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みなさん、こんにちは。今日も明日も授業道、黒瀬直美です。
この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育についてゆるっと配信しています。
今日はタイトル、043 4%から何を見るかス優劣の彼方にスと題してお送りします。
4%というのは、いわゆる特別な超進学校というのは、全体の学力偏差地帯の4%の生徒でできているわけなんですよね。
そういった統計を見たことがあります。
だいたい平均的に、自然学級で4%の生徒が超進学校とか有名進学校というところに入るわけですよね。
そういった学校に私は国立大附属勤務次第にいたので、そういう4%の生徒を相手に授業してきた時のことをちょっと語りながら、
後半は、その真反対の最底辺の生徒を相手に授業してきた経験も結構長くありますので、その2つを比較しながら考えていきたいと思います。
まず国立大附属に勤めていた時は、生徒自身の実態もあって、
だいたい何かを書かせたりしても、あるいは何か新しい取り組みをしたりしても、それ相応の答えが返ってくるんですよね。
それは結局、自分がやったからどうのこうのじゃなくて、すでに生徒が持っている能力が優れている点で、そういう反応が返ってくるというところが多かったと思いますね。
なので、何か取り組みをしてさほど工夫しなくても、まあまあいい感じの作文が返ってくるということで、自分を過信してしまうというか、見誤るというか、そういうところのありがちな、そういうところだと思いますね。
実際、そういうところで研究発表している人のを見て、やっぱりね、私にもいろいろ思うところがありますね。
果たしてこれって、授業者の工夫とか努力とかによるのか、それとも丸投げした生徒の能力に頼ってできてるんじゃないかとか、そういうふうに自分もまさにその場にいたので、そのあたりはね、結構厳しく見抜く力がついたなと思います。
で、やっぱりね、自分の力でやったからうまくいくってそこそこないと思うんですよね。
やっぱりその場で一生懸命やったらできるっていうんじゃなくて、そのクラスを受け持った時から、種をまき、土地を耕し、コツコツコツコツと雑草を取りながら、丁寧に丁寧に日々努力しながら積み上げてきたことが花開くのであって、
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そういう地道な地ならし、土壌作りっていうものがないままやった取り組みっていうのは大体が生徒の持っている力に頼り切ったものになるなっていうのが、そこの勤務校に勤めた私の考えですね。
で、やっぱり定時制とか教育困難校では一生懸命やってもダメなんですよ。
もうそもそも勉強が嫌い、先生なんてっていうような非常に拒否反応のある生徒を相手に授業するっていうことはすごくハードルが高いことなんですよね。
私自身本当に挫折感、無力感に打ちひしがれて自分の限界を感じて、日々もんもんとして、そして時には投げやりになったりするような、そういう日々を過ごしてきました。
振り返ってみると、私も実は中高校時代はその4%にいたんですよね。国立大附属の生徒だったんで。
うちの両親はそういう受験っていうのは全く意識ない、そういう両親だったんで、私が受験したのも小学校の時の担任の先生の非常に強力なプッシュがあって受験して、結果合格していくことになったわけですけど。
そういうふうな学校にいると、当然みんなお勉強できますし、高学心もあるし、知的好奇心も旺盛で、みんな授業を集中して受けて、時間も守るし、いじめもありませんし、非常に整った環境で、いわば温室育ちで育ったんですよね。
でも、もう大体の先生も進学校育ちだと思うんですよね。なので、いわゆる荒れた学校っていうふうなところに長くいた人っていうのは少ないと思うんですけれど、もう私なんかも当然その部類です。
わずか4%の上位層の中でぬくぬくと育ってきたなっていうのはありますね。そういった中で厳しい学校に入りまして、もう違和感とか言うんじゃないです。もう別世界です。
もう体制も免疫もないんで、慣れるとか慣れないとかそういう生やさしい状態じゃなくて、とにかくもがくだけですね。もう何をやってもわからないことだらけ。何をやっても今まで見たこともないことだらけで、どう判断していいかもわからない。もがくもがくもがくですよ。
しかも自分が受けてきた授業っていうイメージのまま授業を受けるもんですから、全く合うわけありません。もうそういう付属の授業から脱却できずに、いつももがきまくってました。
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そういう様子を見たある女子生徒が、その頃の私についてこんな風に言ってましたね。先生、この学校に来たくなかったんでしょ。まさに能天を勝ち割られるような一言でした。
その一言で、私は自分は教育者として失格だなって思わされた。そういう一言だったんですよね。私は本当にあの超進学校にいた自分から全くシフトチェンジもバージョンアップも再構築も全くできずに、
ただ自分が良かれと思っていた授業を生徒に押し付けて、それができない生徒たちを見下していた。そういうふうな状態だったということがその一言で浮き彫りになりましたね。
そんな風に偏った学力層に長く居すぎると、自分が教育者としてどうなのかということがわからなくなるというか、見失ってしまうというか、そういった状態だったんじゃないかなと思いますね。
その厳しい学校の次の不妊校は定時制でもっと厳しかったんですけれど、特に全日制と併設されていたということもあって、特に定時制にずっと通っていた生徒は全日制の生徒を横目で見ながら登校していたので、本当に軽蔑の目で見られているような気がして、神経が苛立っていたと思います。よくトラブルを起こしていました。
そういったある日、全日制に勤めている若い女性の先生とお友達になったんですが、その前日の若い女性の先生に、「定時制の生徒って怖くないですか?」と言われたことがありました。
私はその先生へとすごい深い溝を感じたんですよね。確かに若いから怖いなっていうのを率直に言ってくれたと思うんですけれど、私の置かれている厳しい状況にさらに思いやりがない言葉を言われて、たちまち私はそうでもないんですよとしか言えなかったんですよね。沈んだ気持ちばかりが残っていました。
その時、私は苦しかったので、難しい生徒実態を相手に弱音を吐かずにやってきたその私が、怖くないですかって言われて、気を張って一生懸命やってきた私って一体何なんだろうというふうに思ってしまったんですよね。
今なら、もうバンバンに言い返せたし、そうじゃないんだっていうことを強く言えるような自信もあったと思うんですけど、若かりし頃は、自分の置かれている境遇にもう本当にへこたれていたような気がしますね。
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そういう月日を送ってきた今、よく考えると、その上位4%の学校でやってきたことは決して楽だったわけじゃなくて、やっぱりそういう上位層に向けて自分自身が一生懸命勉強しないと生徒は満足してくれないから、自分は一生懸命そこでも勉強を積み重ねてきましたし、
やっぱり厳しい学校なら厳しい学校で、生徒との関わり、それから教材についての工夫というのも心を砕きながらやってきましたし、そうじゃない、いわゆる中間層の学校は学校で生徒の実態が様々だったんで、それに合わせられる授業は何なんだろうというふうに試行錯誤を繰り返してきました。
どの学校にいても結局自分はめちゃくちゃ鍛えられたなって思いますね。そこに向き合う生徒とその場で最善を尽くしながら、生徒にとって一番いい授業って何なんだろうというふうに、一生懸命考えて積み重ねたことが私の財産になっているんだと思います。
だからどの現場に立っても自分の未熟さは露呈されるし、どの現場に立っても自分は鍛えられるんじゃないかなと思いますね。そういった意味では、自分の中で一番満足ができる授業っていうのは、やっぱり優劣を超えて教室の中でお互いが認め合えるような授業、こういった授業を自分は理想としています。
そういう授業ができる日が来るのか来ないのかなかなか競いないんですけど、そういった優劣を超えて生徒が一生懸命になれるような授業っていうのを理想としながらやっております。
そんなことで、今日は取り留めもない話になりましたが、学力上位層であろうと、いわゆる進路多様向であろうと、やっぱりいろんな授業を経てきて、結局のところ、今いるところで最善を尽くしながら土壌を耕し、種まきをし、雑草を取るっていうことが8割9割でありながら
残りの収穫、実りを求めながら地道にやるしかないなっていうのを感じております。
それじゃあ今日の配信はここまでにします。聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。