオウのようにある伝説的動物を意味している言葉にも違いなかった。
僕はナイフやフォークを置き、いつか僕の肺にシャンパンにのつかれるのを眺めていた。
やっと晩餐の済んだ後、僕は前にとっておいた僕の部屋へこもるために人気のない廊下を歩いて行った。
廊下は僕にはホテルよりも監獄らしい感じを与えるものだった。
しかし幸いにも頭痛だけはいつの間にか薄らいでいた。
僕の部屋にはカバンはもちろん帽子や街灯も持ってきてあった。
僕は壁にかけた街灯に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣装袋の中へ放り込んだ。
それから兄弟の前へ行き、じっと鏡に僕の顔を映した。
鏡に映った僕の顔は皮膚の下の骨組みを表していた。
うじはこういう僕の記憶にたちまちはっきり浮かび出した。
僕は扉を開けて廊下を出、どこということなしに歩いて行った。
するとロッビーへ出る隅に緑色の傘をかけた、背の高いスタンドの電灯が一つガラスのに鮮やかに映っていた。
それは何か僕の心に平和な感じを与えるものだった。
僕はその前の椅子に座り、いろいろなことを考えていた。
が、そこにも5分とは座っているわけにいかなかった。
レーンコートは今度もまた僕の横にあった長い椅子のせいにいかにもだらりと脱ぎかけてあった。
しかも今は寒中だというのに。
僕はこんなことを考えながらもう一度廊下を引き返して行った。
廊下の隅の9時だまりには一人も9時は見えなかった。
しかし彼らの話し声はちょっと僕の耳をかすめていった。
それは何とか言われたのに答えたオールライトという英語だった。
オールライト?
僕はいつかこの対話の意味を正確につかもうと焦っていた。
オールライト、オールライト。
何が一体オールライトなのであろう。
僕の部屋はもちろんひっそりしていた。
が、扉を開けていることは妙に僕には不気味だった。
僕はちょっとためだったあと思い切って部屋の中へ入って行った。
それから鏡を見ないようにし、机の前の椅子に腰を下ろした。
椅子はトカゲの川に近い青いマロック川の安楽椅子だった。
僕はカバンを開けて原稿用紙を出しある短編を続けようとした。
けれどもインクをつけたペンはいつまでたっても動かなかった。
不安と電話の受け取り
のみならずやっと動いたと思うと同じ言葉ばかり書き続けていた。
オールライト、オールライト、オールライトサー、オールライト。
そこへ突然鳴り出したのはベッドのそばにある電話だった。
僕は驚いて立ち上がり受話器を耳へやって返事をした。
どなた?
あたしです、あたし。
相手は僕の姉の娘だった。
何だい?どうかしたのかい?
ええ、あの大変なことが起こったんです。
ですから大変なことが起こったもんですから今おばさんにも電話をかけたんです。
大変なこと?
ええ、ですからすぐに来てください。すぐにですよ。
電話はそれぎり切れてしまった。
僕は元のように受話器をかけ反射的にベルのボタンを押した。
しかし僕の手の震えていることは僕自身はっきり意識していた。
急時は容易にやってこなかった。
僕は苛立たしさよりも苦しさを感じ何度もベルのボタンを押した。
やっと運命の僕に教えたオールライトという言葉を了解しながら、
僕の姉の夫はその日の午後、東京からあまり離れていないある田舎に歴史していた。
しかも季節に縁のないレーンコートを引っ掛けていた。
僕は今もそのホテルの部屋に前の短編を書き続けていた。
真夜中の廊下には誰も通らないが、時々戸の外に翼の音が聞こえることもある。
どこかに鳥でも飼ってあるのかもしれない。
夢の中の苦悩
2.復讐
僕はこのホテルの部屋に午前8時ごろに目を覚ました。
が、ベッドを降りようとするとスリッパーは不思議にも片っぽしかなかった。
それはこの1,2年の間、いつも僕に恐怖だの不安だのを与える現象だった。
のみならず、サンダールを片っぽだけ履いたギリシャ神話の中の王子を思い出させる現象だった。
僕はベルを押して9時を呼び、スリッパーの片っぽを探してもらうことにした。
9時はけげんな顔をしながら狭い部屋の中を探し回った。
ここにありました。このバスの部屋の中に。
どうしてまたそんなとこに行ってたんだろう。
さあ、ネズミかもしれません。
僕は9時の尻添えた後、牛乳を入れないコーヒーを飲み、前の小説を仕上げにかかった。
業界岸を四角に組んだ窓は、雪のある庭に向かっていた。
僕は天を休めるたびにぼんやりとこの雪を眺めたりした。
雪はツバミを持ったチンチョウゲの下に都会の晩園に汚れていた。
それは何か僕の心に痛ましさを与える眺めだった。
僕は薪タバコを吹かしながら、いつかペンを動かさずにいろいろなことを考えていた。
妻のことを。子供たちのことを。
中んづく姉の夫のことを。
姉の夫は自殺する前に法科の権威を被っていた。
それもまた実際仕方はなかった。
彼は家の焼ける前に、家の価格に二倍する火災保険に加入していた。
しかも偽証罪だった。
しかも偽証罪を犯したために、執行猶予中の体になっていた。
けれども僕を不安にしたのは、彼の自殺したことよりも、
僕の東京へ帰るたびに必ず火の燃えるのを見たことだった。
僕はあるいは汽車の中から山を焼いている火を見たり、
あるいはまた自動車の中から。
そのときは妻子とも一緒だった。
時矢橋界隈の火事を見たりしていた。
それは、彼の家の焼けない前にも、
自ら僕に火事のある予感を与えないわけにはいかなかった。
今年は家が火事になるかもしれないぜ。
どんな縁起の悪いこと。
それでも火事になったら大変ですね。
保険はろくについていないし。
僕らはそんなことを話し合ったりした。
しかし僕の家は焼けずに、
僕は勤めてもらった。
しかし僕の家は焼けずに。
僕は勤めて妄想をしのけ、もう一度ペンを動かそうとした。
がペンはどうしても一行とは楽に動かなかった。
僕はとうとう机の前を離れ、
ベッドの上に転がったままトルストイのポリクーシュ歌を読み始めた。
この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や
名誉心の入り混じった複雑な性格の持ち主だった。
しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加えさせれば
僕の一生の狩り勝ちはだった。
つとに彼の悲喜劇の中に運命の霊性を感じるのは
次第に僕を不気味にしだした。
僕は一時間と経たないうちにベッドの上から飛び起きるが早いか
窓かけの垂れた部屋の隅へ力いっぱい本を放りつけた。
くたばってしまえ。
すると大きいネズミが一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに
床の上を走っていった。
僕はひと足跳びにバスの部屋へ行き、
扉を開けて中を探し回った。
が、白いタップの影にもネズミらしいものは見えなかった。
僕は急に不気味になり、慌ててスリッパーを靴に変えると
人気のない廊下を歩いていった。
廊下は今日も相変わらず牢獄のように憂鬱だった。
僕は頭を垂れたまま階段を上がったり降りたりしているうちに
いつかコック部屋へ入っていた。
コック部屋はゾンがや明るかった。
が、片側に並んだかまどはいくつも炎を動かしていた。
僕はそこを通り抜けながら白い棒をかぶったコックたちの
冷ややかに僕を見ているのを感じた。
同時にまた僕の落ちた地獄を感じた。
神よ、我を罰し給え。
怒り給うことなかれ、おそらくは我滅びん。
こういう祈祷もこの瞬間にはおのずかな僕の唇に
のぼらないわけにはいかなかった。
僕はこのホテルの外へ出ると青ざらの写った雪どけの道を
せっせと姉の家へ歩いて行った。
道に沿った公園の樹木はみな枝や葉をくろませていた。
のみならずどれも一本ごとにちょうど僕ら人間のように
前や後ろを備えていた。
それもまた僕には不快よりも恐怖に近いものを運んできた。
僕はダンテの地獄の中にある樹木になった魂を思い出し、
ビルディングばかり並んでいる電車線路の向こうを歩くことにした。
しかもそこも一丁とは無事に歩くことはできなかった。
ちょっと通りがかりに失礼ですが、
それは金ボタンの制服を着た22さんの青年だった。
僕はだまってこの青年を見つめ、
彼の鼻の左の脇にほくろのあることを発見した。
彼は棒を脱いだまま、おずおずこう僕に話しかけた。
「Aさんではいらっしゃいませんか?」
「そうです。」
「ああ、どうでもそんな気がしたもんですから。」
「何かご用ですか?」
「ああ、いえ。ただお目にかかりたかっただけです。
僕も先生の愛読者の。
僕はもうその時にはちょっと棒を取ったぎり、
彼を後ろに歩き出していた。
先生、A先生。
それは僕にはこの頃で最も不快な言葉だった。
僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた。
しかも彼らは何かの機会に僕を先生と呼び続けていた。
僕はそこに僕をあざける何者かを感じずにはいられなかった。
何者かを?
しかし僕の物質主義は神秘主義を拒絶せずにはいられなかった。
僕はつい2、3ヶ月前にもある小さい道場に
こういう言葉を発表していた。
僕は芸術的良心をはじめどういう良心も持っていない。
僕の持っているのは神経だけである。
姉は3人の子供たちと一緒に路地の奥のバラックに避難していた。
褐色の紙を貼ったバラックの中は外よりも寒いくらいだった。
僕らは火鉢に手をかざしながらいろいろなことを話し合った。
体のたくましい姉の夫は
人一倍痩せほぞった僕をほんの少しで
彼の夫は人一倍痩せほぞった僕を本能的に軽蔑していた。
のみならず僕の作品の不道徳であることを公言していた。
僕はいつも冷ややかにこういう彼を見下ろしたまま
一度も打ち溶けて話したことはなかった。
しかし姉と話しているうちに
だんだん彼も僕のように地獄に落ちていたことを悟り出した。
彼は現に寝台舎の中に幽霊を見たとかいうことだった。
が僕は薪煙草に火をつけ
染めて金のことばかり話し続けた。
何しろこういう際出しするから
何もかも売ってしまおうと思うの。
ああ、そりゃそうだ。タイプライターなどもいくらかになるだろう。
ええ、それから絵などもあるし。
ついでにNさん、姉の夫の肖像画も売るか?
しかしあれは
僕はバラックの壁にかけた額縁のない一枚のコンテがを見ると
うかつに冗談も言われないのを感じた。
歴史した彼は記者のために顔もすっかり肉塊になり
わずかにただ口ひげだけ残っていたとかいうことだった。
この話はもちろん話し自身も薄気味悪いのに違いなかった。
しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの
口ひげだけはなぜかぼんやりしていた。
過去の回想と帰還
僕は光線の加減かと思い
この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺めるようにした。
何をしているの?
ああ何でもないよ。ただあの肖像画は口のまわりだけ…
あれはちょっと振り返りながら何も気づかないように返事をした。
ひげだけ妙に薄いようでしょ?
僕の見たものは錯覚ではなかった。
しかし錯覚ではないとすれば
僕は昼飯の世話にならないうちに
姉の家を出ることにした。
まあいいでしょう。
また明日でも。
今日は青山まで出かけるんだから。
青山まで出かけるんだから。
ああ、あそこ?まだ体の具合は悪いの?
うーん、やっぱり薬ばかり飲んでいる。
サーミン薬だけでも大変だよ。
ベロナール、ノイロナール、トリオナール、ヌマール。
30分ばかり経った後
僕はあるビルディングへ入り
リフトに乗って三階へ登った。
それからあるレストランのガラス堂を押して入ろうとした。
が、ガラス堂は動かなかった。
のみならずそこには定休日と書いた
漆塗りの札も下がっていた。
僕はいよいよ不快になり
ガラス堂の向こうのテーブルの上に
リンゴやバナナを持ったのを見たまま
もう一度往来へ出ることにした。
すると会社員らしい男が二人
何か快活に喋りながら
このビルディングに入るために
僕の肩をこすって行った。
彼らの一人はその表紙に
イライラしてねと言ってらしかった。
僕は往来に佇んだなり
タクシーの通るのを待ち合わせていた。
タクシーは容易に通らなかった。
のみならずたまに通ったのは
必ず黄色い車だった。
この黄色いタクシーは
何故か僕に交通事故の面倒を
おかけるのを常としていた。
そのうちに僕は縁起のいい
緑色の車を見つけ
とにかく青山の墓地に近い
精神病院へ出かけることにした。
ああ、イライラする。
タンタライゼング
タンタルス
インフェルノ
タンタルス
タンタルスは実際
ガラス床越しに果物を眺めた
僕自身だった。
僕は二度も僕の目に浮かんだ
ダンテの地獄を呪いながら
じっと運転手の背中を眺めていた。
そのうちにまた
あらゆるものの嘘であることを感じ出した。
政治、実業、芸術、科学
いずれも皆
こういう僕には
この恐ろしい人生を隠した
雑食のエナメルに他ならなかった。
僕はだんだん息苦しさを感じ
タクシーの窓を開け放ったりした。
何か心臓を絞められる感じは
去らなかった。
緑色のタクシーは
やっと神宮前へ走りかかった。
そこには
ある精神病院へ曲がる横丁が
一つあるはずだった。
しかしそれも今日だけは
なぜか僕には分からなかった。
僕は電車の線路に急い
何度もタクシーを往復させた後
とうとう諦めて降りることにした。
僕はやっとその横丁を見つけ
ぬかるみの多い道を曲がっていった。
それといつか道を間違え
戻ってしまった。
それはかれこれ十年前にあった
夏目先生の特別式以来。
一度も僕は門の前さえ
通ったことのない建物だった。
十年前の僕も幸福ではなかった。
しかし少なくとも平和だった。
僕は砂利を敷いた門の中を眺め
葬石参坊の場所を思い出しながら
何か僕の人生も
一段落ついたことを
感じないわけにはいかなかった。
のみならず
この墓地の前十年目に
僕を見つけたのは
その人を連れてきた
何者かを感じないわけにも
いかなかった。
ある精神病院の門を出た後
僕はまた自動車に乗り
前のホテルへ帰ることにした。
が、このホテルの玄関へ降りると
霊園コートを着た男が一人
何か急事と喧嘩をしていた。
急事と?
いや、それは急事ではない。
孤独な都市生活
緑色の服を着た自動車係だった。
僕はこのホテルへ入ることに
何か不吉な心持ちを感じ
さっさと元の道をひっかえしていった。
僕の銀座通りへ出たときには
かれこれ日の暮れも近づいていた。
僕は両側に並んだ店や
目まぐるしい人通りに
一層憂鬱にならずにはいられなかった。
都に往来の人々の罪などというものを
知らないように
警戒に歩いているのは不快だった。
僕は薄明るい外光に
伝統の光の混じった中を
どこまでも北へ歩いていった。
そのうちに僕の目を捉えたのは
雑誌などを積み上げた本屋だった。
僕はこの本屋の店へ入り
ぽんやりと何段かの書棚を見上げた。
それから
ギリシャ神話という
一冊の本へ目を通すことにした。
黄色い表紙をしたギリシャ神話は
子供のために書かれたものらしかった。
けれども
偶然僕の読んだ一行は
たちまち僕を打ちのめした。
一番偉いゾイスの神でも
復讐の神にはかないません。
僕はこの本屋の店を
見上げた。
一番偉いゾイスの神でも
復讐の神にはかないません。
僕はこの本屋の店を後ろに
人混みの中を歩いていった。
いつか曲がり出した僕の背中に
絶えず僕を付けねらっている
復讐の神を感じながら。
精神的闘争
3.夜
僕は丸善の二階の書棚に
ストリントベルグの伝説を見つけ
二、三ページずつ目を通した。
それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。
飲みなず黄色い表紙をしていた。
僕は伝説を書棚へ持って行った。
今度はほとんど手当たり次第に
厚い本を一冊引きずり出した。
しかしこの本も
差し絵の一枚に
僕ら人間と代わりのない
目鼻のある歯車ばかり並べていた。
それはあるドイツ人の集めた
精神病者の画集だった。
僕はいつか憂鬱の中に
反抗的精神の起こるのを感じ
破れかぶれになった
賭博狂のように
いろいろな本を開いていった。
が、なぜかどの本も
必ず文章か差し絵かの中に
多少の針を隠していた。
どの本も?
僕は何度か読み返した
マダム・ボバリーを
手に取ったときさえ
卑怯、僕自身も中3階級の
ムッシュ・ボバリーに
他ならないのを感じた。
日の暮れに近いマルゼンの二階には
僕のほかに客もないらしかった。
僕は伝統の光の中に
書棚の間をさまよっていった。
それから宗教という札を掛けて
書棚の前に足を休め
緑色の表紙をした
一冊の本へ目を通した。
この本は目次の第何章かに
恐ろしい四つの敵
疑惑、恐怖、凶慢、
堪能的欲望という
言葉を並べていた。
僕はこういう言葉を見るが早いか
一層反抗的精神の起こるのを感じた。
それらの敵と呼ばれるものは
少なくとも僕には
感受性や理智の異名に
保つようなものだった。
が、伝統的精神もやはり
近代的精神のように
やはり僕を不幸にするのは
いよいよ僕にはたまらなかった。
僕はこの本を手にしたまま
ふといつかペンネームに用いた
受領余死という言葉を思い出した。
それは簡単の歩みを学ばないうちに
受領の歩みを忘れてしまい
蛇行歩幅して寄居したという
寒閉し中の青年だった。
今日の僕は誰の目にも
受領余死であると
思っていた。
しかしまだ地獄へ落ちなかった
僕もこのペンネームを
用いていたことは
僕は大きい書棚を
後ろに勤めて
妄想を払うようにし
ちょうど僕の向こうにあった
ポスターの展覧室へ入って行った。
が、そこにも
一枚のポスターの中には
聖ジョージらしい騎士が
一人翼のある竜を
刺し殺していた。
しかもその騎士は
兜の下に僕の仇の一人に近い
幅幅表していた。
僕はまた
寒閉しの中の
鳥竜の技の話を思い出し
展覧室へ通り抜けずに
幅の広い階段を下って行った。
僕はもう夜になった
日本橋通りを歩きながら
鳥竜という言葉を考え続けた。
それはまた
僕の持っている
スズリの銘にも違いなかった。
このスズリを僕に送ったのは
ある若い実業家だった。
彼はいろいろの事業に
参加していた。
僕は高い空を見上げ
無数の星の光の中に
どのくらいこの地球の小さいかということを
したがって
どのくらい僕自身の小さいか
ということを考えようとした。
しかし昼間は晴れていた空も
いつかもうすっかり曇っていた。
僕は突然
何者かの僕に敵意を持っているのを感じ
電車線路の向こうにある
あるカフェへ避難することにした。
それは避難に違いなかった。
僕はこのカフェの
一番奥のテーブルの前に
やっと楽々と腰を下ろした。
そこには幸い
僕のほかに2、3人の客が
あるだけだった。
僕は一杯のココアをすすり
普段のように薪煙を吹かし出した。
薪煙の煙は
薔薇色の壁へ
かすかに青い煙を立ち上らせていった。
この優しい色の調和も
やはり僕には愉快だった。
けれども僕はしばらくの後
僕の左の壁に掛けた
ナポレオンの肖像画を見つけ
時間を感じ出した。
ナポレオンはまだ学生だったとき
彼のチーリーのノートブックの最後に
聖エントヘレナ小さい島と
印していた。
それはあるいは
僕らの言うように偶然だったかもしれなかった。
しかし
ナポレオン自身にさえ
恐怖を呼び起こしたのは確かだった。
僕はナポレオンを見つめたまま
僕自身の作品を考え出した。
するとまず記憶に浮かんだのは
種々の言葉の中のアフォリズムだった。
つとに
それよりも地獄的であるという言葉だった。
それから
地獄編の主人公
ヨシヒレという演手の運命だった。
それから僕は薪タバコを吹かしながら
こういう記憶から逃れるために
このカフェの中を眺め回した。
僕のここへ避難したのは
5分も経たない前のことだった。
しかしこのカフェは
短時間の間にすっかり様子を改めていた。
中んづく僕を不快にしたのは
マホガニイマガイの椅子やテーブルの
少しもあたりのバラ色の壁と
調和を保っていないことだった。
僕はもう一度
人目に見えない苦しみの中に落ち込むのを恐れ
夢の中の回想
銀貨を一枚に投げ出すか早いか
早々このカフェを出ようとした。
もし、もし
二次視線いただきますが
僕の投げ出したのはどうかだった。
僕は屈辱を感じながら
一人往来を歩いているうちに
ふと遠い松林の中にある
僕の家を思い出した。
それはある郊外にある
僕の養父母の家ではない
ただ僕を中心にした
家族のために借りた家だった。
僕はかれこれ
十年前にも
こういう家に暮らしていた。
しかしある事情のために
警察にも父母と同居しだした。
同時にまた奴隷に
暴君に
力のない利己主義者に変わりだした。
前のホテルに帰ったのは
もうかれこれ十時だった。
ずっと長い道を歩いてきた僕は
僕の部屋へ帰る力を失い
太い瞼の火を燃やした
炉の前の椅子に腰を下ろした。
それから
それは
水戸から明治に至る
各時代の民を主人公にし
だいたい三十余りの短編を
時代中に連ねた長編だった。
僕は火の子の舞い上がるのを見ながら
ふと宮城の前にある
ある銅像を思い出した。
この銅像は甲冑を着
忠義の心そのもののように
高々と馬の上にまたがっていた。
しかしかれの敵だったのは
嘘。
僕はまた遠い過去から
一体で滑り落ちた。
そこへ幸いにも
着合わせたのは
ある先輩の彫刻家だった。
彼は相変わらず
微老土の服を着
短いヤギヒゲをそばせていた。
僕は椅子から立ち上がり
彼の差し出した手を握った。
それは僕の習慣ではない
パリやベルリンに半生を送った
彼の習慣に従ったのだった。
彼の手は不思議にも
爬虫類の皮膚のように湿っていた。
君はここに泊まっているんですか?
ええ。
仕事をしに?
ええ。仕事もしているんです。
彼はじっと僕の顔を見つめた。
僕は彼の目の中に
探偵に近い表情を感じた。
どうです。僕の部屋へ話しに来ては?
僕は挑戦的に話しかけた。
この勇気に乏しいくせに
たちまち挑戦的態度を取るのは
僕の悪癖の一つだった。
すると彼は微笑しながら
どこ?君の部屋は?
と尋ね返した。
僕らは親友のように肩を並べ
静かに話している外国人たちの中を
僕の部屋へ帰って行った。
彼は僕の部屋へ来ると
鏡を後ろにして腰を下ろした。
それから色々のことを話し出した。
色々のことを?
しかし大抵は女の話だった。
僕は罪を犯したために
地獄に落ちた一人に違いなかった。
が、それだけに悪徳の話は
いよいよ僕を憂鬱にした。
僕は一時的聖教徒になり
それらの女をあざけり出した。
エスコさんの唇を見たまえ。
あれは何人もの節分のために。
僕はふと口をつぐみ
鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。
彼はちょうど耳の下に
黄色い公約を貼り付けていた。
何人もの節分のために?
そんな人のように思いますがね。
彼は微笑してうなずいていた。
僕は彼の内心では
僕の秘密を知るために
絶えず僕を注意しているのを感じた。
けれどもやはり
僕らの話は女のことを離れなかった。
僕は彼を憎むよりも
僕自身の気の弱いのを恥じ
いよいよ憂鬱にならずにはいられなかった。
やっと彼の帰った後
僕はベッドの上に転がったまま
暗夜功労を読み始めた。
主人公の精神的闘争は
いちいち僕には通説だった。
僕はこの主人公に比べると
どのくらい僕のアホだったかを感じ
いつか涙を流していた。
同時にまた涙は
僕の気持ちにいつか平和を与えていた。
が、それも長いことではなかった。
僕の右の目は
もう一度半透明の歯車を感じ出した。
歯車はやはり回りながら
次第に数を増やしていった。
僕は頭痛の始まることを恐れ
枕元に本を置いたまま
0.8gのベロナールを飲み
とにかくぐっすり眠ることにした。
けれども僕は夢の中にあるプールを眺めていた。
そこにはまた何両の子供たちが
何人も泳いだりもぐったりしていた。
僕はこのプールを後ろに
向こうの松林へ歩いて行った。
すると誰か後ろから
お父さんと僕に声をかけた。
僕はちょっと振り返り
プールの前に立った妻を見つけた。
同時にまた激しい後悔を感じた。
お父さん、タオルは?
ああ、タオルはいらない。
子供たちに気をつけるんだよ。
僕はまた歩みを続け出した。
が、僕の歩いているのはいつか
プラットフォームに変わっていた。
それは田舎の停車場だったとみえ
長い生垣のあるプラットフォームだった。
そこにはまた英一という大学生や
年をとった女もたたずんでいた。
彼らは僕の顔を見ると
僕の前に歩み寄り
口々に僕へ話しかけた。
大火事でしたわね。
僕もやっと逃げてきたの。
僕はこの年をとった女に
何か見覚えのあるように感じた。
のみならず彼女と話していることに
ある愉快な興奮を感じた。
そこへ汽車は煙を上げながら
静かにプラットフォームへ横付けになった。
僕は一人この汽車に乗り
両側に白い布を垂らした寝台の間を歩いて行った。
するとある寝台の上に
ミイラに近い裸体の女が
一人こちらを向いて横になっていた。
それはまた僕の復讐のことだった。
ミイラの神、ある狂人の娘に違いなかった。
孤独の中の目覚め
僕は目を覚ますが早いか
思わずベッドを飛び降りていた。
僕の部屋は相変わらず
伝統の光に明るかった。
が、どこかに翼の音や
ネズミのきしる音も聞こえていた。
僕は扉を開けて廊下へ出て
前の炉の前へ急いで行った。
それから椅子に腰を下したまま
おぼつかない炎を眺め出した。
そこへ白い服を着た9時が
一人焚き木を加えに歩み寄った。
何時?
3時半ぐらいでございます。
しかし向こうのロッビーの隅には
アメリカ人らしい女が一人
何か本を読み続けた。
彼女の着ているのは
遠目に見ても緑色のドレスに違いなかった。
僕は何かに救われたのを感じ
じっと夜の明けるのを待つことにした。
長年の病苦に悩み抜いて挙げく
静かに死を待っている老人のように。
カフェでの出会い
4
彼女は
まだ?
僕はこのホテルの部屋に
やっと前の短編を書き上げ
ある雑誌に送ることにした。
もっとも僕の現行料は
一週間の他在費にも足りないものだった。
が、僕は僕の仕事を片付けたことに満足し
何か精神的競争剤を求めるために
銀座のある本屋へ出かけることにした。
冬の日の当たったアスファルトの上には
紙くずがいくつも転がっていた。
それらの紙くずは
光の加減か
炎の加減か
いずれも薔薇の花にそっくりだった。
僕は何者かの好意を感じ
その本屋の店へ入って行った。
そこもまた普段よりも小綺麗だった。
ただ、眼鏡をかけた小娘が一人
何か店員と話していたのは
僕には気がかりにならないこともなかった。
けれども僕は
往来に推した紙くずの薔薇の花を思い出し
アナトールフランスの対話集や
メリメーの書簡集を買うことにした。
それから
アスファルトの上に
薔薇の花を置いて
それから
メリメーの書簡集を買うことにした。
僕は二冊の本を抱え
あるカフェへ入って行った。
それから一番奥のテーブルの前に
コーヒーを送るのを待つことにした。
僕の向こうには
親子らしい男女が二人座っていた。
その息子は
僕よりも若かったものの
ほとんど僕にそっくりだった。
のみならず彼らは
恋人同士のように顔を近づけて話し合っていた。
僕は彼らを見ているうちに
少なくとも息子は
彼らに慰めを与えていることを
意識しているのに気づき出した。
それは僕にも覚えのある
神話力の一例に違いなかった。
同時にまた
幻世を地獄にするある
意思の一例にも違いなかった。
しかし
僕はまた苦しみに陥るのを恐れ
ちょうどコーヒーの来たのを幸いに
メリメーの書簡集を読み始めた。
彼はこの書簡集の中にも
彼の小説の中のように
鋭いアフォリズムをひらめかせていた。
それらのアフォリズムは
僕の気持ちをいつか鉄のように
頑丈にしだした。
この影響を受けやすいことも
僕の弱点の一つだった。
僕は一杯のコーヒーを飲み終わった後
何でも来いという気になり
さっさとこのカフェを後ろにして行った。
僕は往来を歩きながら
いろいろの飾り窓を覗いて行った。
ある額縁屋の飾り窓は
ベートー弁の肖像画を掲げていた。
それは神を逆立てた天才そのものらしい
肖像画だった。
僕はこのベートー弁を
滑稽に感ぜずには得られなかった。
そのうちにふと出会ったのは
高等学校以来の旧友人だった。
この応用科学の大学教授は
大きい中折れカバンを抱え
片目だけ真っ赤に血を流していた。
どうした君の目は?
ああ、これか。
これはただの血膜炎さ。
僕はふと十四五年以来
いつも神話力を感じるたびに
僕の目も彼の目のように
血膜炎を起こすのを思い出した。
が、何とも言わなかった。
彼は僕の肩を叩き
僕らの友達のことを話し出した。
それから話を続けたまま
あるカフェへ僕を連れて行った。
久しぶりだな。
朱春水の顕微式以来だろ。
彼は葉巻に火をつけた後
代理席のテーブル越しに
こう僕に話しかけた。
ああ、そうだ。
あの朱春…
僕は何故か朱春水の
言葉を正確に発音できなかった。
それは日本語だっただけに
ちょっと僕を不安にした。
しかし彼は無頓着に
いろいろなことを話して行った。
Kという小説家のこと
彼の買ったブルドックのこと
リウイサイトという毒ガスのこと
君はちっとも書かないようだね。
天気簿というのは読んだけれども
あれは君の辞書伝かい?
うん、僕の辞書伝だ。
あれはちょっと病的だったぜ。
でも、僕は
あれはちょっと病的だったぜ。
この頃、体はいいのかい?
ああ、相変わらず
薬ばかり飲んでいる始末だ。
新しい小説の始まり
うん、僕もこの頃は不眠症だがね。
僕も?
どうして君は僕もというんだ?
だって君も不眠症だって言うじゃないか。
不眠症は危険だぜ。
彼は左だけ充血した目に
微症に近いものを浮かべていた。
僕は返事をする前に
不眠症の症の発音を正確にできないのを
感じ出した。
きちがいの息子には当たり前だ。
僕は十分と経たないうちに
一人また往来を歩いて行った。
アスファルトの上に落ちた紙くずは
時々僕ら人間の顔のようにも
見えないことはなかった。
すると向こうから断髪にした女が
一人通りかかった。
彼女は遠目には美しかった。
けれども目の前へ来たのを見ると
小じわのある上に醜い顔をしていた。
のみならず妊娠しているらしかった。
僕は思わず顔を背け
広い横帳を曲がって行った。
が、しばらく歩いているうちに
地の痛みを感じ出した。
それは僕には
罪悪より他に直すことのできない
痛みだった。
罪悪。
ベートーベンもやはり罪悪をしていた。
罪悪に使うイオウの匂いは
たちまち僕の鼻を襲い出した。
しかしもちろん往来には
どこにもイオウは見えなかった。
僕はもう一度紙くずの薔薇の鼻を思い出しながら
努めてしっかりと歩いて行った。
一時間ばかり経った後
僕は僕の部屋に閉じこもったまま
窓の前の机に向かい
新しい小説に取り掛かっていた。
ベンは僕にも不思議だったくらい
ずんずん原稿用紙の上を走って行った。
しかしそれも
二、三時間の後には
誰か僕の目に見えないものに
抑えられたように止まってしまった。
僕はやむを得ず机の前を離れ
あちこちと部屋の中を歩き回った。
僕の古代妄想はこういうものだった。
僕は何も考えず
部屋の中を歩いて行った。
僕の古代妄想はこういう時に
最も著しかった。
僕は野蛮な喜びの中に
僕には両親もなければ妻子もない
ただ僕のペンから流れ出した
命だけあるという気になっていた。
けれども僕は四、五分の後
電話に向かわなければならなかった。
電話は何度返事をしても
ただ何か曖昧な言葉を繰り返して
伝えるばかりだった。
が、それはともかくも
モールと聞こえたのに違いなかった。
僕はとうとう電話を離れ
もう一度部屋の中を歩き出した。
しかし、モールという言葉だけは
妙に気になってならなかった。
モール。
モール。
モールはモグラモチという英語だった。
この連想も僕には愉快ではなかった。
が、僕は二、三秒の後
M.O.L.E.
モールを
ラ・モートに綴り直した。
ラ・モールは
シュというフランス語は
たちまち僕を不安にした。
シュは姉の夫に迫っていたように
僕にも迫っているらしかった。
けれども僕は不安の中にも
何かおかしさを感じていた。
のみならず、いつか微笑していた。
このおかしさは何のために起こるか。
それは僕自身にもわからなかった。
僕は久しぶりに鏡の前に立ち
まともに僕の影と向かい合った。
僕の影ももちろん微笑していた。
僕はこの影を見つめているうちに
第二の僕のことを思い出した。
第二の僕。
ドイツ人のいわゆるドッペルゲンガーは
幸せにも僕自身に見えたことはなかった。
しかしアメリカの映画俳優になった
K君の夫人は
第二の僕を低劇の廊下に見かけていた。
僕は突然K君の夫人に
「センダッテはついご挨拶もしませんで。」
と言われ、
彼女は怒っていた。
彼女は怒っていた。
彼女は怒っていた。
ドッペルゲンガーは
子どもたちの一のお願いで
当惑したことを覚えている。
それから、もう孝人になった
ある片足の翻訳家も
やはり銀座のあるタバコ屋に
第二の僕を見かけていた。
しはあるいは
僕よりも第二の僕に来るのもかもしれなかった。
もしまた僕に来たとしても
僕は鏡に後を向け
窓の前の机に帰っていった。
四角に業界積を組んだ窓は
枯れ芝や池を覗かせていた。
僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中に焼いた何冊かのノートブックや未完成の戯曲を思い出した。
それからペンを取り上げると、もう一度新しい小説を書き始めた。
5. 灼光
日の光は僕を苦しめ出した。僕は実際、もぐら餅のように窓の前へカーテンを下ろし、昼間も電灯を灯したまま、せっせと前の小説を続けていった。
それから仕事に疲れると、丁寧のイギリス文学誌を広げ、詩人たちの生涯に目を通した。
彼らはいずれも不幸だった。
エリザベス朝の巨人たちさえ、一代の学者だったベン・ジョンソンさえ、
彼の足の親指の上にローマとカルセイジとの軍勢の戦いを始めるのを眺めたほど、神経的疲労に陥っていた。
僕はこういう彼らの不幸に、残酷な悪意に満ち満ちた喜びを感じずにはいられなかった。
ある東風の強い夜。それは僕には良い印だった。
僕は地下室を抜けて往来へ出、ある老人を訪ねることにした。
彼はある聖書会社の屋根裏にたった一人小遣いをしながら、祈祷や読書に精進していた。
僕らは火鉢に手をかざしながら、壁にかけた十字架の下にいろいろなことを話し合った。
なぜ僕の母は発狂したか。
なぜ僕の父の事業は失敗したか。
なぜまた僕は罰せられたか。
それらの秘密を知っている彼は妙におごそかな微笑を浮かべ、いつまでも僕の相手をした。
のみならず、時々短い言葉に人生の刈り勝ちを描いたりした。
僕はこの屋根裏の因者を尊敬しないわけにはいかなかった。
しかし彼と話しているうちに、彼もまた神話力のために動かされていることを発見した。
その植木屋の娘というのは器量もいいし、気立てもいいし、それは私に優しくしてくれるんです。
いくつ?
今年で十八です。
それは彼には父らしい愛であるのかもしれなかった。
しかし僕は彼の目の中に情熱を感じずにはいられなかった。
のみならず、彼のすすめたリンゴはいつか黄ばんだ皮の上へ一角獣の姿を現していた。
僕は木目やコーヒージャワンの日々にたびたび神話的動物を発見していた。
一角獣はキリンに違いなかった。
僕はある敵になる批評家の僕を910年代のキリンジと呼んだのを思い出し、この十字架のかかった屋根裏も安全地帯でないことを感じた。
いかがですか?この頃は。
相変わらず神経ばかりイライラしてね。
それは薬でもダメですよ。
信者になる気はありませんか?
もし僕でもなれるもんなら。
何も難しいことはないのです。
ただ、神を信じ、神の子のキリストを信じ、キリストの行った奇跡を信じさえすれば、悪魔を信じることはできますがね。
では、なぜ神を信じないのです?
もし影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?
しかし、光のない闇もあるでしょう?
光のない闇とは?
僕は黙るより他はなかった。
彼もまた僕のように闇の中を歩いていた。
闇と光の信念
が、闇のある以上は光もあると信じていた。
僕らの論理の異なるのはただこういう一点だけだった。
しかしそれは少なくとも僕には超えられない溝に違いなかった。
けれども光は必ずあるんです。
その証拠には奇跡があるんですから。
奇跡なおというものは今でもたびたび起こっているんですよ。
それは悪魔の行う奇跡は?
どうしてまた悪魔なのと言うんです。
僕はこの一、二年の間、僕自身の経験したことを彼に話した誘惑を感じた。
が、彼から最新伝わり、僕もまた母のように精神病院に入ることを恐れないわけにもいかなかった。
あそこにあるのは?
このたくましい老人は古い書棚を振り返り、何か木曜陣らしい表情を示した。
ああ、ドストエフスキー全集です。
罪と罰はお読みですか?
僕はもちろん十年前にも四五冊のドストエフスキーに親しんでいた。
が、偶然、彼の言った罪と罰という言葉に感動し、この本を貸してもらった上、前のホテルへ帰ることにした。
伝統の光に輝いた人通りの多い往来はやはり僕には不快だった。
つとに知り人に会うことは到底耐えられないのに違いなかった。
僕は努めて暗い往来を選び、盗人のように歩いていった。
しかし僕はしばらくの後、いつか胃の痛みを感じ出した。
この痛みを止めるものは一杯のウイスキーのあるだけだった。
僕はあるバーを見つけ、その扉を押して入ろうとした。
けれども狭いバーの中にはタバコの煙の立ち込めた中に芸術家らしい青年たちが何人も群がって酒を飲んでいた。
飲みならず、彼らの真ん中には耳隠しにゆった女が一人熱心にマンドリンを引き続けていた。
僕はたちまち痛悪を感じ、遠中へ入らずに引き返した。
それといつか僕の影の左右に揺れているのを発見した。
しかも僕を照らしているのは不気味にも赤い光だった。
僕は往来に立ち止まった。
けれども僕の影は前のように絶えず左右に動いていた。
僕はおぞおぞ振り返り、やっとこのバーの軒につった色ガラスのランタン案を発見した。
ランタン案は激しい風のためにおもろに空中に動いていた。
僕の次に入ったのはある地下室のレストランだった。
僕はそこのバーの前に立ち、ウィスキーを一杯注文した。
あ、ウィスキーよ。ブラック&ホワイトばかりでございますが。
僕はソーダ水の中にウィスキーを入れ、黙って一口ずつ飲み始めた。
僕の隣には新聞記者らしい三十前後の男が二人何か小声に話していた。
飲みならずフランス語を使っていた。
僕は彼らに背中を向けたまま、全身に彼らの視線を感じた。
それは実際電波のように僕の体に答えるものだった。
彼らは確かに僕の名を知り、僕の噂をしているらしかった。
僕は銀貨を一枚投げ出し、それは僕の持っている最後の一枚の銀貨だった。
この地下室の外へ逃れることにした。
夜風の吹き渡る往来は、多少胃の痛みを薄らいだ僕の神経を丈夫にした。
僕はラスコルニコフを思い出し、何事も懺悔したい欲望を感じた。
が、それは僕自身のほかにも、いや、僕の家族のほかにも悲劇を生ずるのに違いなかった。
飲みならずこの欲望さえ真実かどうかは疑わしかった。
もし僕の神経さえ常人のように丈夫になれば、
けれども僕はそのためにはどこかへ行かなければならなかった。
マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ。
そのうちにある店の軒につった白い小型の看板は突然僕を不安にした。
それは自動車のタイヤに翼のある商標を描いたものだった。
僕はこの商標に人工の翼を頼りにした古代のギリシャ人を思い出した。
彼は空中に舞い上がったあげく、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海中に敵視していた。
マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ。
僕はこういう僕の夢をあざ笑わないわけにはいかなかった。
同時にまた復讐の神に追われたオレステスを考えないわけにもいかなかった。
僕はうんがに添いながら暗い往来を歩いて行った。
そのうちにある郊外にある養父母の家を思い出した。
悪魔の奇跡
養父母はもちろん僕の帰るのを待ち暮らしているのに違いなかった。
おそらくは僕の子供たちも。
しかし僕はそこへ帰るとオネズから僕を束縛してしまうある力を恐れずにはいられなかった。
うんがは涙った水の上にダルマ舟を一層横付けにしていた。
そのまたダルマ舟は船の底から薄い光を漏らしていた。
そこにも何人かの男女の家族は生活しているのに違いなかった。
やはり愛し合うために憎しみ合いながら。
が僕はもう一度戦闘的精神を呼び起こしウイスキーの余裕を感じたまま前のホテルへ帰ることにした。
僕はまた机に向かいメリメーの書簡集を読み続けた。
それはまたいつの間にか僕に生活力を与えていた。
しかし僕は晩年のメリメーの新京都になっていたことを知るとにわかに仮面の陰にあるメリメーの顔を感じ出した。
彼もまたやはり僕らのように暗い中を歩いている一人だった。
闇の中を。
アンヤコーラはこういう僕には恐ろしい本に変わり始めた。
僕は憂鬱を忘れるためにアナトールフランスの対話集を読み始めた。
がこの近代の牧羊人もやはり十字顔になっていた。
一時間ばかり経った後、9時は僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。
それらの一つはライプツヒの本屋から僕に近代の日本の女という小論文を書けというものだった。
なぜ彼らは特に僕にこういう小論文を書かせるのであろう。
のみならずこの英語の手紙は
我々はちょうど日本画のように黒と白の他に色彩のない女の肖像画でも満足である。
という肉質のPSを加えていた。
僕はこういう一行にブラック&ホワイトというウィスキーの名を思い出し
ズタズタにこの手紙を破ってしまった。
それから今度は手当たり次第に一つの手紙の封を切り黄色い書簡線に目を通した。
その手紙を書いたのは僕の知らない青年だった。
しかし二三行も読まないうちに
あなたの地獄編は
という言葉は僕を苛立たせずには置かなかった。
三番目に封を切った手紙は僕の老いから来たものだった。
僕はやっと一息つき家事上の問題などを読んでいった。
けれどもそれさえ最後へ来るといきなり僕を打ちのめした。
下週、釈光の再版を送りますから。
釈光。僕は何者かの霊障を感じ、僕の部屋の外へ避難することにした。
廊下には誰も人影はなかった。
僕は片手に壁を押さえ、やっとロッビーへ歩いていった。
それから椅子に腰を下ろし、とにかく薪たぼこに火を移すことにした。
薪たぼこは何故かエイアーシップだった。
僕はこのホテルへ落ち着いてから、いつもスターばかり吸うことにしていた。
人工の翼はもう一度僕の目の前へ浮かび出した。
僕は向こうにいる救助を呼び、スターを二箱もらうことにした。
しかし救助を信用すればスターだけはあいにく品切れだった。
エイアーシップならばございますが、
僕は頭を振ったまま広いロッビーを眺め回した。
存在の葛藤
僕の向こうには外国人が四五人、テーブルを囲んで話していた。
しかも彼らの中の一人。
赤いワンピースを着た女は小声に彼らと話しながら時々僕を見ているらしかった。
ミセス・タウンズヘッド。
何か僕の目に見えないものはこう僕にささやいていった。
ミセス・タウンズヘッド。
何か僕にささやいていった。
ミセス・タウンズヘッドなどという名はもちろん僕の知らないものだった。
例え向こうにいる女の名にしても。
僕はまた椅子から立ち上がり、発狂することを恐れながら僕の部屋へ帰ることにした。
僕は僕の部屋へ帰ると、すぐにある精神病院へ電話をかけるつもりだった。
が、そこへ入ることは、僕には死ぬことに変わらなかった。
僕はさんざん躊躇った後、この恐怖を紛らすために罪と罰を読み始めた。
しかし偶然開いたページはカラマード夫の兄弟の一節だった。
僕は本を間違えたのかと思い、本の表紙へ目を落とした。
罪と罰。
本は罪と罰に違いなかった。
僕はこの製本屋の閉じ違いに、
そのまた閉じ違えたページを開いたことに運命の指の動いているのを感じ、
やもうえずそこを読んでいった。
けれども、一ページも読まないうちに全身が震えるのを感じ出した。
そこは悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた一節だった。
イヴァンを、ソリントベルグを、モーパスさんを、あるいはこの部屋にいる僕自身を。
こういう僕を救うものは、ただ眠りのあるだけだった。
しかし、催眠剤はいつの間にか一筋も残らず無くなっていた。
僕は到底眠らずに苦しみ続けるのに耐えなかった。
が、絶望的な勇気を生じ、コーヒーを持ってきてもらった上、死に物狂いにペンを動かすことにした。
2枚、5枚、7枚、10枚。
原稿はみるみる出来上がっていった。
僕はこの小説の世界を超自然の動物に満たしていた。
のみならず、その動物の一匹に僕自身の肖像画を描いていた。
けれども疲労は、おもむろに僕の頭を曇らせ始めた。
僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上へ仰向けになった。
それから4、50分間は眠ったらしかった。
しかしまた、誰か僕の耳にこういう言葉を囁いたのを感じ、
たちまち目を覚まして立ち上がった。
リ・ディアブリモア
両海岸の窓の外はいつか冷え冷えと明けかかっていた。
僕はちょうど戸の前に立たずみ、誰もいない部屋の中を眺め回した。
すると向こうの窓ガラスはまだらに、
がやきに曇った上に小さい風景を表していた。
それは黄ばんだ松林の向こうに海のある風景に違いなかった。
僕はおぞおぞ窓の前に近づき、
この風景を作っている者は実は庭の枯れ芝や池だったことを発見した。
けれども僕の錯覚はいつか僕の家に対する恐襲に近いものを呼び起こしていた。
僕は9時にでもなり次第ある雑誌社へ電話をかけ、
とにかく金の都合をした上、僕の家へ帰る決心をした。
机の上に置いたカバンの中へ本や原稿を押し込みながら。
6、飛行機
僕は東海道線のある停車場からその奥のある秘書地へ自動車を飛ばした。
運転手はなぜかこの寒さに古いレーンコートをひっかけていた。
僕はこの暗いを不気味に思い、
勤めて彼を見ないように窓の外へ目をやることにした。
すると低い松の生えた向こうに、
おそらくは古い街道に葬式が一列通るのを見つけた。
白針の提灯や龍頭はその中に加わってはいないらしかった。
が、金銀の増加の波数は静かに腰の前後に揺らいでいった。
やっと僕の家へ帰った後、
僕は妻子や催眠薬の力により、2、3日はかなり平和に暮らした。
僕の2階は松林の上にかすかに海を覗かせていた。
僕はこの2階の机に向かい、鳩の声を聞きながら午前だけ仕事をすることにした。
鳥は鳩やカラスのほかに雀も縁側へ舞い込んだりした。
それもまた僕には愉快だった。
気弱どうにいる。
僕はペンを持ったまま、その度にこんな言葉を思い出した。
ある生温かいどん天の午後、
僕はある雑貨店へインクを買いに出かけていった。
するとその店に並んでいるのはセピア色のインクばかりだった。
セピア色のインクはどのインクよりも僕を不快にするのを常としていた。
僕はやむを得ずこの店を出、
人通りの少ない往来をぶらぶら一人歩いて行った。
そこへ向こうから金岩らしい40前後の外国人が一人肩をそびやかせて通りかかった。
彼はここに住んでいる被害妄想卿のスウェーデン人だった。
しかも彼の名はストリントベルグだった。
僕は彼とすれ違う時、肉体的に何か答えるのを感じた。
この往来はわずかに2、3丁だった。
が、その2、3丁を通るうちにちょうど半面だけ黒い犬は4度も僕のそばを通って行った。
僕は横丁を曲がりながらブラック&ホワイトのウィスキーを思い出した。
のみならず今のストリントベルグの鯛も黒と白だったのを思い出した。
それは僕にはどうしても偶然であるとは考えられなかった。
もし偶然でないとすれば。
僕は頭だけ歩いているように感じ、ちょっと往来に立ち止まった。
道端には針金の柵の中にかすかに虹の色を帯びたガラスの鉢が一つ捨ててあった。
この鉢はまた底の周りに翼らしい模様を浮き上がらせていた。
そこへ松の梢からスズメが何羽も舞い下がってきた。
主人公の葛藤
が、この鉢のあたりへ来るとどのスズメもみな言い合わせたように一度に空中へ逃げ登って行った。
僕は妻の実家へ行き、庭先の遠い椅子に腰を下ろした。
庭の隅の金網の中には白いレグ本種のニワトリが何羽も静かに歩いていた。
それからまた僕の足元には黒犬も一匹横になっていた。
僕は誰にもわからない疑問を解こうと焦りながら、
とにかく外見だけは冷ややかに妻の母や弟と世間話をした。
静かですね、ここへ来ると。
それはまだ東京よりもね。
ここでもうるさいことはあるんですか?
だってここも世の中ですもの。
妻の母はこう言って笑っていた。
実際、この秘書地もまた世の中であるのに違いなかった。
僕はわずかに一年ばかりの間にどのくらいここにも罪悪や悲劇が行われているかを知り尽くしていた。
おもむろに患者を毒殺しようとした医者。
養子夫婦の家に放火した老婆。
妹の資産を奪おうとした弁護士。
それらの人々の家を見ることは、僕にはいつも人生の中に地獄を見ることに異ならなかった。
この町にはキチガイが一人いますね。
えいちちゃんでしょ?あれはキチガイじゃないんですよ。
バカになってしまったんですよ。
総発生治法というやつですね。
僕はあいつを見るたびに気味が悪くってたまりません。
あいつはこの間もどういう了見か。
罵倒感善音の前にお辞儀をしていました。
気味が悪くなるなんて、もっと強くならなければダメですよ。
兄さんは僕などよりも強いんだけれども。
武将ひげを伸ばした妻の弟も寝床の上に置き直ったまま、いつもの通り遠慮かしに僕らの話に加わりだした。
強い中に弱いところもあるから。
おやおや、それは困りましたね。
僕はこういった妻の母を見、苦笑しないわけにはいかなかった。
すると弟も微笑しながら遠い垣の外の松葉橋を眺め、何かうっとりと話し続けた。
この若い病後の弟は時々僕には肉体を出した精神そのもののように見える人だった。
妙に人間離れをしているかと思えば、人間的欲望もずいぶん激しいし、
善人かと思えば悪人でもあるしさ。
いや、善悪というよりも何かもっと反対なものが。
じゃあ、大人の中に子供もあるんだろう。
うーん、そうでもない。僕にははっきりと言えないけれど、電気の両極にいているのかな。何しろ反対なものを一緒に持っている。
そこへ僕らを驚かしたのは激しい飛行機の響きだった。
僕は思わず空を見上げ、松の梢に触れないばかりに舞い上がった飛行機を発見した。
空は翼を黄色に塗った珍しい単葉の飛行機だった。
鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げ回った。
外に犬は吠えたてながら尾を撒いて円の下へ入ってしまった。
あの飛行機は落ちはしないか?
うーん、大丈夫。
兄さんは飛行機病という病気を知っている?
僕は薪煙草に火をつけながら、いや、という代わりに頭を振った。
ああいう飛行機に乗っている人は高空の空気ばかり吸っているものだからだんだんこの地面の上の空気に耐えられないようになってしまうんだって。
妻の母の上を後ろにした後、僕は枝一つ動かさない松林の中を歩きながらじりじり憂鬱になっていった。
なぜあの飛行機は他へ行かずに僕の頭の上を通ったのであろう。
なぜまたあのホテルは薪煙草のエイアーシップばかり売っていたのであろう。
僕はいろいろの疑問に苦しみ人気のない道を寄って歩いていった。
海は低い砂山の向こうに一面に灰色に曇っていた。
そのまた砂山にはブランコのないブランコ台が一つずつ立っていた。
僕はこのブランコ台を眺め、たちまち公衆台を思い出した。
実際またブランコ台の上にはカラスが二、三羽留まっていた。
カラスは皆僕を見ても飛び立つ景色さえ示さなかった。
のみならず真ん中に留まっていたカラスは大きいくちばしを空へあげながら確かによたび声を出した。
僕は芝の枯れた砂土手に沿い別荘の多い小道を曲がることにした。
この小道の右側にはやはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒、しらじらと立っているはずだった。
僕の親友はこの家のことを春のいる家と称していた。
が、この家の前を通りかかると、そこにはコンクリートの土台の上にバスタッブが一つあるだけだった。
火事。僕はすぐにこう考え、そちらを見ないように歩いていった。
すると、自転車に乗った男が一人、まっすぐに向こうから近づき出した。
彼は焦げ茶色の取り打ち棒をかぶり、妙にじっと目を据えたままハンドルの上へ身をかがめていた。
僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小道へ入ることにした。
しかし、この小道の真ん中にも腐ったもぐら餅の死骸が一つ腹を上にして転がっていた。
何者かの僕を狙っていることは一足ごとに僕を不安にし出した。
そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を遮り出した。
精神の変化
僕はいよいよ最後の時の近づいていることを恐れながら首筋をまっすぐにして歩いていった。
歯車の数は増えるのにつれ、だんだん急に回り始めた。
同時にまた、右の松林はひっそりと枝を交わしたまま、ちょうど細かい霧子ガラスを透かしてみるようになり始めた。
僕は動機の高まるのを感じ、何度も道端に立ち止まろうとした。
けれども誰かに押されるように立ち止まることさえ容易ではなかった。
三十分ばかりたった後、僕は僕の二階に仰向けになり、じっと目をつぶったまま激しい頭痛をこらえていた。
すると、僕のまぶたの裏に銀色の羽根を鱗のようにたたんだ翼が一つ見え始めた。
それは実際、網膜の上にはっきりと映っているものだった。
僕は目を開いて天井を見上げ、もちろん何も天井にはそんなもののないことを確かめた上、もう一度目をつぶることにした。
しかしやはり銀色の翼はちゃんと暗い中に映っていた。
僕はふとこの間乗った自動車のラディエーターキャップにも翼のついていたことを思い出した。
そこへ誰かはしご壇を慌ただしく登ってきたかと思うと、すぐにまたバタバタ駆け下りていった。
僕はその誰かの妻だったことを知り、驚いて胎を起こすが早いか、ちょうどはしご壇の前にある薄暗い茶の前へ顔を出した。
すると妻はつっぷしたまま息切れをこらえていると見え、絶えず肩を震わしていた。
どうした?
いえ、どうもしないんです。
妻はやっと顔をもたげ、無理に微笑して話し続けた。
どうもしたわけではないんですけれどもね、ただ何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたもんですから。
それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった。
僕はもうこの先を描き続ける力を持っていない。
こういう気持ちの中に生きているものは何とも言われない苦痛である。
誰か、僕の眠っているうちにそっと締め殺してくれるものはないか。
1968年発行。新聴者。新聴文庫。
葛波。あるアホーの一生。
より読了。読み終わりです。
うーん、なるほど。
読み心地の手触りがあるアホーの一生と変わらないなと思ったらそういうことですね。
狂ったまま死んでいった母を幼い頃に見、絶賞してくれた夏目漱石先生がいなくなってしまい、
短編を褒められたけど長編はなかなかうまくいかず、女性関係のもつれもあり、
困窮した家族親類が一度に押し寄せてきて自分のところに爪寄せてくるみたいな苦しいなあみたいなのがずっとずっとありますね。
うーん、そうか。
意向となったあるアホーの一生も、なんかもうちょっとちぎれちぎれに途切れ途切れ、
パーツパーツに分かれてますが、まあ大体こんな感じですね。
しかしまあちょっとインテリですね。
カフェとかロッビーとか、書いてある通りのまま読みましたけど、ちょっとなんだかなという感じはしますが。
はい、終わった終わった。
一応読み終わった後ですが、あらすじみたいな解説を読むと、
歯車は芥川龍之介が晩年の極度に不安定な精神状態をほぼ自分そのものである僕を語り手にして描いた詩小説的な短編で、
死の直前の内面のドークメントという性格が非常に強い作品と理解できます。
全体として現実の出来事の筋よりも主人公の不安、恐怖、被害妄想がどのように増幅し、
世界の見え方そのものが歪んでいく過程が主題となっていますということです。
物語の解釈
レインコート、レインコートとなっていましたけど。
あと火事の話、飛行機の話。
はい、猫が鳴いている。
はい、ということでした。
寝落ちに聞くには題材として暗いかな。
もうすぐ死の予期している人の内面だったからね。
はい。
無事に寝落ちできていたら、僕のこの話もここまで聞けていないというのが理想の寝方だと思いますが、いかがでしょうか。
はい、じゃあ終わりにしていきましょう。
無事に寝落ちできた方も、最後までお付き合いいただけた方も大変にお疲れ様でした。
といったところで、今日のところはこの辺で。また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
01:21:10

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