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スピーカー 1
自動車業界への進出というのはどういうふうに決めていったのか、
いつ思ったのかというのをですね、
改めて過去も振り返りながら見ていきたいというふうに思います。
喜一郎さんですけれども、1917年に東京大学に入って機械工学を学ばれていたんですけれども、
その時に当然機械工学を学んでいますので、
蒸気タービンとか内燃機関とかそういう勉強もされています。
勉強はしていたというところなんですけれども、
実はですね、この学生時代、1917年か20年ですね、
日本でも自動車製造のスタートアップ企業というのが徐々に生まれ始めていた時期なんですね。
ダット自動車、ダットさんって言葉は聞かれたことあるかもしれないですけれども、
あれのもう本当に大元の大元なんですけれども、
ダット自動車という会社がですね、1917年に自動車というのを作っていたりします。
ただ、その後も会社続くんですけれども、その後ですね、
日産自動車ですね、購買収支されたとかいろんなことがあるんですけれども、
それ以外にもですね、いくつか自動車を作ってみたみたいな会社がですね、
生まれていたのがこの1917年。
当然ですね、そういう会社とやり取りをしたという記録は残っていないんですけれども、
おそらくですね、日本の学生で最先端の機械工学を学んでいた学生がですね、
そこで新しい機械である自動車というのに関心を持たないはずがないと思うんですよね。
今でもテック業界の学生さんとか新しいAIの技術が出たとかって言ったら、
そこに関心を持つのと同じように思っていたんじゃないかなというふうに思います。
その後ですね、1921年に豊田利三郎夫妻と欧米視察に行ったという話がありましたけれども、
当然アメリカに行くとですね、めちゃくちゃ自動車が走っているわけですね。
そういうのを目の当たりにしても当たり前なんだなということは感じていたと。
日本にはないこういった技術というのも認識したと思います。
ただミッションとして、暴食暴責といったその繊維産業というのは自分は担っていかなきゃいけないという思いだったので、
自動車をやりたいというかどうかは別としてですね、そこを感じていたと思います。
これが1921年。1923年、この年は何が起きたかというと、
関東大震災が起きた。その年が1923年の9月1日ということになるんですけれども、
この時にですね、東京都内の主な交通手段というのは、市電、電車だったんですね。
電車も今の山手線じゃなくて路面電車がですね、東京都内23区内を走っていて、
関東大震災というのは地震の被害もそうなんですけども、その後に起きた火災がひどかったんですけれども、
その時の市電というのはほとんど焼けちゃったんですね。電車がなくなりました。
交通手段がないということで、大体の手段として当時の東京都がですね、
アメリカのフォードからトラックを緊急輸入して乗り合いのバスに仕立てて走らせることをしたそうなんですね。
でもそれが意外と良くてですね、なんか自動車いいじゃんっていう認知が、
東京都民中心だと思うんですけども、日本にですね、徐々に広まっていったと。
これも自動車でできるんじゃないかということで、当時日本では自動車を作っていませんでしたので、
自動車の輸入っていうのに白車がかかったと。
その関東大震災の数年後にはフォードですとか、ゼネラルモータース、GMもですね、
日本に工場を作って自動車の組み立てを開始すると、そういうことが起きています。
その関東大震災なんですけども、当然関東、東京、近平で起きているわけですけれども、
豊田自動食器政策省、それから豊田防食、愛知県の会社ですよね。
ですから関東大震災には普通被災しないんですけれども、実はこの時にですね、
豊田喜一郎さんは自動食器の特許申請のためにたまたま東京にいたんですね。
東京に行って特許申請をして、かつですね、大学の同級生、二高時代の同級生がですね、
当時鉄道省っていう役所に勤めていて、そこを訪れてちょうどその鉄道省の人とですね、バスの話をしてたらしいです。
これは鉄道じゃなくてバスもいいんじゃないか、自動車がいいんじゃないかっていう話をしてた瞬間に関東大震災。
その後のトラックを緊急輸入して意外と使えたっていうところを見ていたかどうかわからないんですけども、
そういう話をしていた矢先にですね、関東大震災にあったというポイントもありました。
それからですね、1927年なんですけども、この時には豊田自動食器政策省が生まれた翌年になるわけですけども、
この年にですね、豊田作吉さん、一線知りどいたすぐぐらいの時だったんですけども、
国からですね、君参当随行賞っていうのを授与された、君賞をもらった年だったんですね。
で、その時にですね、君賞をもらったお祝いを豊田一族で家族で宴があったんですけども、
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その時にですね、豊田作吉さんが喜一郎さんを見て、
私は食器を発明してお国の特許を受けてお金を儲けたと、お国のために尽くしてきたと。
この恩返しに喜一郎お前は自動車を作れということを言ったそうなんですよ。
自動車を作ってお国のために尽くせと言ったと。
そういうこれね伝説と言われているんですね。
当時の豊田グループの関係者は、いやいやそれないでしょうというような話もあります。
この伝説と合わせて言われるのが、プラット車からですね、10万ポンド、100万円のですね、お金をもらうということがあったわけですけども、
その時にそのプラット車からの100万円を自動車を研究するために全額使えっていうふうに作吉さんが言ったっていう、これも伝説が。
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伝説ですね。
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伝説があります。真偽は不明と。
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なるほど。
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という感じ。
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いいですね、すごい。
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そうですね。で、あの豊田作吉さんもアメリカ行った時にですね、自動車を散々見て驚愕をしたというところがありましたので、これを言っても不思議はないというところでは、
1927年で、それから1929年、冒頭でお話したプラット車を訪問して、この会社の手たらくを見てですね、非常に危機感を覚えた。
こういったものが積み重なって、このままではいけないという思いと、自動車っていうものがこれからこの国に必要なんじゃないかっていうことをですね、どんどん気持ちとして積み重ねていったという感じじゃないかなという。
なるほど。
そうですね。そのプラット車で調印をして、その間ですね、どうやらヨーロッパ、アメリカを木一郎さんは結構長い期間をかけて視察旅行をし続けてきたみたいなんですけども、その時に何を見たとか何をやったという記録があまり残ってないんですね。
残っていないんですけども、結構長期の視察旅行から日本に帰ってきた、もうその日からですね、木一郎さんは豊田自動車制作所の一角にですね、研究所を作ってですね、
そこで黙々と小型エンジンの開発を急に始めるんですね。
まさにここで自動車への進出準備を、まず一人でですね、周りから堂楽っていうふうに言われてたみたいなんですけども、それが始まったというのが1930年、動き始めたっていう感じですね。
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すごい。以前もね、それですごく研究してたわけですから。
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そうですね。
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おそらく自動車についていろいろ調べたんじゃないかと思いたくなってきますね、もはや。
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そうなんですよね。もちろん本当のところ何かっていうのはないんですけども、この木一郎さんの性格というか能力なんですけども、やっぱりこう自動食器、宝石、その辺の技術的なものを見てもですね、ひぼんな観察力とか構想力は持っている。
先の先とか裏の裏とか、そういうことまで考え抜くっていうタイプであろうと。
その中で何か一旦始めたらですね、もうめちゃくちゃ大胆にどんどんどんどん進めますし、いざとなれば強引に押し切る、そんな図太さも持っていたろうと。
で、これあの佐吉さんからですね、お前は宝石をやれと、食器はやるなって言われたんですけども、何回言われても食器の設計ってやめなかったんですよね。
佐吉さんに歯向かうってことはこれまでしたことがないような長男が初めて半期を翻してもう設計を続けたっていう食器研究もありますので、そういうものを持っていたということ。
それから木一郎さん海外に行ってですね、二度の欧米視察で、自動車産業の将来性っていうのをですね、非常に強く感じて、歴史の必然っていうのを見たんじゃないか。
つまり日本の近代化にとってですね、この自動車産業の発展っていうのが必要不可欠であろうというふうに悟ったと。
多分その感覚っていうのは、佐吉さんがもう明治期にですね、自動食器の発明っていうのが国の発展に必要不可欠って判断したと。
同じようにですね、自分も自動車っていうのが必要不可欠というふうに思う。これもあの推測ですね。
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でも全ての伝説を信じたくなってきます。ここまで聞いてると。
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なってきちゃいますよね。1930年からですね、木一郎さんの自動車研究っていうのがこう続いていくんですね。
1930年から1933年、この3年間ですね、堂楽と言われながらですね、研究費として最初の1930年は51万円。
これまあ今でいうと5億円ぐらいですかね。ジュニアの堂楽で5億円使うってなかなかだと思うんですけども。
翌年も54万円、まあじゃあ5億2000万としましょうか。
で3年目86万円、8億6千万9億ぐらい。その次104万円っていうんですね。
フラット車の100万円使っていいよみたいな伝説があるかもしれないですけど、いやいやそれどころかみたいな、それの倍以上使ってるみたいな感じになって。
そんなお金をかけながらですね、日本の将来に必要だというふうに思いつつ研究をしていたと思うんですけれども。
ではですね、それと並行して日本に必要だっていう思いと同時にですね、おそらく紀一郎さんは引けない理由があったんじゃないかというふうに思われることがあります。
それがですね、称して中京デトロイト計画なんですけれども、これ何かというとデトロイトっていうのはアメリカの自動車産業の町デトロイトですね。
それを模したタイトルなんですけども、中京エリア、愛知県中心とする中京エリアをデトロイトのようにしようっていう名古屋市長肝入りの大プロジェクトがあったんですね。
1930年から始まっているプロジェクトです。
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これは愛知県下の企業がですね、共同で自動車製作、自動車製造に乗り出して名古屋の財界がバックアップするという、そういう取り組みがありました。
この愛知県の企業がですね、合同なので、どっか一社じゃなくていろんな会社が集まってやってます。
その自動車で必要なのは当然エンジンということなんですけども、このエンジンを担当していたのが大熊鉄工という会社。
これ今でも工作機械メーカーの大熊という会社があるんですけども、その大熊さんですね。
それと宿敵豊田式食器株式会社。これがエンジンを作る担当をやってたんですね。
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すごい、出てくるんだ。
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出てくるんです、ここで。
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ライバルがある意味。
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ライバルがですね、この豊田自動食器製作所に先駆けて自動車のエンジンを作るってことを始めていると。
これをですね、当然知らなかったはずはないですね。
親父さんはいろいろ現場に愛着があるって感じですけども、あの時原さんの時も言ったように、
キイチロウさんはもう冗談じゃないと思ってるんで、あの会社だけには絶対負けられないというふうに思っているところでも自動車やらんわけにはいかんということで、
実はこの中京デトロイト計画にその豊田グループっていうのは参画はしていないんですね。
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そうなんですね。
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リサブローさんが設立委員会の委員みたいなことはちらっとやってたんですけど、会社としては参画していないということになります。
この中京デトロイト計画の結果で1932年にですね、アツタ号っていう廃棄量3933ccで結構大きいサイズですけども、7人乗りの自動車っていうのがそこで作られました。
ただまあほとんど売れなかったということではあるんですけれども、当時の日本の常用車っていうのを国産で作ったっていうことでかなり画期的ではありました。
1930年から自分で自動車の研究を始めた紀一郎さんっていうのは実はそんなに早いわけじゃなくて、むしろ遅いぐらいだという感じです。
ただまあ遅いっていう認識は紀一郎さんもあったんですけども、紀一郎さんとにかくですね、調べて調べて、いろんなことを構想しながらやっていくので、時間はめちゃくちゃかけるんですね。
でも決めたらドーンといくっていう感じで、遅く始めた紀一郎さんとしてみると遅く始めての利点っていうのは、先行者利得は取れないかもしれないんですけども、失敗事例ですとか、技術がこうなってるとか、何ができないとかっていうところを知識として、情報として活用することができるという、まあそういうものも生かしながらですね、この紀一郎さんというのは研究を進めていきます。
この研究というのは先ほど言ったように、51万、54万、86万、100万というですね、どんどんどんどんお金を使い続けている状況です。最初はボンボンの増落ぐらいの感じで周りから言われていたんですけれども、いよいよ研究開発をしていく中で、この会社として自動車産業に参入をしようとできるっていうふうに紀一郎さんは決めてですね、当然自分の独断で事業を起こすことはできないので、研究開発費はもらっていたんですけれども、
当然その時のトヨタ自動車機製作所のトップであるトヨタグループの総製になったリサブローさんに相談をするわけですね。本気で自動車業界への進出を考えていると。ぜひ協力してもらいたいっていうことをリサブローさんに言いますと。リサブローさんは猛反対ですね。絶対ダメだと。いやもうあり得ないでしょうと。
なぜならば大きい財閥でも手に負えない自動車業界にトヨタグループ、田舎財閥っていう言い方をしてるんですけど、田舎財閥が手を出したら自動車機も暴食も危うくなると。そんな余裕はないですという感じでことだと。
スピーカー 1
先ほどの中京デトロイト計画っていうのは愛知県エリアの計画だったんですけども、そこに似たようなものっていうのが国首脳で実はやったりしていて、東京でもやっていたんですね。そこに財閥三菱ですとかそういったところも声かかったんですけども、ちょっと立ち入りできないということで立下げる取り消すみたいなことがあったので、それをこう指してですね、大財閥でも手に負えないって言葉が出てきたりしています。
そこで2人対立ということになります。
リサブローさんはですね、前回もお話ししたようにですね、トヨタ財地からお預かりしたこのトヨタグループっていうのを守る責任っていうのがあるわけですよね。
かつ経営手腕が良かったのでトヨタ暴食っていうのもめちゃくちゃ利益を上げてくれて、もちろん自動車機も売れていたというところで、利益を上げている従業員たちの気持ちも考えなきゃいけないと。
実はですね、この頃トヨタグループの給料ってそんなに高くはなかった。
かつこの後も出てくるんですけれども、儲かった分を配当で株主に出し切るってこともしないで研究開発投資っていうのもしていたので、これがですね、あまりにも続いていくとですね、やっぱりこう抑えきれないと。
俺たち稼いだの何遊んでくれちゃってんのっていうような気持ちも出てくるというところで、しっかりとですね、そこを牽制してます抑えてますっていうことを見せるっていうのもトヨタ理事サブローさんがやらなきゃいけないことだったと。
このトヨタグループの不審の矛先がですね、キイチローに向かないようにここで抑えなきゃいけないっていうこともですね、理事サブローさんはどうやら考えたみたいですね。
ちなみにですね、もうそんなのもうやめた方がいいっていうのは、他の役員からも意見が出ていて、その反対派のトップっていうのが石田大蔵さんっていう方です。
過去何回か出てきたんですけども、実はこの石田大蔵さんっていうのは、第三代トヨタ自動車工業の社長も務める方。
石田大蔵さんっていうのは、実はこのトヨタ理事サブローさんの東円の親戚でして、前回小玉一蔵さんっていう当面の創業者が亡くなったって言ったんですけども、その兄弟と東円でですね、この石田大蔵さんっていうのは、
ハットリ紹介っていう商社出身で、トヨタ作品さんに惚れてグループに入ってきたという、もっと商社マン、商売人の方なんですけども、当然もう反対して、発明強は一台だけで十分でしょ。
この意見っていうのは、トヨタ自動車を作った創業者がやりたいことを何で周り止めるんだって思うんですけど、私極めて健全だと思います。
石田ブローさん、それから石田大蔵さんが冗談じゃないっていうのも本当にわかるんですよね。だからもうここは止めるべきです。
私がそこにお邪魔していたら、キイチローさんもういい加減にしてください、やめてくださいっていうふうに私も絶対に言ったと思うんですね。
スピーカー 2
そうですね。後のトヨタ自動車を私たちは今知っているから、むしろこれが保守的であり、ドラマ的には悪者みたいに見えちゃいますけど、失敗してたら何もなかったわけですもんね。
その可能性も十分にあったと考えるとおっしゃる通りですよね。
スピーカー 1
いやもう本当はそうなんですよね。極めて正しい経営陣を持つことができたっていう、これが何回か前にやったそのトップが事業化経営者っていう言葉を私使ったんですけども、石田大蔵さんもトヨタリサブローさんも一級の経営者だと思います。
この自動車に関しては、トヨタキイチローさんは技術者からですね、事業化という側面がものすごく強くなってきていたんだと思います。そこの対立がありましたと。
スピーカー 1
そこの対立をですね、なんとか解除しようと協力してくれたのが、リサブローさんの奥さんでキイチローさんの妹の愛子さん。
愛子さんですね、涙ながらにですね、キイチローの夢を叶えさせてもらいたいっていうふうにリサブローさん説得するという話があります。
その涙に穂出されてリサブローさんが折れて、自動車参入に資金を出すことを決めたっていうエピソードが残っているんですけども、
リサブローさんはめちゃくちゃ愛妻家だったようなんですね。だから分かるんですけども、ものすごい優秀な経営者だったので、
先ほどお話したようにそこの暴食とか初期製造で働いている従業員の気持ち、他の役員の気持ちっていうことを考えるとですね、
愛する妻が泣いていたってやっぱり軽判断で謝らないと思うんですよ。だからどうかというところなんですけども、
実はですね、それだけではないという説もあって、これもあの推測になってくるんですけれども、
実はですね、この時代背景考えるとですね、まず1932年にはですね、景気が回復して初期がめちゃくちゃ売れていたということで、
この会社自体はですね、あのトヨタ自動車機もトヨタ暴食の非常に好景気な状況でした。お金があったというところですね。
これがまず自分たちの懐具合としてありましたっていうのがあるんですけども、それ以上ですね、世の中の環境を分析してみると、
1931年にまず満州事変というのが始まります。つまりあの日本がもう戦争にそこから向かっていくわけですけども、
国の中で陸軍省、まあ軍が力を持っている。それから商工省って今の経済産業省みたいな役所ですね。
あとは運輸省に今の国土国庫省に、そうするとすでに鉄道省っていうのがあったんですけども、
そういった役所、軍がですね、国産者の育成政策というのは推進しようとしているんですね。
先ほどあの中共デトロイト計画と合わせて国でも同じような計画を進めているって話をしたと思うんですけども、
それをですね、実は推進しようということで結構いろんな会社に声をかけたりしています。
その中で大きい財閥が荷の足を踏んでるって話もあるんですけども、
その中にですね、果敢に入り込んでいって進めていた人、
綾川義介さんという日産の創業者ですね。
後の日産コンセルっていう日産財閥を作った人でもあるんですけども、
その人が入っていったりですとか、後の伊須津自動車につながる東京自動車工業っていう会社が生まれるですとか、
そういう状況があったんですね。
そういう状況があったっていう事後的な情報もそうなんですけども、
キイチローさんの二高時代、東大時代の同級生がこの商工省とか鉄道省とか、
そういうところの主要な役のキーマンだったんですよ。
かつ東京大学の教授の同級生もいます。
その東大教授はですね、そういったところの心理科医とか、
委員とかも意見を述べるとか、最新の技術を研究しているとかっていう、
そういうアカデミックな世界、それからガバメントの情報っていうのはですね、
キイチローさんのネットワークで最新情報を常に仕入れていたわけですね。
なのでキイチローさんも国産車を育成っていう国策っていうのがあると、
そういう情報を把握した上で自動車産業への進出っていう準備を進めてきたわけです。
それがこの国にとって重要だっていうのを、
自分たちが言ってるだけじゃない、当たるっていうんじゃなくて、
国がそうなんだっていう分析も含めてですね、
リサブローさんにこの情報分析の結果を伝えて、
要はキイチローさんっていうのは単なる2代目の発明強で、
わがままでやりたいって言ってるんじゃなくて、
この国産車の開発っていうのはこの国の産業発展にどうしても必要だし、
国もそれで動いていると。
事業としてかつ確率が高いっていうふうに踏んで、
この自動車産業に進出っていうのを主張しているっていうのを、
初めてこのリサブローさんは理解した。
言ってもですね、こんだけ分析して情報を集めてって言ってるんですけど、
キイチローさん基本的にコミュニケーション苦手なんですよね。
だからめちゃめちゃ考えるし、先も見越すんですけども、
それはですね、タイムリーに人と共有して進めるってことはめっちゃ苦手でですね、
あいつ何やってんだっていうことで、
キイチローさんしか分からない完璧なロジックがあって、
成功への労働ってのが見えてるんですけど、
スピーカー 1
もういいからみんなこっち行けばいいからっていう感じなんですけども、
いやいやそんなの分かんないで、やめてくださいとしかもあり。
でもさすがにリサブローさんにはそれを全部説明して、
同意を経てですね、約1933年になるんですけども、
このトヨタ自動車機製作所の中に自動車部っていうのが設立されると、
なることになりました。
これが本当の本当のトヨタ自動車の原型。
スピーカー 2
スタートだここで。
すごいですね、この遺伝子もまさにつながって、
ここで自動車が生まれるんだなっていう感じがしますし、
その発明家親子ですよね、まさに。
さらにその息子さんの方がエンジニアでもあるんですけど、
そこに時代を読む力というか、流れを見る力がすごいあるなっていう気がしますよね。
スピーカー 1
学生の時のデモクラシーの話をした時とかも、
スピーカー 2
それを感じさせられますけど、まさにグローバル基準で見てて。
スピーカー 1
先見性が感も優れていたと思うんですけども、
めちゃめちゃ情報分析をして冷静に判断してる、
ロジックを積み上げてきてるっていうところの凄さっていうのがあってですね、
スタートアップの経営者の方とか事業家の方たち、
よく創業するにあたって現体験が大事とかっていうのもあると思うんです。
あとはその現体験はともかく、
この事業がとにかく儲かるから成功するからいくっていうのがあると思うんですけども、
そういったパターンとはまたこのキイチロさんで違うんですよね。
現体験もあるし、思いもあるし、分析もあるし、経験もあるし、
親から受け継いだ才能とか知もあるし、
それが作り上げてるっていうのが興味を引かうんですよね。
スピーカー 2
まさに、はつみさん今おっしゃる通りで、
仮にですけど、キイチロさんが今20歳で東大にいて起業してたら何するのかなとかすごい気になる。
いや本当ですよね。
何を見てんのかなみたいな。
もしかしたら若手スタートアップと同じことはしてないような気もするんだよな。
スピーカー 1
してないでしょうね。
スピーカー 2
次の次ぐらいで動いてそうだし、学びが多いですね。
スピーカー 1
そうなんですよ。今だとどうだろう、もう想像しちゃいますよね。
スピーカー 2
家族で経営してるからこそのメリットかな、それも感じるし、すごいですね、やっぱり。
スピーカー 1
これ多分佐紀さんも当然すごい能力を持っていて同じような感じだと思うんですけども、
このキイチロさんがしっかり考えて進める、情報も得られるっていうのは、
この家に生まれて勉強もできたからっていうのもあると思うんですけども、
この社会人になってからですね、
リサブローさんっていう卓越社経営者が横にいて、柱があるっていうこの強さだと思うんですよね。
リサブローさんは絶対トヨタ一族を守る人なので裏切らないし、
放逐することもないし、一番説得するのが難しい人だと思うんですけれども、
理解してくれるとこれ以上の味方はないような、そういう方だったのかなという。
スピーカー 2
確かに。
スピーカー 1
自動車部が設立されて、ここからですね、
発足の勢いで今のトヨタ自動車を作っていくっていうのが本当に目に見えてきますので、
次回その後に触れていければと思います。