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2025-08-12 28:29

155中島敦「名人伝」(朗読)

155中島敦「名人伝」(朗読)

不射之射とは。

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サマリー

中島敦の「名人伝」では、貴正という男が天下第一の弓の名人になるために苦労し、修練を重ねています。彼は師の教えを受けて、瞬きをせずに見ることを学び、最終的には驚異的な射術の達人となります。主人公気象は、老者から技を学び、弓の名手として成長する過程が描かれています。彼は9年の修行を経て見違えるほど変わりますが、それでも弓を取らずに名人としての評判を確立していきます。日本の都市生活や地方の魅力について触れ、自分の意欲や日常生活の変化を考察しています。

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寝落ちの本ポッドキャスト。 こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだことがあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。 エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。 ご意見・ご感想・ご依頼は、公式Xまでどうぞ。
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そして最後に番組フォローもどうぞよろしくお願いします。 さて、
今日はですね、 中島敦さんの名人伝です。
かつて読みましたね、中島敦さんのリクエストをもらってね。 中島敦さん、日本の小説家、代表作は三月記。
これ以前読みました。 それから、
定詞、履領などがある。
横浜高等女学校の教員勤務の傍ら小説執筆を続け、 パラオ南陽町の管理を経て専業作家となるも、同じ1942年中に
治病の全息悪化のため、33歳で病没。 死後に出版された全集は毎日出版文化賞を受賞したということで、死後評価された人ってことなのかな。
生きている最中にも評価されているのか。
なんかこの人ずっとあれなんですよね。 三月記の時もそうだけど、中国を舞台にした。
すぐ中国を舞台にするね。 こういう言い方が正しいのかありませんが。
したがって人の名前も漢字の音読みですし、 地名も音読みですし、役職とかも音読みなんで、ちょっと
何言ってなるかもしれませんけど、まあそういうもんだと思って 聞いてください。
文字数は6400文字なんで、 そうですね。
30分はかかんないかなという感じですね。 よろしければ寝落ちまでお付き合いいただければと思います。
それでは参ります。 名人伝
名人を目指す貴正の修練
長の関丹の都に住む貴正という男が、 天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。
己の使と頼むべき人物を物色するに。 当今弓矢を取っては名手比叡に及ぶ者があろうとは思われん。
百歩を隔てで流洋を射るに百発百中するという達人だそうである。
貴正ははるばる比叡を訪ねてその門に入った。 比叡は新入りの門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。
貴正は家に帰り、 妻の旗織り台の下に潜り込んで、そこに仰向けにひっくり返った。
目とすれすれに招きがせわしく上下往来するのを、 じっと瞬かずに見つめていようという工夫である。
理由を知らない妻は大いに驚いた。 第一、妙な姿勢を妙な角度から夫に覗かれては困るという。
嫌がる妻を貴正はしっかりつけて無理に旗を織り続けさせた。 来る日も来る日も彼はこのおかしな格好で瞬きせざる修練を重ねる。
二年の後には慌ただしく往返する招きがまつ毛をかすめても、 耐えて瞬くことがなくなった。
彼はようやく旗の下から這い出す。 もはや鋭利な霧の先をもって瞼をつかれても、瞬きをせぬまでになっていた。
ふいに火の粉が目に入ろうとも、目の前に突然灰かぐらが立とうとも、 彼は決して目をぱちつかせない。
彼の瞼はもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、 夜熟睡している時でも貴正の目はかっと大きく見開かれたままである。
ついに彼の目のまつ毛とまつ毛との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、 彼はようやく自信を得て師の比叡にこれを告げた。
それを聞いて比叡が言う。 瞬かざるのみではまだ舎を授けるに足れん。
見ることの習得
次には見ることを学べ。 見ることに熟して、さて正を見ること大の如く、美を見ること貯の如くなったならば、
来たってわりに告げるがよいと。 貴正は再び家に戻り、肌着の縫い目から白身を一匹探し出して、これを尾長髪の毛を持って繋いだ。
そしてそれを南向きの窓にかけ、終日睨み暮らすことにした。 毎日毎日彼は窓にぶら下がった白身を見つめる。
はじめ、もちろんそれは一匹の白身に過ぎない。 二、三日経っても依然として白身である。
ところが十日余り過ぎると気のせいか。 どうやらそれがほんの少しながら大きく見えてきたように思われる。
三日目の終わりには明らかに蚕ほどの大きさに見えてきた。 白身をつるした窓の外の風物は次第に移り変わる。
危機として照っていた春の日はいつか激しい夏の光に変わり、 澄んだ秋空を高く岩が渡っていったかと思うと、はやさむざむとした灰色の空から
みぞれが落ちかかる。 気象は根気よく毛髪の先にぶら下がった
有粉類、細葉性の小節族動物を見続けた。 その白身も何十匹となく取り換えられていくうちに、早くも三年の月日が流れた。
ある日ふと気がつくと、窓の白身が馬のような大きさに見えていた。
「閉めた。」と気象は膝を打ち表へ出る。 彼は我が目を疑った。
人は高塔であった。 馬は山であった。
豚は丘のごとく、鳥は上楼と見え、 弱役して家に取って帰した気象は再び窓際の白身に立ち向かい、
遠隔の弓に作法の矢柄を継がえてこれを入れば、 矢は見事に白身の芯の像を貫いて、しかも白身を繋いだ毛さえ切れぬ。
気象は早速主のもとに赴いてこれを放ずる。 比叡は高塔して胸を打ち、「初めて出がしたぞ。」と褒めた。
新たな目標と成長
そして直ちに射術の奥義秘伝を余すところなく気象に授け始めた。 目の既存訓練に5年もかけた甲斐があって気象の腕前の上達は驚くほど早い。
奥義伝授が始まってから10日の後、 試みに気象が百歩を隔てて流洋を射るに、すでに百発百中である。
20日の後、いっぱいに水をたたえた杯を右肘の上に乗せて号泣をひくに、 狙いに狂いのないのはもとより、胚中の水も微動だにしない。
一月の後、百本の矢を持って即射を試みたところ、 第一矢が的に当たれば、続いて飛び来立った第二矢は誤たず第一矢の矢筈に当たって突き刺さり、
さらに間髪を入れず、第三矢の矢尻が第二矢の矢筈にがっしと食い込む。 死死相続し、発発哀を呼んで。
孔子の矢尻は必ず前史の矢筈に食い入るがゆえに、絶えて地に落ちることはない。 瞬く中に百本の矢は一本のごとく相連なり、
まとから一直線に続いたその最後の矢筈は、なお弦を含むがごとくに見える。 傍で見ていた死の悲鶏も思わず、「よし!」と言った。
二月の後、たまたま家に帰って妻と居酒屋をした貴生が、 これを脅そうとて、蠢の弓に喜栄の矢を継がえ、きりりと引き絞って妻の眼を射た。
矢は妻のまつげ三本を生きって彼方へ飛び去ったが、居られた本人は一向に気づかず、 瞬きもしないで弟子を罵り続けた。
けだし、彼の死芸による矢の速度と狙いの精明さとは、実にこの域にまで達していたのである。
もはや死から学び取るべき何者もなくなった貴生は、ある日、ふとよからぬ考えを起こした。
彼がそのとき一人つくづくと考えるには、 今や弓を持って己に適すべきものは、死の秘英を置いてほかにない。
天下第一の名人となるためには、どうあっても秘英を覗かねばならんと。
ひそかにその機会をうかがっている中に、一日たまたま荒野において、 向うからただ一人歩みきたる秘英に出会った。
とっさに意をけした貴生が矢を取って狙いをつければ、 その気配をさして秘英もまた弓を取って相をおずる。
二人互いにいれば、矢はそのたびに中道にして相あたり、ともに地に落ちた。
地に落ちた矢が敬人をもあげなかったのは、 両人の技がいずれも真にいっていたからであろう。
さて、秘英の矢が尽きたとき、 貴生の方はなお意志を余していた。
えたりと勢い込んで貴生がその矢を放てば、 秘英はとっさに傍なるノイバラの枝を折り取り、
その棘の先端をもって箸と矢尻をたたき落とした。 ついに誹謗の遂げられないことを悟った貴生の心に、
成功したならば決して生じなかったに違いない道徳的懺悔の念が、 このとき骨縁として沸き起こった。
秘英の方では、また喜喜を脱し得た安土と、 骨が偽量についての満足とが敵に対する憎しみをすっかり忘れさせた。
二人は互いに駆け寄ると野原の真ん中で愛抱いて、 しばし美しい指定愛の涙に書きくれた。
こうしたことを今日の道義観を持ってみるのは当たらない。 美食家の青野観光が、己の未だ味わったことのない珍味を求めたとき、
中西の益賀は小野川息子を蒸し焼きにしてこれを勧めた。 16歳の少年、
秦の始皇帝は父が死んだその晩に父の哀傷を三度襲った。 すべてそのような時代の話である。
涙にくれて哀憂しながらも、再び弟子がかかるたくらみを抱くようなことがあっては、 はなはだ危ういと思った秦英は、
貴将に新たな目標を与えてその気を転ずるにしくはないと考えた。 彼はこの危険な弟子に向かって行った。
もはや伝うべきほどのことはことごとく伝えた。 汝がもしこれ以上この道の運能を極めたいと望むならば、
ゆいて西の方、大公の県によじ、各山の頂きを極めよ。 そこには関陽老子とて古今をむなしゅうする指導の大価がおられるはず。
老子の技に比べれば我々の者のごときはほとんど慈儀に類する。 汝の使徒頼むべきは今は関陽子のほかにあるまいと。
貴将はすぐに西に向かって旅立つ。 その人の前に出ては我々の技のごとき慈儀に等しいといった死の言葉が彼の自尊心に答えた。
もしそれが本当だとすれば、天下第一を目指す彼の望みもまだまだ善とほど遠いわけである。 己が技が慈儀に類するかどうか。
とにもかくにも早くその人に会って腕を比べたいと焦りつつ、 彼はひたすらに道を急ぐ。
技を学ぶ気象
足裏を破り、すねを傷つけ、気眼をよじ、山道を渡って、 一月の後に彼はようやく目指す山天にたどり着く。
清いたつ貴将を迎えたのは、羊のような乳話の目をした、 しかしひどくよぼよぼの爺さんである。
年齢は百歳をも超えていよう。 腰の曲がっているせいもあって白禅は歩くときも地に引きずっている。
相手が老かもしれぬと大声に慌ただしく貴将は来意を告げる。 己が技のほどを見てもらいたい胸を述べると、焦り立った彼は相手の返事をも待たず、
いきなり背負った羊羹真金の弓を外して手に取った。 そして赤血の矢を継がえると、檻から空の高くを飛び過ぎていく渡り鳥の群れに向かって狙いを定める。
鶴に応じて一閃、たちまち五羽の大鳥が鮮やかに壁空を切って落ちてきた。 一通りできるようじゃな、と老人が穏やかな微笑を含んで言う。
だがそれは所詮舎の舎というもの。 後漢未だ不舎の舎を知らんと見える。
むっとした気象を導いて老人者は、そこから二百歩ばかりを離れた絶壁の上まで連れてくる。 客家は文字通り屏風のごとき壁立先陣。
遥か真下に糸のような細さに見える渓流をちょっと覗いただけでたちまち目眩を感じるほどの高さである。 その断崖から中場中に乗り出した軌跡の上につかつかと老人は駆け上がり振り返って気象に言う。
どうじゃ、この石の上で戦国の技を今一度見せてくれんか。 今さら引っ込みもならん。
老人と入れ替わりに気象がその石を踏んだとき、石はかすかにぐらりと揺らいだ。 しいて気を励まして矢を使いようとすると、ちょうど崖の端から小石が一つ転がり落ちた。
その行方を目で覚えたとき、覚えず気象は石上に伏した。 足はわなわなと震え、汗は流れてかかとにまで至った。
老人が笑いながら手を差し伸べて彼を石から下ろし、自ら代わってこれに乗ると、 「では車というものをお目にかけようかな。」
と言った。 まだ動機が収まらず青ざめた顔をしてはいたが気象はすぐに気がついて言った。
「しかし弓はどうなさる?弓は?」 老人は素手だったのである。
「弓?」 と老人は笑う。
弓矢のいる中はまだ車の車じゃ。不車の車には物質の弓も粛心の矢もいらん。
ちょうど彼らの真上、空の極めて高いところを一羽の鳥鳥がゆゆと輪を描いていた。
その五末分ほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた関羊が、 やがて見えざる矢を無形の弓に継がえ、満月のごとくに引き絞ってひょうと放てば、
見よ、鳥は羽ばたきもせず、中空から石のごとくに落ちてくるではないか。 気象は立然とした。
名人としての変化
今にして初めて芸道の深淵を覗き得た心地であった。 9年の間、
気象はこの老命陣の下にとどまった。 その間、いかなる修行を積んだものやら、それは誰にもわからん。
9年たって山を降りてきた時、人々は気象の顔つきの変わったのに驚いた。 以前の負けず嫌いな静寒な面魂はどこかに影を潜め、
何の表情もないデクのごとく、愚者のごとき要望に変わっている。 久しぶりに旧志の比叡を訪ねた時、
しかし比叡はこの顔つきを一元すると感嘆して叫んだ。 これでこそ初めて天下の名人だ。
我らのごとき足元にも及ぶものでないと。 寛泰の都は天下一の名人となって戻ってきた気象を迎えて、
やがて眼前に示されるに違いないその妙儀への期待にわきかえった。 ところが気象は一向にその要望に答えようとしない。
いや弓さえ絶えて手に取ろうとしない。 山に入る時訪されていった羊羹真金の弓もどこかへ捨ててきた様子である。
その訳を訪ねた一人に答えて気象は物憂げに行った。 死位はなすなく、死源は厳を去り、死者はいることなしと。
なるほどと至極物分りのいい寛泰の都人志はすぐに我転した。 弓をとらざる弓の名人は彼らの誇りとなった。
気象が弓に触れなければ触れないほど彼の無敵の評判はいよいよ献殿された。 さまざまな噂が人々の口から口へと伝わる。
毎夜三更過ぎる頃気象の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓鶴の音がする。 名人の家に宿るシャドウの神が主人公の眠っている間に体内を抜け出し、
妖魔を払うべく鉄招守護に当たっているのだという。 彼の家の近くに住む一商人はある夜気象の家の上空で雲に乗った気象が珍しくも弓を手にして、
いにしえの名人ゲイと妖幽鬼の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。 その時三名人の放った矢はそれぞれ夜空に青白い弓矛を引きつつ、
三宿と天狼星との間に消え去ったと。 気象の家に忍び入ろうとしたところ兵に足をかけた途端に一堂の殺鬼が神官とした家の中から走り出てまともに額を打ったので、
覚えず外に転落したと白状した盗賊もある。 次来邪神を抱く者どもは彼の住居の十丁四方は避けて回り道をし、
賢い渡り鳥どもは彼の家の上空を通らなくなった。 雲と立ち込める鳴声の漂なかに名人気象は次第に置いて行く。
弓を忘れた名人
すでに早く舎を離れた彼の心は、ますます孤端虚勢の域に入って行ったようである。 デクのごとき顔はさらに表情を失い、語ることも稀となり、
ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。 すでに我と彼との別、
是と人の分を知らぬ。 目は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。
というのが老命人晩年の十回である。 関陽氏のもとを持してから四十年の後、気象は静かに、まごとに煙のごとく静かに夜を去った。
その四十年の間、彼は絶えて舎を口にすることがなかった。 口にさえしなかったくらいだから弓矢を取っての活動などあろうはずがない。
もちろん偶話作者としては、ここで老命人に長尾の大活躍をさせて、 命人の真に命人たるゆえんを明らかにしたいのは山々ながら、
一方また何としても故障に記された事実を曲げるわけにはいかん。 実際老後の彼についてはただ無意にして貸したとばかりで、次のような妙な話のほかには何一つ伝わっていないのだから。
その話というのは彼の死ぬ一二年前のことらしい。 ある日置いてある気象が知人のもとに招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。
確かに見覚えのある道具だが、どうしてもその名前が思い出せぬし、その用途も思い当たらない。 老人はその家の主人に尋ねた。
それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。 主人は客が冗談を言っているとのみをもってにやりととぼけた笑い方をした。
老気象は真剣になって再び尋ねる。 それでも相手は曖昧な笑みを浮かべて客の心を計りかねた様子である。
三度気象が真面目な顔をして同じ問いを繰り返した時、 初めて主人の顔に驚愕の色が現れた。
彼は客の目をじっと見つめる。 相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、
また自分が聞き違いをしているのでもないことを確かめると、 彼はほとんど恐怖に近い狼狽を示して、どもりながら叫んだ。
「ああ、風姿が、 古今無双の社の名人たる風姿が、弓を忘れ果てられたとや。 ああ、弓という名も、その使い道も。」
その後、当分の間関丹の都では、画家は絵筆を隠し、 楽人は室の弦を断ち、
高尚は菊を手にするのを恥じたということである。 昭和17年12月、
1992年発行。 筑磨書房。筑磨文庫。 筑磨日本文学全集。中島敦史。
より独りを読み終わりです。
はい。 名人になったのね。
働きもせずに。 どうやってご飯を食べていたんでしょうか。
嫁さんもいる身で。 嫁さんに食わせてもらってたのかしら。
余計なことを考えちゃったな。
もう、連日連日うだるような暑さですけど、皆さんお体崩してないですか?
いやーもう本当に暑いね。うんざりする暑さですね。 週に1回ぐらい、もうちょっとかな飲みに行く
お店があるんですけど、そこのお店の バイト君がミャンマーの子なんですけど
ミャンマーから日本に出てこれって相当優秀な子だと思いますが その子がミャンマーより日本の方が暑いって言ってましたね。
マジで?みたいな。 うんざりする顔してました。ミャンマー審が。
それだからもう髪も短くしたんだって。長い髪じゃやってられんって言って。
あのムワッとする湿気ですよね。湿気がもう本当に応える。 もうぐんなりですわ。
あの 関東平野がこう地図にあって、そこでこうどういう気温
分布だったかみたいなヒートマップみたいなやつあるじゃないですか。 あれでなんかその
東京、埼玉、北関東、神奈川、千葉と関東一園が紫色に、赤通り越して紫色に暑くなってるみたいなやつ見たんですけど
逆に涼しいところどこかなと思って、その青っぽい色のところ見たら 静岡の方が割と涼しいところが多そうでした。富士山近く、それから箱根のあたり。
ちょっと標高があるんですかね。 それから千葉の先っぽの方、外坊っていうんですか。あの海のあたり。
は結構涼しそうでした。 縁もゆかりもないけど箱根に住もうかなぁ。
一応電車1本で来れるでしょ。東進まで。 伊豆の踊り子みたいなやつ乗って。
昔もね、この暑すぎる日本から脱出しようと思って ニュージーランドに住もうかなっていろいろ調べてたことがあるんですけど
なんかね、外国に住むのは本当に大変みたいで
いくらってたっけな。とんでもない金額とりあえず用意しないといけないんだな。その永住するためには。
4000万? なんか向こうの銀行口座にそれだけのものを入れてみたいなことだったような気がしたけど、もう忘れました。
東京と地方の生活
とにかくすごくハードルが高いんだな。 部外者には厳しいというか、日本も外に出てほしくないからそういうのはあんまり。
ね、移民がバンバン来られても困るんで、叱るべき人しか来ちゃダメよ。 ちゃんとした人だけ聞いてね、みたいな感じになっているというような
感想を持ちましたね。 そうなるとやっぱりちょっと地方ですかね。
東京での生活って、なんかね、一人暮らしで東京に出てきた人と、 あと元々東京に住んでいる人と
で、なんとか 作ってるだけで
元々東京に住んでた人だって、親子さんが亡くなって相続税払えって言われたら、今の 価値基準じゃとても払えなくて、結局地方に引っ越すみたいなことになるっていう感じだと
ですよね、きっとね。 ずっとは言われないんだよな、東京って。
僕は育ちが埼玉なんで、なんか埼玉のこの牧歌的な感じの 良さみたいなのもちょっと意外といいところもある
なとは思っているんですけど。 まあでもあのヒートマップを見てたら埼玉も暑いからな。
秩父とかの方に行かないとだいぶ涼しくならないだろうな。 秩父も暑いか。
まあそう言いながらも、 4年経ちまして今の家は更新しちゃったんですけどね。
なんか、ああしたいこうしたいみたいな欲があんまりないから、 きっかけはいつも受動的な感じになってしまって
対応だけしていくみたいな感じになっちゃいがちですね。
日常を送ってたら、意欲を持って自分から動こうとするカロリーを燃やすよりも、
いつも通りの平常運転をしながら、少しちょっとした変化に対応していくぐらいが楽チンだなっていう感じになっちゃいます。
なんでこんな話になったんでしたっけ。 忘れちゃった。
喋りすぎた。 よし終わりにしよう。
無事寝落ちできた方も、最後までお付き合いいただいた方も大変にお疲れ様でした。
といったところで、今日のところはこの辺で。 また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
28:29

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