1. 二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜
  2. #58 世界最強企業、最大の経営..
2025-04-16 36:09

#58 世界最強企業、最大の経営危機。不死鳥が如きその復活劇。トヨタ自動車創業者・豊田喜一郎編⑦

▼今回のトーク内容: 

1945年8月、終戦/喜一郎の新方針発表/軍需の終了/衣食住なら需要はある/トヨタ自動車、瀬戸物を作ります/竹輪を生産/電気コンロ、プレハブ住宅も手掛ける/喜一郎の息子・章一郎登場/GHQからトラック製造は許可/乗用車研究は継続/1945年12月/No.2赤井久義、交通事故で死去/喜一郎が頼ったのは東大時代の同級生/隈部一雄を招聘/1947年、初の小型自動車発売/焦土と化した日本では全く売れない/経営悪化/労使対立/大量生産も国民はお金がない/自動車ローン誕生/月賦でキャッシュフロー悪化/銀行団を頼る/販売会社を分離独立/社長は神谷正太郎に/経営再建へ人員削減も迫られる/会社の解散か人員整理か/全面ストへ突入/1950年、最大のピンチ/喜一郎ら経営陣、総退陣/豊田自動織機製作所の石田退三に託される/「私も豊田の番頭です」/喜一郎とは正反対の経営/伝説の社内演説/朝鮮戦争勃発/日本は米の補給基地に/トラック需要が爆上がり/トヨタ自動車蘇る/石田は無駄な出費・増員をせず/余剰金で新生産体制を整備/石田、喜一郎に「私の役割は終わりました。帰ってきて下さい」/1952年、喜一郎復帰を決意/そんな中、豊田喜一郎、脳溢血で突然の死去/石田体制で初の大型車「トヨタ・クラウン」誕生/豊田喜一郎の思い、夢は後世へ

▼番組概要:

COOや副社長などの「組織のNo.2」。その仕事をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、仕事の面白さ・大変さなど「No.2の悲喜こもごも」を語っていく番組。製造業に特化したコンサルティング企業、オーツー・パートナーズ取締役の勝見靖英と、幻冬舎「あたらしい経済」編集長の設楽悠介がMCを務める。毎週水曜日配信。

▼番組ハッシュタグ:#二番経営

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▼過去配信回をシリーズ別でプレイリスト化しております:

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▼MC:

勝見 靖英(株式会社オーツー・パートナーズ 取締役)

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://www.o2-inc.com/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

1971年生。慶應義塾大学文学部卒。ジャパンエナジー(現ENEOS株式会社)、PwC、デロイトトーマツコンサルティング、日本IBMなどを経て、2015年7月よりオーツー・パートナーズに参画、2018年4月より取締役。製造業を対象とした戦略策定、業務改革、ERP/PLM等大規模システム導入等のプロジェクトを多数経験。プロジェクトマネジメント、チェンジマネジメントを得意とし、現在は経営企画/会計/人事総務/組織開発/IT/マーケティング広報等を管掌。

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://www.o2-inc.com/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

設楽 悠介(幻冬舎「あたらしい経済」編集長)

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/ysksdr⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

1979年生。明治学院大学法学部卒。マイナビを経て幻冬舎に。同社でコンテンツビジネス局を立ち上げ。電子書籍、コンテンツマーケティングなど新規事業担当。2018年にブロックチェーン/暗号資産専門メディア「あたらしい経済」を創刊。幻冬舎コミックスの取締役を兼務。「Fukuoka Blockchain Alliance」ボードメンバー。ポッドキャスターとして、Amazon Audible original番組「みんなのメンタールーム」や、SpotifyやAppleにてWeb3専門番組「EXODUS」など配信。著書に『畳み人という選択』(プレジデント社)。

▼ディレクター:

関岡 憲彦

▼プロデューサー:

野村 高文 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/nmrtkfm⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼制作:

Podcast Studio Chronicle ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://chronicle-inc.net/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼カバーデザイン:

松嶋 こよみ ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/

サマリー

豊田喜一郎の経営危機を乗り越えるための奮闘が描かれています。終戦直後、トヨタ自動車工業は新たな事業展開を考え、多様な製品を生産しながら、GHQとの交渉や労働組合の問題にも直面しています。トヨタ自動車は経営危機に直面し、資金調達のために販売と生産の会社を分離させる決断をします。石田大蔵が新社長に就任し、経営再建の道を模索しています。彼は豊田喜一郎の思想とは対立しながらも、株主や社員との信頼関係を築き上げ、会社の未来を切り開いています。トヨタ自動車の経営危機を乗り越え、復活の道を歩む過程が描かれています。特に、朝鮮戦争中の特需が経営を劇的に好転させ、石田大蔵社長の巧みな経営判断が重要な役割を果たしていますが、創業者・豊田喜一郎の復帰が果たせなかったことが物語の核心にあります。トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎の物語とその復活劇が描かれ、企業の成長過程と日本の産業の変遷についての洞察が提供されています。

00:01
スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも、この番組では、なかなか表に出ない組織の二番 No.2をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツーパートナーズ、取締役の勝宮すいでです。
スピーカー 2
検討者新しい経済、編集長のしだれゆうすけです。
二番経営第58回、今回はトヨタ自動車創業者、豊田喜一郎編のついに最終回となります。勝宮さん、よろしくお願いします。
スピーカー 1
よろしくお願いします。
この最終回をお話しするために、これまでもう11話ぐらいやってるじゃないか。
スピーカー 2
いやー、すごい、素晴らしいですよ。
スピーカー 1
長すぎて、ほんとすいませんなんです。
いいえ、いいえ。
今日全部つなげていきたいと思います。
はい。
前回はですね、戦中のトヨタ自動車工業どうだったかということで、いろんなエピソードも入れながらですね、過去出てきた人たちがつながったりっていうのがあったと思います。
はい、ありました。
終戦直後のトヨタの挑戦
スピーカー 1
今日はですね、戦争が終わった直後、終戦をした1945年からどうだったかというお話をしていきたいと思います。
1945年終戦を迎えるこの時、喜一郎さん51歳。
戦争が終わったその瞬間、玉音放送の時には喜一郎さん、実は東京の自宅にいた状態だったそうなんですけども、
トヨタ自動車工業の現場にいなかったんですね。
現場では赤井副社長が社員たちを、マネジメントたちを鼓舞するような演説をして、これから頑張ろうというふうに言ったという記録が残っています。
なるほど。
トヨタの方に戻ってですね、そこで改めて終戦直後に喜一郎さんから発表した警報信というのがあります。
この時にもですね、分析がもう炸裂していくわけですけども、これまで軍事産業指定の自動車会社でやってきましたと。
軍事産業で戦争終わっちゃったのでおそらく創業が認められないだろうと喜一郎さんは考えたんですね。
なるほど。
じゃあ、止められないものって何なのかというふうに考えて、異色獣に関する仕事だったらOKだろうというふうに判断した。
異色獣、異類はトヨタ防衛省の方でやっています。
この時に指示を出したのが、ちょっともうにわかに信じられないんですけど、
トヨタ自動車工業でこれやりますって言ったこと、一つ目瀬戸物を作ります。
お茶碗とかそういうやつですね。
苦境を乗り越えるための経営戦略
スピーカー 1
で、なんでこれ出てきたかわかんないですけど、ちくわを作ります。
スピーカー 2
ほう。
スピーカー 1
ちくわですよ。
スピーカー 2
食べるちくわですよね。食べ物のちくわを。
スピーカー 1
はい。
スピーカー 2
トヨタさんのちくわって。
スピーカー 1
はーって感じなんですけど、あとね、土壌の養殖のための事業家を研究します。
スピーカー 2
へー、なるほど。
スピーカー 1
あと、鍋とか釜、そういったものを作ります。
あとですね、こっからなんかメーカーっぽくなるんですけど、電気アイロン作ります。
うん。
電気コンロを作ります。あとついでにプレハブ住宅も作ります。
スピーカー 2
これ重要ありそうだな、戦後。
スピーカー 1
重要ありそうですよね。
まあちょっと最初のちくわとか瀬戸物は首をひねるんですけれども、
そうですね、うん。
ちょっと謎すぎるんですけれども、まあ多分お酒飲んで考えてたことも含まれてるのかもしれないですけども、
スピーカー 2
もしくはあのなんか棒に刺して回すのがなんかやっぱ機械的にいいのかもわかんないですけど。
スピーカー 1
さすがですね。いやまさに。
え、そうなんですか。
これ出てきます。実はですね、そういうこう異色種に関係することをやりますよと、
自動車はおそらく作れないからっていうふうに始めて、で指示を出すんですけども、
その時にですね、キイチロウさんには長男がいたんですね。
前回ぐらいからトヨタ英二さんという方が出てきたと思うんですけど、
トヨタ英二さんはキイチロウさんのいとこにあたります。
キイチロウさんにもお子さんがいて、その方お名前ショウイチロウさんと言います。
皆さんがご存知のトヨタアキオ会長のお父さんですね、ショウイチロウさんは。
この時はもう大学出たて、23歳ぐらいだったと思いますけども、
ショウイチロウさん、トヨタ実行にいたわけですけども、キイチロウさん指示出します。
ちくわ作りの修行してこいって言うんですよ。
あれすごいですね。
自分の長男ですよ。
すごいですね。
よりによって電気コンロ開発しろとかじゃないんですよ。
ちくわ作ってこいって言うんですよね。
スピーカー 2
面白いですね。
スピーカー 1
でもショウイチロウさんもすごいですよ。
ちくわ作りの修行をした後ですね、ちくわ作り機って作るんですよ、そこで。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
さっきのシェラさんの発言と繋がるんですけど、ショウイチロウさん作っちゃうんですよね。
で、もうちくわの修行終わりましたと。
ちくわ作り機も考案してもうできるようになりましたって言ったんです。
じゃあ今度はプレハブ住宅行けって言って、
プレハブ住宅を作るためのコンクリートを作る会社っていうのがあったんですけども、
そこにですね、ショウイチロウさんは入社をします。
この先コンクリートひたすら作る会社の人に、ショウイチロウさんはなって。
ここで話終了です。
もうなんかちょっととんでもばらすぎてびっくりなんですけれども、
それが修繕直後ですね、8月の15日に修繕を迎えて、
その後立て続けになったと今申し上げたことに着手を始めました。
で、豊田自動車工業はですね、9月の下旬にですね、
その時には鍋かまとか農業用の工具ですとか家電製品っていうのはずっと作ってたんですけども、
GHQから戦後復興のためにトラックは作っていいよっていうふうに許可をされたと。
なんでもう待望のやっぱ自動車作れるっていうことでトラックから作りました。
常用車の方は出自貧じゃないからということだったんですけど、
ただ試作を作ってもいいよとは言われていたので、
常用車の研究は続けるということをしていました。
なのでこの時はですね、電気コンロも作んなきゃいけないし、
宿泊づくりの会社もコンクリートの会社もある中でトラックを作るということで、
豊田グループも大忙しの状況です。
スピーカー 2
総合メーカーを超えてる。
スピーカー 1
総合メーカーなんですよね。
キイチローさんはGHQに対してですね、
1日も早く自動車の生産、常用車の生産を再開できるようにGHQの対策っていうんですかね、
そこの対応にずっと追われます。
で、豊田自動車工業本体の経営っていうのは前回から出てきてます。
副社長の赤井さん、優秀な経営者、この方がぶん回している感じですね。
生産現場の方はどうかっていうと、
キイチローさんの一徒この豊田英二さん、この時32歳ですけれども、
英二さん他ですね、信頼できる技術者に任せていて、
生産の現場、それから経営というところでうまく回っていたところです。
変革と逆境の中の発展
スピーカー 1
ところがこの1945年終戦直後の12月にですね、
この赤井副社長急に交通事故で亡くなります。
もうこの方頼りで経営回していたところでですね、
急にこの赤井さんが亡くなると。
これが1941年に副社長に就任して、
45年に交通事故で不良の事故でですね、亡くなるという、
4年間しかいらっしゃらなかったので、
おそらくいろんな記録に残っていないと思うんですけども、
これもう豊田自動車工業っていうのは、
本当にかけがえのない経営者を失うということになります。
でも紀一郎さんは国との対応、GHQとの対応をし続けなくてはいけないということで、
本体の経営を任す人材が必要になります。
その時に紀一郎さんが頼ったのはですね、
東京大学時代の同級生に頼ったんですね。
同級生、東京大学の工学部の教授をしていた熊部和夫先生。
先生というか同級生だったんで熊部君とでもいていたんじゃないかと思うんですけども、
日頃情報収集をして婚姻にしていた熊部先生。
その方をですね、豊田自動車工業の常務として招聘をして、
経営を任せるというふうな役割を果たします。
この熊部さんっていうのは、どんな研究をしてたかというよりも、
ずっと前のですね、紀一郎さんの学生時代の話で、
お屋敷町を歩いてた時に、
なんかこういうのがあるからヒミンクスがあるんだって言ってたところで、
違うっていう大演説を送ったっていうエピソードを話しましたけど、
それをですね、35年後にですね、解像度高く話してくれたのがこの熊部和夫教授だったんですけども、
そういう東京大学の先生が入ってきました。
学者としてめちゃくちゃ優秀な先生だったんですね。
だから頼ったんですけども、ただ企業経営はほとんどやったことないっていうことで。
なんでこう紀一郎さんこの人に頼んだのかっていうのの疑問はずっと残り続けているんですけども、
ただ学生時代からの信頼できる友人、かつ非常に優秀な方ということでお願いしたんだと思います。
その時にはですね、会社がもういろんなことで忙しい状況だったんですけども、
さあこれはホンダもパナソニックも同じようなことがあったんですけども、
この頃にですね、じゃあ労働組合っていうのが会社の中で設立された時にあたるんですけれども、
労働組合ができるってことは当然労働者側が正当な権利を求めてですね、
会社に意見を言えるという状況になって、それはそれでいいことだと思うんですけども、
それが過渡に進むと、労使関係っていうのが非常にささくれだってきてですね、
難しいという状況も当然出てきます。
会社の業績悪い時には特にそういうことが起きます。
まさにその最中にいた時に副社長赤井さんが亡くなってですね、
熊部さんが常務に就任されたというふうになりますね。
いろいろ大変な時にもですね、乗用車の研究開発を進めて、
1947年にトヨタ自動車工業初めての小型車、
トヨペットSA型乗用車っていうのを開発して販売することになります。
もともと言ってた大型車ではなくて小型車を作ったわけですね。
最初この辺からだったら売れるだろうと思ったんですけども、
まあこれが売れないわけです。
スピーカー 2
そうなんですね。
スピーカー 1
はい、全然売れない。
なんで売れないか。
もうそりゃそうですね、日本ってもう小土と貸してるわけです。
スピーカー 2
まあそうか、そうですよね。
スピーカー 1
米もないわけですよ。
スピーカー 2
車買おうと。
スピーカー 1
車なんかとても。
スピーカー 2
ちくわの方がやっぱり売れる時代ですよね。
スピーカー 1
おっしゃる通り。
なのでここはもう木一郎さんの優秀なのがですね、
バグってるところだったと思うんですけども、
当然全然売れないと。
で売れないさなかで1949年にですね、
常用車の大量生産を許されるというところになって、
まあ小型車は売れなかったんですけども、
生産をバンバカ始めましたと。
でもやっぱり売れないんですよね。
そんなに1949年でも国はまだそんなに余裕はない状況でしたということで、
この不況ですね、戦後の不況、金融難っていうのが影響して、
そういった自動車工業の経営はもうみるみるまに悪化していくという状況になりました。
労働組合も力を持って老子がですね、激しく対立するという状況になりました。
とにかくお金がなくなっちゃったんですね。
お金がない、でも自動車大量に作っちゃったと。
これどうすると、置いておくわけにもいかないわけですよね。
経営危機と資金調達の戦略
スピーカー 1
だから売らなきゃいけない。
でも買う人お金がないと。
どうするかと。
お金がないときに高額なものを買うときに、今でもあると思うんですけども、
自動車ローンってありますよね。
分割で売っていくと。
買った人好きにいくらお支払いすればこれ買っていただけますよというのがあると思うんですけども、
それをこの1949年に始めます。
することで大量に作ってしまって全然売れなかった自動車が売れるようになるわけですけども、
これGEPって今みたいに間に金融会社が入るわけじゃないので、
売りますと。
自動車って当然コストかかってるわけですよね。
何百万か今の金額でいうとかかるわけですけども、
当時はですね、それGEPですから、
それが何年かかかんないとその分のお金って返ってこないわけです。
100台売ってもその分の代金かかるまでに何年も何ヶ月もかかっちゃう。
いうところまで考えてGEP販売始めればよかったんですけども、
とにかく吐かなきゃっていうところでなっちゃったので、
キャッシュフローがどんどんどんどん悪化していくわけですね。
そうすると金融機関に行って運転資金を調達するという話になるわけですけれども、
本当にお金を出して回収できるのかっていうふうに金融機関は疑いが生じます。
一方でこの時のトヨタ自動車工業っていうのは、
愛知県内もそうですし、
日本にかなり自動車産業の裾野を広げていたので、
トヨタ自動車工業が経営破綻すると、
当時の日本への打撃っていうのもえげつないというふうにも考える。
今でもそういう話ってありますけれども、
やっぱあったのでこれ潰してはならないと。
でもここでお金を出して本当にいいものなのかっていうことを考えるわけですね、
お金融機関側が。
そこで考えたのはお金が必要なのは、
ユーザーさんたち、お客さんが月付で買う、ローンで買うときのお金ですよね。
つまりこれは販売する部分でかかるお金っていうことですよねということで、
だとしたらトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売、
これを2つに分けなさいと。
販売会社と生産の会社分けてください。
で、販売会社のほうに銀行団はお金を貸します。
それで問題ないですよねっていうふうなスキームを言われるわけですね。
これでやむなくなんですけども、
販売会社を分離独立させることになります。
このときにその販売会社の社長になったのが上谷翔太郎さん。
戦時下に日産系のディーラーに声をかけまくってた人ですね。
元日本GMの広報部長の方です。
この人がトップになるんですね。
で、お金を調達できたと。
今のトヨタ自動車さんは生販が合体した状態なんですけども、
この後ですね、上谷さんが生きてる間に再統合っていうのは行われなかったぐらい、
生販の分離がずっと続いちゃうっていう、また別の歴史もあるんですけども、
このときには何とか分けてお金を借りれるようになりそうな状況でしたと。
新社長の登場と試練
スピーカー 1
ただそれだけでは経営が再建できないですよね。
なぜならば御社は老司官で揉めてますよね。
経営を再建するためにはリストラが必要なんじゃないですか。
当時リストラと言わずに人員削減という言葉だったと思うんですけども、
これしか生産しなくても済むっていうところで今過剰な人員を抱えていますよね、
というのを金融機関に突きつけられます。
そうすると削減される方には申し訳ないけれども、
会社が生き残るためにということで大なたを振るっていう、
経営者は絶対にやりたくない仕事ではありますけども、
やらなきゃいけないという状況はあると思うんですけども、
実はこの1年ぐらい前に熊部さん、東京大学から来た熊部常務、
この熊部さんが老司官協議の中に
人員削減は一切しないっていう覚書を締結しちゃってたんです。
それを会社の常務がサインして、
人員削減はしない、リストラはしないっていうことを約束しちゃったもんだから、
金融機関から言われた経済検索というのを実行できない。
もうまずいんですよ、まさに。
それがずるずるずるずるずるきちゃって、
どんどんどんどんどん自利品になってくると。
もう最終手段でですね、
人員削減するか会社を解散するしかないという段になって、
熊部さんが覚書を結んじゃったんですけども、
木一郎さんが出てってですね、
もう人員整理をさせてくださいと。
このままだと会社解散するしかないです。
皆さんごめんなさいと言うに行って、
人員整理をすることにしました。
そしたらですね、もう労働者当然黙ってないですよね。
もう全面ストライキに突入ということで、
会社の機能が一気に停止すると。
銀行も本当に金貸していいのかどうか。
っていうか、この経営陣大丈夫なの?
っていう風になるわけですね。
スピーカー 2
かなりピンチじゃないですか、これ。
スピーカー 1
一番ピンチだよね。
あのトヨタ自動車がですね、
経営で一番ピンチだったのがこの1950年なんですけど、
この時が一番のピンチ。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
そしてストライキに突入していた、
この運命の1950年になるわけですけども、
もう会社の経営など経営陣にノーと金融機関に言われてます。
労働者からもノーと言われていました。
そこでですね、トヨタ・キイチロウさん、
当時56歳です。
そしてリサブローさんグループの組織66歳を始めとするですね、
首脳陣が全員総辞職をするという決断をしました。
首脳陣が契約家の責任を取って総辞職をします。
じゃあその後誰が継ぐのかというところになるわけですね。
こういう会社経営団するときの金融機関から
社長が来て再建をしてっていうのはよくあると思います。
その時にリサブローさんとキイチロウさんは一生懸命考えたんだと思います。
外の人間を置くわけにはいかない。
でも中の人間だとなかなか納得もしてくれないだろう。
どうするか。
中のトヨタ自動食器製作所で社長だった石田大蔵さんに託そうということになります。
この時石田大蔵さんは62歳です。
自動食器製作所のトップだったんですけども、
この時に石田さんはまず故事するわけですね。
お断りしますと。
私の出番ではないですというふうに言ったんですけども、
もうそういう次元じゃない。
あなたしかいないんだ。選択肢がないんだ。
もう最後石田大蔵さんは分かりました。
私もトヨタの番頭です。
引き受けましょうって言って引き受けました。
こんな感じになります。
この時の私もトヨタの番頭ですっていう言葉がですね、
残ってトヨタの大番頭石田大蔵ということで本も出てますし、
この後も語り継がれるということになるんですけども、
その金融機関から迫られて、
トヨタグループのファミリーだと許されないという人なんだけど、
なんでこの石田大蔵さん、これ金融機関もOKと言ったわけですけども、
なんでだったかというと、
実はですね、石田大蔵さん、木一郎さんと真反対の人間と。
これまでですね、自動車の事業をストップをかけるとか、
スピーカー 2
反対してました。
スピーカー 1
もう道楽やってるんじゃないよって反対してた、
一番急先鋒がこの石田大蔵さん。
だからそういう意味で仲の人なんですけども、
木一郎さんのもう半分反対があるというですね、
トヨタリサブローさんはトヨタグループを守るという責任を持っていたんですけども、
やっぱり身内にもなっている木一郎さんの思いも棘差したいということもあったので、
このリサブローさんからも石田大蔵さんというのは実は遠ざけられてたんですね。
でも木一郎さんとも全然離さないと。
この石田大蔵さんというのは実は木一郎さんにも、
リサブローさんとは実は東映の親戚なんですけども、
この二人とは全然親近感もなくてですね、
石田大蔵さんが好きだったのはトヨタ佐吉さんだけなんですね。
それから自分が好きだったというか敬愛してたのは佐吉さんと、
もう一人、児玉一蔵さんという昔会った当面の創業者ですね。
リサブローさんの実の兄にもなるんですけども、
児玉一蔵さん、この二人だけ。
この二人も1930年に一緒になくなっちゃっているので、
この時一番石田大蔵さんのショックを受けていたわけですけども、
いずれにしてもこの二人とはちょっと遠い存在だったというところです。
遠いってことはこの豊田財閥っていう、
田舎財閥って言葉がよく出てくるんですけども、
その中で結構暴流の人だったんですね、石田大蔵さんっていうのは。
優秀だけど主流ではない、反主流派みたいなところで置かれていました。
その石田大蔵さんなんですけども、
社長を務めていた豊田自動食器っていうのは、
木一郎さんが工具をちゃんと隠しておきなさいって言われて、
戦後、爆速で急に立ち上がったために工業積でめちゃくちゃ儲かってたんですね。
儲かっていて、かつ豊田自動食器でも労働葬儀っていうのが起きていたんですけども、
信頼関係の構築
スピーカー 1
この石田大蔵さんっていうのも本当に込み力が抜群の人で、
一級の勝者マンでも手札もあるし、なんせもう62歳ですからね。
人生経験も豊富もすごい商売に出したので、
労使間の協議っていうのもうまく乗り切ってですね、
その手腕っていうのを銀行団がめちゃめちゃ評価していたと。
健全な経営もできると。
労使関係もうまくやることができる。
かつ豊田ファミリーと一定の距離があるということで、
ギリギリの妥協の人材としての敵人だったのがこの石田大蔵さんだったと。
一番離れた人というところがあるので、
どっちかというと木一郎さんと相対する、反対派って感じなんですけども、
この石田大蔵さんが社長になりますというのが決まる。
その前にですね、株主総会でこの石田大蔵さんっていうのが演説をされます。
不祥石田大蔵をもって文骨細心会社の業績貢献に努め、
関係閣議のご期待に沿いたいと念願いたします。
さてそのご期待に沿いました、
暁には再び会社の産みの親であり育ての親であった豊田木一郎さんを始め、
改めて社長にお迎えいたしたき所存で、
特にこの段前もって皆さんにもご承知おきいただきたいと思います。
という大演説をぶっ潰すんですね。
ピンチ一体あります。
でも木一郎さんに必ず戻しますっていうのを一番最初に宣言したんですね。
この話を従業員にもするんですね。
これでなんかもうみんな、
まあ言ってみれば木一郎さんちょっとね、
コミュ障とかいろいろあるんですけども、
その人に惚れて集まった感じなんですよね。
それの敵なわけですよね。
敵がボーンと頭に来ると。
ちょっと反目しそうじゃないですか。
この演説でみんなやられるんですよね。
スピーカー 2
すごいな。かっこいいなこれ。
スピーカー 1
かっこいいんですよね。
それぐらい老練っていう言葉で言ってはいけないのかもしれないですけども、
人の心を動かすことができる石田大蔵さんの、
トヨタ自動車の危機と特需
スピーカー 1
単力、経営力、人格者っていうところが出てくる感じになります。
このトップ石田大蔵さん、
それからその時にですね、銀行出身で中川不況さんという方も首脳陣に入って、
そこの中にですね、そのベテラン役員に続いて、
豊田英二さんがですね、工場を見ていた豊田英二さんというのもこの会社に残っていますので、
豊田英二さんが会社のナンバーフォーとして製造部門のトップとしてこの経営が行われます。
ここで石田大蔵さん、豊田英二ラインっていうのができるんですね。
経営は石田大蔵さん、技術、製造は豊田英二さんで経営が行われることになります。
これで何かじゃあここから何年もかけて、
豊田自動車再建の道が始まるのであるっていう感じになりそうなんですけども、
ここがですね、キイチローさんの不幸なところなんですけども、
キイチローさんはじめみんな掃除職をしました。
石田大蔵さんが感動するような演説をぶちました。
その直後1950年、朝鮮戦争が始まります。
朝鮮戦争っていうのは朝鮮半島南北分かれて戦うわけですけども、
アメリカが韓国側に入って戦うわけですよね。
日本は参戦しなかったですけども、
アメリカの補給基地になりましたので、
そこにどんどんどんどん需要が生じて、
パナソニック、松下もそうだったんですけども、
そこでですね、景気がもう爆上がりになってきます。
で、豊田自動車作ってるのは軍用トラックの注文っていうのが入ってくるわけですね、
アメリカは戦争してますから。
そこでそのトラックの注文が当時の金額で36億円。
今だといくらでしょうか、もう3,600億ぐらいですかね。
そうです。それが一気に入るんですよ。
木一郎さん辞めた数日後ぐらいのことですよ。
なんで辞めることになったのか、
元を正せば設備投資しすぎちゃって、
会社儲かんなくなっちゃって、お金なくなっちゃったからだったわけですよね。
それが朝鮮駅のこの特需でですね、
いきなり36億飛び込んできましたので、
経営一気に好転します。
石田大蔵の経営手腕
スピーカー 1
もう一瞬で蘇っちゃったみたいな。
石田大蔵さん仕事する前にもう蘇っちゃったみたいな感じになるわけです。
これで蘇ったね、だったんですけども、
これだとただの石田大蔵さんラッキーなおじさんということになっちゃうんです。
もうこれだけで終わんないんですね。
やっぱり石田さんすごくってですね、
経営手腕が際立ってて、
36億の仕事が入ってきたらですね、
会社フル創業して設備増強もしそうな感じなんですけども、
人も増やす。
その前にリストラちょっとやってますからね。
でも石田大蔵さんはもう安易な増員しなかったんですよ。
今ある人員をフル活用しながら、
配置転換しながら何とかやりくりをしてですね、
無駄な出費増員をしないで、
今の設備をフルに活用して、
この36億のオーダーを遂げ続けたんですね。
それをこなしてですね、
会社にキャッシュの余裕を作って、
もうトヨタグループの今シンボルになった
No.4のトヨタ英二さんに指示を出します。
設備の近代化計画を作りなさい。
5年間でどういう設備を作っていけばいいのか、
君が考えるなという指示を出して、
そこで計画を作らせて、
そこに多額の投資をしていくという感じになるんですね。
この話がなかったら、
ただのラッキーおじさんで終わっていたところなんですけども、
ここがもう経営者として脱熱した指示を出していきます。
そこの投資っていうのもこの後にずっと効いてくるんですね。
この時に本当に石田大蔵さんがこう思ったんだって
言ったわけじゃないかもしれないんですけども、
石田大蔵さんが唯一トヨタ県の中で経営していた創業者、
トヨタ佐吉さんから言われた言葉で、
お前は商売人だろうと。
商売人なら金稼げと。
金稼いでお国のためにわしら発明家を助けろって言われた
っていうエピソードがあるんですけども、
それをまさにやってるんですね。
36億も最大限に稼いで利益を残して、
その佐吉さんの末裔になるわけですね、栄二さんも。
そこにもう俺はビットするよというのをやってのけたっていう感じ。
これがですね、本当1950年、51年に行われたことで、
ようやく会社がもう勝って落ち着いたと言っても、
会社の経営を安定させて1952年、
罵倒を受け継いで約2年経ったところですけれども、
この前退任した後、
木一郎さんはもう最初数日間塞ぎ込んでたんですね。
自分の人生をかけた命をかけた自動車の仕事から離れられたんですけども、
ただまあ新規事業の構想なんかをして、東京でひっそりとですね、
新しいことこういうことをやろうかなっていうのを考えていた矢先。
1952年にですね、トヨタ木一郎さんの元石田社長が訪れます。
そこで頭を下げるんですね。
トヨタの再建は成功し、私の役割は終わりました。
どうか帰ってきてください。全社員の願いです。
あなたの手で世界一の。
スピーカー 2
ダメだ怖いよね。
スピーカー 1
あなたの手で世界一の車を作ってください。
言ってですね、ちょっともうない。
本当に約束通り。
来たんですよね。木一郎さんも言ってもですね、
もう自分は気持ちの整理をして新しいことをやろうと思っているので、
断ろうというふうに思ってたらしいんですけども、
石田大蔵さんが真剣な顔をしてずっと見ながらですね、
訴え続けるというところで最後はもうありがとう石田さん、
私は喜んで帰らせていただきます。
というふうに言って無事、トヨタ木一郎さんの復帰が決まります。
これが1952年の2月。
翌3月ですね、木一郎さんは復帰の準備を始めます。
自宅でですね、自分の解雇録を書いてらっしゃったんですけど、
その日も書いていて、もう戻るぞという時にですね、
木一郎さんの一血で倒れます。
3月27日、そのまま木一郎さんは57歳の生涯を終えます。
スピーカー 2
うわー、そこはそうなんですね。
豊田喜一郎の未練
スピーカー 2
結局復帰できなかったんだ。
スピーカー 1
ちょっともう突然の死なんです。
スピーカー 2
いやー、これはすごい。
スピーカー 1
1950年に会社は復活していました。
でもその後2年ぐらいかけてようやく木一郎さんを迎えに行ったわけですけれども、
先ほどのセリフの中でですね、
前者への願いですっていうような話の時にはちょっと触れなかったんですけど、
この2年っていうのはただぼやっとしてたわけじゃなくて、
木一郎さんが作りたかったのは大型車。
トヨタ自動車は大型車を作ったことがなくて、
その大型車を作れるような設備ですとか体制までしっかりと作ってですね、
これで石田大造さんはバトンを戻したいっていうふうに思っていたんですね。
スピーカー 2
じならしをした上で、売上的にはだってすぐ回復したんだけど、
スピーカー 1
キャッシュフローも改善しましたので全く問題なかったわけです。
木一郎さんに戻ってくださいと。
で、あなたので世界一の車を作ってください。
あなたの作りたい車を作ってくださいっていうふうに言ったのは、
その大型車、木一郎さんやりたかったですよね。
こっからです、もう思う存分やってくださいって言って、
初めてトヨタグループの中でも敵対関係あった2人が、
実は一番石田大造さんがこのトップの思いを持ってつないでくれたって感じなんですよね。
スピーカー 2
かっこいいなあ。
スピーカー 1
かっこいいですよね。
でもそれが57歳で若すぎる生涯を閉じてしまったと。
スピーカー 2
でもなんかわからないですけど、結局実現はできなかったものの、
最後石田さんからのこの話があって復帰しますっていうところで不幸ですけれども、
その後でなんか良かったなっていう気もしなくないですね。
逆に数ヶ月前だったら、もやもやした状況だったわけじゃないですか。
スピーカー 1
そうですね。そこになんか気持ちがつながってる感ありますよね。
キイチロウさん亡くなったのが52年の3月で、その後3ヶ月後なんですけども、
6月にはトヨタ・リサブローさんも68歳でお亡くなりになります。
トヨタ・リサブロー、それからトヨタ・キイチロウというトヨタグループのトップ2ですね。
この2人の死でトヨタ自動車のこの一つの時代が終わったということがあります。
時代は終わったんですけども、これただ一つ終わっただけでここからも当然続いていくわけですね。
石田大蔵さんっていうのはこの後社長は11年間勤めています。
この無念っていうのはもう赤の他人の我々がこんだけちょっとなんか心打たれるような話で、
当事者たちはもうそんなもんじゃないですね。
スピーカー 2
まあ確かに。
スピーカー 1
この無念を何とか果たさねばっていう風になってですね、
その時のシンボルだったのはトヨタ英二さんですね。
英二さんを旧新緑になって全トヨタっていうのがまとまります。
老廉な社長の石田さん、それから販売の神様神谷さん、
それから途中で入ってきた大野大地さん、トヨタ生産方式を確立させるのは、
キイチロウさんが亡くなって2年後になります。
この石田社長時代っていうのはもうしっかりとした経営をやってですね、
トヨタ銀行とまで呼ばれるぐらい有料な財務体質を作り上げてですね、
キイチロウさんが悲願だった大型車、その名もクラウンですね。
クラウンを生み出した時の社長が石田さんですね。
スピーカー 2
なるほど。クラウンにつながるんだ、すごいな。
スピーカー 1
つながるんですね。
元町工場って今でもトヨタ自動車の主力工場の一つですけども、
元町工場っていうこれもものすごい投資だったんですけども、
その意思決定も石田社長がされてですね、
この社長、その後会長も務められるんですけども、
トヨタのグローバル化、手前のですね、基盤っていうのをしっかり作った、
中高の祖とも呼ばれる大社長になられたのがこの石田大臣さん。
なるほど。
まああの、ちゃんちゃんという感じなんですけども、
ちょっと最後にエピローグ的にですね、つながっていくんですけども、
キイチロウさん亡くなりましてね、
キイチロウさん戦後、何かとんでも指示を出していたんですけども、
その中にプレハブの住宅作るぞって言って、
コンクリートの会社に自分の長男ぶち込んでるんですよね。
スピーカー 2
確かにそうだ。
スピーカー 1
キイチロウさんの不法の後ですね、石田大蔵社長が最初にやったことはですね、
このプレハブ住宅をコンクリートの会社で仕事やっていた松一郎さんを、
キイチロウさんの長男をですね、
トヨタ自動車工業に取締役として復帰させます。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
松一郎さん25歳です。
うわあ、若い。
若いですよね。
でもトヨタ自動車工業に取締役として入れるんです。
この若きジュニアっていうのは、当然石田大蔵社長、
それから親戚の豊田英二さんです。
今グループのシンボルですね。
神谷さん。
それから製造現場。
もうずっと鍛えられて、低揚楽を全社員から叩き込まれていくんですね。
豊田喜一郎の影響
スピーカー 1
当然、現場っていうところでは石田さん、豊田英二さん、神谷さんからですね、
取締役として入ってくるんですけども、
最初の仕事もひたすら現場回れっていう指示だけ出して、
もうずっと工場の中、ディーラーの中もひたすら現場を動き回って叩き込まれていきます。
この豊田松一郎さんっていうのは、石田大蔵さんがトヨタ自動車の基盤をしっかりと作られたということであれば、
グローバル企業に育て上げたのがですね、この豊田松一郎さんになります。
後にその経営団連の会長も務めていらっしゃるんですけども、
経営団連の会長をですね、自動車産業で初めて務めたのはこの豊田松一郎さんということになります。
この敵対してたかのような、豊田喜一郎さんのジュニアをですね、手元において育てるっていうのがですね、
石田大蔵さんの写真、あの今、石田さんご覧になれたんですけど、
僕が前言ってた、ドラゴンボールのビッコロ大魔王んですね。
ご飯を預けた。もう悟空のような感じなんですよね。
スピーカー 2
なるほどね。
スピーカー 1
敵だと思ったら一番の味方だったみたいなね、感じの。
もうなんかここに繋がっていく。
スピーカー 2
はあ、すごいなあ。
スピーカー 1
ということで、豊田喜一郎編および豊田創業支援終了でございます。
シリーズの感動と思索
スピーカー 2
ありがとうございます。本当にちょっとこのシリーズは感動しましたし、
まあ今までのいろんなシリーズありましたけど、ものすごいドラマが起こりましたね。
ちょっともう二番系的なポイントで気になる部分もめちゃくちゃありましたけれども、
プラスやっぱり日本の産業どう戦前から戦後までなってきたのかみたいなところとか、
なんかそういうものが通ずるですね。いろんななんかヒントとかいただけたかなと思います。
僕もう一回これ、この豊田シリーズはやっぱり1からここまで来ると聞き直したいですね。
スピーカー 1
いやあ、なんかね、ちょっともう本当リスナーの方から人物編長すぎる。
いやいやいや。
いただいていてですね、私もなるべくコンパクトにお伝えできればと思うんですけども、
なんか伝えたいこと積み上げると、今日の最終話を一番皆さんと共有したかったんですけども、
この前にやっぱ11話必要だったんですよ。
スピーカー 2
必要ですよね。
今日だけやっても、あ、そうなんだみたいになっちゃうんですね。
ちょっと僕もまた聞き返してみようと思うので、皆さんもぜひと思います。
スピーカー 1
ありがとうございます。
スピーカー 2
2番K、ナンバー2の引き込む後もここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
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ここまでのお相手はしだれゆうすけと
スピーカー 1
はつみやすいででした。ありがとうございました。
36:09

コメント

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