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スピーカー 1
ずっとこうメンバーに浸透していったというところが、
こういうところでもお伺いすることができるんです。
スピーカー 2
100年以上続いてるわけですからね。
スピーカー 1
もうそうなんですよね。
この主義が。
そうなんですよ。
スピーカー 2
こっから始まってるんだ、すごい。
スピーカー 1
ですね。
もうなんかイズムっていう感じがします。
とにかくこの新しい工場での再スタートっていうのは、
お金がないところでスタートをしていきました。
お金、トヨタ式食器に全部出したというところだったんですけれども、
とにかく新しい工場でどんどん食器を増やしていきたいということで、
このトヨタ式食器にですね、
トヨタ作地の発明品がたくさん作って売られるってことが繰り返されてるわけで、
自分の発明したものを売る。
そうすると特許料ってのが入ってますね。
なのでそれで長期的に見たら特許料をずっともらい続けるっていうようなことで、
反対ではあったんですけれども、
早くこの工場を立ち上げたいということで、
このトヨタ式食器とですね、
この特許っていうのは生産をします。
今までの発明の特許っていうのはもう全部売り渡すっていうことですね。
これで一時期にとしては8万円だったそうです。
当時の8万円の価値はわからないんですけれども、
ただその後ですね、
普通に特許料をもらい続けていたら、
数年で300万ぐらいは儲かった額になるので、
それを8万円で売ったと。
8億でもいいですけれども、
300億になったものを8億でみたいな、
そういう感覚かもしれないですね。
スピーカー 2
それぐらい一時的なお金が欲しかったっていうことになるんです。
スピーカー 1
それでもそのお金で食器を整えてですね、
その布を織る工場をどんどん拡充していったという感じです。
それをどんどん続けているときにですね、
布を織るためには糸がいるということで、
布を織るのは食器、織物工業です。
その前に縫席というプロセス、
糸を作るプロセスというのがありました。
布の中に品質問題が起きてですね、
それは糸の品質が悪いからっていうのが原因だったんですね。
なのでこの縫席をする糸を作る工場も、
新たに作らないといい布が作れないということで、
縫席工場を作るということをですね、
豊田佐吉さんは決心するんですけども、
やっぱり一貫性はお金がないものですね。
銀行から借り入れるにしても足りないというところだったんですけども、
ここでですね、昔から婚姻だった三井物産の大阪市店長藤野さん、
この人も三井物産で重役に昇進していましたので、
この三井物産重役の藤野さん、
それからですね、新たに名古屋市店長に就任した、
この時は32歳だったらしいんですけども、
児玉一蔵という方がいるんですけども、
その人がですね、豊田さんのこの技術はすごいということで、
自分も出資をするという申し出をしてくれたそうです。
この二人のですね、三井物産の重役幹部クラスがですね、
後押しをしてくれたおかげで、
銀行からですね、お金を借り入れることができてですね、
その縫席工場を作ることができました。
で、この縫席工場の設計をしたのは、
縫席の勉強をしてこいって言って、
アメリカに残していった西川明治がですね、
日本に戻ってきていましたので、
彼が設計をして、縫席工場を作るということで進んでいきました。
この時に公演サポートをしてくれた、
三井物産名古屋市店長の児玉一蔵という人がいるんですけども、
この方はですね、コットンプリンスと言われるぐらいですね、
日本の面科会のリーダーみたいな人だったらしくて、
32歳なんですけども、この時にはですね、
もともと中国からプリンが始まって、
成功してヨーロッパで昇進して、
名古屋市店長で32歳で市店長っていうのは、
当時もすごかったみたいなんですけども、
そういうスーパーエリートです。
スーパーエリートなんですけども、
商業高校から三井物産に入って、
もう叩き上げたっていうような、
すご腕の方なんですけども、
この方はですね、三井物産の面科部っていう組織が、
面科を扱っている部門があるんですけども、
そこを独立させてですね、
東洋面科っていう会社を新たに作ります。
東洋面科、略して東面。
東面って聞いたことないですか?
スピーカー 2
ありますね。
スピーカー 1
東面っていう総合商社が、
あの東面っていうのは、
三井物産の面科部を独立させて作ったのが、
東面っていう会社です。
ちなみに今東面っていう会社は存在していないです。
実はもう何年か前にですね、
東面っていう会社が経営機器になって、
ある会社と九州合併をされました。
九州合併をした会社、トヨタ通商っていうんですね。
つまりトヨタの商社部門が、
この時に縁のあった東面、
この児玉一造がですね、
初代社長なんですけども、
作った会社をトヨタグループが救済するように
一緒になるっていう、
この後100年かけたストーリーが
そこで繋がってるっていうのがあったりするんですけども、
それはちょっと別のお話みたいな感じなんですけども、
とにかくですね、この児玉一造さん、
東面の創設者でもあり、
本当に日本のコットン界のリーダーなんですね。
この後ですね、実はトヨタ佐吉と親戚関係にもなって、
そういう重要人物になります。
この児玉一造さんがトヨタ佐吉を支えていく、
もう外からのスポンサーですね。
以前下にいた方がサポーターになってくれて、
大きい会社になってきたところで、
大企業の幹部がサポートをしてくれるという状況でした。
この時代にですね、
実はもう一人トヨタ佐吉の強力な後援者が現れました。
それがハットリ商店という会社のですね、
スピーカー 2
ハットリケンザブローという方です。
スピーカー 1
ハットリ商店もハットリケンザブローも、
初めて聞かれたと思うんですけれども、
この時もう結構イケイケの先生者みたいな会社だったんですけども、
この会社はですね、
先ほどの児玉一造と親戚関係だった、
このハットリケンザブローという方なんですけども、
実はこのハットリ商会で、
スピーカー 2
人生のうち3回ぐらい戦争。
今の平和な世の中だと平和と言い切れないかもしれないけど、
すごいですよね。
戦争が始まって終わってから繰り返しているっていう。
スピーカー 1
それで毎回人生が変わり続けている。
スピーカー 2
そういうことですよね。
スピーカー 1
すごいね。
非常にこのタイミングでは景気がいい。
経営している工場ですね、
豊田自動食工場も、
宝石工場も順調という時にですね、
今は非常に景気がいいので、
豊田作基地としては、
自分は研究開発に専念したいので、
経営を任せられる人材というのはいないかなというふうに思い始めたんですね。
当然自分の奥さんの朝子さん、弟たちっていうのも、
信頼はできるんですけども、
やっぱり規模が大きくなってくると、
そこの支えをする経営っていうのはまだ未経験なので、
専門の人がいるだろうというふうに思います。
それで強力なスポンサー、サポーターをしてくれたですね、
三井物産の児玉一造、コットンプリンスにですね、
相談するわけです。
経営を託せるようないい人材がいないだろうかというところで、
この児玉一造が紹介してきたのが、
自分の弟である児玉利三郎だったんですね。
この児玉利三郎っていうのはどういう人物だったかっていうと、
当時東京高等商業学校専攻部、
今でいうひとつ橋大学のことらしいんですけども、
そこを卒業してですね、伊東中商事、
伊東中合命会社と当時は言ったらしいんですけども、
これもですね、代償者ですよね。
そこに就職をしていたそうです。
入社早々ですね、
すぐにマニラ支店長の初代の支配人になってですね、
新入社員がですよ。
いきなりフィリピンに行って支配人になる。
そのぐらい優秀だったでしょうけども、
そこで売り出し中の感じだったんですね。
その弟を紹介されたと。
弟を紹介ってどういうことかっていうと、
豊田幸知には愛子っていう娘が、長女がいたんですよね。
なんで、向こうを探すっていう感じです。
家族の中に経営を任せる人。
誰か他人ではなくて、
もう他人を経営者にして追い出されてっていう。
もう見た目あってますからね。
頼れるのは家族しかいないと。
でも家族に頼れる人がいなかったら、
家族を新しく作るしかないっていう発想になったんですよ。
でも家族見るとですね、娘がいるわけですよ。
どこに出してもいい、器量のいい、性格のいい娘。
だから向こうはおらんかねということで、
相談をしたところで、この小玉梨沙風呂を紹介されました。
梨沙風呂はですね、最初全然その気はなかったそうです。
なんでかっていうと、
お兄ちゃんは日本でコットンプリンスっていう超エリートコスモっているわけですね。
中国から当格を表してですね、
十五銀行っていう、大きい当時作っていた銀行の頭取りの娘が奥さん。
結婚しました。
ロンドン支店に引き抜かれて、
32歳で名古屋支店長っていう超エリート。
まだまだですね、勝者マンとしてロンドンとかパリとか、
そういうところで活躍したいというふうに思っていて。
トヨタ・サキシさん、確かに三つ目化としてすごいっていうことは聞いている。
けど、所詮家族経営の待ち子場じゃないの?っていうふうに思っちゃったんですね。
スピーカー 2
自分、世界が舞台ですから。
スピーカー 1
確かに確かに。
全然乗り切れなかったんですね。
乗り切れなかったんですけども、
自分の尊敬する兄からですね、
もういいから会ってみろと言われてですね、
トヨタ・サキシさんと、
それからその長女の愛子さんに初めて会うわけですね。
スピーカー 2
会った瞬間にも結婚させてくださいって。
スピーカー 1
いいですね。なるほど。
なぜか。
もう愛子さん、壮絶美人だったんですよ。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
もう見て一目惚れですね。
結婚金めると。
もう美人で賢くて働き者で気立てがいいと。
で、言ってみれば社長の椅子を約束されたような感じですね。
ただこの家にはキイチロウという長男が、
後取りは当然いるわけですね。
なのでそれも気にしていたんですけども、
当時キイチロウは高校生かな?だったので、
学生なのでまだということで、
外の人材をということでリサブローになったんですけども、
実はリサブローは急に気持ちを変えて結婚しますって言ったんですけども、
当の愛子さんの方はですね、
最初はもう泣いて嫌がったそうです。
スピーカー 2
あーまあそうですね。
スピーカー 1
なぜならば愛子さんまだ17歳です。
はい、リサブローさん32歳。
スピーカー 2
おーリサブローの即返事したのがちょっとね、
なんかあれですけどそういうことか。
スピーカー 1
ちょっとなかなか、
スピーカー 2
時代ですねこれ。
スピーカー 1
時代ですよね。
ちょっとこれは何とかハラスメントと思いますし、
女性の人権をってことを考えると、
良くないことなのかもしれないんですけども、
ちょっと一応その豊田家の名誉の場面ですね、
台本にしかないのでリスナーの方には見れないと思うんですけども、
これの台本の次のページの上にですね、
リサブローさんと愛子さんの仲もつましい写真が出てます。
めちゃめちゃ仲良かったんです。
スピーカー 2
初めはやっぱりそれは17歳だし、
親が勝手に連れてきたみたいな話じゃないですか。
スピーカー 1
そうみたいなんですよね。
泣いて嫌がったっていうのは、
相手が同行じゃなくて自分の意思で決められない、
勝手に決められたっていうこと自体で嫌だったっていうことだそうです。
スピーカー 2
確かに仲良さそうなお写真が膝の上に載ってるみたい。
スピーカー 1
ちなみに右側にいるのがキイチロー。
3人で欧米旅行に行ったときの写真です。
めちゃめちゃかっこいいですよね。
スピーカー 2
かっこいい。
スピーカー 1
なのでその翌年、1920年にですね、
台本にちょっと映ってますけども、
もうなんかお城みたいな位置ですよね。
洋館を購入して。
ちなみに豊田さんはですね、
すごい大豪邸に日本に住んでたわけじゃないんですね。
なんといっても七日豪賢、失踪奸役でいってる方なので、
でも中国ではこういうわざと立派な家を買った。
それは中国の人に信頼をしてもらうために、
七日豪賢的なところじゃなくて、
こういう立派な家にちゃんと住めるんだ、
安心してくださいっていうのを見せるために、
わざとこういう家を買ったんだっていうことを起こしていますね。
1921年、柿地さんが54歳のときにですね、
これまで個人工場でやってたところをですね、
株式会社上海宝石省という株式会社に組織改編をしてですね、
柿地さんが社長になって、
一緒に行っていた西川昭二さんが取締役に就任してですね、
この西川昭二さんに現地での経営を一切を任せた。
この西川昭二さんっていうのは、
もともと朝子さんの親戚筋の方で、
最初のほうからちょっと出てきた人ですけども、
柿地さんを大大将、大きい大将ってずっと呼び続けてですね、
大大将が中国の経済発展のために会社を作ったんだっていうことで、
その理想を自分が完全に継承するというふうに思ってですね、
自動初期の技術っていうのを中国の現地に伝えて、
発展に貢献をするということをしっかりとされた方です。
これはですね、当然現地に残っていろいろやったんですけども、
2009年にですね、本が出てまして、
中国房植機械製造業の基盤形成技術移転と西川昭二という、
中国の方が書かれた書籍なんですけども、
西川昭二さんで検索するとですね、この研究書が出てくるんですよ。
これ中国の方が書いた本なんですよね。
それぐらいこの方っていうのが織物の世界でですね、
中国に技術を貢献したっていうことの章作でもあると思います。
中国のために頑張って、もちろんその自動初期を作ってってことをやってきたんですけども、
この方はですね、アメリカに一緒に行ってるんですね。
そのときにT型フォードを一緒に見てですね、
これはすげえ自動車だっていうふうに大大使が言ってるんですね。
それを聞いている数少ない人なんです。
今回のこのシリーズの中では子供としてしか出てきてないんですけども、
この後ですね、自動車事業を始めるのは、
豊田幸さんの長男豊田喜一郎さんになるんですけども、
自動車業界の進出にお金がかかるんですね。
しかも初期産業で大成功してるので、
自動車なんかやる必要がないんですけども、
お金もない状況で周りから猛反対される。
そのときに中国からですね、資金面でもこの豊田喜一郎さんを支え続けたのが、
この西川昭二さんだそうです。
なので中国にいた2番経営人材の最後の5人目はこの西川昭二さんということになりますね。
ということで、豊田自動車の創業史の伏線ですね。
自動車の製造も豊田自動車の源流となった、
豊田自動初期製作書もまだ出てきてないんですけども、
この創業史、豊田幸支援は今日ここまでと。
スピーカー 2
いやーすごいですね。
でもなんかこの先もありますけれども、もちろん国のためにやるって言って始まったところ、
そこのビジョンが明確にあったわけじゃないですか。
結果的に豊田という会社は本当に日本の国の国力を上げたし、
日本の自動車産業を引っ張ったわけですから、
本当にそれが達成してるんですよね。
スピーカー 1
いやそうですね。
スピーカー 2
家出したりとか、奥さんをほったらかしにしたりする経緯もありましたけど、
スピーカー 1
そのビジョンを達成してると思いながらこう聞くとものすごいなというところですね。
なんかこう、さっきさんの人生で上手いこと言ってないじゃないですか。
スピーカー 2
そう、上手いこと言ってないですよ。
スピーカー 1
絶対失敗してそっから這い上がる。
もうずーっとそれを繰り返して周りの人も不幸になった。
でもなんかすごい偉大な発明をして、
結局頼ったのは家族っていうところ。
スピーカー 2
信頼できるのは家族ってことですよね。
スピーカー 1
この2番経営人材も全員が家族なんですね。
演者なんですね。
西川喜次さんも奥さんの演者ですから、やっぱり一族なんですよ。
ここの中には、もちろん皆さん経営をされていたので合理性だったりとか、
格あるべしっていうところはあったと思うんですけども、
そういうのを超越したトップの意思の力に、
いかに寄り添ってその人のためになっていくのかっていう。
外の人材だと本当にできない。
中にいるからこそ、一心同体になって全てを捧げてっていうことができる。
でも他人資本で頑張って苦労して、結局買えるところはここだったんだなっていうところですね。
豊田自動車っていう会社が今でもオーナー一族の名前が残る方たちがいて、
決して株主としてマジョリティってわけではなくてですね、
1%未満のようなあんだけの会社なので。
なんですけども、ずっといていただいてるっていう、
なんか源流にこの時の苦労だったりとか思いとかっていうのも、
ひとしたらあるかもしれないなっていうのも感じます。
今回は本当ここまでなんですけど、
この後、キイチロウさんの時に完全に外部の経営者の人たちも入ってくるわけですよ。
ここでキイチロウさんイズムみたいなものにですね、
合理主義とかそういうロジックで経営をしていくっていう、
サイエンスの領域みたいなのがどんどん入ってくるんですね。
それによって発展していったっていうこともまた興味深くてですね。