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  2. 138坂口安吾「織田信長」
2025-06-12 56:55

138坂口安吾「織田信長」

138坂口安吾「織田信長」

「どうさん」と読んだり「どうざん」と読んだりしています。。

今回も寝落ちしてくれたら幸いです


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サマリー

坂口安吾の『織田信長』は、信長の人物像や影響力、そして日本の歴史における役割を探ります。信長が朝廷と築いた関係や、野心がどのように形成されたのかに焦点が当てられています。彼の好奇心と実証精神が鮮やかに描かれており、信長が試練の中で信玄や謙信という敵と対峙する様子が語られ、最後には信長が信頼した者たちとの複雑な関係が明らかになります。また、信長の独特な戦略や、運に基づく勝利の哲学が展開され、彼の人生観や時運を掴む能力、家来からの誤解を通じて真の姿が示されます。坂口安吾は、信長の人物像や戦略、日常について詳細に描写し、彼の独特な行動や思考を強調しています。さらに、信長と甲斐の武田信玄との交流を通じて、信長の合理的な側面が浮き彫りにされています。信長の独特な人間像と戦略的思考も探求され、天下統一に向けた野心とそれに対する誤解が描かれています。

坂口安吾と織田信長
寝落ちの本ポッドキャスト、こんばんは、Naotaroです。 このポッドキャストは、あなたの寝落ちの手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、 それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。 作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想ご依頼は、公式Xまでどうぞ。 寝落ちの本で検索してください。
また別途投稿フォームもご用意しました。リクエストなどをお寄せください。 それと最後に番組フォローをどうぞよろしくお願いします。
さて今日は、 坂口安吾さんの
織田信長というテキストを読もうと思います。 坂口安吾さん、日本の小説家、評論家、随筆家。
戦後発表の堕落論。 白痴らが評価され、太宰治と並んで、無礼派と呼ばれる。
そうです。 の、織田信長ですね。
坂口安吾さんというと、ずっと西日本新聞での連載コラムだった、 明日は天気になるというシリーズの話を読んでたんですが、
ちょっと今回は、 織田信長というのを読もうと思います。
ちょっとだけ脱線するんですけど、 あの
僕のこのポッドキャストは Spotify でも聞けますし、
Apple アイフォンに標準装備されているポッドキャストというアプリでも聞けますし、 Amazon Music でも聞けますし、
なんなら YouTube Music でも聞けるようにしてあるんですけど、 それぞれのプラットフォームでですね、全然再生数が違うんですよ。
Apple の方だと、Apple が多分一番多くて、1日200とか300とか再生があるようなんですが、
Spotify の方はね、それに比べてグッと低くて、 40とか50なんですよね。
ですが Spotify の方のいいところが、そのリスナーの属性がちょっと見えて、
男性であるとか女性であるとか。 その小っちゃいパイの中での分析なので偏りはあると思うんですが、
Spotify 上だと、 一番多く聞いてくれているのが45歳から59歳で全体の65%っていうね。
僕から見たらお兄さんお姉さん方が聞いてくれているということになるんでしょう。
Apple の方は多分ランキングから流れてきていると思うんですけど、ブックカテゴリーの。
Spotify の方はみんな検索してきていると思うんで、多分本の名前とか作品の名前とか、作家さんの名前とかを検索して出てきたのをポチッと聞いてみるっていう方たちだと思うんで。
比較的教養レベルの高い方々がね、聞いてらっしゃると思います。 いつもありがとうございます。
そんなリスナーの皆さんの中でも女性の方が多いんですけど、そんな女性に背を向ける
男臭い織田信長を今日は読んでいきます。 文字数が1万9千文字
なので、 まあ1時間かからないかなというところですかね。
ずいぶん打線しました。やっていきましょうか。 それではまいります。
信長の朝廷への影響
織田信長。しのうは一条。忍び草には何をしようぞ。 一条を語り起こすよの。
信長の好きな小唄。 たてり査響之助が臨時二通と女房宝書を携えて信長を訪ねてきた時、信長は鷹狩りに出ていた。
朝廷からの使者は阿南役の磯貝新衛門飛沙継と使者のたてりとたった二人だけ。 表向きの名目は厚田神宮参拝というのである。
信長への臨時と女房宝書を出しては、 と、たてり査響之助から話を持ち掛けられた真手の工事大名言小嶽夫妻は、
お前大変なことを言う。さても困った困ったと言った。 信長という藩基地外の荒れ武者がどれほど売れっぷしが強くて、先の見込みのある大将だが知らないけれども、
もっか天下の剣を握っている三好一刀と、 そのまた上に松永男女という蛇とも妖怪ともつかないような冷酷無残な爺さんの睨みが恐ろしい。
まったく男女を被災でという奴は、蛇も妖怪もお呼びがたいじじいだけれども、 たまには米もたらふく食いたいし、冬には暖かい布団も欲しいじゃないか。
蜘蛛の商人とはよく言った。蜘蛛の上へ祭りあげられて、薄い布団で寒風をしのぎ、 あるなしの米をすすって細々とその日の命をつないでいるのである。
大名言のみならんや、上皇も天皇もそうなのである。 これは後日の話であるが、
信長が天下を握って御所を修理したり、お金を献上したり、 いろいろと忠勤を尽くして朝廷の衰微を救ったという。
この時信長が京都の町民に米を貸して、 その利息米を朝廷の経済に充てる方法を施した。
この利息米の上がりが、だいたい一か月に十三穀ぐらいであった。 十三穀の半分を朝廷で細々と食べる。
半分を副食物や調味料に変える。信長が衰微を救ったという。 救われてようやくこれぐらいのもので、蜘蛛の商人は全く悲惨な生活であった。
天皇は孔子孔女を大外寺へ入れる。孔女の方は天だ。 甘博も大名言もそうだ。足利将軍もそうだ。子供は坊主や天にする。
門籍寺、宮門籍などといってその自覚を取引にして、 お寺から月々年々の不知を受けるという仕組みであった。
その他には暮らしの手立てがなかった。 稀野孔子大名言コレフサも、松永壇上という老魔虫の目玉は恐ろしい。
しかしお米をたらふく食べてみたい。 だから困った。大変なことになった。困った困ったと言った。
けれども反問しながらも筆を取って二通の臨時を書いた。 常老坊主が女房奉奨を書いた。これを立利左京の助に渡しながら、
ああ大変なことになった。困った困ったとまだ大名孔は呟いていた。 だからその晩は一睡もできない。
立利左京の助と道案内の急がいまで心痛になって、やっぱり一晩眠れない始末であった。 翌日早朝、天皇はコレフサを召して、常老家、お前の心尽くし嬉しく思う。
この上は念を入れ、分別の上にも分別して、あくまで隠密、潜逸に図らうように、と言って、 常老家へ手土産の品をあれこれお考えになる。
あんまりくどいのはいけないでしょう。 道服はいかが? よかろうと決まって使者はひそかに出発した。
清洲の城へ直接常老家を訪ねるわけにはいかないから、 急がいの知恩の者で常老家の芽付けをしている同家終りの神を訪ねて行った。
その時、常老家は鷹狩りに出ていたのである。 鷹狩りの帰りに、常老家は同家の屋敷で休息して、一風呂浴びて起乗するのが習慣であった。
お付け常老家も参るでしょうから、まずお風呂でも召して旅の疲れを落としてください、 と二名は入浴する。
その時、佐教の助は臨時と宝書の包みを同家に手渡した。 同家は包みを押しいただいて、手を打って、
ああありがたいことだ。天下は信長公のものとなった。 信長公も満足であろうと、それから急いで女房の部屋へ飛んで行った。
彼の女房は安いと言って、信長が大変目をかけてくれる妻女だ。 女房のおかげで、邸主の方も信長の覚えがめでたいようなことでもあるから、
これこれ、すぐに髪を結い、こしらえ衣服を整えて殿のお帰りをお待ちなさい。 これこれ、こういうことで、いよいよ天下は信長公のものとなった。
この包みが、ありがたい臨時二通と宝書なのだ。 こうしては折られん。さあ急いで、支度支度。めでたいありがたい。
と言ってむやみに一人でてんてこ舞いをしている。 信長が戻ってきた。
いつもの通りさっさと湯戸の上へ行く。 同家がそれを追いながら、実はこれこれにて朝廷の使者が見えております。
ああそうか、と言って信長は風呂の中へと飛び込んで湯船から首を出して直視のことをいろいろと質問し、
新しい琴手の用意はあるか。 ございますとも、それはもう用意に手ぬかりはございません。
せっかく天皇様が日本国を下さるとおっしゃるのですから。 と同家は日本国をもらったもらったと上言みたいに言っている。
それでも信長もお風呂でバチャバチャ水を跳ね散らして上機嫌であった。 しかし、
別に日本国の支配を命じるというような大した臨時ではなかった。 お前も近頃武運のほうまで高く、天下の名称だとその名も隠れなく
受け人の崇拝を受けているそうであるから、ついては朝廷に忠義を尽くし、 皇太子の原服の費用を上納し、
御所を修理し御領所を回復してくれ、 こういう意味の臨時であった。
皇室の暮らし向きの求助を何とかしてくれというだけのことだ。 まあ借金の依頼を一回り大きくしただけのようなものだが、これだけのことでも朝廷から頼みを
受ける、頼まれるだけの実力、貫禄というものが備わったからのことで、 いわば実力の判定を得たようなものだ。
信長は見上げにもらった道服を着て、先ほどの助と杯を頂き、 日通の臨時を頂いて元気百倍、これから近隣を片付けて、それから天下を
信長の人物像と野心
閉じていたしますからご安心ください。 まず三日五日ほどゆっくり泊まっていってください。
まずは天下開ける舞い舞い、元の汁に鶴の刺身、 朝鮮五名を呼んで主宴を開く。
朝廷へも同じ縁起の品物をと翌日からせっせと狩りをして、 元と鶴を四個玉取って金槌に添えて見上げに持たせて帰らせた。
その時信長は三十四だ。 信長は野良犬の親分みたいに野放しに育った男だ。
誰の言い付けも聞かず、真似もせず、勝手気まもを流儀にして、 ガリューででっち上げた万博大将であった。
万博大将という奴はみんな天下一緒というようなことを意図安直に狙う。
丹波の桑田郡阿能村の長瀬の城主、 赤沢香賀の神が関東へ旅をして鷹輪を二羽求めて、
人の青州に信長を訪ねて、お好きの方を信条するから一羽取ってくれという。 信長は喜んで、
いや心差し至極満足じゃ。もらうぜ。天下を取るまで預かっておく。 俺はいずれその檻に、と言った。
田舎小僧め、大きなことを言っていやがる。と人々は大言壮語をおかしがったが、 信長はその時二十八だ。
天下夫婦という印象を作って愛用し、天下一の情熱を日常の友としているが、 その野心は彼に限ったことではない。
天下一の野心ぐらいは、ガキ大将は誰でも持っているものだ。 けれども自信はそれに伴うものではない。むしろ達人ほど自信がない。
恐れを知っているからだ。 めくら蛇に応じず。
馬鹿ほど身の程を知らないものだが、達人は恐れがあるから進歩もある。 だから自信というものは自分で作るものではなくて、人が作ってくれるものだ。
他人が認めることによって自分の実力を発見し得るものである。 このように発見すられた実力のみが自信であり、野心地の狙いやうぬぼれのごときは何者でもない。
信長は我流ででっち上げた痛快なガキ大将であったが、少年時代に、 短いあり短走の不利を悟って自分の家来に三元藩の長走を用意させたほど用心深い男であった。
続いて、鉄砲の利を悟り主戦武器を鉄砲に変えた。 これが彼の天下統一をもたらしたのだが、この用心と見識の裏にあるものは恐れの心だ。
おそらく恐れの最高、絶対なるものである。 かかる信長に三度や四度の戦勝が誠の自信をもたらしてくれるものではない。
信長にはもって生まれた野育ちの途方もないうぬぼれがあった。 それと同僚の不安があった。
このうぬぼれを誠の自信に変えるためには、不安と同僚の他人による最高絶対の認められ方が必要であった。
信長の家来たちはガキ大将がどうやら本物の大将らしいところもあると思ったが半信半疑なのである。
青州から五十町ほどの平野城の近所に赤間池というのがある。 蛇池という伝説があり、三十町も吉野原っぱの続いたもの恐ろしいところである。
信長の実証精神
正月中旬というからまだ寒い季節であるが、 あじき村の又沢門という者が呉方赤間池の包みを歩いていると、一か階ほどの黒い胴体が包みの上にあり、
首は包みを越えて池の中へ潜っている。 人根に首を上げたのを見ると、鹿の顔みたいなものに目玉が星のように光り、
紅の下がこれも光り輝いてちょうど人間の手のひらを開いた片腕みたいにちょろちょろ燃え出ている。 驚いて逃げて帰った。
十日ほどしてこの話が信長の耳に聞こえた。 直ちに又沢門を呼んで話を聞き、その翌日、近隣五日村の百鳥を召集。
数百の鶴鳴を鳴らして赤間池の四方から水を嗅いだしたが、四時間ほどかかっても減り目が見えない。
「ではよろしい。俺が潜ってみてくる。」と踏んどし一つになり、 五郎様に冷たい水の中へ口に湧き差しを加えて潜り込んだ。
真ん中辺で一生懸命ぷくぷくと潜ってみたが、蛇に出くわさない。 「俺じゃ潜り方が足りないのかな。」とおかえあがって、
「うざいもんという水泳の達人にお前潜ってみろ。 やっぱり蛇にぶつからないので、やれやれおらんじゃないか。」とキオスの城へ引き上げた。
これが二十九の信長だ。 こういう実証精神は信長の持ち前である。
ワリニアにの連れてきたエチェピアの黒人を裸にして現せて真偽を試したり、 ムヘンという開国の僧が小国ムヘンと称し不思議の術を施すと聞いて呼び寄せて化けの皮を剥いで追放した。
追放後も腐女子をたぶらかしたことを聞いて国々へ追手をかけてひっとらえて斬り捨てた。 人間の妖術の化けの皮は剥ぐことができたが、当時にあって怪獣大蛇の存在は信長とても否定のできるはずはない。
否定どころか、むしろ存在を信じていたから見たくなって飛び込んだ信長であったに相違ない。 その旺盛な好奇心、実証精神は話の他で、全く命がけであり、人にはやらせずまず自分が踏んどし一つに担当を加えてジャブジャブ冬の水中へ潜り込むとは見方によってはキチガイザタである。
いわゆる日本流の大名や大将のやることじゃない。 家来や百姓は命がけの凄みに舌を撒いておぞけをふるったかもしれないが、信長の偉さの正体は半信半疑でわからなかったに相違ない。
戦国時代の勝者
29といえば、もう老成した大人というのが当時の風であるのに、この大将は五日村の百姓に水を汲ませて、水の減り目が見えなくてそれではと自分一人踏んどし一つで水中へ潜るのである。
これも28の年である。 にわかに80人の家来を連れて京都へ旅行した。
何のための旅行だか誰にもわからない。四隣りはみんな敵である。 良き鴨よ、御残なれと義父の斉藤が数十名の刺客に後を追わせた。
たまたまこれに気づくことができたから信長は刺客の泊まっている京都の宿屋へのこのこ出かけていって、 何じらの分際で俺を殺せるつもりとは馬鹿な奴らめ。
今飛びかかって刺しに来てみよと言って睨みつけた。 刺客どもは顔色を失い震え上がってしまったが、
京和良部はこれを聞いて大将の振る舞いとは思われぬというものと、 若大将はこれだけの落ちのけがなくてはというものと二派の批評があったそうだ。
信長は京都堺を見物していたが雨降りの扶養にわかに出発。 昼夜健康27里の山道をぶっ飛ばして起乗した。
この理由も家来の誰にもわからない。 引きずり回されあっと驚かされてばかりいる家来どもにも、
うちの大将は偉いのか、反旗違いの乱暴者に過ぎないのか。 信長が三十になってもまだ確たる見当はつかないのだ。
どうやら美濃を平げ、宿敵齋藤氏を岐阜から追っ払った。 信長時に三十四。
しかし、まだ後ろには信玄という大乳堂がいる。 謙信という坊主もいる。北条もいる。
いずれも齋藤などとは桁の違う命題の戦争名人である。 近いところに六角、朝倉、阿西がいるし、三好一等、松永壇上という浪魔虫も
とぐろを巻いて威張っている。 毛利もいる。なかなかもって、生来のうぬぼれ通りに確たる自信が持ち得るものではない。
信長とその依存関係
そこへ朝廷から隣人が来た。 まず借金を一回り大きくしただけの至って雄大ならざる隣人であったが、ともかく
信玄、謙信並みにほぼ近づいた天下何人かの大将の一人の公認は得たようなものだ。
信長も初めて多少の自信を発見したが、しかし察したる自信ではありえない。 朝廷とは何者であるか。
足利将軍家といえども朝廷によって正位大将軍に任せられておるところの、しかし て彼の父も朝廷によってようやく壇上に任せられたところの、日本の第一の宗家である。
とはいえ現実において朝廷は虚偽であり、足利将軍は浪魔虫、松永壇上の一尊によって生かしも殺しもされ、
天下の政務は浪魔虫の焼酎にある。 隣人といえば縄よいが、その真に意味するところは、ただもうさむざむと没落の明家の悲しさ、
哀れさ、惨めさのみ漂う借金場ではないか。 孔子の原服の費用を養立ててくれよ。領地は人に取られて一文の上がりもないから取り返してくれよ。
誤書が破れて雨が盛り、寒風が吹き荒んでも修理ができないから何とかしてくれよ。
信長を寒風に釉薬せしめるよりも、哀れさに毒気を抜かれる方が先である。 もとより信長の敬願は虚偽のうとんずべからざるその利用価値を見抜いてはいた。
しかし隣人の名による手の良い釈要上、 張発令に現実の大きな実力がないことは文明である。
それによって信長はともかく天下への自信の発芽を認めることはできたが、 誠の自信を持つことはできなかったのだ。
それから一年過ぎた。 足利最後の将軍、吉明が彼に頼ってきた。
それと前後して老末主の松永男将が新書を寄せて、 信長が兵を率いて城落するなら自分も一肌抜いで助力する。
あなたこそ時代を担い天下に号令すべき大将だ。 とうまいことを言ってきた。
天下の失勢たる悪逆無動の老末主も確かにや気が回ってはいた。 主人に、主人の主人に背かせ、その主人の子供を自分が殺して主家を乗っ取り、
窪を殺し、目の上の窪を一つずつ取って、とうとう天下の失勢にとぐろを撒いて治ったが、 このやり方では味方がない。味方が同時に敵でもある。
窪を殺してからのこの数年は、もっぱら味方の三義三等と仲間割れの戦争に追いつ追われつ、 おかげで奈良の大仏殿に放火して焼いたり、境へ逃げて謝ったり。
さすがの老末主も天下の政治をうっちゃらかして逃げたり騙したり、 夜討ちをかけたり、つまらぬことに頭から湯気の立つほど忙しい。
しかしさすがに老末主であった。彼は信長を見抜いた。 彼は時代を知り、世代の隔たりを知っていた。
天下の失勢など実質的ならざる面目にこだわらず、 時代の選手に依存する術を心得ていたのだ。
実力薄れた先代の選手を押しのけて殺して、自分の世代をつかみ取った彼は、 時代に依存する賢明さを自らの血の歴史から学び取っていた。
それに比べれば足利義明の信長に対する依存の仕方はかくたる底見の欠けたものだ。 聖火の地位を看板に依存を信じようとした義明は、
兄の将軍が松永壇上に殺されて以来、逃げ延びて和田懲れ政に頼り、六角義方に頼り、 謙信に助力をこい、武田義宗に頼り、朝倉義影に頼り、手当り次第に頼った。
彼の一生は依存の一生で、誰彼の見栄えなく人物への信頼も信義もなかった。 利用すればよかったのである。
利用はまた信長自身の御家の芸でもあった。 しかしまことの悪党というものにはともかく真偽がある。
信長は悪党にあらずというなかれ、彼は悪党である。 一心を張り投げ捨てているではないか。
とばのあんちゃんの偽悪党とは違う。本物の悪党は悲痛なものだ。 人間の実相を見ているからだ。
人間の実相を見つめるものは鬼である。悪魔である。 この悪魔、この悪党は神に散じる道でもある。
ついに、亜量者の人格を創造したドストエフスキーは、そこに散ずる通路には悪党だけしか書くことができなかったではないか。
ローマ主の男女も信長も悪党ぶりには変わりはない。 ローマ主は主家を乗っ取り、窪を殺したが、信長は殺す必要なく自立できただけのことで、
信長の方が人を殺すにはむしろ冷酷無惨であったろう。 ローマ主は一生を傍若無人の我流で押し通したこと。
信長と甲を一対。125まで生きてみせると称し、延命の旧を据え、手当をすれば何でも証明できるものだと苦心三端、松虫を三年飼いならしてみせた。
ローマ主は麻虫なりに妙てこりんな真偽があった。 そして信長は吉明の心を信じなかったが、ローマ主の真偽を信じていた。
二人の悪党の友情とローマ主の真偽がどんなふうに妙てこりんなものであったか、おいおい明らかとなるであろう。
ローマ主の信長依存の根担は、信長の自信におそらく最大の安定を与えた。 そして依存の真実。
ローマ主の真偽の真実を信ずることによって、ローマ主の依存を、真偽を真実なものたらしめたものだ。
彼を信ずることによって信長はローマ主に勝ち、征服したのである。
ローマ主は足利義明の兄の将軍を殺し、その母も焼き殺した。 自警も殺され、義明伸びは逃げ延びて危ない命を助かったのだ。
ローマ主こそは義明の夫婦大典の旧敵であった。 義明は都を追われ、天下の政務はローマ主の省中にあった。
義明は誰彼の見栄えなく人にすがって将軍家最高に奔走したが、将軍家最高の日は憎むべきローマ主への復讐の日であったのだ。
ついに信長の助力によって義明は京都を回復し、ローマ主の軍勢を蹴散らした。
彼はローマ主を安崎にすることを得たか。否、否。 信長がローマ主を許したのである。
すでにその日を予想したローマ主は、自ら張本人となって信長を京都に手引きしていた。 世に裏切りということがある。知らないうちに主を売り、味方を売るのである。
ローマ主は味方を売った。しかし、主を売ることはできなかった。 なぜなら彼自身が総大将であったからだ。
総大将の裏切りなどということがあるべきものではない。 裏切りにあらず、それを降参というのである。
ところがローマ主は降参といえば降参、裏切りといえば裏切り、何とも得体の知れない形で始末をつけているのであるから、何事もこのローマ主の手にかかると、気々快々な形になってしまうのである。
彼は上落の信長軍に負けて逃げ延びて降参したが、敗北して逃げる何ヶ月も前から、とっくに信長に降参して、自らその上落を進めていたのであった。
降参したローマ主は早速信長を訪問して、京都の治安はこうされたらよろしかろう、などといろいろ検索した。
が、キリシタンの弾圧は必要大切でござる、などと言って、バテレンどもを怒らせた。
こうしてよしやきはローマ主を安崎にできなかったが、ともかく念願の将軍院に就くことができた。
その時信長依存の交渉に立ち渡られたよしやきの二人の重心がいた。 一人は正直者の和田コレマサであり、一人はインテリ兵法家明智十兵衛光秀であった。
そして光秀はよしやきの推挙によって信長の家来となった。
こうして信長という悪魔の天下は、魔虫やら癖者やらのうごめきの上に、魔法のランプの一夜の城のごとくに忽然として現れてきたのであった。
そも信長とは何者であるか、これこそは当時にあってはさらに大きな謎であった。
信長とは何者であるか家来にもわからない。
彼を育てた忠義一徹の老親は、柿大将のたわけぶりに絶望して自殺した。
柿大将は喧嘩だけは強かった。喧嘩の稽古は大好きだ。
信長の戦略と運
そして当時流行の短走よりも長走の方が有利であると見抜いて、自分の家来に三元半の長走を持たせるほど、幼少にして喧嘩の心得に連達していた。
四月から十月まで川に入り浸って、水田は河童の域に達し、朝夕は馬の稽古。
弓を市川大介に、鉄砲を橋本一派に、兵法を平田三味に、
これが日課で、他に相撲と鷹狩りは柿大将の時から死に至るまでの大好物。
天下統一の後も裸になって小物と相撲を取っていた男であった。
喧嘩達者の柿大将はその容量で戦争をしてまあなんとなく勝っていた。家来たちにはそうとしか思われなかった。
信長は今川義元を破って馬下大将を一役して天下義門の名将に出世したが、家来たちには偶然の奇跡、
まぐれ当たりという疑惑が知らない他人たちよりも強く残って頭から離れなかった。
今川義元は東海の重鎮、名だたる名将であり、天下統一の番人許した候補者であった。
その家柄は足利に次ぐ名門だ。
これに比べれば信長は古代名の奉公のせがれに過ぎず、腕っぷしに任せて守家を潰し、同族を倒して自立した田舎の喧嘩小僧に過ぎないのだ。
今川勢四万の大軍の攻撃を迎える織田勢は三千そこそこ。
出て戦えば一潰しであるから、軍評定の重心立ち、万丈一致、器用する王将と決まったが、柿大将はたった一人、だんだんことして反対した。
その時信長は勝負は時の運だよと言った。
仮にはそれが全部であり、そしてそれだけでよかったのだ。
なぜなら彼は成すべき用意はしつくしており、そして命をかけていた。
してみれば彼にとってはあとは運がすべてであった。
仁義の尽くされた時、あとの結果は運という一つの絶対に期するはずだ。
そこには悔いはないのである。
百万人の育人が自弱としてかかる運を待ちうるであろうか。
織田市の所領に食い込んで今川型の大鷹城があった。
今川軍は織田の砦を処方に散らし、もみつぶしつつ進んでいたが、
やがて大鷹城に取り付いて休養し、兵路を入れて前進基地とすることが明らかであった。
信長は大鷹城の前方左右に丸根、和室の二つの砦を構え、
戦争の奇襲
佐久間守重と織田玄馬に守らせて今川勢の進軍を待っていた。
今川勢は丸根、和室に迫ってきた。
その警報が口の葉を引くが如くに飛んでくるという夜、
信長は軍評定は全然やらず、もっぱら世間話に夜更かしをして、
夜も更けた、もう帰れ、と家来たちに帰宅させた。
家老たちは城を出ると顔を見合わせ、
運の末には知恵も鏡も曇るというが、
馬鹿大将も今日が最後だと言って、
天然に信長を長老しながら夜道を歩いて帰ったのである。
あくる未明だ。
今川勢がいよいよ和室、丸根に取り付いて攻撃を始めたという中心が来た。
その時信長は立ち上がり、朗々と歌いながら厚森の舞を始めた。
人間五十年、家天の内を比べれば夢幻のことくなり、
一度生を得て滅せぬもののあるべきか。
信長、衆生熱愛の歌であり、舞であった。
彼の人生観ぐらい明快なものはない。
この歌の文句で足りた。
命をかけていたからだ。
歌が終えたが信長はまだ待っていた。
そして舞いながら、ほら貝を吹け、具足をよこせ、
そして舞いながら具足をつけ、立ちながら食事をとり、
兜をかぶり、名を舞いながらスルスルと出陣してしまったのである。
家来たちは馬鹿大将に呆れ、帰宅して眠っている。
ほら貝の音に目を覚ましてもすぐにどうなるものではない。
出陣の信長に突き仕上がった家来はたった五騎であった。
それでも彼は時々路上で馬をぐるぐる輪形に駆け回らせて、
家来たちの何人かが用意してついてくるのを待った。
そして篤田に着いたとき、馬上六騎のほか増標二百四人になっていた。
篤田神宮に宣称を祈って、さて出発というときに、
信長は蔵に寄りかかり鼻歌を歌ってしばしばのろのろと号令もかけない。
人の肩にすずさがってウリを食いながら街を歩いたたわけ小僧の再現であった。
道の途中に砦が落ち、
首相の佐久間大学らが戦死した知らせが来た。
道々砦から落ちてくる兵が加わり総勢三千人ほどになった。
今川軍の戦法は大鷹城に入って兵牢を入れつつあり、
吉本は主力を殿岳狭間に集めて勝いわいの歌を唄っていた。
信長はそこを奇襲した。
今川吉本は味方が喧嘩を始めてどうし討ちをしているのかと思っているうち、
もう織田型の侍が飛びかかって首を切り落とされていたのである。
信長の素顔
信長の戦争はいつもこんな風であった。
家来の用意の整うのを待たず身の回りのたった十人ぐらいで出陣するのはこの戦争に限ったことではない。
家来たちはあわてふためき信長に有無を言わさず引きずり回され、
ふと気がつくと戦争が済み戦争に勝っている。
筋が立たず不合理に思われ、それであっけなく勝っているから信長は勝敗は運だという。
その運を家来たちはまぐれあたり偶然の行行、そう見ることしかできない。
信長の偉さを合理的に理解することができないのだ。
信長にとっては全ては組み立てられていたのである。
専門家とはそういうものだ。
兵隊や将軍はたくさんいる。
大将も元帥も少なくはない。
けれども本当の専門家はその中に何人もいないのだ。
芸術家でもそうだ。
信長にとっては生まれてから今川を倒す27年、
見るもの聞くものすべてがそのために組み立てられた。
そのためとは今川だけのことではない。
武田でも上杉でもよかった。
すべて当面するそのもののために組み立てられていたのだ。
その組み立ては機械のように合理的なものであったが家来たちにはわからない。
特に家来たちは信長の幼少からの上級を逸した馬鹿さかげんに目を打たれているだけに、
彼の成功にまぐれあたりの不安を消すことが困難だった。
信長が父を失ったのは十六の時だ。
父の葬儀の照光に現れた信長は袴を履いていなかった。
髪は茶線髪、つまりふんどしかつぎの曲げだ。
腰の太刀には締め縄が巻いてある。
悪太郎が川の吊りから帰ってきたような姿で現れ、
仏禅へずかずかと進んで、くわっと真っ甲をつかんで仏禅めがけて投げつけた。
死者とは何者であるか。
白骨である。
仏者の得心理であり、番人の知る心理であるが、
はたして何人がその真相を冷然と直視しているであろうか。
悪道信長は町を歩きながら栗を食い、餅を頬張り、
売りにかぶりつき、人の肩に寄りかかったり、
連れ下がったりしなければ歩かなかった。
呆れ果てたる馬鹿馬鹿殿。
大うつけ者。
それが城下の定評であった。
信長を育てた老臣平手中塚沢、
還元の遺書を残して自殺した。
その忠誠、真心は、さすがの悪道も腹綿をむしったものだ。
悪道は、高借りで得た鳥を高々と穀上へ投げて、
爺、これを食えと言った。
水蓮の川辺に立って時々ふと涙ぐみ、
川の水を足で蹴り上げて、
爺、これを飲んでくれよと叫んだ。
己を虚しゅうする者のみが、
悪道の魂に感動を与える。
信長が秀吉の忠誠に見たものも、
己を虚しゅうする真心だった。
家康の同盟に見たのも、
それに近い捨て身の律儀であった。
不定の野望児信長は、
せめて野望の一端がなる日まで、
真心の爺を生かして、
見せてやりたかったであろう。
しかし、悪道の兄弟は、
爺の監視にかかわらず、
全然変わりは見られなかった。
真心の爺は、
仰うつけ者の馬鹿若殿の未来を案じて、
隣国の斉藤道山の娘をもらって、
信長に目合わせた。
斉藤と織田は、
美濃と大有に隣り合わせて、
年来の旧敵であり、
責めたり責められたり、
互角に戦って持ち応えたが、
馬鹿若殿の代になると、
たちまちやられる憂いがある。
爺はそれを恐れたのである。
斉藤道山も六十ぐらいの爺であった。
これがまた、
当時天下に隠れもない、
大悪党の張本人の一人であった。
彼の老魔虫は天下の失勢である。
この異老男の爺は大妙である。
地位に多少の開きはあるが、
悪逆無道の張本人と申せば、
当時誰でもこの二人の爺に指を折り、
そして三本目は折らなかったものである。
老子の家に生まれ、
幼少の折り、
京都の明確寺へ坊主に出された。
花のような美道で、
地理を賢く、
師の僧に愛され、
たちまち仏教の奥義を極めて、
弁説の爽やかなこと、
若年として名僧と称されるに至った。
二歳年少の弟弟子に、
南陽坊という名門の師弟がいて、
これがまた学識高く、
若手にして書学に通ずる名僧で、
二人は非常に仲が良かったが、
道山は坊主が嫌になって厳俗し、
女房をもらって油の行商を始めた。
辻に立ち、
人を集めて、
得意のおしゃべりで嘘八百、
つまり敵屋であるが、
下で騙しておいて一文線を取り出す。
さあさあお立ち合い。
下手な商人は上号に次いで油を売る。
腕も悪いが油も悪い。
たーらたらたらと一筋の糸となって流れ出る油。
これが良い油だよ。
さあお立ち合い。
摂取の油は良い油だ。
よろしいか。
拙者は油を秘釈に汲む。
それをこうして入れ物へ継ぐ。
たーらりたーらり一筋の糸。
ご覧。
穴開きの一文線の穴を通して、
たーらりたーらり。
間違っても穴の縁に油がかかったら税には得らん。
ようやくみんな縁に行ってきたりとも、
かかるかかからないか、
それ見な。
たーらりたーらり。
てれんのみを、
穴を通して縁へ油のかかったことがない。
代表版油は一文線の油売りの油に限るとなって、
たちまちのうちに金持ちになった。
油を売りながら兵法に心を注ぎ、
昔の坊主仲間の南陽坊に頼って、
美濃の長居の家来となり、
長居を殺し、長居の主人の時氏から無効をもらって、
その無効を毒殺。
時氏を追い出して、
美濃一国の主人となって、
岐阜稲葉山の城に寄った。
主を斬り、
無効を殺すは美濃終わり。
昔は永田、今は山代。
というのが当時の落書だ。
山代とは、
斎藤山代入道道山のことだ。
備罪の罪人を牛酒にしたり、
釜で煮殺したり、
おまけにその釜を、
煮られる者の女房や親兄弟に火を焚かせた。
釜茹での元祖は石川越門ではなかったのである。
悪逆陰見の癖者だったが、
兵法は達者であった。
信長同様、長層の理を悟り、
鉄砲の力たるを知って法術に心を砕いた。
明智光秀は法術の大科であるが、
信長の人物像と行動
斎藤道山について学んだのだと言われている。
こういう癖者が隣国にいて、
信長の父は隙を狙って攻めたり、
攻められたり。
年来の敵種であるから、
信長の盛役の平手中塚沢は、
年少の信長に、
道山の娘を目合わして、
故実に備えておいた。
道山は戦略結婚結婚。
相手がその気ならこだわることはない。
無効の一匹に引き、
ひねり殺すにこだわる気持ちが、
もともとないのだ。
けれども道山は、
さすがに悪党の官である。
大うつけ者ばか若だの。
この御陣の代には、
必ず家が潰れるという代表版。
ほかならぬ、
織田家の家来の定説なのだ。
しかしさすがにこの悪党は、
世の定説の如き者を、
そのまま鵜呑みにしなかった。
人が、
あの小僧は馬鹿だというたびに、
ほんとか、
なぜだ、
と聞いた。
そして馬鹿ではあるまい、
というのであった。
ふんどしかずぎの曲げをゆい、
浴衣のきなかしに肩肌ぬいで、
腰に火打ち袋やひょうたんを、
七つも八つもぶら下げて、
人の肩につるさがって売りをほおばり、
餅をかじりながら道を歩いているという。
なるほど行儀は、
若殿らしいものではない。
親父の葬式に、
不断儀の姿でちょこちょこと現れ、
真っ向をくわっとつかんで投げつけるとは馬鹿だ。
けれども水蓮は、
河童の子としというではないか。
荒れ馬を、
縦横に駆け苦しめて乗り殺すほどの達人だというではないか。
宝術に連達し、
長僧の槍の利得を見抜いているというではないか。
腕っぷしの強さだけでも癖ものではないか。
しかし誰一人、
道さんの意見に賛成しない。
あはは、
とんでもない。
あれは紛れもない大馬鹿野郎に決まっています。
とみんながみんな言う。
そうか、
とにかく実物を見なくちゃわからない。
ひとつ馬鹿ムコを呼び出してなぶってやろう。
と、
偉男の悪党ジジイがニヤニヤ思いついて、
何月何日富田の聖徳寺で会見致そうと四捨を立てた。
郷敵信長十九である。
ムコを騙してひねり殺すぐらい平気の悪党ジジイのやることであるが、
信長ちっともこだわらない。
即座に承知の返事をした。
道さんは、
馬鹿か馬鹿でないか、
実物判断というのがそもそもの着想であったが、
みんなたわけの大馬鹿野郎と言いたて決め込んでいるから、
彼も自然馬鹿ムコをからかってやれという気持ちが強くなった。
道さんは富田の聖徳寺へ先着し、
わざと鼓楼の威儀いかめしい親父どもの侍ばっかり七八百人、
いずでも高々とピンと張った紙紙も、
袴、糸物々しくお寺の縁へずらり並ばせた。
礼儀知らずの馬鹿小僧がこの前を通りかかる。
物々しいしかめ面の体操ばかりが、
目の玉を向いてずらりと意義を張っていながれているから、
馬鹿ムコも行天しやがるだろうという趣向であった。
こうしておいて道さんは町はずれの小さな家に隠れ、
そこからのぞいて信長の通りかかるのを待っていた。
信長の一行がやって来た。
先ぶれに続いてお供が七八百、
それに三弦半の手装五百本、
弓と鉄砲五百丁、いずれも叱るべき立派なものだ。
ところが馬鹿ムコがひどすぎる。
かねて噂の通り人の肩につるさがってウリを食いながら、
城下を歩いているときとまったく同じ姿なのだ。
頭は例のふんどし担ぎである。
萌木の紐で髪をぐるぐる束ねてある。
紙霜や袴どころの話じゃない。
浴衣の着流しで、おまけに肌脱ぎだ。
腰の大正は締め縄でぐるぐると巻いてあり、
肌脱ぎの腕にも縄を巻きつけてこれが腕抜きのつもりらしい。
腰の周りに火打ち袋をひょうたん七つ八つぶら下げ、
ちょうど猿回しである。
城場の心得で虎の皮と豹の皮を継ぎ混ぜて作った半ばかまを履いていた。
この一行が信長の休憩にあてられた寺へ入ると、
父さんは馬鹿の正体を見届けて何食わぬかを自分方の寺へ戻った。
ところが父さんもいっぱい食わされてしまったのだ。
父さんばかりじゃなかった。
信長の家来が肝をつぶした。
休憩所へ入ると、すぐさま屏風を引き回して、
信長は立派な髪に酔い直し、
いつ染めておいたか秘書官の太田牛一も知らない長袴を履き、
これまた誰も知らないうちにこしらえた小刀を差し、
見事な殿様姿で現れたものだ。
お供の面々誰一人今まで夢に見たこともない姿であった。
信長はするするとお堂へ進んだ。
淵を上がると、
さあ、こうおいでなさいましと案内の寺院が奥を指したが、
信長は知らぬ顔、
目ん玉を向いた大僧どもの陳列禅といながれる前をすーと通り抜けて、
縁側の柱に持たれて間抜け顔である。
信長がしばらく柱に持たれていると、
父さんが屏風を押しのけて出てきた。
父さんも知らんふりをしている。
自身が信長に歩み寄り、
あちらが斉藤山代殿でござりますというと、
柱に持たれた信長は、
であるか、
と言った。
それから敷居の家へ入って父さんに挨拶を述べ、
共に座敷へ通って酒漬を交わし、
ゆづけを食べ、いと尋常に対面を終わり、
また会いましょう、
と言って別れた。
父さんは二十丁ほど見送ったが、
信長型の槍が自分型より長いのに今日を覚ました様子で、
信長と別れてからはうんともすんとも言わなかった。
黙々と歩いて、
赤苗という地名のところへ来たとき、
猪子氷介が父さんに向かって、
どうですか、
やっぱりあいつバカでしょうが、
と言うと、
さればさ、
残念無念のことながら、
いまに俺の子供のバカどもが、
信長の馬の靴輪を取るようになるに決まっていやがる。
と父さんは答えた。
彼の物調面は当分解けそうもなかったのである。
彼はとことんまで信長に翻弄されたことを知った。
自分の方が翻弄するつもりでいただけ、
その後味はひどかった。
信長の日常生活
父さんは信長の人物を素直に見抜くことができたが、
信長の家来どもは素直ではなかったから、
彼らにはやっぱり主人がわからなかったのだ。
彼らは信長の殿様全たる風姿を初めて見て、
さては敵を欺くための教体であったかなどと考えて、
しかしそれで主人の全部を割り切ることもできなかった。
敵を欺くためなどと、
信長はそんなことをおよそ考えていなかった。
彼は人を食っていた。
人を人とも思わなかった。
世間の思惑、世間体は問題とするところでない。
ふんどしかつぎの薪が便利であっただけで、
また歩きながらウリが食いたかっただけのことだ。
立派な壮年の大将となっても、
冬空にふんどし一つで担当を加えて、
大蛇見物に池の中へぷくぷく潜り込む信長なのである。
論理の発想の根本が違っているから、
信長という明快極まる合理的な人間像を、
その家来たちは、
いつまでも正当に理解することができなかったのである。
清洲近在の天英寺の天拓という坊主が、
関東へ下降の途中、会を通った。
信長領地の坊主が来たと聞いて、
武田信玄は天拓を自分の館へ呼び寄せた。
信玄の知りたいことは、
信長とはどんな男かということだった。
信長は日々どんな生活をしているか、
それをいちいち残るところなく聞かせよ、
というのが信玄の天拓への注文であった。
そこで、朝晩熊に乗ること。
橋本一派に鉄砲を、
市川大輔に弓を、
平田三味に兵法を習い、
それが日課でそのほかにしょっちゅう鷹狩りをやっています、
とありていに答えた。
うーん、鷹狩りが好きか。
そのほかに信長の趣味は何だ。
舞と小歌です。
舞と小歌か。
講和歌ライブでも教えに行くのか。
あ、いいえ。
清洲の長人の勇観というのが先生で、
厚森をたった一番、それ以外は舞いません。
人間五十年、
家庭の内を比べれば夢幻のごとくなり、
一度生を得て滅せぬもののあるべき像。
ここのところを自分で歌って舞うことだけがお好きのようです。
そのほかには小歌を一つ、
好きで日頃歌われるということです。
おお、変わったものがお好きだな。
そう笑った信玄はしかし大真面目であった。
それはどんな小歌だ。
知能は一乗、忍び草には何をしようぞ、
一乗語り起こすようの、
こういう小歌でございます。
節をつけてそれを真似てみせてくれ。
あ、私はまだ節をつけて小歌を歌ったことがございません。
何便坊主のことで、とんと無粋でございます。
ああいやいや、かまん。
お前が耳で聞いたようにともかく真似をしてみよ。
天託和尚、仕方がないから真似をして、
とんちんかんな小歌を歌ったが、
信玄はそれをじっと聞いていた。
それから信長の鷹狩りのことを聞き、
何人ぐらいの人数で、
どんなところでどんな方法でやるか逐一聞いた。
そこで天託は答えた。
信長の鷹狩りには、
まず二十人の鳥見の州というのがおって、
この者どもが二里三里先へ行って、
あそこの村に鷹がいた、
ここの在所に鶴がいたと見つけるたびに、
一羽につき一人を見張りに残しておいて、
一人が中心に駆け戻る。
すると信長は弓三人、槍三人の人数をともに、
また馬に乗った山口太郎兵衛というものを
引き連れてその現場へ駆けつける。
馬上の太郎兵衛が藁で偽装して、
鳥の周りをそろりそろりと乗り回して
次第に近づくと、
信長は鷹を拳に、
馬の影に隠して近寄り、
つと走りで鷹を飛ばせる。
すると向井侍という役があって、
この連中は農夫の真似をして、
畑を鷹出すふりをして待っており、
鷹が鳥に取り付いて組み合うとき、
鳥を押さえるのである。
信長公は達者ですから、
ご自身たびたび鳥を捕らえられます。
信玄は深くうなずいて、
よくわかった。
あの陣が戦争候補者ののも道理である。
といろいろ納得した様子であった。
そこで天拓が糸間を告げると、
また帰りの道にぜひ立ち寄って行くがよいと、
信玄は機嫌よくいたわってくれた。
もとより信玄にとっても、
信長は大いに疑問の対象であった。
彼は天拓の話から、
信長の戦略と狩猟
果たして正確な信長像を得たであろうか。
天拓の話は確かに信長像の要点に触れていた。
信長の独特な狩りの方法、
信長愛唱の歌、
信長を解く鍵の一つが確かにそこにはあるのである。
それを特に指定して逐一聞き出した信玄が、
しかし今日我々が歴史的に完了した姿において、
信長の評価を成し得るように、
彼の人間像をつかみ得たか、
しかし信玄には信長を正解し得ない盲点があった。
自ら一人踏んどし一つで大序見物に潜り込むような好奇心は、
しかしそれが捨て身の度胸で行われている点において、
信玄も舌を巻き決して軽蔑はしないであろう。
けれどもそれは信玄にとって所詮好奇心でしかなかった。
世に最も稀な、最も高い、価格する魂であること、
それが信長の全部であるということを信玄は理解することができなかった。
蛇に食われて死んでもよかった。
物資たる者が戦場に貼るべき命を蛇に噛まれて死ぬとは。
しかし絶対者において戦士と蛇に噛まれて死ぬことの差が何者であるか。
大者を見たい実証精神が高い尊いというのではない。
天下統一が何者であるか。
野心の如きが何者であるか。
実証精神の如きが何者であるか。
一言あめくれば人間はただ死のうは一条、それだけのことではないか。
出家、遁世者の最後の哲理は信長の身に即していた。
しかし出家、遁世はせぬ。
戦争に浮みをやつし、天下に浮みをやつしているだけのことだ。
一言あめくれば死のうは一条、それが彼の全部であり、天下の如きは何者でもなかった。
彼はいつ死んでもよかったし、いつまで生きていてもよかったのである。
そしていつ死んでもよかった信長は、そのゆえに生とは何者であるか最もよく知っていた。
生きるとは全敵なる遊びである。
すべての苦心経営を、すべての慣行を、すべての魂を、命をかけた遊びである。
あらゆる時間がそれだけである。
信長は悪魔であった。
なぜなら最後の手摺りに完璧に即した人であったから。
しかしこの悪魔はほとんど高職なところがなかった。
そのみ賃金加工も欲せず、金田玉郎の欲もなかった。
モラルによってそうなのではない。
その必要を感じていなかっただけのことだ。
老魔虫は、悪逆無道であるとともに高職だった。
彼は数名の美女と寝床で戯れながら、自身を呼んで天下の政務をとっていた。
これもモラルのせいではない。
その必要のせいである。
悪魔にとってはそれだけだった。
信長の金元も、老魔虫の助兵も、全然同じことに過ぎなかった。
信長は、新元の跡取の勝頼に自分の養女をもらってもらって、しきりにご機嫌を取り結んでいた。
戦争達者な新元坊主と好んで争うことはない。
好んで不利を求めることはいらないことだ。
信長は、ご機嫌を取り結ぶくらいは平チャラだった。
すると信長は臨時をもらい、その翌年は老魔虫から降参だか友情だか訳のわからぬ内通を受け、そして吉明の依頼を受けた。
信長はすぐさま吉明を迎えて、正常、立床寺で対面。
直ちに京都奪還の軍備を立てて、社任務に進撃、たちまち京都へ飛び込んでしまった。
あんまり仕事が早すぎるので老魔虫も面食らった。
あれだけ内通してかねて友情を見せてあるのに、挨拶なしに足元から鳥が飛び立つように、いきなり膝元へ押し寄せてきたから、
慌てて頭から湯気を立て、ブーブー言いながら防いでみたが、この老魔虫はもともと戦争は強くない。
なんとなくハメ手を持ち、口先でごまかし、それで天下を取ったけれども、戦争するとあんまり勝ったことはない。
やきゃくそに大仏殿へ夜討ちをかけて火をかけて、無様なことをやりながらやっぱり負けて逃げ出している老魔虫であった。
いつも負けてそれから口先でごまかしてうやむやに済ましてしまうのであった。
いつものことだが老魔虫の逃げ足だけは見事であった。逃げるにかけては危なげというものがない。兵をまとめてさっと大和へ逃げ延びて神廟に降参した。
信長について受楽し、将軍の位についた吉明は万端信長の位にまかして、いかにも信長の恩義を得とするふりをしてみせたが、老魔虫の処刑ばかりはさすがに大いに言い張った。しかし信長は取り合わない。
老魔虫は命が助かったばかりではなく、志義の本性をそのまま許され、大和一国はその切り取りにまかされたのである。
悪魔同士の友情であった。老魔虫はさっそくお礼に参上して、最も熱心にそのうんちくを傾けて、あれからと政治向きの助言をしていた。この不思議の友情は、しかし大いに清潔なものであったと言わねばならん。
友情と政治
人間どもにはわからない謎なのである。そもこの友情はいかに育ち、いかに破れるに至るであろうか。
1998年発行。ちくま書房。坂口暗号全集07。より。
読了。読み終わりです。が。
なんですが。一番最後、かっこみかんって書いてありますね。終わってないみたいです。
ご本人亡くなっているので続けを書くことはないんでしょうが、そのことだけお伝えしておきます。
若い時の信長って知らなかったなぁ。そうなのか。
あの、序盤に言った通り偉いもんで女性が一人も出てこないね。
あ、誰かの嫁さんが出てきたか。安いって名前の。
ね。
戦国って感じですね。男臭い話でした。
先日、えー、
あれは、尋坊町でつけ麺を食べて、そこの、その足で神田方面に向かって歩いて行ったんですけど、
天理ギャラリーというね、ギャラリーがあって、これが、
夏目漱石、正岡式、森鴎外の自筆の原稿の展覧がされててですね。入場料600円です。
大きくないギャラリーなんですけど、なんか生の原稿に触れてまいりました。
今週の日曜日までだったと思います。6月15日って書いてあった気がするな。
正岡式のね、字が達筆できれいで。
森鴎外はちょっと漢字多すぎて、ちょっと反読に、反読しきれず。
夏目漱石は意外と丸っこい字で可愛かったですね。
三四郎とかぼっちゃんとか、あと、我輩は猫であるとか置いてありましたよ。
そんな経験なかなかできないのでね、いい経験をしたなと思いますが、ご興味ある方はぜひ。
ちょうど自分が読み上げた、 イニシエに読み上げたぼっちゃんを聞きながら回ってきました。
よし、それではそろそろ終わりにしましょうか。ちょうど見たて通り1時間いかないくらいでしたね。
無事に寝落ちできた方も、最後までお付き合いいただいた方も大変にお疲れ様でした。
といったところで、今日のところはこの辺で。 また次回お会いしましょう。おやすみなさい。
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