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2024-05-07 12:33

026太宰治「金銭の話」

026太宰治「金銭の話」

彼がお金に窮していたのは有名な話です。井原西鶴の文章の引用が難しすぎるのでお覚悟。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだことのあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
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さて、今日は太宰治の金銭の話というテキストを読んでいこうと思います。
有名なトリビアがありましたよね。
文人仲間からお金を借りた太宰が、
金削に翻弄しただかしてないだか、全く解釈もなく、
逃げ回ったんだっけな。
とりあえず走り回った様が、走れメロスになったみたいな話があったと思うんですけど、
お金に困っていたという話は有名ですね。
読んでいきましょう。金銭の話。
酔い腰の金を持たぬなどという例の江戸復帰室は、
今は国家のためにも悠々しき罪悪で、
何とかして二三千円も貯金してお国の役に立ちたいと思うものの、
どういうわけかお金が残らぬ。
昔の芸術家たちは、とかく貯金を癒しむ風習があって、
積品洗うが如き状態をもって潔しとしていた様子であったが、
今はそのような生活態度などは許されぬ。
一億国民等しく貯蓄に勤しまなければならぬ重大な時期であると厳粛に我が身に教えているのだが、
どういうわけかお金が残らぬ。
私には貧乏を誇るなんて嫌味なひねくれた気持ちはない。
どうかしてたっぷりとお金を残したいものだといつも思っている。
高参があれば後進を勝ずるということわざをも信じている。
貧乏人根性というものは決していいものではない。
貯金のたくさんある人にはやっぱりどこかおかしがたい邪相がある。
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個人の品位を保つ上にも貯金は不可欠なものであるのに、
さらにこの度の対戦の干渉のために、
喫緊のものであるのだから、
しゃれや冗談でなく、この際さらに一段と真剣に貯蓄の工夫を凝らすべきである。
少し弁解めくけれども、私の職業は貯蓄に幾分不適当なのではあるまいかとも思われる。
入るときには年に一度か二度、五百円、千円とまとまって入るのだが、
それを郵便局あるいは銀行に預けてほっと一息ついて、
次の仕事の準備などしている間にもう貯金がきれいになくなっている。
いつのまにやらなくなっているのである。
細かいことは言いたくないが、私の生活などは東京でも仮想に属する生活だと思っている。
文字通りのあばら屋に住んでいる。
身高の薄汚い酒の店で、生ぶどう酒なんかを飲んで文学を断ずるくらいが唯一の堂楽で、
他には大きな無駄遣いなどした覚えはない。
学生時代には馬鹿な浪費をしたこともあるが、
今の家庭を営むようになって以来は、私はむしろ隣職、ケチになった。
けれどもどうもお金が残らぬ。
あるいは私は貧乏症というやつなのかもしれない。
一問惜しみの百失いというやつである。
一生お金の苦労から逃れられぬ宿命を追って生まれてきたのかもしれない。
私の耳たぶはあまり大きくない。
けれどもそれだからとて諦めてはいけない。
お国のためにも何とかして工夫を凝らすべき時である。
結局私は下手なのである。
やりくりが上手でないのであろう。
妻子賛成すべきであろう。
私は伊原採角の日本英体蔵や胸山葉をさらに熟読願味することによって、
著蓄の秘訣を大得しようと思い立った。
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採角はいろいろと私に教える。
人の家に在りたきは、梅、桜、松、楓。
それよりは金銀米銭増加し、
庭山に勝りて庭蔵の眺めと書いてある。
全く賛成である。
そうして採角は様々な著蓄の名人の一事を報告しているのである。
この男、一生のうち蔵の花を踏み切らず、
釘の頭に袖をかけて破らず、
揺ろずに気をつけてその身一台に二千冠しこためて、
行く年八十八歳で大王女をした大長女の話や、
または腹の減るを用事にして家事の御前にも早く歩まぬ若旦那のことや、
または町並みに出る祭礼にはぜひなく戸部山に送りて人より後に帰り様に、
六原の延べにてでっちもろとも陶薬を引いて、
これを陰干しにして腹ぐすりになるぞとただは通らず、
けつまずくところで火打石をひろいて田元に入れける。
朝夕の煙をたつる世帯餅は、
揺ろずこのように気をつけずしてはあるべからず、
この男、生れついてしわきにあらず、
揺ろずごとの取り回し人の鏡にもなりぬべき願い、
吉垣に自然と朝顔の生えかかる推し、
同じ眺めには儚きものとて菜玉芽に植え替えける。
娘おとなしくなりてやがて嫁入り婊婦を子知らへとらせけるに、
楽中づくしを見たらば見ぬところを歩きたがるべし。
源氏いせ物語は心のいたずらになりぬべきものなりと、
ただの金山、出盛りし有様かきせける、
などの首相な心がけの金持ちのことやら、
ぬりげた片足なるを水風呂の下へ焼くとき、
つかずく昔を思い出し、
まごとにこのぽっくりは、
われ十八のときこの家に嫁入りせしとき、
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長持に入れてきて、それから雨にも雪にも吐きて、
葉のちびたるばかり五十三年になりぬ。
われ一代は一足にて裸趾をあけんと思いしに、
おしや片足は野良犬目にくわえられ、
端下になりて是非もなく、
きょう煙になすことよと、
四度も五度もくりごとを言って、
やがてはらはらと涙を流す陰居の婆様のことなど、
あきれるばかりこと細かに報告しているのである。
すべて業望をしてもって手本となすべき人たちの業績である。
わたしは熟読して、
それから立って台所へ行き、
何か無駄はないかと難しき顔をして四方を見まわせども、
足らぬものはあっても、
無駄のようなものは一つも発見できなかった。
一億国民、今はこの細角の物語の中にある大長女たちのごとく、
細かき心遣いして生活をしているのである。
わたしの家の狭い庭においても、
今はかぼちゃの花盛りである。
薔薇の花よりも見ごたえがあるようにも思われる。
とうもろこしの葉が風にさやさやと騒ぐのもなかなか優雅なものである。
池がけにはインゲン豆の蔦が絡みついている。
けれどもどうしてだか、わたしには金が残らぬ。
どこかに手落ちがあるのだ。
ある先輩がいつかこうおっしゃったことがある。
自分の収入を忘れているような人でなくちゃお金が残らぬ。
してみると、金銭に淡白な人に、かえってたくさんお金が貯まるものかもしれない。
いつもお金にこだわってケチケチしている人には、かえってお金が残らぬものらしい。
純粋に文章を作ることだけを楽しみ、
原稿料をもらうことなんぞ天で考えていないような文人にだけ、たくさんの貯金ができるのかもしれない。
1999年発行 筑波書房 太宰治全集11より読み終わりです。
12:01
いはら採角のパートが難しくて、聞いている人はわからなかったかもしれないですね。
字を読んでいる僕ですらあまりわからなかったので、難しかったな。
まあその分、値落ちを加速させたのではと思っていますが、いかがでしょうか。
それでは今日はこのあたりで失礼します。また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
12:33

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