1. 二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜
  2. #51 再出発から中国進出まで。..
2025-02-26 33:51

#51 再出発から中国進出まで。豊田紡織株式会社設立と発明王を支えた二番経営婿。トヨタグループ創業者・豊田佐吉編④

▼今回のトーク内容: 

豊田佐吉、欧米で自動車技術と出会う/帰国後、金策に奔走/豊田自動織布工場を設立し再出発/長男・喜一郎も中学生/工場でものづくりを学ぶ/佐吉、紡績工場を併設/実業家・児玉一造との出会い/1914年、第一次世界大戦に突入/景気が上向きに/日清、日露から3度目の戦争へ/織布工場も紡績工場も順調/経営を誰かに任せたい/児玉一造に相談/児玉は実弟・利三郎を紹介/佐吉の娘・愛子と結婚/利三郎は婿に/豊田利三郎の誕生/1918年、豊田紡織株式会社の誕生/のちのトヨタグループ中核に/豊田利三郎は系列会社きってのNo.2に/中国へ進出/佐吉「日中関係を良くせねば」/現地で工場を開設/現地の人々を雇う

▼番組概要:

COOや副社長などの「組織のNo.2」。その仕事をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、仕事の面白さ・大変さなど「No.2の悲喜こもごも」を語っていく番組。製造業に特化したコンサルティング企業、オーツー・パートナーズ取締役の勝見靖英と、幻冬舎「あたらしい経済」編集長の設楽悠介がMCを務める。毎週水曜日配信。

▼番組ハッシュタグ:#二番経営

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▼過去配信回をシリーズ別でプレイリスト化しております:

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▼MC:

勝見 靖英(株式会社オーツー・パートナーズ 取締役)

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://www.o2-inc.com/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

1971年生。慶應義塾大学文学部卒。ジャパンエナジー(現ENEOS株式会社)、PwC、デロイトトーマツコンサルティング、日本IBMなどを経て、2015年7月よりオーツー・パートナーズに参画、2018年4月より取締役。製造業を対象とした戦略策定、業務改革、ERP/PLM等大規模システム導入等のプロジェクトを多数経験。プロジェクトマネジメント、チェンジマネジメントを得意とし、現在は経営企画/会計/人事総務/組織開発/IT/マーケティング広報等を管掌。

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://www.o2-inc.com/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

設楽 悠介(幻冬舎「あたらしい経済」編集長)

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/ysksdr⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

1979年生。明治学院大学法学部卒。マイナビを経て幻冬舎に。同社でコンテンツビジネス局を立ち上げ。電子書籍、コンテンツマーケティングなど新規事業担当。2018年にブロックチェーン/暗号資産専門メディア「あたらしい経済」を創刊。幻冬舎コミックスの取締役を兼務。「Fukuoka Blockchain Alliance」ボードメンバー。ポッドキャスターとして、Amazon Audible original番組「みんなのメンタールーム」や、SpotifyやAppleにてWeb3専門番組「EXODUS」など配信。著書に『畳み人という選択』(プレジデント社)。

▼ディレクター:

関岡 憲彦

▼プロデューサー:

野村 高文 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/nmrtkfm⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼制作:

Podcast Studio Chronicle ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://chronicle-inc.net/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼カバーデザイン:

松嶋 こよみ ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/

サマリー

このエピソードでは、豊田佐吉とトヨタ自動車の創業に至る過程が詳しく語られています。工場の設立における資金調達や人々との関わり、そして豊田佐吉の独自のワークスタイルが紹介され、彼の発明を支える人々の協力も重要な要素として浮かび上がります。豊田佐吉が再出発し、トヨタ紡織株式会社を設立する過程が展開され、石田大造やハットリケンザブローなどのパトロンの支援を受けつつ、景気回復を背景に工場の経営が成功を収めていく様子が描かれます。また、豊田幸知の後を継ぐ人材探しの中で、児玉利三郎との結婚話も生まれています。豊田紡織株式会社の設立と豊田佐吉の影響力についても語られ、中国進出に向けた計画や経営に携わった人々のビジョンが明らかにされ、豊田グループの成長と未来が描かれています。豊田紡織株式会社の設立過程やそれに伴う苦労を通じて、創業者豊田佐吉の家族や周囲の人々の影響が強調されています。

トヨタ自動車の創業と再スタート
スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。
この番組では、なかなかおもてんでない組織の二番 No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは。株式会社オーツー・パートナーズ 取締役の厚宮すいでです。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長のしだるゆうすけです。
二番経営第51回、今回のテーマも先週からの引き続き、
トヨタ自動車シリーズの創業史・豊田佐吉編④です。
スピーカー 1
はい。ようやく前回ですね、自動車がちょろっと登場してきましたけども、
やっとですね、トヨタ自動車の創業ストーリーなんですけども、
ずっと織物の話ばっかりでおりましたけれども。
スピーカー 2
確かに。それもおもしろかったけどな。
スピーカー 1
まあ、自分の名前のついたトヨタ式初期株式会社を追い出されてですね、
失意のままですね、欧米視察に行って、
そこで自動車を見てすごいと思いながら、
初期の世界ではアメリカでもヨーロッパでもですね、
自分の技術がもう世界トップだっていうのを確信して、
日本に帰ってきたトヨタ佐吉さん。
そこから今週は始めていきたいと思うんですけれども、
もう全てを手放して追い出された状態ですので、
当然何もないところからの再スタートになります。
帰国後、金策に走り回ってですね、
お金を集めてようやく名古屋にですね、
新しい工場を作るということができます。
これが1911年の10月でした。
日本に帰ってきて10ヶ月間金策に走り回ってですね、
ようやくその工場の土地を手に入れたというところに行きます。
工場設立とワークスタイル
スピーカー 1
で、これ作る工場なんですけども、
トヨタ自動食腐工場、まあそういう名前の工場を設立します。
新しい工場を作るぞという時にはですね、
トヨタ式食器株式会社、追い出された会社にですね、
預けてしまったかつての優秀な部下たちもですね、
そっちの会社を辞めてですね、
どんどんどんどんトヨタ佐吉の新しい工場の方に再合流をしてくると、
そういう嬉しい状況もありました。
そこでですね、また気持ちを一からやり直すような感じで
開発を進めていたんですけれども、
ここでですね、トヨタ佐吉さんのワークスタイル、
仕事のやり方をですね、ちょっとこう振り返ってみたいんですけども、
工場のそばに住んでいるんですけれども、
そこでですね、朝は誰よりも早く起きるそうです。
で、研究室に入って、前の日までの問題とか課題っていうのを
再整理をするっていうところから仕事が始まります。
で、それをしている間にですね、工場にどんどん人が集まってきて、
生産が始まってきます、食器ですので、
作りの仕事が始まるわけですね。
工場が始まるとですね、自分も研究室を出てですね、
工場を回って、そこで働く人たちにお話を聞きながらですね、
工場の様子を見る、データを取るということを、
ずっと一日動き回ってですね、過ごします。
工場が終わって夜になると、また研究室にこもってですね、
そこで研究開発を進めると。
要は新しいものを生み出すときに、研究室の中にこもるんじゃなくて、
工場っていう現場、これを観察しないと、
新しいものは生み出すことができない、問題の本質はわからない、
っていうようなスタンスでですね、ずっと仕事をし続けます。
これが作地流のやり方で、部下も現地に行かないといけない、
そうじゃないと問題の本質はわからないっていうふうに、
その部下も見習ってきます。
それから長男の木一郎もですね、この頃中学生になるんですけども、
中学校から帰ってくるとですね、着替えて工場に入ります。
みんなと一緒にものづくりをする、そんな少年に育ったんですけども、
この木一郎もですね、この現地、工場に行って見ていくっていうことをですね、
親から叩き込まれると、そんな感じであります。
この現地主義、現物主義、現地現物主義っていうんですけども、
これは実はトヨタ流であるいは三原主義と、
この現地、現物、現実っていうのを合わせて三原主義っていったりするんですけども、
それがですね、今のトヨタ流の経営にも活かされてるっていう、
そのイズムがこのトヨタ作地の仕事のやり方から、
後援者たちの支援
スピーカー 1
ずっとこうメンバーに浸透していったというところが、
こういうところでもお伺いすることができるんです。
スピーカー 2
100年以上続いてるわけですからね。
スピーカー 1
もうそうなんですよね。
この主義が。
そうなんですよ。
スピーカー 2
こっから始まってるんだ、すごい。
スピーカー 1
ですね。
もうなんかイズムっていう感じがします。
とにかくこの新しい工場での再スタートっていうのは、
お金がないところでスタートをしていきました。
お金、トヨタ式食器に全部出したというところだったんですけれども、
とにかく新しい工場でどんどん食器を増やしていきたいということで、
このトヨタ式食器にですね、
トヨタ作地の発明品がたくさん作って売られるってことが繰り返されてるわけで、
自分の発明したものを売る。
そうすると特許料ってのが入ってますね。
なのでそれで長期的に見たら特許料をずっともらい続けるっていうようなことで、
反対ではあったんですけれども、
早くこの工場を立ち上げたいということで、
このトヨタ式食器とですね、
この特許っていうのは生産をします。
今までの発明の特許っていうのはもう全部売り渡すっていうことですね。
これで一時期にとしては8万円だったそうです。
当時の8万円の価値はわからないんですけれども、
ただその後ですね、
普通に特許料をもらい続けていたら、
数年で300万ぐらいは儲かった額になるので、
それを8万円で売ったと。
8億でもいいですけれども、
300億になったものを8億でみたいな、
そういう感覚かもしれないですね。
スピーカー 2
それぐらい一時的なお金が欲しかったっていうことになるんです。
スピーカー 1
それでもそのお金で食器を整えてですね、
その布を織る工場をどんどん拡充していったという感じです。
それをどんどん続けているときにですね、
布を織るためには糸がいるということで、
布を織るのは食器、織物工業です。
その前に縫席というプロセス、
糸を作るプロセスというのがありました。
布の中に品質問題が起きてですね、
それは糸の品質が悪いからっていうのが原因だったんですね。
なのでこの縫席をする糸を作る工場も、
新たに作らないといい布が作れないということで、
縫席工場を作るということをですね、
豊田佐吉さんは決心するんですけども、
やっぱり一貫性はお金がないものですね。
銀行から借り入れるにしても足りないというところだったんですけども、
ここでですね、昔から婚姻だった三井物産の大阪市店長藤野さん、
この人も三井物産で重役に昇進していましたので、
この三井物産重役の藤野さん、
それからですね、新たに名古屋市店長に就任した、
この時は32歳だったらしいんですけども、
児玉一蔵という方がいるんですけども、
その人がですね、豊田さんのこの技術はすごいということで、
自分も出資をするという申し出をしてくれたそうです。
この二人のですね、三井物産の重役幹部クラスがですね、
後押しをしてくれたおかげで、
銀行からですね、お金を借り入れることができてですね、
その縫席工場を作ることができました。
で、この縫席工場の設計をしたのは、
縫席の勉強をしてこいって言って、
アメリカに残していった西川明治がですね、
日本に戻ってきていましたので、
彼が設計をして、縫席工場を作るということで進んでいきました。
この時に公演サポートをしてくれた、
三井物産名古屋市店長の児玉一蔵という人がいるんですけども、
この方はですね、コットンプリンスと言われるぐらいですね、
日本の面科会のリーダーみたいな人だったらしくて、
32歳なんですけども、この時にはですね、
もともと中国からプリンが始まって、
成功してヨーロッパで昇進して、
名古屋市店長で32歳で市店長っていうのは、
当時もすごかったみたいなんですけども、
そういうスーパーエリートです。
スーパーエリートなんですけども、
商業高校から三井物産に入って、
もう叩き上げたっていうような、
すご腕の方なんですけども、
この方はですね、三井物産の面科部っていう組織が、
面科を扱っている部門があるんですけども、
そこを独立させてですね、
東洋面科っていう会社を新たに作ります。
東洋面科、略して東面。
東面って聞いたことないですか?
スピーカー 2
ありますね。
スピーカー 1
東面っていう総合商社が、
あの東面っていうのは、
三井物産の面科部を独立させて作ったのが、
東面っていう会社です。
ちなみに今東面っていう会社は存在していないです。
実はもう何年か前にですね、
東面っていう会社が経営機器になって、
ある会社と九州合併をされました。
九州合併をした会社、トヨタ通商っていうんですね。
つまりトヨタの商社部門が、
この時に縁のあった東面、
この児玉一造がですね、
初代社長なんですけども、
作った会社をトヨタグループが救済するように
一緒になるっていう、
この後100年かけたストーリーが
そこで繋がってるっていうのがあったりするんですけども、
それはちょっと別のお話みたいな感じなんですけども、
とにかくですね、この児玉一造さん、
東面の創設者でもあり、
本当に日本のコットン界のリーダーなんですね。
この後ですね、実はトヨタ佐吉と親戚関係にもなって、
そういう重要人物になります。
この児玉一造さんがトヨタ佐吉を支えていく、
もう外からのスポンサーですね。
以前下にいた方がサポーターになってくれて、
大きい会社になってきたところで、
大企業の幹部がサポートをしてくれるという状況でした。
この時代にですね、
実はもう一人トヨタ佐吉の強力な後援者が現れました。
それがハットリ商店という会社のですね、
スピーカー 2
ハットリケンザブローという方です。
スピーカー 1
ハットリ商店もハットリケンザブローも、
初めて聞かれたと思うんですけれども、
この時もう結構イケイケの先生者みたいな会社だったんですけども、
この会社はですね、
先ほどの児玉一造と親戚関係だった、
このハットリケンザブローという方なんですけども、
実はこのハットリ商会で、
トヨタ佐吉の再出発
スピーカー 1
商売のイロハを叩き込まれた人がですね、
石田大造さんって言うんですけども、
この石田大造さんっていうのが、
私にこのハットリ商店を辞めてですね、
トヨタ暴食に入社して、
トヨタ自動車の社長になって、
二番経営で扱いたいって言っていた、
二番経営人材の、
トヨタの大番党と言われた石田大造さん、
その人が勤めていたのがこのハットリ商店という会社。
そこの社長のですね、
ハットリケンザブローという方、
この方はですね、
ものすごいパトロンになってくれてですね、
石田大造さん、先ほど話した、
トヨタの後に大番党になる方がですね、
このハットリ商店での思い出話として、
いろんな本に書かれている内容が一つあってですね、
初めてこのハットリ商店に入社して、
その会社にいたわけですね。
新入社員になって何したらいいかわからないで、
ずっと立ってたと。
そしたらですね、すごい活服のいいですね、
紳士が現れてですね、
ひげをたくわえて杖を持った人が、
そこにドカッと座るんですね、
オフィスのところに。
誰も相手にしないんですよ。
でもそのおじさんひたすら黙って、
しかめ面をしてる状況です。
お客さんですけど、
あの人どちらなんですかと、
あれも社長の客だからと。
誰も相手に。
そこで社長のハットリケンザブローが現れると。
その2人が会うと、
むっつりしてた紳士が立ち上がって、
またお金が必要なんだと。
今のお金でいうと、
25億ぐらい必要なんだと。
また大変なお金だねって言って、
手形でいいかいって言って、
手形を切って渡して、
うんって言って帰っていくっていう姿を
目撃したっていうんですね。
なんか変な話なんですけども、
それはトヨタ・サキチがですね、
お金を借りに来た姿だったらしいですね。
すごいな。
お金を借りに来たんですけども、
お願いしますっていう言葉もなく、
なんかお金必要だって言って、
しょうがないなって、
手形でいいかって、
うんって言ってそれを持って、
お礼も言わずに帰っていくっていう。
スピーカー 2
すごい。
スピーカー 1
もうなんか意味分かんない状態だったみたいなんですけど。
なんなんすかあれ。
もう石田大蔵さんのどの本にも
必ずこのエピソードが書いてあって、
それ見て自分はトヨタ・サキチさん
すごいと思ったっていうんですけど、
何がすごいのかもよく分かんない変な
開講だったんですけども、
そんなのがあると。
まあこの、
ハトリケン・ザブロー、
それから三井節さんの
児玉一聡っていう子二人のですね、
強力なサポーターを得て、
トヨタ・サキチっていうのはもう
再出発っていうのが、
どんどん格好たるものになっていたという感じです。
経営の成功
スピーカー 1
どんどんですね、
このサキチの宝石工場、
それから布を織る工場っていうのがですね、
実は1914年に時は流れていくんですけども、
1914年っていうのは第一次世界大戦が始まった年なんですね。
先ほど日露戦争とか日清戦争の後、
不況になったって話だったんですけど、
不況が始まるとそこでもう需要が生まれるので、
景気が上向いていったんですね。
これも第一次世界大戦の後景気っていうのが
日本を覆っていましたので、
サキチの工場っていうのがフル回転で
莫大な履歴を生み続けるという感じになっていってですね、
リスタートした1911年から1914年の時には
もうすごく経営が上手くいき始めたと。
なるほど。
そんな時期でした。
スピーカー 2
この辺りは戦争と経済に翻弄されるところがあるじゃないですか。
そうなんです。
以前は逆に日清戦争が終わって景気が悪くなったから
発明やめろよみたいになったこともあれば、
ここに来て追い風。
追い風っていう表現が戦争にとっていいのかわからないですけど、
でも追い風になったってことですよね。
はい。
スピーカー 1
なるほど。
おっしゃる通りです。
だからなんかもう本当にわからないんですよね。
アップダウンが激しい。
そこにダイレクトに受けている、
そういう戦地を取り巻く環境というところだったんですけども、
少なくともこの時には非常に景気がいい状況でした。
児玉利三郎との出会い
スピーカー 2
人生のうち3回ぐらい戦争。
今の平和な世の中だと平和と言い切れないかもしれないけど、
すごいですよね。
戦争が始まって終わってから繰り返しているっていう。
スピーカー 1
それで毎回人生が変わり続けている。
スピーカー 2
そういうことですよね。
スピーカー 1
すごいね。
非常にこのタイミングでは景気がいい。
経営している工場ですね、
豊田自動食工場も、
宝石工場も順調という時にですね、
今は非常に景気がいいので、
豊田作基地としては、
自分は研究開発に専念したいので、
経営を任せられる人材というのはいないかなというふうに思い始めたんですね。
当然自分の奥さんの朝子さん、弟たちっていうのも、
信頼はできるんですけども、
やっぱり規模が大きくなってくると、
そこの支えをする経営っていうのはまだ未経験なので、
専門の人がいるだろうというふうに思います。
それで強力なスポンサー、サポーターをしてくれたですね、
三井物産の児玉一造、コットンプリンスにですね、
相談するわけです。
経営を託せるようないい人材がいないだろうかというところで、
この児玉一造が紹介してきたのが、
自分の弟である児玉利三郎だったんですね。
この児玉利三郎っていうのはどういう人物だったかっていうと、
当時東京高等商業学校専攻部、
今でいうひとつ橋大学のことらしいんですけども、
そこを卒業してですね、伊東中商事、
伊東中合命会社と当時は言ったらしいんですけども、
これもですね、代償者ですよね。
そこに就職をしていたそうです。
入社早々ですね、
すぐにマニラ支店長の初代の支配人になってですね、
新入社員がですよ。
いきなりフィリピンに行って支配人になる。
そのぐらい優秀だったでしょうけども、
そこで売り出し中の感じだったんですね。
その弟を紹介されたと。
弟を紹介ってどういうことかっていうと、
豊田幸知には愛子っていう娘が、長女がいたんですよね。
なんで、向こうを探すっていう感じです。
家族の中に経営を任せる人。
誰か他人ではなくて、
もう他人を経営者にして追い出されてっていう。
もう見た目あってますからね。
頼れるのは家族しかいないと。
でも家族に頼れる人がいなかったら、
家族を新しく作るしかないっていう発想になったんですよ。
でも家族見るとですね、娘がいるわけですよ。
どこに出してもいい、器量のいい、性格のいい娘。
だから向こうはおらんかねということで、
相談をしたところで、この小玉梨沙風呂を紹介されました。
梨沙風呂はですね、最初全然その気はなかったそうです。
なんでかっていうと、
お兄ちゃんは日本でコットンプリンスっていう超エリートコスモっているわけですね。
中国から当格を表してですね、
十五銀行っていう、大きい当時作っていた銀行の頭取りの娘が奥さん。
結婚しました。
ロンドン支店に引き抜かれて、
32歳で名古屋支店長っていう超エリート。
まだまだですね、勝者マンとしてロンドンとかパリとか、
そういうところで活躍したいというふうに思っていて。
トヨタ・サキシさん、確かに三つ目化としてすごいっていうことは聞いている。
けど、所詮家族経営の待ち子場じゃないの?っていうふうに思っちゃったんですね。
スピーカー 2
自分、世界が舞台ですから。
スピーカー 1
確かに確かに。
全然乗り切れなかったんですね。
乗り切れなかったんですけども、
自分の尊敬する兄からですね、
もういいから会ってみろと言われてですね、
トヨタ・サキシさんと、
それからその長女の愛子さんに初めて会うわけですね。
スピーカー 2
会った瞬間にも結婚させてくださいって。
スピーカー 1
いいですね。なるほど。
なぜか。
もう愛子さん、壮絶美人だったんですよ。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
もう見て一目惚れですね。
結婚金めると。
もう美人で賢くて働き者で気立てがいいと。
で、言ってみれば社長の椅子を約束されたような感じですね。
ただこの家にはキイチロウという長男が、
後取りは当然いるわけですね。
なのでそれも気にしていたんですけども、
当時キイチロウは高校生かな?だったので、
学生なのでまだということで、
外の人材をということでリサブローになったんですけども、
実はリサブローは急に気持ちを変えて結婚しますって言ったんですけども、
当の愛子さんの方はですね、
最初はもう泣いて嫌がったそうです。
スピーカー 2
あーまあそうですね。
スピーカー 1
なぜならば愛子さんまだ17歳です。
はい、リサブローさん32歳。
スピーカー 2
おーリサブローの即返事したのがちょっとね、
なんかあれですけどそういうことか。
スピーカー 1
ちょっとなかなか、
スピーカー 2
時代ですねこれ。
スピーカー 1
時代ですよね。
ちょっとこれは何とかハラスメントと思いますし、
女性の人権をってことを考えると、
良くないことなのかもしれないんですけども、
ちょっと一応その豊田家の名誉の場面ですね、
台本にしかないのでリスナーの方には見れないと思うんですけども、
これの台本の次のページの上にですね、
リサブローさんと愛子さんの仲もつましい写真が出てます。
めちゃめちゃ仲良かったんです。
スピーカー 2
初めはやっぱりそれは17歳だし、
親が勝手に連れてきたみたいな話じゃないですか。
スピーカー 1
そうみたいなんですよね。
泣いて嫌がったっていうのは、
相手が同行じゃなくて自分の意思で決められない、
勝手に決められたっていうこと自体で嫌だったっていうことだそうです。
スピーカー 2
確かに仲良さそうなお写真が膝の上に載ってるみたい。
スピーカー 1
ちなみに右側にいるのがキイチロー。
3人で欧米旅行に行ったときの写真です。
めちゃめちゃかっこいいですよね。
スピーカー 2
かっこいい。
豊田紡織株式会社の設立
スピーカー 1
ということでこのリサブローさんですね、
ムコドンとして来て、
児玉リサブロー改め、
豊田リサブロー爆誕という感じ。
スピーカー 2
爆誕ですね。
スピーカー 1
もう爆誕ですね。
移動中のエリートが町小場、
豊田自動食工場に来て経営をするということになるんですけれども、
非常に後継期ということで、
この工場はどんどこどんどこ発展をしていきます。
発展をして1918年、
この豊田自動食工場を組織改編して、
豊田暴食株式会社というふうに社名を変更します。
豊田暴食。
この会社は今、豊田暴食として残っています。
豊田自動食グループの中の中核企業の一つとして、
ホームページに行くと、
豊田グループの源流っていう言葉があるんですね。
つまり豊田式初期っていうのはもう構築されて、
この会社も実際今、
法和工業っていう名前で残っている会社なんですけども、
豊田暴食の源流はこの豊田暴食であるということで、
ここの社長に作地がついて、
上務にこのみこさん、
リサブローさんがつかれるということになります。
リサブローさんも非常に、
消費者マンですから社交的で人当たり良くて、
助済がなくて、
とにかくよく働くんですね。
俊敏、積極、果敢、
自ら労を厭わず飛び回る仕事師という評価をされています。
でも消費者マンというのもあったでしょうし、
海外市場の開拓にも熱心で、
中国、東南アジア、インドまで出かけていって、
自分で販路を拡大していくと。
市場の分析にも非常に長けていて、
糸とか綿、布、そういったものの
先物取引でも巨大な利益を出しています。
この糸、綿、先物取引っていうのは、
最初の方でお話をした、
綿とか糸っていうのは一時産業でできているものですね。
開庫とか綿花とか、
そういう状況によって市況がかなり大きく
変わってくる製品だったんですね。
なんで先物市場もあるというところで、
それでも非常にビジネスマンとして優秀感度も高かったということで、
そこでも利益を上げて、
この豊田防職の事実上の経営者として、
しっかりとピン案も落算を振るっていたということになります。
つまり二番経営人材の4人目になりますけれども、
それはこの豊田利三郎さん。
間違いなく二番経営で一番大きい人材だと思いますね、この時代。
一人目が奥さんの朝子さん、
それから弟の平吉さん、さすけさんときて、
同じ豊田製の利三郎さんが、
中国進出への第一歩
スピーカー 1
4人目の二番経営人材になったところになります。
ここでもう万弱の経営になったわけですよね。
優秀な利三郎さんが来てくれて経営は非常にどんどん拡張していくと。
自分があれこれ言わなくても会社は発展していくっていうのを確認した後、
豊田製の利三郎さんは考えたわけです。
もう次に何しようかと。
パッと決めたのが中国への進出になります。
1918年に中国に調査を。
翌1919年に海外に行くときはこの人という西川昭二さんを連れて上海に行きます。
そこで工場を作り始めるわけですね。
このときに、俺は次は中国に行くという風に親族会議というか、
身内みんな豊田グループで仕事してますんで、
そこで言ったところで、みんなもう反対なんですね。
本人も永住する気で家まで買っていくっていう状況でしたので、
もうみんな反対をしてるところで、
そのときに話してるみんなに、
ちょっと廊下のほうを見てですね。
これ名台詞っていうことらしいんですけども、
そこの障子を開けてみなさい。
外は広いぞっていう名台詞を吐いたそうです。
スピーカー 2
なるほどね。
スピーカー 1
障子を開けてみよう。外は広いぞ。
っていうのが豊田昭二さんの名言として残ってる。
ちょっと数少ない言葉なんですけども。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
もう国内だけじゃなくて、もう世界両線っていう感じですよね。
このときにですね、上海に行ったんですけども、
中国に進出する企業っていうのは日本企業すごく多かったようなんですね。
なのでその事業のために中国進出かというふうに思われるんですけども、
やっぱりね、豊田昭二さんはそういう人材じゃないんですね。
事業経営じゃなくて日中関係を良くしなきゃいけないと思ったんですよ。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
日中関係を良くするためには、
中国の経済発展を助ける必要があるっていう、
そういう理想像を掲げていたんですね。
そのためには中国で宝石工場を経営して、
たくさんの中国の人に働いてもらって、
給料を払って生活を向上させる。
これが共存経営で、相互理解の身を挙げると。
もうこれを俺はやりに行くんだっていう感じ。
豊田グループの未来
スピーカー 1
なのでその翌年、1920年にですね、
台本にちょっと映ってますけども、
もうなんかお城みたいな位置ですよね。
洋館を購入して。
ちなみに豊田さんはですね、
すごい大豪邸に日本に住んでたわけじゃないんですね。
なんといっても七日豪賢、失踪奸役でいってる方なので、
でも中国ではこういうわざと立派な家を買った。
それは中国の人に信頼をしてもらうために、
七日豪賢的なところじゃなくて、
こういう立派な家にちゃんと住めるんだ、
安心してくださいっていうのを見せるために、
わざとこういう家を買ったんだっていうことを起こしていますね。
1921年、柿地さんが54歳のときにですね、
これまで個人工場でやってたところをですね、
株式会社上海宝石省という株式会社に組織改編をしてですね、
柿地さんが社長になって、
一緒に行っていた西川昭二さんが取締役に就任してですね、
この西川昭二さんに現地での経営を一切を任せた。
この西川昭二さんっていうのは、
もともと朝子さんの親戚筋の方で、
最初のほうからちょっと出てきた人ですけども、
柿地さんを大大将、大きい大将ってずっと呼び続けてですね、
大大将が中国の経済発展のために会社を作ったんだっていうことで、
その理想を自分が完全に継承するというふうに思ってですね、
自動初期の技術っていうのを中国の現地に伝えて、
発展に貢献をするということをしっかりとされた方です。
これはですね、当然現地に残っていろいろやったんですけども、
2009年にですね、本が出てまして、
中国房植機械製造業の基盤形成技術移転と西川昭二という、
中国の方が書かれた書籍なんですけども、
西川昭二さんで検索するとですね、この研究書が出てくるんですよ。
これ中国の方が書いた本なんですよね。
それぐらいこの方っていうのが織物の世界でですね、
中国に技術を貢献したっていうことの章作でもあると思います。
中国のために頑張って、もちろんその自動初期を作ってってことをやってきたんですけども、
この方はですね、アメリカに一緒に行ってるんですね。
そのときにT型フォードを一緒に見てですね、
これはすげえ自動車だっていうふうに大大使が言ってるんですね。
それを聞いている数少ない人なんです。
今回のこのシリーズの中では子供としてしか出てきてないんですけども、
この後ですね、自動車事業を始めるのは、
豊田幸さんの長男豊田喜一郎さんになるんですけども、
自動車業界の進出にお金がかかるんですね。
しかも初期産業で大成功してるので、
自動車なんかやる必要がないんですけども、
お金もない状況で周りから猛反対される。
そのときに中国からですね、資金面でもこの豊田喜一郎さんを支え続けたのが、
この西川昭二さんだそうです。
なので中国にいた2番経営人材の最後の5人目はこの西川昭二さんということになりますね。
ということで、豊田自動車の創業史の伏線ですね。
自動車の製造も豊田自動車の源流となった、
豊田自動初期製作書もまだ出てきてないんですけども、
この創業史、豊田幸支援は今日ここまでと。
スピーカー 2
いやーすごいですね。
でもなんかこの先もありますけれども、もちろん国のためにやるって言って始まったところ、
そこのビジョンが明確にあったわけじゃないですか。
結果的に豊田という会社は本当に日本の国の国力を上げたし、
日本の自動車産業を引っ張ったわけですから、
本当にそれが達成してるんですよね。
スピーカー 1
いやそうですね。
スピーカー 2
家出したりとか、奥さんをほったらかしにしたりする経緯もありましたけど、
スピーカー 1
そのビジョンを達成してると思いながらこう聞くとものすごいなというところですね。
なんかこう、さっきさんの人生で上手いこと言ってないじゃないですか。
スピーカー 2
そう、上手いこと言ってないですよ。
スピーカー 1
絶対失敗してそっから這い上がる。
もうずーっとそれを繰り返して周りの人も不幸になった。
でもなんかすごい偉大な発明をして、
結局頼ったのは家族っていうところ。
スピーカー 2
信頼できるのは家族ってことですよね。
スピーカー 1
この2番経営人材も全員が家族なんですね。
演者なんですね。
西川喜次さんも奥さんの演者ですから、やっぱり一族なんですよ。
ここの中には、もちろん皆さん経営をされていたので合理性だったりとか、
格あるべしっていうところはあったと思うんですけども、
そういうのを超越したトップの意思の力に、
いかに寄り添ってその人のためになっていくのかっていう。
外の人材だと本当にできない。
中にいるからこそ、一心同体になって全てを捧げてっていうことができる。
でも他人資本で頑張って苦労して、結局買えるところはここだったんだなっていうところですね。
豊田自動車っていう会社が今でもオーナー一族の名前が残る方たちがいて、
決して株主としてマジョリティってわけではなくてですね、
1%未満のようなあんだけの会社なので。
なんですけども、ずっといていただいてるっていう、
なんか源流にこの時の苦労だったりとか思いとかっていうのも、
ひとしたらあるかもしれないなっていうのも感じます。
今回は本当ここまでなんですけど、
この後、キイチロウさんの時に完全に外部の経営者の人たちも入ってくるわけですよ。
ここでキイチロウさんイズムみたいなものにですね、
合理主義とかそういうロジックで経営をしていくっていう、
サイエンスの領域みたいなのがどんどん入ってくるんですね。
それによって発展していったっていうこともまた興味深くてですね。
豊田佐吉と家族の影響
スピーカー 2
すごく気になるのがこのキイチロウさんはある意味息子さんですから、
こういうイノベーション発明家の息子なわけですから、
もうちょっと潤風満帆に来たように感じますけど、
ここまで聞いていただくことがあると、そうじゃないじゃないですか。
スピーカー 1
そうじゃないですね。
お母さんいなくなったりするし、
スピーカー 2
いろんな人家に入ってくるし、
親父の会社はどんどん変わるしみたいな、
その彼がどのように育ったかみたいな、
それらの影響もあると思うので。
スピーカー 1
そうなんですよ。めちゃくちゃエモいんですよ。
スピーカー 2
めちゃくちゃエモい。
スピーカー 1
本当にエモいんですよ。
スピーカー 2
ちょっと普通の息子後継と違いますよね、状況が。
スピーカー 1
違うと思いますね。
父親は絶望してるんですよ。
スピーカー 2
そうなんだよね。
スピーカー 1
自分の名前の会社を追い出されてる父親を目の前で見てるわけですよ。
その豊田敷食器っていう父を追い出した会社とですね、
この後自動車の領域で戦うとか。
スピーカー 2
そういうことが起こるんだ、なるほど。
そうなんですよ。
スピーカー 1
ジェダイの復讐みたいな話とかが出てくるんですよ。
本当に誰かアサドラにしてもらいたい。
スピーカー 2
もしくは日本史でこういうことをやったらいいんじゃないかと思いました。
近代史というか、近現代史のところで経済という軸で考えると、
この物語はすごい小中学生とかで学んでほしいなって気がしましたね、本当に。
スピーカー 1
本当に教科書に出てくるイベントが普通に生活の中に入ってきますからね。
スピーカー 2
そこの横もあるし、一部もちろんそういうのが今でも教えられてると思うんですけれども、
ここに光当てたものがあるといいなと思いましたね。
スピーカー 1
なんか本当線がですね、佐紀さんもありましたし、
西川明治さんだけで見てもきっと面白いと思いますし、
李沙風呂さん主転もムコさんで入って、
マジかよ、この一族何考えてんだっていうところって、
一度や二度じゃなかったはずなんですよね。
その視点だったり、もちろんキイチロウさん。
自分が後取りと思ったらいきなり妹の旦那が社長になってるし。
スピーカー 2
おっさんですしね。
スピーカー 1
と思ったら商社から来た石田大蔵さんっていう人が横にいてですね、
何自動車なんかやってんすかってめちゃめちゃ鬼詰めされるとか。
この後はゼネラルモータース。
日本の自動車で一番売れてたのは当時外車が日本を接近してた時に、
日本GM、日本のゼネラルモータースで、
ラッサンを振るってた人がこっちに入ってくるわけですよ。
スピーカー 2
なるほどなるほど。
スピーカー 1
まあもうなんかいっぱい繋がりますよ。
ソニー編とも繋がるし、ホンダ編とも実は繋がるところがありますし。
スピーカー 2
まあそこで繋がってくるんですよね、この後ね。
そうか、時代的にも。
はい。
皆さん楽しみにしていただければと思います。
はい。
2番K、ナンバー2の引きこもごも、ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
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ここまでのお相手は、しだれゆうすけと、
スピーカー 1
勝宮精霊でした。ありがとうございました。
33:51

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