1. 二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜
  2. #56 夢の国産車開発へ。その裏..
2025-04-02 28:42

#56 夢の国産車開発へ。その裏にあった「時代を読み切る力」。トヨタ自動車創業者・豊田喜一郎編⑤

▼今回のトーク内容: 

1933年、自動車部設立/社内から技術者を終結/だが自動車開発の経験なし/他社から引き抜く/技術者だけでなく販売するプロも必要/ゼネラルモータースから神谷正太郎を招聘/「国産車」は夢/豊田喜一郎のチームづくり/1934年、初のエンジン開発/喜一郎「国産車でも大衆車を作りたい」/イメージは3000cc=外車/他社は1000ccクラスの小型車が主流/なぜ大型車?/喜一郎「どうせやるなら難しい事業を」/当時の日本は戦争に向かっていた/想定敵は米・英/戦争になれば大型車が輸入できなくなる/そこに市場が生まれるという読み/軍との連携/1935年、試作車完成/ここで社内から自動車開発に反対意見/「資金を使い過ぎ!いい加減道楽はやめろ」/従業員給与、株主配当を抑え自動車開発に回していた/ここで救世主登場/上海のグループ会社/豊田佐吉時代のNo.2・西川秋次が出資を決断/この出資がなければ今のトヨタ自動車は無かった/トラックの開発/戦時需要を見込む/豊田グループ結束へ

※番組内で「豊田喜一郎氏が試作車製造までにかかった金額は480万円、当面の研究資金として追加で500万円欲しいと言い出した」という件を紹介、「現在の価値だと約5億円位使って、更に5億円欲しいと言ったも同然」と言っていますが、換算違いでした。「50億円使って更に50億円」の方が近いと思います。お詫びと修正を申し上げます。

▼番組概要:

COOや副社長などの「組織のNo.2」。その仕事をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、仕事の面白さ・大変さなど「No.2の悲喜こもごも」を語っていく番組。製造業に特化したコンサルティング企業、オーツー・パートナーズ取締役の勝見靖英と、幻冬舎「あたらしい経済」編集長の設楽悠介がMCを務める。毎週水曜日配信。

▼番組ハッシュタグ:#二番経営

▼番組への感想、MCへのメッセージは以下までお寄せください:

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▼過去配信回をシリーズ別でプレイリスト化しております:

⁠⁠⁠⁠⁠https://t.co/TvbyZaezDD⁠⁠⁠⁠⁠

▼MC:

勝見 靖英(株式会社オーツー・パートナーズ 取締役)

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://www.o2-inc.com/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

1971年生。慶應義塾大学文学部卒。ジャパンエナジー(現ENEOS株式会社)、PwC、デロイトトーマツコンサルティング、日本IBMなどを経て、2015年7月よりオーツー・パートナーズに参画、2018年4月より取締役。製造業を対象とした戦略策定、業務改革、ERP/PLM等大規模システム導入等のプロジェクトを多数経験。プロジェクトマネジメント、チェンジマネジメントを得意とし、現在は経営企画/会計/人事総務/組織開発/IT/マーケティング広報等を管掌。

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://www.o2-inc.com/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

設楽 悠介(幻冬舎「あたらしい経済」編集長)

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/ysksdr⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

1979年生。明治学院大学法学部卒。マイナビを経て幻冬舎に。同社でコンテンツビジネス局を立ち上げ。電子書籍、コンテンツマーケティングなど新規事業担当。2018年にブロックチェーン/暗号資産専門メディア「あたらしい経済」を創刊。幻冬舎コミックスの取締役を兼務。「Fukuoka Blockchain Alliance」ボードメンバー。ポッドキャスターとして、Amazon Audible original番組「みんなのメンタールーム」や、SpotifyやAppleにてWeb3専門番組「EXODUS」など配信。著書に『畳み人という選択』(プレジデント社)。

▼ディレクター:

関岡 憲彦

▼プロデューサー:

野村 高文 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/nmrtkfm⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼制作:

Podcast Studio Chronicle ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://chronicle-inc.net/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼カバーデザイン:

松嶋 こよみ ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/

サマリー

トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎は、自動車部設立後に新たな人材を迎え入れ、国産車の開発に向けて組織づくりに注力しています。このエピソードでは、喜一郎のビジョンを共有する技術者や販売責任者の採用、そして国産大衆車の夢について語られています。豊田喜一郎は、大型車の開発において国外情勢を読み取り、国内市場の変化を捉えた戦略を立てています。彼の野心的なアプローチは、トヨタの自動車事業に大きな影響を与えています。トヨタ自動車の創業初期における挑戦と成長が描かれ、豊田喜一郎は自動車事業を立ち上げる中で資金調達や初期のトラック開発に苦労しています。また、当時の品質問題や顧客対応の誠実さがトヨタの基盤を築く要素となっています。

自動車部の発足と組織作り
スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。
この番組では、なかなかおもてんでない組織の二番 No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツーパートナーズ取締役の勝宮すいでです。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長の修田れいゆうすけです。
二番経営第56回、今回もトヨタ自動車創業者・豊田喜一郎編の
第5回となります。よろしくお願いします。
スピーカー 1
はい、よろしくお願いします。
ちょっとだいぶ長くなっておりますけれども、
このままのペースで、何とか走り切りたいと思っております。
楽しみです。
前回ですけれども、喜一郎さんがですね、
その自動車製造業への思いを持ってですね、
何でそれに取り組まなきゃいけないのかっていうのを、
しっかりとですね、喜一郎の弟で、
あるいはトヨタグループのトップである梨沙風朗さんに、
説明をして理解をしてもらいましたと。
で、トヨタ自動食器製作所というところに、
自動車部っていうのが設立されたんですって、
お話までさせていただいたと思います。
スピーカー 2
いよいよ自動車が出てきたっていうところですね。
スピーカー 1
はい、そうですね。ようやくというところなんですけども、
今日はですね、その1933年に自動車部ができた後からの話をさせていただこうと思います。
この1933年の自動車部設立後はですね、
もう喜一郎さんは思いっきりですね、
その自動車業っていうのに振っていきます。
で、こっからですね、組織の立ち上げ同様にですね、
怒涛の組織作りっていうのに着手していきます。
まずはですね、もともと食器製造ですとかで、
しっかりとしていた技術者ですね、
ただ自動車作ったことがない、
そういう人材を社内から集めます。
ベテランの技術者ですとか、
人材の引き抜きと国産車のビジョン
スピーカー 1
新進企業の技術者、それから大学出たての技術者たちを集めて、
社内のメンバーでコアチームっていうのを作ります。
ただいかんせんですね、自動車製造の経験はほとんどないということで、
こっからがですね、喜一郎さんらしくないような動きになってくるんですけども、
あんなに口下手で陰キャと言っていた人がですね、
ひたすら人に会いまくってですね、
他社の引き抜きをガンガンにしていくって感じになります。
以前ですね、中京デトロイト計画っていう名古屋エリアで、
自動車をいろんな企業が集まって作っていくっていう取り組みがあったっていう話を申し上げたんですけども、
その時にですね、その自動車、アツタ号と言ったんですけども、
そういったものを作った人材っていうのはですね、
どんどんハイアリングしていきます。
最初の人材はですね、トヨタ式初期っていう宿命の相手の中にいたエンジンを作ったですね、
エンジンの駐造責任者という人材、菅さんという方なんですけども、
それ以外にですね、他の会社でまたこれまた小型の自動車を設計したことのある人材ですとか、
あるいはその工材と言って、自動車のボディですね、
の素材なんかを作っている、他社でその自動車を作っていた、
そういう人材っていうのはどんどんどんどんあってですね、
キイチローさんの自動車に賭ける思いっていうのを伝えてですね、
どんどん巻き込んでいきます。
その中にはですね、この自動車部の中で大卒採用の第一号になるような人材も新たに迎えたりというのをしていきます。
ほとんどがですね、最初は技術者の方たちだったんですね。
他の会社で自動車を作ったことのある、そういう会社で仕事をしていた人たちなんですけども、
まだこの1933年では自動車を量産するという会社は日本には存在していなかった。
そんな状況ですので、キイチローさんがですね、
自分が日本のオリジナルの国産車っていうのを作りたいんだ。
ぜひあなたの技術をここで活かしてくださいということを言ってですね、
どんどんどんどん引き入れていきます。
技術者たちもですね、自分たちの手で国産車っていうのを作っていくっていう、
そのキイチローさんの夢にですね、乗っかって熱に当てられていくという状況があるんですけれども、
その中でですね、技術者ではなくて作った車を売っていくっていうことも当然今後は必要になってくるわけですね。
そういった人材も揃えないと事業としてはうまくいきませんので、
そのときにですね、声をかけたのがですね、
当時日本ゼネラルモーターズの販売広告部長をやっていた神谷翔太郎という方。
この方は当時の日本で外資系の企業に勤めてバリバリにお仕事していた。
この方にですね、販売のすべてをお任せします。
豊田に来てください。一緒に国産車を発展させましょうっていうふうにくどいてですね。
神谷さんは外資系のメーカーでGMの車を扱ってましたので、
そこで国産車かということで、やっぱり胸にグッと来たんでしょうね。
それでじゃあ私もやらせていただきますということで、
二人の部下と共にですね、豊田に入ってきます。
ちなみにそのときはですね、そのGMの時代の給料がもう半分になっちゃってるっていう感じです。
スピーカー 2
じゃあどっちかと言えば本当にビジョンに賭けるっていう感じで乗ってくれたってことなんだ。
スピーカー 1
そうですそうです。その時に国産車っていう言葉って今は多分なんてことない言葉だと思うんですけども、
当時日本の日本人が作った日本産の車っていうのはない時代で国産でやりましょうという感じなんですよね。
今で言ったらオープンAIがあって、クロードがあってっていうところで、
日本でLLMを作ろうと、世界で勝てるSSAIを作ろうっていうような感じに多分似てたんじゃないかなと思うんですよね。
フェローの創業者の方たちとか、もしかしたら魚AIもそうかもしれないですけれども、
そういう感じですね。日本でとにかくやろうっていうので参画しますと。
この神谷翔太郎さんっていうのは後にですね、トヨタ自動車の発展に非常に寄与する販売の神様と呼ばれる人材にもなっています。
大衆車の開発と喜一郎の思い
スピーカー 1
これで技術人、それから販売のですね、一級の人材を集めているところで、
トヨタファミリーっていうのがずっと脈々と続いてきたところですけども、
ここで新たなファミリーメンバーが参画します。
トヨタエイジさんです。このトヨタエイジさんっていうのはどういう方かっていうと、
トヨタ佐吉さん、創業者ですね、の弟さんに平吉さんっていう方がいらっしゃいました。
佐吉さんにですね、糸のからくり機を埼玉で売ってこい、関東で売ってこいって言われたその弟さんの息子ですね。
吉治郎さんから見るといとこに該当するんですけども、
このトヨタエイジさんは東京帝国大学の工学部を卒業して、
ちょっと1933年の後になるんですけど、
36年にですね、23歳でトヨタ自動食器に入社をすると。
そこで若い血筋っていうのが入ってくると、しかも極めて優秀な方と。
このトヨタエイジさんはですね、東大から入ってくるって感じなんですけども、
子供の時から、吉治郎さんと言うんですね、工場にしょっちゅう出入りしていて、
トヨタ佐吉さんからもめちゃくちゃ可愛がられてたそうです。
トヨタさんからも非常に優秀でも将来職望されていたジュニアの一人だったという感じですね。
こういう新しい人材も参画してくるという感じです。
この時点の吉治郎さんの動き方っていうのは、やっぱり自動車を始めるとなった後ですね、
もうガラッと変わってくるんですね。
それまでと別人のようだっていう評価が残っています。
トヨタ自動食器時代にですね、いろんな防石器を作ったり、
G型の自動食器を開発したっていう時もですね、
極めて熱心で忙しくお仕事をしていたんですけども、
あくまでも一技術者っていう感じなんですよね。
今回その自動車事業っていうのが始まると、まずは自ら先頭に立って、
理想をですね、自分からどんどん話していって方針を出して、
時にはいろんな人と戦って部下たちを励まして育てる。
そのビジョンに共鳴した人たちが新しくどんどん入ってくるっていうサイクルが回る。
そういう感じです。
これまさにですね、ボンボンが技術者から事業界へどんどん覚醒していくっていうのが、
この1933年から起こってきているということですね。
自動食器を作るっていうことで、こうやってG型が出来上がりましたと。
佐吉さんとしてはもう自分の悲願のものが叶ってですね、
チームのメンバーも喜んでいたところで、
一人喜一郎さんはめちゃくちゃ冷静だったっていう話を前回申し上げたんですけれども、
自分のやりたいこと、自分が決めたことって感じではなかったんでしょうね、きっと。
なるほど。
自動車は自分がとにかく決めたものであるということで、
しっかりやらなくてはいけないという責任感もですね、
スピーカー 2
これまで以上に湧いてきた状況だと思います。
スピーカー 1
そんな中でですね、その喜一郎さんの方針によって、
まだトヨタ自動食器の自動車部には製造する設備とか、
そんなものも何もない状況ですので、
そういったものをどんどん準備していくという段になっていきます。
先ほど申し上げたハイヤリングをしながらですね、
内部にいる喫水の技術人たちをですね、
引き連れてどんどん設備を整えていくという過程になるんですけれども、
喜一郎さんはですね、いろんな人に会って、
どんどん人を集めなくてはいけないので、
会社にずっといるというわけではないんですね。
なので、現場のメンバー喜一郎さんからの指示を受けて、
こういう設備を買えと設置しろというのを言われたので、
それの手配にもあります。
ただそのときにですね、大きい設備を買うときっていうのは、
当然今でもどの会社もそうだと思うんですけれども、
勝手にですね、従業員が買うわけにはいかなくて、
必要な決済権者、承認権者の人がいらっしゃって、
その方のハンコをもらってようやく買えるというプロセスがあると思います。
今回の自動車部のいろんなセッションは全く同様で、
現場のメンバーがその承認権者の従約のところにハンコをもらいに行くんですね。
そうするとですね、その従約は私はこんなの聞いてないって言って、
突っ返されるそうなんですよ。
当然その自動車に関する事業なので、
温蔵氏であり自治省のトップの喜一郎さんが指示をしたってことは、
この従約十分知ってます。
でも私は聞いてないって言って突っ返すんですね。
これって温蔵氏のジニアが自分の堂楽でやってるってことではなくて、
この豊田自動初期製作所っていうのが、
きっと組織としてのガバナンスが生きてるってことでもあるんですよね。
いくらそのトップの意向、温蔵氏の意向であっても、
設備投資の決済者っていうのがしっかりとチェックして、
これは本当に投資すべきだろうかどうかっていうのを判断して、
それでOKを出している。
現場の人から見たらもうたまったもんじゃなくて、
こっちから言われて、あっちからも別のこと言われてっていうんで、
すごく大変だったと思うんですけども、
こういう温蔵氏だから、オーナー一族だから右向けって言われたら、
みんな右向くっていう人材じゃなくて、
結構骨太の重役人がいるっていうのが、
豊田グループの強みだなというのはすごく感じますね。
この後も生きてくる。
そういった設備を備えながらですね、
なんとかその自動車製造の第一歩、
1934年にエンジンっていうのが開発されます。
エンジンから作っていくって感じですね。
そこでエンジンを作ったわけですけれども、
その時にですね、自動車事業を始めた喜一郎さんなんですけども、
国産車っていうキーワードが出てきました。
じゃあどんな国産車を作ろうとしていたかっていうところなんですけれども、
喜一郎さんはですね、国産車しかも大衆車を作りたいというふうに、
いろんな人に言っていたんですけれども、
大衆車ってどんなものか。
昔で言うと大衆車って言うと、
トヨタだったらカローラ。
あーそうですね。
有名かもしれないですね。
松田さんだったら、昔はファミリアとかデミオとかね、
ありましたし、日産だったらサニーとか、
そんなのをイメージされる方もいらっしゃるかもしれないんですけども、
この時、喜一郎さんが言っていた大衆車っていうのは、
喜一郎の大型車戦略
スピーカー 1
廃棄量で言うと3000ccクラスの乗用車。
3000ccって結構デカいんですよ。
デカいですよね。
だから大衆車イメージってあんま合わないんですけども、
喜一郎さんが言っていた大衆車っていうのは、
アメリカの大衆車って感じなんですよ。
アメリカサイズのものなんですね。
スピーカー 2
アメ車みたいなデカいやつ。
スピーカー 1
そうです。まさにあのデカさなんですけど、
日本だと大型の乗用車で、
なかなか乗るものではなくて、
日本にも当然大型車っていうのは走っていたんですけども、
それは全部フォードとかGMの外車しかない感じだったんですね。
トヨタと同時期に車を作り始めたニッサンはですね、
あるいは他の会社っていうのは、
1000ccぐらいの小型車とか、
あとトラック、そういったものから自動車の製造っていうのを始めていたんですけれども、
それで喜一郎さんは、
いやいや3000ccの大型車だっていうふうに思っていたんですね。
常識的にどうしてもありえないような感じなんですよね。
まず小さいものから、より簡単なものから作って大きくしていくっていうのが、
一般的な考え方だと思うんですけども、
この時にですね、
なんでこんな大きいのから作るんですかと言われた喜一郎さんはですね、
マスコミにも対してもですね、
どうせやるなら誰もやらない難しい事業をやるから、
人生は面白いんだって言ってたらしいんですよ。
このセリフって、今でもベンチャーの経営者とか、
スタートアップの経営者、言いそうな感じだと思うんですよね。
誰もやらないことにチャレンジするんだ、
だから人生は面白いんだって言うと思うんですけども、
これ全然喜一郎さんのキャラじゃないんですよね、こんなセリフって。
ただこれをずっと彼は言ってたらしいんですね。
でもその裏側にはですね、
実はその自動車事業を始めたと同様にですね、
喜一郎さんの頭のコンピューターがですね、
もうフル回転して答えを出したのが大衆車、大型車だったんです。
国産車開発の課題
スピーカー 1
これどういうことかっていうと、
1933年に自動車部が設立して進んでいたわけですけれども、
まず日本どういう状況だったかっていうと、
1931年にですね、満州事変というのが起こります。
1933年はですね、国際連盟から日本は脱退するという感じです。
まさにですね、戦争に向かっていった、そんな時期だったんですね。
これ戦争ってどことどこの戦争かっていうと、
日本の敵っていうのは当時の想定はアメリカであったり、
イギリス、あるいは中国もそうですね、
いわゆる第二次世界大戦で相対する、
そういう国々と戦争が始まる可能性が非常に高まっていた。
今は事後的にそういう大きい戦争が起きたっていうのは知ってるんですけども、
1933年、戦前ですね、
それでも戦争が恐らく始まるだろうっていうのを察知していて、
そうするとどうなるか。
アメリカ企業のフォードとか日本GMっていうのは、
日本政府から自動車の製造っていうのは恐らく許されなくなる。
輸入もできなくなるっていうのをキイチローさんは分析していたんですね。
その分析のもとっていうのは、
自分の同級生たちが国の役所、大学、研究機関ですね、いっぱいいるわけです。
そこのネットワークを使って情報収集して、
恐らくその外資系の自動車メーカーっていうのは、
生産も輸入もできなくなる。
つまりその時点で日本での大型車っていうのは、
年間2万台会社があったみたいなんですけども、
そのマーケットがいきなり生まれてくると。
プレーが急に消える。
でもマーケットはあるわけですよね。
つまりそこを一気に独占するチャンスっていう見立てだと。
ものすごい戦略的に考えてるね。
スピーカー 2
そういうことですよね。
スピーカー 1
これなんか今で言うとなんですけども、
当時はそんなこと思いついても、
なかなかそれ行こうっていうのは思えないぐらいの。
そうですよね。
むちゃくちゃなロジックって思われる人の方が多いかもしれないですけどね。
なるほど。
こういう情報分析と戦略を立ててですね、
それを確たるものにするということで、
紀一郎さんはですね、ロビーングではないんですけども、
政府への働きかけっていうのをどんどんどんどん進めていきます。
当時の政府っていうのは、戦中になりつつありますので、
軍っていうのは非常に力を持っていてですね、
当時その陸軍が日本の自動車政策っていうのを担当すると、
そういう状況だったようです。
その最重要のキーマンで、
当時大尉だった伊藤さんっていう方がいらっしゃって、
すぐ将参に昇格されるんですけども、
この伊藤将参と連携してひたすらくどいたというかですね、
こういうふうに豊田は考えてるんだっていうことで、
くどいた演説があるんですけども、
その内容はですね、今の豊田暴食、
豊田自動食器製作所は非常に好調で、
年間100万円の投資なら5年はできます。
その後潰れるかもしれないが、
その5年で技術を蓄積し人材を育て、実績を残します。
豊田が潰れても決して無駄にならない。
国産大衆車づくりに邁進します。
っていうふうに言ったらしいですよ。
これ豊田暴食とか自動食器の方たちから見ると、
いやいやトップが潰れてもいいとかって、
何言ってんだって感じだと思うんですけども、
相手はなんせ軍人であり、
日本の好政策を進めているキーマンですので、
もう自分の会社犠牲にしても、
日本で国産車を作るってことを、
しっかりそこに爪痕を残して、
資産を残していくんで、
なんとかって言われたら、
もうそんだけ考えてるんだったら、
豊田を中心に考えましょうっていうのを、
やっぱり国も思ってくれるわけですね。
なのでそこの軍も後押しをする、
というような構えができています。
そこをしている間に、
愛知県の豊田本体の方では、
どんどん車のエンジンができましたので、
今度は車自体ということで、
試作車っていうのを作っていきます。
試作車のA1型乗用車っていうのが、
豊田で初めて生まれます。
この試作車が出来上がった後、
1935年にできたんですけども、
その5年前、1930年に亡くなった、
豊田佐吉さんのお墓に、
その試作車で運転してて、
報告するっていう、
そういうセレモニーのようなことも行われたと、
記録が残っています。
ここまでは政府もバックにつけて、
試作車も無事にできて、
さあこれから自動車本格的に行くぞ、
というところなんですけども、
ここでそのセレモニーの後に行われた、
重役会、役員会で、
この自動車事業の参入に反対の声が、
他の重役から上がってくるということが起きます。
スピーカー 2
このタイミングで?
スピーカー 1
そうなんです。
スピーカー 2
もうだって2年ぐらい経ってますもんね。
部署を作って、2年経って、
2年ででも試作品までできてみたいな状況で、
今言うなよって感じですけど。
スピーカー 1
なかなかですよね。
実際に車もできました。
政府のバックアップもありますというところで、
なんでそこでストップがかかるか、
というところなんですけども、
これまで、
その試作車を作る前にかかった金額というのが、
480万円。
当時の金額で480万円。
今で言うと5億ぐらいっていう感じで、
思えばいいかもしれませんね。
その5億じゃかけましたと。
そこからですね、
今試作車作る前に5億使い切っちゃったので、
そこから追加の研究資金で、
さらに500万欲しい、
さらに5億くださいというふうに、
豊田喜一郎さんが言った重役会だったんですよね。
もうそれを切り出されて、
今までの5億も、
いやそんな安い金額では当然ないわけですね。
プラット車っていうところからですね、
自動初期の特許を売ってですね、
100万円できたんですけども、
それでも5倍使っちゃってるわけですから、
なかなかの金額です。
まあそこでですね、
他の重役からも、
いい加減、
もう堂楽はやめろっていうふうに、
声がワーッと出てきて、
もういい加減にしてくれみたいな感じに言われると。
まあそういう状況だったみたいなんですけども、
実はですね、
この時に、
先ほどお話した陸軍省の伊藤少佐との
ご信頼関係とかバックアップの話っていうのは、
重役人に誰にも話してないんですね、
この紀一郎さん。
スピーカー 2
そうなんですね。
スピーカー 1
そうなんです。
もう自分でこれやんなきゃって、
ワーッとやって、
もういいものできたと。
でも社内に全然共有してないから、
ただただ金食い虫であるだけって感じなんですよ。
そこの勝ち筋も見えない重役っていうのは、
当然ストップかけますよね。
でもこう紀一郎さんも、
とにかく急がなきゃいけない。
今これを作り上げなきゃいけないっていう
重い閃光で人を集めて作ってっていうことを
やり続けるという感じです。
ですので周りから見ると、
もう請求に見えるんですね。
こう急いで、
もう何かやり方の理由って全然わかんないし、
もう発明狂いっていう、
そういうふうな楽園をされると。
この時にですね、
実は繊維産業っていうのは、
未曾有の後継機で結構稼いでたんですね。
そういった暴食、
それから豊田自動食器っていうのは、
結構儲かっていたので、
お金が当然、
投資できないっていうわけではないんですけども、
実は豊田グループって、
そんなに給料が高い会社では当時なかった。
なので非常に会社利益を生んでいたんですけども、
従業員向けの給料ですとか、
株主向けの配当っていうのを抑えてですね、
内部流放して、
それを全部自動車分野ですね、
研究開発投資にしていたというのが、
過去5年間ぐらいはずっと続いていたんですね。
それもいい加減限界っていうところでも、
重役がぶち切れたという状況です。
新たな出資者の登場
スピーカー 1
ここで先ほどお話したように、
結構ガバナンスが効いてる会社ですというように申し上げたので、
ここで普通に考えると、
重役人の多数決の反対によって、
自動車事業っていうのがストップってことになると思うんですけども、
ここでですね、
エンジェルが現れるんですね。
誰かというとですね、
この出資としてですね、
500万欲しいといったところに手を差し伸べたのが、
上海トヨタ暴食省っていう会社がありました。
これ佐吉さんが中国に行って、
上海で工場を建てて、
暴食の仕事をやっていたというのがあったと思います。
そのときに一緒に佐吉さんと中国に行った、
西川昭二さんという人がいました。
二番経営人材の最後で紹介したという方だったんですけども、
この方はトヨタ佐吉さんはもう亡くなっていますけれども、
トヨタ佐吉さんはご失意の中で、
アメリカに旅行に行ったときも一緒に行ってますし、
中国のときも一緒に行っていると。
佐吉さんを敬愛してやまないと。
その西川昭二さんがですね、
お金出さないというところで、
あ、上海でお金出しますって、
ファットインしてくるわけですね。
希望の500万ではなかったんですけども、
それでも300万円で新たに出資をします。
ここで西川昭二さんカードが聞いてくるんですけども、
西川昭二さん当時54歳なんですけども、
佐吉さんとアメリカに行ったときに、
佐吉さんがこれから自動車だっていうふうに
アメリカで呟いた話をですね、
佐吉さんから直に聞いてるわけですね。
尊敬して敬愛してやまないその佐吉を
トヨタ自動車の創業と資金調達
スピーカー 1
大大将と言ってましたけども、
大大将がこれから自動車だって言った言葉を
まさに受けるようにですね、
その息子である紀一郎さんが
自動車業を踏み出していくところで、
そりゃ俺金出さなくてどうすんだっていう感じで
ポーンと出してるわけですよね。
ここで佐吉さんから繋がってきたものがですね、
スピーカー 2
ここにパチッとはまるようになるんです。
スピーカー 1
これがなかったらもうここで
豊田自動車は生まれないで以上終了
っていう感じだったんですけども、
そこで無事にですね、300万円の増資がかかって
しっかりと自動車事業っていうのが
さらに進んでいくという状況になっていきます。
スピーカー 2
すごいターニングポイントですね。
スピーカー 1
いやそうなんですね。
スピーカー 2
もしこれで本当におっしゃる通りね、
これがなかったら、
辞めてたらどうなってたんだろうって話ですよね。
初期トラックの開発と品質問題
スピーカー 2
今の豊田ってそういう話ですよね。
スピーカー 1
もう全く生まれなかったでしょうね。
それぐらいしっかりした従業者組織だった
っていうことが言えると思うんですけども、
ここで2番経営人材だった西川昭さんが
ふっと現れるというか、
年にですね1935年5月に
従業者の試作車ができました。
そこから半年後ですね、
その18回を経た11月にはですね、
今度はそのG1型、
G1型トラックっていうのも
豊田自動車が販売をしていきます。
発表される感じです。
これはですね、
豊田が最初に作ったトラック
ということなんですけども、
大衆車、従業者でやっていこう
というところではあるんですけども、
やっぱり関東大震災の後もそうですし、
これから戦時経済に入っていく
っていう時にはトラックの需要が
間違いなく高くなるというところも
見えていましたし、
作るのも従業者よりもトラックの方が
作りやすいという支障もあったので、
トラックも一緒に作りましょう
ということで作っていました。
なんですけども、
その第一号G1型トラックっていうのも
非常に故障が多くてですね、
ほんとひどい状況だったみたいです。
今のトヨタ車、レクサス車っていうのも
品質最高で、ほとんど壊れないし、
何年でも乗れるっていうような
素晴らしい製品だと思うんですけども、
当時のこの一番最初の量産ができる
このトラックっていうのは
とにかくひどかったみたいです。
ですので、
トヨタの出発点の原点っていうのは
非常にボロボロで、
とにかく品質がひどくて、
壊しまくって謝りまくったっていうのが
歴史として残っていて、
それを教訓にしなくてはいけない
ということで、
今でもトヨタには
倉賀池記念館っていうところが
あるそうなんですけども、
そこにはボロボロのトラックを
お客さんからクレームを受けながら
修理をしているっていうジオラマが
残っているらしくて、
創業当時こんなにひどかったんだ
みたいな状況を
今でもまんま残しているそうです。
そういうふうに
ボロボロの中で、
それでもトヨタ・キイチロウさんが
ひたすら謝って、
しっかりと誠意を見せて、
確実にどんなに手間がかかっても
どんなに遠いお客様でも
そこに飛んでいって修理をする
ということで、
誠実さとか情熱というので、
このトラックを売ってくれる販売店の
代表者たちも非常に心を打たれて
敬愛して、より
トヨタのグループが結束していくと。
そんな1935年が
遅れていくという状況ですね。
スピーカー 2
あれですね、
ある意味、車とかでは普通ない概念かもしれませんが、
アジャイルみたいな形だし、
本当にこのトヨタ自動車が
グループ内でできてくる過程って、
今日のエピソードも、
いわゆる大企業の中で、
新規事業を立ち上げましょうみたいな、
形の流れで始まってるわけじゃないですか。
ちょっと絡んでる人はもちろん、
幹部の人が初めから絡んでるんですけど、
そこでやっぱりもう
予算使っちゃったのかとかあるとかも、
そこらへんと重なりましたね。
非常に社内スタートアップ感を感じる。
まさにそこの
スピリットがある感じですよね。
もちろん裏には
世界情勢の話とか、やっぱり日本の話も
引きつつも、
前半の方で紹介した言葉なんて、
スタートアップの経営者が言う言葉みたいな
話じゃないですか。
誰でもやらないことをやりたいみたいな。
やるから人生面白いみたいな話があるので、
だからそんな時代が
当たり前なんですよ。あったんだっていう。
スピーカー 1
そうですね。
果敢に挑戦する
新規事業に向けた事業家としての
トヨタ・キイチローさんの
思いっていうのがずっと炸裂し続けて
いるんですけども、
それはですね、若いから思うようにやらせようとか、
温存したから好きにどうぞ
ではなくて、しっかりと
ブレーキをかける役員陣、
組織があるっていうのは
さすがだなと思いますし、
ただ合理的な判断
ではなくて、そこの中で
時々ですね、エモい
助けのようなものがバーンと
入ってきて、前に進めるっていうのが
これが運命的な
ものというかですね、
なんかそういう妙を感じてやまないんですよね。
スピーカー 2
でもなんか人がやっぱり
繋がっているんだなって思う感じとかが
スピーカー 1
ありますよね、今回のエピソード。
そうですね。このトヨタグループの
話、スターウォーズみたいだって
話を以前申し上げたんですけども、
ここで繋がってきたかっていう
西川議事さん登場でしたけれども、
これからも
スピーカー 2
続いてまいります。
ということで、初回の
なかなかボロボロだったトラックというところから
これからどうなっていくかというところをですね、
次回以降もお伺いできればと思います。
2番系
No.2の引き込む後も
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
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ここまでのお相手は
しだれゆうすけと
スピーカー 1
はつみやすいれでした。ありがとうございました。
28:42

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