1. 寝落ちの本ポッドキャスト
  2. 073芥川龍之介「或阿呆の一生」
2024-10-29 53:37

073芥川龍之介「或阿呆の一生」

073芥川龍之介「或阿呆の一生」

遺稿。半生を振り返りながらも、女と家族に追い詰められて乱されていく彼が見えます。暗いのでご注意。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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00:04
寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
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さて、今日はですね、芥川龍之介の
或阿呆の一生というテキストを読もうと思います。
わかりませんが、一番最後にですね、
唯言の唯に原稿の項で行こうと書いてあるので、
一番最後に書いた文章、唯言書に近いテキストなんじゃないかなと思います。
と捉えると、この或阿呆ということは、
自分自身を指しているのではということが想像されますが、
絶対明るい文章じゃないでしょうね。
淡々と読んでいきたいと思います。
50、50節、51節かな?
51節ですね。ボリュームがありそうだったんでね、ちょっとね、
手引かれてたんですけど、大変そうだなっていう。
まあでもやっていきましょうか。
はい、やります。それでは参ります。
或阿呆の一生
僕はこの原稿を発表する過疑はもちろん、
発表する時や期間も君に一任したいと思っている。
君はこの原稿の中に出てくる大抵の人物を知っているだろう。
しかし僕は発表するとしても、
インデキスをつけずにもらいたいと思っている。
このインデキスってのは注釈とか、そういう意味らしいです。
僕は今は最も不幸な幸福の中に暮らしている。
しかし不思議にも後悔していない。
ただ僕のごとき悪不、悪し、
悪心を持った者たちをいかにも気の毒に感じている。
では、さようなら。
僕はこの原稿の中では少なくとも、
意識的には自己弁護をしなかったつもりだ。
最後に僕のこの原稿を特に君に託するのは、
君のおそらくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。
都会人という僕の皮を剥ぎさえすれば、
03:00
どうかこの原稿の中に僕のあほうさ加減を笑ってくれたまえ。
昭和2年、6月20日。
芥川龍之介。
久米正夫くん。
1.時代。
それはある本屋の二階だった。
二十歳の彼は書棚にかけた西洋風のはしごをのぼり、
新しい本を探していた。
モーパッサン、ボードレール、
ストリントベリー、イプセン、
シオウ、トルストイ。
そのうちに日の暮れは迫り出した。
しかし彼は熱心に本の背文字を読み続けた。
そこに並んでいるのは本というより、
むしろ世紀末それ自身だった。
ニーチェ、ベルレーン、ゴンクール兄弟、
ドストヘルスキー、ハーフトマン、フローベール。
彼は薄暗がりと戦いながら彼らの名前を数えていった。
が、本は自ら物浮い影の中に沈み始めた。
彼はとうとう根気もつき西洋風のはしごをおりようとした。
すると、傘のない電灯が一つ。
ちょうど彼の頭の上に突然ポカリと火をともした。
彼ははしごの上にたたずんだまま、
本の間に動いている店員や客を見下ろした。
彼らは妙に小さかった。
のみならず、いかようにもみすぼらしかった。
人生は一行のボードレールにもしかない。
彼はしばらくはしごの上からこういう彼らを見渡していた。
巨人たちはみな同じようにねずみ色の着物を着せられていた。
広い部屋はそのためにいっそう憂鬱に見えるらしかった。
彼らの一人はオルガンに向かい熱心に賛美歌を弾き続けていた。
同時にまた彼らの一人はちょうど部屋の真ん中に立ち、
踊るというよりも跳ね回っていた。
彼は血色のいい医者と一緒にこういう光景を眺めていた。
彼の母も十年前には少しも彼らと変わらなかった。
少しも。
彼は実際彼らの周期に、彼の母の周期を感じた。
じゃあ行こうか。
医者は彼の先に立ちながら廊下伝えにある部屋に行った。
06:01
その部屋の隅にはアルコールを満たした大きいガラスの壺の中に脳水がいくつも浸かっていた。
彼はある脳水の上にかすかに白いものを発見した。
それはちょうど卵の白身をちょっと垂らしたものに近いものだった。
彼は医者と立ち話をしながらもう一度彼の母を思い出した。
この脳水を持っていた男は何々伝統会社の技師だったがね、
いつも自分を黒光りのする大きなダイナモだと思っていたよ。
彼は医者の目を避けるためにガラス窓の外を眺めていた。
そこには空き瓶の破片を植えたレンガ米のほかに何もなかった。
しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白ませていた。
彼はある郊外の二階の部屋に寝起きしていた。
それは地盤のゆるいために妙に傾いた二階だった。
彼のおばはこの二階にたびたび彼とけんかをした。
それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかった。
しかし彼は彼のおばに誰よりも愛を感じていた。
一生独身だった彼のおばはもう彼の二十歳の時にも六十に近い年寄りだった。
彼はある郊外の二階に何度も互いに愛し合う者は苦しめ合うのか考えたりした。
その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。
4.東京
墨田川はどんより曇っていた。
彼は走っている古城記の窓から向こう島の桜を眺めていた。
花を咲かった桜は彼の目には一列のボロのように憂鬱だった。
が彼はその桜に、江戸以来の向こう島の桜にいつか彼自身を見出していた。
5.我
彼は彼の先輩と一緒にあるカフェのテーブルに向かい絶えず薪煙を吹かしていた。
彼はあまり口を聞かなかった。
が彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けていた。
今日は半日自動車に乗っていた。
何か用があったのですか。
彼の先輩は頬杖をしたまま極めて無雑さに返事をした。
09:02
何、ただ乗っていたかったから。
その言葉は彼の知らない世界へ。
神々に近いがの世界へ彼自身を解放した。
彼は何か痛みを感じた。
が同時にまた喜びも感じた。
そのカフェはごく小さかった。
しかしパンの紙の額の下には赤い鉢に植えたゴムの木が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしていた。
我じゃなくてがと読むべきでしたね。
6.病
彼は絶え間ない潮風の中に大きいイギリスの辞書を広げ、指先に言葉を探していた。
たらり屋
翼の生えた靴あるいはサンダル
テイル
タリポット
東インドに産するイヤシ。
幹は50フィートより100フィートの高さに至り、葉は傘、扇、帽子等に用いらる。
70年に一度花を開く。
彼の想像ははっきりとこのヤシの花を描き出した。
すると彼は喉元に今までにない知らないかゆさを感じ、思わず辞書の上へ炭を落とした。
炭を?
しかしそれは炭ではなかった。
彼は短い命を思い、もう一度このヤシの花を想像した。
この遠い海の向こうに高々とそびえているヤシの花を。
血吐いたのかな?
7
彼は突然。
それは実際突然だった。
彼はある本屋の店先に立ち、ゴーグの画集を見ているうちに突然絵というものを了解した。
もちろんそのゴーグの画集は写真版だったのに違いなかった。
が彼は写真版の中にも鮮やかに浮かび上がる自然を感じた。
この絵に対する情熱は彼の視野を新たにした。
彼はいつか木の枝のうねりや女の頬のふくらみに絶え間ない注意を配り出した。
ある雨を持った秋の日の暮れ。
彼はある郊外のガードの下を通りかかった。
ガードの向こうのとてには荷馬車が一台停まっていた。
彼はそこを通りながら、誰か前にこの道を通った者のあるのを感じ出した。
誰か。
それは彼自身に今さら問いかける必要もなかった。
23歳の彼の心の中には耳を切り取ったオランダ人が一人。
12:04
長くパイプをくわえたまま、この憂鬱な風景画の上へじっと鋭い目を注いでいた。
8.火花
彼は雨に濡れたままアスファルトの上を踏んで行った。
雨はかなり激しかった。
彼はしぶきの満ちた中にゴム引きの街灯の匂いを感じた。
すると目の前の架空船が一本紫色の火花を発していた。
彼は妙に感動した。
彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。
彼は雨の中を歩きながらもう一度後ろの架空船を見上げた。
架空船は相変わらず鋭い火花を放っていた。
彼は人生を見渡しても何も特に欲しいものはなかった。
が、この紫色の火花だけは、
凄まじい空中の火花だけは命と取り替えても捕まえたかった。
9.死体
死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げていた。
その股札は名前だの年齢だのを記していた。
彼の友達は腰をかがめ器用にメスを動かしながら、
ある死体の顔の皮を剥げ始めた。
皮の下に広がっているのは美しい黄色の脂肪だった。
彼はその死体を眺めていた。
それは彼にはある短編を、
王朝時代に背景を求めたある短編を仕上げるために必要だったのに違いなかった。
が、腐敗した杏の匂いに近い死体の臭気は深いだった。
彼の友達は眉間をひそめ、静かにメスを動かしていった。
この頃は死体も不足してねえ。
彼の友達はこう言っていた。
すると彼はいつの間にか彼の答えを用意していた。
俺は死体に不足すれば何の悪意もなしに人殺しをするがねえ。
しかしもちろん彼の答えは心の中にあっただけだった。
10.先生
彼は大きい樫の木の下に先生の本を読んでいた。
樫の木は秋の日の光の中に一枚の葉さえ動かさなかった。
どこか遠い空中にガラスの皿を垂れた計りが一つ、
ちょうど平行を保っている。
15:01
彼は先生の本を読みながらこういう光景を感じていた。
11.夜明け
夜は次第に明けていった。
彼はいつかある町の角に広い市場を見渡していた。
市場に群がった人々や車はいずれも薔薇色に染まり出した。
彼は一本の薪煙草に火をつけ静かに市場の中へ進んでいった。
すると細い黒犬が一匹いきなり彼に吠えかかった。
が、彼は驚かなかった。
のみならずその犬さえ愛していた。
市場の真ん中には鈴掛けが一本。
四方へ枝を広げていた。
彼はその根元に立ち、枝越しに高い空を見上げた。
空にはちょうど彼の真上に星が一つ輝いていた。
それは彼の二十五の年の先生に会った三ヶ月目だった。
十二、軍校。
線香亭の内部は薄暗かった。
彼は前後左右を覆った機械の中に腰をかがめ、小さい眼鏡を覗いていた。
そのまた眼鏡に映っているのは明るい軍校の風景だった。
あそこに金剛も見えるでしょう。
ある海軍将校はこう彼に話しかけたりした。
彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺めながら、なぜかふとオランダゼリを思い出した。
一人前三十銭のビーフステーキの上にもかすかに匂っているオランダゼリを。
十三、先生の死。
彼は雨上がりの風の中にある新しい停車場のプラットフォームを歩いていた。
空はまだ薄暗かった。
プラットフォームの向こうには鉄道工夫が三、四人一斉にツルハシを上下させながら、何か高い声に謳っていた。
雨上がりの風は工夫の歌や彼の感情を吹きちぎった。
彼は薪煙草に火もつけずに喜びに近い苦しみを感じていた。
先生帰得の電報を街頭のポケットへ押し込んだまま。
そこへ向こうの松山の陰から午前六時の上り列車が一列、薄い煙をなびかせながらうねるようにこちらへ近づき始めた。
十四、結婚。
彼は結婚した翌日に、
18:02
きそうそう無駄遣いをしては困ると彼の妻に小言を言った。
しかしそれは彼の小言よりも彼のおばの家という小言だった。
彼の妻は彼自身にはもちろん彼のおばにもお詫びを言っていた。
彼のために買ってきた汽水船の鉢を前にしたまま。
彼らは平和に生活した。
大きい芭蕉の葉の広がった陰に。
彼らの家は東京から汽車でもたっぷり一時間かかるある海岸の町にあったから。
十六、枕。
彼は薔薇の葉の匂いのする会議主義を枕にしながらアナトール・フランスの本を読んでいた。
がいつかその枕の中にも半神半魔神のいることには気づかなかった。
十七、蝶。
物匂いの満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいていた。
彼はほんの一瞬の間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翼の触れるのを感じた。
が彼の唇の上へいつかなすっていった翼の粉だけは数年後にもまだきらめいていた。
十八、月。
彼はあるホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。
彼女の顔はこういう昼にも月の光の中にいるようだった。
彼は彼女を見送りながら、かっこ彼らは一面式もない間柄だった。
今まで知らなかった寂しさを感じた。
十九、人工の翼。
彼はアナトールフランスから十八世紀の哲学者たちに移っていった。
がルソーには近づかなかった。
それはあるいは彼自身の一面、情熱にかられやすい一面のルソーに近いためかもしれなかった。
彼は彼自身の他の一面、冷ややかな理智に富んだ一面に近い寒伝異土の哲学者に近づいていった。
人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかった。
がボールテールはこういう彼に人工の翼を供給した。
彼はこの人工の翼を広げやすやすと空へ舞い上がった。
21:03
同時にまた理智の光を浴びた人生の喜びや悲しみは彼の目の下へ沈んでいった。
彼はみすぼらしい町々の上へはんごや微笑を落としながら、
遮るもののない空中をまっすぐ太陽へ昇っていった。
ちょうどこういう人工の翼を太陽の光に焼かれたためにとうとう海へ落ちて死んだ昔のギリシャ人も忘れたように。
彼ら夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになった。
それは彼がある新聞社に入社することになったためだった。
彼は黄色い紙に書いた一枚の契約書を力にしていた。
がその契約書は後になってみると新聞社は何の義務も負わずに、
彼ばかり義務を負うものだった。
21 狂人の娘
二代の人力車は人気のないどん天の田舎道を走っていった。
その道の海に向かっていることは潮風の来るのでも明らかだった。
後ろの人力車に乗っていた彼は少しもこのランデブーに興味のないことを怪しみながら、
彼自身をここへ導いたものの何であるかを考えていた。
それは決して恋愛ではなかった。
もし恋愛でないとすれば。
彼はこの答えを避けるために、
とにかく我らは対等だと考えないわけにはいかなかった。
前の人力車に乗っているのはある狂人の娘だった。
のみならず彼女の妹は嫉妬のために自殺していた。
もうどうにも仕方はない。
彼はもうこの狂人の娘に、
動物的本能ばかり強い彼女にある憎悪を感じていた。
2台の人力車はその間に、
異色さい墓地の外へ通りかかった。
垣柄のついた蘇田垣の中には石頭がいくつも黒ずんでいた。
彼はそれらの石頭の向こうにかすかに輝いた海を眺め、
何か急に彼女の夫を、
彼女の心をとらえていない彼女の夫を軽蔑し出した。
22.ある画家
それはある雑誌の冊子絵だった。
が、一話の音取りの隅へは、
著しい個性を示していた。
彼はある友達にこの画家のことを尋ねたりした。
24:04
一週間ばかりたった後、この画家は彼を訪問した。
それは彼の一生のうちでも特に珍しい事件だった。
彼はこの画家の中に誰も知らない死を発見した。
のみならず、彼自身も知らずにいた彼の魂を発見した。
あるうすら寒い秋の日の暮れ、
彼は一本の唐木火にたちまちこの画家を思い出した。
竹の高い唐木火は荒々しい葉をよろったまま、
森戸の上には神経のように細々と根をあらわしていた。
それはまた、もちろん傷つきやすい彼の自画像にも違いなかった。
しかしこういう発見は彼を憂鬱にするだけだった。
もう遅い。しかし、いざとなった時には。
23.彼女
ある広場の前は暮れかかっていた。
彼はやや熱のある体にこの広場を歩いて行った。
大きいビルディングはいく旨も、
かすかに銀色に澄んだ空に窓窓の電灯をきらめかせていた。
彼は道端に足を止め、彼女の来るのを待つことにした。
5分ばかりたった後、彼女は何かやつれたように彼の方へ歩み寄った。
が、彼の顔を見ると、
疲れたわと言って微笑んだりした。
彼らは肩を並べながら薄明るい広場を歩いて行った。
それは彼らには初めてだった。
彼は彼女と一緒にいるためには何を捨ててもいい気持ちだった。
彼らの自動車に乗った後、彼女はじっと彼の顔を見つめ、
あなたは後悔なさないと言った。
彼はきっぱり後悔しないと答えた。
彼女は彼の手をおさえ、
あたしは後悔しないけれどもと言った。
彼女の顔はこういう時にも月の光の中にいるようだった。
二十四 出産
彼は襖際に佇んだまま、
白い手術着を着た三羽が一人、赤子を洗うのを見下していた。
赤子は石鹸の目にしみるたびにいじらしいしかめ顔を繰り返した。
飲みならず高い声に泣き続けた。
彼は何かネズミの子に近い赤子の匂いを感じながら、
しみじみこう思わずにはいられなかった。
27:00
何のためにこいつも生まれてきたのだろう、
このシャバ、苦の満ち満ちた世界へ。
何のためにまたこいつも俺のようなものを父にする運命を担ったのだろう。
しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だった。
二十五 ストリントベリー
彼は部屋の小口に立ち、桜の花の咲いた月明かりの中に薄汚い品人が何人かマージャンをしているのを眺めていた。
それから部屋の中へ引き返すと背の低いランプの下に知人の告白を読み始めた。
が、二ページも読まないうちにいつか苦笑を漏らしていた。
ストリントベリーもまた常人だった伯爵夫人へ送る手紙の中に、
彼と大差のない嘘を書いている。
二十六 古代
彩色の剥げた仏たちや天神や馬や蓮の花はほとんど彼を圧倒した。
彼はそれらを見上げたままあらゆることを忘れていた。
狂人の娘の手を出した彼自身の幸運さえ。
二十七 スパルタ式訓練
彼は彼の友達とある裏町を歩いていた。
そこへホロをかけた人力車が一台。
まっすぐに向こうから近づいてきた。
しかもその上に乗っているのは意外にも昨夜の彼女だった。
彼女の顔はこういう昼にも月の光の中にいるようだった。
彼らは彼の友達の手前、もちろん挨拶さえ交わさなかった。
美人ですね。
彼の友達はこんなことを言った。
彼は往来の月あたりにある春の山を眺めたまま、
少しもためらわずに返事をした。
ええ、なかなか美人ですね。
二十八 殺人
田舎道は日の光の中に牛のクソの臭気を漂わせていた。
彼は汗をぬぐいながら、つま先登りの道を登っていった。
道の両側に熟した麦は香ばしい匂いを放っていた。
殺せ、殺せ。
彼はいつか口の中にこういう言葉を繰り返していた。
誰を?
それは彼には明らかだった。
彼はいかにも卑屈らしいゴブ狩りの男を思い出していた。
すると黄ばんだ麦の向こうにローマカトリック教のガランガイチウ、
いつの間にか丸屋根を表し出した。
二十九 形
30:04
それは鉄の調子だった。
彼はこの糸目のついた調子にいつか形の美を教えられていた。
三十 雨
彼は大きいベッドの上に彼女といろいろな話をしていた。
寝室の窓の外は雨降りだった。
浜湯の花はこの雨の中にいつか腐っていくらしかった。
彼女の顔は相変わらず月の光の中にいるようだった。
が、彼女と話していることは彼には退屈でないこともなかった。
彼は腹ばいになったまま静かに一本の薪煙草に火をつけ、
彼女と一緒に火を暮らすのも七年になっていることを思い出した。
俺はこの女を愛しているだろうか?
彼は彼自身にこう質問した。
この答えは彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だった。
俺は未だに愛している。
三十一 大地震
それはどこか熟しきった杏の匂いに近いものだった。
彼は焼け跡を歩きながらかすかにこの匂いを感じ、
炎天に腐った死骸の匂いも存外悪くないと思ったりした。
が、死骸の重なり合った池の前に立ってみると、
賛美という言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。
ことさらに彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だった。
彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。
神々に愛せらるるものは妖精す。
こういう言葉なども思い出した。
彼の姉や妹はいずれも家を焼かれていた。
しかし彼の姉の夫は、
偽証罪を犯した罪に執行猶予中の身体だった。
誰も彼も死んでしまえばいい。
彼は焼け跡に佇んだまま、
ちみじみこう思わずにはいられなかった。
三十二 喧嘩
彼は彼の妹へと取り組み合いの喧嘩をした。
彼の弟は彼のために圧迫を受けやすいのに違いなかった。
同時にまた彼も彼の弟のために自由を失っているのに違いなかった。
彼の親戚は彼の弟に、
彼を見習えと言い続けていた。
しかしそれは彼自身には手足を縛られるのも同じことだった。
彼らは取り組み合ったまま、
33:01
とうとう縁先へ転げていった。
縁先の庭には猿すべりが一本。
彼は未だに覚えている。
雨をもった空の下に赤光りに花を盛り上げていた。
三十三 英雄
彼はボードテールの家の窓からいつか高い山を見上げていた。
氷河のかかった山の上にはハゲタカの影さえ見えなかった。
が背の低いロシア人が一人、
執拗に山道を登り続けていた。
ボードテールの家も夜になった後、
彼は明るいランプの下にこういう蛍光紙を書いたりした。
あの山道を登っていったロシア人の姿を思い出しながら、
誰よりも十回を守った君は、
誰よりも十回を破った君だ。
誰よりも民衆を愛した君は、
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。
誰よりも理想に燃え上がった君は、
誰よりも現実を知っていた君だ。
君は僕らの東洋が生んだ草花の匂いのする電気機関車だ。
34.色彩
三十歳の彼はいつの間かある空き地を愛していた。
そこにはただ苔の生えた上にレンガや河原のかけらなどがいくつも散らかっているだけだった。
がそれは彼の目にはセザンヌの風景画と変わりなかった。
彼はふと七八年前の彼の情熱を思い出した。
同時にまた彼の七八年前には色彩を知らなかったのを発見した。
35.同家人形
彼はいつ死んでも悔いないように激しい生活をするつもりだった。
が相変わらず養父母やおばに遠慮がちな生活を続けていた。
それは彼の生活に明暗の両面を作り出した。
彼はある洋服屋の店に同家人形の立っているのを見、どのくらい彼も同家人形に近いかということを考えたりした。
が意識の外の彼自身は、いわば第二の彼自身はとうにこういう心持ちをある短編の中に盛り込んでいた。
36.倦怠
彼はある大学生と鈴木原の中を歩いていた。
君たちはまだ生活欲を盛んに持っているだろうね。
36:01
ええ、だってあなたでも。
ところが僕は持っていないんだよ。
政策欲だけは持っているけれども。
それは彼の心情だった。
彼は実際いつのまにか生活に興味を失っていた。
政策欲もやっぱり生活欲でしょう。
彼は何とも答えなかった。
鈴木原はいつか赤い帆の上にはっきりと噴火山を表し出した。
彼はこの噴火山に何か戦亡に近いものを感じた。
しかしそれは彼自身にもなぜということはわからなかった。
37.こしびと
彼は彼と西暦の上にも格闘できる女に遭遇した。
が、こしびと等の女上司を作り、わずかにこの危機を脱出した。
それは何か木の幹に凍った輝かしい雪を落とすように切ない心持ちのするものだった。
風に舞いたるすげかさの何かは道に落ちざらん。
我が名はいかで惜しむべき。
惜しむは君が名のみとよ。
38.復讐
それは木の芽の中にあるホテルの露台だった。
彼はそこに絵を描きながら一人の少年を遊ばせていた。
四年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と、
狂人の娘は薪煙草に火をつけ彼らの遊ぶのを眺めていた。
彼は重苦しい心持ちの中に汽車や飛行機を描き続けた。
少年は幸いにも彼の子ではなかった。
が、彼をおじさんと呼ぶのは彼には何よりも苦しかった。
少年のどこかへ行ったあと、
狂人の娘は薪煙草を吸いながらこびるように彼に話しかけた。
「あの子はあなたに似てやしない?」
「似ていません。大事。」
「だって大凶ということもあるでしょう?」
彼は黙って目をそらした。
が、彼の心の底にはこういう彼女を占め殺したい、
残虐な欲望さえないわけではなかった。
39 鏡
彼はあるカフェの隅に彼の友達と話していた。
彼の友達は焼きリンゴを食い、この頃の寒さの話などをした。
彼はこういう話の中に急に矛盾を感じ出した。
「君はまだ独身だったね?」
「いや、もう来月結婚する。」
39:00
彼は思わず黙ってしまった。
カフェの壁にはめ込んだ鏡は無数の彼自身を映していた。
冷え冷えと何か脅かすように。
40 問答
「何故お前は現代の社会制度を攻撃するか?」
「資本主義の生んだ悪を見ているから。」
「悪を?」
「俺は、お前は善悪の差を認めていないと思っていた。」
「ではお前の生活は?」
彼はこう天主と問答した。
最も誰にも外るところのないシルクハットをかぶった天主と。
41 病
彼は不眠症に襲われ出した。
飲みならず体力も衰え始めた。
何人かの医者は彼の病にそれぞれ2、3の診断を下した。
胃酸肩、胃跡2、肝性6膜炎、神経衰弱、慢性血膜炎、脳疲労。
しかし彼は彼自身、彼の病原を承知していた。
それは彼自身を恥じるとともに彼らを恐れる心持ちだった。
彼らを。
彼の軽蔑していた社会を。
ある雪曇りに曇った午後、
彼はあるカフェの隅に火のついた葉巻をくわえたまま、
向こうの蓄音機から流れてくる音楽に耳を傾けていた。
それは彼の心持ちに妙に染みあたる音楽だった。
彼はその音楽の終わるのを待ち、
蓄音機の前へ歩み寄ってレコードの針札を調べることにした。
マジックフルート。
モーツァルト。
彼はとっさに了解した。
十回を破ったモーツァルトはやはり苦しんだのに違いなかった。
しかしよもや彼のように。
彼は頭を垂れたまま静かに彼のテーブルへ帰っていった。
四十二、神々の笑い声。
三十五歳の彼は春の日のあたった松林の中を歩いていた。
二、三年前に彼自身の書いた
神々は不幸にも我々のように自殺できない
という言葉を思い出しながら。
四十三、夜。
夜はもう一度迫り出した。
荒れ模様の海は薄明かりの中に絶えずしぶきを打ち上げていた。
彼はこういう空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。
それは彼らには喜びだったが同時にまた苦しみだった。
42:00
三人の子は彼らと一緒に沖の稲妻を眺めていた。
彼の妻は一人の子を抱き涙をこらえているらしかった。
あそこに船が一つ見えるね。
ええ、お柱の二つに折れた船が。
四十四、死。
彼は一人寝ているのを幸い窓越しに帯をかけて意思しようとした。
が帯に首を入れてみるとにわかに死を恐れ出した。
それは何も死ぬ刹那の苦しみのために恐れたのではなかった。
彼は二度目には懐中時計を持ち試みに意思を計ることにした。
するとちょっと苦しかった後、何もかもぼんやりなり始めた。
そこを一度通り越しさえすれば死に入ってしまうのに違いなかった。
彼は時計の針を調べ、
彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かたったのを発見した。
窓越しの外は真っ暗だった。
しかしその闇の中に荒々しい鶏の声もしていた。
リヴァンはもう一度彼の心に新しい力を与えようとした。
それは彼の知らずにいた東洋的なゲーテだった。
彼はあらゆる善悪の悲願に悠々と立っているゲーテを見、
絶望に近い羨ましさを感じた。
詩人ゲーテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だった。
この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタのほかに
アラビアの薔薇さえ花を開いていた。
もしこの詩人の足跡をたどる多少の力を持っていたならば、
彼はリヴァンを読み終わり、恐ろしい感動の静まった後、
しみじみ生活的感願に生まれた彼自身を軽蔑せずにはいられなかった。
彼の姉の夫の自殺はにわかに彼を打ちのめした。
彼は今度は姉の実家の面倒をもみなければならなかった。
彼の将来は少なくとも彼には日の暮れのように薄暗かった。
彼は彼の精神的破産に霊障に近いものを感じながら、
かっこ彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかっていた。
相変わらずいろいろの本を読み続けた。
しかしルソーの懺悔録さえ英雄的な嘘に満ち満ちていた。
45:04
ことさらに神聖に至っては、
彼は神聖の主人公ほど老快な偽善者に出会ったことはなかった。
が、フランスはヴィオンだけは彼の心に染み通った。
彼は何遍かの死の中に美しいオスを発見した。
光彩を舞っているヴィオンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。
彼は何度もヴィオンのように人生のどん底に落ちようとした。
が彼の強偶や肉体的エネルギーはこういうことを許すわけはなかった。
彼はだんだん衰えていった。
ちょうど昔スイフトの見た小杖から枯れてくるたちきのように。
彼女は輝かしい顔をしていた。
それはちょうど朝日の光のうすらいに射しているようだった。
彼は彼女に好意を持っていた。
しかし恋愛は感じていなかった。
伸びならず彼女の体には指一つ触らずにいたのだった。
死にたがってらっしゃるのですってね。
ええ、いえ、死にたがっているよりも生きることに飽きているのです。
彼らはこういう問答から一緒に死ぬことを約束した。
プラトニックスーサイドですね。
ダブルプラトニックスーサイド。
彼は彼自身の落ち着いているのを不思議に思わずにはいられなかった。
彼は彼女とは死ななかった。
ただいまだに彼女の体に指一つ触っていないことは彼には何か満足だった。
彼女は何事もなかったように時々彼と話したりした。
のみならず彼に彼女の持っていた生産果類を一瓶渡し、
これさえあればお互いに力強いでしょうとも言ったりした。
それは実際彼の心を丈夫にしたのに違いなかった。
彼は一人藤椅子に座り、死の若葉を眺めながらたびたび、
死の彼に与える平和を考えずにはいられなかった。
彼は最後の力を尽くし、彼の事情伝を書いてみようとした。
が、それは彼自身には存外容易にできなかった。
それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算のいまだに残っているためだった。
48:03
彼はこういう彼自身を軽蔑せずにはいられなかった。
しかしまた一面には、
誰でも人から向いてみれば同じことだ、とも思わずにはいられなかった。
「人真実と」という本の名前は、
彼にはあらゆる事情伝の名前のようにも考えられがちだった。
のみならず、文芸上の作品に必ずしも、
誰も動かされないのは彼にははっきりわかっていた。
彼の作品の訴えるものは、
彼に近い生涯を送った、
彼に近い人々のほかにあるはずはない。
こういう気も彼には働いていた。
彼はそのために手短に彼の
「人真実と」を書いてみることにした。
彼は
あるアホーの一生を書き上げた後、
偶然ある小道具屋の店に
白犀の白鳥のあるのを見つけた。
それは首を上げて立っていたものの、
黄ばんだ羽さえ虫に喰われていた。
彼は彼の一生を思い、
涙や泪症の込み上げるのを感じた。
彼の前にあるものはただ、
発狂か自殺かだけだった。
彼は日の暮れの往来をたった一人歩きながら、
おもむろに彼を召しに来る運命を
待つことに決心した。
五十、鳥子。
彼の友達の一人は発狂した。
彼はこの友達にいつもある親しみを感じていた。
それは彼にはこの友達の孤独の
軽快な仮面の下にある
孤独の一一倍身にしみてわかるためだった。
彼はこの友達の発狂した後、
二、三度この友達を訪問した。
君や僕は悪気に疲れているんだね。
世紀末の悪気というやつにね。
この友達は声を潜めながら
こんなことを彼に話したりしたが、
それから二、三日後には
ある温泉宿へ出かける途中、
バラの花さえ喰っていたということだった。
彼はこの友達の入院した後、
いつか彼のこの友達に送った
テラコッタの半身像を思い出した。
それはこの友達の愛した
検察官の作者の半身像だった。
彼はゴーゴリーも凶死したのを思い、
何か彼らを支配している力を感じずにはいられなかった。
彼はすっかり疲れ切ったあげく、
51:02
そっとラデイゲの隣住の言葉を読み、
もう一度神々の笑い声を感じた。
それは、神の兵卒たちは俺を捕まえに来る、
という言葉だった。
彼は彼の迷信や
彼の干渉主義と戦おうとした。
しかしどういう戦いも
肉体的に彼には不可能だった。
一世紀末の悪期は、実際彼を災難でいるのに違いなかった。
彼は神を力にした
中世紀の人々に羨ましさを感じた。
しかし神を信ずることは、
神の愛を信ずることは
到底彼にはできなかった。
あの国とをさえ信じた神を。
51 敗北
彼はペンを取る手も震え出した。
飲みならず、よだれさえ流れ出した。
彼の頭は0.8のベロナールを用いて
冷めた後のほかは、一度もはっきりしたことはなかった。
しかもはっきりしているのはやっと半時間か一時間だった。
彼はただ薄暗い中にその日暮らしの生活をしていた。
言葉は歯のこぼれてしまった
細い剣を杖にしながら
昭和2年6月以降
1968年発行
筑波書房
現代日本文学体系43
芥川龍之介集
より読み終わりです。
当たり前ですけど、暗いテキストでしたね。
何回、詩って項目立てしてあったかな。
最後の最後。昭和2年6月となっておりましたが
これを書き終わったのが6月で
実際に亡くなったのが7月ということで
この1月後には実際にこの世から
いなくなってしまったということですね。
じゃあこれ7月に読めばよかったかな。
そういう気が回りませんね。
しかし長かったな。
はい、といったところで本日のところはこのへんで
また次回お会いしましょう。おやすみなさい。
53:37

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