論理国語の現状と課題
皆さん、こんにちは。今日も明日も授業道、黒瀬直美です。
この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育について、ゆるっと配信しています。
先ほど、第35回今日も明日も授業道オンライン交流会を終わりまして、その興奮も冷めやらぬ間に、この配信をすることにしました。
今回は、「論理国語をハックする」ということで、私が高校2年生の論理国語の授業でやった取り組みの報告と、それの検討会でした。
私の論理国語の取り組みについて、ちょっと紹介したいと思います。
まず、背景として、新学習指導要領において、論理国語というものが、非常に現場では扱いづらいものになっています。
論理国語と文学国語の選択必修化によって、文学国語を選ばずに論理国語を選ぶ学校さんが多くて、文学で、高校現場で文学を学ばないという事態が発生し、
生徒が夢中になれない論理国語、評論文ばっかり読んで、生徒が生き生きしないという現場の問題がありました。
そこで私自身は、どうやって論理国語の授業によって生徒の主体性を喚起できるのか、自分なりに工夫をしたその取り組みについて報告しました。
評論文を読むにしろ、どんな文章を読むにしろ、生徒が主体的に学習に取り組むためには、どうしても感動とか、自分でこういうふうなことに感動したからこれを読みたいというような主体性喚起の仕組みが必要だと思っています。
なので私自身は、まずシラバスの見直しを図りました。最初はミロのビーナスだったんですね。その次に相手依存の自己規定、その後メディアの変容、評論ばっかりが続いていて、これじゃあ生徒の主体性喚起できないと思いまして、とりあえず忙しいからミロのビーナスに入りました。
その後どうしようどうしようと思いながら必死で教材を色々考えている間に、ふとこの間配信したように、僕を探しにっていう絵本の合わせ読みを知りまして、それでミロのビーナスと合わせ読みをしたところ、
主体性を育む授業の工夫
あの、欠損した事故の回復っていうようなテーマだったので、生徒が非常にそれに感動を受けて必死になってその分析をしたっていうそういう出来事があり、そのことからこれは事故理解とか他者理解、そういったことにつなげられるんじゃないかと思い、相手依存の自己規定っていうものとのつながりを思いついたわけです。
で、これもね、さらにその学んだことをどうにか現実世界で活かせるっていう状況に持っていきたいなと思って、いい現実世界はないかと探しまくっていたところ、虚構の世界にあるではないですか。三月期が。
ということで、そこでビビビビッとつながった私は、単元名自分はどう作られるのかっていうのを設定して、自己理解、他者理解を深めるためにどういうふうなことをしていったらいいのかなっていうテーマで自分はどう使われるのかを設定しました。
で、最終的に自分はどう作られるのかっていうのを探していこうねっていうことでスタートして、相手依存の自己規定を読み、そこから複数教材の読み合わせを行いまして、相手依存の自己規定を相対化するような文章3つをジグソー法で選びました。
読みました。そこから相手依存の自己規定とその3つの文章との違い、共通点を分析させて、その上で自分はどう作られるのかっていう仮説を設定し、じゃあ現実の世界や虚構の世界で自分はどう作られるのかどうなってるのかを見ていこうということで小説三月期に入りました。
小説三月期の中で、自分というものをどう作られていくかっていう視点を振り返りながら分析を行いまして読んでいきました。
その際、当然のことながらICTをしっかり活用して、意見の共有、それから意見の拡散、修練を行いました。
生徒は三月期っていう小説に魅力を感じて、まさに自分のことだということで、三月期の内容に没頭しまして、いろんな意見交換を通してどんどん考えが深まっていく様子、そして評論教材で視点を得てそれを分析する様子が伺えて、
最終的に複数教材を読みながら、比較、それから考察を繰り返して内容が深まっていったという実践発表をしていきました。
ということをやったんですけれど、フロアの方からいろんな感想とかご指摘が出ましたね。
まず、評論文を読むときに、自分の実感に設置しないと評論を読んでも空転してしまうから、この取り組みというのは非常にヒントをもらったというフロアからのお話がありました。
やっぱり評論をわっつら読んでも感動が伴わないと、生徒の力にならないですよね。
私は本当にそう思うので、今回の取り組みにしても感動とか、それから自分自身の主体的な取り組みがあったからこそ、
生徒が自分たちで分析するもの、それから記述するものがどんどん頭の中に入っていくのであって、
これはやる気とか意欲とか主体性がなかったら、やっぱり生徒の思考力とか、それから表現力とか育成できなかったんじゃないかと思います。
やっぱり主体性を喚起するために自分の実感に設置していくような仕組みを組んだのは良かったという評価をいただきました。
そんな中で、ある先生がJ-POPの歌詞とかを導入使ってもいいんじゃないかというヒントをいただきました。
論理と思考の再考
さらに童話というものの本質をつくえぐさというのは捨てがたいから、どんどん絵本とか童話とかを導入に使っていく。
評論文との接地点に使っていくっていうのは、これはいいアイディアなんじゃないか。
偶有の持つ力というのを生かしてはどうかっていうような、そういう風な指摘がありましたね。
そのためにも、授業者自身が日頃からいろんな素材について関連づけを行う癖を持っておかないといけない。
関連づけを行うアンテナを張っておかないといけないっていう、そういう話も出ましたね。
そのためにも、生みの苦しみといいますか、生徒に主体的に教材を読んでもらうための試行錯誤が先生には必要なんだなというふうに私自身も思いましたね。
それからまた指摘があったことは、論理っていうことについて、論理って何なんだっていうことについて討論がなされましたね。
日本の場合はどうしてもね、共感を求めたりとか、自分の考えを表現したりっていうところに論理っていうものが立脚してるんだけど、
アメリカ型だったりフランス型だったりイギリス型っていうのは、その論理っていうのが弁証法であったり、相手を打ちまかす説得するためのものであったりと。
論理っていうものの考え方が国ごとにちょっと違っているというお話がありまして、これは論理的指向とは何かっていう最近出た岩波新書、それをヒントに得て、
ある先生がすごく説明してくださったんですけれど、論理っていうものは何なのかっていうのは、私たちはもう一回勉強し直さないといけないんじゃないかっていう、そういうお話がありましたね。
それに立脚した上で、どういう生徒を育成したいのか、だったらこういう論理的な指向法を取らないといけないだろうっていうようなお話もありまして、
私も論理っていうこと自身に、いわゆる学習指導要領に書いてある論理っていうことを中心に今回実践展開していきましたけれど、
別の国の考え方もやっぱり勉強して、論理っていうものをもう一回自分の中で再構築していきたいなと思いましたね。
それからもう一つ印象に残ったのは、やっぱり表現っていうレトリックっていうものに着目することの大切さですね。
どうしても自分自身の体験から出る、そういった感想に終わるんじゃなくて、筆者がどういうふうにそれを工夫して描いているかっていうところにしっかり着目した、表現に着目した分析をすることによって、
より分析が説得力を持って、その子自身の読解もしっかり立脚点を持って、その上に立って批評するということになるので、これも論理的思考力を育成するのに必要なことなんじゃないか。
レトリックとか表現方法とか、そういったことについてもう少し切り込んでいく、くさびを打っていくっていう必要性を感じました。
ということなんですけど、やっぱり締めに思ったことは、お話の中である大ベテランの先生は朝4時に起きて、お風呂に入りながらその日ある授業の枕、つかみの部分を思考してから授業に臨むっていうようなお話をされた先生がいまして、
やっぱり先生自身が導入を毎日のように考えていく、そしてそういう先生自体が学びを推進していく、導入になっていくっていうようなお話があったので、やっぱり我々の授業を作っていく姿勢っていうのが問われているなっていうのを思いました。
そういった中で今回参加してくださった参加者の皆さんは、自ら学ぶっていうことをどんどん助けてくれるような学ぶ仲間だったなと私は思っています。
この学ぶ仲間に支えられて、やっぱり私も授業を考えていく力を得ている。その授業を考えていく力を得ていることが、生徒により主体的に授業に取り組んでもらうための力になっていると思いましたね。
ということで、本当に気心知れた仲間と授業について語り合うということは、授業作りにおいて本当にプラスになるよっていうそういう落とし所に今日は行き着きましたかね。毎回参加してくださる皆さんには本当に感謝しています。
これからも無理のない範囲で、この交流会、勉強会をやっていきたいと思います。
ということで、本当に今日も日が変わろうかとしてるんですけど、今日はこれで配信を終わりたいと思います。参加者の皆さんありがとうございました。またお会いいたしましょう。