-
-
スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。この番組では、なかなかおもてんでない組織の二番、No.2をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは。株式会社オーツーパートナーズ、取締役の勝宮すいでです。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長の修田玲央介です。二番経営第57回。今回も前回に続きまして、トヨタ自動車創業者・豊田喜一郎編第6回となります。
はい、6回になっちゃいましたけれども、前回ようやく車作ったっていうところでしたね。トラックまで作って品質ボロボロだったんですけども、逆にこうしっかり直すことで誠意が伝わって喜一郎さんファンがこうできたという感じでした。
スピーカー 1
その車できたのが1935年だったんですけども、その自動車の製造をですね、さらに進めていくために1936年にカリアという場所、これあのトヨタ自動車機の工場があった場所なんですけども、そこにですね、自動車の組み立て工場っていうのが完成をしていってですね、量産の創業が始まるという段になってきます。
これで自動車をワンバカ作る工場ができあがって、生産が本格化していくというところになるんですけれども、自動車の製造っていうのはですね、いろんな当然部品で作られています。当時の自動車がどうだったかわからないですけど、一般的に内燃機関というかエンジンの自動車っていうのは部品が3万点あるって言われています。
それもですね、似たような部品ではなくて製造工程、作り方もいろいろ違う、そういう部品が3万点集まっているわけですね。そういった部品を作るための製造施設ですとか、あとは部品を集めて組み立てる、組み上げる工場も必要ですし、組み上がったものに色を塗る、塗装する工場ですね。そういったいろんなですね、専門領域が必要なものがですね、11個必要。これが自動車の工場なんですね。
非常にマネジメントが大変なんですけれども、それぞれの工場で間にですね、在庫ですとか、そういった部品も持っておくということも必要になってきます。すぐに作れるように。ところがですね、その工場ごとに部品を持っておくとですね、それが無駄な在庫になってしまったり、あるいは不良品も出てくると。
工場の部品を作るためにですね、置いておくっていうのは意外と見えなかったりするので、どんどん無駄が溜まっていってですね、その生産のコストが積み上がっていくということもよく起きることです。非常に工場が多く出来上がる中ですので、そのリスクも高くなるということで、豊田喜一郎さんはですね、より効率的に良いものづくりをしなきゃいけないということで、
多数の部品っていうのはずっと在庫でいっぱいストックしておくのではなくて、必要な時に必要な分だけあればいいというふうに考えます。これジャストインタイムといってですね、喜一郎さんが提唱したわけですけども、このジャストインタイムっていうのは今に続く豊田生産方式の合言葉のようなものですね。
自動車の量産を始めたその瞬間に、今でも続く豊田生産方式TPSっていうのがもう芽吹いていたということになります。そういった新しいものづくりの仕方の思想がですね、生まれつつですね、その裏側では1936年ですね、国が自動車の製造許可会社としてですね、この豊田自動食器製作所を認めます。
当時はですね、自動車っていうのは勝手に作ることはできなくてですね、国が認定しないと認められなかったんですね。それだけ非常に工業製品として難しい自動車を作るためにはですね、設備も必要ですし、会社の構えですね、人材も設備もそういったものもすべて必要、お金も必要になってきますので、それを認めないとオイソレとですね、簡単に自動車製造を始めて、そこで出来上がらない、失敗するとですね、いろんな経済的な混乱も起こしてしまう。
それぐらい裾野の広い自動車産業というのは当時からも認識されていたので、国が認定をしなくてはいけないと。その第一号として選ばれたのが豊田自動食器製作所、それからもう一社、ライバルになる日産ですね。
同時なんですね。この2社に許可が出たということになります。この許可が出るっていうことは、国として認められ続けるためには、国が今年は何台作りなさい、あるいは何台作るための設備を備えなさいっていう行政指導みたいなのが常に入り続けるわけですね。
だから生産量っていうのは国が決めるっていう感じになります。それに合わせた必要な量産体制っていうのをタイムリーに用意しなくてはいけないというそういう義務も生じるわけですね。迅速な設備投資っていうのが必要になってきます。設備投資をするには会社が増資を、お金を入れてですね、そのお金で工場の設備を買うということが必要になってくるんですけども、
これまでトヨタ自動車機製作所の自動車関連の設備っていうのは、トヨタグループの中でずっと手配をお金もしていたんですけども、それだけだと足りないということで、新たに会社を設立して、他のところからも資本産化を募ろうということになりました。
スピーカー 1
それで生まれたのが1937年8月にトヨタ自動車工業株式会社っていうのが生まれます。ここで本当の本当の今のトヨタ自動車が生まれることになります。
スピーカー 2
しかもカタカナでトヨタとしてるんですね。
スピーカー 1
お知らせるとおりです。これまではですね、トヨダ、ダは濁ったダでしたし、漢字でトヨダだったんですけども、このトヨタ自動車工業というのはですね、トヨタはカタカナになります。しかもタは濁らないタなんですね。
これなんでそうなったかというと、トラックが出た1935年それから1936年のタイミングでですね、新たな車のためのエンブレムというかですね、マークをデザインすることになったんですね。
その時にデザイナーがですね、カタカナがいいだろうって言ってカタカナで東洋だって書いたんですね。東洋だって書いてその最後のちょんちょんちょっと邪魔じゃねって言って外しちゃって、トヨタの方がかっこいいんでこれでいきましょうって言って、デザインとしてトヨタの方がかっこいいんで決まったというのが。
そうなんですね。
そうなんですよ。
知らなかったですね。
社名にも繋がったと。
スピーカー 2
そういうことなんだ。すごい。
スピーカー 1
これ本当は濁らないトヨタなんですみたいな感じじゃないんですね。
スピーカー 2
でもまあ確かにロゴとかにカタカナをちょっとすると確かに濁点ない方がバランスはいいですよね。
スピーカー 1
そうですよね。
スピーカー 2
ちょっとアンバランスになりますもんね、濁点ついてると。なんでしょうね、あのアップルのデザインとかに繋がるような話ですね。
スピーカー 1
ああそうですね。リンゴのね、かけたところってAのあれですもんね。
スピーカー 2
そうそうそうそう。えー面白い。
スピーカー 1
いやーそうなんですね。これはちょっとびっくりな社名の由来なんですけれども、そのトヨタ自動車工業が生まれてですね、初代社長はですね、実はリサブローさんが収まります。
キイチローさんじゃなかったんですね、この時に。
トヨタ自動車の初代の社長はトヨタリサブローさん、そしてトヨタキイチローさんは取締役副社長に。
言っても実質上トヨタ暴食、トヨタ自動食器もありますので、リサブローさんはグループ全部の総推ですから、このトヨタ自動車工業っていうのは、実情トヨタキイチローさんがトップであるっていうのはまあみんなが認識していたという感じですね。
なるほど。
その会社ができたのが1937年です。
翌1938年なんですけども、これですね、さらに量産をしていかなきゃいけないと。
国の指導もあって生産を何台作らなきゃいけないっていうところのキャバが大きくなってきましたので、工場が足りないということで工場を新設することになります。
その時に選ばれた場所っていうのがコロモっていう場所なんですね。
コロモっていうのはちょっととても読めないんですけども、拳に母親の母と書いてコロモと言うそうです。
聞いたことないですよね。
スピーカー 2
聞いたこと初めて。
スピーカー 1
なんでこの天下のトヨタ自動車の工場がある地名を知らないのかと聞いたこともないのか。
なぜならば今コロモはないんです。
今どうなってるか。
愛知県豊田市豊田町になったからです。
スピーカー 2
そういうことですよね。後に変わるんですね。なるほどなるほど。
スピーカー 1
当時はその自社の名前を市町村につけるっていうことはなかったのでコロモ町という町だったんですけどもそこに本社工場っていうのを作ります。
今でも存在してますけども58万坪のですね非常に広大な土地を持って安くて品質の良い自動車を作るというところで工場が生まれました。
実はその1938年の前1937年にですねもともと量産を始めたカリアという場所にですね工場を拡張するということもしていたんですけどもそこを捨てるかのようにこのコロモという町にですね新たな工場を作り始めます。
要は今までも生産設備あったのになんでわざわざ新しいところを作るのと。
量産の生産台数を増やすんであればカリアを増築していった方がいいんじゃないのって考え方もあるんですけども。
ここにですね先ほどお話したトヨタ生産方式ジャストインタイムっていうのを徹底するためには同じエリアにですね広大な敷地に生産設備を最適な配置で置き続けるということが必要になってくるんですね。
カリア工場っていうのはトヨタ自動食器製作所の横に作ってですね増築増築ですので最適な場所に最適なものがないんですね。
なんかあっちゃこっち行きながらですね自動車組み上げるっていう工程になっているのでそこがスッと行くというのが必要なので広大な面積が必要でしたしそこに生産をするための最適な製造システムっていうのを構築しなきゃいけない。
これが必要だったんですね。
なのでこの衣工場っていうのを作っていくことになります。
じゃあこの工場で指揮を取るのは誰かというと当然キイチロウさんなんですけどもこの新工場の立ち上げのですね一部の重要な工場が10個ぐらいあるわけですけどもその中の第二機械工場って結構メインの工場の責任者を任されたのがトヨタ英二さんですねキイチロウさんのいとこの若いトヨタファミリーの人材東大でですね技術者としてトヨタ自動食器に最初入社した時には東京の研究所勤務で
その研究所で何でもいいからやってろって言われたんでなんか遊んでましたっていうのが後でトヨタ英二さんの電気みたいなのが出てくるんですけどもここでは工場の責任者としてやれと工場を作りましたと工場を作ったらこの工場っていうのはジャストインタイムを実現するための工場だとこういう風にやるんだって言ってですねキイチロウさんから指導を受けるわけですね
必要な時に必要な分だけあればいいっていう考えでそれは具体的にどうやればいいのかっていうのがキイチロウさんが指示をしたしてですね厚さ10センチぐらいのパンフレットマニュアルっていうのをキイチロウさん自分で作ってですねそれを英二に渡してですね講義をしながらこれがこうトヨタのものの作り方だっていうトヨタ生産方式っていうのをどんどんどんどんですね中に広めていくっていう活動をしてそれ一緒にやったのがこのトヨタ英二さんです
スピーカー 2
10センチってすごい量ですよね
スピーカー 1
すごい量ですよね
スピーカー 2
辞書みたいな感じですよね
スピーカー 1
もうまさにそれをパソコンもアプロもない時代に書くっていう手で書くわけですよキイチロウさんめちゃくちゃ希少面ですからね綺麗なノートしか残さない
はいもう多分それ自体が超重要なマニュアルですけどもそれによってローコストで品質の高い自動車を作ることができるそういう礎を築いています
この衣工場っていうのは最初創業当時はですね非常に好調で1938年に出来上がった工場なんですけど1938年39年1940年も絶好調でどんどんどんどん設備増強を進めていきましたよりたくさんの自動車を作れるようにというふうに設備投資を続けていったわけですね
この時は当然ですねキイチロウさんは日本が戦争に向かっているっていうマクロ情報を抑えた分析をしていましたので戦時化に入ると間違いなく自動車の需要増えるだろうっていうふうに思ってました
これはですね第一次世界大戦の時に戦争に入ると非常に好調になったんですね日本はそれをイメージしてその好調にこれから来るですね大きい需要に備えてバンバが作らなきゃいけないというような感じで攻めの姿勢だったんですけどもここまでですね完璧にこうマクロ状況分析してきたキイチロウさんの見立てっていうのは外れていきます
政治経済情勢の変化を読み続けてきたキイチロウさんここで初めて読み間違えます第一次世界大戦っていうのは日本も参戦はしてるんですけども日本では戦争してないこの1939年に始まったのは最初日中戦争から始まっていますけどもその時は戦争の当事者まあ第一次世界大戦ほんとちょっと破平したぐらいでしたけども日中戦争は本当にメインの当事者として参戦するということになります
アメリカそれがイギリスから経済封鎖も受けるというところで経済活動をしたくてもできないという状況になるというのが初体験だったわけですね
1940年になってくるとですね国は統制経済まあ政治家の経済なんですねすべてその国の支持に基づいてものを作んなきゃいけないと資材不足もあるという状況になります創業時間も短くしなきゃいけませんっていうことがあるんですけども
スピーカー 1
この赤井さんが実質会社のトップ経営者としてですねこう脱案を振るっていたそのおかげでじゃあ本当の社長のキイチローさん何やってたかというところなんですけれども
それはですね当時できた日本の自動車産業というのが生まれたわけですけれども日本自動車製造工業組合っていうのが生まれてですねキイチローさんはそこの代表理事長をされます
それからまあ戦時化ですので自動車も思うように作っちゃいけない軍が何台作れと言われたところで作っていくあるいは何台だったら販売していいっていう統制が効いている状況ですのでそのための委員があるんですね自動車統制会っていう国の組織があってそこの表議員にも就任されます
つまりこの赤井副社長はトヨタの経営を取り仕切っていてキイチローさんの方はどっちかというとその自動車産業と国との橋渡しのような仕事になっていたという感じです
産業全体の役割を担うということでそれそれでこう責任重大ではあるんですけどもこの時のキイチローさんなんですけどももうほんとやる気なくなっちゃってですね
人が変わったように叫びたりの生活を送っていたっていう色があるんですけど急にちょっと落差激しすぎるすごいですね真面目でねみたいなそもそもの印象が静かで真面目でみたいな燃え上がるものあったにしてもそういうキャラクターとにそうなんですよまあいくらね副社長が敏腕だと言っても社長は社長なんですけども
なんでそんなやる気なくなっちゃったかっていうとやっぱり戦時下ではですね自分が思った通りの自動車作りは全然やらせてくれないと右向けたらもう右向いてるしかない状態ということでもう情熱が急にこうしぼんじゃってなくなっちゃってでも叫びたりという感じになるほど
叫びたりの状態なんですけどもこのトヨタ自動車工業っていうのは経営がずっと進んでいくんですね戦時下で非常に厳しい状況だったんですけども以前ですね日本の gm からスカウトした神谷翔太郎っていう後に販売の神様って言われる人がいたんですけども彼もですねその国の日本自動車配給会社っていうのがあるらしくて自動車の割当てを決めるなんかそういう組織もあったみたいなんですけどそこにですねキイチローさんはまあ産業の
代表として入るんですけどもそこに乗務としてこの神谷翔太郎さんも入ってですねその時に豊田系のこう仕事をこれまでしていたわけですけども国の配給会社ですので日本中のその日本中ってほどなかったかもしれないですけども
日本の他の自動車会社からもう人が入ってくるわけですねそこで神谷翔太郎さんはその時に日産系の自動車販売でありてまぁディーラーの方たちとめちゃくちゃ知り合うんですね
でも人脈を思いひたすら広げ続けます日産系のディーラーとだけのディーラーではない自分の見方のところで敵のディーラーさんとめっちゃ仲良くなるんですね
これがですね後に戦争終わった後一気にその日産系のディーラーっていうのを引き抜いてトヨタの販売ディーラーに全部変えていくっていうのをこの神谷翔太郎がやってくる
まあなんか汚いという言い方もあるかもしれないですけどもでもここでそういう活動ですねずーっとやっていくんですね寝回しをされていたと
スピーカー 2
トップが叫びたり全然やる気ないところでそこでトップが採用した優秀な部下たちがどんどんどんどん躍動していく感じなんですね
スピーカー 1
この時ねまあ戦中軍需中心ですのでこう民需が下がっているということになります
軍需民需ということか民需の代表なものに衣類衣服がですねそれの衣服を作るための布を作っていたのがトヨタ暴食という会社です
暴食業っていうのは日本の国の中でニーズが全然なくなっちゃってですね結構経営難になっていたんですね
なのでその時に企業が生き残るために合併をしながらですね生き残り策をかけるという風にされていました
トヨタ暴食という会社このトヨタグループの一番の母体になるような会社だったんですけども
他の中央暴食っていうトヨタグループの中の会社と合併したりですとかあとは商社系のですね暴食会社と合併したりとかして
中央暴食っていう会社になっていたんですけどもその時にですねグループの総水リサブローさんだったんですけども
暴食の会社暴食の会社一緒になるのはいいんだけれども結局よその会社と一緒になるとトヨタグループじゃなくなっちゃうということで
リサブローさんはですねこの時にそんななんかよその連中に取られるぐらいだったら自分たちの中でやりたいということで
その暴食の会社とトヨタ自動車をくっつけちゃいます
スピーカー 2
なるほど
スピーカー 1
なので暴食布を作るそういう人材がですねトヨタ自動車に合併されることによって流入することになります
これあの布の製造と自動車製造全然違うんで意味ないじゃないかっていうに思われる私も現実は思うんですけども
実はですねこの時に中央防石っていう布を作る会社ですねそこにいた人材がトヨタ自動車工業に入ってくるということになるんですけどもその時に入社した方がですね大野大地さんという方です
大野大地さんっていうのはこのシリーズの一番最初の頃に一回だけ言ったことがあるんですけども
このトヨタ大地さんっていうのはアメリカで自動車業界の伝道入りをした方でですね
先ほど来ずっと話している木一郎さんが生み出したトヨタ生産方式ジャストインタイムというやり方ですねこれを体系立てて本当のトヨタ生産方式を確立した人
これはこの大野大地さんという方ですで副社長にまでなった方なんですけどもこの才能がですねこの戦中の時にいろんな会社がくっついていたその土作作の中でトヨタ自動車にジョインしてくれたと
これ本当偶然だと思うんですけどもすごい人材を得たということになります
これが技術者としての大野大地さんが入ったところなんですけども
合わせてですねこのトヨタ暴食っていうのはどんどんどんどん小さくなっていた時がありましたのでその時にトヨタ暴食からですね
トヨタ自動食器製作所に移動した人がいます
布売れないんで自動食器を売りなさいと営業しなさいというふうにリサブローさんに言われて移動した人
それが石田大蔵さんという方です
石田大蔵さんハットリー商会という元商社の人でトヨタ作家さんともですね信仰のあった商社マン
リサブローさんとは東映の親戚になるんですけども元商社マンでビンワンの営業がトヨタ暴食に入っていたんですけども
そこから自動食器に移っていきます
この自動食器ではですねそのトヨタ自動車の関連の部品も作ろうと
自動食器だけ布を織る機械っていうのは民衆がなくなってきたのでそういうのはないと
でも群衆ってことでトラックは作ってると
で隣のトヨタ自動車工業であるトラックを作っているから
そのための部品をトヨタ自動食器製作所でも作れないかっていうふうに考えてですね
この石田大蔵さんトヨタ自動車工業の方に行って
なんかうちの会社で作れそうなもんないかっていう
こうずっと部品を選んでですね生産を始めるってことをこの石田大蔵さんが始めます
その時に作った部品がですねエンジンの中にピストンが動くんですね
スピーカー 2
エンジンっていうのが出たら開いてバーって爆発が起きて
スピーカー 1
そうですそうです
でその時に作るピストンが通るところに穴が開いてるんですけども
そこの蓋というかリングがついてるんですけども
それピストンリングっていう部品らしいんですね
あんま一般的ではないんですけども
あるいはそのピストンピンっていうそういう部品を作って
トヨタ自動車工業に収めてっていうことを始めます
その時にですね仕事がですねもうやたらいっぱいくれるようになっちゃったんで
トヨタ自動車機で作れなくなっちゃいました
キャパオーバーです
せっかく仕事くれるのにキャパオーバーになっちゃうと困ったなと
じゃあこのピストンリング作ってくれる会社ないかなって
石田大蔵さんが探した会社あったんですね
静岡県浜松にホンダさんっていう人がいてですね
その人がピストンリングめちゃくちゃいいの作ってくれたんですよ
スピーカー 2
まさかの
スピーカー 1
ホンダ総一郎さんです
スピーカー 2
すごいなぁ
なるほど
スピーカー 1
この時浜松のホンダ総一郎さんは自動車なんか一切作ってないです
オートバイも作っていないです
自動車の部品の一部をですね
下請けとして作る会社としてですね
浜松に存在していたんですね
でまぁ後にですねホンダ総一郎さんこのピストンリングを作る会社
ここはここで結構商売繁盛だったんですけども
これじゃねえって言って
その会社ごとトヨタグループに売っ払ってですね
その後以前やったホンダ会でもちょっとだけ創業をやりましたけれども
スピーカー 2
ホンダ技研を創業して
スピーカー 1
翌年藤沢武夫さん入ってくるっていう感じの
あのストーリーにつながるんですね
これが戦中に起きたいろんなエピソードでした
この時に叫び足りなんですね
相変わらず金一郎さんは
叫び足りなんですけども
やっぱりトヨタグループのトップの一人であることには変わりありませんから
その時にですね金一郎さんもずっともう考える癖でしょうね
ずっと先を読み続けて読み続けてというところで
この戦争は間違いなく日本が負けて終わるだろうっていうところまで思っていたそうです
ですので戦中なんですけども
戦後のことを考えてお酒飲みながら考えてですね
その時にふと思うんですね
トヨタ自動食器製作所食器を作っていたところ
今はですね自動車部品を作るようになっているんですけども