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今日ですね、お話ししたいのは、エールっていう映画のことですね。
エールっていう映画です。これをですね、話そうと思ったのは、以前に日本語教師映画パーティーで提案されたことがあるんですね。
だけど、この時はですね、ちょっと何が選ばれたのか覚えてないんですけど、別の映画が選ばれて、この時はみんなで見ることにはなりませんでした。
それともう一つは、今月のですね、日本語教師ブッククラブが手話の本だからっていうのがありますね。
さっき申し上げましたけど、手話の世界を尋ねようっていう、それがみんなで読んでいる本で、今僕も興味を持って手話の本何冊かちょっと読んでいるところなんですけど。
この映画ですね、今日今お話ししているこのエールっていう本はですね、主人公は手話では耳が聞こえるんですけど、実は家族がですね、全員耳が聞こえないっていうそういう状況なんですよ。
それでですね、まあそういうことがあって、ちょっとこの映画見てみようというふうに思ったわけですね。
でね、ちょっとこの映画のストーリーを商品ページですね、Amazonプライムに書いてあるのをちょっと読んでみたいと思いますね。
フランスの田舎町、落納を営むベリエ家、ベリエっていうのが苗字ですね。
落納を営むベリエ家は高校生のポーラ以外、父も母も弟も全員耳が聞こえない。
美しく陽気な母、熱血感な父とおませな弟。
一家の合言葉は家族は一つ。
オープンで明るく仲のいい家族だ。
ある日、ポーラの歌声を聞いた音楽教師はその才能を見出し、パリの音楽学校のオーディションを受けることを勧める。
夢に胸を膨らませるポーラだったが、彼女の歌声を聞くことができない家族は彼女の才能を信じることができず、もちろん大反対。
夢に向かって羽ばたいてみたい、だけど私がいなくなったら、とポーラは悩んだ末に夢を諦める決意をするのだが…。
はい、ここまででおしまいですね。
ちょっと今日は音声に問題があるのかな。
ちょっと音声に問題があるかもしれませんが、すみません録音ができているのでこのまま進めてみたいと思います。
そういう話なんですね。
つまり家族がみんな労働者なんだけど、本人だけはその耳が聞こえる音声でコミュニケーションできるということです。
すみません、今日は出入りがとても激しくて聞こえているか心配なので、もし今僕の声聞こえていたらハートのマークでリアクションいただけますかね。
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何か問題あったら何もリアクションできないかもしれませんが、僕の声聞こえていたら涙のマークでリアクションいただけますかね。
リアクションないですね。もしかしたら聞こえてないのかな。
はい、ちょっと聞こえてないみたいですが、録音はできているみたいなのでこのまま話は進めてみたいと思います。
普段だったらここで皆さんにエールという手話が出てくるフランス映画を見たことがありますか?というふうに聞いてみたかったんですが、ちょっと反応ないみたいですね。
もし聞こえていて見たことがあるという人はハートマークでリアクションいただければと思いますけど、どうだろう。
ダメかな。
実はこの映画は確か2014年の映画だったと思うんですが、2022年ですね、今年、高田愛の歌というのがアメリカで映画化されたようです。
内容を見てみるとほとんど同じ設定でほとんど同じストーリーみたいなんですね。
なのでもしかしたらこの2014年のエールというフランス映画のアメリカ版のリメイクが高田愛の歌ということなのかもしれません。
まず僕がこの映画を見てどう思ったかというと、僕は個人的にとてもこの映画は非常に感動しました。
良い映画か悪い映画かというと、僕は映画評論家ではないのでそういう言い方はあまりしたくないんですけど、僕にとっては少なくともとても良い映画でしたね。
一つすごくびっくりしたのは、映画のクライマックスに普通の高校の音楽会で今まで練習してきた成果が発表されるところがあるんですけど、
そこで普通だったら派手に演出がされて感動的にされるところだろうと思うところで歌の音声がカットされていて無音状態になるんですね。
これはお父さんとかお母さんとか家族の視点でそれが見えるからそういう演出になるんですけど、正直これはすごいと思いました。
実は後から見るとその後に本当のクライマックスが来るんですけど、その時点ではもうそこが主人公たちの最後の見せ場という状況だったんですね。
その後に夜に、耳の聞こえないお父さんが歌の才能のある娘の喉を触っている状態で歌ってくれと頼む。
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そこでは無音状態ではなくてちゃんと音声が入った状況で歌が歌われるということになるんですね。
その辺の演出は僕はとてもいいと思いました。
あと今月の日本語教師ブッククラブと関係していることなので、これは手話についても色々勉強になるところがあります。
本当にすごくたくさん勉強になるところがあるんですけど、手話というか老和者ですよね。
老和者の文化、老和者の考え方についてとても勉強になるところがあるんですけど、
多分僕みたいに一般人、特に手話の研究とかしているわけでもない一般人から見ると驚くところが、
主人公のお母さんももちろん老和者なんですけど、
お母さんがこういうセリフを言うんですよ。
あなたが生まれた時に耳が聞こえることが分かって、毎日不安で泣いてばかりだったと言うんですね。
これも多分僕みたいに老和者の人たちとあまり関わりがない一般的な人間にとっては、
耳が聞こえて良かったというふうにお母さんは思うんじゃないかなと多分想像すると思うんですね。
僕はそこがとても意外だったんですよ。
普通の耳が聞こえる人にとっては、自分の娘が耳が聞こえたということは良いことだから喜ぶんじゃないかと思ったのに、
でもこのお母さんはですね、耳が聞こえない自分の娘が耳が聞こえるということが分かった時に不安で毎日泣いてばかりだったというふうに言うわけですね。
この辺はとても驚きました正直ね。
だけど今日はですね、今月はブッククラブがありますので、
こういう手話に老和者の人たちの生活についても色々勉強になるんですけど、
それについてはそちらの本の方に譲りたいと思います。
今日僕がちょっと申し上げたいことは、要するに教師の役割ということは何なんだろうということなんですね。
特に最初のあらすじのところにも言いましたけど、
音楽の先生がですね、この主人公の歌の才能に気が付くわけですね。
そこからはすごいエコヒーキーが始まるんですよ。
単に言うとエコヒーキー。
だけどエリート教育ということになるのかもしれませんけどね。
まずこれが一つここで言えるのは、
音楽みたいに最初から選択肢の一つとして勉強するものだからできるのかもしれない。
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これが例えば算数とかね、自分の国内の国語とかの授業だったら、
これがとても自分の人生のチャンスが開かれることにとても関係してくるので、
あんまりエコヒーキーとかはするべきではないと思うんですけど、
でも音楽だったら、別に音楽嫌いな人に無理やり音楽させなくてもいいわけですから、
音楽だから他の科目とは違うというのがあるかもしれないですね。
だけど少なくとも海外での第二言語としての日本語だったら、
できてもできなくてもそれほどあんまり意味はないわけですよね。
日本の国内だったら違いますよね。
日本の国内にわざわざ留学生が自分の人生をかけて日本に来て、
そして日本語学校で勉強しているときに、
あなたは才能があるからあなただけに特別に時間をかけてやりますということはやっちゃいけないと思うんですけど、
でも海外での第二言語の日本語教育とかだったら、
それほどそんなに真剣な人生に関わるほどの意味がないことが多いと思うので、
十分これでもいいんじゃないかなというふうに思います。
この音楽の先生と対照的に出てくるのがスペイン語の先生なんですね。
主人公はスペイン語の授業を受けているところもそういう描写があるんですけど、
スペイン語には全然興味もないし才能もないんですね、この主人公の女の子はね。
授業中に寝ているんですよ。
授業中に寝ているから、
その主人公に別に寝ているから、
スペイン語の先生は寝ているから起こすんですけど、
それでも全然やる気がないというのを話して、
わかったらもうさっさと帰れというふうに主人公に言うわけですね。
そして実際にその主人公の女の子は家に帰ってしまうわけです。
多分この映画の中で日本語教師に一番近い立場の人はこのスペイン語の先生ですよね。
同じ外国語の先生なわけですから。
その一方で音楽の先生がいるわけですね。
その音楽の先生はですね、
実はこの主人公は自分で音楽の才能があるなんてことは全然気がついてないんですよ。
だけどガブリエルというちょっと気になる男子がいて、
その男子が合唱部に入るから合唱部のオーディションを受けることになるという、
もう本当にそれだけだったんですね。
だけど同じ合唱を受けに来た親友の女の子のマチルダという同性の女の子の友達がいて、
そのマチルダに対して音楽の教師がお前は才能がないからだめだ、失格だというふうに言ったのを聞いて、
その主人公の女の子はもう辞める、このオーディションなんか受けないというふうに言うんですね。
だけどこの音楽の先生はその声で合格を決めるわけなんですよ。
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本人は辞めると言っていいのにお前は合格だと言って合格チームの方に無理やり入れてしまうわけですね。
練習をしている間にただ合格するだけではなくてもっと特別な才能があるということがわかって、
その才能に気がついてからは平日の夜も、週末も彼女のためにレッスンをするんですね。
これは僕が個人的にはそこまで入れ込んでやったことはないんですよね。
正直な話ね。教師にとってもすごい負担ですよね。
平日の夜とか週末もたった一人の、正確に言うともう一人のガブリエルというイケメン男子もいるんですけど、
その二人のために平日の夜とか週末にわざわざレッスンをするというのはちょっとなかなか教師としてもすごく大変なことですよね。
それをわざわざやるわけなんですよ。
相手にとってはちょっと迷惑がられているわけですね。それでもやるということなんですね。
ここで考えなければいけないのは、先生から見てみんなを平等に扱うべきなのかということなんですよ。
もしそうだとしたら、この主人公の人はスペイン語の先生からもっと注目をされるべきだし、
いやいやだけどもっとスペイン語を勉強させられるかもしれないですね。
でもその分音楽の先生からはあまり注目されなくなるということになりますよね。
もし教師の側がみんなに平等に注目するということになると、そういう結果になります。
それはその主人公のためになるのか、スペイン語の才能なんかもともとないし、もともと情熱すらない、
そういうところにやらされることに意味があるのかということですよね。
でもこういう話をすると、じゃあ何の才能もない人はどうすればいいのかということですよね。
スペイン語もできないし音楽の才能もない人、そういう人はどうすればいいのかというと、
それを考えるとまず一つはですね、やっぱり向き不向きがあるわけですよね、人間にはね。
なのでその向き不向きを自分で見つめて、一番、すごい天才ではないけど、
それでも自分の他の才能よりはここに向いているというのがわかったら、そこに情熱を傾けるべきだと思うし、
その情熱を教師も受け止めるべきだと思うんですよね。
その教師から見ると、それはこの映画に出てくるような才能がある人ではないけど、
だけどそんなに才能はないけどこの人は下手の横好きかもしれないけど、
少なくとも情熱を持って歌を歌おうとしているというね、
そういう人がいたら多分この主人公と同じように扱えばいいんじゃないかと思います。
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そういうことさえ考えればね、もともとその情熱すら持っていない人に対して無理やりやらそうというね、
そういうところに教師の側は時間をかけるべきではないんじゃないかなというふうに思いました。
ちょっとですね、これは本当に昨日ね、見たばっかりの映画なのであんまり考えもまとまっていないんですけど、
でもですね、まず第一に今月のですね、手話の話、老和者の文化ということについて勉強になるから、
今月の日本語教師ブッククラブと関係しているのでお勧めしたいと思いますし、
それから僕たちはね、多くの学習者にとってはスペイン語の教師と同じなんですよ。
そういうことがよくあるわけですよね。あんまり日本語に興味を持っていない人にも教えていたりするじゃないですか。
そういうときに身の程をわきまえて、そんなに無理やり私があなたの人生を変えるんだとかって別に思わなくてもいいので、
それよりはちゃんと情熱を持って向き合ってくれる学習者にリソースを割くべきなんじゃないかなというふうに僕は感じたので、
それについてちょっとお話をしてみたいと思いました。
今日は多分音声の問題であまりライブでは聞こえていないかもしれませんけど、
もしこの英霊を見てみたいという方がいらっしゃいましたら本当にお勧めしたいと思いますので、コメントをいただければと思います。
それでは本日もムラスペにご参加くださいまして、ありがとうございました。
今日のALで考える教師の役割という僕の話につきまして、ご感想とかコメントがありましたらぜひムラスペのハッシュタグ付きでご共有いただければと思います。
それでは今週も良い1週間をお過ごしください。そして冒険は続きます。