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2024-05-09 34:39

027坂口安吾「大阪の反逆」

027坂口安吾「大阪の反逆」

一部を中略しております。今年中に大阪に行きたいと思っています。食べたいつけ麺があるんだ。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト。 こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。 作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xまでどうぞ。 さて今日はですね、
坂口安吾さんの、「大阪の反逆」というテキストを読もうかと思います。
さらっと読んだんですが、 ものすごく長いので、
一部をですね、中略することにしました。 織田作之助という大阪の作家に対して、
〇〇という日本の作家はこうだ。 あーだこうだ。日本の作家はこうが悪い。それに対して織田はと、
この東京の作家の久差しがものすごく長いので、
なんか、 大阪のことを触れている時間が少し短くなったなぁと思ったので、中略させてもらいました。
長ければ長い分にはね、 寝落ちには向いてるんじゃないかという向きもありますが、
読んでいる僕が辛いので、中略させていただきました。 ということで参りましょう。
大阪の反逆。 将棋の増田七段が木村名人に三連勝以来、
大阪の反逆というようなことが時々新聞雑誌に現れ始めた。 将棋のことは文外観だが、増田七段の攻撃速度は迅速以外で、
従来の定石が手遅れになってしまうのだそうで、 新ての対策を生み出さぬ限り、この攻撃速度に対抗することができないだろうという、
新たなるものに対するジャーナリズムの課題評価は見慣れていることだから、 私は必ずしもこの評判を鵜呑みにはしないが、
伝統の否定、 将棋の場合では定石の否定、
増田七段その人と別に、漠然たる時代的な業望が動き出しているような気がする。 織田作之介の二流文学論や可能性の文学などにも、
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彼の本質的な文学理論と同時に、 この時代的な業望との関係が理論を支える一つの情熱となっているように思われる。
織田は、 増田八段の銀が鳴いているについて述べているが、
私は最初の一手に端符をついたという元気の方が面白い。 この元気というのはですね、木をてらうの。てらうという字に
天気の木と書いて元気。 ひけらかすとか自慢するという意味ですね。ちょっと作中難度が出てきます。
続けます。 最初の一手に端符をついたという元気の方が面白い。
第一局に負けて第二局でまた懲りもせず端符をついたという馬鹿な意地が面白い。 私はいつか木村名人が二葉山を評して、将棋では序盤に位負けすると最後まで押されて負けてしまう。
名人団などといっても序盤で立ち遅れてはそれまでで、 立ち上がりに位を制することが技術の一つでもあり、
名人樽の力量でもあるのだから、二葉のごとく敵の声で立ち上がり、敵に立ち上がりの優位を与えるのが横綱樽の貫禄だという考え方はどうかと思う。
ということを述べていた。 序盤の優位ということがわからぬ酒田八段ではなかろうけれども、
第一手に端符をついたということは自身の現れにしても軽率であったに相違ない。
私は木村名人の心構えの方が当然であり、 近代的であり、実質的に優位に立つ思想だと思うから、酒田八段は負けるべき人であったと確信する。
酒田八段の奔放な力将棋には、近代を納得させる合理性が欠けているのだ。
それゆえ事実をもって、その内容も貧困であったと私は思う。 第一手に端符をつくなどというのは馬鹿げたことだ。
伝統の否定というものは、実際の内容の優位によって成り立つものだから、苔脅しだけでは意味をなさない。
しかしそのこととは別に、私が面白いと思うのは、八段ともあろう達人が端符をついたということの元気である。
フランスの文学者などずいぶん元気が応一しており、 見物みたいな服装で社交会に乗り込むバルザック先生、
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屋根裏のボードレール先生でも、シャツだけは毎日赤のつかない純白なものを着るのをひけらかしていたというが、これも一つの元気であり、現実の低さから魂の位を高める魔術の一つであったのだろう。
画家の藤田継春は、おかっぱ頭でまず一目を引くことによって、 パリ人の注目を集める方策を用いたというが、
その魂胆によって芸術が独されるものでない限りは、かかる魂胆は軽蔑さるべき理由はない。
人間の移しみなどはたかの知れたものだ。 深刻ぶろうと茶化そうと、芸術家は芸術自体だけが問題ではないか。
誰だって無名よりは有名がよかろう。 金のないよりある方がよい。
最も有名になり、金を握ってみて、その馬鹿らしさにうんざりしたというなら、 それもそれで結構だけれども、
自ら落語者で甘んじる、ただ仕事だけ残せばいいという、 その孤独な生活によって、仕事自体が純粋交渉であり得るという性質のものではない。
厳正的に俗学であっても、仕事が不純でなく、 優れたものであればそれでよろしいので、
日本の従来の考え方ごとく、しかめ面をして苦言して、 そうしなければ傑作が生まれないような考え方の方が馬鹿げているのだ。
製品に甘んじるとか、 根苦欠乏に耐え、お粥をすすって精進するとか、
それが傑作を生む条件だったり、作家と作品を神聖にするものだという浅はかな迷信であり、 通俗的な信仰でありすぎる。
こういう日本的迷信に対して、反逆し得る文化的地盤は、 確かに大阪の市民性に最も豊富にあるようだ。
京都で火の会の講演があったとき、 織田は客席の明かりを消させ、
壇上の自分にだけスポットライトを当てさせ、 蒼白な顔に長い髪を額に垂らして光の中を歩きながら、
二流文学論を一石やったという、 こういう織田の元気を笑う人は、芸術について本当の心構えのない人だろう。
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笑われる織田は一向に軽薄ではなく、 笑う人の方が軽薄なので、
深刻面をしなければ、自分を支える自信の持てない偽芸術の重みに、 よたよたしているだけだ。
先頃織田と太宰と平野健と私との座談会があったとき、 織田が2時間遅刻したので、
太宰と私は酒を飲んで座談会の始まる前に泥水する、 という奇妙な座談会があったが、
速記が最後に私のところへ送られてきたので読んでみると、 織田の手の入れ方が変わっている。
だいたい座談会の速記に手を入れるのは、 自分の言葉の言い足りなかったところ、
意味の不明瞭なところを細く修繕するのが目的なのだが、 織田はその他に、
全然言わなかった無駄な言葉を書き加えているのである。 それを書き加えることによって、自分が利口に見えるどころか、
馬鹿に見えるところがある。 他の人が引き立って自分が馬鹿に見える。
かと思うと、他の人が馬鹿に見えて自分が引き立つようなところもあるけれども、 そこが織田の目的ではないので、
織田の狙いは純粋に、 読者を面白がらせるというところにあるのである。
だからこの書き加えは、文学の本質的な理論に触れたものではなく、 ただ接続的な面白さ、興味、
読者が笑うようなことばかり、そういう効果を考えているのである。 理論は理論でちゃんと言っているのだから、その愛の手に時々読者を笑わせたところで、
それによって理論自体が軽薄になるべきものではないのだから、 ちょっと一行過失して読者を喜ばせることができるなら、過失して悪かろうはずはない。
大阪の市民性には、かかる江戸的通念に対して、 本質的にあべこぶの既出的地盤がある。
例えば江戸趣味においては、芸別せられる成金趣味が、 大阪においてはそれが人の子の当然なる発露として謳歌せられる類であって、
人間の技術の俗悪の面が、はなはだ素直に許容せられている。 小田が革のジャンパーを着て、額に毛を垂らして、
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人前で腕をまくり上げてヒロポンの注射をする。 客席の明かりを消して、一人スポットライトの中で二流文学を論ぜる。
これを称して人々ははったりと称するけれども、 こういうことをはったりの一言で片付けて、小さな殻の中に、
自ら正義深刻めかそうとする日本的生活の在り方。 その悲傷さが、私はむしろ侘しく、哀れ、悲しむべき、
俗物的潔癖性であると思うが如何。 むしろかかる生活上の勢力的な、
発散的な方によって、芸術時代においては逆に沈船的な結晶を深め得る可能性すらあるではないか。
生活力の幅の広さ、発散の大きさ、 それはまた文学自体のスケールを広げる基本的なものではないか。
文学はより良く生きるためのものであるという、 いかに行くべきかであるという、しかしそれは文学に限ったことではなく、
哲学も宗教もそうであり、 いな、
すべて人間誰しもが、おのおのいかに行くべきか。 より良き生き方を求めてやまぬものであるゆえ、
その人間のものである文学もまた、 そうであるに過ぎないだけの話である。
しかし文学はただ単純に思想ではなく、 読み物、物語であり、
同時に娯楽の性質を帯び、 そこに哲学や宗教との根底的な差異がある。
主に文学の魅力は、 思想家がその思想を伝えるために物語の形式を書いてくるのでなしに、
物語の形式でしかその思想を述べ得ない資質的な芸人の特技に属するものであろう、 小説に面白さは不可欠の要件だ。
それが小説の狙いでなく、目的ではないけれども、 それなくして小説はまたありえぬもので、
文学には本質的な偽作性が必要不可欠なものであると私は信じている。
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我々文人は、 諸君にお説教しているのではない。
解説をしているのでもない。 ただ人間の苦悩を語っているだけだ。
思想としてでなしに物語として、 不思議面白く読者の理知のみではなく、
上位も鑑賞も読者の人間たる要責の機能に訴える形式と技術とによって、 文人は常に人間探求の思想家たる面と、
物語の技術によって訴える偽作者の面と、 二つのものが並立して存するもの、
二つの調和が自ずから行われ、 常に二つの不可分の活動により、
思想を偽作の形において正しく表現することしか知らないところの、 つまりは根底的な偽作者たることを必要とする。
なぜなら、いかに行くべきかということは、 万人の当然なる態度であるに過ぎないから。
しかし、単なる読者の面白さのみでは文学でありえないのも当然だ。 人生に対する小札の深さ、
思想の深さ、 それは文学の決定的な本質であるが、
それと偽作者たることと、 定職すべき性質のものではないという文学の真相の層を直視しなければならぬ。
我々の周囲には思想のない読み物が多すぎる。 読み物は文学ではない。
ところが日本では、読み物が文学として通用しているのだから、 私が偽作者というのを単なる読み物作家と混同したり、
時にはそれよりももっと俗な魂を指しているのかと疑われたりするような始末である。
文学者が偽作者でなければならぬというその偽作者に、 特別な意味があるのは、小説家の内部に思想家と偽作者と同時に存して表裏一体を成しているからで、
日本文学がくだらないのは、この偽作者の自覚が欠けているからだ。 偽作者であることが、文学の尊厳を冒涜するものであるが如くに考える。
実はあべこべだ。 彼らの思想性が希薄であり、
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真実地肉の思想を自覚していないから、 偽作者の自覚もありえない。
偽作者という低さの自覚によって、思想性まで低められ、 癒しめられ、恥かしめられるが如くに考えるのであろう。
織田が可能性の文学という、 別に真新しい論議ではない。
実はあまりにも初歩的な、当然気余ることなので、 文学は現実の副者ではないという、
紙の上の実在に過ぎないのだから。 その意味では嘘の人生だけれども、
かかる嘘、可能性の中に文学本来の生命があるという、 文学は人生を探すもの、
より良き人生を求めるものなのだから、 可能性の中に文学上の人生が展開していくのは当然なことで、
単なる過去の副者のごときは作文であるに過ぎず、 文学は常に未来のためのものであり、
未来に向けて定着せられた作家の目、 生き方の構えが過去のレンズを合わせたときに、
初めて過去が文学的に再生せられる意味を持つに過ぎない。 大阪の性格は既出的に承認で、
文学的には偽作者の方が自ら育つべきところであるから、 日本文学の誠実ぶった偽物の道徳性、
無思想性に大阪の地盤から偽作者的な反逆が行われることは当然であったろう。
しかし大阪的な反逆というのは誠に最もないようで、 しかし実際は意味をなさない。
ともかく大阪というところは東京と対立し得る唯一の大都市で、 同時に何百年来の独自な文化を持っている。
おまけにその文化が既出的に東京と対立して、 東京が保守的であるとすれば大阪はともかく進歩的で、
東京に開古型の通とか行きというものが正当であるとすれば、 大阪は新型好みのオッチョコチョイのごとくだけれども、
実質的な内容をつかんでおるので、 東京の芸術が職人課題、名人課題の、
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専任的、骨董的、進学的なものであるとき、 大阪の芸術は同時に商品であることを建前としている。
画のごとくに両都市が既出的にも対立しているのだから、 東京への反逆、つまり日本の在来文化への反逆が、 大阪の名において行われることも一応理屈はある。
しかしながら大阪はたかが一つの都市であり、 一応東京に対立し、
在来の日本思想の弱点に既出的な習性を与え得る一部の長所があるにしても、 それはただその点についてだけで、全部がそうであるわけでもなく、 絶対のものではない。
反逆は絶対のものであり、その絶対の地盤からなされるべきものであって、 いち大阪の地盤によってなさるべきものではない。
織田の可能性の文学は、ただ大阪の地盤を利用して 自己の論法を展開する便宜の具としているまでのごとくであるけれども、 しかし織田の論理の支柱となっている感情は、熱情は、
東京に対する大阪であり、 織田の反逆でなしに大阪の反逆、
根底にそういう対立の感情的な低さがある。 それは彼の可能性の大阪の大阪の言葉において歴然たるものがあって、
ここで彼は大阪の言葉を可能性においてでなしに、 むしろ大阪弁に美を、
オーソドックスを信じているから、 芸術は現実の副者ではない、作るべきもの、紙の上の原影だという、 これは鉄則ではないか。
彼が人々の作品の大阪弁を否定するのはよろしいが、 そのオーソドックスを自らの作品において、自ら作った大阪弁において主張させず、
実在する大阪弁に見出し主張しているのは矛盾である。 文学は史上以外に実態を求める必要はないものだ。
谷崎が藤沢が、 おのおの大阪弁を作ってよろしいので、それが他の何者かに似ていないということはどうでもよい。
織田は、志賀直屋のお殺しという言葉が変だというが、 お殺しが変ではなく、使い方が下手なのであろう。
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お殺しなど愛嬌があって面白く、私は変だと思わないし、 だいたい作中人物の言葉だというものは、言葉自体に命があるのではなく、
それがそれを使用する人物の性格生活と結びついて動き出す 人間像の一つの歯車として、命も綾も美も色気もこもっている。
独立した言葉だけの美などというものは、実は作文の領域で文学とは関係のないことなのである。
織田が二流文学という時には、一流文学へのノスタルジーがある。
二流などと言ってはいかぬ。 一流か無流か。
一流も五流もある必要はない。そして織田は、 日本の在来文学の歪められた真実性というものを否定するにも、
文学本来の地盤からでなしに、 東京に対する大阪の地盤から、
そういう地盤的理性、地盤的感情、 地盤的情熱を支柱として論理を展開してしまった。
私は先に坂田八段のハシフのことを言った。 これはいかにも大阪的だ。
しかし大阪の良さではなく大阪の悪さだ。 少なくともこの場合は大阪の悪さなのである。
なぜなら木村名人の序盤に喰らい負けしては勝負に負ける。 序盤に喰らい勝ちすること自体が力量の優位なのだから、
というオーソドックスの前では当然敗北すべき 素朴なはったりに過ぎないのだから。
木村名人のこの心構えは東京の地盤とは関係がない。 これは万国万民に偏在するただ真理の地盤に生まれたものだ。
私はいわゆるはったりと称するものを愛している。 織田が暗闇の壇上でスポットライトに受け上がって一石弁じたり、
座談会の即帰にただ人を面白がせる文章を書き込んだり、 そういう魂胆を愛している。
だがそれはあくまで文学本来の生命をそれによって広く深く高める意味においてであり、 そのための発散の効果によってのことであって、
文学本来の命をそれによってむしろ限定し低くするなら意味がない。 佐方八弾のハシフは、まさしくはったりによって芸術自体を限定し、
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低めてしまったバカバカしい例であり、 大阪の長所はここにおいて逆転し最大の悪さとなってしまっている。
それは大阪というものの文化的自覚が、 真理の場において自立したものではなく、
東京との対立において自立自覚せられているからで、 そこに大阪の自覚の抜けがたい二流性が損している。
かかる対立によって自立せられるものは、 対立の対象が一流であれ何流であれ、
本人自体は亜流の低さから間抜かれることはできない。 今日ジャーナリズムが、大阪の反逆などというのはバカげている。
反逆は大阪の性格、大阪の伝統のごときものによってなさるべきものではない。
文学は文学本来の立場によってのみ反逆せられねばならぬ。 織田は悲しい男であった。
彼はあまりにもふるさと大阪を意識しすぎたのである。 あり余る才能を持ちながら大阪に限定されてしまった。
彼は佐方八段の端譜を再現しているのである。 だが我々は織田から学ぶべき大きなものが残されている。
それは彼の偽作者根性ということだ。 読者を面白がせようというこの徹底した根性は、
日本文学にこれほど重大な暗示であったものは近頃例がないのだが、
壇上のスポットライトの織田作は、 神聖なる俗物バラから嘲笑せられるばかりであった。
まさしく日本文学にとっては大阪の承認機質、 実質主義のオッチョコチョイが必要なのだ。
文学本来の本質たる、現たる思想性の自覚と同時に、 徹底的にオッチョコチョイな偽作者根性が必要なのだ。
かかる偽作者根性が日本文学に許容をせられなかった最大の理由が、 思想性の規剥自体にあり、思想に対する自覚自身の欠如。
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すなわちその無思想性によって偽作者の許容を拒否せざるを得なかった。 花歌を歌いながら文学を書いてはいけなく、
しかめっ面をしてしかめっ面をしか書くことができなかったのである。 我々が日常諸方に人々から同じことをやられてうんざりするのは、
私の身の上話は小説になりませんか。 私の身の上話を聞いてください。
ということだ。そういう身の上話はしかし陳腐で、 ありふれていて、
聞き映えのある話などはまずないものだ。 しかしそれを笑うわけにはいかぬ。我々が知らねばならぬことは、
身の上話のつまらなさではなく、 身の上話を語りたがる人の心の切なさであり、
あらゆる人がその人なりに生きている各々の切なさと、 その切なさが我々の読者となったとき、
我々の小説の中に、彼らがその各々の影を追うことの素朴なつながりについてである、 純文学の純の字は、そういう素朴な魂を拒否せよという意味ではない。
ただ、いかに行くべきか。 思想というものが損している、その意味であり。
それに並存して、なるべく多くの魂につながりたいという偽作者がいる。 あらゆる人間の各々の命に対する敬愛と尊重といたわりは、
偽作者根性の根底であり、 小説の面白さをねらうこと自体、
作者の大いなる人間愛、 思想の深さを意味するものでもあることを知らねばならぬ。
虚構の文学という、 しかし真実の虚構の文学ほど、
万人を愛し、万人の愛を求め、 愛に飢えているものはないのだ。
スタンダールは、 世の小説は五十年後に理解せられるであろうと、
確かに彼はそう書いている。 しかしそれだけが彼の心ではない。
彼はただちょっと悔し紛れに、 洒落てみただけだ。
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五十年後の万人に理解せられるであろうと、 五十年後でなくたって、
囲いはないに決まっているのだ。 日本文学は貧困すぎる。
小説家はロマンを書くことを考えるべきものだ。 多くの人物、その関係、
その関係を広げていく複雑な筋、 そういう大きな構成の中に、
自ずと自己を見出し、思想の全部を語るべきものだ。 小説はたかが商品ではないか。
そして商品に徹した魂のみがまた、 小説は商品ではないと言い切ることもできるのである。
1998年発行 筑波書房 坂口安吾全集05より 読み終わりです。
なんかもっと大阪来産、 褒める形で終わるのかなと思ってたんですけど、
逆でしたね。なんか寂しいな。 大阪褒め褒めモードで終わるのかと思ってましたが。
中略したけど長かったですね。 皆様寝落ちできていらっしゃるでしょうか。
それでは今日はこの辺でまた次回お会いしましょう。 おやすみなさい。
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