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皆さん、こんにちは。今日も明日も授業道ス黒瀬直美です。この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育について、ゆるっと配信しています。
今日は123回、評論文の導入に小説はいいよであることとすることというタイトルでお送りしたいと思います。
うちの学校、高校2年生は論理国語と文学国語を履修していて、文系の生徒は、論理国語2単位、文学国語2単位で、合計4単位で展開していますけれど、
理系の子たちは、論理国語2単位で、現代文の分野を展開しています。
それで先日、私の担当している生徒が、休憩時間に早めに教室にいつも入るんですけど、
先生、なんで俺ら小説やらんの。ちょっと広島弁で言ってますけど、なんで俺ら小説やらんの。論理国語をやってるからなのよ。
なんで文学国語やらんの。文学国語の方が面白いのに、小説は読みたい。
というふうに言いました。文部科学省の人、聞いてますか。現場の先生は全員言ってると思うんですけれど、
全員じゃないかもしれないな。現場の先生の多くは言ってるかもしれないんですけど、生徒はやっぱり文学が面白いと思うんですよ。
文学の中で、虚構の世界の中で、そこで生きている登場人物が話をし、語り、思い、嘆き、悲しみ、喜びっていうのを自分の実生活と共感、覚えたり、
それから想像したり、それからいろいろと自分の中でまた考察し直したりなんかして、新しい発見をどんどんしていき認識を深めていくのが文学作品なんですよ。
やっぱり実感を持って、そこに生きている人間が我がことのように同じような思いをしたり、その虚構の世界で生きている登場人物が悩んでいることや苦しんでいることに触れて初めて自分を発見したりするっていう、
特に思春期の生徒にとっては感性を揺さぶられる、感動を覚えるっていう小説の存在はとても大きいと思います。
それなのに論理国語っていうのを与えなければならないっていう現場があるんですよね。
なんで分けちゃったんですかね、二分割に。
複数教材の読み合わせとか比較読みとか言ってる割にやってることが小説と文学国語と評論を分けちゃうっていうね。
なんか本当言ってることとやってることが…っていう思いなんですけれど、やっぱり生徒は文学を読んで感動する。
なぜなんだろう、なぜこんなに悩んでるんだろう、あるいはなぜこんな問題が起きるんだろうっていうふうに心揺さぶられて、
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深く考察したい、追求してみたいっていうところに、社会のことについて分析した評論文を与えて、
社会構造がこうなってるからこういうふうな問題が発生するんだとか、解決策はこういう方向に求めていかないといけないんだとか、
そこで評論を入れることによって初めて評論が生きてくると思うんですよ。
私自身そういうふうに思いながら受験をしてきたんだけど、なぜかこの進学習指導要領では文学とそれから論理が分けられちゃって、
しかもピザの学力到達度テストで点数を上げないといけないから、そういう実用的な文章とかもちゃんと読めよっていうふうなことになってて、
生徒の主体性喚起しろっていう割には、主体性を無視したところのカリキュラム設定になってるっていうのが非常に問題だと思ってます。
それをうちの生徒が見事に自分たちの実感で掘り当てたんですよ。指摘したんですよ。
うちの生徒いい子というなと思って、その子はどっちかというとワンパクちゃんだったんだけど、やっぱ本質を見抜いてるなって思いましたね。
ということで、今現在、論理国語を教えてるんだけど、生徒にとってはあんまり面白くないっていう実感があります。
面白く教えればいいんだけど、限界があるんですよね。教科書に載ってる文章をね、教えてるとね。
で、今回であることとすることっていう、これまた難解な評論を教えることになりまして、
もうこんなの持たんなぁと思ったんで、私は安部工房の良識派っていう短い文章を導入で使いました。
やっぱ狙い通りですよ。みんなね、本当に短いね。読んだら1、2分ぐらいで終わるような短い小説。
まあ偶話なんですけど、生徒本当にね、鶏と人間について考えてました。
この偶有されている内容についてしっかり考えて分析して、やっぱり読み取って。
私の読み取りは、鶏と人間っていうのは現代社会の社会構造と似ている。
プラス、生徒はタイトル回収を忘れてたんで、タイトルが何で良識派なのかっていうところも加味したところで考察をして、
それじゃあこれから読んでいくよっていうことで、であることとすることの導入に使ったわけですね。
こういう風な流れを作るっていうのが一番いいと思うんですよ。
3月期の時も、事故について考えようっていうことで導入。
事故について考えるっていうタイトルでずっと考え続けてきての3月期だったし、
やっぱり現実の世界にしっかりとイメージできたり、現実の世界で落としどころを見つけられるような、
そういう小説を手がかりにして評論を読むっていう、そういう比較読みするには絶好の文学と評論だと思うんだけど、
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ところが論理国語を選ぶと評論ばかり読んじゃうっていうね。
そういう非常に現代の学習指導要領と逆行するような教え方をしなくてはならないという、
この歪んだ現象が起きているのが高校の論理国語と文学国語の問題となっています。
ということで、これが1年格闘してきて私が得た結論は、やっぱり投げ入れ教材ですね。
論理国語ばっかりで論理論理論理評論評論っていうような、現実世界とあまりに離れたことに敵意気している生徒に対しては、
投げ入れ教材で小説をぶっこんでいくっていうのが最適だと思いました。
できれば短めの、それでいて生徒が心震え、そしてさらにその評論と関わりのある内容を持った、
そういう小説とか短編のものを探していかなくちゃならないなと思いました。
まあでもなかなか歯応えのある小説がね、探せなくて困ってはいるんですけれど、
本当になんでこういう教育課程にしたんでしょう。
元通り普通の現代文に返してくれた方が現場としては大変やりやすかったし、生徒も幸せだったんじゃないかなと思います。
こういう現場の声無視のカリグラム改編っていうのはもうやめていただきたいなと思いましたね。
それではなんか今日も空口になってしまったような気がするんだけれど、まあいいか。
今日の配信はここまでです。聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。