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2023-10-18 19:21

読書ラジオ『思いがけず利他』

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こんばんは、ゆうこです。このチャンネルでは、私の読書録や日々の学びを音声配信しています。
今日は、思いがけず利他、中島たけしさんの本について話してみようと思います。
自己責任論も共感一片ともさようなら。哲学者、ミュージシャン、落語家、書店員、市政の人たち、みんなが話題に。思いがけず三万部。
It's automatic. 誰かのためになる瞬間はいつも偶然に未来からやってくる。
ということで、非常に話題になっている本みたいですね。
思いがけず利他。
利他という言葉の意味はご存知でしょうか。自分ではない誰かのために何かをすること。
そんな意味合いなのかなぁと思います。
この筆者の方は、コロナ危機によって利他への関心が高まっていると言います。
マスクをすること、行動自粛すること、ステイホームすること。
一時期前はこんなことが当たり前のように求められていましたが、これは自分がコロナウイルスにかからないための防御策である以上に、
自分が無症状のまま感染している可能性を踏まえて、他者に感染を広めないための行為でもあります。
そんなスゴモリの時に少し流行ったのがですね、ソーシャルギフトサービスというE-ギフトと言われている市場だったそうです。
高価な贈り物ではなく、日常のささやかな感謝を伝えるために、ささやかなギフトを贈る、ちょこっと像余が話題になりました。
医療従事者やエッセンシャルワーカーの方への感謝の伝達行為も広がりました。 寄付やクラウドファンディングに参加した人も多いでしょう。
リタ、コロナによって広まりましたね、ということですね。 私もコロナ禍になって、
人に何かを贈るっていうことが増えたような気がしますね。
しかし一方で、と筆者は言います。 しかし一方で、リタには独特なうさくささが付きまとうことも事実です。
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リタ的行動に積極的な人に対して意識高い系や偽善者、 押し付けが増し、承認欲求、
そんな風に言う声もあると。 それってリタじゃなくて、リコ的なリタなんじゃないの?と。
もうリコとリタが逆転してしまってパラドクスになっているということですね。
そんな中、フランスの経済学者ジャックあたりの 合理的リタ主義という考え方に注目が集まりました。
あたりに言わせると、リタ主義という理想への転換こそが人類のサバイバルの鍵である ということを主張されているわけですね。
自分のためにも合理的に
リタ主義になりましょうと。 リタ主義は最善の合理的リコ主義に他ならないと。
それに対して警鐘を鳴らすのがこの本ですね。 さて、
リタとは一体何だったのか。 人のために何かをするその行為自体は
背景にどんな感情があろうが、どんな思惑があろうが
誰かのためになっているのであれば、いいのではないか。 偽善だとか、不才だとか、支配だとか、
それってリタじゃなくてリコですよね、みたいな。 誰かに言われそうな、
そんな予感もしてきますが、果たして私たちはリタっていうことを
もっと深く知っていく必要があるのではないか。 ということでリタの扉を開いてみましょう。
そんな書き出しかなと思います。 そこでですね、この中島さん、筆者中島さんのすごいところは、
第1章に、タイトル「業の力」 サブタイトル「It's Automatic」ということで、
もう、言わずもがななんですが、宇多田ヒカルさんのあの有名な曲ですね。
私はあんまり歌唱力に自信がないので歌いませんが、
It's Automatic、これが業の力ですよね、ということです。 そしてこの1章はですね、落語。
分子もという、という落語の話で始まります。 これはですね、
江戸っ子寄室を提示したお林であるということで、 明治に
06:04
作られたものと言われています。 どんなお話かというと、主人公の長兵衛。
腕のいい左官職人だが、博打にハマって仕事はおろそかにする。 家財道具や着物はだいたい売ってしまっても、家には本当にわずかの生活用品しかない。
妻のお金と娘のおひさは、貧困生活は余儀なくされている。 それでも長兵衛は博打をやめられない。
なかなか家にも帰らない。 ある日、長兵衛が博打を終えて家に帰ると、
お金の様子がいつもと違います。 聞くと、おひさが家に帰ってこない。どこにもいない。
困っていると、そこに吉原の佐野土という番頭が来て、うちにいますよという。 長兵衛は、もう着物、自分の着物すらないわけですね。
妻の身に着けている着物を借り、吉原に駆けつけました。 最低ですね。もうこの時点で江戸時代じゃなかったら別れればって思うところなんですが。
ともかく長兵衛は吉原に行って、おかみに説教を受けます。
あんた何やってんのよと。 博打ばっかりして、暴力も振るうんだってね。
おかげであんた、娘のおひさは、吉原に身を沈めることであんたのためにお金作ろうとしてんだよ。
あんたどう思ってんのよ。父親のくせにさ。 みたいな。
ね、説教して。 で、おかみは一つ提案します。
長兵衛さん、あんたに今から50両貸すからさ。 真面目に働いて、来年のおみそかまでに返しにおいでよ。
それまでお娘は私が預かって、用事を手伝ってもらうよと。 でももし約束を守れず、50両期日までに返せなかったら、その時は
娘のおひさを店に出すからね。 客を取らせるからね。どうする長兵衛さん。
少年を据えて返事し。 怖いですね。
長兵衛は、50両受け取ります。
おかみとの約束。 本当に情けない。不甲斐ない。
娘にも謝って。 本当に、どん底の、そこまで落ちた瞬間でしょうね。
そして長兵衛は家に帰ります。 帰り道、浅草の東橋に差し掛かったところで、一人の若者が川に身投げをしようとしてます。
長兵衛は慌てて若者を抱きかかえ。 何があったんだというと、
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なんと、 取る行き先から預かった50両を道で盗まれた。
申し訳がないので死のうと言っています。 長兵衛は悩みます。
懐には先ほど借りたばかりの50両がある。 でもこの50両は、
娘が作ってくれたお金でこれを手放してしまうと、娘はお店に出て、
体を売ることになる。 どうするべきか。
長兵衛は悩み抜いた末、50両を差し出します。 そして、
若者に、大金持っている事情を話し、 娘が客を取ることになっても悪い病気にかからないよう、
コンピラさんでもお不動産でもいい、拝んでくれと言って、その場を去っていきました。 一方、若者は受け取った50両を手に、
店に帰ると、
盗まれたと思っていたお金が届いていて、取引先に忘れてきたことがわかります。 若者の主人は、
50両を差し出した男に感銘を受け、なんとかして探し出して、 娘に50両を届けに行きます。
長兵衛は驚き、
そして50両返却された後、表にはなんと着物を着た娘のおひさが立っていたの。 娘まで返してくれたわけですね。
そして、この若者、文七とおひさは結婚して、文七本由衣という小物屋を開業したと。
そんな話なんですけれども、 ポイントは、50両、長兵衛が渡す、この行為が李太ではないかということですね。
で、この落語、落語家さんによって解釈が分かれるところなようです。
一つは、文七への共感、死のうとしている若者に共感して、 李太の心で50両を渡してしまったと、
いうことですね。 もう一つは、江戸っ子の気質であると。
もう何も、どっちがいいか天秤にかけるわけでもなく、 ロジカルに考えたわけでもない、
どうしよう、どうしよう、悩んで答えが出ない、 江戸っ子の自分が鋭意も渡してしまえと言って渡したという。
これも、一つの李太ではないか。
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ということで、この落語から丁寧に長兵衛の行動を読み解いていき、
その解釈をしている落語家、立川男子さんの話にも沿いつつ、
ゴーとは何か、 李太とは何か、というような話に深めていくような
構成になっております。 これ全部話すともう、
何分もかかるので、 この辺にしときますが、私はこの落語で始まるというところが非常に
大好きですね。もう、あの、男子さんの落語聞いてみたいなと思っているぐらいなんですけれども。
そんな中、新蘭も出てくるんですね。私はあの、新蘭という人が好きで、 もう欲にまみれた、そういった自分から抜け出せない、
そういった自分を丸ごと受け止めてしまった お坊さんとして知られていますが、
この著者は新蘭の研究もされている方なんですよね。 その新蘭を引きつつ、
李太とは、ということを深めていく 内容になっております。
最後にですね、あの、自己責任論という章があるんですけれども、 この章で私はすごくこう、
棘が刺さって抜けないというかですね、
非常に自分の、 自分自身ちょっと気づいていたけれども見ないようにしていた嫌な自分に気づかされる。
この本によって気づかされるという体験をしました。
今の日本には自己責任論という魔物が棲みついています。 菅内閣は、教女、公女よりも自主を先に掲げ、自己責任を原則とする方針を掲げました。
例えばですね、紛争地域に取材に行って、 そこで人質になってしまった人がいた時に、日本人は、
の多くは、 そんな危ないところに行った、自分の責任でしょ、というふうに言ってしまう風潮が非常に高まっている。
政治に関わることでなかったとしても、
貧困に陥っているのは、 自分が働かないからでしょ。
努力してないからでしょ。 そうやって切り捨ててしまう風潮があると思います。
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で、もしかしたらそうかもしれない。 そういう部分はあるかもしれないけれども、
何か思いがけないことで、 そういう困難な状況に陥っているのかもしれない。
そういうことを想像することすらせずに、 自己責任でしょ、という言葉で切り捨てて、見ないようにしている。
私もそんなところがあるのかもしれないと、この章で思いました。 大切なことは、
自分だったらどうか、という思いを めぐらせてみること。
私たちはもしかしたら、その人であった可能性がある。
偶然によって、 その人だっただけで、
違う偶然で、もしかしたらその人は私だったかもしれない。
そういうことを、しっかり見つめることで、 過剰な自己責任論を沈め、
社会の、まあリソースの、 政府、予算、人の再分配。
あとは、一人一人の気持ちの再分配っていう部分もあるのかもしれないですね。
積極的なその姿勢を生み出す。 そして初めてここに、やっとリータが共有される土台が築かれるのではないか。
ということを、この著者は最後の方で話しています。
ここまで来るともう、私は偶然でも出ずにですね。 いやー本当にその通りだし、
自分の、 それって自己責任でしょ?と言って切り捨てていた、思い当たるいくつかの場面、
思い返して、とても恥ずかしい思いをしました。
気まずいなぁという、まあ一人で読書しているので、誰に指摘されているわけでも、見られているわけでもないんですけれども、
自分で自分のそういった行動に気づいて、本当に隠れたくなったと。
ということで久しぶりに、こういう気まずさを感じる読書をしましたね。
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なかなか貴重な経験だなぁと思います。
思いがけずりた、タイトルからはどんな本だろう、
想像ができないことを、人の方が多いと思います。 ただ最初の落語のくだりで、必ず多くの人が
引き込まれると思います。 引き込まれたら、もう最後まで読み切ってしまうので、
自分のスタンスはこれでいいのか、 そんなことを見つめる、見つめ返す、いい機会になる、
と思います。ぜひ読んでいただけたらなぁと思います。 ということで今日は、思いがけずりた、中島武さんの本について、
話してみました。 この配信が気に入っていただけたら、いいね、コメント、フォローお願いします。
励みになります。 今日も最後まで聞いていただいて、ありがとうございました。
ではでは。
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