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おっすおっす! おはようございます。こんにちは、こんばんは。
こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。 4月15日火曜日の朝に収録をしております。
いかがお過ごしでしょうか? 昨日、
収録をしたかったんですけれども、 ちょっと立て込んでしまいました。
今ですね、 実家の引っ越しの作業が一段落をしましたが、
今日帰る予定だったんですけれど、 ちょっと帰ることができなくなりました。
またその理由についてはお伝えしようと思うんですけれども、
少なくとも今日1日はまた関東の方にいることになりました。
そんなですね、昨日1日はずっとですね、
部屋におりました。 部屋は
新居、新しくこの度引っ越しをした場所でですね、
7階なんですよね。7階です。 そう思ったのがですね、
これまで僕は平屋に住んでいたりですね、 まあ自然の中を、
大地を掛けずりながら生きてきていたので、 一度も
自分で地上の土を踏まなかったってことがなかったんですね。
まあ少なくともここ数年はなかったんですよ。 必ず地上の地面を踏んでいました。
それがね、まあ例えコンクリートであったとしてもですね、 1階の地上部分というものを踏んでいたんですよね。
しかしこの度久しぶりに 一度も外に出ないという、そんな経験をしまして、
1日中空中にいるようなふわふわしたような感じがありました。
そのふわふわした感じ、空中にいる感じな時にですね、 何をしていたのかというと、
物思いにふけたり、空想をですね、 広げたり、同じか、
それから本を読んだりしておりましたね。 それでですね、地上を眺めながら、上から眺めながらですね、
様々な農業書、どんな農業の方法があるのかなぁとか、
自然への哲学のことだとか、そういうのを深めていっておりました。
今日はですね、そんな地上7階から 大地を見下ろし、地面を踏まなかった、そんな檻にね、
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僕が読んだ本の中から、何かこう、 得たものをね、お伝えしていきたいなと思っております。
ということで始めていきましょう。 この番組は、
4月27日に自然あふれる高尾山でCNPトレーカー交流会を無料で開催したい。 そのために、
これからクラウドファンディングを実施します。 木の名刺サポートコミュニティのヒカさんを応援しております。
ヒカさん、いつもいつもありがとうございます。 さてさて、
僕は何冊か、高知県から、この自然とつながっていたいなという思いも込めて、
自然にまつわる哲学書だったり、農業書だったり、そういったものを持っていたんですね。
それに没頭するような時間をいただいておりました。
農業、農法、農業といったら僕のイメージではですね、
何かこう 自分で育てたお野菜や作物を出荷して、そしてお金を得ていく
この一つのサイクル、お仕事の形態を農業と言うんですよね。 ただ僕が思うのは農というものなんですね。
農業と農というのは僕の中ではちょっと違うような気がしております。
僕は3年前に東京から高知へ移住をしました。 そしてその3年間の間に移住相談というお仕事を幾度となく引き受けてきたんですね。
でその中でですね、外からやってくる方々は何をしたくて田舎に行きたいというのかというと、
こう言うんですよ。 僕ね、農業がやりたくて移住をしたいと思うんですっておっしゃるんですよ。
あ、農業をしたいんですね。いいですね。なんていう話をしていくんですね。
でどんどんどんどんこう話を進めていくとですね、どうもその人にとってやりたいことは他にあることがわかってきたんですね。
例えばですね、私は植物が好きで、農業というと植物を作るっていうね感じですけれど、
植物が好きなので植物を研究していきたいだとか、あと植物を育ててそれを販売していきたいだとか、
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そうするとちょっと花屋さんみたいになっていきますよね。
そうするとちょっとこう生産者でもありつつ、販売の方にも力を入れていきたいんだっていうような感じになります。
またですね、自然が好きだっていうことで来て、で農業をしたいって言うんですけど、本当にやりたかったことは自然が好きなので川下りの
ガイドだったりとかですね、山登りのガイドだったりするんですよね。
でその傍らで農業ができたらいいなっていうんですね。
それは実はその農業という形、野菜を出荷してお金を得たいっていう思いよりも、それよりもただこのガイドとかね、
そういった川下りのツアーとかを企画して、それによってお金を得ていくっていうことの方が、実はすごくその人にとっては大きなウエイトを占めていて、
農業となると、これ本当に自然に、自然に暮らしを合わせていくっていうことなんですよね。
自分になんかその暮らしを合わせるのではなく、自分の暮らしを自然側に合わせていくっていう営みなので、
なかなかそうはできませんというような形になっていきます。
そんな時に僕がその方々にお勧めする言葉がありまして、
あ、そうかと、農業がやりたいっておっしゃってましたけど、暮らしの中に農というもの、この自然にどっぷりと浸ることのできる時間とか、
そういう機会を欲していらっしゃるんですね、なんていうことを言うと、そうなんです、そうなんですって言うんですよ。
私は実はそのお野菜を売ってお金を得たいとかそういうことではなくて、極端な話、作ったお野菜を誰かにお渡ししてね、それで喜んでもらえたらそれだけでも十分なんです。
あとは自分が食べる分は自分で作りたいっていうそういう思いなんです、なんていうことをおっしゃるんですよね。
なるほどと、そうするとそれは農業というか、農ある暮らしっていう風に言い換えることもできますかね、なんて言うとですね、確かにそうかもしれません、なんていう話になるんですね。
農ある暮らしと農業というのは、明らかにこう次元が違うものなんだということなんですね。
農ある暮らしっていうのはさ、その暮らしの中に農というものを位置づけるっていうこと、都会にいるとその自分の暮らしの中に自然というものが入り込む余地がないっていう感じじゃないですかね。
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だけど田舎に行けば自分の暮らしの中にちゃんと自然というものを位置づけられるんだなぁ、なんていうことを言うわけですね。
僕これすごく素敵なことだなぁと思うんですよね。このですね、農っていうことになっていくと、たくさんの野菜を育てなきゃいけないとか、大きな大きな野菜を育てていかなきゃいけないとか、そういうことがなくなるんですよね、解放されるんですよね。
農業となった時には、やっぱり市場に出荷をしなくてはならないので、そのニーズに応えるために量をたくさん作らなきゃいけないとか、大きな野菜を作らなきゃいけない、形のいいものを作らなきゃいけない、なんていうふうになるんですが、これが農ある暮らしになった途端にですね、そういった世界線から脱出することができるのではないでしょうか。
もちろん、いっぱいできるに越したことはないし、大きい野菜実らせることに越したことはないんですけれど、今すぐにというわけではなくなるんですよね。そこでですね、その農ある暮らしっていうことを考えると、一番大事になってくるのは、本を読むことではないんだなということがわかりました。
僕はですね、最近、自然の中で、自然の節理というものをお借りして、その上で、自然の節理の上でですね、お野菜を実らせていくっていう、そういう方法を研究しています。
今、周りクロックを申しましたけど、簡単に言うと、自然農法だったり、自然農だったり、自然栽培と言われているものだったり、また、強制農法と言われるものだったりするんですよね。
で、今話をしたですね、自然農法、自然栽培、強制農法、こういった言葉って、紐解いていくとですよ。もう何言ってるかわかんなくても構わないです。でも、紐解いていくとですね、中でやられている哲学とか、その方法っていうものが、ちょっとずつ違うんですよね。
で、これ僕びっくりしたんですよ。自然の中で自然に任せて育てるっていうことは、もう方法は一つだろうと思ってたんです。でも、それを考え出した、提唱した人によって、ちょっとずつ哲学が違うんですよね。
例えばですね、畑の中にこう、溝を掘っていくっていう農法があったり、溝っていうのは何のためかというと、水をね、流れる道を作っていくっていうことなんですね。
あと、自然の中でやっていくけど、ウネは作りますよっていう、あのふかふかのベッドはね、作りますよっていうことだったり、それから種をまくのではなく苗を外側で作って、その苗をその自然のフィールドの中に植え付けていきますよっていう方法だったりとか、まあ様々なんですよ。
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本当に様々な方法があって、哲学によって、どこまで自分の哲学を深めしっくりくるものに磨いていくかによってですね、方法も変わってくる。その人にとっての、なんだろう、心地よい方法っていうのは変わってくるんだなっていうことを気がついたんですね、今さら。
そして、一つの正解があるとするならば、その自分がお世話になるその土地のことを深く深く観察していくっていうことです。これは文字のごとくですね、地面の下側まで深く観察をしていくっていうことなんですよね。
僕たち人間は何か自然を取り扱うときにですね、せいぜい目に見えるところしかやらないんですよ。例えば、木の本数がどうだとかね、ここには何が植わってるかとかですね、植物は何があるかとか、虫とか動物は何がいるかとか、そういう調査にとどまってしまうんですよね。
地質調査なんて言ってもですね、あるそのピンポイントなその一区画だけをですね、掘り進めていって、土を抜いてですね、ここの質は何なのかみたいな、この土にはどんな栄養素が含まれているのかみたいなことはやるんですけど、その土全体の中を見てですね、根っこがどのように張り巡らされているのかとか、
ミミズがどういう経路をたどって土の中を移動しているのかとか、そういうですね、何だろう、有機的なものって言うんでしょうかね、もうパッと目で見ては分かりづらいような、そして予測もできないような、できにくいような、そして人が介入するにはですね、あまりにもその制御しづらい、しにくい、まあできないようなですね、
そういう世界のことがすっぽりと抜け落ちてしまっていることがあるんですね、そこの中のことを観察をするのは、やっぱりそこに住んでいる人なんだろうなと思います。
古来からですね、日本の自然というのは再生力が強いなんていうふうに言われているんですね。僕はあんまりね海外、ヨーロッパとか欧米の方に行ったことがないので、それを実感を伴って伝えることができないのですけれど、
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日本なんて、ほっとけばですね、いつの間にか草がブワーッと生えたりとか、アスファルトの隙間からですね、草が顔を覗かせることなんていっぱいあるじゃないですか、でも海外ってほっとくと逆に砂漠になってしまったり、
荒野になってしまったり荒れ果ててしまうと、何ペンペン草も生えないような土地になってしまうというようなこともあるんだそうですね。だからこの自然の再生力の強さ弱さというものもあって、そういったことも含めて自分の土地はどんな土地なのかということをじっくりと眺めていく、眼差しを向けていく必要があるんですよね。
土地っていうのは土の地面って書きますから、やっぱりその土の中っていうものにも思いを馳せていくことが大切なんだろうなぁと思います。
僕たち環境問題っていうことを言うじゃないですか、地球温暖化がどうだとかですね、それから食糧難がどうだとかですね、そのように伝えます、水が不足しているよとかですね、この環境問題っていうふうなこの4文字の漢字ですね、ポンと出てきた途端に、
僕たちは環境というもの、自然というものを自分の外側に置いてしまうんですよね。自分の外側に置いてその環境問題っていうものを見つめていきます。するとですね、これは解決ができないものになっていくんですね。
人が生きていてあらゆる問題に出くわしますけど、その問題、悩みっていうものってきれいさっぱり解消されたっていうことってどれくらいあるでしょうか。おそらくほとんどないような気がします。
その悩みとかその問題っていうものが気にならなくなったり、ちゃんときれいに解決されてないんだけど、そういったものと付き合いながら生きていくとかですね、そういうことが結構あるじゃないですか。それは自分自身の内面の問題であっても同じですね。
やっぱりこう、なんかこうさっぱりっていうわけではないけど、でもそういったこともあっていいじゃないかなんていうふうに自分自身が納得して前に進んでいくっていうようなことがあると僕は思っているんですよね。
環境問題っていうことも同じですね。問題っていうふうに言った途端にもうそれは解決ができないものになっていきます。
これは例えば二酸化炭素のCO2の濃度がかなり高いので減らしていきましょう、数値的に減らしていきましょうってなったとして、その基準を下回るような、つまりうまくいった削減ができたっていうふうになったとしてですよ。
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一人一人が自分たちの暮らし、これが豊かだなって、そういう実感がないとCO2が数字上削減ができました、なったとしてもですね、おそらくあんまりこの環境、この地球での僕たちの暮らしっていうものは変わっていかないんだろうなと思うんですよね。
その自然というものは自分の中にあって、そして自分自身が暮らしの中でどんなふうに自然環境を大切にしていくのか。
今ですね、東京に僕は実家でそろそろ1週間くらい経ちますけれども過ごさせていただいて、東京にいると全てが消費なんですよね。東京の中でも一部の地域では生産者としてやっていらっしゃる方がいらっしゃることはわかっておりますが、ほぼほぼ消費者なんですよ。
ご飯を外から買ってくる、いや私料理してます、自炊してますっていう方もいらっしゃいますが、その自炊をしているのも野菜とかそういったものは買ってくるんですよね、お金を出して。
だからこの買うお店がなかったとしたらもうどうするんだろうっていうくらいですね、びっくりしてしまうくらい、やっぱりこう何かを買う、何かを買う、とにかく消費者であることに徹し続けているような気がしております。
そしてその都会の中で行われているそのお仕事ですね、どんなにお金が回ったとしても効率よく稼ぎが出てきたとしてもですね、生産者ではなくサービスを提供する、これは第三次産業ですよね。
それから何ですかね、何かを加工する、お料理をして飲食店で出すとかですね、これもですね、第二次産業とか第三次産業とかそういったものになってくるんでしょうか。
第一次産業、つまり生産者っていう人たちが本当にこう偉大だなあっていうことをですね、すごく実感をしているこの1週間ほどなんですよね。
そうなってくるとですね、この暮らしがずっと続いていくだけだったとしたら、どんなに二酸化炭素がどうだとかですね、地球温暖化がですね、直ったとかっていったとしてもね、また同じ問題が繰り返されたりとかね、それから僕たちの暮らしの中で自然というものを感じられなかったりするんですよね。
問題の解決には到底至らないということです。解決する方法はただ一つだと思うんです。それは僕たちが自然の中に入り、そして自然が僕たちの中に息づくということです。
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そしてその中で自分が自然とどう関わって生きていくのかっていうことをですね、それは生産者になるとかですね、森のガイドをするとか、そんなことでもいいんですよ、そんなことでもいいんですけれども、
何かこう自分たちの暮らしの中にですね、自然を位置づけるっていうことを一人一人が考えて、思いを馳せてですね、巡らせてやっていくっていうことが一つ、僕たちがですね、本当に心から暮らしが変わっていくっていうことになっていくんじゃないかなということを思った次第でございます。
いかがだったでしょうか。最後まで聞いてくださったあなたは是非、いいねやフォローで足跡を残していってくださいね。
こんなですね、試作に吹けるような日々が最近あります。
いや本当にね、僕たちってさ、線を引きますよ。人と自然、ビッとかね、自分と他人、ビッとかね、中と外、ビッってね、線をビッと引いていくんですけれど、その線っていうのは実はすごく日本って淡いものだったはずだなぁと思うんです。
もちろんですね、外と中、これ境界線を緩く設けてはいます。だから必ずしもこの境界がないっていうわけじゃないんですよね。境目がないっていうわけではないんだけれどもですよ。
でもなんとなくこう、つながり合うような世界っていうものを作っていたんだよなぁっていうことを思うんです。
僕すごく感銘を受けて考え方がガラッと変わった。これ言うとコペルニクス的展開っていうんでしょうかね。
あのね、太陽が回っているのではなく地球が回っているのだっていうことがバッとなったときに、コペルニクスがですね、もうその考えを発表した途端に世界がぐわっと行天したわけですよね。
最初はそれ認められなかったわけですけれども、それくらいの発想の転換っていうのが僕はありました。
それはですね、歴史を学んでいるときにこんな言葉があったんですね。
それはですね、世界は海で隔てられているのではない、海でつながっているのだというこの言葉だったんです。
僕は確かにですね、日本という国は鎖国をしていたっていうこともあるし、それから海外を見ていても、その海を隔ててその別の島へ行く、国へ行く、あるいはそこを侵略していく。
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海の向こう側っていうのは自分が住んでいる世界とは全く別のものがあって、そこをどうやらたどり着くのかみたいなことをやってまして、
海というものが大きな大きな巨大なそびえ立つ壁のようにも感じていたんですけれども、
実はその海というのは島と島をつなぐものであり、国と国をつなぐものであり、大陸と大陸をつなぐ世界をつなぐものだったんだっていうことに気がついたんですね。
そんな時に日本的な考え方っていうのがバチッとはまったような感じがしました。
境界線はあるようでない、ないようである。
でもそのあるようでない、ないようである、その境界線っていうのはいつでもそれをつなぐことができる。
それは神様と人の世界の間に堺儀と書いて堺と読む、神様にお供えをするその木を置いた途端に神様の世界とそれからこの現実世界っていうものがつながったりとかですね。
それから木にも窓儀というものがあるんですけど、木の中に穴が開いてたりとか、
枝と枝が交差をしてですね、そして枝同士がピタッとくっついてしまって、そこが窓のようにぼっかりと穴が開いているそんな木があります。
そういったところは神様の通り道なんだよ、なんていうふうに言って、あまりこれは切ってはいけませんよ、なんていうふうに言うんですね。
果樹栽培とか農園とかやってるとこういったものは切りましょうって言うんですけどね。
でもこういった形とかにも思いを馳せて神様とその現実世界との通り道っていうのをしてたぐらいなんですよね。
そういう文化が日本にはあって、その文化の中にですね、知ってるようだけではなくて、僕たちはその文化の中にいるということ、そして文化を自分の中に位置づけるということを知っていくことで、
実はその暮らしというものも豊かになっていき、そして問題はなくなっていく。
水不足になっちゃうからあんまりこの山の上は開発しない方がいいよねとかですね、食料不足になっちゃうからあんまりこう山菜を摂りすぎない方がいいよねとか、
生物多様性とかさ、そのバランスを崩さないために量もほどほどにしておこうとかですね、それからあんまり大規模に一気に力強く地面を耕してしまうと地面の中に住んでいる生き物たちや微生物たちの住処っていうものを壊してしまうから、ゆっくりぼちぼちやっていこうよとかですね、
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草を刈る時にもその草を一気にぐわっと刈ってしまうと、一日で刈り進めてしまうとその中に住んでいた小動物とか虫たちの住処っていうものがなくなってしまうから、だから少しずつ少しずつやっていこうとかですね、
そういう自分の暮らしの中で、素自然というものを位置付けていくということでしか、もしかしたらこの環境問題っていうものの根本的な解決にはなっていかないのかなぁなんて思うんですね。
だから僕はその環境問題っていう言葉をこれからはあまり多用せずにですね、自分がこの暮らしの中で何を大事にして生きているのかということを語っていけたらなと思っております。
ということでありがとうございました。
時間が来たので今日はこの辺でお会いでは小玉小鉢プロジェクトのもーちゃんでございました。またお会いできることを楽しみにしております。
今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ。あなたとあなたの大切な人に森の精霊のご家族が訪れますように。