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2025-10-25 09:24

356_クラス経営の危険サインについて考える。

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https://voicy.jp/channel/893814/6938940

笠原先生の配信に影響されて私も自分の体験を語りましたw

#サインを見逃さない #プロファイリング #スクランブル #皮膚感覚 

サマリー

クラス運営における危険サインに焦点を当て、教師が生徒とのコミュニケーションを通じて危機を未然に防ぐ方法について考察されています。また、厳しい環境での経験が生徒指導の技術を磨く契機となることが語られています。

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皆さん、こんにちは。今日も明日も授業道、黒瀬直美です。
この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育についてゆるっと配信しています。
危険サインの理解
今日は356回、クラス運営の危険サインについて考えるというタイトルでお届けしたいと思います。
今回の配信は、私が親しくさせていただいている国語家の笠原先生のボイシー、31回クラス経営の危険サインという配信にインスパイアされてやることにしました。
笠原先生のボイシーはリンクに貼っておきます。
笠原先生のクラス運営の危険サインというのは、日常の学校でよくありがちな生徒の危険サインについて、どうやって見逃さないようにしているかとか、対応についてとか、そういったことについて語っていらっしゃるんですけれども、
私はその激しいバージョンとして、生徒実態が厳しい場合、どういうふうに私がしていたかということについて語りたいと思います。
まず大前提として、日常的に生徒と会話をすることはとても大事で、面白おかしい話や冗談とか、くだらない話とか、生徒と一緒にいろんな話をしていることがとても大事だと思います。
いわゆる情報収集ですよね。
若い時は生徒も距離が近いので心を許していろんな話をポンポンポンポンしてくれるんだけども、年取って距離が離れていくとやっぱり共通の話題が減ったりするし、相手も年齢差というのを意識してちょっと距離を置いてしまうので、情報収集の量が減ってしまいました。
だからその分私はサインを別のところで見逃さないようにしています。
目つきとか、それから生徒と生徒の間のなんとなくの距離感とか、仕草とか、そういったボディーランゲージというものを大量に気にするようになりましたね。
そういうふうな情報から自分の中でプロファイリングが始まります。
これは私の長年の経験で、特に17年間厳しい学校に行って鍛えられましたので、様々な事例を大量に経験しましたから、そこで危険サインについてのプロファイリングと言いますか、もう自分の脳の中にAIがあるみたいな感じで、情報と情報を結びつけ合いながら、そのサインの前、後ろを予測しながら対処方法をずっと考え始めるわけですね。
わりかしすぐ結論が出てくるわけですけれども、もしかしてこれはこういうことなんじゃないだろうか。これはこういうふうなことが予測される。これを放置しておくと危ないなということは、かなり早く見抜くことができるような、そういった経験を積んできたので、そこでやばいなということはわかります。
そうしたら次に私はどうするかと言いますと、まずやばいなっていうことが出る前に、ちょっと余信のようなものがあるので、その余信を見逃さないように、ずっとその余信が起こる瞬間を捉えるための観察が始まります。
いわゆる不適切な場面を、その場ですぐに指摘するための生徒の異変を探すわけですね。そうやって観察し続けていくと必ず尻尾を出して、余信、危険な予兆というものが出てくるわけですね。
そうしたらその場でバシッと指摘して、それはどうしてそのいけないのかということを理路整然と話すわけです。その子たち同士にも話しますし、その後クラスで全体化もします。
そうすることによって、その日々何気なくやっていることが、いかに危険なものをはらんでいるかということを当事者と全体に知らせることができるわけですよ。
そのことが終わった後でも、もうちょっと抑えたいな、細部を抑えたいなという時には、街頭の生徒を個別に呼び出して話をすると。
こういったことで、大きな危険が起きる前に小さな危険で、小さな余信で物事を抑えることができます。
これを事前に抑えることができて、予防という意味もあるんですけれども、厳しい指導をするための前置きという意味もあるんですね。
だから、こういった日常的にちょっとしたことをその場で、現場で指導するということは、大きなクライシス発生という防止に大きくなっていると思うんですよ。
こういったちょっとした繰り返しで、そういったことはほぼ収まることが多いんだけれども、ひどい場合は爆弾が落ちてしまって、生徒指導案件になります。
でも、そこに至るまでにある程度ちょいちょい指導しているので、生徒も諦めているというか、やらかしてしまったことについては早く判断ができたりとか、やっぱりすぐに自分が悪かったというような反省をしたりとか、そういうふうなことにつながるので、
日々の観察によって、サインを見逃さないことによる小さな予診、これを叩くことによってかなり防げると思いますね。
問題はでもね、そういったのはどうしたらいいんですか。普通、私からしたら普通なんですよ。日常よくあることなんです。
だけど、過去いろんな学校を経験してきて、一番問題なのは、そんなことすらできない、無法地帯に教室がなっていることがあるんですよね。
過去の経験と現代の教育
今のこの時代、学校はある意味、そういった校内暴力的なことはほぼなくなったというか、もうすごい少なくなってしまったので、そういうことは起こらない学校が大半だと思うんだけど、私がやってきたときには校内暴力全盛の時代だったから、激しい爆弾が落ち続ける中、生きてきたというような感じもなきにしもあらずなんですけれども、
超問題は、そんな余震を防ぐということすらできない、無法地帯になっている生徒実態。この時がやっぱり最も大変でしたね。
ほとんどギャング映画みたいな感じで、マフィアの倉屈に乗り込むICPOみたいな、国際警察みたいな、そんな覚悟で臨んでいたと思います。
そういった中で、生徒と揉まれるっていうかね、ぐちゃぐちゃになったりとか、一対他でいろいろやったりとか、先生呼んできたよみたいな、本当にね、映画みたいな、ドラマみたいな、そういったことを何回も何回も何回も何回も経験してきて、
もうほとんど、この危険サインとかスクランブル事案については、私の皮膚感覚にも対応がしみついちゃっているので、ビビビビリッと皮膚で感じて、割に直感的に判断ができるようになってしまいました。
これはやっぱりね、17年間も厳しい学校に勤めてきたっていう、そういう経験があってのことだと思うので、私はその間教科指導っていうものには、なかなか深く関われなかったけれども、その代わりに生徒指導については、かなり鍛えられたし、かなりな経験があるというふうに今でも思っているし、その経験が今でも役に立っていることが多いです。
そういったことで、なかなかこんな経験をしている人っていうのは、今どき少なくなっちゃったかなと思うんですね。それを言語化するって言ったら、ちょっと記憶も遠くなっちゃってるし、難しいことではあるんだけれども、
今は私たちのあの時代とは違って、もっと静かに、それから生徒のそういう人格というのをとても尊重しながら、じっくりじっくりと取り組むっていう、そういう時代になったので、私が経験してきた激しい時代とは全然違うんだけれども、
生の人間とやりあって、親族を、その子のしんどさを目の前に突きつけながら、この子をどうしていったんだ、いいんだろうかっていう究極の場面に数多く立ち会えたということは、私にとって大きな財産となっているかなって思いますね。
それでは今日の配信はここまでです。聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。
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