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2024-06-13 11:49

037太宰治「鬱屈禍」

037太宰治「鬱屈禍」

小説書くのが難しいよう、太宰はいつも後ろ向きです。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。 エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。 ご意見ご感想は、公式エックスまでどうぞ。
さて今日はですね、 太宰治の
鬱屈禍というテキストを読もうと思います。 鬱屈という単語は
あると思うんですけど、 窮屈とか鬱屈、鬱はついているんで、ちょっと暗い気持ちになる、塞ぎ込むみたいな
意味だと思うんですけど、これに禍、
禍根の禍、災いがつくので、
内容をさらっと読んでみたんですが、
小説が書けなくてしょうがないようみたいな 内容になっていました。かなり短いテキストなんですが、
たまにはこのサイズのテキストもいいかなぁ。 それでは参ります。鬱屈禍。
この新聞、 帝国大学新聞の編集者は、
私の小説がいつも失敗作ばかりで伸びきっていないのを 聡明にも見て取ったのに違いない。
そうしてこのいじけた、流行しない悪作家に同情を寄せ、 文学の敵と言ったら大げさだが、
最近の文学についてそれを毒するものと思われるもの、 まあそういったようなもの、
を書いてみなさいと言ってきたのである。 編集者の同情に報いるためにも、私は思うところを正直に述べなければならない。
こういう言葉がある。 私は私の旧敵を必死と包容いたします。
息の根を止めて殺してやろうした心。 これは有名のシークなんだそうだが、
誰のシークやら、戦学の私にはわからぬ。 どうせフラチな悪文学者の作ったシークに違いない。
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ジードがそれを引用している。 ジードも相当に悪行の深い男のようである。
いつまでたっても生草坊主だ。 ジードはそのシークに続けて彼の意見を付加している。
すなわち芸術は常に一の拘束の結果であります。 芸術が自由であれば、それだけ高く昇等すると信じることは、
タコのあがるのを阻むのは、その意図だと信じることであります。 カントの鳩は自分の翼を束縛するこの空気がなかったならば、
もっとよく飛べるだろうと思うのですが、 これは自分が飛ぶためには、翼の重さを託し得る、この空気の抵抗が必要だということを知らぬのです。
同様にして、芸術が上昇せんがためには、 やはりある抵抗のおかげに頼ることができなければなりません。
なんだか子供騙しみたいな論法で、少し結論が早すぎ、 押しつけがましくなったようだ。けれどももう少し我慢して、
彼のお話に耳を傾けてみよう。 ジードの芸術評論はいいのだよ。
やはり世界有数であると私は思っている。 小説は少し下手だね。
い余って鶴響かずだ。 彼は続けて言う、大芸術家とは束縛にこぶされ、生涯が踏切台となるものであります。
伝えるところでは、ミケランジェロがモーズの窮屈な姿を考え出したのは、 大理石が不足したおかげだと言います。
アイスキュロスは舞台上で同時に用い得る声の数が限られていることによって、 そこでやむなく、
硬化サスにつなぐプロメトイスの沈黙を発明し得たのであります。 ギリシャはコトに鶴を一本付け加えたものを追放しました。
芸術は拘束より生まれ、闘争に生き、自由に死ぬのであります。 なかなか自信ありげに、単純に断言している。
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信じなければなるまい。 私の隣の家では、
朝から夜中までラジオをかけっぱなしで、はなはだうるさく。 私は自分の小説の不適をそのせいだと思っていたのだが、
それは間違いで。 この騒音の障害をこそ、私の芸術の名誉ある踏切台としなければならなかったのである。
ラジオの騒音は、決して文学を毒するものではなかったのである。 あれこれと文学の敵を想定してみるのだが、考えてみると、
すべてそれは芸術を生み、成長させ、 昇華させるありがたい母体であった。
やりきれない話である。 何の不平も言えなくなった。
私は貧しい悪作家であるが、 けれどもやはり第一頭の道を歩きたい。
常に大芸術家の心構えを、 真似でもいいから持っていたい。
大芸術家とは束縛に鼓舞され、 障害を踏切台とするものであります。
と祖父のジードから優しく教えさとされ、 私も君も共にいい子になりたくて。
はい、などと首相気にうなずき。 さて立ち上ってみたら、
はなはな馬鹿馬鹿しいことになった。 自分をぶん殴り縛りつける人。
ことごとくに、いやありがとうございました。 おかげで私の芸術もこぶされました。
と、 お辞儀をして回らなければならなくなった。
駒桁で顔を殴られ、 その駒桁を
錦の袋に収め、 朝いううやうやしく礼拝して、
立心出世したとかいう講談を寄せで聞いて、 実に馬鹿馬鹿しく笑ってしまったことがあったけれど。
あれとあんまり違わない。 大芸術家になるのもまた辛いものである。
などと茶化してしまえば。 せっかくのジードの言葉もボロクソになってしまうが、
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ジードの言葉は結果論である。 後世傍観者の言葉である。
ミケランジェロだってその当時は大理石の不足に悲憤痛感したのだ。 ぶつぶつ不平を言いながら
モーゼ像の製作をやっていたのだ。 はからずもミケランジェロの天才がその大理石の不足を償って余りあるものだったので成功したのだ。
いわんや私たち商才はぶん殴られて喜んでいたのじゃ。 製作も何も消えてなくなる。
不平は大いにいうがいい。 敵には容赦をしてはならぬ。
ジードもちゃんと言っている。 闘争に行きとぬからずちゃんと言っている。
敵は? ああそれはラジオじゃない。
原稿料じゃない。 批評家じゃない。
コローの曰く真中の敵最も恐るべし。 私の小説がまだ下手くそで伸びきらぬのは
私の真中にやっぱり濁ったものがあるからだ。 1980年発行。
新聴者・新聴文庫。 もの思う足。 より読み終わりです。
短いですね。 そしてダザイくんはいつも
いいですね。後ろ向きで グチグチグチグチ言ってるんだよなぁ。ダザイくんは。
でもあのこのなんかこう 抑圧されてそこに工夫が生まれるのだみたいなのはそうじゃないかなと僕も少し
思うんですよ。なんかそのとこに工夫がね KU FU 工夫が生まれるんじゃないかなと。
ルールの中で最大限遊ぶみたいな。 大喜利とかもそうじゃないですか。
お題がお題の中で最大限遊ぶみたいな。 そういうのがあるのではないかなとちょっと
ふと思った次第です。 ということで今日は短いですが今日のところはこの辺でまた次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
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