雨と水の循環
おっすおっす、おはようございます。
こんにちは、こんばんは。
こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
今日も雨がかなり、めっちゃ降ってますね。
いや、梅雨っていうのは、本当に容赦なく雨が降るんだなぁと思うんですけどね。
この雨がさ、山の中に染み込んでいって、
そして、数十年かけて、ようやく染み出していく。
そして、川の中に流れ込んでくる、なんていうことがあるんだ、そうですね。
まあ、今はなかなか山の保水力、水を保つ力、水をつかんでおく力っていうのがなくなってきてね。
雨が降ったら、そのまんま川に流れ込んでしまう、なんていうことがあるんですけど。
そうであったとしても、やはり自分の身の回りにあるこの土地のですね、中に染み込んでいくその水っていうのはさ、
やっぱり雨が降って、そしてそこに長く長く居続けてくれるものなんだろうなと思いを馳せるところでございます。
樹木の擬人化
はい、さてさて、今日はですね、ちょっとね、こんな話してみたいと思うんですけど、
風が葉を揺らすのではなくて、もしね、葉っぱが風を生み出すのだとしたら、なんていうテーマを立てさせていただいたんですね。
いや、ちょっとね、まあ、今、こだまこまちプロジェクトで動かせていただいていることが、
一つ、うまくいかないことが分かりました。
うまくいかないことがあった後には、うまくいくこともあってね。
っていうかね、昨日ね、一つね、またね、拾う神ありったんですよ。
拾う神ありですね。捨てる神あれば、拾う神ありってですね。
拾う神様がいてくださって、そしてまた今日は、捨てる神様がいらっしゃって、なんていうことでね。
またここにさ、古来から日本人は神様という字を当てるわけですけれど、この捨てる神、拾う神っていうのは、
本当にこのご縁というのは、人が紡ぎきれるものではなくて、やはり自分自身が計り知れないような力が働いているんだなということなんですよね。
そう思うと、ちょっと今回力を自分が使っていたなあ、なんていうことも思います。
今回ですね、ちょっとなくなってしまったお話は、またいずれですね、整ったら、準備が整ったら、また僕たちに来るかもしれないということなので、
一つですね、楽しみにとっておいて、僕たちはできる限りのこと、着実にやっていこうということなんですね。
前置きが長くなっておりますけれども、そんな時にですね、一つですね、今日も漢字の話からいきたいと思うんですね。
このこだまこまちプロジェクトっていうのは、樹木を擬人化して、皆様に里山とか、それから森のこと、文化をお伝えしていくというテーマなんですね。
そらにゃん、こんにちは。ゆっくりしていってください。はい、もぐって聞いてますね。もちろんでございます。ありがとうございます。
はい、そういうことなんですよね。
まあね、こう、なんでしたっけ?
そうそう、樹木を擬人化しているっていう話でしたよね。
このさ、樹木っていう字のさ、この木っていう字の上にある字ですよ。
10っていう字です。10っていう字。
10っていう字って、これさ、僕不思議だなあって思ってたんですよ。
っていうのはさ、1年生に習う漢字ですよ。木っていう字は。木曜日の木っていう漢字は。
こんなにも、木をですね、明確に表したような漢字ってないよなって思ったんですよね。
あの漢字の木って、そのまんまじゃないですか。
スクッと立ったさ、その木がさ、絵になって字になって、あれは象形文字ってやつなんですけれども。
すごいよね、あれ。本当によくあんな記号みたいなんで表したなあなんて思ってさ、すごく感心をしていたんですけど。
このさ、なんか木に携わる仕事をしていくとですよ。
1年生で習う木曜日の木っていう字じゃなくって、なんだかこの樹木の樹っていう字を使いたくなってくるんですよね。
この樹木の樹っていう字はさ、もちろん木って読むんだけどさ、なんかこの字を見ているだけでさ、ごちゃついてんですよね。
めちゃくちゃごちゃついてるでしょ、あの字って。
この字をじーっとじーっと見てるとさ、なんかその木っていうのはシンプルなものでは決してないんだよっていう気がしてくる。木なだけに。
なんかさ、本当に一本の木を見てても様々なごちゃつきがあるよねって。
まあ一つシンプルといえばシンプルなのかもしれないんですけどね。水を吸い上げて養分を作ってみたいなことを思えばさ、そうなのかもしれないんだけども。
木の形を一つとってみてもさ、葉っぱの付き方とかさ、それから木の幹のさ、その幹の模様だとかさ、それからその中に住んでいる虫たちとかさ、
なんかそこに座ってるさ、居ついている菌たちとかさ、なんかそういうのをさ、見ているとさ、感じているとさ、
ごちゃついた樹木の樹っていう字の方がなんか、木というものを表すにはいいなーなんていうことを思ったりもするんですよね。
今日はそんな樹木の樹っていう字から始めていきたいなと思っております。よろしくお願いいたします。
教育と漢字の奥深さ
この番組は色鉛筆画家の松梨花さんを応援しております。松梨花さんはクリプトニンジャオのキャラクターの色鉛筆で表現をしてくださって、
今、松梨花の彩りという作品集を、ポストカードブックをですね、皆様に届けてくださっております。
もうちゃんのところにも一昨日だったかな、届きまして本当に素敵な作品をありがとうございました。
はい、ということで始めていきたいと思いますね。
この樹木の樹っていう字はさ、もう一つ読み方があるんですよ。ご存知でしょうか。
もうちゃんですね、先輩に水泳部だったんですけどね、高校時代。水泳部だった時にもうめちゃくちゃちょっと怖い先輩がいたんですね。
1年生の時に入ってきた時にその人部長さんだったんですけど、その部長さんの名前を辰留さんと言ったんですね。
辰留という字はこの樹木の樹という字を使って辰留と読んでたんですね。不思議な読み方だなーって。
これは樹木の樹であり木って読む、これしかもうちゃんは知らなかったので、まさかこれが辰留なんていう風に読むなんてことは知らなかったんですね。
樹木の樹という字1個で辰留ですよ。へーって思いました。
それでですね、最近もうちゃんちょっと昔の古典的な文書というか書籍というかですね、書物に当たっているんですよね。
昭和なのか、ちょっと明治っぽいのかとか大正っぽいのかとかね、そんなところにも当たってるんですね。
古典というのは江戸時代よりも前の話らしいですね。だからそれよりも後のものは近代っていう感じなのかなと思うんですけれども、近代に書かれたものを読むんですよ。
その中にですね、この樹木の樹という字を興味深い形で使われていた、そんな一節があったんですね。
これをね、立つって読むんですよ。
はい、あのスタンドアップの立つ、起立する時の立つ、この立つとこの樹木の樹っていう字の立つっていうのは同じような意味で使われているんだということなんですね。
僕はこれすごいなと思いました。人が立つとか、あと計画が立つとか、計画を立てるとか、それから作戦を立てるとか、作戦を練るとも言いますけどね、作戦を立てるとか、何か志を立てるとか、そういった時にこの樹という字、樹木の樹という字を使って立つっていう風に表現をするんだそうですね。
これはね、もーちゃんはね、すごいうなった。へーって思いましたね。これ以上の詳しい漢字の解説っていうのはないんですけど、でもちょっとね、調べてみた漢字ではですね、なんとなくこの普通にこの起立する立つ、1、2、3、4、5画で書けるあのめっちゃ簡単な立つよりも、
この樹木の樹っていう字を書いた立つっていう字の方が、なんだか地に足つけてちゃんと立っているような感じがしました。なんか立っているんだけど、その立つっていうのが地面から上のこの足のひら、足の裏、足ひらとは言わないか、手のひらじゃない、足ひら、足の裏で地面を支えているというような感じではないだって思ったんですよね。
もっともっとこの奥深くに根を張っていて、僕たちは普段普通に立っているように見えて、実はこの木のね、樹木の樹の方の立つってなった途端に、もっとなんか奥深くから立っているような、そんななんかイメージや思いというか、そんなのが湧いてきちゃったんですよね。
もうちゃんこれがすごく新鮮に感じました。どうですかここまで。まさかこの木という字が立つなんていうふうに読むなんて思っていた方、知ってた方いらっしゃいますかね。
もうちゃん最近の大発見でした。まだ本当に不勉強だったなと思ったんですけど、なんだか漢字ってすごく不思議で、そう思うだけでですね、そう感じるだけで、漢字が漢字なんですかね、イメージなんですかね、書くだけでですね、イメージが変わってくるような気がしますね。
そらにゃんは知ってましたか。さすがですね。立つっていう字から思ったことがいろいろありましてね。一人一人作品を作っていく、何かをこの世の中に生み出していくっていうのってさ、
なんかさ、僕にとっては木を植えていくようなものなのかなって思うんです。これもうちゃんのイメージです。あくまでもうちゃんのイメージなんですね。ある人はさ、僕はこういうことを聞いたことがあって、自分の作品は自分がお腹を痛めて産んだ子供同然なんだなんていうことをおっしゃる方もいました。
それももうちゃんにとってはなるほどなぁと思うようなところがあったんですね。僕は教育畑にいたわけですよ。小学校教員をしていたんですね。本当にこれよく聞く話なんですけど、昭和の時代っていうのはさ、昭和よりもうちょっと昭和の前の方の時代なのかな、先生たちをめちゃくちゃ敬ってたっていう時代があったんだよっていう話を聞きますね。
先生っていうのはさ、大学を出ないとなることができなかったし、また大学の中でも教職課程っていうのを取らないとなることができないものじゃないですか。だからすごくこの学歴っていうものを重んじていたその時代においては、やっぱりこの先生たちっていうのは敬われることだったんだそうですね。
ただ先生たちを下に見るというか、私たちは客だぞって先生たちは私たちの子供を大事に考えてくれたらそれはいいんだみたいな、そういうような風潮が生まれたのはなぜなのかっていうと、これも様々な説や見方があるんですけど、一つもうちゃんが大学時代に専門にしていた社会学的に見るとですね、みんなが学歴が高くなっていったっていうことなんですよね。
それは皆さんが大学に行くことができるようになっていて、大学で卒業していくっていうことが一つ通常になっていき、むしろ収支課程、博士課程っていうのを経ていくっていう人たちが増えてきたと。
そうなってくるとさ、先生たちを今まで学歴みたいなところで敬っていた感じなところがさ、そうではなくて、先生たちを下に見るとか、そんなことが起こってくるのかななんていうことも思ってくるんですけれども、その時にですね、先生たちの権威というものがなくなるんですけれど。
何の話をしようとしてるんだこれ。忘れてた。その時にもうちゃんが思っていたのはですね、教育の中で培われていくもの。何の話をしてるのか忘れた。回り道しちゃってたから忘れてました。
よくわかんない。教育畑の時にすごく思ったことがあったんですよね。すごい思ったんだけど、忘れちゃいました。どうでもいいや。いいんだけど。
ただ、その時に、そうですね。忘れた。カットカット。物忘れが出てきましたね。そんなこともあったのかな。思い出しててもしょうがないや。これも何かのお導きでしょう。
でね、たちを立てるというところから読むところから教育の話になっていったのかなんだけども。そんな中で、そんな中でよ。そんな中でよ。そんな中でよ。何なんだろう。
まあいいや。立心出世みたいな感じで、一人一人を育てていくなんていうことがあった時にさ、立つっていう字に軽さを感じたっていうのはもうちゃんのイメージだったのかな。なんていうことを思います。珍しいよね。もうちゃんがこうやってね。
いろいろ話が飛ぶようなところもあるんだけどもね。思い出したら話しますわ。なんかこう軽い感じがしたんですよね。やっぱり毎日毎日身につけていくものっていうものはあるし、そこからしか得ていくことができないものっていうものもあると思うから、学校教育を否定しているわけでは決してないんですけれどもね。
何らか、そんな軽さもどこか感じながらのことだったのかなと思います。はい、違うな、この話をしたかったんじゃないか。まあいいや。それでですよ。僕はね、今日はね、一つ話そうと思ったのが、手仕事の話をしようと思ってたんですよね。作品を作っていくっていうのはもうちゃんにとってはこの木を作っていくっていう、木を打ち立てていくっていうことでした。
教育の変化と影響
日本全国で植樹祭とか育樹祭とかっていうことを向こうね、よくイベントとかで開かれていくんですよね。木を植えたり木を育てるっていう活動ですよ。この木たちっていうのは一体何のために育ててやっていくのかなっていうと、多分これ木を植えたことがある人だったりとか。
にはね、すごく興味深いことというか、よくわかることだと思うんですね。感覚的に。それから身近に木がある人にとってはすごく頷いていただけることなのかなと思うんですけど、決してその木を自分たちの役に立てようと思って植えているということだけではないんだなっていうのを感じるんですよね。
そこに木を植える、あえて今日はこう言いましょう。木を立てることによってそこにですね、何か集まってくるものがあるなぁと思うんですね。なんとなくこう人もですね、木に寄りかかってみたくなったりとか、それからその木のそばの木陰で休みたくなったりとかですよ。
それからまたその木陰のそばにはですね、たくさんの動物たちがやってきたりとかしていって、その木一本っていうのがなんだかこのよりどころになっていきます。思い出した。そう思い出した。そうなんですよ。よりどころになっていくっていうことなんですよ。
で、その僕、教育の話をさっきしてましたよね。でですね、その時に思ってたのが、その教育っていうものを皆さんが考えられるようになっていったんですよね。教育のあり方っていうのを考えるようになっていって、そして今ね、一億総評論家時代っていうのが来てるんですよ。来てるっていうかもう無特区になってるんですよ。
人にね、何かを教えるっていうのはね、とかさ、子供たちはもっとこれを学んだ方がいいとかさ、そういうのがめちゃくちゃ出てきてる時代なんですよ。
すごくないですか。昔はその正職者って言われたその教職、教員の人たちがいて、でですね、このもう正職者って呼ばれないよ。呼ばれないよ。もう汚職事件もいっぱいあるから。不祥事もいっぱいあるからそんなこと全く呼ばれないんですけども。
でもこの教育会がさ、正職者と呼ばれた時は教育の事業っていうのは正益だったんですよね。何人も犯すことのできない、なんかこの正益めいたものがあって、そこにはですね、誰も入ることができなかったんだと思うんですよ。
でもそこに多くの人たちが入ってくるようになりました。そしてもっとお金のことを学ばせた方がいいよっていうことがあったりとか、本当にね、様々な教育が入ってきたんですよね。
すごいですよ、この教育の変わり方っていうのは、今めちゃくちゃなんとか教育なんとか教育っていうのがいっぱいあって、もうちゃんがやっている木育っていうのも木を使った、木で何かをお伝えしていくっていう教育なのでね、またこれもですね、新しく出てきた教育のスタイルなんですね。
あとアントレプレナーシップ教育って言ったら、起業家教育なんて言ったりとかするんですよね。それから何ですかね、あと農科学の教育をやっていこうとか、コミュニケーションの教育をやっていこうとか、もうこれはね、学習指導要領っていう先生たちはみんなは一度は目を通すですね。
そんな何を教えるのかとか、どのようにして教えるのかとか、何を目的にして教えるのかなんていうところに、もう書いてないようなことがいっぱい言われるようになってきたんですよね。そんな中、教育っていうものがですね、みんなが語れるようになってきました。
これがね、僕ともちゃん的には良いことだと思ってます。一つ良いことだと思ってます。教員の権威の失墜というか、権威というかですね、あがめられなくなったりとか、リスペクトがなくなってきてしまったのは仕方がないことだなと思いつつも、ちょっと悲しいことでもあるんですけどね。12時になりました。また時報が鳴ってます。
長崎への修学旅行の提案
そうそう、それでですよ。みんなが教育っていうことをやるようになっていき、そして学校の外でも教育というものが重要視されるような時代っていうのがやってきます。
社員教育っていう文脈ではですね、もう本当にこれ昭和の時代ぐらいからずっとあったものですよね。社員教育、どのようにしてこの会社のですね、フィロソフィー、哲学っていうものを浸透させていくかだったりとか、電話の取り方一つ取ってみてもですね、すべてが教育なんていうふうに言われるようになっていって、
皆さんが教育っていうものを考えるようになってきたこの時代なんですよね。それでビジネスの世界でも教育活動っていうのがものすごく増えてきているというか、もう当たり前のようにできているというか、むしろですね、教育というのはもとでがいらない、そんなビジネスの一つなのかななんていうことになっていって、
まあですね、みんなが教育、何かを教える、何かを伝えるということでお金を得ていこうとか、そんな時代になってきたように思うんですよね。そしてSNSいろいろ見ていて思うことがですね、私はこれを皆さんに伝えたいなっていうすごく熱き思い、たぎる思いがあって、
そしてそれが魂として、気持ちとして込められていって、一つ一つの配信、発信が生まれていっているんだなぁなんて思ってですね、本当にノウハウとか、あとこうすれば稼げるとか、さまざまなこと、こうすれば夫婦関係うまくいく、婚活うまくいく、マッチングアプリうまくいく、お金はうまく回るみたいなことがいっぱいいっぱいあってですね、いやーすげーなって思うんですね。
で、もーちゃんは11年という教員生活ですよ。本当にね、それは長いとは言えないですね。でもまあそこそこやってきた、10年以上はやってきたっていうことで、まあね、一周したんだと思います。一周はしたと思う、その教員生活っていうのをね。
何をもって一周なのかと思うのかないですけど、もーちゃん自身1年生から6年生までの担任を受け持ち、そしてさまざまな教科っていうものに携わり、そしてもう本当に全国公演みたいなところもいろいろやらせていただいて、本当にいろいろね、やってきてきました。来させていただきました。
ワニ像さん、こんにちは。ゆっくりしていってください。ありがとうございます。嬉しいです。はい、それでですよ。一周やってきて、なんかこう思うことがあってですね、すごく自分自身を見つめ直すきっかけになったんですね。
僕はいろんなことを教えてくれる人たちがいることはすごくありがたいことだと思っているので、否定しているわけではなくて、今そのもうちゃんの現在地っていうのを伝えているだけなので、取り違いのないようにいただけたらと思うんですけどね。
なんか、人に何かを教える、伝えるっていうことをずっとずっとずっとやってくるとですね、なんかね、みんなすげーなって思ってくるんですよ。
なんか本当に、なんか子供たちすげーなって思ったりとか、それから他のみなさん先生たちすごいなって思ったりとか、次第に何かこう教える、教えられるっていうこの関係性があって、自分自身はどちらかというとリスペクトを受ける側の立場だった。
そんな自分の立場っていうものが足元からガラガラガラっと崩れていくような感じがするというか、溶けていく感じがしましてですね、なんだかその子に上下関係みたいなものは馴染んだなっていうことを感じてきたんですね。
それで思ってくるとですね、さらにですね、むしろ話させていただいている、教えさせていただいているみたいな感じがどんどん出てきまして、相手がなんかこう自分よりも大きな存在、上とは言わないけど大きな存在っていうふうに見えてくるわけですね。
そしてそこに自分自身が伝えたいこととか届けたいメッセージとかっていうことを送るんですね。
送りするんですね。そうするとその大きな存在は、なんかその僕の発したメッセージをですね、受け取ってくれて、そしてまたなんかゴニョゴニョしてですね、練りに練ってですね、ポンと弾き返してくれるなぁなんていうことがあって、
もうちゃん自身が気づかさせていただけることがものすごくたくさん出てきたんですよ。だからね、そう思った時に、なんかもうちゃん自身は偉そうに何かを語るっていうことができるなって思ったんです。
急にそこでパラダイムシフトっていうんでしょうかね。自分の中での価値の変換みたいなものがですね、めちゃくちゃあったんですよね。
自分の言葉がバタフライエフェクトになるって話かな。
バタフライエフェクトいい言葉ですね。蝶のはためきが嵐を起こすかもしれないみたいなね。何が起こるかわからないです。もうちゃんこの考え方も大好きです。そうかもしれません。そうとも言えるかもしれませんし、風が吹けばオケ屋が儲かるっていう話なのかもしれませんし。
よくわかんないんですけども、自分が発した言葉っていうのが本当に大きなものに取り込まれてですね、なんか別の形で自分の元に帰ってくるような感じがしてならないのですね。
ういさんこんにちは。今日もお昼休みでしょうか。今日はちょっと昨日とは打って変わってまったりお話させていただいております。もしよろしければ聞いていただけたら嬉しいなと思います。
はい、そうなんですよ。確かにそうなんですね。しかも直接大きな存在、子どもたちだとか大人だとか誰でもいいんですけど、教えさせていただいたその存在が直接僕に返してくれるわけではない時もあってですね。
例えば子どもがお家の人に伝えてくれて、そのお家の人たちがですね、いろんなことを経験をして、そして先生のおっしゃっていたことこういうことなんですねみたいな風にして返してくださるようなことがあって、これものすごく不思議だなと思います。
すごくね、この間あった嬉しいことをちょっと一つお話しさせていただこうと思うんですけれどもね。これね本当にねもう本当にもう手前味噌に聞こえてしまうかもしれないんですけど、ももちゃん自身はえーって思っている話の一つです。
ももちゃんですね、もう6年前、7年前の話になるのか、もうね、教員としてですね、もうすごくブイブイ言わせていた時代がありました。その時ももちゃんが勤めていた小学校ですね、修学旅行先を変えようって話になったんですよ。
これまでですね、新幹線に乗って、東京の学校に勤めてたんですけど、新幹線に乗って京都奈良大阪に行くっていうのがこのですね、よくある、よくありますよね京都奈良大阪ね修学旅行だったんですよね。
この修学旅行に行って、その場所で3泊4日ぐらいかな、過ごして帰ってくるっていうのがそれまでの伝統的な修学旅行でした。
海外の方がめちゃくちゃ増えたことによって、オーバーツーリズム、とにかくそこがですね、もう宿を取ることができないとか、どこ行っても混雑してしまうっていうかね、ももちゃんたち学校で旅行に行くとですよ、それだけでもう80人とか100人規模になるんですよね。
やっぱり90人規模ですね。院卒の先生たちとかスタッフが10人ぐらいいて、それで子どもたちは80人ぐらいいてとかって大渋滞になるんですよ。だからね、京都とか行くと本当に皆さんに迷惑をかけてしまうっていうことで、もう京都大阪なら無理だねって話になりました。
じゃあどこに行こうかってなった時に長崎に行くことになったんですよ。長崎に行くっていうのはもう結構前代未聞な話だったんですね。少なくとも小学校の世界では結構前代未聞な話です。
なんでそうなのかって言うとですね、飛行機に乗らないといけないからなんですね。関東地方から飛行機に乗って修学旅行に行くなんていうのは、小学生では結構ない話なんですよね。本当に珍しい話です。
もしやってる人がいたら、やったことあるよって人がいたら、それすごく稀有な経験なので誇ってください。長崎に行くんですよ。長崎ってすごくたくさんのテーマがあるんですよね。歴史もあるし、グルメもあるし、伝統的なこともあるし、戦争とか平和的なこともあるし、あとなんかサブカルチャー的なものもあるし、本当に様々なテーマがあって、
それを全部網羅してみんなで回るなんてことはできない。そこでモーちゃんは言ったんですよ。っていうかさ、修学旅行って素敵な催し物なんだけど、みんなが同じタイミングで同じ場所に同じ時間でずらっと行くってちょっとナンセンスじゃないっていうことを言ったんですよね。
それでこれからは多分一人一人の興味関心に基づいて行きたい場所を設定していいんじゃないの?なんていうことを言ったんです。これは修学校ではよくある話です。
京都とかそれこそ行った時にみんなでタクシーに分乗してグループごとに行きたい場所を巡るとか、モーちゃん高校時代に沖縄の修学旅行でそれをやったことがあるから、でもこれ小学生でやるっていうのはすごい大冒険だったんですよ。安全管理とかの問題です。
個別の興味を尊重する教育
でもこの子たちできるかなっていうことを信じてですね、やらせたんですね。そのために事前学習をしたんです。長崎に行くときに自分たちは何に興味を持っているのかっていうことをまず自分の興味を深掘りするんですね。そして興味を持ったっていうことで班が出来上がっていくんですよ。
仲良しグループでは決してなくてですね、私は平和について学んでいきたいっていうことで平和学習のグループっていうのが出来上がっていくんですよね。そしてそうやって出来上がっていったグループごとに長崎についての事前学習、前もってどんなものがあるのかっていうことを見たりとか計画を立てていくなんていうことをしていくんですよ。
その学習をですね、公開授業にしたんですね。もーちゃんが7年前の話ですよ。そしたらその現場を見た公開授業、本当に親御さんたちも見に来る、誰でも見に来られる先生たちも見に来られるし、他の先生たち、他の学校の先生たちも見に来られるし、学園中の先生たちも見に来たし。
それから、これからこの学校に入れたいと思っている新しい、これからこの学校に入ってくださる保護者の方々も見に来たんですよね。それから子どもたちも見に来たんですよね。うわーっと押し寄せたわけですよ。
それで、もーちゃんの6年生の時にやってたこの授業を見て、当時、7年前、こんなのを小学生でやるのって、ものすごく稀有なことだったんです、それこそ。なので、衝撃があったんでしょうね。
もーちゃん的にはですね、いやこれなーってどう収集つけるかなーとかすごい困ってたんですけど、それがすごく印象に残ってくださった方々がいらして、その中の一人がですね、この学校、もーちゃん私学だった、私立の学校だったんですけど、受験してくださったんですよ。
その受験の時に、受験の動機ですね、志望動機に何を書いたかっていうと、もーちゃんのその授業、この1回の授業がきっかけですっていうことを書いてくださったんですよね。うわ、すっげーありがてえなーって思いました、本当に。
後で校長先生に呼ばれて、こんな人がいたよとか言われて、すごく僕嬉しかったんです、その時。なんか、でもその時って、本当にもーちゃんの力ではなく子どもたちの力なのでね、子どもたちが一人一人が主体的に動いてやってたっていうことが素晴らしかったなんていうことを言ってくださったんです。
でですよ、時を経て、その子が6年生になったわけですよ。6年生になってですね、新型コロナウイルスの影響とかもいろいろ落ち着いて、また長崎の修学旅行が復活したって言うんですよ。
そしてその長崎の修学旅行が復活して、もーちゃんがかつて7年前にやっていたような授業が今、他の先生によって繰り広げられてるって言うんですよ。そしてですよ、しかもその授業がまた公開授業をされて、そしてその授業をね、まさかの自分の子どもがそうやってね、受けているその授業。
ほんと7年前、この授業、ここに入れたい、こういった授業を受けたいと思って憧れた授業を今まさに別の先生からだけでも受けていますと、その話が来て、そしてです、その時にそこに来てくれた、また新しくね、次の年にこの学校に入りたいと思って来てくれている子どもや保護者の方がその授業を見たんだと。
そしたらですよ、後でその方がその子どもとお母さんに再会したんだって言うんですね。そしてあの時授業を受けていた方ですね、みたいな。あの授業すごかったですね、みたいなことで言ってくださって。
もうちゃんがやっている授業ではないし、もうちゃんが関わっていた子どもたちではあるんですけども、そうじゃないし、今はなんか自分が誇らしいわけではないんですけど、でもそんな話がまたこうやって回り巡ってきてくれる。
7年前に受けたこと、私たちが体験をしたことが全く同じような形でこうやって回ってきますよ、来てますよ、みたいなことを言ってくださってすごく嬉しかったんです。だから何を言いたかというと、自分が放ったことっていうのは本当に時空を経てこうやって帰ってくる。
作品作りと手仕事の重要性
さっきのワニ像さんがおっしゃってくれたバタフライエフェクトみたいなものなのかな、なんていうことをちょっと思ったりもしました。話を大きく逸れたんですけどもね。こういうことですよ。
で、今その教育の世界っていうのは様々にいろんな人がトーンと強いことを言っていくことができるような感じになってきました。皆さんが発信する媒体も持っているからね。本当に教育界にとってもそれはですね、結構先々恐々としていることなんですよね。
AIが喋るから私たちしていくことがあるのかな、これからやれていくことがあるのかなとか、私たち教員のすべきことって何なのかなとか、むしろもっとすごくって人って何なのかなっていうことをものすごく哲学深めていっているっていうのが今の教育の世界なんですよね。
皆さんがそんな中ですね、AIはこう使うんだとかってことを結構強く言っているわけですけれども、そういったことを一通り経験をしたモーちゃんはビジネスでそういったこともやってきたこともあるのでね、一通りやってきたなと思うモーちゃんはですね、なんだかその自分自身がこう前にバーンと立って、こうだ、ああだ、どうだみたいな感じで伝えるっていうことが、
なんかすごく何て言うんでしょうかね、なんかもうちょっと謙虚でいたいなって思うようになったんですよね。伝えたいことがないわけじゃないんだけれども、それをそっとそばに置いておく方法ってないのかななんていうことをいろいろ思ったんですよ。
そんな時にモーちゃんの時にね、この手札の中にあったカードの一つっていうのがやっぱり作品作りなんだなっていうことが思いました。モーちゃんにとって人に何か伝えるとか、こうやってお話をさせていただくっていうことは生き方でもありますので、これを一つ一つを作品だとコンテンツ作品だというふうに捉えてくださるのであればすごくありがたいことなんですけれども。
こういった作品をそっと置いておくことなんだなっていうことを思ったんですね。こうやって動画で伝えるってものすごく強いものだなと思うんですね。刺激をバーンと立てるっていうことだなって思ったりするんですね。
そして、この音声はその次に強いかななんていうことを思っているんですね。その次ってきっと文章を読むとか、絵を見るとか、絵を観察するとかそういうことなのかななんていうことも思ってまして、どんどん今話している順番って優しい伝え方になっているなって思っているんですね。
そう思うとですね。
ありがとうございます。
AIと喋っていると人間と関わることの意味がわかる気がしています。
こうやって新しいテクノロジーとかが出てくると、それまであったものの意味っていうものが浮き彫りになってきますよね。
これ、ういさんめっちゃわかります。本当にこのういさんのコメントはこれ禁言ですわ。本当に思いますね。
かつてオンラインが流行ったというか、新型コロナウイルスで一気に広まったときにですよ、学校もオンラインでいいんじゃないのかって言って、もうちゃんたちはオンライン学校っていうものを始めていったんですけれど、そういったときにオフラインのリアルな学校の意味って何だったのかなっていうことがすごくわかったんですよね。
それは本当に温かさだとか、そういうふわっとしたものじゃないしっかりとしたものがそこにあることがわかったんですよね。
ありがとうございます。ういさん。そうですよね。思いますよね。
やっぱり優しく何かを置いていくっていうことってできないだろうかって思うようになりました。
僕にとって今作品をこうやって取って置いていくとか書いて置いていくっていうのが、実は木を立てるっていうこととすごく近しいものなのかなって思ってきたんですよね。
しかもそれはですよ、手を使うんですよ。手仕事なんですよ。やっぱり手仕事なんだなって思います。
AIで何か作品を作ることを否定しているわけではなく、もうちゃんもそれはふんだんに使わせていただくことがあるので、何も別に否定をしているわけでは決してないんです。
やっぱり人ってそういったテクノロジーも使い、人の紡いできたその歴史ですもんね、テクノロジーっていうのは。
それとあとやっぱり人が自然とか関わってきたやっぱり手仕事っていうものと両方が合わさることがすごく大事なんだろうなーなんて思っているので、否定しているものではないんですよ。
そんな中、この手仕事っていうものがすごく可能性を秘めているなーって思ったんです。
教育界の未来
日本って昔からさ、この手っていう字にはなんかいろんな意味合いを込めるんですね。
手仕事、手料理、手習い、それから手作業とかね。
なんかさ、足使ってるのに手作業って言わん?
料理もさ、もっとなんか全身使ってるような気がしますよ。嗅覚も使ってるしさ。
なのになんで手料理なんだろうなーとかさ、思ったりもするし、また読み手とか書き手とか、のり手とかさ、演じ手とかさ、さまざまなところに手っていう風にあって。
手っていうのは人そのものなんだなーっていうことを昔から日本人思ってたんだなーっていうことを思うし、それから手っていうものに心を込めてたんだなーっていうことを思うんですよ。
で、この手作業、手習い、何人でもそうですけども、フェイストゥーフェイスで会うとか、あともーちゃんこれはね、手渡ししてるんですね。できる限り。
だからライブ配信にしているたりとかもするし、それから作品とか自分の商品っていうのは手紙を書いてですね。
そして自分で自分の手で投函をしてね、お届けしている。それを手渡しというふうに呼んじゃってますけども、そういうことをしているわけですけれども、何かそこに込められているような心遣いもがあるような気がしております。
日本は昔からその手っていうものに心を込めていた。手を使うことは心を使うことなんだということを捉えていた。そして日本には日の昇る国とかいろんな呼び名がありますけれども、日本は手の国というふうに言われていたんですね。
ういさん、えだんの音は広がりの力がある音と聞いたことがあります。
ひらがな一文字一文字に込められたその意味、願い、祈りというのがありますよね。
絵というのは広がりの力なんですね。
これも興味深いですね。えだんの音ですね。しかもえだんの音、これは面白いですね。だから手っていうのは広がりも奥行きもあるものなんだなぁと思うんですね。
そう思った時に作品を作るっていうこと、それを置いておくってことは、皆さんがそれを見て取れる場所にあってさ、
近寄りたい時に近寄れるようになったというか、寄り添って欲しい時に寄り添ってくれるような、寄りかかりどころ、寄り代になるというか、そんな感じがもうちゃん的にはしましてですね。
もうちゃんは今冒頭にもちょっと伝えたんですけど、もこ玉小町プロジェクトの今やりたいと思ってたこと、進めてたことの一つうまくいかなくなりました。
捨てる神がありました。でも拾う神もあったんですけど、選択肢が狭まったことによってやることが本当に決まったなって思ってます。
その中の一つがですね、やっぱり作品を作ることなんだなって思ったんですよ。
だからね、もう今本当に今日からというか、もうずっとやってきたんですけども、また今日から心を入れ直して手作業で一つ一つ作品を紡いでいきたいなと思っているところでございます。
はい、いかがだったでしょうか。最後まで聞いてくださったあなたは是非、いいねやフォローで足跡を残していってくださいね。
今日はね、風が葉を揺らすのではなく、葉が風を生み出すのだとしたらということなんですよ。
本当にこれはどっちが先かという話ではないんですけれども、風が吹いて葉が揺れるっていうこともあるんだけど、実は自分自身が木であるならば、
自分自身の葉っぱを揺らすことによって風を生み出すこともできて、その風がまた巡り巡って自分のところにやってくるものもあるんだななんていうことを思うんですよね。
と思うならば思った時にね、この作品というものを作ってたくさんの木を立てていこうじゃないか。
そしてその作品たちが自分たちで風を起こすことができるというか、葉っぱを揺らすことができればいいじゃないかと。
ここにいるぞって、ここに何か私はいるぞって。
よくね、散歩をしているとさ、すごく元気に揺れている葉っぱ1枚だけあるみたいなことがすごくあるんですよね。
この風の流れに逆らっているのか何だかよくわかんないんだけど、1つだけスッスッスッと揺れているようなのがあってさ、
自分に合図してくれてるななんていうことをすごく思うんですけど、
そうやって揺れることによって風を起こしているっていうことも実はあるのかななんていうことを思うとですね、
もうちゃんのやるべきことは決まったななんて思います。
はい、風を上げながら自分でも風を伝えていけるような、そんな作品を木を植えていく、立てていくってことですかね。
はい、ということでお時間をいただきありがとうございました。
最後まで聞いてくださったあなた、ぜひいいねやフォローで足跡を残していってください。
ういさん、そしてわにぞうさん、そしてそらにゃん、最後まで聞いてくださって本当に本当にありがとうございました。
最後にお知らせをさせてください。
こだまこまちプロジェクトでは現在ですね、メールマガジンをやっております。
こだまこまちのメールマガジンはバックナンバーは今のところ読めるようにはなっていなくて、
一応ね、いつかは顔替えしたいかなと思ってますけれども、いつかですね、いつかなんですよ。
なので今の鮮度の高いうちにぜひ読んでいただけたらなと思っておりますので、
もしよろしければこちら登録いただけたら嬉しいなと思っております。
ということでお時間をいただきありがとうございました。
お相手はこだまこまちプロジェクトのもーちゃんでございました。
またお会いできることを楽しみにしております。
今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ。
途中で自分の話したいことを飛んでしまいました。大変失礼いたしました。
あなたとあなたの大切な人に森の精霊のご加護が訪れますように。
そらにゃん、こちらこそありがとうございました。
またねー。
そうそう、これちょっと打足かもしれないんですけれど、
AIとアートの関わり
今ですね、僕AIとかそういったものの研究者の人たちと関わることがあってですね、
AIの研究とそれからAIとアーティストの研究をされている方に会うとですね、
このような言葉を残してくださいました。
出力されるものっていうものは本当に表面上なものになるということですね。
つまりそれはAIの性能に関わってくるものなので、
その人の上手い下手とかには関わってこないということをおっしゃっていました。
なので、もっと言うとですね、
その人が書いたプロンプト、指示文、そこにですね、実は心が宿っているのだかなということをおっしゃっていました。
だからその作品が出たのと出たらですね、
ぜひどんなプロンプトを書いたのかっていうことを読みたい、読み解きたい、
それからそこに思いをはぜたい、想像したいということが、
実はそのAIが作り出したアートや作品の読み解き方の一つになるんじゃないかと教えていただいたことがありました。
いつも思う、最後に話したことってダソクだよなって一つ話すことを忘れたので、こうやっておいておきますね。以上です。