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寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。 このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、 それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。 作品はすべて青空文庫から選んでおります。
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また別途投稿フォームもご用意しました。リクエストなどをお寄せください。 そして最後に番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
萩原朔太郎と『猫町』
さて今日は、萩原朔太郎さんの
「ねこまち」というのを読んでいこうと思います。 萩原朔太郎さん。日本の詩人・評論家。
大正時代に近代史の新しい地平を開き、日本近代史の父と称される。 代表作「四周月に吠える青猫」
短編小説に「ねこまち」などがある。これ今日読みますね。 だそうです。
昔ね、エッセイでね、
ラジオ漫談というのを萩原朔太郎さんのやつで読んだのですが、内容は覚えていません。 それと
早稲田大学の近くのラーメン屋さんにラーメンを食べに行った時に、ちょうど早稲田大学の目の前を通ったら、
黒く塗った看板に赤い字でカクカク色々書いてあるなと思ったら、萩原朔太郎の詩を 書いてあって、なんか学生運動の
あるいは、なんか大学時期の旗印的に使われているんだなぁって 思った記憶がありますね。
萩原朔太郎さんね。詩の内容、なんて書いてたか忘れましたけど。
まあ、パッションのある詩を歌ってたんでしょうな。 で、今日は猫町という小説です。
やっていきましょうかね。 それでは参ります。
猫町。 蝿を叩き潰したところで、蝿の物そのものは死にはしない。
単に蝿の現像を潰したばかりだ。 ショーペンハウエル。
夢の旅行と錯覚
1 旅への誘いが次第に私のロマンから消えていった。
昔はただそれの表像、汽車や機船や見知らぬ他国のまちまち矢をイメージするだけでも心が踊った。
しかるに過去の経験は、旅が単なるドイツ空間におけるドイツ事物の移動に過ぎないことを教えてくれた。
どこへ行ってみても同じような人間ばかり住んでおり、 同じような村や町屋で同じような単調な生活を繰り返している。
田舎のどこの小さな町でも、商人は店先でソロバンをはじきながら、 終日白っぽい往来を見て暮らしているし、
管理は役所の中でタバコを吸い、昼飯の名のことなど考えながら、 来る日も来る日も同じように味気ない単調な日を暮らしながら次第に年老いていく人生を眺めている。
旅への誘いは、私の疲労した心の陰に、とある空き地に生えた青霧みたいな無限の退屈した風景を映像させ、
どこでも同一性の法則が反復している人間生活への味気ない懸縁を感じさせるばかりになった。
私はもはやどんな旅にも興味とロマンスをなくしてしまった。 久しい前から私は私自身の独特な方法による不思議な旅行ばかりを続けていた。
その私の旅行というのは、 人が時空と因果の他に飛翔し得る唯一の瞬間、
すなわち、あの夢と現実の境界線を巧みに利用し主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。 と言ってしまえば、もはやこの上、私の秘密について多く語る必要はないであろう。
ただ私の場合は、用具や設備に面倒な手数がかかり、かつ日本で入手の困難なアヘンの代わりに、簡単な注射や服用で済むモルヒネ、コカインの類を多く用いたということだけを不規しておこう。
そうした麻酔によるエクスタシーの夢の中で、私の旅行した国々のことについては、ここに詳しく述べる余裕がない。
だが大抵の場合、私はカエルどもの群がっている沼沢地方や、極地に近くペンギン鳥のいる沿海地方などを航海した。
それらの夢の景色の中では、すべての色彩が鮮やかな原色をして、海も空もガラスのように透明な真っ青だった。
覚めての後にも、私はそのビジョンを記憶しており、しばしば現実の世界の中で異様の錯覚を起こしたりした。
薬物によるこうした旅行は、だが私の健康をひどく害した。
私は日々に消水し、血色が悪くなり、皮膚が浪水によどんでしまった。
私は自分の養生に注意し始めた。
そして運動のための散歩の途上で、ある日偶然、私の風変わりな旅行癖を満足させ得る一つの新しい方法を発見した。
私は医師の指定してくれた注意によって、毎日家から4,50丁、30分から1時間ぐらいの付近を散歩していた。
その日もやはりいつも通りに、普段の散歩区域を歩いていた。
私の通る道筋はいつも同じように決まっていた。
だがその日に限ってふと知らない横丁を通り抜けた。
そしてすっかり道を間違え、方角をわからなくしてしまった。
元来私は、磁石の方角を直角するカンカン機能に、何かの著しい欠陥を持った人間である。
そのため道の覚えが悪く、少し慣れない土地へ行くとすぐ迷子になってしまった。
その上、私には道を歩きながら瞑想にふける癖があった。
途中で知人に挨拶されても少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷子になり、人に道を聞いて笑われたりする。
かつて私は長く住んでいた家の周りを、平日想定何十回もぐるぐると回り歩いたことがあった。
方角関連の錯誤から、すぐ目の前にある門の入り口が、どうしても見つからなかったのである。
家人は私が、まさしく狐にばかされたのだと言った。
狐にばかされるという状態は、つまり心理学者の言う三反器官の疾病であるのだろう。
なぜなら学者の説によれば、方角を近くする特殊の機能は耳の中にある三反器官の作用だということだから。
4時はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当てずい量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。
そして樹木の多い郊外の屋敷町を幾度かぐるぐる回った後で、ふとある賑やかな往来へ出た。
それは全く私の知らないどこかの美しい町であった。
街路は清潔に掃除されて、宝石がしっとりと梅雨に濡れていた。
どの商店も小綺麗にさっぱりして磨いたガラスの飾り窓には様々な珍しい商品が並んでいた。
コーヒー店の軒には花着が茂り、街に日陰のある錠酒を添えていた。
四筒字の赤いポストも美しく、タバコ屋の店にいる娘さえも杏のように明るくて可憐であった。
かつて私はこんな錠酒の深い街を見たことがなかった。
一体こんな街が東京のどこにあったのだろう。
私は地理を忘れてしまった。
しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、
徒歩で半時間ぐらいしか離れていないいつもの私の散歩区域、
もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは確実に疑いなくわかっていた。
しかもそんな近いところに今まで少しも人に知れずにどうしてこんな街があったのだろう。
私は夢を見ているような気がした。
それが現実の街ではなくて、幻灯の幕に映った影絵の街のように思われた。
だがその瞬間に私の記憶と常識が回復した。
気がついてみれば、それは私のよく知っている近所のつまらないありふれた郊外の街なのである。
いつものように四筒字にポストが立って、タバコ屋には異病の娘が座っている。
そして店々の飾り窓には、いつもの流行遅れの商品がほごりっぽくあくびをして並んでいるし、
コーヒー店の軒には田舎らしく造花のアーチが飾られている。
何もかも全て私が知っている通りのいつもの退屈な街に過ぎない。
一瞬間のうちにすっかり印象が変わってしまった。
そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って包囲を錯覚したことにだけ原因している。
いつも街の南外にあるポストが反対の入り口である北に見えた。
いつもは左側にある街路の街家が逆に右側の方へ移ってしまった。
そして、ただこの変化が全ての街を珍しく新しいものに見せたのだった。
その時私は未知の錯覚した街の中である商店の看板を眺めていた。
その全く同じ看板の絵をかつてどこかで見たことがあると思った。
そして記憶が回復された一瞬時に全ての方角が逆転した。
すぐ今まで左側にあった往来が右側になり、
北に向かって歩いた自分が南に向かって歩いていることを発見した。
その瞬間磁石の針がくるりと回って東西南北の空間地位がすっかり逆に変わってしまった。
同時に全ての宇宙が変化し減少する街の城主が全く別のものになってしまった。
つまり前に見た不思議の街は磁石を反対に裏返した宇宙の逆空間に実在したのであった。
この偶然の発見から私は故意に包囲を錯覚させてしばしばこのミステリーの空間を旅行しまわった。
特にまたこの旅行は前に述べたような欠陥によって私の目的に都合が良かった。
だが普通の健全な方角近くを持っている人でも時にやはり私と同じくこうした特殊な空間を経験によって見たであろう。
例えば諸君は夜遅く家に帰る汽車に乗っている。
はじめ停車場を出発したとき汽車はレールをまっすぐに東から西へ向かって走っている。
だがしばらくするうちに諸君はうたたねの夢から覚める。
そして汽車の進行する方角がいつの間にか反対になり、西から東へと逆に走っていることに気がついてくる。
諸君の理性は決してそんなはずがないと思う。
しかも知覚上の事実として汽車は確かに反対に諸君の目的地から遠ざかっていく。
そうしたとき試みに窓から外を眺めてみたまえ。
いつも見慣れた途中の駅や風景やがすっかり珍しく変わってしまって、
記憶の一片さえも浮かばないほど全く別の違った世界に見えるだろう。
だが最後に到着し、いつものプラットホームに降りたとき、
初めて諸君は夢から覚め、現実の正しい方位を認識する。
そして一旦それがわかれば、初めに見た異常の景色や事物やは、
なんでもない平常通りの見慣れたつまらないものに変わってしまう。
つまり一つの同じ景色を初めに諸君は裏側から見、
あとには平常の習慣通り再度正面から見たのである。
このように一つのものが視線の方角を変えることで二つの別々の面を持っていること、
同じ一つの現象がその隠された秘密の裏側を持っているということほどメタフィジックの神秘を包んだ問題はない。
私は昔子供のとき、壁にかけた額の絵を見ていつも熱心に考え続けた。
一体この額の景色の裏側にはどんな世界が秘密に隠されているのだろうと。
私はいく度か額を外し、油絵の裏側を覗いたりした。
そしてこの子供の疑問は大人になった今日でも長く私の解きがたい謎になっている。
次に語る一つの話もこうした私の謎に対してある回答を暗示する影になっている。
読者にしてもし私の不思議な物語からして事物と現象の背後に隠れているところのある第四次元の世界、
景色の裏側の実在性を仮想し得るとせば、この物語の一切はリアルである。
なが諸君にして、もしそれを仮想し得ないとするならば、私の現実に経験した次の事実も、
所詮はモルヒネ中毒に中枢を犯された一詩人の取り留めもないデカダンスの幻覚にしか過ぎないだろう。
とにかく私は勇気を振るって書いてみよう。
ただ小説家でない私は客食や趣向によって読者を面白がらせる術を知らない。
私の成し得ることはただ、自分の経験した事実だけを報告の記事に書くだけである。
秋の日々と温泉地
②その頃私は北越地方の慶という温泉に滞留していた。
九月も末に近く、彼岸を過ぎた山の中ではもうすっかり秋の季節になっていた。
都会から来た秘書客はすでに皆帰ってしまって、後には少しばかりの当事客が静かに病をやしなっているのであった。
秋の日陰は次第に深く、旅館の眩しい中庭には木々の落ち葉が散らばっていた。
私はフランネルの着物を着て一人で浦山などを散歩しながら、所在のない日々の日課を過ごしていた。
私のいる温泉地から少しばかり離れたところに三つの小さな町があった。
いずれも町というよりは村というほどの小さな部落であったけれども、その中の一つは相当に小じんまりした田舎町で、一通りの日常品も売っているし都会風の飲食店なども少しはあった。
温泉地からそれらの町へはいずれも直通の道路があって、毎日定期の乗り合い馬車が往復していた。
特にその繁華な有町へは小さな軽便鉄道が付設されていた。
私はしばしばその鉄道で町へ出かけて行って買い物をしたり、時にはまた女のいる店で酒を飲んだりした。
だが私の実の楽しみは軽便鉄道に乗ることの途中にあった。
そのおもちゃのようなかわいい汽車は洛陽樹の林や谷間の見える山海谷をうねうねと曲りながら走っていった。
ある日私は軽便鉄道を途中で下車し、徒歩で有町の方へ歩いて行った。
それは見晴らしの良い峠の山道を一人でゆっくり歩きたかったからであった。
道はレールに沿いながら、林の中の不規則な小道を通った。
ところどころに秋草の花が咲き、赤土の肌が光り、切られた樹木が横たわっていた。
秋は空に浮かんだ雲を見ながら、この地方の山中に伝説している古いコーヒーのことを考えていた。
外して、文化の程度が低く原始民族のタブーと名刺に包まれているこの地方には、実はいろいろな伝説やコーヒーがあり、今でもなお多数の人々は真面目に信じているのである。
村の恐怖とタブー
現に私の宿の女中や近所の村から当時に来ている人たちは、一種の恐怖と嫌悪の感情とで私にさまざまなことを話してくれた。
彼らの語るところによれば、ある部落の住民は犬がみに疲れており、ある部落の住民は猫がみに疲れている。
犬がみに疲れた者は肉ばかりを食い、猫がみに疲れた者は魚ばかり食って生活している。
そうした得意な部落を称して、その辺の人々は月村と呼び、一切の交際を避けて忌み嫌った。
月村の人々は年に一度月のない闇を選んで祭礼をする。
その祭りの様子は彼ら以外の普通の人には全く見えない。
稀に見てきた人があっても、なぜか口をつぐんで話をしない。
彼らは特殊の魔力を有し、書院のわからぬ莫大な財産を隠している。
こうした話を聞かせた後で、人々はまた追加していった。
現にこの種の部落の一つは、つい最近までこの温泉場の付近にあった。
今ではさすがに解消して、住民はどこかへ散ってしまったけれども、おそらくやはりどこかで秘密の集団生活を続けているに違いない。
その疑いない証拠として、現に彼らのオクラ、魔人の正体を見たという人があると。
こうした人々の談話の中には、農民一流の顔面さが主張づけられていた。
いやでもおおでも、彼らは自己の迷信的恐怖と実在性等を私に強制しようとするのであった。
だが私は別の違った興味でもって人々の話を面白く傾聴していた。
日本の諸国にあるこの種の部落的タブーは、おそらく風俗習慣を引入した外国の異住民や貴賀人やお先祖の宇治神に持つ者の子孫であろう。
あるいは多分もっと確実な推測として、ギリシタン州との隠れた集合的部落であったのだろう。
しかし宇宙の間には人間の知らない数々の秘密がある。
神馬の足跡を辿って
保齢師王が言うように、理智は何事をも知りはしない。
理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。
しかも宇宙の隠れた意味は常に通俗以上である。
だからすべての哲学者は彼らの給理の最後に来て、いつも詩人の前に兜を脱いでいる。
詩人の直覚する超常識の宇宙だけが真のメタフィジックの実在なのだ。
こうした詩意にふけりながら、私は一人秋の山道を歩いていた。
その細い山道は、経路に沿って林の奥へ消えていった。
目的地への道しるべとして私が唯一の頼りにしていた汽車のレールは、もはやどこにも見えなくなった。
私は道をなくしたのだ。
迷い語
瞑想から覚めたときに、私の心に浮かんだのはこの心細い言葉であった。
私は急に不安になり、道を探そうと慌て出した。
私は後ろへ引き返して、逆に最初の道へ戻ろうとした。
そして一層地理を失い、滝に分かれた迷路の中へ抜き差しならず入ってしまった。
山は次第に深くなり、小道は茨の中に消えてしまった。
虚しい時間が経過していき、一人の木こりにも合わなかった。
私はだんだん不安になり、犬のように焦燥しながら道を駆け出そうとして歩き回った。
そして最後にようやく神馬の足跡のはっきりついた一つの細い山道を発見した。
私はその足跡に注意しながら、次第に麓の方へ下って行った。
どっちの麓へ降りようとも、神馬のあるところへ突きさえすればとにかく安心ができるのである。
幾時間かの後、私は麓へ到着した。
そして全く思いがけない意外の人間世界を発見した。
そこには貧しい農家の代わりに、繁華な美しい町があった。
かつて私のある知人がシベリア鉄道の旅行について話したことは、
あの盲目高齢たる無人の荒野を汽車で幾日も幾日も走った後、
ようやく停車した沿線の一戸駅が、世にも賑わしく繁華な都会に見えるということだった。
私の場合の印象もまた、おそらくはそれに類した驚きだった。
麓の低い低地へかけて、目数の建築の家屋が並び、塔や功廊が日に輝いていた。
こんな偏僻な山の中に、こんな立派な大都会が存在しようとは容易に信じられないほどであった。
私は、源頭を見るような思いをしながら、次第に町の方へ近づいて行った。
そしてとうとう自分でその源頭の中へ入って行った。
私は町のある狭い横丁から、滞内巡りのような道を通って、繁華な大通りの中央へ出た。
そこで目に映じた市街の印象は、非常に特殊な珍しいものであった。
すべての軒並みの商店や建築物は、美術的に変わった風情で偽装され、かつ町全体としての集合美を構成していた。
しかもそれは意識的にしたのでなく、偶然の結果からして年代の錆がついてできているのであった。
それは古賀で奥ゆかしく、町の古い過去の歴史と住民の長い記憶を物語っていた。
町幅は外して狭く、大通りでさえもようやく二、三軒ぐらいであった。
その他の小道は、軒と軒との間に挟まれていて、狭く入り込んだ路地になっていた。
それは迷路のように曲折しながら、石畳のある坂を下に降りたり、二階の張り出した出窓の陰で、暗くトンネルになった道をくぐったりした。
南国の町のように、所々に茂った花木が生え、その付近には井戸があった。
至るところに日陰が深く、町全体が青木の陰のようにしっとりしていた。
松枯らしい家が並んで、中庭のある奥の方から寒がな音楽の音が聞こえてきた。
大通りの街路の方には、ガラス窓のある洋風の家が多かった。
利発店の軒先には、紅白の丸い棒が突き出してあり、ペンキの看板にバーバーショップと書いてあった。
旅館もあるし、洗濯屋もあった。
街の四筋に写真屋があり、その気象台のようなガラスの家屋に、秋の日の青空がわびしげに映っていた。
時計屋の店先には、眼鏡をかけた主人が座って、黙って熱心に仕事をしていた。
街は人手で賑やかに雑踏していた。
そのくせ少しも物音がなく、かんがにひっそりと静まり返って深い眠りのような影をひいていた。
それは歩行する人以外に、物音のする車、馬の類がひとつも通行しないためであった。
だがそればかりでなく、群衆そのものがまた静かであった。
男も女もみな上品で慎み深く、てんがでおっとりした様子をしていた。
特に女は美しく、しとやかな上にコケチッシュであった。
店で買い物をしている人たちも、往来で立ち話をしている人たちもみなが行儀よく、会長のとれた低い静かな声で話をしていた。
それらの話や会話は耳の聴覚で聞くよりは何かのある柔らかい触覚で、手触りに意味を探るというような趣だった。
とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。
すべての物象と人物とが影のように往来していた。
私が初めて気づいたことは、こうした町全体のアトモスフィアが非常に繊細な注意によって人為的に構成されていることだった。
単に建物ばかりでなく、町の気分を構成するところの全神経が、ある重要な美学的意匠にのみ集中されていた。
空気のいささかな動揺にも、体肥、筋性、調和、並行等の美的法則を破らないよう、注意が隅々まで行き渡っていた。
しかもその美的法則の構成には、非常に複雑な微分数的計算を要するので、あらゆる町の神経が異常に緊張しておののいていた。
例えばちょっとした調子はずれの高い言葉も、腸を破るたびに禁じられる。
道を歩くときにも、手を一つ動かすときにも、物を飲食するときにも、考え事をするときにも、着物の柄を選ぶときにも、常に町の空気と調和し、周囲との体肥や筋性を失わないよう、デリケートな注意をせねばならない。
町全体が一つの薄い針で構成されている、危険な凍りやすい建物みたいであった。
ちょっとしたバランスを失っても、家全体が崩壊して、ガラスが粉々に砕けてしまう。
それの安定を保つためには、微妙な数理によって組み立てられた宿の一つ一つが必要であり、それの体肥と筋性とで、からおじて支えているのであった。
しかも恐ろしいことには、それがこの町の構成されている真の現実的な事実であった。
一つの不注意な失策も、彼らの崩壊と死滅を意味する。
町全体の神経は、そのことの効くと恐怖で張り切っていた。
美学的に見えた町の異性は、単なる趣味のための異性でなく、もっと恐ろしい切実の問題を隠していたのだ。
初めてこのことに気がついてから、私は急に不安になり、周囲の充電した空気の中で神経の張り切っている苦痛を感じた。
町の特殊な美しさも、静かな夢のような寒若さも、かえってひっそりと気味が悪く、何かの恐ろしい秘密の中で暗号を交わしているように感じられた。
何事かわからない、ある漠然とした一つの予感が、青ざめた恐怖の色で忙しく私の心の中を駆け回った。
すべての感覚が解放され、ものの微細な色、匂い、音、味、意味までがすっかり確実に知覚された。
辺りの空気には、獅子のような臭気が充満して、気圧が刻々に高まっていった。
ここに減少しているものは、確かに何かの強調である。確かに今、何事かの非常が起こる。起こるに違いない。町には何の変化もなかった。
往来は、相変わらず雑踏して、静かに音もなく、天下の人々が歩いていた。
どこかで遠く、呼吸をこするような低い音が、悲しく連続して聞こえていた。
それは、大地震の来る一瞬前に、平常と少しも変わらない町の様子を、どこかで一人が不思議に怪しみながら見ているような恐ろしい不安を内容した予感であった。
今、ちょっとした弾みで一人が倒れる。そして構成された調和が破れ、町全体が混乱の中に陥ってしまう。
私は悪夢の中で夢を意識し、目覚めようとして努力しながら必死にもがいている人のように恐ろしい予感の中で焦燥した。
空は透明に青く澄んで、充電した空気の密度はいよいよコクコクに高まってきた。
建物は不安に歪んで病気のように痩せ細ってきた。
ところどころに塔のようなものが見え出してきた。屋根も異様に細長く、痩せた鳥の足みたいに変に骨割って危険に見えた。
今だ、と恐怖に胸を動機しながら思わず私が叫んだ時、ある小さな黒いネズミのような動物が町の真ん中を走って行った。
私の目にはそれが実によくはっきりと映像された。何かしらそこにはある異常な唐突な、全体の町を破るような印象が感じられた。
瞬間、晩商が急に静止し、そこの知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。
だが次の瞬間には何人も想像されない世にも奇怪な恐ろしい異変児が現象した。
見れば町の街路に充満して猫の大集団がうようよと歩いているのだ。
猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。
どこを見ても猫ばかりだ。
そして家々の窓口からはヒゲの生えた猫の顔が額縁の中の絵のようにして大きく浮き出して現れていた。
戦慄から私はほとんど息が止まり、まさに混沌するところであった。
これは人間の住む世界でなくて猫ばかり住んでいる町ではないのか。
一体どうしたというのだろう。
こんな現象が信じられるものか。
確かに今私の頭脳はどうかしている。
自分は幻影を見ているのだ。
さもなければ狂気したのだ。
私自身の宇宙が意識のバランスを失って崩壊したのだ。
私は自分が怖くなった。
ある恐ろしい最後の破滅がすぐ近いところまで自分に迫ってくるのを強く感じた。
戦慄が闇を走った。
だが次の瞬間私は意識を回復した。
静かに心を落ち着けながら私は今一度目を開いて事実の真相を眺め返した。
その時もはやあの不可解な猫の姿は私の視覚から消えてしまった。
街には何の異常もなく窓はガランとして口を開けていた。
往来には何事もなく退屈の道路がしらっちゃけていた。
猫のようなものの姿はどこにも影さえ見えなかった。
そしてすっかり状態が一変していた。
猫の町の現実
街には平凡な消火が並び、どこの田舎にも見かけるような疲れた埃っぽい人たちが白昼の乾いた街を歩いていた。
あの古惑的な不思議な街はどこかまるで消えてしまって、
カルタの裏を返したようにすっかり別の世界が現れていた。
ここに現実しているものは普通の平凡な田舎町。
しかも私のよく知っているいつもの有町の姿ではないか。
そこにはいつもの利髪店が客の来ない椅子を並べて白昼の往来を眺めているし、
錆びれた街の左側には売れない時計屋があくびをしていつものように戸を閉めている。
すべては私が知っている通りのいつもの通りに変化のない田舎の単調な街である。
意識がここまではっきりしたとき、私は一切のことを了解した。
愚かにも私はまた例の近くの疾病、三半期間の喪失にかかったのである。
山で道を迷ったときから私はもはや方位の観点を失踪していた。
私は反対の方へ降りたつもりで逆にまた有町へ戻ってきたのだ。
しかもいつも下車する停車場とは全く違った方角から街の中心へ迷い込んだ。
そこで私はすべての印象を反対に磁石のあべこべの地位で眺め、
上下四方前後左右の逆転した第四次元の別の宇宙、景色の裏側を見たのであった。
つまり通俗の常識で解説すれば私はいわゆる狐に化かされたのであった。
3.私の物語はここで終わる。
なが私の不思議な疑問はここから新しく始まってくる。
猫町の描写
シナの鉄人ソウシはかつて夢に故郷となり、覚めて自ら怪しみ入った。
夢の故郷が自分であるか、今の自分が自分であるかと。
この一つの古い謎は千古に渡って誰も解けない。
錯覚された宇宙は狐に化かされた人が見るのか、理智の常識する目が見るのか。
そもそも経時上の実在世界は景色の裏側にあるのか、表にあるのか。
誰もまたおそらくこの謎を解答できない。
だがしかし、今もなお私の記憶に残っているものは、あの不可思議な人外の町。
窓にも軒にも往来にも猫の姿がありありと映像していた、あの奇怪な猫町の光景である。
私の生きた知覚は、すでに十数年を経た今日でさえも、なお、その恐ろしい印象を再現して、
まざまざとすぐ目の前にはっきり見ることができるのである。
人は私の物語を冷笑して、詩人の病的な錯覚であり、具にもつかない妄想の幻影だという。
だが私は確かに猫ばかりの住んでいる町、猫が人間の姿をして街路に群集している町を見たのである。
理屈や議論はどうにもあれ、宇宙のあるどこかで私がそれを見たということほど、私にとって絶対不枠の事実はない。
あらゆる多くの人々のあらゆる嘲笑の前に立って、私は今もなお堅く心に信じている。
あの、裏日本の伝説が公秘している特殊な部落、猫の精霊ばかりの住んでいる町が、確かに宇宙のあるどこかに必ず実在しているに違いないということを。
リスナーの反応
1995年発行。岩波書店。岩波文庫。猫町。
他17編。より読了。読み終わりです。
もう何言ってんだこいつは。
頭いかれてんのか。薬にやられて。もうもうわけわかんなかった。読んでて。
小説は書けないから自分の体験したこと書くねーってこれでしょ。もうね、お大事にとしか言いようがないですね。わけわかんねー。
はぁ。猫がいっぱいいる町を見たのね。そうですか。はい。お薬を飲んでください。
あっ違う、薬飲みすぎなんだこの人。
そう考えると、早稲田大学の前に萩原作太郎の何かが書いてあったのは、なんかこう、そういうメッセージもありそうな感じがして。
大丈夫なんて思うね。思っちゃいますね。どうでしょうか。
はぁ。なんか疲れさせるだけのカロリーがありますね。
そういう意味では、力のある作家さんなのかなという気もしますな。
これタイトルが猫町だから僕多分サムネイル猫にすると思いますけど、そんな猫ちゃんに惹かれて再生した人たちがみんなバッタバッタとカロリーを吸い取られていくのがなんか想像できる気がするね。
僕もやられましたので、これから聞く。聞き終わったところでここに到達するのか。
お疲れ様でした。よし終わりにしよう。
お、猫鳴いた。無事に寝落ちできた方も最後までお付き合いいただいた方も大変にお疲れ様でした。
といったところで、今日のところはこの辺で。また次回お会いしましょう。おやすみなさい。