1. 二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜
  2. #50 挫折と苦悩の豊田式織機株..
2025-02-19 23:51

#50 挫折と苦悩の豊田式織機株式会社。トヨタグループ創業者・豊田佐吉編③

▼今回のトーク内容: 

国の繊維産業の興隆/輸出産業へ/商社が貿易を担う/豊田佐吉の動力織機でつくった布の品質が評判に/三井物産が目を付ける/佐吉は日本一の動力織機発明家に/1899年、三井物産から持ち掛けられ会社設立/佐吉は技師長として従業/時代は日清戦争後の不況/2年で会社を辞め大資本と袂を分かつ/地元に戻る/ファミリー企業は2人目の妻が守っていた/弟・豊田平吉の存在/妻と弟が心強いNo.2だった/新たに自動織機を開発・販売/出すもの出すもの売れまくる/新たに三井物産と当時の時価2000億円規模で新会社を設立//1907年、豊田式織機株式会社誕生/日露戦争でまた斜陽に/資金不足で発明作業を禁じられる/1910年、辞表/日本に見切りをつけアメリカへ/欧米視察/町中を自動車が走り回っていた/「海外の自動車技術はすごい」/自動車との出会い

▼番組概要:

COOや副社長などの「組織のNo.2」。その仕事をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、仕事の面白さ・大変さなど「No.2の悲喜こもごも」を語っていく番組。製造業に特化したコンサルティング企業、オーツー・パートナーズ取締役の勝見靖英と、幻冬舎「あたらしい経済」編集長の設楽悠介がMCを務める。毎週水曜日配信。

▼番組ハッシュタグ:#二番経営

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オーツー・パートナーズ公式サイト

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▼MC:

勝見 靖英(株式会社オーツー・パートナーズ 取締役)

1971年生。慶應義塾大学文学部卒。ジャパンエナジー(現ENEOS株式会社)、PwC、デロイトトーマツコンサルティング、日本IBMなどを経て、2015年7月よりオーツー・パートナーズに参画、2018年4月より取締役。製造業を対象とした戦略策定、業務改革、ERP/PLM等大規模システム導入等のプロジェクトを多数経験。プロジェクトマネジメント、チェンジマネジメントを得意とし、現在は経営企画/会計/人事総務/組織開発/IT/マーケティング広報等を管掌。HCMIコンソーシアム RX 推進人材・高度ロボットSI エンジニア育成事業技術委員会RX 推進人材育成分科会技術委員。

設楽 悠介(幻冬舎「あたらしい経済」編集長) ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/ysksdr⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

1979年生。明治学院大学法学部卒。マイナビを経て幻冬舎に。同社でコンテンツビジネス局を立ち上げ。電子書籍、コンテンツマーケティングなど新規事業担当。2018年にブロックチェーン/暗号資産専門メディア「あたらしい経済」を創刊。幻冬舎コミックスの取締役を兼務。「Fukuoka Blockchain Alliance」ボードメンバー。ポッドキャスターとして、Amazon Audible original番組「みんなのメンタールーム」や、SpotifyやAppleにてWeb3専門番組「EXODUS」など配信。著書に『畳み人という選択』(プレジデント社)。

▼ディレクター:

関岡 憲彦

▼プロデューサー:

野村 高文 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/nmrtkfm⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼制作:

Podcast Studio Chronicle ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://chronicle-inc.net/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼カバーデザイン:

松嶋 こよみ ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/

サマリー

豊田佐吉は日本の初動力食器を発明し、商社との協力で布製品の輸出を行っています。彼の妻である豊田朝子や弟たちが、企業の安定した経営を支え続けており、豊田家の二番経営人材として歴史に名を刻む様子が語られています。豊田佐吉が困難を乗り越えて、豊田式食器株式会社を設立した経緯やその後の苦悩も描かれています。特に、経営陣との対立や開発の停滞により絶望した豊田は、アメリカに渡る決意を固めます。豊田佐吉はアメリカで自動車業界の革新に触発され、再出発の決意を持ち、トヨタ自動車の源流となるトヨタ式食器の歴史が描かれています。

豊田佐吉の発明と輸出
スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。この番組では、なかなかおもてんでない組織の二番、No.2をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツー・パートナーズ、取締役の勝見靖英です。
スピーカー 2
言頭者、新しい経済編集長のしだるゆうすけです。
二番経営第50回。今回のテーマは、先週から引き続いてのトヨタ自動車編で、その中の創業者・豊田佐吉編のパート③となります。
スピーカー 1
はい。前回ですね、19歳から30歳までの豊田佐吉さんの話をしました。その中でも家族をですね、犠牲にして、
スピーカー 2
犠牲にしてますね、完全に。
スピーカー 1
もう本当に文字通り犠牲にしてですね、なんとか日本で初めての動力初期っていうのを生み出した。そういう話をしました。
不幸にした方もいましたし、新たに迎えたそのパートナー、あさこさんと再婚して、長男の喜一郎君をですね、家に呼び寄せたっていうところまで話をしたと思います。
今日はそこからの続きです。
はい。
ドラマはさらに続きますという感じで。
おー、ドラマまだある。
なんですけれども、この自動食器で作った布がすごく品質がいい、食器も売れたというお話をしたんですけれども、
今回のこのですね、豊田佐吉編をするときに、国の産業の話で繊維産業がどの子のって話をさせていただきました。
繊維産業でどんどんですね、布を作って海外に輸出をして国を飛ばせるってそんな話をしていたと思うんですけども、
じゃあ輸出って誰がやるんだっけっていうことを考えたんですよね。
じゃあ国がやるのかと。なんか経済産業省みたいなところがみんなが布を集めてやるかっていうと、そんなわけではなくてですね、輸出をする会社があります。
今でもありますね。商社がその役割を担っていました。
この商社が貿易を担っている、そんな時代なわけですけれども、この布を作りまくっていた大塚棉布合資会社。
この布がですね、とにかく品質が良くてですね、そのときに日本中から布製品を集めて海外に輸出をしていた会社の一つ三井物産という会社。
今でももちろん大商社さんとしてありますけれども、三井物産が目をつけるんですね。
日本中から布を集めて検品をします。その中でやたらと品質が良いのがポッと出てきます。
これどこのだ。大塚は棉布合資会社のものです。なんだこれはというので、この布の素晴らしさ。
どうやらこれは豊田佐吉という人間が作った動力食器で作るっていうことが、この品質の証なんだっていうことが分かってですね。
ここで一気に佐吉が発明した動力食器がすごいっていうのが全国に知れ渡るようになってきます。
ここでもう豊田佐吉っていうのがですね、一躍日本一の食器発明者としてですね、もう兼伝されるようになってきます。
日本一どんぐらいかっていうとですね、時の大政治家井上薫とか、早稲田大学を作った大熊重信とかがですね、この工場を視察に来ると。
それぐらいになります。この代償者である三井物産もですね、この動力食器を我が社でも独占販売したいみたいな感じで、独占契約を締結するところまでいきました。
新会社の設立と経営の試練
スピーカー 1
もうとにかくですね、この生産業っていうのは国を豊かにするということで、この大企業もですね、国も全面バックアップっていう流れがあるんですけれども、
その中でですね、1899年、この年にちなみに再婚した朝子さんとの間に愛子さんという長女が生まれるんですけれども、長女愛子が生まれた年にですね、この三井物産が豊田佐吉にですね、お金を出すんで一緒に会社を作らないかということを持ちかけていきます。
三井物産が資本金を出して、豊田さんはもう研究開発をしたいんでしょう。
それを存分にやったらいいと。お金はうちが出すし、めんどくさい経営のことも全部こっちでやるんで、あなたはもうひたすら開発をしてくださいということで、新しい会社、イゲタ商会という会社を三井物産が出資して作ります。
経営は三井物産が派遣した人材ですね。
豊田佐吉はそこに議市長として勤めることになります。サラリーマンになるという感じですね。
でもサラリーマンなんですけれども、豊田佐吉はもう自分で資本を入れて稼ぎたいとかではなくて、ひたすらいい食器を生み続けることが国を飛ばすということなので、これ専念していいんだったらもう最高ですという感じで、大資本があったほうがですね、よりたくさん作れる、早く作れるだろうというふうに思ったんですね。
自分が稼いだものを資本投下していくよりも大企業三井物産がいたほうがそこはもう早く進むでしょうというふうに意思決定をして、とにかく国の富を増やすことっていうのが豊田佐吉さんの目的ですので、そのためには大資本と一緒にやるのがいいでしょうということで、そこで判断をするんですね。
一緒にやりましょうと分かりましたと。自分はもう会社のトップじゃなくて、もう技師賞でいいんでやらせていただきますというので始めます。これ1899年なんですけれども、1899年、1894年、これから5年前にですね、日清戦争という中国と日本との戦いがあったわけですね。
それが戦争が終わってですね、その戦争の時にはいろんなものが必要になってですね、景気が上向く時があるんですけど、戦争が終わったらですね、そうなると不況になっちゃうことが起きるんですね。1899年っていうのはまさにその不況になった年でした。
これから研究開発だけやりますって言って、佐吉さんが一生懸命ですね、研究をしてたところがですね、不況で初期が全然売れなくなっちゃってですね、もうこの経営している三井物産からちょっともう研究やめてくんないかと言われましたと。いやいや、研究するから一緒に会社やるっていう約束だったじゃん。
いやいやもう会社の経営が立ち行かないからやめてくれと。冗談じゃないでしょ。やってられませんわって言って、結局この会社2年で立証を辞める。つまりこの会社を辞めるということになっちゃう。大正運と組んだんですけども2年で田本を分かつということになっちゃいました。
家族と二番経営人材の支え
スピーカー 1
田本を分かってですね、どこに帰っていくかって言ったら、豊田佐吉には豊田商会っていうファミリー企業がまだあります。そのファミリー企業どういう状況だったかっていうとですね、そこは奥さんの朝子さんがですね、豊田佐吉さんいないところも工場をぶん回してたわけですね。弟もいます。稼ぐ利器を関東で売ってこいって言われてた弟もいます。
その下の佐助っていう弟もですね、そこに入ってですね、一生懸命お兄ちゃんが作ったファミリー企業を支え続けていたんですね。この朝子さんはですね、もう先週もお話しましたけど、経理、総務、資金繰り、従業員の仕事の支配とか外部との交渉とかも全部取り仕切っていて、実質的な向上所っていうような、そんな記録も残ってます。
でもひたすらですね、飛び抜けた才能と強い意志を持って佐吉に惚れて、佐吉に人生を賭けたという。本当に内序の鏡っていう記録が残ってるけど、そういう方だったんですね。もう佐吉さんのためならっていうことと、あとこの発明を存分にですね、才能を開花させなくてはということで、周りを支えるということで。
で、この池田商会の喫笑を辞めた後もですね、もう朝子の経営能力のおかげで、新たにこの名古屋にですね、さらに新しい布を作る工場まで作ることができた。それぐらいファミリー企業っていうのは堅実に、世の中大富強って言ってる中でですね、経営ができていた。これはもう朝子さんが頑張ったからということで、まず二番経営の一人目、この豊田朝子夫人がですね、完全に二番経営人材。
スピーカー 2
ですね、これはもう完全にそうだですね、やっぱり。
スピーカー 1
はい。このファミリー企業、奥さんがもうフォアになっているわけですけども、豊田佐吉さんには弟さんが二人いました。一番末っ子のですね、弟さん、佐助さんと言いました。
この佐助さん、非常に貴重面で、経営者でも優秀とされていたんですね。この富強になった後もですね、この後の豊田グループの会社の経営、任されるっていうことが非常に多いんですけれども、しっかりとですね、安定した経営で、その手腕っていうのは、この後何十年経った後もですね、非常に評価されてですね。
さあ、豊田佐吉さんが亡くなった後、豊田暴職という、豊田佐吉さんが社長をやっていた会社の次の社長にも就任して、経営能力を発揮するということをしています。
ですので、このファミリー企業を支えた二番目の二番経営人材っていうのは、末の弟、豊田佐助さんです。
それから末の弟が佐助さんだったんですけども、その上に平吉というお兄さんがいました。この人は、稼繰木っていう糸巻きを関東で売ってこいって言われた弟なんですけども、ひたすら売り歩いてですね。
佐助はどっちかというと文系人材みたいな感じだったんですけども、この平吉はどっちかというと技術系の人材でして、この後も初期の開発の時にはですね、もう佐吉の手足になってめちゃくちゃ貢献をします。
その後も豊田グループのですね、実は中の会社ではないんですけど横に監査役ですとか、横にまた別の会社を立ち上げて側面からですね、この豊田グループを支え続けるということで、この豊田平吉さんっていうのもまた二番経営人材になります。
ちなみにこの豊田平吉さんの息子さん、豊田英二さんという方がいるんですけども、この豊田英二さんが豊田自動車工業の5代目の社長を務められているということで、豊田一族の結脈としてもですね、しっかりと存在感がある。
二番経営で初めて二番経営の人材ということで、奥様の浅子夫人、弟の佐助さん平吉さん。このあたりに一番近い身内の3人がですね、二番経営人材としてトップの豊田浅吉を支え続けたということになります。
それでも家族の助けがあってですね、佐助はひたすら発明に専念することができてですね、その池田商会と三菱さんとの合弁企業から抜けた後もですね、そのファミリー企業で1905年に38年式自動食器っていうのを出して、これヒット。
豊田商会の発展
スピーカー 1
翌年にですね、39年式という改良型も出して、これまたヒットして。さらに廉価版の軽便食器っていうのも作る。これもまた爆発的ヒットということで、もう出すもの出すもの売れまくってですね、工場もどんどん増設していくという感じで、ファミリー企業の経営なんですけども、着実にですね、佐吉、奥さん、それから弟たちとこの豊田商会っていうのが発展していくという感じ。
あんな合弁企業なくて、僕らだけで大丈夫だったねっていうぐらいまでになっています。
スピーカー 2
いやすごいですよね、それもね。
でも非常にうまくいってて、このまま発展していって、今の豊田自動車の室内を作るという風に流れればいいんですけれども、やっぱりですね、うまくいってる時にはですね、当然やっぱすごいって言って、また来るんですね。この財閥勝者再びという感じでいきます。
スピーカー 1
もうすごくうまくいってる豊田商会なんですけども、これに三井物産、三井物産とは一回こうジョイントベンチャー的なものがうまくいかなくてもですね、布を取り扱ってくれるとか、食器の販売をしてくれるとかということで、三井物産っていう会社自体、あるいはそこで窓口になっていた大阪市店長の藤野さんという方がいるんですけども、その方とはもう個人的な信頼関係がものすごくあったので、話も非常に仲良くしていました。
そこからですね、改めてですね、会社をより大きくしてみませんかという話が来てですね、その時に一回失敗したしなーって思うわけですよ。
家族全員、もう前回のことがあるから、もう佐紀さんの思う通りにはいかないからやめた方がいいですっていうふうに家族みんなに反対されたんですけども、でも豊田佐紀氏の思いっていうのはもう国のためですからね。
より早く、より良い食器を作ることっていうのが日本のためになるというふうに考えているので、もう大資本を入れた方がよりスピーディーに進むということの結論はやっぱり変わらなくてですね、もう一回その大資本にかけてみようということでその申し出を受けます。
この新しい会社はですね、前回は経営陣に三井物産の人が来る。技術のところは豊田佐紀氏がやるっていう不審だったんですけども、今回はとにかくもう日本の食器製造をここに一堂に会する形で、大プロジェクトでやりましょうという話になりましたので、三井物産が中心になってですね、
東京と大阪と名古屋の財界のトップのような人たちを集めまくってですね、これで資本金100万円、今の価値でいうと2000億ぐらいっていうことなんですけども、いきなり2000億の資本金の会社立ち上げちゃう。
早々たる感じなんですけども、そこを作るということになります。
まあそれだけのものなので、豊田佐紀さんも出資をしなきゃなというふうになるわけですけども、お金はそんなにあるわけじゃないんで。
じゃあということで、この豊田商会で持っていた工場ですね、それを土地、建物、機械設備、在庫、そしてそこで働く165人の従業員、それを全部その会社のものにしますという形で、現物出資をしてですね、会社に参画していきます。
1907年明治40年、豊田式食器株式会社というのが設立されます。
もう頭に豊田式ってついてるぐらいですから、豊田佐紀さんの会社ですよね。
なんですけども、在会の偉い人集めちゃったんで、社長にはですね、大阪豪土防石会社っていうのがあって、そこの社長の谷口さんという方が社長になります。
豊田佐紀さんは自分の名字がついてる会社なんですけども、常務取締役兼技師長という感じです。
トップじゃないんですね。でもあなたも開発やりたいんでしょ、開発やってくださいっていうことで、全然OKですという感じでそこになります。
それ以外に北浜銀行の東取ですとか、名古屋電機の社長とか名古屋商工会社の会頭とか、日本面科。日本面科って日面のことですけども、そういった人たちが役員になってですね、三井物産の支店長もそこに加わってという。
だから前回と同じような感じよりも、もっとスケールアップしてスタートします。
この新会社でも、さっき言ったように思いっきり初期の開発をしていこうということで、自分が経営していた工場をベースにですね、そこは初期を組み立てていく工場にして、その周りにですね、機械とか芋の職人というか、金属を溶かして芋の職人を集めたりとか、
経営陣との対立
スピーカー 1
鍛造とか鋳造とかっていう、その金属を加工する職人とか研磨をする職人とかっていうのを大勢集めてですね、自動初期を日本一に作る、そういう風陣で作ってたんですけれども、1907年に会社ができたんですけども、1904年に日本は日露戦争を戦ったんですね。
日露戦争は勝ったんですけども、日清戦争の時と同じです。戦争の後、不況が来ますということで、日露戦争後の不況に入ってですね、会社もいきなり立ち上げから赤字になっちゃいます。会社赤字になると経営人にやること、また今回も一緒です。
樋口さん、ちょっとお金余裕ないんで、開発ちょっとやめてくんない?って言われるわけですよ。いやいやいやと。大資本を入れて、早く初期の開発をして日本中にどんどん使ってもらうためにっていうふうにやって、そういう約束だったんじゃないかという感じ。
関さんは無言というか言葉が少なくて、ちょっと内向的というか、どっちかっていうと陰気っぽい感じの雰囲気の話をしていったんですけども、基本的には素直でですね、人に話はしっかりと聞くという方であったそうなんですけども、こと発明のことに関しては絶対に曲げない。
もうその道で行くという感じだったんですね。開発を抑えてくれっていうのはなかなか効かない状態が続いていたらですね、創業をして3年経った1910年なんですけども、佐吉43歳のときに谷口社長から呼び出しを受けます。旅館かなんかに呼び出されたらしいんですけども、そこでですね、もう工場に出ないでもらえますかと。工場に来て開発されると困っちゃうんです。そのお金がないんですと言われます。
もうそこでですね、もうプッチーンと来て、またかよてめえらみたいな感じで、その場でブチ切れてですね、やめたらって言って、辞表を叩きつけてジョームを辞任することになりました。
これ前回池田商会という会社を辞めた時と基本的な構造は全く一緒なんですね。
でも前回のときには、もうファミリー企業は待ったわけですよね、豊田商会は。奥さんやってました。弟たちもいました。そこに戻ってもう一回頑張ろうってやりました。
でも今回はその食器を作る工場を現物出資しちゃってるんですよね。特許も工場も従業員も技術も全部新しい会社に出しています。
しかもその会社の名前、自分の名字つけた豊田式食器かもしれないし。そこで豊田佐吉が追い出された状況になるんですよね。
なのでもうここは相当答えたみたいでですね、これまでは何かあっても必ずもう俺はまたちょっと発明頑張るって言って次に向かっていたんですけど、もう発明作業も一切できなくなっちゃった。
もうちょうど新製品の開発があと一歩っていうところまで進んでいったところで、全部それを取り上げられたというところでショックっていうのもあったということなんですね。
発明生活の一生を誤りたる数根地だというふうに本人がおっしゃったという、そんな言葉もあります。もう本当に絶望という感じだったみたいですね。
じゃあどうするのかと、そのまま全てやめちゃうのかというふうに思ったらですね、もう今まで国のためにって思ってた豊田佐吉さんも急に思ったんですね。
やってられるかこんな国でと。俺もアメリカ行ってアメリカで発明をやるっていうふうに急にひらめいっちゃった。
アメリカ行くことにした。まずちょっと見てくるって言ってアメリカに行くことになったんですけども、そのときに三井物産で本位にしていた大阪市店長の藤野さんという方がいらっしゃるんですけども、
その方もですね、もう実はそのときの豊田敷食金どういう状況だったかっていうと、もう東京と大阪と名古屋の在会の偉い人を集めて作っちゃったので、そこでですね、役員同士の派閥争いが起きてですね、
営業と技術部門が抗争をするとか、従業員同士で反目し合うというのが起きちゃってですね、社内がもうなんか大混乱して三井物産ももう手をつけられなくなった。
豊田敷地はですね、自分は開発だけやってればいいっていうので、そういうなんか圧力とかがあったみたいなんだけど、もう我関せずで、経営人なのにひたすらその開発しかやってなかった。
まあそういう責任はあるんですけれども、とにかくもうどうしようもなくなっちゃったと。でもそういうこう工場とか従業員も丸ごと身ぐるみをはぐような形で会社を追い出す形になっちゃったってことで三井物産自体はですね、本当に申し訳ないというふうに思ったみたいで、
アメリカへの渡航
スピーカー 1
アメリカに行くって言ったこの豊田敷地のですね、アメリカ行きを全面バックアップします。
なるほどね。
勝者ですから、世界中に支店とかアテンダーがいるわけですね。
スピーカー 2
確かにそういうことか。
スピーカー 1
アメリカに行った後、欧米視察って感じでしたので、アメリカに行くときも現地のアテンドをしてくれるヨーロッパも行けるというふうな手配をしっかりとしてきました。
その時に豊田敷地とですね、一緒にアメリカに行った人、誰かと言うと、木一郎君がですね、言葉喋んないでね、友達もいなくて心配で相談した朝子さんの親戚の西川昭二さんという方がいましたよね。
お前ちょっと見どころあるから、投稿代行ってこいって言われた。
この西川昭二さんがですね、投稿代を卒業してですね、この新しく作った豊田敷食器株式会社に入社したばっかりだったんですよ。
入社したら、あれ、おじさん辞めちゃったみたいな感じで。
なんで、じゃあ自分も当然辞めますみたいな。
さきちさんのことは大大将ってこの方、昭二さんはずっと言ってたんですけど、大大将辞めるんだったら当然自分も辞めますって言って辞めたんで、西川昭二を伴ってですね、欧米視察に豊田敷地は旅立つんです。
これ1910年のことでした。
アメリカに行ってですね、この自動食器の世界をずっと見て回るんですね。
トップメーカーの機械、工場とかを見るんですけども、
どれを見てもですね、全然俺の方がイケてる、もうそういう感じにしかなんなく、余裕で俺世界一だっていうのを確信してたみたいなんですね。
まずアメリカでそういうふうに思いました。
それは食器工場みたいな。
自動車との出会い
スピーカー 1
その外に出るとですね、実は今言ったのが1910年なんですけども、1908年に世界に本当にイノベーティブなプロダクトが生まれていました。
これT型フォードって言って、自動車の大量生産モデルですね。
T型フォードが出したT型フォード、これがですねもうアメリカ中に普及し始めていて、街中自動車が走り回ってる。
これ見てちょっと食器は勝てるけど、この自動車やばいなと。
日本まだまだだなっていうふうに、その時に強く思ったんですね。
その後で西川明治はですね、アメリカに残って、食器っていうそのおる機械の方は見学したんですけども、
宝石っていう糸を作る。そっち側の産業も視察しろということで、それを西川明治のミッションにしてアメリカに残してですね、
自分はヨーロッパの方に行って、イギリスのマンチェスタ、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、これも全部三菱さんのアテンドです。
そこでもうヨーロッパ中を回って、1911年に日本に帰国したと。
ここでもその自分の名前がついた会社で大成功してればよかったんですけれども、
そこから追い出されるようにして、ちょっとした心の傷だったらもう一回頑張ったと思うんですけども、
もう絶望して日本捨てるっていうふうに思ってアメリカに行って、そこで出会ったのが自動車だったんですね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
これも本当運命分からないっていう感じがあったというところですね。
で、そこの外をずっと回ってきて、日本に帰ってきて、
じゃあちょっとまだ自分の初期、まだまだ世界で行けるぞということで、再スタートしようというふうに思うんですけれども、
この再出発の手前ぐらいで今日はいます。
スピーカー 2
いや、今回もちょっとドラマがでもすごいですね。
スピーカー 1
ですよね。
最初の奥さんに逃げられたところで、電気を読んでてうわっと思って、
トヨタ式食器の歴史
スピーカー 1
この豊田自動織機っていう会社がトヨタ自動車の源流になったので、
その会社の昔の名前が豊田式織機だと思ってたんですよ。
その社史をずっと読んでたときに。
そしたらですね、しばらくしたらジョームを買い荷になったっていうことが書いてある。
なんだこれと思って。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
そっからちょっともうこれ深掘らないといけないっていうふうに思ってですね、
ちょっと回想度を上げるためにこんな時間をかけてしまいました。
スピーカー 2
いや、ありがとうございます。
2番系No.2の引きこもごも、ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
気に入っていただけましたら、番組のフォローをお願いします。
エックスやお便りサイトでの感想もお待ちしております。
ここまでのお相手は、しだれゆうすけと、
スピーカー 1
勝宮水礼でした。
ありがとうございました。
23:51

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