朗読会の開催
エッセイ朗読を2024年の年末に行いました。 どうもカシミアノートです。エッセイを紡ぎ、声に乗せる朗読会というものを東京は高円寺で行いました。
出演者は僕を含めて5人です。 1人が僕と同業の、あのカシミアノートにも出てくれたことがある池田裕子さんにお越しいただきました。
残り3人がですね、インターネットで書いている、文筆業をされている野柳さん。 僕も一つ携わっている本屋スキーラジオというポッドキャストで喋ってくれているマーチンさん。
あとは、友達のちょっと読書会で知り合ったライターのユリさんの計5人でですね、朗読会というものを行いました。
たくさんの方にお越しいただいて、なんかいい時間を過ごせたというふうに言っていただいて、とても楽しいイベントになりました。
そもそも、なんでエッセイ朗読をやろうとしたのかっていうことをちょっと記録として残しておきたいなと思ったので、ちょっとお話しさせてください。
もともと僕が人の書いた原稿を読む仕事をしているんですけれども、自分で書いた文章を読んでみたくなったというところがあります。
実は去年の1年間、ノートというブログサービスがあるんですけれども、そこで1年間、週に1回は必ず更新していました。
プラス、日記も更新したり、あとは書きたくなったテーマとか気になったテーマについて記事を更新して、お勧めで取り上げられたりとか、そういうことをしていた1年だったんですけれども、
これを朗読したらどんな気持ちになるんだろうというところから企画がスタートしました。
というのも僕が去年の10月ぐらいからちょっとお仕事をセーブというか、だいぶちょっと時間ができたなということがあって、
コロナ禍もだいぶ抜けて落ち着いてきたというようなこともあるので、もともと僕はその小劇場とか、舞台の演出とか、そういうリアルイベントを携わってきたので、
もう少しそういうイベントっていうのを復活させてもいいんじゃないかなと思って、改めてやろうと思ったんですね。
ただその時に、今までは脚本家さんが書いた脚本とかの上演とかをしていたんですけれども、もう少し自分の言葉だったりとかそういったものを届けられたらいいなということを思ったんですけれども、
自分が書いた作品よりも自分自身が書いたエッセイを朗読するということをしてみたいなと思ったんです。
もともと書くことをなりわえとしている人たちにも参加してもらって、その人たちも自分で書いたものをご自身で朗読してもらうということで、
お話を持ち込んだら心よくOKしてもらえて実現する運びになりました。
僕の場合もそんなに文章を書くってことをメインでやっていたわけではないので、読むことには慣れてるんですけど、書くことには慣れてなかったり、
逆に書くことに慣れてる人たちを読んだので、その人たちはやっぱり読むことには慣れてなかったりとかして、そういうことをお稽古をしながらですね、
僕が朗読の演出をしながらなんですけれども、やらせていただきました。
稽古場はやっぱり楽しいですね。
それでですね、それに伴って実は会場には展示もさせていただいたんです。
その展示のテーマっていうのが、「あなたにとって書くこととは?」というテーマで募集をさせてもらいました。
なんかすごく普遍的と言いますか、書くっていうことは誰もが必ずやっていることだと思うんですね。
お手紙を書くのもそうですし、業務上でのメールを書くということもそうだと思いますし、
あとね、たぶん書いたことがない人ってのは存在しないんじゃないかっていうことだと思うんですけれども、
日記もそうですよね、ノートに書くってこともそうだし、
あとなんかね、あるじゃないですか、付箋に書いてメモ書きも書くというふうに含めていいと思うんですけれども、
そういった、なんかあなたにとって書くことっていうのは一体どういうことなんだろうっていうのに、
僕はちょっとすごく興味があったんですよ。
で、それについて改めて、自分に対しての理解も深めたかったし、
みんながどういうことを思っているのかを知りたいと思ったので、
これを集めて展示してみたいなと思ったんです。
で、その時にすごくたくさんの方に応募していただけてですね、
ちょっと具体的に会場でご覧いただくことはできたんですけれども、
外に出すというですね、ちょっとお約束はしてないもので、
具体的にどういう言葉が集まったかっていうことはちょっとお伝えはできないんですけれども、
例えばなんですが、誰かと繋がるために書いている人もいれば、
自分を知るために書いている人もいらっしゃったり、
あとは流れていく日常っていうものを残しておいていくために書いている人とか、
そういうものが多い印象がありました。
声にすることの価値
これって今例で3つ、大きくカテゴライズして大体この3つぐらいに分けられるんじゃないかなと思います。
もちろん他にね、ちょっと細かい、
なんかすごくこう、なんて言うんでしょうね、
何か業を背負ったと言いますか、
何かこうすごく重いものを背負っていらっしゃる方もいらっしゃいましたし、
本当にですね、寄せてくださった言葉自体は本当に何か同じものがなくてですね、
人生が書くごとに本当に詰まっているんだなっていう感じもとてもしました。
中でそのお寄せいただいた言葉自体を展示させてもらったときに、
今回実はお名前を省かせていただいたんです。
コピーライティングでおけるそのコピー、タイトルですね。
タイトルとそのタイトルに補足するようにコメントを書いてくださいというふうにさせていただいて、
ステートメントというふうにちょっと呼ばせていただきますけれども、
タイトルとステートメントと、そして年齢ですね。
年齢と職業というところを記載していただいて、それらを展示させていただきました。
ちょっとお名前をですね、省いた理由についてなんですけれども、
なんかですね、想像をしたいなっていうふうに私は思ったんですね、とっても。
あの、なんか言葉の展覧会とか、なんかそういう偉人の人たちとか、
ちょっとこう文化人の方とか、ちょっとこう名前がね、あの大きい方の言葉が飾られていると、
なんか僕はあんまり自分ごとにその言葉を感じることがちょっと難しいなって思ったんですよ。
なんかね、その人の言葉っていう認識をしちゃって、
あんまり僕の人生に関わってこないような言葉だなっていう感じに受け取ってしまうことが多かったんです。
で、私すごく言葉に興味があるし、もちろんそういう興味があるからこそ話す仕事をしていたりするんですけれども、
どうしてもなんかこう名前がついてしまうと、
なんか私とその人の間に線が1本引かれているような感じがしてしまって、
なんかこう、そこで想像が止まってしまうっていう感じだったんです。
なので今回、誰の言葉か分からないような感じにしたんです。
それは本当に言葉寄せていただいた人たちにも一応ご了承はいただいてはいるんですけれども、
多分お名前出したかった方もいらっしゃっただろうなと思いながら感じていました。
なんですけど、会場で実際にそれを展示したときに少しなんか面白いコミュニケーションが見受けられて、
一緒に言葉寄せてくれた方がいらっしゃったときに、
なんか私の言葉どれだと思う?みたいなことを聞こえてきて、
で、これかなーって言ったら、それ私のーって言ったりとかして、
なんかそこにしっかり余白が生まれていて、
あのー、この人はこういう言葉を寄せたんだっていうのを、
なんかすごく考えてくれるような空間と時間が生まれていて、
なんかとっても、あんまり狙っていなかったんですけれども、
実際にその現場を目撃したときに、とってもやってよかったなというふうに思いました。
なんかそれにとって改めて、本当になんかみんなにとって書くことっていうのは一体どういうことなのかということと、
そういった生まれた余白の部分に自分の言葉、自分の内在している言葉に耳を傾ける時間になってくれたのは、
とってもいい企画ができたなというふうに今思っています。
それと同時に、じゃあなぜ朗読をしようとしたのかっていうお話になるんですけれども、
実際はその展示だけでいいんじゃないかとか、なんかいろいろこう、
自分の中で葛藤する部分があったりしたんです。
というのも、やっぱりこう、書く言葉と読む言葉についてのお話になっていくんですけれども、
これは稽古場でもいろいろ話をして、僕的には結構こう、ある種発見があったり結論が出たなというものはあるんですが、
実際にこう書いた文章が素晴らしかったとして、読んだ時にその良さが伝わらなかったら、
やっぱ朗読する意味があんまりないんじゃないかみたいな。
ないしは直接読んでくれみたいな、なんかそういったこともちょっと途中思ったりしたんです。
わざわざ読む必要ないんじゃないかなとかって思ったんですけれども、
でも実際に書く言葉と、やっぱ声に乗せる言葉っていうのは、
僕はやっぱり明確に違いがあるなっていうのは、今回の朗読会を通して分かったんですけれども、
やっぱ書く言葉っていうのは、まず第一に自分から始まる言葉の誕生。
ないしは、自己との対話によって生まれる言葉なんだなっていうふうに思いました。
というのも、なんか僕の大好きな漫画で、頭の中にあるうちは傑作なんだよみたいな、そういうセリフがあるんですけど、
アイディアの形成
企画でもアイディアでも何でも、自分の頭の中にあるうちは、もうこれ以上に面白いものがないっていうふうに多分思えると思うんです。
これは多分皆さんそうだと思うんですけれど、僕もそうだし、何か企画を思いついたときにまだ誰にも話してない。
で、これ形にも整えてないときに、いやこれ絶対面白いなみたいなふうに思うんですけど、
じゃあこれを企画書に起こしてみたり、実際に言葉に起こしてみたりすると、なんか途端に面白くなくなってしまうみたいなことが、経験が僕にもあるんですけれども、
それって結局言葉にしたときにそういったことが起こってしまう。
ないしは自分との対話が済んでないうちに形にしてしまうからこそ、すごく粗末なものになってしまうみたいなことが起こっているんじゃないかなというふうに思ったんです。
なので、実際エッセイ朗読ではなくて、フリートークにしたらいいんじゃないかなとも思ったりしたんですよ。
例えばあるテーマがある。なんか手放せないものでもいいですし、なんか少し日常会話で設定されないテーマみたいな、ちょっと深めのテーマみたいなものがあったとして、
それに対しての10分ぐらいのフリートークしてもらうとかでもいいのかなというふうに思ったりしたんです。
ていうかそのほうが生の声だし、やっぱり聞いているほうも引き込まれるのかなというふうに思いながらしたんですけれども、
フリートークでもちろん準備してくるとかっていうのは大事だと思うんですけれど、やっぱり整理されてなかったりとか、もちろん生っぽさは出ると思うし、
そこに体温が乗っかるってこともあるとは思うんですけれども、そこに一つ自分の中での言葉を選んだりするような時間があんまり取れないのかなと思ったりもしたんですよね。
なので、まず一度自分の中で原稿を作ってみる、台本を作ってみるってことなんですけれども、
その作業がエッセイ朗読においてはすごくまず必要な要素だったのかなというふうに思いました。
自分の対話をまずしてみる。
自分の中で思っているテーマに対してはこういうことを私は感じていてっていうことをうまくできたのかなっていう感じはしました。
声にすることの意義
今回のテーマは朗読会のタイトルでもある浮遊する星屑、空に落ちる前の言葉っていうふうに参加していただいたゆりさんがタイトルをつけていただいたんですけれども、
その言葉になる前の星屑のような言葉を捕まえて話してみようみたいな、そういうものがテーマの中で、
自分の中につい浮かんでは消えてしまうような言葉を、それを捕まえてしっかり言葉にしてみよう、声にのせてみようっていうところがコンセプトで始まったので、
みんなが見逃してしまうようなものをあえてその朗読会というちょっと限られた空間の中で声にしてみようっていうものでした。
じゃあ、声にのせた言葉っていうのはどういう役割があるのかっていうことなんですけれども、
本当に実際に読めばいいじゃんみたいな。じゃあ、いや、なんでこんなに読めばいいんじゃんって思うのかっていうと、
やっぱ声にのせるってすごく勇気が得るなっていうふうに思ったんです。
実際に3回、1日に3回ですね、朗読の講演をやらせてもらったんですけれども、
本当に初回の時に私の稽古時間が全然取れなくて、実際の原稿ができたのも本当に24時間前にできたみたいな、本当に前日にできて、
それまで本当に他の出演者の皆さんの原稿と向き合ったり、朗読にちょっと向き合ったりしていたこともあり、
私にかける時間が私自身あんま取れなくて、本当に前日にもう本当に今までのことを全部踏まえて急ピッチで原稿を仕上げ、
やっと初回で皆さんの前で初披露みたいな、 出演者の他の出演者の皆さんも私の朗読聞いてないですから、本当に全員もう同じタイミングで聞くみたいな、そういうことだったんですけれども、
その時に後半、あのだいたい10分から15分ぐらい一人読むんですけれども、後半12分ぐらい経った時に、
なぜか知らないんですけど、私も涙がこぼれてしまって、むせびないではないんですけれど、なんか目からなんかやっぱりこれ泣きそうみたいな感じになって、
自分はあんまりそんな感情ではないんですけど、 なんか目から涙がすすって垂れてきて、そうするとやっぱり喉がちょっとしまっちゃうんですよね、
なんか、 でそうしたらなんかちょっと涙声っぽくなってきちゃったりとかしてて、自分ではそういう感情に
なんかなるつもりもなかったんですけど、 自分が整理した言葉とか、届けたかった思いとか、これ聞いて欲しいなーとか伝えたいなーって思いを、
本当にこう素直に思ったことを 読んだだけなんですけれど、
会場の空気がとってもあったかいのもあったりして、 すごいこんなに受け入れられるんだっていう感覚も
なんか踏まえてなんですけれども、なんかねすごく嬉しくて、 感極まってしまったっていうのもあるんですけれども、
結局何が起こったかっていうと、 今までは自分だけの言葉だったんですよ。書いた言葉っていうのは、
もちろんお手紙とかだとね、相手に向けて書いてるからちょっと変わってくるかもしれないんですけれども、
やっぱエッセイを書いてみた言葉っていうのはやっぱり 自分との対話で生まれた言葉であって、それが声に乗せることによって、
お客様の反応
聞いてくれてる人が存在しているわけですから、 あなたと私の言葉になるみたいな、そういう感じに思ったんですよね。
だから書いた文章だけでは、 やっぱり届かない要素が声には含まれているなっていうふうに思ったんです。
もちろん今回朗読会で、 書いた本人が読むってことが最重要テーマだったんです。
それはやっぱり、これを書いた人が目の前にいるこの人で、 その人から発せられる声っていうのはどういう声なんだろうみたいな。
声ってやっぱりいろんな要素が詰まってて、 この人がどういう人生を送ってきたのかなとか、
なんか思ったりするじゃないですか。 なんか第一印象っていうのがあるとして、
僕はなんか声をまだ聞いていない状態と、 声を聞いた状態の第一印象って大きく変化するなって僕は思っているんです。
まあそれくらい僕はやっぱり声が好きだし、 その人の声ってのがやっぱり、
まあなんか人を表しているような感覚があって、 だからこそエッセイってその人の内側から出てくる言葉自体を、
その人の声で聞いてみたいかもみたいな、 っていうふうに思ったので。
なので読みが別に上手だろうが下手だろうがあんまり関係なくて、 その人自身が読んでいて、
かつ、まあ過不足なく、
届けられることができたらいいなと思ったんです。 メール解釈不一致をなくしていくみたいなことを稽古では知ってたんですけれども、
なんか書いた時の解釈、まあ書いた文を読む時の解釈と、 その人の口から出て声に乗せて聞いた時の解釈が変わってしまうっていうのは、
やっぱりちょっともったいないというか、
せっかくね、その人が読むのであれば、 やっぱりその人の真の部分っていうのを届けたいってこともあって、
しっかりなんで、大テーマとしては自分の言葉をあなたとの言葉にして、 それを聞いてくれた人たちがさらに、
まあ、句伝だったりとか、 まあなんか他の人に話す時に、
なんかこういうことを、 なんかその人は言っててっていう、さらになんか違う言葉に繋がっていくようなことが、
エッセイ朗読でできたらいいなっていうことを思いながら企画をしました。 って感じです。
実際やってみて、ちょっと感想も途中であいまいも話したんですけれども、 一番びっくりしたのは、
なんか、読んでみたいですって言った人が、 結構たくさんいたんですよね。
私もやってみたいです、みたいなことを言われたのが一番意外でした。
ああ、なんかやりたい人っているんだって思いましたね、その時に。
もうそうだし、なんか第2回はいつですかとかって言われることも結構多かったんです。
それはなんか今回行けなかった人もそうだし、 あのお言葉言わせていただいた人もそうなんですけれども、
なんか次はいつやるんですかっていうふうに聞かれることが多くて、 でもあまり考えてないんですね、第2回やるかどうかってまだ。
すごく頭の片隅にはあるんですけれど、
なんかすごく大変だなぁとも思いながら、でも、 なんかやっぱり
なんて言うんですかね。
今の sns の状況とかテレビの状況とかを見てると、 なんか本当に今の世の中、何が嘘で何が本当かなのかが、
なんかわからないんです、私。 あの私って言い方しますね。
私は今本当に世の中で起こっていることの何が本当で何が嘘かがわからなくて、
で、それ故に結構ご自身で判断してくださいみたいなこと言われることが増えたなって思うんです。
なんか憶測で物を考えちゃいけないとかっていうのももちろんわかるし、
でも今世の中に出る情報で判断するほど、 なんか確信めいたものもないしっていう。
それでご自身で判断してくださいって言われても、 なんか僕は困ってしまう
って感じなんです。 で、もちろんじゃあ今ある情報の中で
なんか決断しろって言われた時に、 もちろん見たい現実しか見たくないじゃないですか。
ってなってくるとかなりバイアスがかかって、 世の中を見てしまうような気が
ずっとしてるんです。去年1年間ぐらい。 で、
本音と言葉の変化
なんかこう声の大きい人だったりとか、 もちろんこう立場がね、偉い人たちの言葉って強いじゃないですか。
で、誰かと本当に話しても、 なんかこの件ってどう思うっていう話をしても、
まあなんか誰々さんはこう言っていたよねみたいな。 なんかその人の言葉じゃなくて全然違う人の言葉を
引用してくる。なんか人が結構増えたなっていうふうに思っているんです。 で、その時にいつも思うのはなんかその有名なインフルエンサーとか有名人の人の
言葉よりも、なんか少なくとも僕の一番近くで生活しているあなたの意見が知りたいんだけどっていうふうに結構思ってるんですけど、
なんか難しいですよね今って。 僕神田博山のラジオ好きなんですけど、あの博山さんがその本音は有料の時代になっていく
みたいなことをおっしゃっていたことがあって、 なんかラジオの友は真の友っていうふうにキャッチコピーなのがついてる番組なんですけど、
その真の友っていうのはね、なんかラジオで話していることっていうのはすごく本当のことを喋っているように子供の頃感じましたみたいなところから
ラジオの友は真の友っていうふうについてるんですけれど、 今メディアとかSNSで本当に本音を話すと、そこに何か叩きに来る人たちが結構
いるような気配がしているんです。 そうすると本音とか本当に思っていることっていうのは、もうみんな表では言わないような世の中に今後どんどんどんどんなっていって、
なんか本音は有料っていうのはそのオンラインサロンの中でしか言わないとか、 有料でディスコードで招待してくれた人にしか話さないとか、
なんかそういうふうな世の中にどんどんなっているような気がしているんですね。 だからYouTubeライブとかでなんか話している人たちもなんかアーカイブはこれ残しませんとか、
だから今ここに来てくれている人たちだけで共有しましょうか。 なんかそういうことが増えているような気がして、切り抜かれるのも嫌だし、あ、そうそう、切り抜きも禁止とか、
なんかそういうことが増えているような気がしてて、どんどんなんか世の中からその人の本音の言葉っていうのが なんか消えていくような感覚がしていたんです。
肉声の重要性
だからこそ、 エッセイを書いて、
その人の肉声でね、あのマイクを通さなかったんです今回。 スピーカーからその人の聞こえる声っていうよりかは、やっぱ肉声で聞きたいなっていう思いもありまして。
僕がやっぱりこういう仕事をしていることもあって、AIの音声とかも増えてきて、 人間の生身の肉体から発せられる声っていうのを聞く機会って結構なくなってきたなって思うんです。
あのラジオもテレビも、それこそ配信も、 全部マイクとスピーカーを通して聞く音になるので、肉声でその人の思いとか、
思っていることっていうのが共有できる場所っていうのがすごく小さくていいから、 なんかやってみたいなって思ったのが今回の取り組みです。
なんかちょっといろいろ話してきましたけれども、 私的には
なんかもうちょっと、なんかこの取り組みを やりたいなっていう思いもあれば、
やっぱちょっと大変なので、 大変なんです。
いや本当大変なんですよ、これ。なんか本当に。 なんか今までの舞台、朗読劇とかの演出は、台本のこう、まあもちろん編集はもちろんするんですけれども、
やっぱ傾向に変わって、どういうふうになんかこうキャラを立体化するとか、 音声表現どうするとか、なんかそういうことに注力すればよかったんですけれども。
そう、まず原稿の伴奏から始めて、編集をしてっていうところから入って、 で、しかもその役者じゃない人とかそういう人と、あの共通言語を作るところから始めなくてはいけないので。
本当に、今思い返しても結構大変な数ヶ月だったなっていうのを振り返りながら思ってます。
はい、というわけで、ちょっと今回はエッセイ朗読っていうものをやってみたっていうものの話をさせていただきました。
またちょっとポッドキャストの方を更新していきたいと思いますので、ぜひまた聞いてください。