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スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。この番組では、なかなかおもてんでない組織の二番、No.2をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツー・パートナーズ、取締役の勝見靖英です。
スピーカー 2
言頭者、新しい経済編集長のしだるゆうすけです。
二番経営第50回。今回のテーマは、先週から引き続いてのトヨタ自動車編で、その中の創業者・豊田佐吉編のパート③となります。
スピーカー 1
はい。前回ですね、19歳から30歳までの豊田佐吉さんの話をしました。その中でも家族をですね、犠牲にして、
スピーカー 2
犠牲にしてますね、完全に。
スピーカー 1
もう本当に文字通り犠牲にしてですね、なんとか日本で初めての動力初期っていうのを生み出した。そういう話をしました。
不幸にした方もいましたし、新たに迎えたそのパートナー、あさこさんと再婚して、長男の喜一郎君をですね、家に呼び寄せたっていうところまで話をしたと思います。
今日はそこからの続きです。
はい。
ドラマはさらに続きますという感じで。
おー、ドラマまだある。
なんですけれども、この自動食器で作った布がすごく品質がいい、食器も売れたというお話をしたんですけれども、
今回のこのですね、豊田佐吉編をするときに、国の産業の話で繊維産業がどの子のって話をさせていただきました。
繊維産業でどんどんですね、布を作って海外に輸出をして国を飛ばせるってそんな話をしていたと思うんですけども、
じゃあ輸出って誰がやるんだっけっていうことを考えたんですよね。
じゃあ国がやるのかと。なんか経済産業省みたいなところがみんなが布を集めてやるかっていうと、そんなわけではなくてですね、輸出をする会社があります。
今でもありますね。商社がその役割を担っていました。
この商社が貿易を担っている、そんな時代なわけですけれども、この布を作りまくっていた大塚棉布合資会社。
この布がですね、とにかく品質が良くてですね、そのときに日本中から布製品を集めて海外に輸出をしていた会社の一つ三井物産という会社。
今でももちろん大商社さんとしてありますけれども、三井物産が目をつけるんですね。
日本中から布を集めて検品をします。その中でやたらと品質が良いのがポッと出てきます。
これどこのだ。大塚は棉布合資会社のものです。なんだこれはというので、この布の素晴らしさ。
どうやらこれは豊田佐吉という人間が作った動力食器で作るっていうことが、この品質の証なんだっていうことが分かってですね。
ここで一気に佐吉が発明した動力食器がすごいっていうのが全国に知れ渡るようになってきます。
ここでもう豊田佐吉っていうのがですね、一躍日本一の食器発明者としてですね、もう兼伝されるようになってきます。
日本一どんぐらいかっていうとですね、時の大政治家井上薫とか、早稲田大学を作った大熊重信とかがですね、この工場を視察に来ると。
それぐらいになります。この代償者である三井物産もですね、この動力食器を我が社でも独占販売したいみたいな感じで、独占契約を締結するところまでいきました。
スピーカー 1
翌年にですね、39年式という改良型も出して、これまたヒットして。さらに廉価版の軽便食器っていうのも作る。これもまた爆発的ヒットということで、もう出すもの出すもの売れまくってですね、工場もどんどん増設していくという感じで、ファミリー企業の経営なんですけども、着実にですね、佐吉、奥さん、それから弟たちとこの豊田商会っていうのが発展していくという感じ。
あんな合弁企業なくて、僕らだけで大丈夫だったねっていうぐらいまでになっています。
スピーカー 2
いやすごいですよね、それもね。
でも非常にうまくいってて、このまま発展していって、今の豊田自動車の室内を作るという風に流れればいいんですけれども、やっぱりですね、うまくいってる時にはですね、当然やっぱすごいって言って、また来るんですね。この財閥勝者再びという感じでいきます。
スピーカー 1
もうすごくうまくいってる豊田商会なんですけども、これに三井物産、三井物産とは一回こうジョイントベンチャー的なものがうまくいかなくてもですね、布を取り扱ってくれるとか、食器の販売をしてくれるとかということで、三井物産っていう会社自体、あるいはそこで窓口になっていた大阪市店長の藤野さんという方がいるんですけども、その方とはもう個人的な信頼関係がものすごくあったので、話も非常に仲良くしていました。
そこからですね、改めてですね、会社をより大きくしてみませんかという話が来てですね、その時に一回失敗したしなーって思うわけですよ。
家族全員、もう前回のことがあるから、もう佐紀さんの思う通りにはいかないからやめた方がいいですっていうふうに家族みんなに反対されたんですけども、でも豊田佐紀氏の思いっていうのはもう国のためですからね。
より早く、より良い食器を作ることっていうのが日本のためになるというふうに考えているので、もう大資本を入れた方がよりスピーディーに進むということの結論はやっぱり変わらなくてですね、もう一回その大資本にかけてみようということでその申し出を受けます。
この新しい会社はですね、前回は経営陣に三井物産の人が来る。技術のところは豊田佐紀氏がやるっていう不審だったんですけども、今回はとにかくもう日本の食器製造をここに一堂に会する形で、大プロジェクトでやりましょうという話になりましたので、三井物産が中心になってですね、
東京と大阪と名古屋の財界のトップのような人たちを集めまくってですね、これで資本金100万円、今の価値でいうと2000億ぐらいっていうことなんですけども、いきなり2000億の資本金の会社立ち上げちゃう。
早々たる感じなんですけども、そこを作るということになります。
まあそれだけのものなので、豊田佐紀さんも出資をしなきゃなというふうになるわけですけども、お金はそんなにあるわけじゃないんで。
じゃあということで、この豊田商会で持っていた工場ですね、それを土地、建物、機械設備、在庫、そしてそこで働く165人の従業員、それを全部その会社のものにしますという形で、現物出資をしてですね、会社に参画していきます。
1907年明治40年、豊田式食器株式会社というのが設立されます。
もう頭に豊田式ってついてるぐらいですから、豊田佐紀さんの会社ですよね。
なんですけども、在会の偉い人集めちゃったんで、社長にはですね、大阪豪土防石会社っていうのがあって、そこの社長の谷口さんという方が社長になります。
豊田佐紀さんは自分の名字がついてる会社なんですけども、常務取締役兼技師長という感じです。
トップじゃないんですね。でもあなたも開発やりたいんでしょ、開発やってくださいっていうことで、全然OKですという感じでそこになります。
それ以外に北浜銀行の東取ですとか、名古屋電機の社長とか名古屋商工会社の会頭とか、日本面科。日本面科って日面のことですけども、そういった人たちが役員になってですね、三井物産の支店長もそこに加わってという。
だから前回と同じような感じよりも、もっとスケールアップしてスタートします。
この新会社でも、さっき言ったように思いっきり初期の開発をしていこうということで、自分が経営していた工場をベースにですね、そこは初期を組み立てていく工場にして、その周りにですね、機械とか芋の職人というか、金属を溶かして芋の職人を集めたりとか、
スピーカー 1
鍛造とか鋳造とかっていう、その金属を加工する職人とか研磨をする職人とかっていうのを大勢集めてですね、自動初期を日本一に作る、そういう風陣で作ってたんですけれども、1907年に会社ができたんですけども、1904年に日本は日露戦争を戦ったんですね。
日露戦争は勝ったんですけども、日清戦争の時と同じです。戦争の後、不況が来ますということで、日露戦争後の不況に入ってですね、会社もいきなり立ち上げから赤字になっちゃいます。会社赤字になると経営人にやること、また今回も一緒です。
樋口さん、ちょっとお金余裕ないんで、開発ちょっとやめてくんない?って言われるわけですよ。いやいやいやと。大資本を入れて、早く初期の開発をして日本中にどんどん使ってもらうためにっていうふうにやって、そういう約束だったんじゃないかという感じ。
関さんは無言というか言葉が少なくて、ちょっと内向的というか、どっちかっていうと陰気っぽい感じの雰囲気の話をしていったんですけども、基本的には素直でですね、人に話はしっかりと聞くという方であったそうなんですけども、こと発明のことに関しては絶対に曲げない。
もうその道で行くという感じだったんですね。開発を抑えてくれっていうのはなかなか効かない状態が続いていたらですね、創業をして3年経った1910年なんですけども、佐吉43歳のときに谷口社長から呼び出しを受けます。旅館かなんかに呼び出されたらしいんですけども、そこでですね、もう工場に出ないでもらえますかと。工場に来て開発されると困っちゃうんです。そのお金がないんですと言われます。
もうそこでですね、もうプッチーンと来て、またかよてめえらみたいな感じで、その場でブチ切れてですね、やめたらって言って、辞表を叩きつけてジョームを辞任することになりました。
これ前回池田商会という会社を辞めた時と基本的な構造は全く一緒なんですね。
でも前回のときには、もうファミリー企業は待ったわけですよね、豊田商会は。奥さんやってました。弟たちもいました。そこに戻ってもう一回頑張ろうってやりました。
でも今回はその食器を作る工場を現物出資しちゃってるんですよね。特許も工場も従業員も技術も全部新しい会社に出しています。
しかもその会社の名前、自分の名字つけた豊田式食器かもしれないし。そこで豊田佐吉が追い出された状況になるんですよね。
なのでもうここは相当答えたみたいでですね、これまでは何かあっても必ずもう俺はまたちょっと発明頑張るって言って次に向かっていたんですけど、もう発明作業も一切できなくなっちゃった。
もうちょうど新製品の開発があと一歩っていうところまで進んでいったところで、全部それを取り上げられたというところでショックっていうのもあったということなんですね。
発明生活の一生を誤りたる数根地だというふうに本人がおっしゃったという、そんな言葉もあります。もう本当に絶望という感じだったみたいですね。
じゃあどうするのかと、そのまま全てやめちゃうのかというふうに思ったらですね、もう今まで国のためにって思ってた豊田佐吉さんも急に思ったんですね。
やってられるかこんな国でと。俺もアメリカ行ってアメリカで発明をやるっていうふうに急にひらめいっちゃった。
アメリカ行くことにした。まずちょっと見てくるって言ってアメリカに行くことになったんですけども、そのときに三井物産で本位にしていた大阪市店長の藤野さんという方がいらっしゃるんですけども、
その方もですね、もう実はそのときの豊田敷食金どういう状況だったかっていうと、もう東京と大阪と名古屋の在会の偉い人を集めて作っちゃったので、そこでですね、役員同士の派閥争いが起きてですね、
営業と技術部門が抗争をするとか、従業員同士で反目し合うというのが起きちゃってですね、社内がもうなんか大混乱して三井物産ももう手をつけられなくなった。
豊田敷地はですね、自分は開発だけやってればいいっていうので、そういうなんか圧力とかがあったみたいなんだけど、もう我関せずで、経営人なのにひたすらその開発しかやってなかった。
まあそういう責任はあるんですけれども、とにかくもうどうしようもなくなっちゃったと。でもそういうこう工場とか従業員も丸ごと身ぐるみをはぐような形で会社を追い出す形になっちゃったってことで三井物産自体はですね、本当に申し訳ないというふうに思ったみたいで、