1. むらスペ
  2. AI時代のComprehensible output
2023-10-12 18:13

AI時代のComprehensible output

クラッシェンは Comprehensible Input の重要性を説きました。

スウェインは聞き手に理解してもらえる事が大事だとして、Comprehensible Output の重要性を説きました。

AI時代には自分でも理解できないことが発信できてしまうので、聞き手ではなく話して自身が理解できていること、つまり、話して自身の Comprehensible Output が大事なのではないかと思います。

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サマリー

AI時代のコンプリヘンシブルアウトプットについて、クラッシェンはコンプレヘンシブルインプットの概念に基づき、アウトプットの重要性について語っています。聞き手が理解できるアウトプットではなく、話す人自身が理解できるアウトプットが重要だと説明しました。

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冒険家のみなさん、おはようございまーす。
今日もですね、落雷に揺られて灼熱の砂漠を横断していらっしゃいますでしょうか。
本日は2023年の10月12日ですね。
インドでは午前8時45分を回ったところです。
今日もですね、Twitterの音声配信、むらスペを始めさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
ちょっと待ってくださいね。
今日はですね、AI時代のComprehensible outputっていうね、そういうタイトルでお話をしたいと思うんですけど、
まだですね、リスナーの方がいらっしゃってないので、最初にいくつかお知らせをしておきたいと思います。
まずですね、Zoomで鼻筋なんですけど、今週はですね、僕がですね、乾杯の温度で、
それで、Chromebookね、それについて皆さんに色々、特に使ったことがない人に対して、
ちょっとですね、ご説明でもしてみようかなというふうに思っております。
あと、鼻筋PDはですね、人手不足なのになぜ日本語教師の待遇は改善しないのか。
はい、これでディスカッション、皆さんとのご意見交換をしてみたいと思っています。
あとね、日本語教師映画パーティーはこれ来週の土曜日ですね。
今週じゃなくて来週の土曜日なんですけど、
ハラ、彼女、HERですね。世界で一つの彼女。
これ、AI、人工知能に恋をしてしまった男性の話なんですけどね。
もう今の時代にはこれとても面白いんじゃないかと思います。
なんとかフェニックス、ホワキン・フェニックスですね。
はい、彼が主演です。
あとね、確かあれとかも、名前がちょっとない。
はい、ちょっとね、そのOSの声を、顔は一貫も出てこないんですけど、
これ音声がね、すべて音声でやり取りするようなOSなんですよ。
OSっていうのは要するにオペレーションシステムですよね。
Windowsとか、クロームOSとかそういう。
で、そのOSがすべて声でユーザーとインターフェイスをするようになっていて、
なので顔は出てこないんですけど、声を、
スカーレット・ヨハンソン、確か彼女がやっていたと思いました。
あとね、日本語教師ブッククラブはビジネス日本語教え方&働き方ガイドですね。
この本は3人の方の著者がいらっしゃるんですけど、
そのうちの1人の小山さんが、再来週だったかな、
10月27日の乾杯の温度でお話しいただくことになっています。
じゃあですね、そろそろ本日の本題に入ってみたいと思うんですけど、
今日お話ししたいのは、AI時代のコンプリヘンシブルアウトプットということなんですね。
これを話そうと思ったのは、ある場所で日本語学習者の方のスピーチを見たんですけど、
そのスピーチが本当に何を言っているかさっぱりわからないという感じだったんですよ。
これは本当にこんなにわからないスピーチ、しかもそれなりの長さもあるんですよね。
5分くらいのスピーチだったんですけど、本当に最初から最後まで全然わからなくて、
結構僕にとっては衝撃的だったんですよ。
ここまでわけがわからないスピーチを聞いたのは初めてだったんですね。
一応それは日本語のイベントだったので、それが日本語であるということは定義からはわかったんですけど、
それがそういう場所ではなかったら、これが日本語であるかどうかも
僕にはわからなかったんじゃないかなという感じがしますね。
まず何でわからないのかというと、基本的には文の切れ目とかが全然ない棒読みなんですよね。
プロミネンスでしたっけ、どこが文の意味の核なのかもわからないんですよね。
多分明らかにこの人自分でもわかってないなという感じの話し方なんですよね。
休憩時間に本人と話をしてみたら、彼は本当に英語しか話せなくて、
日本語はまだ全然話せないという状況でした。
それでよくこのスピーチに出てくるなと正直な話、この国の強さだなと思ったんですけど、
少なくともご本人は全然日本語はまだ喋れないレベルだったわけですね。
あとから聞いてみたら、チャットGPTに書いてもらったということらしいです。
こういうことは本当によくあるんですよね、最近になってからね。
僕もここまでわからないのは本当に初めてだったんですけど、
似たような話はいろいろなところで報告されています。
例えばお別れの時にみんな元気でねというような感じで、
All the bestというような言葉を多分自動翻訳とかあるいはチャットGPTとかに入れて、
その結果がなぜかご冥福をお祈りしますと出ることがあるんですね。
それをそのままお別れのみんな元気でねというようなニュアンスのつもりで、
ご冥福をお祈りしますというふうに書いてしまう例というのも複数の場所で聞いています。
ご冥福をお祈りしますというのはもちろん人が死んだ時に言う言葉ですから、
誰も死んでないのにみんな元気でねというつもりでご冥福をお祈りしますと言ってしまうのは、
これはとても不吉でよくないことですよね。
みなさんもここで思い出してほしいんですけど、
そういうのを自分で理解できない原稿を棒読みしている学習者をね、
自分の教室とかあるいはイベントで見たことがあるでしょうか。
そういう時にご本人は理解できてないみたいだけどでも自分はわかるとかね、
そういうことがあったかどうかちょっと思い出してほしいんですけど、
多分本人もわかっていないような棒読みというのは相手にも伝わらないと思うんですよね。
今回のコンプレヘンシブルアウトプットという話のネタとしてはですね、
コンプレヘンシブルインプットとは
第二言語習得に興味のある人だったら多分誰でも聞いたことがあると思うんですけど、
クラッシェンというそういう人がいます。
クラッシェンの言ったことの一つにコンプレヘンシブルインプットというのがありますね。
つまり理解できるインプットというものです。
彼は理解できるインプットをたくさんしていけばアウトプットはしなくても第二言語は習得できるんだというふうに主張していたわけですね。
インプットだけ、見たり聞いたりするだけですぐに習得できるわけではないよと。
それはコンプレヘンシブルじゃないと、つまり理解できるレベルのインプットじゃなきゃいけないんですよということを言ったわけですよね。
つまり日本語のひらがなを勉強し始めたばっかりの人たちに、
例えば新聞記事渡してこれ読んでねとか、あるいはネイティブが早口でしゃべっている漫才とかそういうのを聞かせて、
じゃあこれたくさん聞いたら第二言語日本語習得できるからねって言ってもそれは無理なわけですよね。
なのでインプットはインプットでもそれが理解できるレベルじゃなきゃダメだと。
i プラス 1 っていうのもあって、自分のレベルより一段階だけ少しだけ難しいのだったらそこで新しい言語形式とかも身につけることができるので、
クラッシャンはコンプレヘンシブルインプットと一緒に i プラス 1 っていう言い方もしてるんですけど。
これに対しては少なくとも理解できるインプットの重要さということについては、
第二言語習得の世界ではかなり皆さんで合意が取れていることだと思います。
アウトプット仮説の提唱
ただしそれだけでいいのかっていうと、やっぱりアウトプットもした方がいいんじゃないですかっていうふうに言い始めたのが、
もう40年ぐらい前の話ですけどね。
メリル・スウェインという人がいます。
この人が確か1980年代の中頃ですよね。
1985年とかそのぐらいだったと思いますけど、アウトプット仮説というのを出しました。
その前にクラッシャンがインプット仮説というのを言っていたので、この理解できるインプットとかね、
それは大切ですよということ。
それをインプット仮説という名前で発表していたので、
それに対抗するような形でアウトプット仮説というのを出したわけですね。
もちろんこのアウトプット仮説はインプットいらないと言っているわけではないです。
アウトプットさえしていればインプットしなくてもいいですよというわけではなくて、
もちろんインプットの大切さは全くその通りなんだけど、
それよりもやっぱりアウトプットもちょっとはした方がより効果的なんじゃないですかというようなことを主張したわけですね。
ただですね、スウェーンはアウトプットさえしていれば何でもいいと言ったわけではないんですよ。
コンプリヘンシブルアウトプットの重要性
例えばさっき今日最初に申し上げたような、
わけのわからないことを大量にしゃべり続けていれば、
それが第二言語習得語につながるのかというとそうではないというふうに彼女は主張していたわけなんですね。
つまりそこで言ったのがちょっと今日のタイトルにもなっている
コンプリヘンシブルアウトプットということなんですね。
これね、コンプリヘンシブルインプットに比べると知名度はあんまりないんですけど、
だけど今日僕が言っているコンプリヘンシブルアウトプットというのは別に僕のオリジナルではなくて、
その前に一つの段階があったということですね。
それはどういうものかというと、
要するにこれは相手にとってですよね。
相手にとって理解してもらえるような、相手というのは聞き手ですよね。
聞き手が理解してくれる、そういうアウトプットじゃなければ、
これは第二言語習得としては意味がないということをメリル・スウェインさんは言ったわけです。
もちろんアウトプットとしていればそれはもちろん身につくんだけど、
相手が理解してくれないようなそういう言語形式とか、
そういうものをいくら身につけても、それはその後コミュニケーションできないわけですよね。
なので彼女はアウトプットなら何でもいいのではなくて、
コンプリヘンシブルな、つまり理解してもらえるアウトプットが重要ですということを言ったわけです。
ここで注意してほしいのは、
ここで理解するという、理解できるアウトプットの理解という動詞の主語は聞き手であるということです。
もちろんこの時代では、
自分で理解できないことをアウトプットするなんてことはできなかったわけですよね。
当然自分は理解できること、話しては理解できるけど聞き手は理解できない、そういうのじゃダメですよと。
話しては当然理解できるけど聞き手ももちろん理解してくれるような、
そういうアウトプットじゃなきゃダメですよと言ったわけですね。
ここまでは第2言語習得を勉強している人だったらわかると思うんですけど、
特に反対はないと思うんですね。別に僕がオリジナルで言っているわけではないんですが、
ここからはちょっと僕の個人的な意見なわけですが、
このAI時代ですよね。
AI時代には自分の言いたいことを、
DeepLとかChatGPTとかそういうもので出力できるようになっています。
出力っていうのはまさにアウトプットですよね。
そしてそれを自分の名前で発信できるようになっています。
これがソーシャルメディアの投稿とか、あるいは今日最初にご紹介したイベントのスピーチとかね。
これは実際に作っているのはChatGPTとかDeepLのようなソフトウェアなわけですけど、
でも自分の名前でこれを行うことができているので、
だから自分でアウトプットしていると、そういうふうに定義してみたいと思います。
だけどそこで大事なのは、それを自分でちゃんと理解しているかどうかということです。
もちろん全体としてはこういうことを言っているはずだということは理解できていると思うんですよね。
だけどそれを語彙レベル、一つ一つの言葉のレベルでちゃんと理解できているかどうかということですよね。
そういうことが理解できていないと、さっきのようにみんな元気でねっていうつもりで、
ご冥福をお祈りしますみたいな、そういう間違いが起きてしまうわけですよ。
でもご冥福というのが死んだ人の幸せ、天国での幸せとかそういうことが理解できていれば、
それがみんな元気でねっていうつもりでご冥福をお祈りしますなんていうことは避けられるわけですよね。
あともう一つは、やっぱり理解できていないことをただ読もうとすると、文の切れ目がわからないわけですよね。
なのでどうしても棒読みになっちゃうんですよ。
つまりその文のどこにプロミネンスという意味の核があるかが、それもわかっていないので、
本当に一本調子の棒読みにするしかないわけなんですね。
なのでそうすると意味の切れ目とその読み方の切れ目が合ってないんですね。
それがたぶん聞き手に全然理解してもらえない理由になるんじゃないかと思います。
本当に驚くほど理解できなかったですね、僕もね。
例えばコンピューターが自動読み上げできますよね。
あれだって別にプロミネンスとかはないんだけど、普通に理解できるじゃないですか。
だけどこの間のは本当に全然理解できなくてちょっとびっくりしました。
こういうことはですね、いくら自分で理解できていないアウトプットですよね。
話して自身が理解できていない、そういうアウトプット。
これはいくらやっても第二言語の習得にはつながらないんじゃないかと僕は思います。
まず自分でわかっていないわけですよね。
自分でわかっていないわけですから、それをいくらディープエルとかチャットGPTが書いてくれて、
それをいくら自分で目にしてそれを読んでも、
その段階はインプットですけど、でもコンプリヘンシブルインプットにはなってないわけですよね。
これはクラッシェンが言ってた一番最初のインプット仮説のところですね。
そういうところでまず問題がある。
かつスウェインが言ってたね、聞き手が理解できるかどうかっていう。
そこでもその段階でも、さっきも言ったようにその言い方、
棒読みになってしまって全然つながらないので、聞き手にも理解していない。
そういう意味でコンプリヘンシブルアウトプットにもなっていないわけなんですね。
そういう状況でこのAI時代がやってきているわけです。
アウトプットの意味と第二言語習得
自動翻訳とか、あるいはAIの時代にはこうやって自分で理解できない言語、
自分で理解できない表現でもアウトプットできるようになってしまいました。
いい意味でも悪い意味でもね。
これはモチベーションの上では役に立つかもしれませんけど、
でも第二言語の習得としては意味がないんじゃないかと、
僕は今日説明したような意味で、第二言語習得としては意味がないんじゃないかと思っています。
ですからね、このAI時代のコンプリヘンシブルアウトプットっていうのは、
聞き手が理解できるかどうかではなくて、話して自身が理解できているかどうか。
そこが大事になってくると思うわけですね。
なので、話し手が自分で理解できるものだけをアウトプットするようにしましょう。
というのが今日の僕の言いたいことでした。
それでは本日もムラスペにご参加くださいまして、ありがとうございました。
今日のAI時代のコンプリヘンシブルアウトプットについて、
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それでは本日も良い一日をお過ごしください。
そして冒険は続きます。
18:13

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